チトラルの救援

 

THE

RELIEF OF CHITRAL

 

BY

CAPTAIN G. J. YOUNGHUSBAND

QUEEN’S OWN CORPS OF GUIDES

AUTHOR OF “EIGHTEEN HUNDRED MILES ON A BURMESE TAT”/“FRAY AND FORAYS”/“THE QUEEN’S COMMISSION,” ETC., ETC.

AND

COLONEL SIR FRANCIS

YOUNGHUSBAND

K.C.I.E.

INDIAN STAFF CORPS

(LATE POLITICAL OFFICER

IN CHITRAL)

 

チトラルの救援

 

G.J.ヤングハズバンド大尉著

女王陛下のガイド軍団

「ビルマ、タイ千八百マイル」/「争いと略奪」/「女王陛下の委員会」、その他諸々の著者

および

フランシス・ヤングハズバンド大佐著

K.C.I.E(*インド・ナイト・コマンダー)

インド参謀軍団

(前チトラル政務担当官)

 

 

訳者より:マラカンド野戦軍の物語”の2年前、イギリスがマラカンド~チトラルへの道を拓く前の軍事作戦の記事です。

著者はロシアとのグレートゲームで有名なフランシス・ヤングハズバンド大佐とその兄ジョージ・ヤングハズバンド大尉です。

BritishBattles.comというHPのSiege and Relief of Chitralのページに沢山の資料があります。

なお著者二名の死去後50年を経過して著作権は切れています。

原文:

https://www.gutenberg.org/files/47611/47611-h/47611-h.htm

写真、図、イラスト:

https://archive.org/details/reliefofchitral00youn/mode/2up

 

口絵:ケリー大佐と将校たち

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ピーターソン中尉、ジョーンズ中尉、モバリー中尉

ルアード外科医大尉、ブラウニング・スミス外科医大尉

スチュワート中尉王立砲兵隊、ベイノン中尉、ケリー大佐、ボロデイル大尉

コブ中尉、ベスン中尉、リーブス軍曹

 

序文

 

 

この本はたまたま同じ遠征に参加し、ともにその遠征のタイムズ紙特派員として行動した、よくお互いに間違えられる二人の兄弟の共同制作です。ロバート・ロウ卿の前進に関する章(III、IV、V)をロウ将軍の作戦全体にスタッフとして参加していたジョージ・ヤングハズバンド大尉が担当しました。その他の章はチトラルに二年間住んでいたため、ケリー大佐の部隊が行軍した土地と、包囲戦のあった場所についてより精通しているフランシス・ヤングハズバンド大尉が担当しました。

 

このチトラル遠征の記録は、インドの官報および最近国会に提出されたチトラル問題に関する青書で公開された公式のディスパッチに基づいており、タイムズ紙の経営陣は著者らがタイムズ紙に書いた手紙を使用することを快く許してくれました。

 

図版はロウ将軍の縦隊に同行したベンガル工兵隊の写真部のメイヨー軍曹が撮影した写真と/ケリー大佐の縦隊に服務したブラウニング・スミス外科医大尉とベイノン中尉が大変親切にも提供してくれたスケッチです。

1895年10月

 

この本を最新のものにするために、口頭による少しばかりの修正とわずかな追加をしました。

1910年7月

 

目次

 

第Ⅰ章   戦争の原因… 1

第II章   ロス大尉とエドワーズ中尉… 10

第III章   ロウ将軍の前進… 24

第Ⅳ章   マラカンドとパンジコラでの戦闘… 28

第V章   チトラルの救援… 38

第VI章   チトラルの防衛… 43

第VII章   ケリー大佐の行軍… 57

 

 

 

図版

 

口絵:ケリー大佐と将校たち

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チトラル遠征地図、1895年

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図:メータルたちが埋葬されているチトラルのウェストミンスター寺院

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写真 A.エスメ.コリングス W.ブライトン

B.E.M.ガードン中尉、殊功勲章

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コラ隘路の概略図

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写真:ロワライ峠

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写真:5月のロワライ峠

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マラカンド峠。

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写真:パンジコラ川に架かる吊り橋の建設。

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写真:ディリの砦

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写真:司令部キャンプ、ディリ

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写真:ジャンバタイ峠のR.ロー卿とスタッフ。

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写真:チトラル砦、南から

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写真 ファン・デル・ウェイデ、 リージェント・ストリート

C.V.F.タウンゼンド少佐、ビクトリア十字章

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写真 ラファイエット、ダブリン

H.K.ハーレー中尉、DSO(*殊功勲章)

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南(砲)塔のスケッチ、チトラル砦

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図:現地徴集兵

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図:第32 先進工兵隊のセポイ

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斥候スケッチ:チョカルワット陣地

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斥候スケッチ:ニサゴルの敵陣地

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写真 バッサーノ写真館、オールド・ボンド・ストリート

J・マクドナルド・ベアード大尉

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写真:包囲中にチトラル駐屯部隊の一部を形成した第14シーク中隊

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図:チトラル砦の包囲中にシェール・アフズルが占領した家

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チトラル遠征地図、1895年

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第Ⅰ章   戦争の原因

 

 

1895年3月半ば、イギリスの人々は突然インドの北部国境で重大な問題が発生したことに気づきました/イギリス政府の代表者が最も近い支援から数百マイル離れた山国の中心部で包囲されたのです/そしてインド政府は彼の解放を成し遂げ、イギリスの威信を回復するための大規模な作戦を考えていました。この問題がどのようにして生じたのか、そしてこの遠征がイギリスの名誉を救い、そして英国人将校たちを早すぎる死から救うために必要とされた理由についてはいくらかの説明が必要でしょう。

 

インドの北の境界には非常に高い山脈が連なっています。この山々の中にウェールズよりもやや広いくらいのチトラル国があり、70,000人から80,000人の荒々しく頑健な山の民が暮らしています。首都と国そのものがチトラルと呼ばれています。そしてチトラル砦があるその中心地は、オクサス(*アム・ダリア川)に流れ込んでトルキスタンと中央アジアに向かう水系と、インドに流れ込む水系とを分けているヒンズークシュ山脈の主分水嶺から約四十七マイルの距離に位置しています。チトラルは重要な国です。インド政府がその影響力を行使している領土の先端にあるためです。そしてその対外関係を私たちの利益にかなう方向にコントロールすること/その北の峠の事実上の後見権を確保すること/その峠の向こうで起こっていることを監視し続けることがここ数年のインド政府の政策目標となっていました。こうした目標を視野に入れて1877年にビッダルフ少佐がその地に送られ、その土地の支配者すなわちメータルとの関係を結ぶための最初の試みが行われました。この時点では明確な取り決めはなされませんでした。しかし1885年にロシア・イギリス間の戦争が差し迫ったとき、ダッフェリン卿は明確で完全な関係を結び、その土地の防衛について報告することを目的として、ウィリアム・ロックハート卿を筆頭とする重要な使節団を派遣しました。ロックハート大佐はチトラルとヒンズークシュ山脈の南北にあるその近隣国で一年以上を過ごしました。そのときからインド政府とチトラルの支配者との関係は近しく親密なものとなりました。チトラルはその時、強力で抜け目のない統治者、老アマン・ウル・マルクによって統治されていました。彼がその人格の力、陰謀、また彼が策略でライバルを罠にかけて殺したため、そしてその残党と戦ったため、この遠征の年には常に争っていた多数の小さな国々はチトラルに統合されていたのです。その確固たる支配によって土地はまとめられていました。そして彼が生きている限りだれも彼に立ち向かったり、その権限に異議を唱えたりしませんでした。しかし彼には十七人の息子たちがいました。そしてモハメダンの国の慣習を知っていた人々は彼の死後、彼らが必ず王座をめぐって兄弟殺しを始めることを予見していました。

 

1892年8月の終わりに老アマン・ウル・マルクが亡くなり、長く予見されていたメータル位の争奪戦がすぐに始まりました。母親の地位によって十七人の息子たちのうち二人がメータル位の最も強い請求権を持っていると見なされていました。この二人の若者は数年前にインドに招待され、総督官邸を訪問して、インド政府から少額の補助金を受けていました。年長の方はニザム・ウル・マルク、年少の方はアフズル・ウル・マルクという名前でした。老メータルの死に際して、次男はたまたまチトラルにいましたが、兄は160マイル離れたヤシンにいて、その遠方の地域の長官としての職務を遂行していました。アフズル・ウル・マルクはすぐに砦の兵器と宝物を押さえ、二人の兄弟の中では明らかに人気があったため多くの追随者を得ました。そして母親の地位が低いにも関わらず王位を要求することが確実に予想される、他の兄弟たちを殺しに行きました。彼はその多くを殺し、それから軍と一緒にヤシンにいる兄のニザム・ウル・マルクと戦うために出発しました。アフズルは大胆で不敵な指導者でしたが、ニザムは勇気を示したことはなく、その兄弟のような個人的な人気もありませんでした。したがって彼は非常にかすかな抵抗を示すことができただけであり、その後イギリスの勢力下に避難するため、政治エージェントの本部がありインド辺境の防衛のために軍が駐留しているギルギットに逃げました。

 

アフズル・ウル・マルクは得意になって意気揚々と首都に戻りました。彼はすべての領民にメータルとして認められ、インド政府は人々が自ら選んだ人物を統治者として認めるという原則に従って、彼がチトラルの王位につくことを祝福しようとしていました。予想されたトラブルは数週間の間に終わったように見え、アフズル・ウル・マルクの統治に反対する者はいなくなったように見えました。イギリス政府はこの重要な地の王座についた人物がこの地のほぼ模範的支配者であることが証明されるであろうと見ていました。彼は出会った英国人将校たちから相当な称賛を受けており、またインドを訪れて私たちの本当の兵力と資産に精通していて、英国政府との同盟に忠実であろうと思われていたのです。

 

そのとき、すべてが問題なく落ち着いたように見えました/しかし、アフズル・ウル・マルクはインド政府の承認を受けたばかりで、まだ王位に就いて二か月も経っていなかったにもかかわらず、警告もなしに、そして突然雷が落ちたように、たった一晩で全ての安らかな夢が覆されました。アフズル・ウル・マルクはトラブルの元となりそうな自分の兄弟をどうにか取り除きました。彼は兄弟からは無事でしたが、叔父を見落としていました。それはシェール・アフズルでした。彼は何年も前に年長のメータルと王位を争いましたが、土地から追放され、アフガニスタンに亡命を強いられて長くなっていました。この王子はチトラル砦の壁の前に突然現れました。彼はチトラルのアフズル・ウル・マルクに敵対的な多くの男たちと陰謀を企てるのに成功し、土地への入り口を確保しました。チトラルの要塞は、バダフシャンへの峠から四十七マイルしか離れていません。その上をシェール・アフズルは前進しました。彼は百人以上の騎兵と速やかに走り、途中で数人の追随者を集め、通過した谷の長官を殺害しました。そして真夜中にチトラルの壁そのものの前に現れました。

 

成功か失敗かは数時間の戦闘にかかっていました。もし砦への入り口を奪取してそれを保持することができれば、彼は王座につくことができるでしょう/しかしその一晩だけでも跳ね返された場合、朝にはアフズル・ウル・マルクの疑う余地なく強力な支持者に圧倒されること以外予想できませんでした。シェール・アフズルは大胆不敵な動きをしており、その大胆さが幸運を呼びました。シェール・アフズルが現れたときのゲートでの騒ぎをアフズル・ウル・マルクは砦の中で聞きつけ、何事か確かめるため急いで外へ出てきました。そのとき彼は身体をさらし、撃たれてほとんど即死しました。

 

融通の利く気質が特徴であるチトラル人は、王が死んですぐに、彼を殺した男を代わりに自分たちの支配者と認めました。イギリス政府が大切にする、事実上の支配者を認めるという原則は他のどの国でもチトラルほどは完全には実行されていません。今や侵略者を土地から追い出そうとする試みはなく、以前の支配者の長男をギルギットから呼び戻そうとする者はいませんでした。チトラル人はただ彼らを統治する、と最後に言った男を首長として認めたのでした。シェール・アフズルは彼らのメータルになるべきでした。彼らは全く実行不可能なすべての約束を信じました、そして今までアフズル・ウル・ムルクが所有していたライフル、弾薬、および宝物を奪ったシェール・アフズルは、政府の舵取りを引き受けました。そして求めるすべての者に、家、土地、美しい妻を約束し、そして気前良い金銭の贈り物によって、たちまち人々に人気のアイドルになりました。しかし、彼が権力を借り受けていた期間は短いものでした。

 

こうした出来事が起こっている間、前メータルの長男であるニザム・ウル・マルクはイギリス政府から日々の手当を受け、ギルギットで静かに暮らしていました。彼は弟が王位を継ぎ、インド政府によってメータルとして認められるのを見ました。そして、その時彼の運命は最も退潮して見えましたが、運命の輪が非常に急速に回転するこの波瀾万丈の国では、そのとき成功のチャンスがどんなに遠く見えたとしても、どんな王位請求者も絶望する必要はありません。そして今、弟の死を聞いたニザム・ウル・マルクはチトラルの王座を獲得するために直ちに勇気を奮い起しました。彼はギルギットのイギリスのエージェントであるデュラン大佐に手紙を送って支援を求め、そしてもし彼がメータルになればイギリスの将校のチトラルに駐留に同意し、電信回線を確立し、そして政府のすべての希望を叶えるつもりである、と言いました。ニザムはまた、シェール・アフズルに立ち向かう意向を示しました/彼は自発的にギルギットに来たのであり、拘留されていたのではなく客人としてそこにいた訳なので、デュランド大佐は彼にギルギットを去る許可を与えないわけにはいきませんでした。彼はこの出来事においてシェール・アフズルとの交渉が必要になった場合に自分の立場を強化するため、またギルギット地区西部とヤシンでの秩序を維持するために250丁のライフル、2門の砲、および100人の徴集兵をヤシン地域に派遣していました。そこで大佐は行くことを許可しました。

 

辺境を渡るニザム・ウル・マルクにはチトラルの上流の谷から多くの男たちが加わりました。彼らは彼とともに若者として育ち、常に彼を慕っていました。対抗するためにシェール・アフズルが送った1,200人の部隊も寝返り、彼はすぐにマストゥージへ行軍し、難なく占領しました。12月1日にドラサンがその手に落ちました、そして、万事休すと見て、シェール・アフズルは現れたときと同じくらい速く逃げ出し、アフガンの地に戻りました/そこは彼が舞台に現れて、チトラル全体をもう一度沸き立たせたこの年の始めまで留まっていた場所でした。

 

ニザム・ウル・マルクは、自分の成功はイギリス当局が彼に与えた支持によるところが非常に大きいと感じていました。そして彼が玉座に上って最初にとった行動は英国人将校に彼の側に来て留まるよう頼むことでした。インド政府は軍医ロバートソン少佐指揮下にC.G.ブルース中尉閣下、J.H.ゴードン中尉、第15シーク隊の五十人の兵士、および私で構成された派遣団に代理としてチトラルに行き、新しいメータルの継承を祝福して、彼に亡き父と同額の補助金と支援を約束するよう指示しました。

 

1893年1月中旬、私たちはケリー大佐の縦隊の行軍で有名になった高さ12,400フィートのシャンドール峠を越え、悪天候と極度の寒さにもかかわらず、事故なく1月25日にチトラルに到着しました。任務はここに5月まで留まり、その支配の地固めのためにメータルが強く望んだ支援を与えることでした。ロバートソン医師とブルース中尉は5月末にギルギットに戻りましたが、ゴードン中尉と私は護衛全員とともにチトラルに留まりました。数か月が経つにつれ、メータルは徐々に地位を強化し、私たちは9月の終わりに六十五マイルギルギット寄りのマストゥージに撤退することができました。インド政府は将来的にギルギットに政治エージェントの司令部を置きたがっていました。翌年この辺境で重要な出来事は発生しませんでしたが、メータルの南の隣人、休むことのないパシャン人首長であるウムラ・カーンはチトラルに属するとされている村を攻撃して常に問題を引き起こしていました。去年の秋、ジョージ・カーゾン下院議員閣下(現在のカーゾン卿)がパミールの方向からチトラルの領土に入りました。彼と私は一緒にメータルの首都に馬で出かけ、手厚いもてなしを受けました。私たちはともに長く会話を交わし、食事に招き合い、一緒にポロをしました。10月11日に私たちがチトラルから離れたとき、その時とても落ち着いて見えたその国が数か月以内に、翌年の1月に猛威を振るった流血の闘争の舞台になるとは誰も思っていなかったはずです。

 

ニザム・ウル・マルクは勇気に欠けていて、貪欲さのために多くの人々に不人気で、決して模範的支配者ではありませんでしたが、多くの点で優れた支配者であり、確かにイギリス政府の確固たる同盟者でした。彼はインドに行ったことがあり、イギリスの将校達と交わったことがあり、逆境に苦しんだことがありました。同時に彼は自分の道を踏み外すような野心を持っていませんでした。その主たる情熱はスポーツへの愛でした/そして、インド政府のサポートによって外部の問題から守られている限り、彼は心いくまでその方面の嗜好に耽ることができると思っていました。結果は私たちとチトラル人の両方にとって確かに満足なものでした。チトラル人はひどい抑圧や失政から自由でした。彼らは望みどおり、のんきに人生を楽しむことができました、そして同族の支配者の支配を受けることができました。同時に私たちはメータルが外交に関するいかなる問題においても私たちの指導を受けないことを心配する必要はありませんでした。

 

そして、翌年の1月1日、ニザム・ウル・マルクは屋外の鷹狩の場で射殺されました。これといった特徴もない十九歳の異母兄弟、アミール・ウル・マルクの指示でした。その国を知る誰もが重大な不幸が起こったと感じました。この卑劣な少年は一撃で政府の当該部門とその地方政務官の二年間の注意深い配慮の成果を一掃し、平和な国を必死の闘争の舞台に変えてしまいました。ゆっくりと織られた将来有望な織物を台なしにした若者は前メータルの四人の正式な妻のうちの一人の息子であり、ニザム・ウル・マルクは彼を殺したいと思っていました、そうしなければ自分が若者に殺される危険を冒すことになると知っていたのです。しかしイギリス政府がこうした殺人をいかに嫌悪するかを知っていたため、彼は自衛ための慎重な措置と知りながら、そのことの実行を差し控えたのでした、そして今、彼はその寛大さと同盟者の意思への忠実さのために受難したのです。

 

 

図:メータルたちが埋葬されているチトラルのウェストミンスター寺院

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この不幸な出来事の際、チトラルの政治的責任を数週間前に私から引き継いだB.ガードン中尉は、八人のシーク兵の護衛と一緒に首都を訪れていました:残りの100人の護衛はチトラルの北東六十五マイルのマストゥージに配置されていました。アミール・ウル・マルクはすぐに代表団を送って彼をメータルと認めるよう求めました/そして私たちがそのとき持っていた威信と権威が重要だったため、無謀な若者はその衝動的な行動の非常な興奮の中、八人の現地兵しか従えていない若い英国人将校ににじり寄って彼の支持と支援を求めたのでした。ガードン中尉は自分は問題をインド政府に付託し、その命令を待つことができるだけであると彼に告げました。ガードン中尉は今、このようにしました。しかし、この時の彼の立場は今や彼がその持ち主であることを自ら証明したすべての機転と冷静さが求められる、相当に不安なものであったことが想像できるでしょう。彼はすぐにマストゥージにいる護衛に五十人のシーク兵の増援を求め、彼らは8日に彼のもとに到着しました/そして彼らが途中で邪魔されたり、妨害されたりしなかったということは、その時点でイギリスに対する明確な敵意がなかったことのもう一つの証拠です。

 

 

写真 A.エスメ.コリングス W.ブライトン

B.E.M.ガードン中尉、殊功勲章

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しかし、トラブルを見越して100人の兵士がマストゥージを補強するために派遣され、200人の兵士がギズルへと行軍しました。1月中旬にギルギットのイギリスのエージェントである軍医ロバートソン少佐は状況を報告するためチトラルに向かって出発しました。ロバートソン氏は1月末にチトラルに到着し、その主題におけるインド政府のディスパッチの言葉によれば、その間見事な冷静さと判断力をもって行動したガードン氏を適時に救助しました。ガードンは必要に備えて防御に有利な位置にある家を占有し、そして問題が発生した場合に備えて秘かに物資を備蓄していました。

 

一方、チトラルの南で直接国境を接するジャンドル国の首長ウムラ・カーンは、チトラルで発生した問題がもたらした、その国を侵略する機会を捉えました。表向きはアミール・ウル・マルクを支援するためでしたが、本当はそれを自分の領地に併合する意図を持っていたのです。この意欲的な首長はジャンドルの小さなパシャン国家の支配者の息子で、1879年に父親が亡くなったときに兄から王位を奪取することを試みましたが成功せず、思慮深くメッカ巡礼の旅へと去りました。二年後、再び心を奮い立たせて彼は兄弟を殺し、王位を奪い、そして隣国との一連の戦争を開始し、それが今年の惨事で最高潮に達したというだけでした。彼は谷を次から次へと自分の国に併合しました。戦うことなしに過ぎる月は一月もなく、成功するたびに彼の野望はますます広がっていきました。確かに彼の精神は勇壮な冒険をむさぼり、休息を厭う、手に負えないものでした。

 

今や彼はより重要でより大きなチトラルという国を取得するチャンスが来たと思いました。ある夜、彼はそれが自分ものになる夢を見ました。そしてオリエントの激しやすい想像力にとって、その夢は天上からの予言的なインスピレーションであるように思われました。彼は間違いなく、前メータルの殺害においてアミール・ウル・マルクの共犯者でした/しかし彼がその青年に、もし彼がメータルを殺害するならば支援する、という大まかな保証を与える以上のことをしたかどうかは確かではありません。ニザムが殺害された時にウムラ・カーンは他の場所への遠征の準備をしていました。もし彼が殺人の正確な時期についてアミール・ウル・マルクと直接連絡を取っていたなら、一年のうちで自国とチトラル地域の間の高い峠が雪に閉ざされる季節を選んだかどうかは疑問です。しかし殺人が発生したこと、および既にチトラルのすべてのリーダーが殺されたこと、今や国の指導者がおらず、必然的に多くの対立する派閥に分裂するはずであることを知って、彼は一瞬もためらうことなく機会を捉え、チトラルとの間には標高10,000フィートの大雪の峠があったにもかかわらず3,000人の兵士とともにその国に進軍しました。

 

チトラル人は最初このパシャン軍に対抗しました。彼らは常にパシャン人をその代々の敵とみなしており、その侵略に何度も抵抗したことがありました。彼らをまとめて、彼らを励ましてくれるリーダーがいたなら、チトラル人は侵略者を撃退することができたでしょう。先行する小競り合いの中でガードン中尉が数人の兵士にしたと同じように、イギリス人が彼らの抵抗を支援できたなら、彼らは勇気を持って、そして彼らがすっかり覚醒したときに示すことができる精神で、ウムラ・カーンの兵士を打ち負かしたでことでしょう/しかし、彼らのリーダーであるべきアミール・ウル・マルクは権力を行使することができませんでした。彼はイギリスの将校によってメータルと認められておらず、そして一体彼が認められるかどうかは疑わしいものでした/そのため彼はイギリス人よりもウムラ・カーンの方に望みをかけており、イギリスの将校たちは政府の直接の指示なしに、この隣の首長との争いの中にあるチトラル人を支援することができませんでした。

 

それゆえチトラル人の抵抗は崩壊し、ウムラ・カーンはチトラルの南部辺境の主要な砦キラ・ドロシュを占領することに成功しました。そして彼はすぐに強化を開始し、チトラル領に強固な「ピエテール(*pied―a―terre=foot on land)」を形成しました。そして情勢がこの好ましくない方向に進んだのと時を同じくして、まさにチトラル人が分裂してリーダー不在になったとき、その国に侵略者がいたとき、もう一度その舞台にチトラルの悪霊でありその王座の忍耐強い熱望者、シェール・アフズルが現れました。彼が一人のメータルを殺し、一か月間国を治め、そして殺したメータルの兄に追放されてから二年と少ししか経っていません。彼がチトラルの平和を二度と乱すことのないよう、カブールのアミールが恒久的なものである、とインド政府に最も厳粛に宣言した監禁状態で二年間アフガンの領土に滞在した後、彼はそこから脱出し、2月の後半にドロシュでウムラ・カーンに加わりました。

 

ロバートソン氏はシェール・アフズルがすぐに連絡を取ってきた2月24日まで、彼がチトラル地域に到着したという信頼できる情報を受け取っていませんでした。2月27日、ロバートソン氏はシェール・アフズルから、すぐにマストゥージに戻ることを要求されました。シェール・アフズルは、以前のチトラルのメータルたちと同じ条件で政府と親しくなることを約束しました。つまり彼は政府から助成金を受け取るが、イギリスの将校は国内に居住してはならない。しかし彼の約束はその条件が受け入れられなかった場合、ウムラ・カーンがすぐに前進してくるという脅迫と結びついていました。二人のプリンスは同盟を結びましたが、実際のところその原則は英国政府に対する敵意でした。彼らはチトラル地域からの英国人将校の退去を誘導または強制し、それを実行した後、誰が国を支配するかを決めることができます。一つだけ確かだったことは名目上のメータルが誰であったとしても実際にはウムラ・カーンが支配者である、いうことでした。ロバートソン氏は、カシミールのマハラジャはチトラルの宗主であり、ウムラ・カーンも他の誰も政府の許可なしにチトラルにメータルを押し付けることはできない、とシェール・アフズルに返答しました/彼はシェール・アフズルにはインド政府に対する敬意が欠けている、自分は政府にシェール・アフズルの要求を伝えようとしており、その指示を彼に伝えるつもりであること、そしてその間に彼が明白な敵対行為を試みた場合、彼は自らその帰結に責任を負わなければならない、と付け加えました。

 

2月の終わりに、チトラル人はチトラルの十二マイル下流の陣地をまだ保持していました。そしてチトラル人からの攻撃が差し迫っていると信じていたウムラ・カーンはキラ・ドロシュの防衛の準備を急速に完了していました。下層階級の数人のチトラル人がシェール・アフズル側に走りました。しかし主だった人々は、シェール・アフズルの別動隊であることを疑われていながらも公然と逃亡したりはしませんでした。しかし今や彼らは突然考えを変え、シェール・アフズルの側につきました。その特徴である融通が利く、衝動的な流儀で、彼らは完全に転向しました。ウムラ・カーンはより強い、なぜならより近い武力だから、英国人はより弱い、なぜならより遠いから、という印象を持ったため、彼らは今やウムラ・カーンに立ち向かうイギリス軍からパシャン人首領へと寝返り、チトラルの砦に向かって波のように押し寄せました。ロバートソン氏は連れてきた400人の護衛とともにそこを占領していました。

 

アミール・ウル・マルクは解任され、英国人将校の管理下にありました。ロバートソン氏は、九~十歳の聡明で信頼できる少年、シュージャ・ウル・マルクをインド政府の命令が出るまでの暫定的なチトラルのメータルとして公式に認めていました。

 

3月3日、チトラル軍とパシャン軍の合同部隊がチトラルの前に現れました。戦闘があり、一人の英国人将校が致命傷を負い、もう一人が重傷を負い、カシミール歩兵隊の将軍と少将、二十一人の下士官とセポイが殺され、二十八人が負傷しました。そしてイギリス軍は砦の壁の中に閉じ込められました。そしてその後、彼らのニュースは何週間もインド政府に届きませんでした。

 

3月7日、政府はチトラルでの事態が深刻な転機を迎えたという情報を受け取りました。そしてペシャワル方面からウムラ・カーンに対する軍事行動が必要となる場合に備えて事前の手配をするべし、という決定が直ちになされました。チトラル砦の駐屯部隊はウムラ・カーンとシェール・アフズルの部隊による攻撃に抵抗でき、弾薬と補給が続く限り持ちこたえられると信じられていました/しかし通信がすべて中断され、撤退路が遮断されていたため、もし4月末までに包囲が解除されないのであれば、救援を遂げるための努力を決して惜しむべきではないと思われました。3月14日、インド政府が下すに至ったこの決定についてウムラ・カーンにはっきり知らせるため、チトラル問題への干渉に対して彼に与えられたさまざまな警告について整理し、その様々な侵略行為に言及し、チトラル地域から去るよう指示し、そして4月1日までに撤退しなかった場合、インド政府が彼にそれを強制するであろう、という最終的な警告状が送られました。手紙はさらに政府はその目的のために軍隊を送る新たな準備をしており、彼に降りかかるであろうどんな悪い結果に対しても彼自身に責任がある、と続いていました。同時に次の約束が宣言されました:―

