ドーバーの防衛線

 


THE DOVER BARRAGE

(from THOUGHTS AND ADVENTURES)

BY

WINSTON S. CHURCHILL


ドーバーの防衛線

(THOUGHTS AND ADVENTURESより)

ウインストン・S・チャーチル著

 

 

訳者より:1932年に出版されたエッセイ集、THOUGHTS AND ADVENTURESの一章です。同書は1956年に中野忠雄氏の翻訳で「わが思想・わが冒険」として出版されましたが、この章は紙幅の関係で割愛されたとのことです。
文中で批判されているベーコン提督の防衛線です。
出典:https://www.naval-history.net/WW1Book-Adm_Bacon-Dover_Patrol.html

 著作権はチャーチルの死後50年を経た2015年に切れています。
 文中の*は訳者注です。

原文:https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.209945/mode/2up

 

 

ドーバーの防衛線

潜水艦はオークニー諸島を回航した場合、狩場であるイギリス海峡やその近辺に到達するのに一週間近くかかっていた。ドーバー海峡の試練を突破すればたったの一日しかかからなかった。これによって航海可能な二週間のうち七日間を節約することができたのである。小型のUボートがドーバー海峡を安全に通過できるようになれば、ドイツが保有するUボートの数がほぼ二倍になったと同じことである。したがって、海峡と海峡に面するベルギーの港を閉鎖することは極めて重要であった。戦争が始まって以来、すべての敵艦から海峡を守る必要性から、ドーバーは重要な司令部となっていた。ベーコン提督は1915年にドーバーに着任し、1916年にはグッドウィンズからベルギーの砂浜まで海峡を横断するネットによる防衛線を敷設している。

 この防衛線には大きな成果が期待されたが、その評判は不思議な偶然によって確立された。それが敷設されたまさにその日、1916年4月24日、ドイツ総司令官シェール提督は潜水艦作戦の制限を命じられたのである。ドイツ政府は船を沈める前に商船員を退避させることを決定した。抗議のためシェール提督はUボート作戦を停止し、そのためUボートは数ヶ月間、海峡を通過しなかった、そして彼らの試みの中断は、ドーバーにおいて、それは新しいネットの防衛線によって阻止されたのである、という考えを生んだ。

 この装置に対する誤った信頼が、多くの有能な頭脳の中で強固な基盤の上に確立されていた。ベーコン提督は自分のネットの防衛線がUボートを止められるという幻想の犠牲者であった。彼は波瀾万丈の経歴を持つ有能な将校だった。彼の才能は技術的なものであった。彼は複雑な計画を見事にまとめ、説明することができた。ベルギー沿岸への砲撃は高等数学を具現化したものであった。戦争が始まると、彼は15インチ榴弾砲を信じられないほどの短時間で作り上げた。機械、発明、組織、精度に関わるすべてのことにおいて、技術的に彼より優れた人物はほとんどいなかった。彼は優れた道具屋であった。

 1917年の秋、新たに編成された海軍参謀本部の計画部は、Uボートがドーバーの防衛線を常時通過しており、それが障害にも抑止力にもなっていないことを確信していた。この部の責任者であるキーズ少将は、海軍本部の上官に対して、まずこの問題の現実を訴え、次にいくつかの改善策を講じはじめた。防衛はもともと、海上に浮かべられた網のラインを時々巡回し、精巧な機雷原で支援するというものであった。戦前の海軍の配備を批判する人たちは当然、海軍本部の機雷を非難した。以前、フィッシャー卿は平時の運営において機雷を敵視していた。関係する小部門は非常に秘密めいた場所にあり、難解な専門的知識によってあらゆる側面を防御されていた。戦争当初、この部門が作っていた機雷は疑いなく、ほとんど深さを維持することがなく、ぶつかっても爆発しないことがとても多かった。こうした不完全なものでさえ、非常に数多くあったわけではなかった。海軍本部の主要な戦略は精巧な機雷と機雷対策を想定していなかったのである。しかし戦争は三年近くも続き、海軍の攻撃に関する首尾一貫した計画がなかったため、機雷の役割はますます大きくなった。1917年の半ばには工場から新しい、完全な効果を持つ機雷が届けられ、11月にはドーバー海峡に新しい深層機雷原が敷設された。

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 1917年の冬、海軍本部の計画部門とドーバー司令部の間で激しい論争が起こった。キーズ提督はベーコン提督の既存の配備がUボートの侵入を阻止できていないと主張した。彼は機雷原をトロール船と流し網漁船が監視し、利用可能なすべての小型船が機雷の上をパトロールするだけでなく、明るく照らして積極的に防御しなければならないと宣言した。いつでも潜航できる状態で、水面を手探りで進むUボートの動きをこれによって察知することができる。警報が鳴らされ、恐慌が巻き起こり、カノン砲が火を噴き、潜水艦は潜水し、我々の良質な、待ち構えた機雷にぶつかってこの世から去っていくのである。一方、ベーコン提督は灯火は潜水艦に警告を与え、機雷原を避けるよう教えるものであり、駆逐艦がドーバー海峡を継続的にパトロールするならば、ドイツ軍が強力な艦隊を出してパトロール隊を餌食にするのは時間の問題だと主張した。さらに彼は潜水艦がドーバー海峡を通過しているというのは事実ではない、と主張した。

 こうした概略の議論が提起されたのは良いことだった、と誰しもが思うであろう。計画部の正しさを裏付ける強力な証拠が海軍情報部によってもたらされた。浅瀬に沈んだUボート(U.C.44)が漁獲され、その艦長日誌から次々と海峡を通過するUボートの正確な日付、さらには全時間帯とその運命が明らかになったのである。実際、Uボートの司令官たちはドーバーの防衛線の下に潜っても上を通っても良いと指示されていた。しかし、ドイツの数字に懐疑的になることは可能だった、そして計画部は自分たちの正しさを確信していたが、ドーバー司令部は強情で独りよがりな態度を続けた。