 

 

ウムラ・カーンに味方しないすべてのスワットとバジャウルの皆さんへ。

 

あなたや関係する人々は知っておいて下さい―

 

ジャンドル首長のウムラ・カーンは、イギリス政府との友情を何度も繰り返し保証していたにもかかわらず、カシミールの宗主権下にある保護国家であるチトラルの情勢に干渉しないようにという警告が頻繁に出されたにもかかわらず、チトラル渓谷に押し入り、チトラルの人々を攻撃しました。

 

インド政府はウムラ・カーンに、ヒジュラ歴1312年10月5日に相当する4月1日までにチトラルから撤退しない限り、武力を使ってそれを強制することを全面的に警告しました。この目的を実行するため、すべての抵抗に打ち勝つために十分な戦力の部隊をペシャワル地域に集め、この部隊をウムラ・カーンの領地を通ってチトラルに向かって行進させるよう手配しました。

 

インド政府の唯一の目的は、現状に終止符を打ち、チトラル地域に対する将来の不法な侵略を防止することです。この目的が達成されたならすぐに部隊は撤退します。

 

インド政府には、ウムラ・カーンの不正行為のために彼らが通過せざるを得なくなるであろう地域を永久に占領したり、部族民の独立を妨害したりする意図はありません。そして彼らは、部隊の進軍が何らかの方法で攻撃されたり妨害されたりしない限り、部族民に対する敵対行動を慎重に避けることとします。物資と輸送の費用は支払います。そしてすべての人は完全に安全に通常の本業に励む自由があります。

 

 

また、ロバート・ロウ少将指揮下の野戦軍の第1師団を動員するための命令も出されました。

 

この部隊の準備が進んでいる間に、チトラルに向かっていたロス大尉の分遣隊に起こった悲劇のニュースがインド政府に届きました。ロス大尉自身が殺され、ジョーンズ中尉が負傷し、合計71人のうち56人が殺害されたのでした/エドワーズ中尉とファウラー中尉の別の分遣隊もまた包囲されていることが分かりました/そして最後に、マストゥージの支援駐屯地との連絡が切断されました。この情報は、状況を再び大きく変えました。今やインド政府が上記の行動をとる前に、ウムラ・カーンとシェール・アフズルが英印軍とカシミール軍に対する戦争を実際に遂行していることが判明したのです。

 

ウムラ・カーンにチトラルからの撤退の猶予期間を与える理由が消失した今、チトラルの小さな駐屯部隊を救援する必要性は想定されていたよりも差し迫ったものとなりました。ギルギット地方の上級軍事将校であり、第32先発工兵隊を指揮するケリー大佐がギルギット地方の作戦指揮官に任命されました。合理的な成功の見込みがない作戦は開始しないという条件で、彼は命令を出して自ら最善と考える配置や行動をとることを許されました。しかし、ギルギット側からのチトラルの救援はおそらく不可能であろうと思われていました。ギルギットはチトラルから220マイル離れた場所にあり、一年のこの季節は雪に覆われており、6月までは軍隊が通行できない高さ13,000フィートの峠がインドからのすべての支援を遮断していました。一方、ペシャワルからチトラルまでの道は長さが200マイル未満であり、まだ雪の積もっている10,000フィートの峠が一山あるだけでした。この峠は軍がまったく通行不可能という訳ではありませんでした。それゆえ準備が整い次第、ロバート・ロウ卿の指揮下にチトラル救援部隊を派遣すべしという命令が出されました。

 

ロウ将軍の前進を説明する前に、ロス大尉とエドワーズ中尉の部隊が、前述のような通信喪失に陥った状況についてお話ししなければなりません。

 

第II章   ロス大尉とエドワーズ中尉

 

 

3月1日、ロバートソン氏と護衛はチトラルにいて、活発な戦闘はまだ始まっていませんでした、現地将校が四十名の兵士とともに六十箱の弾薬を持ってマストゥージからチトラルへと出発しました。彼が二日間行軍してブニに到着したとき、道路が損傷していることに気が付きました、また攻撃があるという噂を耳にしました。そこでマストゥージのカシミール軍の特任士官であるモバリー中尉に手紙を送って情勢を伝え、指示を求めました。シュール・アフズルがチトラル領に進入し、多数のチトラル人が彼に合流したという噂がマストゥージに届きました。しかし、彼はイギリス人に対して友好的な意図を持っていると言われており、地元のすべての頭目はモバリー中尉に、部隊への組織的な攻撃は全くありそうにないと報告しました。

 

それでも明らかに不安が広がっていました。今やロス大尉とジョーンズ中尉指揮下の第14シーク隊の分遣隊がギルギットからあと二日の行程でマストゥージというところまで来ていたため、モバリー中尉はロス大尉に二日ではなく一日でマストゥージに入るよう手紙を書きました。ロス大尉はその通りにしました、そしてブニで足止めされているインド軍大尉を補強するため、3月4日の夕方に五十人の兵士とともにマストゥージを出ました。同じ日に、王立工兵隊のJ.S.ファウラー少佐指揮下の二十人の工兵隊の分遣隊がS.M.エドワーズ中尉とともにマストゥージに到着しました。パーティーは工事資材を持ってチトラルに向かう途中であり、マストゥージで止まることなく、ブニでインド大尉に追い付いて合同パーティーでチトラルへの行軍を続けることを意図して翌3月5日朝に出発しました。

 

その夜、ロス大尉はマストゥージに戻り、ブニではすべてが静かであり、そしてエドワーズ中尉とファウラー中尉が6日、弾薬の護衛とともにチトラルに向けてブニを出発することになった、と報告しました。3月6日の夕方、モバリー中尉は同日正午にエドワーズ中尉がブニの数マイル下流の小さな村、コラで書いたメモを受け取りました。ブニを下って最初の宿場、レスンの近くで自分は攻撃されるであろうと聞いたとのことでした。これを聞いたロス大尉はすぐにマストゥージから出ました、そしてシャンドール峠よりギルギット側にある最も近い駐屯地、ギズルを指揮する将校にマストゥージを補強するために割ける、できるだけ多くの兵士を派遣を依頼する手紙を書きました。ロス大尉のパーティーの戦力は以下の通り

 

2 イギリスの将校

1 現地将校

6 ハビダール(軍曹)

3 ナイクス(伍長)

2 ラッパ手

82 セポイ

1 病院助手

8 病院従者

2 料理人

2 水運搬人

1 インド人砲兵

1 掃除人

2 洗濯人

一人あたり九日分の食料と140発の弾薬が運ばれました。

 

3月7日の朝にマストゥージを離れ、ロス大尉は同日の午後11時に十八マイル離れたブニに到着しました。ここに彼は一人の現地将校と三十三人の一般兵卒を残しました。そしてその残りとともに彼と下士官ジョーンズ中尉は谷を約十三マイル下った場所、エドワーズ中尉のパーティーが引き留められていたレスンに向かいました。ロス大尉の部下は三日分の調理済み糧食を持っていました。そして午後1時頃、パーティーはレスンまでの約半分のところにあるコラという小さな村に到着し、ここで小休止をしました。その後に起こったことは、ジョーンズ中尉自身の言葉で語るのが一番良いでしょう。

 

コラを出てから約半マイルで[と彼は言っています]道は狭い隘路に入ります。左岸の丘は連続する大きな石の落ち口と、それに挟まれた急峻な支脈でできています/隘路の入り口で道は百ヤードほど川のすぐ近くを走っています/その後、川岸の上の幅三十~四十ヤードの狭い広場(*maidan)に沿って通り、その下は崖です/これが約半マイル続きます/そしてレスン側の端には急な支脈が立ち上がっています。先発隊がこの支脈への道の中ほどに達したとき、道の向こう側のサンガー(*胸壁)から発砲があり、それと同時に、すべての山頂と尾根に男たちが現れ、すべての落ち口から石が転がり落ちて来ました。ロス大尉は先進護衛とともにいて、その先頭を呼び戻し、私がいた本隊へと後退しました。私たちのすべてのクーリー(*日雇い労働者)は、最初の銃弾が発射されたときすぐに荷物を放り出して逃げてしまいました。ロス大尉は敵の陣地を見て、そうした陣地にいる敵を後に残してレスンに進むことには意味がなかったので、コラに戻ることにしました。この目標を視野に入れて、ロス大尉は私に十人の兵士と一緒に、隘路のコラ側の端を確保して彼の撤退を援護するように命令しました。そちらの端のサンガーから約百ヤード以内に到達したとき、私とともにいた無傷のセポイはたった二人だけでした。従って私はそれ以上進むことが不可能でした。私は伝令を立ててロス大尉にそう知らせました。その間、ロス大尉は川岸の二つの凹地を占領していたので、彼のところへ戻るよう私に命じ、私はそうしました。そしてロス大尉は月が昇るまで待ち、そのとき脱出路を切り開く試みをすると言いました。私たちは午後8時頃まで洞窟にいて、それからコラへの道を切り開く試みを始めました。

 

 

コラ隘路の概略図

http://uedaeyeclinic.net/wp-content/uploads/2021/11/DIAGRAMMATIC-SKETCH-OF-THE-KORAGH-DEFILE.jpg

 

 

ロス大尉がコラ側の端でサンガーの下の石の落ち口を半分くらい横切ったとき、落ち口を落ちてくる岩の奔流があったので彼は撤退することを決めました。このまま行こうとしたらパーティーが全滅するだろうと思ったのです。そこで、私たちは再び上記の洞窟に撤退しました。ここに着いた後、ロス大尉は私たちの上の山の頂上に登る試みをしようと考え、洞窟の上の一番近くの支脈を登りはじめました。私たちはいくらか登りましたが、道が絶壁に完全に遮られたとき、現地人の案内を頼むことができず、路面は非常に危険であったため、それ以上進むことができませんでした。ここでセポイが一人落下して死にました。空しく道を探した後、ロス大尉は再び洞窟に撤退することを決め、午前3時頃帰着しました。全員がもう疲れていたので、ロス大尉はとりあえずここに留まることにしました。9日の日中、私たちは凹地に留まっていました。その間、敵の攻撃は凹地の中への数回の発砲だけで、また我々はそこにサンガーを築いたため、多くのダメージを負うことはありませんでした。9日にロス大尉と私は、私たちに残された唯一の仕事は、いかなる代償を払ってでもコラへと戻る道を切り開くことである、という合意をしました。その試みを最も敵の意表を突くことになるであろうと思われた10日午前2時頃に行うことにしました。その通りに私たちは事を始め、彼らのサンガーを攻撃し、彼らをそこから追い出しました/彼らは退却して丘を少し上り、岩の後ろから活発な銃火を放ち続けました。川の右岸にあるサンガーからの激しい銃火もありました。真っすぐ川に向かっている落ち口から落ちてくる石によって、大量のセポイが殺されるか、動けないほどの重傷を負い、ロス大尉がサンガーの前で殺されました。私と十七人の兵士は隘路のコラ側の広場に無事に到着しました。そしてそこに着くと、私は立ち止まって部下を再編成し、そこに10分間留まって少しでも多くの兵士たちが通り抜けるのを助けるため、両岸のサンガーに激しい銃火を放ち続けました。そこで停止している間に敵の剣士の二つの群れが私たちに突撃しようとしましたが、一斉射撃によって阻止され、大変な損害を被りました。敵が再び私たちの退却路を遮断しようとする兆しを見せ、とりわけ私がここで待っている間にさらに私のパーティーの二人が殺され、一人が致命傷を負ったため、撤退するべき時だと思いました。残った十五名のうち、私自身と九名のセポイが負傷していました。私たちはゆっくりとブニに退却し、午前6時頃に到着しました。私たちと一緒に歩けない負傷兵を運ぶことはほとんど不可能でした。そしてそれはライフルやその他に関しても同じでした。そのため、我々のうちのある程度の数、約四十名が敵の手に落ちました。敵の数は約1,000人と推定されます。そして彼らの損害も甚大だったと思います。私は3月10日から17日までブニで一軒の家を占領し、それを防御状態に置いて過ごしました。

 

後述する通り、彼は17日にモバリー中尉によって救助されました。

 

ジョーンズ中尉は報告の結びに、分遣隊兵士たちが示した堅実さと勇気について、その行動全体を通して言葉では称賛しきれないほどであると思っており、どんなに褒めて褒めすぎではない、と述べています。

 

私たちは今、ロス大尉がその支援に乗り出したエドワーズ中尉とファウラー中尉の指揮下のパーティーの運命を追わなければなりません。覚えている通り、このパーティーは3月5日にマストゥージから行軍し、その後敵対行為発生のニュースがそこに届いたのでした。彼らはチトラルの軍隊のための弾薬と工事資材を護衛していました、そして彼らのパーティーはベンガル工兵隊の二十人、カシミール歩兵の四十二人、伝令一人、将校の使用人が三人、そしてその他の二人から成っていました。彼らは6日、チトラル川の左岸とその後ろに立ち上がる急峻な山腹の間の傾斜した平地にある、広くとも人影まばらな村、レスンに到着しました。家々は離れて平野に点在しており、それぞれが果樹園に囲まれています。川に張り出した崖の端にはサンガーがあり、今や分遣隊はそこを占領し、ここに装備と弾薬を保管しました、ベンガル工兵隊の二十人とカシミール歩兵の十人とエドワーズ中尉とファウラー中尉からなる少人数のパーティーでレスンの数マイル下の道路の裂け目の修理に出かけました。チトラルへの道は村を出てすぐに支脈を約1,000フィート上り、再び川面の高さまで半マイル下り、平野を半マイル行きます、そして隘路に入ります、片側が手に負えない川、反対側が近寄りがたい崖になっています。

 

チトラルの包囲が三日前に開始されていましたが、イギリス軍将校たちは、チトラル人がイギリス軍に対して蜂起したことを知りませんでした。しかし敵意の証拠を十分に見ていたため、この隘路に入るためにあらゆる予防策を講じることにしました。すべての山腹を望遠鏡で注意深く調べたところ、いくつかのサンガーが観察されました。そこで対岸のサンガーの中を覗き込むためにファウラー中尉が送られ、左岸のその高さによじ登りました。その間、エドワーズ中尉とパーティーの残りのメンバーは離れることなく隘路の外側に居ました。ファウラー中尉はいくらか苦労しながら山腹を上り、反対側の崖を調査していましたが、そのとき突然そこから発砲があり、約二百人の男たちが隠れていた村から飛び出してきてサンガーの中に群がり始めました。ファウラー中尉は彼らに激しい銃火を浴びせ続け、サンガーより十分高い場所にいたため、かなりの効果を挙げました。

 

しかし、今や彼をエドワーズ中尉から分断するために敵が後ろの丘の斜面を登り始めていました、彼は撤退を余儀なくされました。今や彼の位置は実際、常に不確かなものになっていました、チトラル人たちが彼より高い場所に登ることに成功し、彼のパーティーに発砲する傍ら、石を投げつけてきたのです。ファウラー中尉自身が肩の後ろを負傷し、パーティーの伍長も撃たれ、他の二人が負傷しました。しかし、彼は匍匐と飛び降りによって、負傷兵のいるパーティーを丘の斜面から下ろし、エドワーズ中尉が率いる本隊が彼の撤退を援護してくれていた平野に再び帰ってくることに成功しました。エドワーズ中尉とやりあっていたチトラル人は彼を隘路に入るよう誘導しようとしていました、そうした場合、彼は間違いなくロス大尉の不運なパーティーと同じ運命を辿っていたことでしょう。しかし、エドワーズは、ファウラーが山腹に敵がいないと報告するまで慎重に待っていました。そしてその時、敵がいないどころかそこに群がっていることが明らかになり、彼は自分の唯一の方針がレスンに撤退することであることを知りました/そして、ファウラー中尉が再び合流するとそうしました。

 

しかし、彼らは村から二マイル近く離れていました/開けた平野を横断し、千フィート近い支脈を登らなければなりませんでした。一人の英国人将校と数人の兵士が負傷し、敵は山腹を支配していました。悲劇が差し迫っているかと思われましたが、支脈の頂上を確保し、長距離からの着実な発砲で敵を遠ざけることによって、深刻な損失なしに撤退は成し遂げられました。そして敵に遮断される前に残りのパーティーがいるレスンの村近くのサンガーに到達しました。

 

この撤退において、非常に特別な言及に値する一つの小さな出来事がありました。ファウラー中尉が負傷したことは既に書きました。今や彼のポニーは彼が登っていった山腹のふもとの平野で彼を待っていました/そしてレスンに戻るには高さ千フィートの急な丘を上らなければならなかったので、ファウラーは自分のポニーに乗って丘を上るのが当然かもしれません。しかし数人のセポイが負傷していました/そしてファウラーの考えは、まず彼らを手助けしなければならない、というものでした。そこで彼はセポイをポニーに乗せて自分は歩きました。現地兵士が自分たちのためのこうした犠牲を厭わない将校たちを見るなら、彼らがどこまでも彼らに従い、最後まで彼らに忠実であることは不思議ではありません、そして実際、今まさにそのことが兵士たちに求められていたのでした。

 

今や最初の流血によって人々は興奮して立ち上がり、小さなイギリスのパーティーが占領している場所を包囲しました。英国人将校たちは、最初の川の崖の上のサンガーは対岸からの銃火にさらされており、頭上の遮蔽物がないため、防御が不可能であることに気づきました。そこで彼らはポロ・グラウンドのそばの数軒の家を占領することに決めました。それはほんの五か月前にジョージ・カーゾン氏と私自身が一人の護衛もなしにキャンプしたまさにその場所でした。この一群の家では遮蔽と薪が得られ、ある程度の補給も得られました。そこを占領することの唯一の欠点は川から百ヤード以上離れていたことであり、ゆえに給水が遮断されるという大きなリスクがあったことです。しかし将校たちは銃火によって川への道を確保することが可能であると考えました。

 

レスンに戻るとすぐに、将校たちはその陣地を防御可能にするために働き始めました。以下の圧倒的多勢の敵に対する彼らの勇敢な抵抗の記事は、彼らがその後政府に提出した報告書をまとめたものです。最初に行われた作業は家の屋根(屋根は平らだった)にサンガーを建設し、壁に銃眼を開け、入り口をふさぎ、連絡路を破壊することでした。サンガーを作るのに利用できる材料は、家の建材である泥レンガ、屋根の木材や他の木製の箱、穀物入れなどでした。その夜は間違いなく攻撃があると予想されたため、可能な限りの予防策が講じられました。夕暮れ前に弾薬と負傷者を川近くのサンガーからその家まで移送しなければなりませんでした。数人のカシミール・セポイがこの作業に志願しました。家を囲んでいる庭の壁の末端からサンガーまでの百ヤードのスペースを横切る際に激しい銃火の試練に会いましたが、彼らは一兵も失うことなくそれを成し遂げました。「すでに疲れきっていたにもかかわらず、兵士らは見事に振る舞いました。」と英国人将校は報告書に書いています。

 

パーティーが作業している間、敵は一日中発砲していましたが、日没時にその銃火は緩み、彼らは夕方の食事をしに行きました。モハメダンが日の出から日の入りの間断食し、何も食べてはならないラマダンの月だったのです。防御側のすべての兵士は持ち場につき、自らその遮蔽を強化するよう命じられました。そして、敵国のただ中で退却路を断たれ、手に負えない隘路に挟まれた、今や追い詰められた小さなパーティーはそのように最初の夜を迎えました。六十四人の兵士のうち、すでに一人の伍長が殺され、二人は致死的な、八人はより軽い傷を負い、二人の英国人将校のうち一人が負傷していました。兵士たちは一日中重労働をし、食べ物も水もほとんどなく、また夜には敵が再び発砲を始めたので休むことができませんでした、そして防御側は常に間近の家や庭からの突撃を予測しなければなりませんでした。実際、防御側の位置は敵にとって十分な遮蔽物となる家、壁、木々に囲まれていました/そしてこれらの解体は間違いなく最も重要な問題でした。しかし、家のすぐ近くのものの以外にも敵の狙撃手が占領している遮蔽物がありました、そして英国人将校はこれらを破壊するために兵士を連れ出していつ孤立させられるかわからない場所に晒すのは危険すぎると考えました、家を燃やすことにも困難がありました、目的のためには大量の薪が必要です、そして防御側がどちら側を燃やしたとしても敵は反対側から攻撃してきて、結果的に防御側が光の前に位置することになってしまいます。

 

一晩中駐屯部隊は自らの持ち場にいました、そして8日の夜明けには彼らは全員完全に疲れ果てていました。しかし、即時の攻撃の脅威が終わったので、兵士の半分はその持ち場から離れました。そして、家で見つかった小麦粉から食事を調理しました。もちろん、注意深く節約する必要があった水も出されました。兵士たちはリフレッシュした後、交代で寝ることができました。日中、敵は山腹に急造したサンガーから継続的に銃火を放ちました。夕暮れ時に手荷物の残りがサンガーから持ち込まれました。そして駐屯部隊は水の補給を考える必要がありました。二つの大きな陶器の容れものを棒に結び付け、ファウラー中尉と志願者とビスティ(水運搬人)が川に向けて出発しました。兵士は水甕、ビスティは彼のムサック(皮袋)を運びました。幸いなことに敵と遭遇することはなく、パーティーは二往復することができたので、駐屯部隊が利用可能な全ての貯蔵容器を満タンにできました。

 

その夜、前夜と同様に防御側はいつでも攻撃があるものと予測して彼らの持ち場に立っていました/しかし、夜が静かに過ぎたのは、月が沈んで夜が最も暗くなる9日の夜明けの直前までのことでした。そのとき敵は家々の間を突進し、大勢が庭の壁の裏側まで来ました。エドワーズ中尉とパーティーはすぐに約二十ヤードの距離から発砲し、敵は叫びつつお互いを襲撃に駆り立てました。襲撃者を元気づけるために猛烈に打ち鳴らされたトムトムの騒音は途方もないものでした、しかし男たちの誰一人として防御側の放つ致命的銃火の二十ヤード以内に入ることはできませんでした。そして夜明けの薄い光がはっきりしてくるに従って、敵はそれ以上の攻撃をする意思を失ったことが駐屯部隊には明らかになりました。襲撃者の中の一部のパシャン人が依然としてチトラル人を促し、防御側に罵声を浴びせるのが見られましたが、午前9時頃に全員が退却し、その日の残りは村でトムトムを打ち鳴らしてわめくだけに甘んじました。攻撃の間、防衛側の現地兵士は最大限の着実さを示しました、しかし、そのうちの四人は殺され、六人が負傷しました。闇のせいで敵の数や損失を推定することは不可能でした。しかし、そこには数百人がいたはずであり、その大部分がスナイダーとマティーニ・ヘンリーのライフルで武装していました。

 

このようにして襲撃の撃退に成功した後、水が出され、食事が調理され、兵士は交代で寝ることができました。夕方、敵が水の補給経路を封鎖したことがわかりました。夕暮れ時、防御側はサンガーをさらに強化し、再度の攻撃を十分に予測して、警戒態勢を維持しました。しかし、「我々と兵士たちはひどく疲れていました。」と将校たちは証言しています。「配置を二倍にしましたが、歩哨を目覚めさせておくことは非常に困難でした。」

 

しかし夜は静かに過ぎました、そして朝には敵が丘から去ったことがわかりましたが、まだ狙撃手が50~200ヤード離れたサンガーの中で防御側を囲んでいました。エドワーズ中尉は、これまで包帯しか巻かれていなかった負傷者に手当をしました。「うめき声や不満は聞こえませんでした。」と報告は述べていますが、医療機器はなく、創傷を完全に洗うのに十分な水も使えませんでした。包帯、松葉杖、添え木は即興で製作する必要があり、将校たちは傷口を手当てする目的で、薄い石炭酸溶液と石炭酸の歯磨き粉を使用しました。六人の死者の遺体を運び出し、燃やす準備もしました。夕暮れ時に再び水を調達する試みがなされ、二十人のセポイとファウラー中尉が川に向かって下り始めました。しかし敵が川べりの崖沿いにサンガーを建てて占領していたため、川に降りる作業は極度に危険なものでした。ファウラー中尉は最初のサンガーから十ヤード以内に到達することに成功しました。そして五ヤード以内にはまだ気がついていない見張り番がいました。中に約二十人の男たちがライフルを横にして火の周りに座っているのが見えました。この男たちに一斉射撃を浴びせ、その後ファウラー中尉が彼らの真上へと突撃しました。崖から下りて川床に逃げることに成功したのはほんの数人の男たちだけでした。一方、二番目のサンガーの敵は発砲によって覚醒し、壁に並んで前方への発砲を開始しました。しかし、ファウラーはそれを避けて側面の壁の後ろへと回り込み、そして今や壁へと突進して発砲中の男たちに二度目の一斉射撃を浴びせ、さらにその中の約六人を倒し、そして数人を銃剣で突き、その間に残りは逃げました。そしてファウラーの大変な成功がパーティーを驚かせたのは、彼の部下がただ一人もかすり傷すら負っていなかったことでした。水場への道が切り開かれました、しかし今やファウラーは駐留地の方向で激しい発砲とパシャン人の攻撃の叫び声を聞きました。そこで彼は部下を集めると直ちに撤退してエドワーズ中尉に合流しました。ファウラーが戻る前に敵の攻撃はエドワーズ中尉によって撃退されていましたが、水を得るための試みはその夜は放棄しなければならなくなってしまいました。

 

翌日、重要なことは何も起こらず、その夜、防御側は川に到達して水を持ち帰ることに成功しました。その供給は、防水シートに雨を集めることによってさらに補充されました。十二フィートの深さまで井戸を掘りましたが、そこで岩に突き当たったため、この方法で水を調達する試みは諦めざるを得ませんでした。

 

13日の朝、敵が白い旗を出しました、そしてあるパシャン人が「撃ち方やめ!」と叫びました。駐屯部隊も白い旗を掲げ、すべての兵士をその持ち場に置いたままで、パシャン人と談判するためにジェマダール・ラル・カーンを送り出しました。いくらか話をした後で、ジェマダールは戻ってきて、シェール・アフズルの右腕であるモハメド・イサと従者が戦闘をやめてイギリスの将校たちと話をするためにようやくチトラルから到着した、と報告しました。エドワーズ中尉は返事をしました。もしモハメド・イサが英国人将校が保持している家の壁からわずか六十ヤードの位置にあるポロ・グラウンドの壁の切れ目の守備側、そして完全に守備側の射程圏内に来るなら、イギリス軍将校の一人が出て行って面会しましょう、と。モハメド・イサはこれに同意しました:彼は切れ目の所までやって来ました、そしてエドワーズ中尉は彼と話をするために出て行きました、一方、ファウラー中尉は裏切りに備え、武器の準備をして立っている部下とともに駐留所の中にとどまっていました。

 

エドワーズ中尉はモハメド・イサに会いました、そのプリンスは自分はチトラルから到着したばかりである、そこではシェール・アフズルとロバートソン医師が前者はメータルと認められているという見方で一致している、と告げました。モハメド・イサは、すべての戦いが終わった、そして自分が最も切望しているのはインド政府と親しくなることである、と言いました。英国人将校とチトラル・プリンスとの間にいくらかの話し合いがあって、休戦の条件が整えられ、イギリス軍は彼らの壁の中に留まるべきであり、発砲してはならず、チトラル人は壁に近づかない、水汲みは川に下りることが許される、補給物資はチトラル人が提供する、と規定されました。エドワーズ中尉はまた、チトラルのロバートソン医師とマストゥージを指揮する将校に手紙を書きました。休戦が整ったことを英語で述べ、そして彼が被った損失を、そして彼がこれ以上の攻撃を打ち負かせる可能性についての非常に大きな疑問をフランス語で付け加えました。これらの条件を整えた後、エドワーズ中尉は駐留地に戻りました。

 

ビシティたちが水を汲むために送られ、補給物資はチトラル人によって砦の壁に運ばれました。その夜は静かでしたが、警戒は緩められませんでした。夜は雨が激しく降り、防水シートに水がたまりました。3月14日の午後、さらなる会談が要求され、モハメド・イサが今度は別のチトラル・プリンスであるヤドガー・ベグとともに以前の会見場所に到着すると、エドワーズ中尉は再び彼との協議に出かけました。一方、ファウラー中尉は、以前のように、要塞化された駐留地内に留まりました。ヤドガー・ベグはエドワーズ中尉にモハメド・イサが以前にした話を確認しました。二人のプリンスは友情をアピールしました。ヤドガー・ベグは、自分にはイギリス人の敵ではなく友人になりたいと思っている大勢の支持者がいると語りました。同じ午後、再び水を汲むために送られたビシティたちは少しだけ村を通過する必要があり、彼らは家がパシャン人でいっぱいだったと報告しました。しかし、いずれにせよ彼らは決して粗末に扱われてはおらず、モハメド・イサは羊やその他の物資を英国人将校に贈りました。エドワーズ中尉はまたロバートソン医師に手紙を送って、敵は強化されていると推測されること、糧食は3月17日、すなわちあと三日分しかないことを連絡しました。

 

ここまでのところ、英国人将校とチトラル人の間の関係は、明らかに友好的な立場で行われており、チトラル人の目的はイギリス人に安心感を与えることでした。翌3月15日の午後、裏切り行為が起こり、二人の将校が捕らえられ、多くの部下が命を落としました。午後、モハメド・イサは平和が戻った、彼と彼の部下は楽しみたい、と言ってきました。そしてイギリスのパーティーが占領していた駐留地のすぐ外のグラウンドでポロをする許可を求めました。ポロ・グラウンドで馬に乗る人物は誰も銃火を逃れることができないので、この許可を与えても害はないであろう、と英国人将校たちは思いました。それゆえモハメド・イサの要求を認めることにしました。その後チトラル・プリンスは、これまでエドワーズ中尉にしか会ったことがないので、両方の将校が来て見物するよう求めて来ました。彼はまた将校にポロ用のポニーを貸そうと申し出ました。イギリスの将校たちは、これまでのところチトラル人を信頼していたので、彼らをさらに信頼してよいかもしれないと思いました/そのため、モハメド・イサとその部下がポロ・グラウンドに到着したとき、ファウラー中尉とエドワーズ少佐は、あらかじめ部下にポロ・グラウンド全体を見渡せる持ち場にいるよう命じ、チトラル人に会いに出かけました。ポロ場の壁の切れ目、かつての会合があった場所に寝台が置かれました。そしてモハメド・イサは男たちがゲームを始める準備ができるまで将校の隣に座っていました。英国人将校たちはポロをするよう頼まれましたが断りました。しかしモハメド・イサはゲームに参加し、ヤドガー・ベグがエドワーズとファウラーと一緒に座りました。チトラルから三番目に到着したという人物が英国人将校に話しかけ、イギリスとチトラル人の間に和平が結ばれたというモハメド・イサとヤドガー・ベグの話を確認しました。

 

レスンのポロ・グラウンドは、幅が約五十ヤード、長さが百二十ヤードで、イギリス軍が占領している駐留地からは坂になっており、遠端にはイギリス軍の駐屯部隊の銃火が届きません。エドワーズ中尉はモハメド・イサに、命令を出してライフルと剣で武装した百五十人ほどの男たちをグラウンドの遠端に行かせるよう頼みました。将校たちはお茶を作らせて、チトラル人に飲ませるために持ち出しました。ポロが終わった後、モハメド・イサは、試合が終わった後の土地の習慣通り、男たちがダンスをしていいか、と尋ねました。英国人将校たちは同意し、ダンスが始まりました。それから将校の前に濡れた場所があったという口実で彼らが座っていた寝台は右に、壁とポロ・グラウンドの端の物陰に片付けられました。将校たちはこれに異議を唱える必要はないと考えました、いかなる裏切りの試みもチトラル人に重大な損失を与えずには済まないと思われたのです。ダンスが進むにつれ、より多くの男たちがダンサーの周りの輪に集まって押し進んできました。将校たちは大人数がポロ・グラウンドの壁側にやってきたことを観察しました。踊りが休止したとき、将校たちは立ち上がり、もう疲れたので駐留所に戻ると言いました。このとき、モハメド・イサ自身が突然英国人将校を引っ掴み、そこへ男たちがどっとのしかかってきて、彼らは壁の遮蔽の下に引きずり込まれました。すぐにイギリスの駐屯部隊は一斉射撃しました/しかし、チトラル人は壁の下に隠れており、撃たれ者はいなかったようでした。その後短い間、発砲は全面的なものになりましたが、次第次第に消え、途切れ途切れに一発ずつ発射されるだけになりました。その間に将校たちは足と手を縛られていました。そして脚を持たれてグラウンドから壁の切れ目へと引きずられていきました。ボタン、バッジなどはすべて激しくちぎれ、ポケットはすり切れ、ファウラーのブーツと長靴下は脱げました。約三十分以内に将校たちは敵が英国軍の死者と負傷者の一部を運び去ったのを見ました、そして男たちが戦利品を積んで出てきました。彼らはまた少なくとも一人のカシミール人が荷物を運ばされているのを見ました。まだ腕を拘束されている状態で将校たちはモハメド・イサが住んでいた家に連れて行かれ、そこでベランダに座らされました。当時、駐留地の駐屯部隊に何が起こったかを確かめることはできませんでした/しかし、彼らはその後チトラルで十二人の部下に会いました。そして、チトラル人がその場所に急行して多くの兵士を殺し、そして少人数を囚人として運び去ったということが分かっています。

 

防御について語る際、英国人将校は自らに割り当てられた弾薬をその責任において破壊する問題を頻繁に考えると言います。つまり、英国人将校たちがそれをどうにか破壊できていたならば良かったのです/しかし、彼らは部下に遮蔽物を提供するために包囲の最初の夜に急いで即興の防御をつくったため、弾薬箱で粗製の胸墻を築くことを強いられたと言っています。その後、これらの箱は梁、レンガ、装備、瓦礫で覆われたため、必要性が非常に高かったこの遮蔽を取り壊すことなしにそれを取り出すことは非常に困難でした。明るい光で見通しが効く月の夜もそれを取り除くことを非常に危険にしていました、そして駐留地の中でなにか物音がするとすぐに敵の銃火が放たれ、月明かりがそれを非常に効果的なものとしました。さらに弾薬はギルギットで集められた現地徴集兵の使用を目的としており、弾薬がなければ彼らは全く役に立たなかったことでしょう。

 

したがって、イギリスの将校達は彼らがもはや持ちこたえられなくなるまでそれを維持し、それからそれを破壊することを決心しました。エドワーズ中尉は出撃の妥当性も考えなければなりませんでした/彼は疑いもなくそうした出撃でしばらく敵を追い払うことができたでしょう。しかし彼はそれによって兵士を失うことになるであろう、そして使える数が少なくなっているため、一兵も失うわけにはいかないと考えました。

 

その後の二人の将校の冒険は、スリリングな物語になります。レスンで互いに縄で結びつけられた男とその夜を過ごした後、ファウラー中尉は二人のパシャン人と二人のチトラル人の護衛の下に縄に引かれてチトラルに送られました。翌日、最初マストゥージに送られたエドワーズ中尉がファウラー中尉と同行することになりました。途中、彼らはウムラ・カーンの軍曹と十人の兵士に会いました。彼らはチトラル人と口論した後、彼らを自分たちの捕虜として連れて行くことを強く要求しました。3月19日、二人の将校はチトラルに到着し、そこでウムラ・カーンの大佐と約百人の兵士に出会いました。彼らは、ウムラ・カーンの代理で異母兄弟であり、そして現在はジャンドル国の統治における彼の後継者であるマジッド・カーンの前に引き出されました。二人の将校は礼儀正しく扱われ、ジャンドルのプリンスは経過中に英国人将校たちに対して行われた裏切りについて遺憾を表明しました。彼は彼らに良い待遇を保証し、短い面接の後、将校たちは四十人の護衛の兵士とともに行き、チトラル王位の請求者であるシェール・アフズルとの会見に臨みました。英国人将校は護衛に伴われて部屋に入り、強力な護衛に囲まれ、膝の間に装弾したライフルを抱えて座っているシェール・アフズルが座っているのを見ました。彼は英国人将校を礼儀正しく受け入れ、お茶とケーキを出しました。彼はまた、自分とロバートソン医師との間の大変長い交渉について彼らに話しました。彼はさらに、彼らが受けた裏切りに悲しみを表明し、すべてが砦に持ち込まれたので生活用品を入手することは困難であるが、彼らに気を配り、可能な限りそれを手配すると述べました。シェール・アフズルとマジッド・カーンの両者は、エドワーズ中尉の真剣な求めに応じて、まだ生きているかもしれない彼らのパーティーのすべての兵士を厳密に捜索することを約束しました。二人の将校は砦で包囲されているイギリスの駐屯軍と通信することを許可されましたが、それを訪問することは許可されませんでした。包囲側が防御側にイギリスの分遣隊の悲劇を知らせたのは、できる限り防御側の士気をくじくためだったということは疑いようがありません。

 

3月20日の夜、エドワーズ中尉とファウラー中尉は将校たちとの連絡を目的として砦から出ることを許可されていた政治エージェントの現地人吏員に会いましたが、すべての会話はパシャン人とチトラル人の前で行われなければなりませんでした。英語での会話は禁止されており、将校は衣服、皿、ナイフ、フォークなどをヒンドゥスタン語で依頼することだけが許可されていました。

 

3月21日、将校たちは砦の包囲された仲間からの衣服や必需品を受け取りました。そして彼らはシェール・アフズル、マジッド・カーン、その他を前にして再び政治エージェントの現地人吏員に会いました。プリンスたちは英国人将校に今の状況についての見解を語りました。英国軍がギルギットまたはペシャワルへと撤退するなら彼らと戦うつもりはない、そしてエドワーズ中尉に、砦の将校の一人に来て自分たちに会うよう言って欲しい、と頼みました。そこで砦の内側のガードン中尉に手紙が書かれました。砦の壁の下で彼らに会うなら、役に立つ情報を与えるであろうという内容でした。しかし、ガードン中尉から返答はありませんでした、そして、包囲者の唯一の目的はファウラー中尉とエドワーズ中尉を捕獲したのと同様の裏切りの手法で駐屯部隊の将校を捕獲することであったことは間違いありません。

 

3月24日、捕われの二人の英国人将校はパシャン人の首長、ウムラ・カーンに会うためにドロシュに送られました。ここで翌日、彼らはこの重要な支配者との長い面接を行いました。ウムラ・カーンは背が高く男らしい外見で、その話し方は率直で威厳があり、部下に大変尊敬されていることがわかりました。この時、そしてその他の全ての時において、彼は捕虜の扱いに礼儀と配慮を欠くことはありませんでした。今や彼は将校たちにチトラルに戻るか、彼と一緒に南へ七―八日行軍して自分の本国ジャンドルに行くか、という選択肢を与えました。彼はセポイが英国人将校と一緒にチトラルに行くことを許可しなかったため、将校たちはウムラ・カーンとジャンドルへ同行することを決め、翌日出発しました。

 

ウムラ・カーンは、手に入るすべてのものは自分より先に彼らに与えよ、という命令を出しましたが、彼の部下はこの命令を実行せず、道中で将校たちは劣悪な食物や宿舎にとても苦しめられました。彼らはチトラルの砦から砂糖一袋とお茶一ポンドを手に入れました。これらは素晴らしい贅沢と考えられていました。そしてチトラル以降の同行者であるセポイの助けを借りて料理を作りました。将校たちは決して脅かされることはありませんでしたが、常にイギリスに対して血の恨みを持っている狂信者に殺される危険があることを知っていました。装弾済みのライフルで武装した強力な護衛が彼らに同行しましたが、彼らから数ヤード以上離れることは決して許されませんでした。それは疑いなく彼らの保護のためであると同時に逃亡を防ぐためでした。護衛の中には私たちのインド軍に勤務していた兵士が常に数人含まれていました、そしてそのほとんどは極めて悪党らしい見た目であり、おそらく徹底した悪党でした。しかし、それでも彼らはほとんど快くかつ友好的に将校を扱い、行進中に得た乏しい糧食を彼らと常に共有することを厭いませんでした。途中で将校たちは非常に暗くて汚く、煙と虫だらけの普通の田舎家で休みました。十人以上の護衛が常に将校と同じ部屋に眠り、過ごしました。彼らのほとんどは風邪をひいて咳をしており、絶え間なく床に唾を吐いていたので、捕虜たちは安らぐことができませんでした。セポイの捕虜はウムラ・カーンの部下に配られたのと同じ食べ物をもらいました。しかし、この行進中の糧食は非常に少量でした。

 

ヒンドゥー教徒の三人の捕虜はカリン(*原文Kalin、正しくはQareen、守護霊?)を学ばせられ、髪を切られました/しかし、彼らは自らイスラム教徒であると公言させられませんでしたし、決して実際に信仰を変えた訳ではありませんでした。将校がモハメダンになるよう誘導されることは決してなく、出会った人々が彼らに狂信的な感情を見せることもありませんでした。兵士らは将校のパンを食べ、自分たちの分をいくらか寄越しました。パシャン人たちは将校にワインなしで過ごすのが辛くはないか、としばしば尋ねました。チトラルにいる間、将校たちは砦の外の病院から集められた薬瓶の中身(*薬用アルコール)をすべて代用品として提供されていました。しかし、この細やかな心配りは辞退されました。

 

捕虜たちは当然人々にとって大きな好奇心の対象であり、群衆が彼らを見に来ました。この人々は、将校がナイフとフォークで食べるのを見てとても喜び、彼らが指を使って食べようとすると笑いました。英国人将校たちは民衆のこの好奇心に苛立ち、護衛はすぐに彼らが食事の時間の訪問者を好まないことに気づいたため、将校が食事をしている間は彼らを近づけないことにしました/しかし、他のときには、捕虜は一般人を受け入れ、通訳を通して人々と会話しながら座っては、しげしげと眺められました。すでに述べた通り、ウムラ・カーン自身は常に捕虜を礼儀正しく扱い、彼らと話すことにとても興味を持ち、彼らとともにいる限り、毎日彼らとの時間をつくりました。彼は彼らを二回鷹狩に連れ出し、彼と一緒に歩くように言いました。将校たちは誰とも首長を通さずにコミュニケーションをとることを許されませんでした。また、いかなる筆記用具も許可されませんでしたが、彼らはチトラルで紙と鉛筆を手に入れ、毎日の短い日記をポケットの中に隠しておくことができました。彼らは自身と部下のセポイの衣服を作るための材料を購入することを許され、商人たちは彼らが書いた受領書での掛け売りを認めてくれました。

 

パーティーはジャンドルに向かって行進し、3月28日に高さ10,000フィートの、今は深い雪に覆われているロワライ峠に到達しました。彼らは峠の北側にあるチトラルの最後の村、アシュレスを出て、深くて狭い岩だらけの谷を峠へと登りました。山頂から四マイルの地点で、雪が柔らかくなりすぎてポニーを連れて行けなくなり、送り返さなければならなくなりました。それから彼らは非常に骨の折れる上りを徒歩で行き、そして頂上で激しい雹と雪の嵐に巻き込まれました。風は猛烈に冷たく、吹雪でほとんど視界がなくなりました。他方、セポイの一人が胃の痛みを訴え、世話役の別のセポイとともに残されましたが、彼は夜に死亡しました。二十四マイルを行進し、困難な峠を越えて、暗くなって少ししてから将校達はディリに到着しました。ここディリでは彼らはより良い宿舎とより良い食物を与えられました。3月30日、彼らは高さ7,000フィートのジャンバタイ峠を越えてウムラ・カーンの最も重要な砦であるバルワへと行進しました。峠の頂上からはパシャン人首長の故郷の谷の景色が見えました。峠の頂上で、ウムラ・カーンは隣に英国人将校を座らせ、彼らに食べ物と砂糖菓子を与え、彼らが自分の国がどのくらい好きであるかを尋ねました。彼は足下に広がる故郷の谷をじっと見つめ、傍らの将校たちとともに長い間座っていました。そして山腹を降りて進んでいくと騎馬や徒歩の群衆に迎らえれ、バルワに入って行きました。

 

 

写真:ロワライ峠

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将校たちは二週間ほどここに留まりました/しかし4月1日、イスラム教徒のセポイは解放する、と告げられました。彼らの護衛はいなくなりました。そこで一人の現地人将校が出発してペシャワルに向かい、自らのパーティーの災厄のニュースを伝えました。

 

今やロウ将軍の部隊とパシャン族の間の戦いのニュースが入って来て、大きな興奮が広がりました。多くの男たちがすべての持ち物を一掃して山腹に隠すために持ち出し始めました。パニックが高まるにつれ、将校たちがより大きな注目を集めたことは注目すべき点です。そして、私たちの軍隊の接近に際して、毎日二羽の鶏、小麦粉、米、バターおよび牛乳が彼らに与えられました。4月12日、二人の将校がウムラ・カーンの最強の砦であるムンダに連行されました。そこで彼らはイギリスの当局からウムラ・カーンと交渉するために派遣された現地人政務担当官に会いました。ウムラ・カーンと現地官僚の間に長い会話が交わされました。その結果、エドワーズ中尉がイギリスの将軍への二通の手紙の配達者とされ、釈放されました。ウムラ・カーンは彼に自分の見解をかなり詳しく説明し、彼は一人の護衛とともに真夜中に出発しました。暴漢の集まっている渓谷を避けて遠回りのルートをとり、彼は午前10時にチトラル救援に向かうイギリス軍のサドゥーの本部に到着しました。ウムラ・カーンは英国人将校を引き渡すことによって、今やイギリス軍が彼に与えようとしている罰を回避することを望んでいました。しかし、ロウ将軍は片時も前進を止めませんでした。彼はムンダのウムラ・カーンの本拠地に向かって着実に前進し、4月16日、ウムラ・カーンは二枚目のカードを切り、ファウラー中尉を解放しました。しかし以下に記すように、ロウ将軍は前進を続けました。

 

二人の将校は今や突然釈放されました。彼らは最大の困難に苦しみ、日々生命の危険にさらされていましたが、ウムラ・カーンに受けた優遇を熱意のようなものを持って話しました。イギリスの将校を傷つけたいと思っていた人々を遠ざけることは、その首長にとって簡単なことではありませんでした/エドワーズ中尉が去った後、一時ファウラーは砦の入り口から入ってこようとする多くの狂信者の存在に不安な時間を過ごしたことがありました。ウムラ・カーンの部下とこれらの荒々しい暴漢との間には会戦に近いものさえありました。そして数日後、ウムラ・カーンの砦で私と彼が一緒になったとき、ファウラー中尉はほんの三日前まで捕虜として過ごした家の出入り口に立って、狂信者たちが護衛の周りで大騒ぎして、彼ににじり寄ろうとした場所を私に示しました。しかし、ウムラ・カーンはその間ずっと彼を保護することに成功していました。ウムラ・カーンはエドワーズ中尉がレスンで奪われ、チトラルからの贈り物として自分に贈られた剣を持ち主に返しました/そして、もし見つかればファウラー中尉のそれも手に入れると約束しました。「私達二人は思っています。」、と英国人将校は報告書の終わりに書いています。「ウムラ・カーンは確かに私達を非常によく扱い、彼はいかなる状況下でも私たちの直接の危害の原因になるつもりはありませんでした。」

 

これで、この二人のイギリス人下士官の素晴らしい冒険は終わりました。彼らがレスンで耐え続けていたとき、圧倒的な数の敵に対して単なる田舎家で最後の抵抗をしていたとき/そしてまた、彼らが不実な敵に裏切られて捕らえられたとき。そして最後に、イギリスへの反抗に熱狂する男たちの手中にあったとき、誰も彼らが生きて逃げられるとは思わなかったことでしょう。しかし、彼らはあらゆる危険を生き抜いて、今や再び安全な自国民の中に戻ってきたのです。

 

次はどのようにロウ将軍が救援に向かったのかを語るべきでしょう。

 

第III章   ロウ将軍の前進

 

 

ロバーツ卿がカブールからカンダハールへの有名な行軍を行って以来、インド軍はチトラルで甚だしい窮地に陥った駐屯部隊を救うことになったこの作戦ほど迅速に華麗に成功した遠征に参加したことはありませんでした。兵士の最も鋭い本能を呼び起こしたり、息もつけないほどの不安とともに激烈な闘争を見ていた人々を心配させたりするどのような要素も不足していませんでした、縦隊はベルトの位置まで雪が積もった高い山の峠を越え、雨と雪解け水で増水した幅広く深い川を渡り、生粋の山の剣士たちの死に物狂いの勇気に獰猛な抵抗を受けていたのです。従って、わずか三週間以内にチトラルが救われ、イギリスのエージェントとその護衛が恐るべき運命を免れたという喜ばしいニュースが電信で伝えられた時、イギリス人の資質、勇気、忍耐の誇り高い水準をしっかり守った頑健な指導者たちと勇敢な兵士たちをイギリス帝国の隅々までが誇りに思ったことでしょう。

 

全体の作戦計画はこうです。ペシャワルで第1軍団所属、陸軍第1師団の約15,000人の戦力を動員し、可能な限り迅速にスワットとディル経由で南方から移動し、ウムラ・カーンの背後を攻撃すること。同時に約400人の戦力の小さな縦隊がチラスから移動し、ギルギットとマストゥージ経由の遠い迂回路を移動して、北東方向からチトラルへの道を切り開くよう努めること。

 

遠征の開始前、ペシャワル渓谷とチトラル地域の間の戦域に関する私たちの知識は、ほとんどすべて現地人の報告を照合した情報に限定されていました。この情報は細部の正確さには欠陥がありますが、主要な物理的困難を克服するには十分な正確さを持っていました。大まかに言えば、それ自体が手ごわい障害物である高い山脈と流れの速い川が戦域を横断しており、その標高10,450フィートの峠を通ることなしにはチトラルに接近できない高い山脈で最高点に達しています。ケリー大佐の縦隊が行くチラスとチトラル間のルートの土地に関しては、軍隊がルートを頻繁に横断して正確な調査が行われていたので私たちは正確な知識を持っていました。したがって、一年のこの時期に移動するというケリー大佐の前に置かれた任務が途方もないものであることは事前に正しく評価されていました。

 

私たちが今持っているより完全な知識をもってすれば、ペシャワルの救援縦隊が通過した土地の物理的特徴をより詳しく示すことができます。ペシャワルが位置する広大な平野の周辺には3,000~6,000フィートのさまざまな高さの山が連なっており、全体として言えばイギリスの国境はこの連山の麓に沿って走っているため、地元ではひとまとめに「ボーダーヒル」として知られています。この国境連山の向こうには豊かに耕作されたスワット渓谷があり、幅は二マイルから三マイルで、長さは約三十六マイルです。この渓谷をスワット川が流れていて年間を通してかなりの水量がありますが、雪が溶け始めた後や夏の豪雨の後には大きく流れの速い川になります。私たちの軍隊が最初に橋を架けた地点で岸から岸までが約半マイル幅であり、それぞれに別個の橋を必要とする七つの水路に分かれていたことに注意するなら(*この近辺でスワット側は広い河原に何本に分かれて流れている)河川の大きさが推測できるでしょう。スワット渓谷の北側には、5,000フィートから6,000フィートの高さのララム山脈があります。ララム山脈を越えるとディリ公国の最南端に達し、その主渓谷には、恐ろしく危険なパンジコラ川が流れています。ある日歩いて渡れるこの川は、次の日には何フィートもの深さで轟音を立てているかもしれません/実際、ある場合にはほとんど警告もないまま数時間以内に十四フィートも水位が上がりました。パンジコラ渓谷は全長にわたって狭く、急峻な岩の支脈が常に水際まで走っています。広範な道路建設なしには、水位が最も低い真冬を除いて、軍隊の通過に適していませんでした。

 

パンジコラ渓谷の東(*正しくは西か)に、高い連山に隔てられて、ジャンドルとバジャウルの広く開放的で肥沃な渓谷が見られます。前者はウムラ・カーン首長の故郷であり特別な地域です。イギリスの遠征は主にその戦力に対して向けられたものです。ジャンドル渓谷の北端にはジャンバタイ山脈が走っており、標高は6,000フィートから10,000フィートの間にあります。それを横断して私たちはいくつかの大きな山脈への進入路となる一連の狭い岩だらけの谷に入ります。そのバラウル渓谷とアッパーディル渓谷はいかなる規模の耕作の余地もなく、哀れな貧しく立ち遅れた人々をかろうじて支えているだけです。ディリの地域の北の隅を急いで横切って行くと、標高10,000フィートから20,000フィートの巨大な山脈にたどり着きます。その上を通って軍隊がチトラル渓谷へ接近することが可能なのはロワライ峠だけです。チトラル渓谷自体、パンジコラ渓谷と同様に非常に狭くて岩だらけです。通路が切り開かれるまで、部隊の通過は非常に困難なものでした。

 

簡単に言えば、救援部隊の南の縦隊は渓流に加えて、四つの高い山脈と三本の相当な川を横断しなければなりませんでした。

 

ケリー大佐指揮下の小さな北の縦隊が通過しなければならない土地は、さらに荒くて険しいものでした。さらに彼は実質的に孤立していて、最も不利な気候条件の下で、困難な土地に軍隊を突入させるための必需品を手持ちの物資に完全に依存しなければなりませんでした。この縦隊は最高で12,000フィート以上ある峠を通りました。この移動の記事はこの縦隊の英雄的な闘いを詳細に取り扱うところで出てきます。

 

そして全体的に言えば、戦域はその中に深く曲がりくねった急流が流れている山々の塊と説明できるでしょう。一方、そこここに小さな開けた谷が見られますが、そこではただ住民を養うのに十分なものが供給できるだけです。

 

 

写真:5月のロワライ峠

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ちなみに前述のように、チトラルの救援の作戦計画は南北からの合同作戦からなっていました。南部の縦隊は発生する可能性のあるあらゆる連合体に対して自らを守ることができる強力な戦力であり、北部の縦隊は軽装備のほんの一握りの兵士たちでした。その使命はできるだけ早く到着することであり、実際の武力よりも彼らの到着の心理的効果によって、主要救援部隊の到着まで包囲を十分長引かせることでした。南の部隊はナウシェラ(ペシャワルの近く)に基地を置いていましたが、北の部隊はギルギットに置いていました。

 

敵の主な作戦基地はチトラルの包囲陣営の主導者の本拠地、ジャンドルでした。したがって、ウムラ・カーンはここに選り抜きの部下を置き、宝物を収め、彼が所有する武器と弾薬をここから持ち出していました。地図上でジャンドルを見てチトラルとペシャワルとの相対的な位置を調査するなら、ペシャワルの方向から加えられる決定的な一撃がウムラ・カーンの作戦基地を必然的に危険にさらすことになることが直ちにわかるはずです。したがって彼はチトラルを離れ、故国を守るために急いで後退することを強いられました。実際に行軍の性質上、ペシャワルの縦隊は直接彼の背後をとることになります。彼はまずチトラルで決定的な打撃を加えることを目指して自分の祖国を侵略者に渡し、その後引き返してロバート卿と戦うか、そうでなければ包囲をやめてイギリス軍が彼らの領土に地歩を固める前に戦うため、その軍隊を集中させなければなりません。交戦勢力の相対的な位置がこのようであったため、救援部隊の主縦隊の最初の目的がジャンドルであったことは明らかです。位置の利点は一見してイギリス側にありました。しかし、ある重要な項目が問題に加わってバランスを取っていました。それは時間の考慮でした。チトラル駐屯部隊には4月末までの糧食しかないと計算されていたため、救援を成し遂げるには、その日までに決定的な打撃を与えなければなりませんでした。そうした可能性にウムラ・カーンと副官シェール・アフズルは不賛成でした。組織された軍隊はゆっくりと移動します。絶大な物理的困難が立ちはだかっており、30,000人の部族民の根深い敵意を間違いなく当てにすることができます。日数や、時間にさえもかかわる問題において、ここに包囲側にはっきりした利点がありました。

 