 1917年の晩秋、計画部がドイツ潜水艦がベーコン提督の指揮の下を自由に通過していることに結びつけてドーバー防衛線の効果を批判し始めたとき、提督は満足ではなく、丁寧でもなかった。多くの冷ややかな意見の相違が公式文書で行き交った。クライマックスは機雷原に照明を当てるかどうかという、単刀直入な問題がクライマックスとなった。漁師が操るほとんど無防備なトロール船が監視する広大な海域を明るく照らすという光景は、最も戦争的でない提案に思えた。常識的に考えて、このような救済策はあり得ないと言えるかもしれない。しかし、この点では海軍参謀本部が正しく、現場の提督は間違っていた。防衛線と機雷原は水上から強力に防御しなければ意味がないという単純な事実が明らかになった。

 ジェリコー提督(現第一海軍卿)は当初ベーコン提督の側に立っていた。しかし、最終的に彼は計画部に説得された。1917年12月18日、第一海軍卿エリック・ゲッデス卿の心からの承認を得て、彼はベーコンに「計画的」パトロールシステムを導入するよう命じた。幸運なことに、このシステムは試行された最初の晩に成果を上げた。12月19日、ドイツのUボートが破壊されたのである。ジェリコー提督は艦隊の責任者として、また後に提督府の責任者として、長期にわたる勇敢な努力の結果、大いに疲弊していたため、その職を解かれた。彼の副官、ウェミス提督はあまり知られていなかったが、強健な気質であり、スタッフをフルに活用しようとしている士官と見なされており、ジェリコーの代わりとして任命された。ベーコン提督はドーバー司令部から解任された、そしてこれまで批判者の中心にいた計画部長のキーズが、自らその仕事をできるかどうか見るために派遣された。

 ここでもまた幸運に恵まれたとはいえ、この変化は驚くべき結果をもたらした。その後六ヶ月の間に十一隻の潜水艦がドーバー機雷原やその近辺で破壊されたのである。護送船団の力もあって、海峡における沈没は急速に減少した。ドーバー海峡を通過するドイツの航海は耐えがたい危険にさらされるようになった。1918年、ゼーブルッヘ(*ベルギーの港)の潜水艦は六回以上航海をする前に避けがたい運命に見舞われた。夏までにUボートのドーバーの防衛線を通過しようという試みはすべて中止された。

 公式の戦史は事実を強調しないよう細心の注意を払っている。それでもやはり、すべての最前線がそこにある。私たちは海軍の新しく、やや不遜な後進の頭脳と、古来の威厳と栄誉ある権威との衝突を目の当たりにしているのである。こうしたケースは市民生活や政治においても見られることである。大企業の経営や政府の組織や境遇においても見られることがある。しかし、ドーバー海峡の防衛線の物語は護送船団システムの物語の裏付けとなる続編であることは確かである。年功序列にとらわれず、新しい専門的思考の自由を主張したのは、首相、戦時内閣、第一卿であった。いずれの場合も文民統制がそちらへと傾き、圧力を加え、最終的に正しい方向へと押し進めたのである。

 しかし、ドーバーの新司令部にとって不幸な時期があった。照明付きの機雷原のパトロールがドイツ軍の攻撃目標となることは明らかだった。勤務中の漁船は限りなく脆弱だった。軍事的資質を持たない約百隻の小さな船―照明を焚くトロール船、流し網漁船、モーター艇、パドル式機雷掃海船、古い石炭焚きの駆逐艦、Pボート(*パトロール船)、そのまん中のモニター船―が、みな眩しいサーチライトの中に浮かんでいたのである。この海域は平時のピカデリーのような明るさだった/そこにいる人たちはほとんど武装していなかった。数マイル東を五隻の駆逐艦の艦隊が巡回しており、彼らの唯一の防護手段となっていた。しかし、これを敵が回避した場合、大虐殺は避けられないと思われた。この恐ろしい責任を受け入れることが、キーズの構想の本質であった。すべての可能性のバランスを考えたとき、これが最も危険の少ない方法だった。しかし、これは非常に悪いことだった。

 1918年2月14日、ドイツ軍はヘリゴランド湾から最高の小艦隊司令官と四隻の最新・最大の駆逐艦を動員し、ドーバー海峡のトロール船に残酷な処刑を行った。暗闇の中で信号の間違いによる混乱があり、弁解しようもないことに哨戒中の六隻のイギリス駆逐艦は彼らを味方と勘違いしてしまったのである、そして敵は凱旋するように北へと逃げていった。漁民たちは深く憤った。彼らは英国海軍が自分たちに保証し、自分たちがそれを受けるに値する防御を怠ったと思ったのである。自分たちはどんな夜でも無慈悲な攻撃を受ける可能性がある、と考えた。しばらくの間、彼らは新しいドーバー司令部、そして実際のところ、英国海軍への信頼を失っていた。

 まさにこの出来事を予言していたベーコン提督は、自分の主張が正当だったと考えた。「ほら、言った通りだろう。」と言う権利があると思った。キーズの名声は地に堕ちた。幸運なことに、新しい考えを持った毅然とした者たちが、多少なりとも共通の考えに基づいて団結し、今では海軍本部組織を掌握していた。キーズはこの大惨事を生き残った、そして聖ゲオルギウスの日のゼーブルッヘでの不朽の英雄譚は、海軍本部の士官に対する信頼と、その長に対する漁民たちの信用を回復させた。

 また一般大衆の喝采を浴び、新聞でとても好意的に言及された、たとえそれが過剰であったとしても、歴史がこの両者に異議を唱えることはないであろう。

 

2022.2.1