3月19日にペシャワルで第1軍団第1師団に動員が命じられました。基地はより便利なノウシェラに移されていました。これは陸軍のあらゆる部門の真剣な動員が試みられた最初の機会であり、軍事評論家たちは多大な関心を持ってこの試みを見ていました。インド辺境で部隊を動員することは、メッツやストラスバーグで部隊を動員するよりもはるかに複雑で難しい問題であることを覚えておく必要があります。ヨーロッパでは、多くの鉄道が重要な集合地点に通じており、距離は比較的短く、戦域になる可能性が高い地域には多数の鉄道や重い車輪交通に適した道路が走っています。すべての行軍の終わりには大きな町や繁栄している村があるでしょう。そして侵入された国は兵站と輸送の問題に関しては侵入者の要求の大部分を叶えることができるでしょう。ベンガル湾からベルチスタンの砂漠にいたるまでその全長にわたって威圧的な、不毛な山々に攻め入ることを運命づけられたインド辺境の軍隊ははるかに異なる位置にいます。そうした軍隊のためには、兵士のための食糧に加えて、動物のためのほとんどすべての穀物、同量の干し草でさえもインドの基地から最も先へ進んだ軍隊まで運ばなければならず、そして砕石が敷かれた道を大容量の荷車で運ばれるのではなく、梱包された包みの輸送だけが可能な山道を運ばれるのです。

 

インド師団は隊属荷物が非常に多いというよくある誤解があります/確かにまじめな軍事評論家がインドの連隊がマホガニーの食卓を持っていくことは珍しいことではない、と厳粛に述べています。もちろん、この国とその流儀に対する無知と、チリアンワラと第24歩兵連隊の歴史的な食卓の漠然とした記憶がこのような誤った発言の原因であるとしか思えません。実際のところこの遠征の期間中、1人あたりの割り当ては10ポンド、将校は40ポンドでした。テントはありませんでした。普通の兵士の毛布の重さが4または5ポンドと知れば、10ポンドの割り当ては雪と氷、大雨、そして太陽の激しい熱に順番に遭遇する国では贅沢と呼ばれる筋合いはありません。しかしこうした行軍では28,000頭の軽荷役動物を集めて軍隊を養い、維持しなければなりません。つまり現存する条件によって、インド辺境への動員の問題は物理的に非常に複雑なものになることは明らかです。遠征が続く限り、軍隊と物資だけでなく、何千頭もの荷役動物と、全軍、人と動物のための食糧も集める必要があります。これに加えて、部隊は時に非常に遠くから来る場合があり、鉄道は単線、降車駅は小さな道端の駅で、プラットホームや、軍隊や動物や物資が便利に使える降車用の設備はありません、そして私たちは最も完璧に組織された動員計画に酷い試練を与えることになるであろう困難の大要を把握しています。

 

それゆえ厳しい試験を課されたこの計画と鉄道が、それによく耐えたことに軍当局は満足しました。4月1日、完全な装備と糧食を手にした師団は、遠征の最初の行軍を行いました。部隊は三個歩兵旅団で構成され、それぞれが四個連隊からなっており/師団は騎兵の二個連隊、山砲の四個砲兵隊、一個先進工兵連隊[1]、および三個工兵中隊[1]からなっていました。加えて、三個歩兵連隊が通信部隊に割り当てられました。部隊の指揮権はK.C.B.(*バス勲章ナイト・コマンダー)のロバート・ロウ中将とその参謀長である王立工兵隊のビンドン・ブラッド准将C.B.(*バス勲章コンパニオン)に委ねられました。三つの旅団は、A.A.キンロック准将、C.B.、H.G.ウォーターフィールド准将とW.F.ガタクレ准将、D.S.O.(*殊功勲章)によって指揮されました。通信線はA.G.ハモンド准将、V.C.(*ヴィクトリア十字章)、C.B.、D.S.O.、A.D.C.(*侍従武官)に委ねられました。

 

ケリー大佐指揮下の縦隊は、後の章で別々に扱われます。

 

脚注

[1]その後増強されました。

 

第Ⅳ章   マラカンドとパンジコラでの戦闘

 

 

この地方の地図を見ると、辺境のこの辺りには三つの主な峠があり、すべてがスワット渓谷に続いています。東から順にモーラ峠、シャーコート峠、マラカンド峠です。すべてが同じように困難であり、それぞれ約3,500フィートの高さがあり、荷役動物が乗り越えられる荒れた小道があると報告されていました。その側面の敵対する可能性がある部族民を不必要に刺激しないように、という方針によってモーラ峠を使用しないことが決定されました。残ったのはシャーコート峠とマラカンド峠でした。英国政府は敵意を持っておらず、単にその領域の通行の権利を要求するだけである、という事前の布告がスワットの人々に出されました/このような寛大な譲歩がなされていたのです。スワットの人々がこれらの平和的条件を受け入れることを選択していたなら、両方の峠から同時に前進がなされていたでしょう/しかし、すべての峠、特にシャーコート峠が強く保持されたという情報が入ってきました。したがって、ロバート・ロウ卿は、実際の攻撃をマラカンド峠で行う間、シャーコート峠とモーラ峠を単に脅しておくことに決めました。この計画を踏まえて、第1旅団はシャーコート峠を完全に見渡し、直接脅かすルンドクワルにビバークしました/一方、モーラ峠に向けて強力な騎兵隊による偵察が行われ、ホコリを巻き上げて敵の注意を本当の攻撃地点から逸らしました。峠は大まかに言えば約七マイル離れています。そして敵がそれらのすべての峠の守備に分かれて引き返せなくなるや否や、ロバート・ロウ卿は左翼への集中を命じ、全兵力でマラカンド峠を強襲しました。

 

 

マラカンド峠。

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戦闘が行われたのは4月3日、北に遠く離れたケリー大佐の縦隊がシャンドール峠を横切ったその日でした。ウォーターフィールド准将率いる第2旅団が先陣を切り、キンロック准将率いる第1旅団が支援し、ガタクレ准将率いる第3旅団は予備として残りました。敵は峠の頂に布陣して両翼の高地を保持していました。同時に主稜線の下には石造りの胸壁の列が何重にも並んで、それぞれ一つ下のそれを見渡していました。この陣地は並外れて強力なもので、敵が組織的に守っているものを一つ奪うには一週間を要すると思われました。後に敵の数は約12,000人だったことが判明しました。武装していたのは約半分で、残りは死者や負傷者を運び去ったり、水を運んだり、攻撃してくる縦隊に巨大な岩を転げ落としたりしていたのです。陣地の広さは一・五マイルほどだったと思われます。主に交戦した連隊は国王陛下のスコティッシュ・ボーダーズ、ゴードン・ハイランダーズ、ガイド隊、第4シーク隊から成る第2旅団/そしてベッドフォードシャー連隊、第60ライフル隊、第15シーク隊、第37ドグラ隊から成る第1旅団でした。ダクレス・カニンガム少佐の下に結集した三個山岳砲兵中隊も戦闘中に目覚ましい働きをしました。一方、三挺のマキシム機関銃も敵の打倒にその役割を果たしました。

 

攻撃の計画は以下の通りでした。ガイド隊は断崖絶壁を敵の右翼(*向かって左)の高さまでよじ登る。その後第4シーク隊の支援を受ける、次に二個連隊は内側に向かって稜線を掃討することによって敵を側面に引きつける。その間に正面への攻撃が核心を突く。ガイド隊が稜線に到達するには三時間を要すると計算されていました。しかし抵抗が厳しく、登る場所はギザギザで切り立っていたため、訓練を積んだこの登攀者たちが最後のサンガーを奪取して高地の頂きに達するまでに五時間かかりました。一方、日程が差し迫っていたため正面攻撃を遅らせるのは得策ではありませんでした。敵は目下、三時間以上にわたって三個山岳砲兵中隊による最も徹底的で正確な破裂弾の攻撃を受けており、当然のことながらかなり揺さぶられていました/その間、ガイド隊の戦闘も自らの右翼に好感触を得ていました/そこで別々の支脈にそれぞれ配置されていた国王陛下のスコティッシュ・ボーダーズとゴードン・ハイランダーズに前進して攻撃せよ、という命令が出されました。(*正面攻撃)

 

この二個スコッチ連隊が高地を奪取した見事な突撃は素晴らしく感動的な光景でした。この地点では谷から頂上までの高さは1,000フィートから1,500フィートまでのばらつきがあり、斜面のほとんどの部分がほぼ垂直に見えます。敵の銃火と攻撃側に向かって投げつけられる巨礫のシャワーに苦しんだパーティーの損失が比較的少なかった理由はこの非常な急勾配で説明できます。しかし、この喜ばしい損失回避の主な理由は、兵士たちが胸壁から胸壁へと突撃し、敵がその足元に攻撃側の縦隊が迫っていることに気付く前に最後の尾根の直下に到着するという、素晴らしく活力に溢れた方法にありました。

 

こうして第2旅団全体の任務が順調に進んでいたとき、第1旅団に彼らを支援せよという命令が出ました。第60ライフル隊、続いて第15シーク隊が国王陛下のスコットランド・ボーダーズとガイド隊の間の凹部に送り出されました。その間にベッドフォードシャー連隊と第37ドグラ隊は敵陣の前を横切る谷を上り、ゴードン・ハイランダーズの後ろを旋回し、かなり回り込んで敵の最左翼を攻撃しました。第60ライフル隊はいくらか登ったところで突然古い仏教徒の道に遭遇しました、これは右側に鋭く曲がっており、しばらく行くと彼らは国王陛下のスコティッシュ・ボーダーズの先進中隊と同じ高度にいることに気づきました。今や戦線全体がまだ小グループで奮闘していた兵士たちを集め、最後の突撃に向けて息を整えるための短い休憩をとりました。すべての準備が整うとたちまち銃剣が装着され、進軍ラッパが元気よく鳴り響き、巨大な叫び声とともに下からはほとんど難攻不落に見えた陣地は銃剣の先に迫り/三個イギリス連隊がほぼ同時に頂上に到達しました。その間、ガイド隊と第4シーク隊は向かって左側の高い峰を襲撃し、支援が必要な場合には内側に移動することが可能でした/その間に彼らより先に高地をよじ登っていたベッドフォードシャー連隊と第37ドグラ隊は敵を猛追して遠い谷まで駆け下り、スワット川沿いの壁に囲まれた大きなカルの村に到達してようやく停止しました。

 

こうして並外れて強力な陣地が鮮やかに突破され、南側の救援部隊の行く手の最初の障害物が払い除けられました。戦闘は五時間続きました。そして峠の突破を成し遂げたその突撃と決意はどれほど賞賛しても賞賛しきれません。また五時間の間、三個山岳砲兵中隊からの最も徹底的に見事に指揮された破裂弾に耐え、なおも最後の銃剣突撃に立ち向かうほどに強固だった敵の立派な勇気をも忘れることができません。彼らの損失は彼ら自身によって死者500人と割り出され、戦闘の一般的な平均にあてはめるなら負傷者の合計はおそらく1,000人、言わば合計1,250〜1,500人の損失になるでしょう。イギリス軍の損失は死傷者七十人未満でした。

 

双方に負傷者の生命力に関するいくつかの不思議な事件がありました。ガイド隊の兵士が腹部近辺を撃たれ、峠の麓まで降り、仲間に支えられて野戦病院まで五マイルを歩いて戻りました。一方、敵の一人は六発以上の弾丸が貫通しましたが九マイル離れたチャクダラまで歩き、その後私たちの外科医に治療されて、不思議な話ですが、急速に回復しました。アジア人が剣や弾丸による傷にヨーロッパ人よりもはるかによく耐えられることは間違いありません。ヨーロッパ人が死ぬか、少なくとも何ヶ月も寝込ませる傷は、これらの丈夫で禁欲的な山の民に非常に重症度の低い影響しか与えません。たとえば想像してみてください、爆発して吹き飛ばされた銃の発射装置がまるごと肩に刺さっても、特に何事もないかのように歩いているのです!もっとも外科医の一人が発生の数か月後にその肩から発射装置を取り除きましたが。数えきれないほどの素晴らしい回復例が語られるかもしれませんが、中でもおそらく次の非常に若い少年のケースは典型的なものでしょう。戦いがすぐ近くで行われるであろうと聞いて、世界の他の地域の少年たちと同じように、もちろん彼も行って見物しようとしたのでしょう。彼は戦いのすべての興奮をすっかり楽しんでいて、そしておそらく元気よく石を投げていて、腕の数か所を貫通する流れ弾に当たり、ひどい裂傷を負ってしまいました。峠が奪取されたとき、彼が負傷して横たわっているのが見つかり、傷の検査が行われました。医者たちは腕を切り落とさなければならないと診断しました。さもなければ間違いなく壊死が始まると思われました。そして彼らは少年に死か、腕の切断か、という選択肢を与えました。彼が選んだのは前者でした。しかし、彼は死ぬことなく数日で回復し、そしてさらに数日で再び外を出歩けるようになったのでした。

 

岩石、丸石、茂みの中に隠れた敵は、撃つことが最も難しい標的でした/一方、同じ原因が地形の険しさと相まって、私たちの部隊をより深刻な損失から守りました。私たちの歩兵射撃の見事な統制は、その日の弾薬の平均支出が一人あたり七発未満であったという事実によって評価されるでしょう。

 

敵の勇敢さについてはいくら褒めても褒めきれないほどであり、個々の事例が異彩を放っていました。大きな赤と白の旗を掲げたあるリーダーは、スコットランド・ボーダーズが丘の途中まで登ってきたときに部下に突撃の号令をかけました。突撃は行われましたが、彼の部下は徐々に全員が倒れ、リーダーだけが残されました。彼は何物にもひるまずに持ちこたえ、何度も倒れ、ひどく撃たれましたが、ついにイギリス軍の戦線の間近で射殺されるまで一瞬も遅れることなく何度も何度も立ち上がって来ました。これ以上の死に物狂いの勇気を想像するのは困難なことです。また、自分がリスクを公平に負担していないと考えた敵の太鼓手の一人は空を背にしてはっきりと目立つ状態で小屋の屋根に乗り続け、そこから仲間を鼓舞しました。彼は何度も弾丸に当たり、傷に包帯を巻くために降りましたが、また上ってドラムを叩き始めました。最後には弾丸が彼の心臓を撃ち抜き、彼は崖から百ヤードほど真っ逆さまに落ちて、そこに横たわり、死んで硬くなっていました、しかし、まだドラムを首に巻き、それを叩くために腕を振り上げようとしていたのでした。間違いなく偉大なマホメッドはイスラム教徒の天国の列席の中に彼の場所を用意することでしょう。

 

戦闘が終わった夜、二個連隊はカルまで押し下りましたが、第1旅団は峠の頂上を保持し、第2旅団は峠の南の入口でビバークしました。翌朝、峠に先進部隊の弾薬、手荷物、および補給品を押し上げるという途方もない作業が始まりました。唯一の利用可能な通路は、非常な急勾配で、巨礫がとても邪魔な一本の踏み跡でした。これは、工兵隊の作業部隊によって急いで改善されました。これを上るために、夜明けから夕暮れまで、荷を積んだラバの群れが次から次へと骨折って働きましたが、それでも一日が終わって少し進捗しただけでした。この非常に好都合な瞬間に、攻撃の際に第60ライフル隊がたどった古い仏教徒の道が、良い勾配で平地に続いていることが分かりました。手の空いているすべての兵士はすぐにこの2,000年前の文明の遺物を改善するために用いられました。その結果、二十四時間後には旅団が移動する準備ができました。その存在自体が現在の住民によって忘れられていたらしい、この仏教徒の道がなかったとしたら、師団がマラカンド峠を越えるのに何日もかかったことでしょう。

 

峠での作業が行われている間、第1旅団はスワット渓谷に移動しました。そして、シャーコット峠とモーラ峠が迂回されたのに気づき、断固として戦うために西側に流れてきた数千人の敵に激しく襲われました。この大規模な男たちの集団は前進する第1旅団の側面の支脈に現れたため、手荷物を持った旅団が開けた谷に入るまでそれを食い止めておく必要がありました。この任務は隣接する支脈の上にいた第37ドグラ隊と、敵の稜線を十分に掃討し続けた山岳砲兵隊によって成功裏に遂行されました。しかし夕方にかけて、後方部隊の前進を単に援護していただけの我が軍の防御的態度を誤解した敵が、支脈と平地が出会う足部の周りを今にも掃討しようとするかのように、前進する縦隊の先頭と側面に突撃する意図とともに大胆にも2,000人で平野になだれ込んできた、という報告がありました。この動きの警告を受け、直ちにこれまで峠越えに奮闘したにもかかわらず支脈の周りを速足で駆けまわっているだけだった一握りの騎兵隊に、開けた場所で敵を攻撃するチャンスを伺うべし、という命令が出されました。この小集団はR.B.アダムス大尉とG.M.バルドウィン中尉指揮下のガイド騎兵隊の五十人のサーベル兵で構成されていました。中尉は支脈の周りを偵察し、敵が開けた場所にいるのを発見しました。ただし丘の民の常として丘の麓に沿って進んでいました。チャンスと見るや、アダムス大尉は大変な敏捷さと大胆さで突撃し、それを偉大に遂行し、敵の大集団を慌てふためかせて丘に逃げ帰らせました。突撃は鮮やかで効果的であっただけでなく、甚大な心理的効果を与えました。敵は騎兵隊が峠を越えたとは夢にも思っていませんでした。そしてすべての馬に馴染みがない国の人々のように、騎兵隊の力について過大評価しました。こうして彼らは実際以上の最悪の恐怖を経験し、そして五十人のサーベル兵がためらうことなく二千人の歩兵に突撃して戦いの局面を完全に変えたとき、この遠征における騎兵隊の優位が確立しました。遠く離れた捕われのファウラーとエドワーズでさえ、最も繰り返し聞かされたことはこの騎兵隊の恐ろしさについてでした。直接の結果として、敵は丘の頂上からも消えはじめ、翌朝までにはその痕跡すら見られなくなりました。この日の私たちの損失は騎兵隊の七~八名を含めてもわずかでしたが、敵の被った損失は重く、少なくとも250人が死亡しました。

 

4月5日と6日、参謀長ブラッド将軍の下の偵察隊がスワット川を渡れる浅瀬を捜索し、タナの向こう側の相当な敵の戦力を見失わないよう谷を押し上げました。渡渉に適切な地点が発見され、それを強行する任務はウォーターフィールド将軍と第2旅団に委ねられました。今や敵はウムラ・カーンが送ったその兄弟指揮下のライフル隊によって補強され、タナを出て、川を渡っていました。およそ4,500人の男たちがイギリス軍の通過に対抗するために天然の強力な陣地に配置されていました。敵側の岸の水際には小さな岩だらけの丘がいくつかあって、そこから我々が攻撃を仕掛けなければならない完全に平らで開けた南の岸を完全に見渡していました。当然、正面攻撃は非常に損失が大きくなるでしょうが、ウォーターフィールド将軍はすばやい戦術的な直観で、わずかな損失でその目的を達成する方法を見抜きました。彼は砲兵隊と歩兵本隊に遠距離から敵と激しく交戦させ、ガイド騎兵隊と第11ベンガル槍騎兵隊を川に送って、よく知られていない浅瀬を横切って迅速に敵の側面と背後を襲うように命じました。騎兵隊を支援するために、彼は第15シーク隊を送りました。効果はてきめんでした/渡渉点の守備者たちは恐ろしい槍騎兵隊が半ば泳ぎ、半ば歩いて、川を渡って一マイルほど遡ってくるのを見たとき、心が折れ始めました/そして最初は退却だったものが次第にウムラ・カーンの兄弟とその護衛の騎兵団に対する戦いになってしまいました。しかし、槍騎兵隊とガイド隊を拒むことはできませんでした。そして、彼らは士気が下がった敵に襲い掛かり、まだ青い作物の上にその死体をばらまきました。敵の全損失は約400人で、そのうち約百人は騎兵隊に倒されたものでした。北岸を二個大隊で保持すると、たちまち浅瀬に注目が向けられました。歩兵隊は膨らませた皮に助けられつつ、地元の熟練の泳ぎ手はその腕前によって感銘を与えつつ、わずか二、三人の溺死による犠牲者のみで切り抜けました。足を取られた兵士は永遠に失われてしまう、深さが脇の下まである急な奔流だったため、これは不安な仕事でした。

 

騎兵隊の追跡中、第11ベンガル槍騎兵隊の一個戦隊がウムラ・カーンの兄弟の捕獲という大手柄を惜しくも逃しました。というのも、エドワーズ中尉とファウラー中尉の二人の英国人将校はこの間ずっとウムラ・カーンの捕虜であって、全くその掌中にあったことを思い出さなければなりません。絞首索がその首にかかっており、私たちの部隊の放つすべての打撃がその結び目を締めずにはおかなかったと言えるでしょう。ウムラ・カーンの兄弟が私たちの手に渡っていれば、立場は対等になり、同じ条件で交換することができたことでしょう。この同じ追跡の間に、奇妙な事件が起こりました。敵の一人か二人が平原の木の近くに踏みとどまっていました/ある兵士が槍を下に向け、全力で疾駆して突撃しました。彼が敵を撃ったかどうかは知られていませんが、次の瞬間、彼と馬は井戸の底にいました。木の後ろに側壁なしの井戸があったのでした。馬は死にましたが、彼自身はひどく戦慄しながらも脱出できました。ずいぶん昔のことと思われるかもしれませんが、反乱の際に第5パンジャブ騎兵隊の筆者の叔父、ジョージ・ヤングハズバンド中尉が同様の事故に遭いました。彼はアグラの救援に向けて行軍中にグレートヘッドの縦隊とともに自らの戦隊で突撃していたとき、隠れていた井戸に落ち、その上に馬に乗った従卒が落ちてきたのでした。従卒と二頭の馬は死に、彼だけが生きて出てきたのですが、ああ、悲しいことに!その後すぐに別の突撃で戦死したのです。

 

主要な浅瀬近くの北岸にあるチャクダラの村では多くの武器が発見され、その中にロンドンのウィルキンソン製の騎兵様式の将校の直剣が見つかりました。剣に番号が記されていたため、帳簿による剣の元の持ち主の調査がウィルキンソン刀剣店に依頼されました。持ち主の将校の名前はベローであったことが判明しました。これは1878―79年に連隊と共にアフガニスタンで勤務した第10軽騎兵隊のベロー中尉のことでした。彼がハーブル中尉に貸したこの剣は、第10軽騎兵隊とともにカブール川に沈んだのでした。ここで我々はウムラ・カーンが建てた種類の石造りの砦の計り知れない強さの証拠を見ました。チャクダラの東にあるウムラ・カーンの前進砦はラモラと呼ばれ、これによって彼はスワット渓谷全体を実質的に支配していました。これは短い抵抗の後に奪取され、工兵隊による爆破を宣告されました。しかし、宣告と執行はまた別でした。ある塔の下に強力な火薬が置かれ、導火線が点火され、観衆は遠くに立って、建物全体が空高く吹き飛ばされることを期待していました。確かに非常に大きな爆発音がありましたが、それだけでした。塔はびくともせずに立っていました。さらなる調査の結果、各塔の基部は基礎から地上十五フィートまで完全に堅固な石積みであり、その上の壁は限りなく厚いことがわかりました。ウムラ・カーンによって建てられたすべての砦は同じ様式、つまり角が四つあり、各角には強力な塔が一基あり、とても厚くて高い壁があり、四つの側面には注意深く銃眼が作られています。私たちの大砲はこれらの砦には効果がありませんでした。開けた谷の中であればとても好都合ですが/狭い谷の中では必然的に隣りあう険しい丘からよく見渡されることになります。側面のラモラ砦と、対側の防御の準備万端の岩だらけの丘と、川を渡った後の少しの良い道に続く大変な泥濘地によって敵の前進が妨げられる中央のチャクダラ村を組み合わせて系統的に守っていたならスワット河畔の敵陣は大変手強いものになっていたことでしょう。

 

直ちに橋桁と架台の橋の建設に着手した工兵隊がスワット川の通路を完成し、一方、敵を見失わないために強力な偵察隊が送られました。彼らはララム山脈を越えるカトゴラ峠が占領されていないことを発見し、騎兵隊はさらに約二十マイル先のパンジコラ川まで降下しました。ここに軍がこれまで遭遇したことがなかった最も手ごわい障害がありました。4月9日、馬は川を渡ることができ、そして困難は伴いましたが歩兵も渡ることができました/11日にはかろうじて馬で渡れましたが、歩兵は全く渡れませんでした/しかしそれから先は完全に渡渉不可能な激流となり、インド人騎兵とその馬は水の中のアヒルのようでしたが、騎兵隊の水泳は不可能でした。そこで橋を架けることが必要になりました。

 

手元にあった唯一の材料は大木から取った重い丸太で、売るためにこの地域からインドに向けて毎年流されているものでした。これらを電信線で橋桁に固定することによって、非常な困難と危険とともに粗末な歩行橋が建設され、適切な位置に浮かべられました。4月12日の夜、ガイド隊は橋頭を守るために川を押し渡り、強力な塹壕を巡らせました。その夜は静かに過ぎましたが、朝にかけて増水が大きな丸太を運んできて橋を洗い流し、ガイド隊を向こう岸に取り残してしまいました。その立場は間違いなく厄介なものでした。9,000人を数える地元民の敵の戦力が西にわずか七マイル程しか離れていないところにいる、と騎兵の偵察隊が報告していました。彼らの見張りは橋が壊れたというニュースをすぐに伝えるでしょう。しかし何が起こったとしても、この人々が戦いにおいて躊躇ったり、不安の表情を見せたりすることは決してありません。このときガイド隊を指揮していたバッチェ大佐は、橋が無事だった前夜に受けた命令を遵守しました。この命令は、敵の狙撃兵を私たちの作業部隊を悩ませていた陣地から追い払い、昼夜川越しに発砲してくる武装パーティーを供給していた手近の村を焼き払うことでした。ガイド隊のこうした大胆な攻撃は間違いなく良い効果をもたらしました。彼らは早朝に出発し、岩の中に隠れた敵のすべてのパーティーを追い出し、積極的に敵対した村を焼き払って広く掃討を行いました。これはすべて、山岳戦に熟練した軍隊にとっては簡単な作業でしたが、登攀は非常に骨の折れるものでした/しかし、本当に厳しい試練に出会ったのは、橋頭へと撤退する時間になったときでした。優劣の差をものともせずそれは実行するためには最善かつ最も着実な軍隊を必要とします。そして、命知らずで、後装銃の銃口へと真っすぐに突撃する無双の勇気を持ち、慈悲を与えず求めない、勇敢で狂信的な敵の前でそれを行うにはさらなる胆力が必要です。

 

そのような敵を前に撤退する際には、ほとんど大げさなまでの慎重さが必要とされます。急いでいる様子を見せることは最小限に抑えなければならず、混乱の様子はなおさらです。そうした様子は水門を開いて戦士の嵐のような奔流を呼び込むことになり、技術はいやおうなしに数の力に屈することになります。

 

その日の戦いを手短に物語るとすればこうです。ガイド隊は派遣の目的であった任務を完了しました、そして今やジャンドル川がパンジコラ川に流れ込んでいる地点に突き出した、とても高い丘の支脈を下降して撤退中でした。この丘はジャンドル川の南岸にあり、橋頭はその北岸にありました。したがって、彼らが塹壕を掘った陣地に到達するために、ガイド隊は登っていた山から撤退してジャンドル川を渡らなければなりませんでした。正午頃、敵の密集した二個縦隊がジャンドル渓谷を下って来るのが見えました。一個はジャンドル川の右岸を、一個は左岸を。ガイド隊の射程外で山を登り、間にある支脈によってガイド隊からはほとんど隠されていた最初の縦隊は、山頂に到達し、撤退中の連隊を強く攻撃しました。谷を流れ下って来た二個目は退路を完全に断つことを意図し、ガイド隊の側面と後方を攻撃しようとしていました。一歩一歩―観察者にはほとんど一インチ一インチに見えましたが―各々の中隊が交互に、彼らが乗っていた尾根を撤退しました、デラジャット山岳砲兵隊の見事な砲撃に計り知れないほどの貴重な助けを受け、四方八方から激しく攻撃されながらも、冷静に斉射に次ぐ斉射を繰り返し、数ヤード後ろの別の陣地を奪うためにこっそりと素早く一つの強力な陣地を放棄しながら。実際、この試練の状況下に交戦した軍隊の射撃規律は非常に優れており、命令なしの発砲は一発たりともありませんでした。その間、橋頭を保持するために残されていた連隊の二個中隊が敵の二個目の縦隊の前進を阻止するために出て行きました。彼らは撤退する部隊の側面と後部に攻撃を加えことを決意して、回り道をして動いていたのです。第2旅団全体、砲兵隊、およびマキシム機関銃に出撃命令が出て、パンジコラの東岸(ガイド隊は西岸にいます)の強い陣地に配置されました。そこからの砲火が撤退のこの後の段階で不可欠な支援となるのです。山肌の非常に荒れた状態と熟練した散兵たちが受けた優れた援護のおかげで、丘のふもとに到達するまでの我が軍の損失は非常に軽度で済みました。今や連隊は戦野の中で橋頭までの道を切り開くため、腰の高さまで緑の大麦が生えている数百ヤードの平地を横切ってから、この地点では深さ約三フィートのジャンドル川を渡らなければなりませんでした。不幸にも、連隊がちょうど最後の支脈を去ったとき、指揮官であるF.D.バッチェ中佐は致命傷を負い、おそらく彼が最も願っていた通りに、ともに二十五年間の卓越した勤務を成し遂げた連隊を率いたまま、死にました。

 

敵の並外れた勇敢さがより輝かしく明らかになったのは、この開けた土地の横断のときでした。無謀な勇気を持った旗手たちが確実な死に向かって突入し、ガイド隊の無敵のラインからおよそ十ヤード以内で倒れるのが見られました。のみならず、時に男たちは全く恐れというものを欠いており、すべての弾薬を使い果たすと大きな石を持って突進し、兵士にそれを投げつけた後、即死しました。彼らは獲物を襲う猟犬のようでした。何ものも彼らの血気を弱めたり、その強襲の猛威を抑えたりすることはできませんでした。ガイド隊がジャンドル川を渡り、敵がゴードン・ハイランダーズと国王陛下のスコティッシュ・ボーダーズの激しい側面攻撃を受けた後も、一人ひとりが標的の図星と同じくらいはっきりと目立つ流れの中に突入し、再び接近しようとしました。しかし、イギリス連隊の側面射撃は非常に着実で、よく狙いが付けられていたため誰一人渡ることはできませんでした。今日の戦いは事実上終わりました/全体的に砲火が弱くなり、陣地は素早く占領され、必要に応じて強化されました。日中、敵は5,000人の中から500~600人の男たちを失いました/ガイド隊の総損失は約20人であり、これは撤退を遂げる際の巧みなやり方と山腹の凸凹した地面による優れた遮蔽によってもたらされた結果です。

 

夕方になり、夜襲を迎え撃つ準備をしなければならなくなりました。まだ低い丘の後ろに数千人の敵が集まって隠れていたためです。増援として、第4シーク隊の二個中隊と追加の英国人将校がいかだに乗って送られました/マキシム機関銃もです/一方、800ヤードの距離から橋頭の塹壕を見渡す手前側の岸を山岳砲兵隊と第2旅団の部隊が占領していました。敵の陣地がいつ決定的な突貫があってもおかしくない場所にあったため、夜は不安なものでした。そうした攻撃は計画されていましたが、実行の間際に、予期しないときに、そして敵には魔法のように見えた破裂弾が出現してこれまで怯むことのなかった敵の度肝を抜いたため、攻撃は行われなかったのです。後の諜報部員からの情報によると、剣を手にした2,000人の選ばれた戦士たちが哨兵線のすぐ外側に立つトウモロコシの中に伏せて隠れ、攻撃の合図を待つばかりになっていました。そのときこの文明の幸運な発明品が、双方に多大な損害を与えたに違いない戦いを食い止めたのでした。しかし、最終的に敵が撤退する前に、部隊はマキシム機関銃を担当していたピーブルズ大尉の死という、深刻な損失を被りました。この将校の任務は、熟練者の手にあることこそがふさわしいマキシム機関銃の働きに関するその詳しい知識が貴重なものであり、装置の他の部品と同様に壊れてしまうものであることを明らかにしました。ピーブルズ大尉の機関銃の働きは、作戦全体を通して軍全体の称賛の的でした。

 

浮き橋ではパンジコラ川の水流に耐えられないことが十分に明らかになったため、少し下流に吊り橋をかけることになりました。奇妙なことに、岩だらけの丘で川が水車用水路のように100フィート前後に狭くなっているこの地点に、明らかにここに片持ち梁橋を架けることを命じていたウムラ・カーンが収集した架橋資材が見つかりました。この仕事はギルギット方面でこの技術部門に多くの経験を持つアイルマー少佐、ビクトリア勲章、王立工兵隊に委ねられました。利用できる材料は電信線と解体された家の梁だけでした。これらからアイルマー少佐は四十八時間以内に全長100フィートの吊り橋を建設しました。これは、荷を積んだラクダ、騎兵、山砲にも耐えることができました。

 

建設中、エイマー少佐の側での非常に迅速で勇気ある行動が兵士の命を救いました。最初の浮き橋が建設された上流約一マイルの地点で、繋留渡しといかだが前へ後へと動き、向こう岸のガイド隊の入用品を提供していました。デボンシャー連隊のマキシム機関銃分隊の二人の兵士が乗ったこれらのいかだの一つが過って転覆し、乗員とオールが流されました。二人の兵士はなんとかいかだに上ることができ、すごい速さで下流に流されました。ガタクレ将軍は事故を見て、警告を与えて兵士を救うため、新しい橋の場所へと全速力で騎行しました。その間に一人の兵士は岸に飛び移ることを試み、流されて溺れました、いかだの生存者は急流を舞い降りて来ました。最も強い精神と勇気を持ってアイルマー少佐は川を渡してあったたるんだワイヤーを直ちに滑り降り、ものすごい勢いで流されていく兵士をなんとか掴むことができました。いかだはすぐ下の岩にぶつかって砕け散りました。かなりの困難とともに兵士とその救助者は岸に運ばれました、そして、そのとき少佐がひどい打撲傷とワイヤーの切創を負っていたことがわかりました。王立人道協会のメダルは多くの、より目立たない勇気ある行為に与えられてきました、しかし通り過ぎる数々の事件に振り回されて、このことについて実際に母国に推薦状を送った目撃者はまだいないようです。

 

 

写真:パンジコラ川に架かる吊り橋の建設。

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今やウムラ・カーンの手に落ちた二人の将校、エドワーズ中尉とファウラー中尉が、パンジコラの対岸にある、わずか十八マイルしか離れていない小さな砦バルワにいるという確かなニュースが入ってきました。パシャン人との戦争におけるすべての前例と私たちの以前の経験によれば、これはかなり複雑な問題です。いずれにせよこの将校たちの命を一時間で救うことはできません。私たちが攻撃した場合には見せしめとしての冷血の殺人が確実に予測されます。将校たちがバルワで書いた以下のメモが届きました:―「王立工兵隊ファウラーと第2ボンベイ擲弾兵隊エドワーズがバルワに閉じ込められています 救出していただけますか。これの持参人に100ルピーを与えて下さい。7.4.94(原文ママ)追伸、私たちは逃亡を試みましょうか ここの人たちはパニックになっています。」ノートの一枚に急いで書かれた殴り書きでした。

 

「政治的」という肩書を持つ将校はインド軍において不吉なものですが、ディーン少佐は軍のガイド、哲学者、そして友人であり、その任務はずっとかけがえのないものでした。彼は土地、住民、言語についての深い知識に加えて、彼らとどう取引するかについての洞察力のある知識を持っていました。ファウラー中尉とエドワーズ中尉の命は十中八九ディーン少佐の外交手腕にかかっています、そして彼らが釈放されたなら、その行動が二人の若い将校の死の鐘を鳴らすかもしれないという考えに妨げられることなく、将軍の軍隊は自由に攻撃することが可能になるでしょう。ディーン少佐に会い、こうした外交交渉の申し入れの中でウムラ・カーンは彼の周囲をはるかに超越した、開化し文明化された進歩的態度を示しました。彼はそれを要求されたとき、どんな見返りをも要求することなく、ずっと一貫して大切に扱ってきた捕虜を敬意とともに送り返したのでした。

 

工兵隊が忙しくパンジコラに架ける橋を建設しているこのときに、包囲された駐屯部隊の救援を成し遂げた遠征のここまでを俯瞰しておくことが好都合でしょう。包囲された人々からニュースを入手するあらゆる努力は失敗しました。また―多くの人が試みた―来たるべき救助のニュースを砦に投げ込もうとする試みはどのような方法によっても不可能でした。しかし、はるかに素晴らしい成果が得られていました/後装銃で武装した千人の選抜兵を従えた包囲の首魁である総司令官ウムラ・カーンが、私たちの前進に抵抗するために包囲を放棄し、急いで南部に戻って、抵抗を組織化し、部族民を立ち上がらせることを余儀なくされたのです。同日、4月13日に有名なシャンドール峠の通行を成し遂げたケリー大佐とその一握りの部下はマストゥージにいました。彼はここまでの前進においてわずかな抵抗しか受けていませんでした。信頼できる情報によって、チトラルの駐屯部隊はそれを4月22日まで持ちこたえるだけの物資しか持っていないと想定されていました。つまり、あと一週間しか残っておらず、南の部隊の前には9,000人の兵士を持つウムラ・カーンと二つの巨大な山脈があり、ケリー大佐の北の部隊はチトラルから六十マイル以内にありながら、そのどこに敵が強力な陣を敷いているかも分からない、狭くて困難なルートを前にしていたのでした。

 

第V章   チトラルの救援

 

 

実際、この4月13日の時点において見通しは明るいものではありませんでした/しかし、ここで遠征に勝利するための天才的な閃きがあって、間違いなくこの勝利に貢献したのでした。遠征の実施の責任者たちは、与えられた時間内に大戦力をチトラルに送ることは不可能であるが、少数の兵士が突破行をしてウムラ・カーンが包囲の指揮のために残した将軍、シェール・アフズルの背後を襲うことは効果的な牽制になるであろうことに気づきました。最初は正規軍と傭兵の混合軍を派遣することが考えられていましたが、慎重に検討した結果、正規軍は行軍の速度を下げ、主に心理的なものであるその効果は傭兵だけでほぼ確実に得られるとの決定がなされました。そこでこういう計画が立てられました、主力はパンジコラを渡渉してウムラ・カーンとの決戦を行うこと、この動きに紛れて私たちの味方であるディルのカーンはパンジコラ川の左岸を遡り、高さ10,450フィートのロワライ峠を通ってチトラル渓谷に降下すること、そして自分はこれまで無敵の将軍であったウムラ・カーンを大いに打ち負かし、スワットとバジャウルを征服した軍隊の単なる前衛に過ぎない、と広く遠くまで宣伝すること。

 

 

写真:ディリの砦

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この計画に従って、ディリのカーンは1,000人の兵士と一緒に前進してロワライ峠を抜けるよう命じられました、そしてパンジコラ川に架かる橋が完成するとすぐに、ウムラ・カーンのムンダ要塞への騎兵隊の偵察を担当したブラッド将軍は素早く前進しました。ブラッド将軍がガイド騎兵隊の戦隊と共に前進してジャンドル川を遡ると、ミアンキラの大きく重要な村が見えてきました。ここでなれなれしく話しかけてくる地元民に出会いました。将軍はウムラ・カーンはどこにいるのか、と尋ねました。「あそこの砦にいますよ。」と彼は地面の隆起の端にあるムンダを指して言いました。「あなたは彼にメモを渡し、答えを持ってきてくれますか?」将軍は尋ねました。「いいですよ。」と地元民は言いました、「私は三十分後に戻ります。」そこで情報部のニクソン大尉の言語能力に助けを求め、ウムラ・カーン宛に広い屋外に出て、将軍と友人として”偏見なしに“話をしてくれるように頼む、丁寧で心のこもったメモが書かれました。まもなく答えが返ってきました。以下のような主旨でした:「ご挨拶を申し上げます。私には閣下にお会いして静かにお話したい、というとても強い気持ちがあります。それによって、すべての問題は簡単に解決するでしょう。しかし、残念ながら私は3,000人のガジ(*イスラム戦士)に囲まれています。そしてこれらの荒くれ者たちは私の外出を聞き入れないでしょう。あなたも私も兵士を連れていることに注意しなければなりません。このような状況下では、当然静かな会話はできません。今、あなたの軍を遠ざけて下さい。私も遠ざけます。そうすれば私たちだけで野原で会話することができるでしょう。」このように全てはとても好意的で友好的でした/しかしその間に敵の密集した縦隊がミアンキラとムンダから流れ出し、驚くべき速さで移動して、この辺りではどこでも簡単に渡れる川の両岸を占領し、騎兵隊を圧迫し始めました。偵察隊は急いで歩兵縦隊の先頭が視野に入るところまで静かに戻りました。これは第11ベンガル槍騎兵隊とデラジャット山岳砲兵隊を伴ったガタクレ将軍の第3歩兵旅団でした。

 

砲兵隊はたちまち砲火を開き、騎兵隊はここでは非常に広く開けた川底まで移動しました。その間に歩兵隊は小川の右岸まで攻撃を進めました。しかし、最初の瞬間からウムラ・カーン本人が居合わせてはいましたが、敵が「ビジネス」を意図していないことは明らかでした。以前の戦いの厳しい教訓が彼らに効果を与え始めており、彼らの抵抗は中途半端なものに過ぎませんでした。第3旅団は急所を突いて優位に立ち、敵は彼らの前から退却し、数人の兵士を失っただけで、夕方にかけて彼らの全兵力が遠いナワガイの谷に完全に後退するのが見られました。部隊は彼らが獲得した前方の陣地でビバークし、第2旅団は敵が翌日に断固として立ち上がるという心づもりをしておくよう命じられました。しかし、翌日見られたのは無人の陣地と無人の砦だけでした。このように遠征の帰趨を決定づけ、百戦に勝利したウムラ・カーンを滅ぼして亡命させ、カブールで早死にさせた最後の会戦は楽勝に終わりました。

 

しかし破滅したと言うとき、私たちはその言葉を精神的な意味で理解するべきです。金銭的にはウムラ・カーンは全く破滅などしていませんでした。私たちのスパイの一人はムンダの砦から強力な護衛の下に宝物を運びだすラバを一晩に十一頭数えました。ラバは各々、銀なら6,000ルピー、金なら120,000ルピー、また宝石であればいくらでも運ぶことができます。銀と金の大まかな平均をとって、宝石を考慮しないならば、十一頭のラバの宝物でウムラ・カーンとその家族は死ぬまでとても快適に暮らせたであろう、と計算できます。

 

数週間後、シェール・アフズルをインドまで護送したとき、私はウムラ・カーンについて多くの話を聞きました。東洋の君主の治世の不確かな行く末を知っている賢人の如く、彼は権力の座にある間、蓄財に心を配っていました。彼はすべての商人または農業者から利益の十分の一の税を取り立て、こうして蓄積したお金を彼自身が定めた交換レートで金に変えました。例えばロシアの金貨の真の価値が20ルピーであった場合、王の勅令により、また王室の購入者の利益のためにそれは18ルピーとされました。金はアジアでは非常に希少ですが、ロシアのコインがある程度浸透しており、金の装飾品があちこちに見られます。これらすべてをウムラ・カーンは熱心に集めていたので、おそらく彼は逃走時に相当な財産を持っていました。

 

イギリス軍の前進が始まる前夜、ムンダ砦の下のスズカケノキの木立の中の、祈りの壇で夕方の祈りに参加した後、ウムラ・カーンは信奉者たちに向かって言いました、「アフガニスタン軍の最高司令官であるゴーラム・ハイダーから手紙を受け取ったところです。彼の提案はこうです、私が3,000人の兵士とともにマラカンドを通ってペシャウル渓谷に攻め入ります。そして彼は10,000人の兵士とともにカイバル峠を超えて共同作戦をします。どうでしょう、私の勇敢な戦士たち?」すると全会衆が強力な叫び声とともに立ち上がりました。「ペシャワルへ!」1870年にヨーロッパ(*普仏戦争、「パリへ!」)で聞かれた、より有名な叫びの紛い物でした。そのような手紙が本当に来たのかどうか、来ていた場合、それはある友人が別の友人を確実な破滅へと誘う、東洋における隣人らしい振る舞いに過ぎないため、ここで議論する必要はありません。この逸話は単にウムラ・カーンが自分の戦力に寄せていた限りない信頼と、その信奉者たちの彼の手腕に対する確信を示しているにすぎません。何年にもわたる征服と不屈の成功の日々が、取るに足りない辺境の族長を、自分が強大な帝国の力に抵抗できると半ば思わせるようになっていたのでした。この首長がそうした態度をとるようになったことは大変残念なことでした。彼がイギリスとの友好を選んでいたなら、今頃イギリス政府との強固な同盟を背景にして、チトラルとペシャワル渓谷の間のすべての土地の専制的支配者だったかもしれません。

 

 

騎馬隊が速やかに騎行して放棄されたムンダの砦を占領したとき、慌ただしい逃走の痕跡はすべて明白でした。帳簿と穀物はばら撒かれており、台から降ろされた大砲は門に置かれ、すべてがめちゃくちゃになって、ひっくり返っていて、唯一人みすぼらしく醜い白痴だけが残っていました。散らばっていた紙の中からかなり興味深いものが見つかりました。一枚は戦いの前のマラカンド峠の頂上で、あるムラー[2]が書いたものでした。曰く:“私達は私達の下の平野で野営している豚の息子、異教徒どもを見ています。その数は非常に少なく、私達はそのすべてをたやすく地獄に送ることでしょう。私達の側には一万二千から五千人のガジたちがいます、そしてその場所はサンガーで十分に強化されています。明日かその翌日、私は閣下に不信心者が絶滅したことをお知らせする栄誉を得ることになるでしょう。」/等々。名誉あるムラーが次の数日を上スワットに対して前言を撤回するために費やしたことはまず間違いありません。そうでなかったとすれば、おそらく彼の骨は今マラカンドにあることでしょう。

 

ムンダ砦で発見されたもう一つの興味深い文書は、ボンベイにあるスコットランドの会社からウムラ・カーンに全ての高級な武器と弾薬の提供を申し出るものでした。3,700ルピーのマキシム機関銃から34ルピーのリボルバーまで。幸いなことに当時ペシャワルの副弁務官であったディーン少佐が機敏に介入して、この愛国的な会社の善意の意図を挫折させていました。問題の会社は、自らとそれが提供する人類への利益をカイロに移すことが得策であることを悟りました。他の多くの手紙も立ち去った首長の影響力がどれほど広く及んでいたかを示していました/自発的なものであろうとなかろうと援助の申し出の数から彼の指揮下の総兵力は30,000人以下ではなかったことが判明しました。すべてが何らかの方法で武装しており、最近ではイングランドの女王陛下の所有物である後装銃がかなり混じっていました。

 

ウムラ・カーンが最後に抵抗し、戦域から永久に姿を消したのは4月17日のことでした。ちょうどその同じ日、チトラルの駐屯部隊は、第14シーク隊のハーレー中尉に率いられて見事な出撃を行いました。そのすべての顛末は後の章に記します。4月18日の夜に包囲は解かれ、シェール・アフズルとその全軍は丘に逃げました。ここでこの将軍と1,500人の兵士は巧みに捕らえられ、捕虜としてディリに連行されました。

 

私たちの最近の戦争の歴史には、これほど注目すべき全面的な成功の例はありません。救援部隊の動員が命じられた日からちょうど一ヶ月の間に、遠征の主要な目的が達成され、遍在する多数の敵の部隊すべてが打ち負かされて分散し、重要な首長の全員が私たちか、私たちの味方であるアミールの捕虜になったのです。疑いもなく私たちの側にあった軍事力と組織の優位性を脇に置いて―しかしその際、スーダンとケープはどちらも決然としたとした野蛮人たちの抵抗に遭わなかった事例であることに注意するべきでしょうが―この目覚ましい成功につながった主な原因を調査することは良いことでしょう。手短に言えば、この結果は次の三つの主な原因によるものということになります:救援部隊の迅速かつ成功した動員/スワット、パンジコラ、そしてジャンドル渓谷での敵の圧倒的な敗北/そして、北からのケリー大佐の小さな縦隊の頑強で決然とした前進。また、圧倒的な不利に対して必然的にほとんど耐えられない立場に置かれた駐屯部隊の頑強な抵抗を忘れてはなりません。それこそが攻囲兵の気勢を完全に下げ、救援縦隊の接近によって得られた実際の成果への道を開いたのです。実際、それは健全な原則に基づいて行われ、素晴らしい全体の連携によって成功に導かれた戦争のゲームでした。

 

 

写真:司令部キャンプ、ディリ

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二個の縦隊が出発しなければならなかった基地がどれだけ離れていたか、およびそれぞれがどれほど大きな物理的困難を克服しなければならなかったかを考えるなら、軍事研究者はこの計算の結果がどれほど素晴らしかったかを高く評価することでしょう。ウムラ・カーンは外線に対抗するために内線で行動していたので、もし不味い攻撃をしていたならば、彼は最初にケリー大佐の弱い縦隊に対して全軍を投じて、ほとんど脱出不可能な隘路に閉じ込め/次に勝利に意気上がった軍隊とともにすでに強く圧迫されて食料が不足しているチトラルの小さな駐屯部隊のもとに押し寄せたことでしょう/そして、背後の十数部族のモハメダンの狂信を最高潮に掻き立て、振り返ってロバート・ロウ卿の下の主縦隊を攻撃したであろう、ということは想像に難くありません。遠征の最終結果がウムラ・カーンの望むようなものにはならなかったことは疑いありませんが、見返りにいくつかの目覚ましい成功を収めていたことでしょう。たまたまシェール・アフズルを捕虜としてインドに護送することが筆者の任務の一つとなりました、そして彼との会話からそれが主にウムラ・カーンが実際に考えていた遠征計画であって、そして彼はただ救援部隊の行軍を指揮した優れた連携と戦略的技能によってのみ挫折させられたのであったことが明らかになりました。

 

いまや急ぐべき理由はなくなりました。ケリー大佐は4月20日に抵抗を受けることなくチトラルに到達し、勇敢な防御者たちと最初に握手しました。ガタクレ将軍の指揮するロバート・ロウ卿の先頭旅団は、まだ雪が深いロワライ峠を越えるラバの道の建設にとりかかっていました。また基地から遠く離れた大部隊に補給をするという困難な作業を不必要に長引かせる必要はないことを自ら確かめるため、数人の兵士がチトラル渓谷へ行軍しました。遠征は彼女の軍隊の勇敢さに感謝することをことに決して忘れないビクトリア女王陛下のみ恵み深いメッセージによって終了しました。一方、最高司令官のジョージ・ホワイト卿の心のこもった軍人らしいメッセージによって、克服するべき困難と過酷な苦難を陽気に耐え抜いた部隊のすべての兵士は、それをよく知っている人に自分の勤務が高く評価されたと感じました。

 

広大な面積の帝国である大英帝国は必然的にすべての種類の気候や地域を擁するため、英国の兵士、およびその友軍、インド軍の仲間はあらゆる程度の気候とあらゆる性質の国で勤務することに慣れています。この簡潔で華麗な遠征において、おそらくこうした多様な条件があらんかぎり出現していたと断言できます。猛暑と刺すような寒さ、土砂降り、雪と雹で何も見えなくなる吹雪/登るべきは世界で最も高い山岳地帯、渡るべきは広くて深い、油断のならない力に驚かされる川でした。頑丈なイギリスの兵士とがっしりしたインドの戦友はそのグレートコート(*厚地の大外套)と荷の毛布とともに、これら数多くの難局に直面して男らしい陽気な敏速さで並外れた困難を克服し、陸と海で途方もない不利に立ち向かう準備ができていて、慣れています。

 

そして、イギリスの遠征においては名を上げたり英雄的行動をしたりする人物が出ないことは稀であり、成功した将軍の歴史的な名簿にロバート・ロウ卿、ビンドン・ブラッド将軍、ウォーターフィールド将軍の名が記載されることになったことも例外ではありません。一方で、ケリー大佐の輝かしい武勲はその名を永遠のものとしました。しかし、それ以外の全ての行動の中でおそらく最も兵士の心に訴えたのは、1895年4月17日のハーレーと指揮下のシーク隊の勇敢で華々しいチトラルからの出撃でした。それは決死のものでしたが成功したのです。

 

脚注

[2]僧侶、しばしば往時のヨシュアのような冒険的タイプの聖職者である

 

 

写真:ジャンバタイ峠のR.ロー卿とスタッフ。

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第VI章   チトラルの防衛

 

 

今やチトラルは救われました/長い間閉ざされていた英国人将校との連絡が再び確立され、ようやく必死の防衛と、チトラル人が反乱を起こして以来起こったすべてのことを報告する手紙が届きました。

 

最初の章の終わりで中断したところからまた物語を始めます。その後チトラル人は突然ウムラ・カーンへの抵抗をあきらめ、ウムラ・カーンと同盟を結んだシェール・アフズルに加勢しました。そしてチトラル砦に立てこもった英国人将校に対して前進してきました。

 

3月3日の午後4時30分頃、チトラル砦にいた英国人将校はシェール・アフズルが大兵力とともに接近している、というニュースを受け取りました。中央インド騎兵隊所属で、そのときカシミール帝国軍部隊(*Imperial Service Troops:英印軍に協力するために藩王国が出すことになった軍隊)の査察官であったコリン・キャンベル大尉が目下チトラルにいる部隊の指揮を執っており/そして夜遅くのことでしたが、チトラル軍の戦力と意図を確認するために強力な偵察隊とともに出かける必要があると考えました。イギリス軍とチトラル軍との間の敵対行為はまだ始まっていませんでした。また、砦に向かって大規模な軍隊が前進してきたため、イギリス軍の駐屯部隊は気付かれないようにあらゆる予防策を講じる必要がありました。キャンベル、タウンゼンド、ベアード大尉指揮下の二百人のカシミール歩兵隊にイギリス軍エージェントのロバートソン外科医少佐、ガードン中尉、およびホイットチャーチ外科医大尉が同行し、チトラル側の配置を偵察するために砦から出発しました。チトラルには通常の町はありませんが、単なるメータルの住居である要塞の周りの谷には小さな集落がいくつか点在しています。そして谷に約三マイルにわたって耕作地が広がり戸建ての家が点在しています。これらの耕作地は右岸の高く急な丘の斜面から緩やかに川へと続く傾斜した土地にあります。

 

五十人の兵士を砦から四分の一マイルのセライに残し、ガードン中尉と同行するベアード大尉指揮下の分隊を切り離して、キャンベル大尉とタウンゼンド大尉は右岸の山腹を登り、谷を一マイル半下ってある家に向かいました。そこにシェール・アフズルが陣を敷いたと言われていたのです。家に到着すると、シェール・アフズルはそこにいないことが判明し、タウンゼンド大尉は谷をさらに下り、その間にベアード大尉の側面隊はさらに二十五人の兵士によって補強されました。シェール・アフズルが占領していると思われていた家の500ヤード先の集落の樹木や家の間を多くの男たちが移動しているのをタウンゼンド大尉は見ました/そして、ベアード隊が登っていた山腹には、数百人のチトラル人がいました。その山腹からは今や銃撃が開始され、タウンゼンド大尉は前方の集落を移動していた男たちは敵であったと結論づけ、分隊の一斉射撃で銃撃を開始しました。すぐに応射がありました。敵はマティーニ・ヘンリー・ライフルとスナイダー・ライフルで武装しており、タウンゼンド大尉によると射撃の腕前は最も優れたものでした。敵の中には数百人のウムラ・カーンの部下がおり、私たちのインド軍の恩給受給者によって教練され、鍛えられていました/そして実際、今やチトラルへと進撃して来ている軍隊の中にはこうした恩給受給者が多数いたのです。

 

タウンゼンド大尉は畑を囲む巨礫と低い壁を利用して部下を可能な限り遮蔽物に隠れさせ、集落から200ヤード近辺へと前進しました。ここで正面に遮蔽物がなくなり、部下の多くが撃たれました。そして前進中の村は壁や銃眼から絶え間なく発砲してくる男たちでごった返しているのが見えました。彼と一緒にいた百人の兵士、英国のベテランの軍隊ではなく、使い古されたスナイダー・ライフルで武装した経験の浅いカシミール軍とともに、壁の後ろに陣取った、数で勝り、より良く武装し、より経験豊かな軍勢に向かって前進することは不可能でした。そこでタウンゼンド大尉はベアード大尉が丘の斜面沿いに西側に移動して村を回り込むまでは後退せず、ベアードがこれを行ったときにタウンゼンド自らが前進してその正面を攻撃することを決定しました。

 

しかし時が経っても、タウンゼンドはベアードが彼の側面を進んでいる兆候を見ることができませんでした。一方、敵の小隊は両翼で彼の隊を回り込み、縦射を始めました。彼の陣地は今や防御できなくなっていました/時間は6時半で、間もなく暗くなるため、直ちに何らかの決定的な行動―前進または退却のいずれか―をとる必要がありました。この重大時にキャンベル大尉が到着し、村を襲撃するよう指示しました。援軍の命令が出され、継続的に繰り返されましたが後方の兵士は来ませんでした。そこでキャンベル大尉は援軍を連れてくるために戻り、その間タウンゼンド大尉は突撃のために銃剣を装着し、独自の激しい銃撃を続けていました。この間ずっと支援部隊は後方150ヤードの低い壁の後ろにいました。キャンベル大尉はその中から十数人の兵士を連れてくることに成功し、そして先進部隊に再び合流すると同時に膝を撃たれて倒れました。カシミール軍のジャガット・シン大佐は、その後、さらに多くの兵士を連れてくるために戻りましたが、一人か二人しか連れてこられませんでした。そこで、更なる支援を待つのは無駄と知ったタウンゼンド大尉は部隊を回って、突貫して家々を占領しなければならない、と告げ、そして突撃しました。

 

百人の小さなパーティーが隠れていた土手から這い上り、その前にある強力に防御されている村の攻撃へと前進しました。それは必死の冒険でした、なぜなら敵は人数や装備に勝っているだけでなく、遮蔽物の後ろから発砲しており。イギリスが攻撃させなければならなかった部隊はその距離すべてにおいて銃撃にさらされる200ヤードの開放空間を越えて前進しなければならなかったからです。そして彼らは戦闘を経験したことのない兵士たちでした。タウンゼンド大尉はハルツーム救援のために派遣された遠征軍に勤務し、ハーバート・スチュワート卿とバーナビーが命を落としたグバトとアブ・クレアの戦いに参加し、1891年には鋭敏で小規模なフンザ作戦に参加しましたが、それまでその土手を這い上った時ほど激しい銃火にあったことはなかった、と私に語りました。カシミールのバジシン将軍は優れた老兵士で紳士であり、常に戦いの真っ只中にいることを熱望しており、その熱意が今や正しくはより後方にいるべきであった彼を前に導いたのでしたが、彼はタウンゼンド大尉の傍らで撃たれて倒れました。また別の勇敢な老カシミール将校、ビカム・シン少佐は反対側で致命傷を負いました。指導者たちが倒れ、世界で最も優れた軍隊ですら立ち向かうのが困難なひどい銃火に直面して、未熟なカシミール歩兵はもはやその前に立っていることはできませんでした。彼らは銃火に徐々に尻込みし、石のうしろにしゃがみ込み、タウンゼンド大尉は自分がどれだけ頑張っても攻撃を放棄した兵士を敵陣に突撃させることは不可能であると悟りました。そこで兵士にさっき出てきた壁の後ろに戻るよう命じました。

 

事態は今、非常に深刻な転機を迎えていました。英国人将校たちはほんの一握りの意気消沈した兵士たちとともに砦から二マイル近く離れて、数で圧倒的に勝る高揚した敵に直面し、全周を包囲され始めていました。砦への退却が始まり、キャンベル大尉はひざに大変な重傷を負っていたにも関わらずポニーに乗り、兵士たちが整然と落ち着いているための手助けをしました。司令官の命令で兵士たちは雫が垂れるように一人ずつ後方に下がり、部隊の残りは敵を遠ざけるために激しい銃火を放ち続ける、というこの苦しい作戦行動をパーティーは交互に成し遂げました。パニックや混乱の発生を防ぐため、タウンゼンド大尉は常に最後のパーティーに同行しました。こうしてパーティーは砦から一マイルほど離れた家に到着し、以前に退却した兵士をロバートソン氏がそこに集結させていたことが分かりました。そして今や庭の壁や全方面の家に並んだ敵からの激しい銃火の中をロバートソン氏が退却の支援のためにハーレー中尉のシーク隊員五十人を呼びに砦に馬で戻る間、ここで短い抵抗がなされました。

 

今やかなり暗くなり、敵はタウンゼンド大尉の部隊に前方、側面、後方から、あらゆる集落や壁から発砲していました。チトラル人とパシャン人は、イギリス人との最初の会戦の予期せぬ成功に興奮し、熱狂の渦に巻き込まれて、女性たちさえも退却した軍隊に石を投げつけました。手探りで道を探し、友軍を敵と区別することすらできず、タウンゼンド大尉は暗闇に銃火で光る壁の間を通り抜けて部下を砦近くのセライまで連れて行き、そこで退却支援のために出てきたハーレー中尉指揮下の五十人のシーク隊員に出会いました。カシミール軍が砦に退却する間、ハーレーとベテラン軍人たちはパレードのように落ち着いて、周囲のすべての興奮のただ中にあって穏やかで動じず、弾の嵐の中を引き返しました。それから彼と部下たちはそのときも密集した敵が分厚く取り囲んでいた壁の中へとゆっくりと退却しました、そして包囲が始まり、長い昼とうんざりする夜が四十七日間続いたのでした。

 

しかし将校がたちが壁の中に到着したとき、二人が行方不明であることが分かりました。ホイットチャーチ医師とベアード大尉もまだ到着していませんでした。ベアードがひどい怪我をしていたことが知られており、彼とホイットチャーチの運命が深く憂慮されていたとき、8時ごろ、よろめきながら壁から出入口へと向かうホイットチャーチが見られました。ベアードを支え、半ば抱えていました。戦闘の開始時に、約五十人の兵士を伴ったベアードは敵の側面に回り込むために右翼に送り出されていました。部下の一握りの兵士と、傍のガードン中尉と共に彼は渓谷を見下ろす険しい岩山の斜面を登りました。攻撃側のパーティーは先進と支援パーティーに分けるべきであるというのは、一般に受け入れられている戦争の原則であり、今やこの原則が実行されていました/しかし熱意を特徴とするベアード大尉は支援パーティーには残らず、自分ら先進パーティーを率いること決心しました。またガ―ドン中尉はベアードと一緒に先に行くことを熱望しました。彼は政治将校であり、偵察における軍事的能力をまったく持っていなかったのです。そこで二人の英国人将校は共に先進パーティーと同行することに合意しました。

 

しかし山腹には何百人もの敵がいて、苦労して上り道を進んでいた小さなバラバラのパーティーに発砲し石を投げつけました。ベアード大尉は腹部に致命傷を負い、他の多くの部下も撃たれ、パーティーは撤退せざるを得なくなりました。ガードン中尉は負傷した仲間を保護するために長く留まることができませんでした。彼は部下を集めて本隊へ退却させなければならなかったのです。

 

ベアードの不運のニュースはホイットチャーチ医師に伝えられました、そして、まだ全体の退却は行われていなかったため、彼の帰還を助けるための小さな護衛隊が遣わされました。ホイットチャーチ医師はベアードのためにできることはすべてしたのです/しかし、今や暗闇が近づいており、私たちの軍隊は退却中であり、敵は全方向に群がっており、砦への撤退さえ脅かされていたことがわかりました。ホイットチャーチは一ダースほどのセポイを集め、負傷した将校を砦に連れ戻すために出発しました。敵が彼と本隊の間に侵入し、砦に向かう途中の家や庭の壁から発砲していました。直通の道がこのように封鎖されていたためホイットチャーチ医師は三マイルの回り道をしなければなりませんでした。彼らは道中においてほとんどずっと銃火にさらされていました。彼らを救ったのが暗闇でなければ何だったのでしょう。ホイットチャーチは何度かその重荷を下に置く必要があり、そして彼が集めた兵士を率いて突撃して敵を壁から追い出し、道を切り開く必要がありました。それから彼は戻り、ベアードを再び担ぎ上げて移動するのでした。パーティーの数人が殺されました―暗闇と混乱の中で彼のパーティーの正確な数を確認することは不可能だったので何人が殺されたかは正確に分かりませんでした―そして彼らが砦に到達して、あと数分で安全が確保されるというちょうどその時、ベアード大尉は三度目の被弾で顔に負傷しました。ホイットチャーチ医師と勇敢なカシミール部隊はその献身と武勇によってその傷ついた仲間を見捨てることなく、彼を他の英国人将校たちの元に連れ帰ったのでした。実際のところ彼は翌朝死亡したのですが、その仲間の将校たちに看取られることができたのです。そして最後の荘厳な儀式とともに埋葬されたのでした。

 

「ホイットチャーチについて控えめに書くことは困難です。」とロバートソン医師はこの行動を政府に報告しました。そしてビクトリア十字賞獲得者たちも、今回のホイットチャーチ外科医大尉の場合ほど勇敢にそれが勝ち取られたことはないと言っています。

 

この日の戦闘における総損失は、200人の中で実際に交戦した150人のうち二十三人の死亡、三十三人の負傷でした/そして、その成功に応じて意気が上がった敵に対して英国人将校がチトラル砦の防御を開始したとき、その心は勇敢な仲間の翌朝の死を悲しんでおり、新造のカシミール連隊は深刻な損失に落ち込んでいました。

 

チトラル砦は八十ヤード四方で、壁の高さは二十五フィート、厚さは約八フィートです。各コーナーには壁より約二十フィート高い塔があり、北面の外側の川べりには水場への道を守るための五番目の塔があります。東面には140ヤードの広さの庭園があります。南東の塔から四十ヤードのところにサマーハウスがあります。北と西の面には厩舎と他の離れ家がありました。

 

要塞は粗製の石積みを合わせて建てられており、いかなるセメントやモルタルも使われていません。縦横の木の梁の架台が石積みをまとめるように配置されています。この木の枠組みがなければ、壁はバラバラになってしまいます。

 

それはチトラル川の右岸、水辺から四十〜五十ヤードのところにあります。そして谷底の上に聳える山は川に迫っているため、マティーニ・ヘンリー・ライフルやスナイダー・ライフルの射手によってほとんどすべての側面を見渡されていました。砦は水運を管理する目的で置かれており、その建設時には土地の人々は後装銃を所有していなかったため砦を銃撃することはできませんでした。

 

包囲された砦の駐屯部隊の戦力は、第14シーク隊の99人、カシミール歩兵隊の301人で、以下の英国人将校がいました。ロバートソン外科医少佐、英国エージェント/C.V.F.タウンゼンド大尉、中央インド騎兵隊、イギリス・エージェントの護衛を指揮、砦の指揮官/ガードン中尉、イギリス・エージェントのアシスタント/H.K.ハーレー中尉、第14シーク隊/ホイットチャーチ外科医大尉、第24パンジャブ歩兵/キャンベル大尉、中央インド騎兵隊(重傷)。

 

 

写真:チトラル砦、南から

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11人の従者と27人の使用人、16人のプニヤ徴集兵、12人の現地吏員とメッセンジャー、7人の兵站と輸送従事者、52人のチトラル人がおり、砦の中の総員は543人になりました。砦のすべての人の配給を半分に減らすならば、物資は約二か月半分ありました。シーク隊のマティーニ・ヘンリー・ライフルには一人あたり300発の弾薬があり、カシミール歩兵隊のスナイダー・ライフルには一人あたり280発の弾薬がありました。

 

3月4日、敵は一日中砦に向かって発砲することでイギリス軍に対する攻撃を本格的に開始しました。この日、今やキャンベル大尉が負傷してベッドから出られなくなっており、砦の指揮をとっていたタウンゼンド大尉は防御のための適切な措置を講じ始めました。事態が急速に危機に向かったため、砦を取り囲んでいる離れ家などの取り壊しを行うことができなかったのは、最も不幸なことでした。しかし、彼の最初の責任はこの必要な作戦を実行するために最善を尽くすことでした:仕事の多くが銃火の下で行われなければならなかったとしても、できる限りすべての庭の壁と家を倒す必要がありました。そうすることにより敵がそれらを占領し、拠点として砦の壁ギリギリまで接近してくるのを防ぐことができるのです。現在、攻城兵は砦の南東の角にあるサマーハウスを占領することに成功していました。これは角の塔から四十ヤードしか離れていません。砦は非常に高い樹木に囲まれています。それは敵を覆い隠すだけでなく、彼らが登って、その高い枝からまさに砦の中を銃撃することが可能だったかもしれません、これは新たな危険因子でした。

 

 

写真 ファン・デル・ウェイデ、 リージェント・ストリート

C.V.F.タウンゼンド少佐、ビクトリア十字章

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タウンゼンド大尉はまた川に降りる道を効果的に守る策を講じなければなりませんでした。要塞内に使用可能な井戸がないため、駐屯部隊が必要とするすべての水は川から入手しなければなりませんでした。川は砦の北面に沿って流れ、その道を塔が守っていましたが、この冬のシーズンには水位が低く、塔のドアと川の間には三十ヤードほどの距離がありました。したがって塔のゲートから水場までの遮蔽のある道を構築する必要がありました。

 

一日中砦に降り注いだ丘の斜面からの銃火の影響を緩和するため、タウンゼンド大尉はいくつかの配置を工夫する必要がありました。板と、木の梁、ドア、ラバの鞍、箱、土嚢が、胸壁から発砲した兵士の背中を保護するための背土として積み上げられました。しかし内部の全てを敵の銃火から守るのに十分な硬い素材はありませんでした。そこで完全な防御ができない場所では、視界の遮蔽をすることになりました。つまり言わばカットアップ・テント、カーペット、カーテンを通路や出入り口に掛けて人が通るところを敵に見られないようにしました。彼らがこれらのテントやカーペットに発砲した場合、もちろん弾丸はそれらを通り抜けますが、いつ誰がその後ろを通過しているか分かりません。したがって、彼らにとって単に通りがかりの人に当たる可能性があるだけのこうしたスクリーンに発砲し続けることはほとんど意味がありません。包囲側が兵士が駐留していることを知っている胸壁については、タウンゼンド大尉は木の梁などの十分な防御を手配しました/残りについては視覚的保護に役立つスクリーンを使いました。包囲の開始後数日間、英国人将校の第一の関心事はこれらの措置でした。

 

3月7日の夜、敵は水場への道に対して果敢な攻撃を行いました。包囲側はチトラルのような砦の攻撃技術に良く精通していました。その中には数百人のウムラ・カーンのジャンドル人が数百人おり、彼らは全生涯を通じてチトラルと似たような砦の包囲と防御に従事してきたのです。それゆえ彼らは駐屯地をその水供給から切り離すことの重要性をよく知っていました。そしてこれは常に彼らが試みる最初の手段です。彼らは暗闇に紛れて、砦の北西の面の木から強力で持続的な銃撃を始め、水場の塔に入るために兵士たちのパーティーを送りだしました。彼らは実際これに成功し、少数の者が薪を運んで塔の内部に置き、それに火をつけて建物全体を焼き尽くそうとしました。しかし、駐屯部隊はしっかり警戒態勢をとっていました。兵士たちは常に警戒区域で寝ており、皆が素早く自分の場所についたのです。その後、攻撃側に対して十分に統制された銃撃が開始されました。タウンゼンド大尉は夜間の自由射撃を許さず、一斉射撃のみを用いるよう指示していたのでした。敵の攻撃は撃退され、水汲み人たちが水辺の塔に送られて素早く火を消し止めました。

 

兵士を保護するための見事な手筈のおかげで、包囲の最初の週末に死傷者は五人に留まっていました。しかし現在、使用に耐える第14シーク隊のライフルは八十丁、カシミール歩兵のライフルは200丁しかありませんでした。また後者は3月4日の偵察における深刻な損失に大きく動揺していました。彼らは新しい連隊であり、その戦闘で初めて銃火をくぐり、そして将軍と少佐を失い、実際に交戦した合計250人のうち五十六人が死傷したのです。この兵士たちが先の見通しについて悲観することは不思議ではありませんでした。包囲は長くなる可能性が高く、兵士に配給できる糧食は半量だけでした。その状況下でタウンゼンド大尉は部下の資源とエネルギーを節約し、彼らを可能な限り注意深く見守り、元気づける必要があることを明確に理解していました。

 

すでに詳述されているものに加えて、以下の手配がなされました。最初に砦のチトラル人を監視し、彼らが包囲側と通信するのを防ぐために砦の警察が設立されました。このチトラル人の中にはイギリスに忠実ではなく、そして何よりも危機が来たときに敗者になりたくない者が大勢いました。したがって砦の外の友人とコミュニケーションをとらないよう注意深く監視する必要がありました。第二に、消火システムが整えられました。水運搬人はムサック(皮袋)に水を満たした状態で眠るように命じられ、弾薬箱と目につく限りのすべての容器も水で満たされ、すぐに使える状態に置かれました。火事による事故を監視するために、昼夜通してパトロールが行われました。砦の内側には大量の木部があり、壁や塔が石と等量の木で造られていたため、これらの予防策は特に必要でした。第三に、できる限りの衛生的な手配がなされました。第四に、従者、将校の従僕、その他の非戦闘員からパーティーが組織され、水を運ぶ、火を消す、解体を行う、防火壁を築く、そして彼らにできる他のあらゆる種類の仕事で正規兵を助けました。第五に、粉挽き用の挽き臼が作られ、皆が均等にこの仕事に割当てられました。最後に、タウンゼンド大尉は救援部隊がまもなくやって来ることをすべての兵士の心に浸透させ、その後彼らは打って出て敵を追い払うことができたのでした。

 

防衛の仕事は実質的に三人の将校―タウンゼンド大尉、ガードン中尉、ハーレー中尉―のみに委ねられました。ロバートソン外科医少佐は休戦の旗の下で彼の政治的任務に従事し、敵の治療と対応に当たりました。キャンベル大尉は負傷していました。ホイットチャーチ外科医大尉は医療業務に完全に専念していました。したがって防御に際して三人の将校は船上と同様に、それぞれ四時間の監視を担当しました。それぞれが別々に四時間勤務しては八時間休み、その後また四時間勤務します。理論的には八時間の休憩がありましたが、実際には攻撃の警報と砦に関して行われるさまざまな追加作業によって休憩時間は四時間、勤務時間は八時間であることがわかりました。配給量は半分しかなく、服を脱いで寝ることはできませんでした。彼らが睡眠をとれたのはほとんどが昼間のことであり、それでもすべての衣服を着て、通常ベルトをしたままでした。しかし、将校たちが耐え抜かなければならなかった仕事と必然的な不安にもかかわらず、包囲が終わって一週間後に私たちが砦に着いたとき、セポイたちは彼らが不安の表情を見せたことはなかった、と語りました。それは驚くべき事実でした。実際、タウンゼンド大尉と部下の将校たちは心中に何を感じていようとも、部下の前では陽気で元気な姿を見せることを決して忘れず、防衛の成功は少なからずこのことにかかっていたのです。シーク隊は、気力を維持するのに十分なバックボーンを持っていました/彼らは包囲の前に交戦で損失を被っておらず、彼らの多くは沢山の辺境戦争を戦ったベテラン軍人であり、その現地将校はスーダンの遠征でマクニールのザレバでの激戦に従軍していました/しかしカシミール軍は若く、経験不足であるにもかかわらず、今すべてにおいて兵士の最高の資質が必要とされる立場に置かれたのです。そして特にこのためにイギリスの将校は自信と希望を鼓舞することができなければならなかったのでした。

 

タウンゼンド大尉は、機会が生じ、時間に余裕があるときはいつでも、砦の主壁の外側にある壁を破壊する作業を続けました。彼はこれにプニヤ人を用いました、そして彼によると、彼らはそれを驚くほど迅速に実行したとのことです。彼らは壁の外を腹ばいで移動し、砦の周りに巡らされた薄い壁を角材で叩き壊しました。仕事が行われている間、敵は絶え間なく発砲してきましたが、誰にも当たりませんでした。シェール・アフズルが住む家にも一日三十発の銃弾が発射されました。それは彼を煩わせ、駐屯部隊が眠っていないことを悟らせるためでした。夜に攻撃が行われ、発砲がなかった場合、包囲の最初の二~三週間に費やされた弾薬の平均量はマティーニ・ヘンリー銃四十~五十発、スナイダー銃二十~三十発でした。夜の攻撃を防ぐため、砦の壁のすぐ外側の地面を照らすための手配が必要でした。初めは樹脂で固めた木片を灯油に浸してつくった玉に火をつけ、壁に掛けていました。しかし、この方法を毎晩実行するには十分な資材がありませんでした/そこで防御側は壁から外へ突き出したプラットホームを構築するというより良い計画を採用しました。この照明は砦の近くの地面を一晩中照らし続けます。

 

3月13日~14日の夜に、敵が東面を攻撃しました。この東面はたくさんの大きな木のある庭です。彼らは進軍ラッパを鳴らし、大声で叫び、トムトムを打ち鳴らし、前進攻撃に際してまとまりのない銃火を放ち続けました。駐屯部隊は彼らを激しい銃火で迎えました、そして、彼らが繰り返し水場への道を攻撃するよう叫んでいるのが防御側には聞こえましたが、彼らは徐々に元のラインへと逃げ帰りました。敵がまだ水場への道を攻撃するつもりであることがわかったため、タウンゼンド大尉はゲートのすぐそばの厩舎を占領し、銃眼をつくって川への通路をさらに強化しました。

 

3月15日にシェール・アフズルから手紙が届きました。その中で自称メータルは述べました、弾薬輸送隊を護衛する部隊がレスンで包囲され敗北した、そしてさらにマストゥージから下ってきた英国人将校も捕虜になった、彼がロバートソン医師宛に手紙を書いたので、イギリスのエージェントが誰かを受け取りに来させるならシェール・アフズルが手渡すであろう。これはロス大尉とエドワーズ中尉とファウラー中尉のパーティーの遭難のニュースでした。しかし、チトラルの将校たちはそれを信じることを拒否しました。しかし翌日、3月13日にエドワーズ中尉がレスンから書いた手紙が届き、その中で彼は自分のパーティーに対する攻撃と、自身が要塞化した場所から出ることができなくなっている、というニュースを伝えました。

 

3月19日、三百人のジャンドル人を伴って、包囲の間中シェール・アフズルと一緒にいたウムラ・カーンの副官、アブドゥル・マジッド・カーンは、ロバートソン医師に手紙を送りました。曰く、彼は平和がもたらされたことを告げるためにメッセンジャーをレスンに送ったが、大変遺憾なことに戦いが起こり、二人の英国人将校と九人のモハメダン・セポイが捕虜として捕らえられた、明日チトラルに到着するであろう。3月20日エドワーズとファウラー中尉はチトラルに到着し、同日遭難があったことは間違いないことを防御側に確認させるため、駐屯部隊の現地吏員が彼らに会うことを許可されました。

 

この不幸な出来事のニュースは駐屯部隊を大いに意気消沈させました。彼らはそれがチトラル人の意気を大いに上げるだけでなく、自分たちに対して使用されるであろう大量の弾薬と工作資材がその手に渡ったということを知っていました。しかし、タウンゼンド大尉は防御を成功させるための彼の努力を決して緩めませんでした、そして続く数日の休戦の間でさえ彼は防御のために絶え間なく働き、水場への道の遮蔽を強化し、水用のドアの外側に半円形の銃眼のあるフレッチェ(*突出部)を構築しました。

 

今や食料は不足しており、将校たちは馬肉を食べ、ポニーを殺して塩漬けにすることを始めなければなりませんでした。続く数日間は土砂降りの雨が昼も夜も降り続けて砦の壁に大きなダメージを与え、西側正面の胸壁の大きな一部分が沈み込み、夜に駐屯部隊が角材でそれを再建するために多くの作業を要しました。

 

3月29日、南西の最も高いタワーの最上部にセポイのターバンなどの赤い布で作られたユニオンジャックが吊り上げられました。そしてその時から運が変わり始めたと駐屯部隊は考えています。すべての塔に上部の遮蔽が改良されました。水場へのゲートから遮蔽された水場への道を行く人々を守るため、厩舎に角材が設置されました。水場の塔の上部も強化され、その最下階には銃眼が開けられました。アスマーのウドニー氏にメッセンジャーを送る試みがなされましたが、敵が非常に注意深く見張っていたため彼は帰還を余儀なくされ、包囲中に駐屯部隊は一度も外界と通信できませんでした。

 

3月30日に手元にあった弾薬の量はマルティニ・ヘンリー銃の29,224発でした―すなわち八十二人の実員セポイと十四人のシーク隊員の一ライフルあたり356発。これに加えて、カシミール歩兵隊の実員261人の兵士にスナイダー銃の弾薬が68,587発ありました―すなわち、一ライフルあたり262発。現在、合計343のライフルが使用可能でした。これらによってその後の防衛と監視に備えなければなりませんでした:―

 

正門                   10

胸壁                   40 (各胸壁に10)

水場       警戒隊         20

同上       塔           25

厩舎       警戒隊         20

水場へのゲート  見張り         10

見張り  対象  アミール・ウル・マルク  6

同上   同上  夜間のチトラル人     4

同上   同上  弾薬           6

同上   同上  庭のゲート        6

同上   同上  4つの塔        24

                     ――

                  合計171

 

したがって出撃に使用できるライフルは172丁だけでした。見張りの戦力は安全を維持できる最小の数に減らされており、172丁のうち、少なくとも三十五丁が予備戦力として必要でした。駐屯部隊は現在、45,000ポンドの穀物を保有していました。1日540ポンドとするなら砦にいる人数は74日、または6月13日まで持ちこたえられる量です。ある程度の損耗は考慮に入れておかなければならないでしょう。現地兵士がとても欲しがる透明バターは三十六ポンドしか残っていませんでした。これは病人と負傷者のために、そして砦の見張りの灯りのために取り置かれていたのですが、それですらあと十二日分しかありませんでした。その後、人々はいつも配給を半量しか受けておらず、この透明バター以外にほとんど何も食べていなかったため、すでに大量であった患者名簿が大幅に増えたことが知られています。便所になっていた厩舎の悪臭もひどく、水場への道の途中に位置していたため、毎晩二十五人の警戒隊をそこに置く必要がありました。ラム酒が少しとお茶がいくらかまだ残っており、シーク隊には四日ごとにラム酒一口、カシミール歩兵隊には三日ごとにお茶の配給がありました。

 

敵は3月31日、川の対岸に新しいサンガーを作りました。駐屯部隊が川から水を取らなければならない場所からの距離はわずか175ヤードでした。敵は私たちの工兵のやり方に倣って一定のジグザグのアプローチを作り、溝を掘り、粗朶、石、そして土の胸壁を構築することで、彼らのサンガーの建設と防御に際して最大の技量を示しました。防御側はテントのスクリーンを設置して水場に降りる人々を隠し、敵に誰がいつ川べりまで行くかを見られないよう対策しました。対岸からのライフル射撃から戸口を守るため、水場へのゲートの外側にさらに角材が設置されました。

 

しかし、敵は対岸から水場への道に向けて塹壕を掘り進めていただけでなく、川に近い砦の北西面の低いサンガーから水場までの遮蔽された道の建設を開始しました。このサンガーは守備側が遮蔽した水場への道からたったの八十ヤードしかありませんでした。タウンゼンド大尉は厩舎の中に塹壕を掘ることにより、水場に行く人々の更なる保護を開始しました。4月5日と6日に敵は砦の南東の角で大きな活動を見せ、サマーハウスを占領しました。また正門の前、わずか四十ヤードの距離に大きな粗朶サンガーを建設しました。駐屯部隊はこの塔の下層階に厩舎の東端を見渡すための銃眼をつくることを開始し、厩舎の建物の西端にもさらに多くの銃眼が作られました。それは近接していたため、攻囲兵を大いに煩わせることができ、防御側がその前進を適切に監視できるということは彼らに非常な困難をもたらしました。4月7日の午前5時頃、多数の敵が北塔の前の木々から大量に火縄銃を発射し、遮蔽された水場への道に攻撃を仕掛けました。防御側は即座に警戒態勢に入り、シーク隊が敵に向けて着実な一斉射撃をしました。そこで彼らはキャンプを引き払ってバザールに向かいました。

 

この銃撃が西面で行われている間、敵は大きな勇気とともに、巨大な粗朶束と木のブロックを南東の砲塔の隅に山積みにして、火をつけました。やがて塔に火がつき、燃え始めました。これは最も深刻な問題でした。タウンゼンド大尉はすぐに予備兵員全員のグレートコートにいっぱいにさせた土と、手に入る限りの水を運び上げて火の上に投じさせました。当時は強風が吹いており、しばらく火の勢いは弱まりましたがすぐに再び燃え上がり、横材と塔の間の空間に炎が舞い上がりました。塔で消火を指揮していたロバートソン医師が壁の穴で負傷し、その直後にシーク隊員が撃たれました。カシミール歩兵隊の哨兵も撃たれました。合計で九人の兵士が負傷しました。四十ヤードしか離れていないところに敵がいたため、その下の猛烈な火災に土や水を投下するため壁の上や穴の中へ出ていくと撃たれる危険がありました。こうして一時はその炎を鎮めることは不可能に見えました、炎は今やすっかり塔の中に燃え広がり、もしそれを鎮められなければ塔の多くの部分を成している木造部分をたちまち燃やし尽くして塔を崩壊させ、砦の壁に強大な隙間をつくってしまったことでしょう。最終的に防御側は樋(とい)を作る計画を考案しました。それをタワーの角の穴から押し出し、内部から水を注ぐことによって下の炎に注ぐことができるのです。こうして約五時間かけて火は鎮められました。しかし壁の内側からは一日中水が注がれ続け、それを完全に外に固定するために塔の中に穴が開けられました。再びこのような事態が起こることを防ぐため、タウンゼンド大尉は壁の下の地面を監視するためにより厳重な手配を行い、カシミール歩兵隊の兵士の代わりにより訓練されたシーク隊員が歩哨として配置されました。

 

マキコリス回廊(*石落としのある回廊、塔の最上階にある)は徐々に改善され、塔の真下のすべての地面をよく見られるように内部に銃眼がつくられました、そして各回廊には常に歩哨がいました。タウンゼンド大尉はまた、大量の土を集めて胸壁の上に置き、水を満たした容器と弾薬箱を各塔のすべての階に配置しました。第14シーク隊の防水シートは水を保持する目的で利用され、すべての召使と従者はホイットチャーチ外科医大尉の下に消防警戒隊として組織されました。時々歩哨が暗闇の中に落とすために大量の石が塔の上部に置かれました。4月8日の夕方、塔のすぐ近くでいくらかの赤熱した残り火と一束の粗朶が発見されました。歩哨が交替している間に敵が駆け寄ってそれを置いたことは明らかでした。そこでタウンゼンド大尉は敵に交替時間が分からないよう、毎日違う時間に歩哨を交替するよう手配しました。その日、タウンゼンド大尉は正門の外に残った壁を取り壊しました。彼はまた、正門の前に石の銃眼のあるタンブール(*小さな木の堡塁)を建てました。これは十人の兵士を収容し、二つの塔とともにそこから西面全体を側面攻撃することができました。

 

砲塔のマキコリス回廊はさらに改善され、下の階に良い銃眼がつくられました。塔の中の床に約四フィートの深さの穴が掘られました、そして塔の南面の足部の地面を見渡すシャッター状の銃眼が作られました。これらすべてに歩哨が置かれました。現在、十四人の兵士がこの砲塔に常駐しており、将校が一人配置されていました。現在、入院中の兵士の数はシーク隊員11名、カシミール歩兵隊員19名、その他6名で、外来患者は49人、傷病者数の合計は85人となっていました。

 

4月10日から11日の夜にかけて、水場への道に大きな攻撃がありました。敵は途方もない騒音を立て、叫び声を上げ、トムトムを打ち鳴らしてして突入してきました。しかし防御側はすぐにその持ち場に飛び込み、胸壁から一斉射撃を行いました。この斉射は他の攻撃と同様、敵をバザールへ後退させ、防御側の損失は一兵の怪我だけで、この敵の最後の攻撃は打ち負かされました。翌日、敵はサマーハウスで夜にトムトムとパシャン人のパイプを鳴らし始め、合間合間に大声で悪態をつき始めました。このとき、マストゥージに向かって移動してゆく敵の大集団が見られ、駐屯部隊はギルギットからの救援部隊が接近しているのではないかと考え始めました。実際、チトラルに向かって今やシャンドール峠を越えてマストゥージに着いたケリー大佐に対抗するため、敵は立ち去ったのでした。

 

4月16日の夜、サマーハウスで絶え間なく打ち鳴らされているトムトムは坑道を掘る音を隠すためのものである、という考えが防御側にひらめき、砲塔の歩哨たちは警戒態勢をとって、ひたすら耳を傾けるよう警告されました。そして敵がサマーハウスから塔に向かってその真下まで坑道を掘り、それを吹き飛ばして砦への入り口を作ろうとしているというのは、かなりありそうなことだと考えられていました。真夜中に砲塔の下層階にいた歩哨の一人が、掘削の音を聞いたと報告しました。タウンゼンド大尉自身も行ってみましたが何も聞こえませんでした。しかし17日の午前11時頃、砲塔の現地将校が掘削の音がはっきりと聞こえた、と報告しました。そこでタウンゼンド大尉が再び行きました。坑道が作られて砦の壁から十二フィート以内に達したことは間違いありませんでした。ロバートソン医師も行って耳を傾けました/そして、両将校は、なすべきことはサマーハウスに突撃して坑道を破壊することだけである、と合意しました。対敵坑道を建設する時間はなく、敵の計画は直ちに挫かなければならなかったからです。

 

そこでハーレー中尉は、四十人のシーク隊員と六十人のカシミール歩兵隊からなる部隊の指揮を任され、以下の指示を与えられました:―「突撃に際しては一発の射撃も行わず、銃剣のみを使用すること。しかし、サマーハウスを占領した後、敵に発砲する目的で弾薬を四十発携帯すること。110ポンドの火薬が入った三つの火薬袋、四十フィートの火薬ホース、つるはし、スコップを持っていくこと。支援なしにパーティーの全員とともに建物の壁の切れ目に直行すること。その場所に突撃したなら、一部の部下にそれを保持させ、残りとともに坑道を破壊すること、支柱や木の支えがあれば引き抜き、適切と思われたならその中を爆破すること。可能であれば、一~二人の捕虜をとること。」

 

 

写真 ラファイエット、ダブリン

H.K.ハーレー中尉、DSO(*殊功勲章)

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タウンゼンド大尉はハーレー中尉と同行する現地将校たちを呼び出し、彼らに出撃の目的を説明しました。彼らが部下の下士官たちと兵士たちにそれを完全に理解させるためでした。すべての将校がマッチを携帯することになりました。一人の将校は後方に留まっていて、後ろに下がる者がいないかを見張るよう命じられました。

 

4月17日の午後4時、砦の東面の門が静かに開かれ、ハーレー中尉が先頭に立って突撃しました。サマーハウスの壁に到達する前に踏破しなければならない八十ヤードの短いスペースでさえ、彼の両側で撃たれた兵士がいました。しかし敵は不意を突かれており、ハーレー中尉とその部下が壁に到達し、それを乗り越え、彼らの真ん中に突入する前に、慌てて二―三発の銃撃ができただけでした。この予期せぬ攻撃の時、建物の中には約三十人のパシャン人がいました。彼らは庭の壁へと急いで逃げました。そしてその遠い方の端で止まり、その後ろから粗朶を投げ、この遮蔽物から建物に激しい銃火を浴びせました。ハーレー中尉は何人かの部下にこれに応射するよう命じ、そして坑道の最重要部分である縦坑を探しました。それはサマーハウスの外、庭の壁の後ろで発見されました、そして坑道の出入り口から出てきた三十五人のチトラル人が銃剣によって殺されました。

 

ハーレーが坑道の掃討とサマーハウスの保持に従事していたとき、今や完全に油断がなくなった敵は反撃の意図を持って川岸へと向かい、庭の壁の裏を伝って水場への道へと大人数で移動を始めました。タウンゼンド大尉は今、この百人もの兵士が外にいる間に攻撃が成功してしまうのではないか、という重大な不安を抱きつつ胸壁に布陣して襲撃者に絶え間ない銃火を放ち続け、その間にハーレー中尉に続けさまに三人のメッセンジャーを送りました。そして任務を急ぐように伝え、敵が彼を孤立させようとして、または水場への道を攻撃しようとして庭の周りに集まっている、と警告しました。約一時間後、ハーレー中尉は坑道内の敵を一掃し、火薬袋を降ろして坑道に入れました。これを爆発させ、作業が完了すると、ハーレー中尉は急いで砦に戻りました。彼らが退却するとき敵は庭の端から猛烈な連続射撃を継続しました。パーティーは合計で8人の死亡者と13人の負傷者を出しました。すなわち、合計100人の兵士のうち21人が死傷したのです。しかし任務は完了し、坑道は首尾よく爆破され、要塞の十フィート以内に迫った溝として露出していました。包囲軍は包囲の四十六日目において、防御側がまだ強健な攻勢をかけるのに十分な勇気と気迫を残していることを見せつけられました。それはこの勇敢な防衛の中で最も輝かしいエピソードでした。

 

 

南(砲)塔のスケッチ、チトラル砦

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しかし、防御側はその成功に浮かれたり、予防策を緩めたりすることは全くありませんでした。直ちに塔の周囲に地下の回廊が巡らされました。敵が再び坑道作戦を試みたなら、それに突き当たることを確実にするためでした。しかし今や救援は間近に迫っていて、駐屯部隊の労苦と不安はまもなく終わろうとしていました。

 

4月18日の夜、壁の外側で、内側の人に重要なニュースがある、と叫ぶ男の声が聞こえました。細心の注意とともに彼は砦に入れられ、そして将校の知人の男と認められました。シェール・アフズルとジャンドルの首長がすべての部下と共に夜中に逃げた、そしてギルギットからのイギリス軍はあとほんの二日の行程の所まで来ている、と彼は彼らに言いました。将校たちは最初、この話を信じることを拒みました。真実であるにはあまりにも良すぎるニュースのように思われました。単に敵が彼らを罠にかけて、砦を離れるか監視を緩めるようにし、彼らを不利な立場に置いて捕えようとしているのではないかと懸念しました。しかし敵の兆候が見られなかったため、パトロールが送られました。そして、敵が本当に撤退したことが明らかになったため、飢えた英国人将校たちは、まず最初に座って十分なおいしい食事をとることで解放された喜びを表しました。彼らはこれまで馬の肉でさえ節約しながら食べることしかできませんでした。しかし今や包囲が終わったので望みのままに食べることができるようになったのでした。それから彼らは眠ろうとしましたが、とても興奮していたので、それは不可能でした/そこで彼らは起きて再び食べ、最初の食事を「夕食」、二番目の食事を「早い朝食」と呼びました。翌朝の日光の下、要塞から少し遠くまでパトロール隊が派遣され、その場所全体が打ち捨てられていることが判明しました。そして翌日、ギルギットからのケリー大佐の小さな部隊が行軍してきました。

 

こうしてこの印象的な包囲戦は終わりました。「タウンゼンド大尉が示した全く見事な冷静さ、大胆さ、およびエネルギー、およびチトラルの砦の防御においてすべての兵士が示した勇気と忍耐力は」とインドの最高司令官、レディスミスの防御者、ジョージ・ホワイト卿は語りました。「英国の権力の威信を大幅に高めました。そして援助や支援からはるかに離れた敵地の真ん中の砦に閉じ込められるという窮状に対して、カシミールのマハラジャ殿下の軍隊と連合した女王陛下の軍隊の小さなパーティーが成し遂げた勇敢な防衛のこの報告書は、それを読んだすべての人々の称賛を受けることでしょう。」そして総督は最高司令官の発言を支持しました:「彼の言葉は、彼は確信しているとおり、大英帝国中の女王陛下のあらゆる臣民の深い共感を呼ぶことでしょう。敵と対峙した強固な前線、防衛の指揮において発揮された軍事的技量、包囲のすべての困難における快活な忍耐、軍隊の勇敢な振舞い、そして記録された英雄的行為と勇敢さの際立った事例がインド帝国とその軍隊の歴史に輝かしいエピソードを残したことは決して忘れられないでしょう。」総督は最高司令官と共にベアード大尉、バイ・シン将軍、ビーカン・シン少佐、その他多くの勇敢な兵士の任務遂行中の死を悼みました。女王陛下は軍隊の成功裏に終わった奮闘に対してみ恵み深い称賛を表明することを喜ばれました。評議会において総督閣下はロバートソン外科医少佐、タウンゼンド大尉、そして駐屯部隊全員が彼らに任された陣地を勇敢に守ったことに心からの祝意を表されました。そしてカシミールのマハラジャ殿下の忠実な軍隊による献身的な助力について知ることは特別な喜びである、と発言されました。

 

駐屯軍のすべての兵士には六か月分の給与が支給されました。その褒賞は戦死者の相続人にも遺族年金に追加して支給されました。ロバートソン外科医少佐はインドの星勲章のナイト・コマンダーを受勲しました/タウンゼンド大尉はバス勲章のコンパニオンを受勲し、名誉少佐に昇格しました/キャンベル大尉は殊功勲章を授与され、名誉少佐に昇格しました/ガードン中尉とハーレー中尉にも殊功勲章が与えられました/そして最後に、ホイットチャーチ外科医大尉はすべての褒賞の中で一番の憧れの的だったビクトリア十字章を授与されました。

 

第VII章   ケリー大佐の行軍

 

 

ケリー大佐が圧迫された駐屯軍を救援する行程においてどうやって非常にタイムリーに到着できたのかということを書かなければなりません。3月の初めにチトラルの情勢に関する憂慮すべき報告がギルギットに届き始めました、ここには英国の政治エージェントとこの辺境を管理し保護するために駐留している約3,000人の部隊の本部があるのです。下チトラル全体が武器をとってイギリスに対抗していると噂されており、二か月前にギルギットからチトラルへと行軍したロバートソン氏と将校たちとの通信は完全に遮断されていました。反乱の炎が広がっているように見られ、路線上のさまざまな駐屯地の分遣隊とチトラルへ行軍中のいくつかのパーティーの安全が最も重要な懸念事項となりました。ロバートソン氏はこの辺境での政治問題の指揮をインド政府から委任された英国のエージェントでした/しかし、彼は現在チトラルに閉じ込められていました。そこでこの重要な時期におけるギルギットとチトラル周辺のさまざまな国との関係の管理はW.H.スチュワート大尉に委譲されました。このチトラルのトラブルに影響を受けた辺境で、その多種多様な人々を静かに従順にさせておくのが容易ではなかったことは想像に難くないでしょう。

 

ひとたび戦いの気分が広まったなら、このヒンドゥークシュの興奮しやすく影響を受けやすい人々は挑発を受けなくても直ちに武器を取ります。チトラルで起こったことのニュースはすぐに彼らに届き、すべての家と集落はこの話でもちきりでした。したがって、彼らと接触しているイギリスの官僚がその影響力によって彼らを落ち着かせることができなければ、彼らはチトラル人がしたように無思慮に、軽率に私たちに立ち向かって来るという大きなリスクがあります。それは彼らが私たちに協力するか対抗するかのバランスにかかっていました。わずか三年前に征服されたフンザやナガルのような国においてでさえ、英国の影響力がまだ強く維持されているということが十分に示されました。この危機においてスチュワート大尉がフンザとナガルの政務官を通して、チトラルへ向かう途中のギザーに配備されてすでに駐屯している九十人の兵士に加えてさらに一時的徴集兵として参加する意思のある男性の有無を尋ねたところ、これら二つの国の首長は最大限の忠誠心を示し、すぐに政府に従い、いかなる求めにも応じようとしているあらゆる階級の約900人の男性をギルギットに送ってきたのでした。トラブルを避けるためにそれぞれが二週間分の物資を持参してきており、皆が最も熱狂的な意気を示しました。これらの兵士のうちの一定数はチトラルに送られ、残りの兵士はギルギット近くの峠を守るために用いられました。そして後に見るように、三年足らず前に私たちに立ち向かって必死に戦ったこの兵士たちは今やいざというときに私たちの側に立ち、ケリー大佐が繰り返し最高の賛辞で感謝するような勤務を提供してくれたのです。

 

 

図:現地徴集兵

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ケリー大佐はギルギット辺境の軍隊の指揮官でした。彼は第32先進工兵隊の大佐でした。この連隊は数ヶ月前にこの辺境に到着しました。その目的の一部は道路と要塞化した駐屯地を建設することであり、一部は駐屯部隊の主要部をなすカシミール軍の後ろ盾となるためでした。その後チベットで私を護衛してくれたのもこの同じ連隊でした。

 

この辺境での3,000人の総兵力はインド正規軍の先進工兵連隊/同じく200人のインド軍第14シーク隊の兵士/それぞれ600人の三個カシミール歩兵大隊、そしてカシミール山岳砲兵隊大隊で構成されていました。3月初旬にはこの部隊は以下のように割り振られていました/チトラル砦には第14シーク隊の100人とカシミール歩兵隊員300人/マストゥージにはシーク隊員100人とカシミール歩兵隊員150人/ギザーにカシミール歩兵隊員100人/グピスにカシミール歩兵隊員140人/ギルギットに一個カシミール連隊。フンザとフンザ―ギルギット路線には200人、チラスには400人のカシミール歩兵隊員がいました。先進工兵連隊800人はブンジとブンジ―チラスの路線上にいました。

 

情勢がいかに危機的あるかが明らかになったとき、インド政府はペシャワル方面から行軍するロー将軍指揮下の大軍がチトラルに到着するまでに、可能な限り多くの軍隊をギルギットを離れて移動させ、チトラル駐屯軍をいくらか安心させる必要があると考えました/しかし、ギルギットから大きな戦力を送ることはできませんでした。その場所の近くにごく最近問題があり、目下監視が必要な小さな国がいくつかありますが、彼らがどの程度の忠誠心を見せるかが分からないからです。フンザは1891年の終わりに鎮圧されたばかりで、チラスはその一年後に服従しました。これらの国のどちらにも動乱の兆候はなく、特にフンザは静かで満ち足りているように見えました/しかし、それとそれに隣接するナガル国には監視が必要でした。そしてインダス渓谷の狂信的で乱暴な部族民と接しているチラスでは、常に暴動のリスクがあります。こうした状況下で、また反乱が起こっているチトラルに近いヤシンとその南にある国がどのように行動するかは分かりませんでした。ペシャワルの方向からの救援が到着するまで防御を続けなければならない駐屯部隊を支援するために、今やケリー大佐が連れていくことを決定した400人の先進工兵隊と二門の砲よりも大きな戦力をギルギット地区から送り出すことは賢明ではなかったでしょう。

 

チトラルはギルギットから220マイルの距離にあり、その間の道路は山がちの困難な土地を通り、高さ12,400フィートの峠を横切っています。道路が通過している谷はすべて非常に狭く、ほんの数か所では一マイル幅に開けています。しかし行程の大部分では幅が数百ヤードしかなく、多くの場合、両側を数千フィートの高さの山々に挟まれ、底の小川から岩の絶壁が立ち上がっている隘路です。

 

シャンドール峠は概ねチトラルから90マイル、ギルギットからは130マイルのところにあります。この峠の西側ではすでに述べたように土地全体がイギリスに対して武装蜂起し、今やチトラルの駐屯部隊が閉じ込められ、マストゥージの駐屯地が包囲され、最後にロス大尉指揮下の分遣隊が全滅して将校が殺害され、エドワーズ中尉とファウラー中尉指揮下の分遣隊がチトラルに向かう途中で攻撃を受けたというニュースがギルギットに届きました。シャンドール峠の東側には以前は独立していたヤシン県がありますが、近年ではチトラル国の不可欠な一部になっています。この県はこれまで沈黙を守っていましたが、もちろんケリー大佐の行軍中に妨害があるかどうかはわかりませんでした。彼が実際の敵対行為に遭わなかったとしても、そして人々が消極的に妨害するだけであったとしても、チトラルに到達するという彼の仕事はほとんど絶望的なものになっていたことでしょう、彼は補給と輸送の両方の問題においてその通過する地域の人々に大きく依存する必要があったのです。

 

3月23日と24日、ケリー大佐の部隊がギルギットから出発しました。その直前にロス大尉のパーティーが全滅したというニュースが届きました。ケリー大佐自身が同行した第一分遣隊は、ボロダイル大佐指揮下の第32先進工兵隊の200人、ベスン中尉(後にチベットで殺害された)とコブ中尉、そしてブラウニング・スミス外科医大佐で構成されていました/そして第二分遣隊はピーターセン中尉とクック中尉の指揮下の先進工兵隊の200人でした。後者の隊にはカシミール山岳砲兵隊の二門の砲が同行していました。

 

チトラル駐屯部隊を助け、イギリスの威信を回復し、辺境を安定させ、浮き足立った人々が反対側に殺到するのを防ぎ、イギリスを信頼し当てにしている人々を励ますために、ケリー大佐はこの小さな部隊とともにその冒険的な旅を始めたのでした。そして私たちのインド軍に精通していない人々のために、ここでケリー大佐がこの行軍に同行させた兵士たちについて説明しておいたほうが良いでしょう。彼が一翼を連れて行った先進工兵連隊はパンジャブのシーク教徒で構成されています。連隊は軍隊に先立って道路を作り、軽工兵の仕事をするという特別な目的のために組織され、教育されています。それは陣中において通常の歩兵大隊として戦うよう訓練されています。まったく、それは道路建設や前哨基地の建設という重要な仕事と同じくらい良好に、通常の戦闘目的にも使用することができるのです。そのとき兵士たちはマルティニ・ヘンリー・ライフルで武装し、さらに各自つるはし、シャベル、または先進工兵隊の目的に必要なその他の道具を携行していました。ケリー大佐の部隊は非常な困難を伴った輸送の負担を減らすためにテントなしで移動しました。各セポイは十五ポンドの手荷物が許可され、大外套と八十発の弾薬を持ち、短い「ポシュチン」(羊皮コート)を着ていました。カシミール山岳砲兵隊の砲はかなり古い型の7ポンド砲でした。砲兵隊の将校と兵士たちはカシミールのマハラジャの軍隊に所属しており、過去数年間、英国人将校の監督の下に訓練されていました。

 

 

図:第32先進工兵隊のセポイ

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グピス(ギルギットから六十五マイル)にはカシミール軍がチトラル方面の先進駐屯地として、前年にタウンゼント大尉の監督下に建設した小さな石積みの砦があります。そこで王立砲兵隊のスチュワート中尉がギルギットから来た二門の砲に同行するため、ケリー大佐に加わりました。

 

五日の行程のギザーにはゴフ中尉指揮下のカシミール歩兵隊の六十人、王立工兵隊のオールダム中尉の監督下の四十人の工兵、そしてフンザ・ナガーからの100人の徴集兵が駐屯していました。

 

ギザーは海抜10,000フィートで、頑健で幾分独立的な集団の人々が住む小さな村です。ここでケリー大佐の最大の困難が始まる可能性がありました。彼はここに到達するまで深刻な障害物に遭遇しませんでした。ヤシンの人々は敵意を見せることはなく、ギザーには無事に到着しました/しかし、ここギザーには雪が深く積もっており、ケリー大佐が到着したときには五日前からずっと降り続けていました。シャンドール峠(二日の行程分先にある)を通過しなければなりませんでした、峠を通過できない場合、あるいは反対側で何らかの災難に遭った場合、背後のヤシンの人々の忠誠心はさらなる試練に耐えらないこと、峠の西側で反乱を起こしたチトラル人の優勢を信じて命惜しさにヤシン人がそちらの味方を始めるのはまず間違いないことを英軍将校は肝に銘じておかなければなりませんでした。

 

3月31日、ケリー大佐の両分遣隊がギザーに到着しました。そして大雪と有望ではない事態にもかかわらず、翌日、砦の英国人将校のためにチトラルに向かって前進することが決定されました。今や彼らが閉じ込められてから四週間が過ぎており、救援のためのできる限りの迅速な前進の必要は切実なものでした。

 

4月1日、ケリー大佐は部隊全員を引き連れてギザーを出ましたが、すぐに困難が始まりました。午前7時の出発を予定していましたが、峠を越える際の物資の運搬に必要なクーリー(*日雇い人夫)が逃げたため三時間も遅れてしまいました。部隊は雪の中を決然と数時間歩きました。しかしチトラルの仲間たちの救援へと押し進むことを熱望しながらも、彼らが使用可能な手段による前進は不可能であることが午後2時頃明らかになりました。最も必要だったのは砲を運ぶことでした/ケリー大佐が砲を持ってきたという単なる噂でさえ、こうした武器に慣れていないチトラル人に最も強い心理的効果を与えるのに十分だったからです。チトラル人は以前ならインド軍の正規軍を恐れていたかもしれません。しかし彼らはすでにこうした軍隊の二個分遣隊を全滅させ、現在は他の部隊の包囲に携わっていました。必要とされていたその強力な心理的効果をケリー大佐の先進工兵隊だけで生み出すことは、とてもではありませんができなかったことでしょう/しかし砲が峠を越えることができたなら間違いなくチトラル人は恐怖したことでしょう。そこでケリー大佐はギルギットから運んできた二門の砲を持って峠を越えることを何よりも切望していました。

 

しかしここで、この重大なときに、彼がそれを実行できる可能性はなさそうでした。このギザーから峠に向かう行軍で砲架や弾薬箱などはラバに乗せて運ばれましたが、ラバは雪の中をほとんど移動できないことがわかりました/彼らはその腹までの深さの雪の中をもがきながら進んでいました。そして午後には彼らをそれ以上連れて行くのはもはや不可能であることが明らかになりました、ましてや峠を越えさせることなどできませんでした。これが4月1日にケリー大佐が最後の村を出て峠に向かって行軍していたときの情勢でした。したがって、ケリー大佐はさしあたり計画を中止してより有利な時期を待つべきか、それとも部隊の一部に峠を越えさせ、残りをギザーの宿舎に戻すべきかを決定する必要がありました。彼は後者を選び、砲と先進工兵隊の200人とナガー徴集兵の50人とともにギザーに戻りました。先進工兵隊の200人とボロダイル大尉、コブ中尉、ブローニングスミス外科医大尉、王立砲兵隊のオールダム中尉指揮下のカシミール工兵隊の40人とハンザ徴集兵の50人がギザーから峠方向へ約七マイル行ったところにあるテエルという集落に留まりました。

 

4月2日、雪は一日中降りました。ボロダイル大尉は峠を越える最初の試みをすることになっていた分遣隊とともに、辛抱強くテエルに留まらなければなりませんでした。午後に王立砲兵隊のスチュワート中尉が二門の砲を運んでギザーから再びやってきました。これらの砲をラバで運ぶことは不可能でしたが、先進工兵たちはそれを置き去りにすることを望まず、自分たちがそれを背負って運ぶことを志願しました。彼らは将校のところに行って、自分たちのライフルと弾薬、先進工兵の装備、道具一式に加えて、彼ら自身が砲車や弾薬などを持って峠を越えて砲を運ぶことを保障する、と言いました。ゴフ中尉指揮下の第4カシミール・ライフル隊の分遣隊もこの作業を支援することを志願し、今や彼らもテエルに到着しました。

 

部隊を活気づける、気高い精神をはっきりと示したこの素晴らしい申し出を英国人将校は胸を熱くしながら受け入れました。4月3日にボロダイル大尉はテエルを出発し、配下の元気な小さな現地部隊とともに峠を越えました。雪はとても深く、その中を行軍するという仕事は過度にきついものでした。兵士たちが自発的に申し出たこの仕事よりも骨が折れるものを想像することは難しいでしょう/それは困難なものでしたが、彼らは見事に偉業を達成して不滅の名声を得ました。最初にそりが試されましたが、役に立たないものとあきらめなければなりませんでした。そりの幅は狭く、一人の兵士の足跡はさらに狭く、数歩ごとに大きな穴があって非常に不均一であったため引くことが容易ではなく、放棄されたのでした。夜9時から10時ごろに暗くて足跡がほとんど見えなくなるまで、兵士たちは砲を持って一日中雪の中で奮闘しました。そしてその時、兵士たちをこのまま突っ込ませたら荷物を落としてしまうに違いないという判断がなされました。そこで弾薬箱などが雪の中に積み上げられ、軍隊は峠のふもとのランガーのキャンプ地に向かって行軍しました、

 

より消耗した兵士たちを休ませるための小屋が一棟あっただけで、残りはテントなしで一晩中屋外にいなければなりませんでした。ボロダイル大尉の部下の兵士たちは世界で最も暑い地方のうちの一つで何世代にもわたって暮らしてきたパンジャブ平野のシーク教徒でした。そして今や今日と昨日の過酷な闘いの後で、海抜12,000フィート近くの、温度がおおよそ華氏0度(*摂氏マイナス17度)の雪の上で夜を過ごすよう求められたのでした。彼らのほとんどにとって睡眠は問題外でした/兵士たちはキャンプ地の近くで手に入ったブラシウッドを燃やした小さな焚火の周りに可能な限り集まり、翌日の夜明けと最後の闘いを待ちわびていました。

 

翌朝、ボロダイル大尉は峠に向けて出発しました/しかし彼の部下が砲と一緒に自分の装備を持ち運ぼうとすると、必然的にどちらも失敗することが明らかになりました。そこでボロダイル大尉はスチュワート中尉とゴフ中尉を後に残し、その日は残りの荷物をキャンプに持ち帰って、自分が峠の反対側から援助者を送ることができるまで、あるいはギザーから支援が来るまで、そこに保管しておくようこの二人の将校に指示しました。ボロダイル大尉の部下たちは、峠を越えるという仕事はまさに心臓破りのものだと感じました/徴集兵が先を行っていたのである種の踏み跡ができていましたが、彼らは数歩ごとに雪に沈み込みました。時々彼らはほとんど脇の下まで沈み、仲間に引き上げられなければなりませんでした。これはこうした兵士たち、またほとんど眠れない夜を過ごして完全に疲れ果てたままこの計画の重大局面に向けて出発した兵士たちに課された恐るべき試練でした。

 

パーティーが峠の真ん中に到達するまでに、兵士は二人、三人と抜け落ち、まるで闘いをあきらめようとしているかのように雪の中に座っていました。運ばなければならないライフル、弾薬、雑嚢、大外套などの重い荷物が負担となって彼らを完全に消耗させてしまっていました。雪の深さは三〜五フィートで、十八インチは柔らかな新雪でした。同時に太陽が兵士たちに降り注いでおり、白い雪の表面のまぶしさが彼らの不快感をいや増していました。すべての兵士には青い眼鏡が提供されていましたが、多勢が雪盲になりました。水がないことも兵士たちにさらなる苦痛を与えました。雪を食べることは全く救いにはならず、そして大勢がそれに何か悪い影響があることを恐れていました。英国人将校たちが一時は雪の上でもう一晩過ごすことになるのではないか、と思うほど兵士たちは疲れ果てていましたが、5:30頃、前衛隊が峠の頂きの水平部分の末端に到達し、そしてついに降下が始まりました。ニュースは直ちに全縦隊に伝えられ、兵士たちに新たな気迫が漲りました。彼らは最後の努力のために気を引き締めました。そして、少し先でいくらかの水を得ると彼らはキビキビと歩調を速め始めました。今や重大な局面が到来しました/パーティーは峠の西側を下って、一か月間イギリス軍に対して両手を広げて立ちふさがってきた地域の中へと入ろうとしているのです。峠のふもとに村があることは知られていました、そしてボロダイル大尉の疲れ果てた部隊は、困難が最高潮に達したこのときに抵抗を受ける可能性が十分にありました。そこでボロダイル大尉は峠のふもとのラスプール村を偵察して敵の軍勢がいるかどうかを探り、その地の情勢を報告させるために二~三人の徴集兵を送りました。幸いなことにチトラル人はまさかその時季の峠を軍隊が越えることができようとは思っていなかったため抵抗はありませんでした。そしてランガーを最初に出てから十二時間近くが過ぎた7:30頃、ラスプールに到着しました。

 

この疎らな村で数人の住民が見つかりました。疲れ果ててはいましたが200人の兵士がいたので、彼らは直ちにやって来て敬意を表しました。その後、ボロダイル大尉のパーティーはさまざまな建物や離れ家で心地よく夜を過ごし、夜襲に備えて即席の粗末な防御物を作り、そして少なくともすべての恐るべき骨折りの後の今日の夜だけは眠りを妨げられないように祈りました。

 

翌朝(4月5日)、ボロダイル大尉はスチュワート中尉とゴフ中尉が砲と峠の手前に残っていた残りの荷物を運ぶのを手伝わせるために、村の多くの住民を捉え、峠を越えてランガーへ行かせました。この二人の将校はカシミール歩兵隊の小さな分遣隊とともにその任務に成功しました、そしておそらく最悪の状態にあった高い峠の上へ砲を担ぎ上げ、チトラル地域に下ろしてケリー大佐の部隊の非常に重要な助けになるという、この素晴らしい偉業を成し遂げたことに対する賞賛は彼らに向けられるべきでしょう。4日、外科医大尉ブラウニング・スミスは峠を越えた兵士たちを検査し、二十五例の凍傷と三十例の雪盲を診断しました。これらは幸いにも重症ではありませんでした。しかしこの軍隊が耐えなければならなかったような仕事があと一日続いていたなら、部隊は完全に無力になっていたであろうことは明らかでした。

 

今や私たちはシャンドール峠を越えるという決断をしたボロダイル大尉の小さな分遣隊の位置がどういったものであったかを吟味し、理解しなければなりません。彼らは今や成功によって意気が上がる敵を目の前にしていて、背後には事実上退路を断っているこの恐るべき峠がありました。ボロダイル大尉の部隊は峠に二人のスパイが配置されていることに気づいていましたが、ラスプールの村はある程度驚いたようでした。しかしかなりの数のチトラル人が谷の下流にいることが知られており、いつでもボロダイル大尉への攻撃が行われる可能性がありました。ケリー大佐からボロダイル大佐への指示は、到着次第塹壕を掘り、クーリーを帰らせ、そしてラスプールから二日の行程の、チトラル人に包囲されたマストゥージの駐屯部隊と連絡をつけるよう努めることでした。

 

4月5日の夕方、徴集兵が敵の小さな一団を見たという情報を持って戻ってきたため、キャンプの下方への短い偵察が行われました。

 

4月6日、ボロダイル大尉は十二マイル離れたガシュトへの強行偵察を行い/二門の砲と先進工兵隊の百二十人がこの行動に加わりました。抵抗を受けることなくガシュトに到達し、ルート上の村はほとんど無人であることがわかりましたが、ボロダイル大尉の軍隊は輸送目的で使役するために約三十人の住民と十二頭のポニーを捕まえることができました。ボロダイル大尉が同夜に戻ると、ケリー大佐とその参謀官であるベイノン中尉、そして約五十人の徴集兵が峠を越えてラスプールに到着していました。

 

7日、軍隊は休息して翌日の前進の準備をしました。

 

8日、部隊は抵抗を受けることなくガシュトに到着しました。そして夕方の小規模な偵察によって敵が数マイル下のチョカルワットと呼ばれる場所で谷全体に強力な陣を敷いていることが分かりました。ケリー大佐は翌朝この陣地を攻撃することを決めました。チョカルワットの陣地は天然の要害であり、一般的には難攻不落とされています。それを見た人は誰でも、ここに兵士が百人いれば総軍を寄せつけないことができる、と言うでしょう。谷の両側にはごつごつした絶壁の数千フィートもの山々がそびえ立っています/それに沿って川が流れています。そして部隊が下を通れば敵が上から岩を落とすことのできる石の落ち口に沿った道を進むか、あるいは川を越えてその縁のサンガーや石の胸壁の中に敵が布陣している崖の上のジグザグの小道を行くしかありません。敵は山腹の接近可能な場所にもこうした胸壁を建設していました。もしチトラル人がケリー大佐に断固たる抵抗をすると決心していたなら、彼はここで敵との最初の接触において行き詰まっていたかもしれず、チトラルの駐屯軍を迅速に救援するという主目的は挫折していた可能性があります。1891年のフンザ遠征では、私たちの軍隊は二週間近くそうした別の陣地に追い詰められていました。フンザの兵士はほとんどライフルで武装していませんでしたが、チトラル人は多数の後装式ライフルを持っていました。そしてここで救援隊が阻止されるか、阻止どころか完全な成功以外の何が起こったとしても、イギリス軍が最も深刻なトラブルに巻き込まれ、長い連絡線のすべての人々が敵意を示す原因になるであろうことは想像に難くありませんでした。

 

 

斥候スケッチ:チョカルワット陣地

http://uedaeyeclinic.net/wp-content/uploads/2021/11/RECONNAISANCE-SKETCH-OF-THE-CHOKALWAT-POSITION9TH-APRIL1895.jpg

 

 

4月9日朝10時30分、ケリー大佐はこの陣地の攻撃に向けて進みました。早朝、フンザ徴集兵を連れたベイノン中尉が左岸(*斥候スケッチの向かって左側)の高い丘に送られました。敵陣の右翼に回り込んで後方を攻撃するためです。プニヤ人は右岸の丘を上って、そちら側の石の落とし口の上にいる男たちを追い出すよう命じられました。敵の陣地は川からその上に彼らが布陣している(*左岸の)扇状地までの道を塞ぐ一列のサンガーでした。敵の陣地の右翼は、川床まで降りている雪の氷河と、そのすぐ横まで丘の斜面に築かれたサンガーに守られていました。(*右岸の)谷の道は(*右岸の)扇状地を通っており、扇状地への上りは短く急でした―それは巨礫に覆われ、ヌラー(*急な水流が軟らかい地層に作った溝)で分断されていました。道路はこの扇状地を横切って、急な頁岩(*薄く割れる堆積岩)の斜面の足部に沿って進み、川岸の反対側を覆っているサンガーの列から500ヤード以内を突っ切っていました、そして約二マイルの間、いかなる種類の遮蔽物もまったくありませんでした。またその目的のために高所に配置された数人の男たちが起こす石のなだれによって一掃される可能性がありました。

 

ケリー大佐は第32先進工兵隊の190人、カシミール工兵隊の40人、そして50人の徴集兵―総勢280人の戦力でこの陣地の攻撃へと前進しました。シャンドール峠を越えようとしている二個目の分遣隊を待っていて攻撃が遅れたなら、敵にさらなる大兵力を集め、陣地の防御を強化する機会を与えるだけである、とケリー大佐は考えました。そこで直ちに攻撃することを決定し、次の隊形で前進しました:―第32先進工兵隊の半個中隊が前衛となり、続くカシミール工兵隊の四十人、第32先進工兵隊の半個中隊、クーリーが運ぶ二門の砲、第32先進工兵隊の残りの中隊が本隊を構成しました。手荷物は、戦闘への前進命令が出されるまで、後衛の護衛の下にガシュトに留め置かれました。

 

川までの前進がなされました。橋は敵に壊されていましたが、今や工兵隊が修理して歩兵隊が十分通過できるようになっていました。砲が川を渡りました、部隊は敵の陣地の右翼のサンガーに直面しながら扇状地を上って行きました。ケリー大佐の計画は前衛隊が道路を離れ、扇状地の最も高い部分で隊形をつくってAサンガーに対峙し、一斉射撃と砲によってそれを沈黙させることでした。彼はまた、歩兵隊が川床に降りて左岸に上り、残ったサンガーの中の敵に縦射を加える機会があれば、Bサンガーに関しても同じコースを適用することを提案しました。そうしたサンガーはベイノン中尉と徴集兵たちが側面攻撃を展開するやいなや退去されると予想されていました。

 

先進工兵隊の前衛は敵陣から約800ヤードのところで隊形を整え、本体が後に続きました。そして先進工兵隊は攻撃へと進みました―C中隊の一個分隊が展開し、同じ中隊の別の分隊が支援しました/C中隊の二個分隊とA中隊全体は予備とされました。その後、砲は右翼に位置をとり、825ヤードの距離からAサンガーに向かって砲口を開きました。戦闘が進むにつれてC中隊の支援分隊は前進し、同じく前進していたC中隊の残り半分を支援し、砲との間に十分なスペースを残して射撃ラインの最右翼に位置を取りました。一斉射撃は最初800ヤードで開始されましたが、戦闘が進むにつれ射撃ラインは150から200ヤード進みました。後の段階で、ラインの中央で活動中の砲の右側の隙間を埋めるため、A中隊の一個分隊が押し上げられました。良く指揮された斉射と狙いの正確な砲弾が、すぐにAサンガーから敵を二人、三人と追い出し、最終的に空にしました。その間、ベイノン中尉と徴集兵たちは左岸の丘の斜面を上っていき、先進工兵隊が扇状地を横切って前進するとともに、ベイノン中尉は丘の斜面のサンガーから敵を追い出しました。敵がサンガーから一掃されるやいなや、ケリー大佐はBサンガーに注意を向け、同様の方法で攻撃しました。敵は最初と同じように逃げ去り、Bサンガーもまた空け渡されました。同時に、丘の斜面の陣地から追い出された敵が平地へ流れ込んできました。そして全体的な逃亡が続きました。そしてケリー大佐の全軍は切り立った川岸から河床へと前進しました。この前進を予備隊の銃火が援護しました/渡渉の後、サンガーAとBが占領されました。そして砲が運ばれ、サンガーの列の全てが空になり、扇状地で縦隊が再編成されました。そして河床に沿ってさらに一・五マイル離れた村へと前進が続けられ、そこで休止しました。

 

こうして敵との最初の戦闘は成功裏に終了しました。通常の朝の閲兵のような極度の落ち着きとともにそれは実行されました、とケリー大佐は述べています/斉射は良く指揮されており、適切に制御されていました。戦闘はたった一時間で終了し、イギリス側の犠牲者は第32先進工兵隊の一人の重傷者とカシミール工兵隊の三人の軽傷者だけでした。敵の戦力は400人から500人と見積もられ、マティーニ・ヘンリー・ライフルとスナイダー・ライフルで武装していました。数人の死者がサンガーで発見され、敵の損害は五十人から六十人と推定されました。

 

短い休止の後、軍隊は左岸の前進を続けました。そしてマストゥージまで三マイル以内のところで渡渉しました。川の上の扇状地の頂きに整列していたのはマストゥージのイギリス駐屯部隊でした。彼らは十八日間砦に閉じ込められていましたが、ケリー大佐の軍隊の発砲を聞き、敵が砦を囲んでいる陣地から徐々に出ていくのを見て、今や救援隊と握手するために出てきたのでした。

 

ケリー大佐の部隊は午後5時にマストゥージに到着しました。つまり上首尾の戦闘が行われたその日のうちに、包囲されたマストゥージの駐屯部隊は解放されたのでした。そしてチトラル方面への行軍が行われました。

 

マストゥージで指揮を執っていたモバリー中尉は、今やチトラル人による包囲以来の冒険の物語を語ることができました。以前の章でロス大尉とエドワーズ中尉指揮下のパーティーの遭難について述べました。これらの分遣隊は3月の初めにマストゥージからチトラルに向けて出発しましたが、彼らに何が起こったのか、チトラルで何が起こったのかについてのニュースはモバリー中尉には届きませんでした。彼はメッセンジャーをブニに三回送りましたが、毎回遮断されました。3月10日、ギルギット軍の副兵站総監代理であるブレザートン大尉(その後、ラサに向かう途中にブラマプトラ川で溺死)が、ギザーからカシミール・セポイ分隊の100人とともにマストゥージに到着しました。そこでマストゥージ駐屯軍の総勢は170名に上りました。13日にはギザーからさらに六十人の兵士が到着しました。モバリー中尉はロス大尉のパーティーの行方を確かめにブニまで行軍するため、クーリーを入手しようと数日間試みていましたが、カシミール歩兵隊の150人とともにマストゥージを出発しました。クーリーは手に入りませんでした、そして各人は自分のポシュチン(シープスキンのコート)、二枚の毛布、120発の弾薬、そして三日間の調理済みの糧食を携帯しなければなりませんでした。その日マストゥージの八マイル下のサノガル村に到着しましたが、川に架かる橋は修理が必要だったため、それ以上の行軍できませんでした。プニヤ徴集兵の五十人がモバリー中尉に加わり、翌朝彼はブニに向けて出発しました。午後5時にそこに到達し、そこでジョーンズ中尉とロス大尉のパーティーの十七人の生存者、そしてロス大尉がコラへと行軍する前にブニに残した三十三人の兵士を見つけました。ジョーンズ中尉は途中の困難な道での攻撃を恐れたためマストゥージへと進むことができず、モバリー中尉と連絡を取ろうと試み、救援隊が送られることを期待してブニに留まっていたのでした。

 

今や勇敢に成し遂げられた、このモバリー中尉の救援は決してリスクの小さいものではありませんでした、マストゥージとブニの間の十八マイルの道路には退却を遮断されていたかもしれない地点がたくさんあるのです。しかし、ブニは絶対的に必要な時間以上に滞在するべき場所ではありませんでした。それは開けた村です/その中に防御可能な駐留地はなく、何よりわずかな時間を持ちこたえるのに十分な物資さえありませんでした。敵は数マイル離れた対岸のドラサンに集結していました。そしてモバリー中尉が聞いたところでは、敵はその夜、ブニ―マストゥージ間の強力な陣地であるニサゴルで自分たちの撤退を遮断しようとしているとのことでした。モバリー中尉はまた、敵がマストゥージとギルギットの間の道に集まっていること、そしてギルギットからさらなる援軍は出ていない、ということを聞きました。

 

すぐにマストゥージに戻るしかありませんでした。そこで、そこにたった二時間いただけで17日午後7時に帰途につきました。川に架かる橋と道沿いの困難な崖を占領するために予め一隊が派遣されました。可能であれば敵がニサゴルの陣地を占領するのを防ぐためにプニヤ徴集兵が前方へ送られました。これらの予防措置は首尾よく実行されました/敵は道に沿ってパーティーを追いかけることしかできませんでした。モバリー中尉は一晩中着実に行軍した後、夜明けに数時間停止し、そしてマストゥージへと進み、18日午前10時頃に無事に到着しました。このように大胆かつ細心に計画された行軍によってジョーンズ中尉のパーティーはエドワーズ中尉のパーティーが辿った運命から救われました。またこれを行われたのはギリギリのタイミングでした。ブニを去ったわずか数時間後に、敵が大挙してそこに到着し、その後ニサゴルの陣地を占領したのです。

 

マストゥージに戻ってからの三日間、モバリー中尉とブレザートン大尉は木を切り倒して砦の周りにフェンスを作り、全体的な防御設備を完成させることに忙殺されました。百人に上るハンザ・ナガーの徴集兵はそこの駐屯地を強化し、ギルギットとの連絡を維持するためにシャンドール峠の反対側にあるギザーに送り返されました。25日、ファウラー中尉とエドワーズ中尉がチトラル人に捕らえられたというニュースがマストゥージに届きました。今や敵は砦の周りを囲んでいました。モバリー中尉が22日に出した偵察隊の報告はこうでした、ギルギットへの道の途中、マストゥージの数マイル上流のチョカルワット陣地に約600人の敵がサンガーを建ててこれを保持している、今やまぎれもなく砦の封鎖が始まっている。

 

マストゥージ砦は約九十ヤード四方で、この地方のすべての砦と同じように石積みと木造部分で造られています。壁の高さは約二十五フィートですが、包囲されたときは荒廃した状態でした。その場所はチトラルに対する私たちの恒久的な方針に関しての政府の決定がなされるまでの間、政治エージェントとその護衛の住居として一時的にイギリス人が使っていたにすぎないからです。そして不運なことに前年の非常に激しい地震が壁を揺さぶってズタズタにしてしまっていました。当時、私はそこの政治エージェントでした。そして地震の際に起こったちょっとした事件は、現地人部隊の落ち着き(*steadiness、堅実性、着実性)の一例として記録しておく価値があります。突然その場所全体が揺れているのを感じたとき、シーク護衛隊の指揮官であるガードン中尉と私は砦の部屋で座っていました。しかし、地震はチトラルではよくあることです。そこで石が外でぶつかり落ちるのを聞き、部屋全体が船の船室のように翻弄されるまで私たちは動きませんでした。そうなったとき、私たちはドアから中庭へ飛び出しました。そのとき私たちは歩哨に行き会ったのですが、彼は静かに捧げ筒の敬礼をして何事もなかったかのように通り過ぎました。地震によって斜面を転がり落ちた岩のなだれからホコリが立ち昇って、その雲の中に周囲の山々がありました、そして砦の壁はガタガタになって四方に崩れていました。しかし、これらすべてはシーク隊員の歩哨を動揺させませんでした/その規律意識がよく根付いていたため、彼はいつものように、普通に、毎日しているように敬礼したのでした。

 

マストゥージ砦は山腹から下っている傾斜した平原の端にあり、ある地点で山腹は砦から約400ヤード以内に迫っています。敵は砦から約300ヤード離れた家並みを占領して銃眼をつくり、そこから砦に向かって発砲し始めました。彼らはまた800ヤードの距離にサンガーを作りました。しかし駐屯部隊は彼らに一斉射撃を向けることによってその銃火を沈黙させることに成功しました。あるとき、敵が日中に追い出されたサンガーの銃眼に漆喰を塗るためにプニヤ徴集兵が夜間に送られました。敵がそれを再び占領した場合に駐屯部隊が正確に狙えるようにするためです。その後敵はサンガーに戻ってきましたが、駐屯部隊の入念に狙いをつけた銃火によって再び追い出されました。

 

別のときにチトラル人は山腹にサンガーを建て、そこから砦内の2頭のポニーを負傷させました。敵はマティーニ・ヘンリー・ライフルとスナイダ―・ライフルで武装しており、遠い距離から砦に向かって発砲することができました。そのため彼らをサンガーから追い出す必要がありました。ある朝早くプニヤ徴集兵が送られ、その日敵が入ってくる前にそれを破壊しました。数日後、砦の約300ヤード下にサンガーが建てられましたが、モバリー中尉は80人のセポイのパーティーを連れて出撃し、突撃しました。敵はたった数発の銃弾を発射した後、数軒の家に退却し、そこから帰還するパーティーを攻撃しました。そのサンガーは粗朶と石で強固に造られていることが判明し、破壊されました。

 

この間ずっと、チトラル人はギルギットへの安全な通行権を約束してモバリー中尉を誘い出そうとしていました、そしてチトラルの王位の詐称者であるシェール・アフズルはイギリスと戦うことを望んでいない、と保証されました。モバリー中尉がこうした猫なで声の誘いに耳を傾けていたら、間違いなく彼は外に出た途端、捕えられたことでしょう。そして彼は賢明に行動し、それを知らなかったにもかかわらず、今や間近に迫っていた救援隊を待っていました。4月9日、多数の敵が移動しているのが観察されました。モバリー中尉は部下を連れ出し、追跡して攻撃しました。彼が駐屯部隊の救援へと行軍してくるケリー大佐の軍隊に会ったのはそのときでした。包囲は終わりました/テーブルが回転し、救援部隊と救援された部隊がチトラルを救助するために行軍しました。

 

4月10日から12日まで、ケリー大佐はマストゥージで休止していました。チトラルへのさらなる行軍のための物資と輸送の手配を可能にし、シャンドール峠から追いついてくる二個目の分遣隊の到着を待つためでした。4月11日、この分遣隊は今やマストゥージに設立された野戦病院の外科医となったルアード大尉とともに到着しました/そして同じ日に徴集兵たちがチトラル方面に偵察を行い、敵がマストゥージの数マイル下流に強固な陣を敷いていると報告しました。4月12日、参謀官のベイノン中尉がさらなる偵察を行い、ケリー大佐が戦闘の方針を決定することを可能とする敵陣の正確なスケッチを持ち帰りました。その陣地は難攻不落であることが広く知られており、チトラルの故メータルはその場に立って、その天然の強さを私に説明し、彼の国で最も強い陣地のうちの一つであると断言したものでした。チトラルでは山の谷のすべての陣地がよく知られており、それぞれの継続的な侵入の発生に際して定期的に占領されてきました。この陣地、ニサゴルは太古の昔からチトラル人が谷を守るために選択してきた場所でした。

 

 

斥候スケッチ:ニサゴルの敵陣地

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ニサゴル陣地においてチトラル川の谷の幅は約一マイルで、両側を囲んでいる急峻な山々の高さは川から数千フィートもあります。左岸、特に山腹は非常に険しく、これに近接してチトラル川が流れています。最初に谷を見下ろすと、山の間に右側から流れ落ちる滑らかな平野以外の何もないように見えます。そして一見開けた平野に裂け目があることは、実際にその上に来るまで分かりません。そこには深さ200から300フィートの完全に垂直な側面を持ったヌラーがあるのです。そのヌラーはニサゴルと呼ばれています。それを横切る唯一の通り道がチトラルへの唯一の道であり、今や敵がその道を遮断したのでした。他の地点でこのヌラーを横切る小さなヤギの踏み跡がありましたが、すでに敵はそれを完全に消してしまっていました。サンガーはまた、こうした小道の先端とヌラーの右岸沿いに建てられていました。これらのサンガーは地面に沈みこんでおり、ヘッドカバーは木と石でできていました。敵陣の左翼には丘の支脈の上にサンガーがあって、平野のサンガーとともに全体のラインを形成していました。そして丘の上には石を投げ落とすために配置された男たちがいました。彼らの陣地の右翼は、チトラル川を越えて、そして全体のラインの少し前方に、上方に雪を頂く支脈の上にもう一列のサンガーのラインを持っていました。

 

ケリー大佐が今や攻撃しなければならなかったのはこういう陣地でした。そしてその中にチトラル人はモハメド・イサの総指揮下の1,500人の男たちを集めていました、ケリー大佐とチトラルのイギリス駐屯地の連携を防ぐための最も重要な抵抗をしようとしていたのです。

 

マストゥージの駐屯部隊によって補強されたケリー大佐は、ボロダイル大尉指揮下の先進工兵隊の382人、スチュワート中尉指揮下の二門の砲、モバリー中尉指揮下のカシミール歩兵隊の100人、王立工兵隊のオールダム中尉指揮下のカシミール工兵隊の34人、およびフンザとプニヤの徴集兵の100人を連れていました。彼はこの戦力とともに4月13日午前7時にマストゥージから前進しました。計画はこうです、敵の陣地を二分している平原に展開しつつある前衛隊は、対岸に敵が陣取っている渓谷(*ニサゴル)から500ヤード以内まで遮蔽下で前進するのに好都合な右翼へと巧みに進出します。砲と残りの部隊が位置に着くまで、この前衛隊は右側のサンガーによく狙いをつけて一斉射撃をするよう命じられています。平原の向こうから我々の前進を見下ろしているこのサンガーの銃火を前衛隊が沈黙させたら、間髪を入れず渓谷の対岸沿いの主要サンガーへの発砲を開始します。同時に、徴集兵は敵の左翼に回り込むため、峡谷の上流側、ケリー大佐の右側の山へと上って行きます。

 

A中隊から編成された前衛隊は10時30分頃展開して横隊となり、敵陣から900ヤードの位置を散開隊形で前進していました。この列を右側に延長する形で、すぐ後にC中隊が続いていました。この二個中隊は互いに支援し合っていました。E中隊とG中隊は予備で、半個中隊が一列の縦隊となって行軍し、前進するにつれて一定のペースで散開しました。増援を求められたため、E中隊は前進してラインを右に延長しました。後にG中隊も同様に招集されて銃撃ラインの右端を形成しました。徴集兵たちは首尾よく右翼の峡谷の上流の高地に達していました。こうした動きが行われている間に、砲が500ヤードの距離から戦闘を開始しました。通常の破裂弾が発射され、約三フィートのサンガーの壁を打倒し、そのためそこからの銃声は短い時間止みました。その後砲は敵の主要サンガーから275ヤードの距離まで前進しました。(*そこから右側の丘のサンガーを砲撃した)

 

展開した歩兵隊、A中隊とC中隊がサンガーの主要ラインの真正面で敵と交戦を続けました。C中隊は時折、側面の丘のサンガーに銃火の半分を向けました。E中隊とG中隊の銃火はほぼ完全に丘のサンガーに向けられていました―時折一斉射撃は800から900ヤード離れた丘の頂を占領している敵の小パーティーに向けられました。敵の前面に銃撃が開始された時の平均距離は250から300ヤードでした。砲は右側の丘の斜面のサンガーの銃火を沈黙させるとすぐに、875ヤードから1,200ヤードの距離で(*使用されたと思われるRML7ポンド山砲の射程距離は3,000ヤード、近距離から渓谷の縁のサンガーを砲撃しようとすると砲身を水平より下に向けなければならなくなるため、後退して中距離から砲撃する必要があったと考えられる)渓谷の縁に並んだサンガーを砲撃しました。

 

先に言及した渓谷を横切る山羊の小道の存在が、ケリー大佐の参謀ベイノン中尉によって報告されました。そこでケリー大佐は、それを部隊の横断を可能なものとするよう命じました。部隊は峡谷を横断するという特別な目的のための数本のはしごを運び、モバリー中尉指揮下のカシミール工兵隊がベイノン中尉とともにその仕事を遂行するために送られました。峡谷の側面からロープを使ってはしごが降ろされ、半時間の作業でヌラーの底に降りる通路ができました。そして向こう岸を上る山羊の踏み跡が確認されました。そして部隊はヌラーに降下しました。そして最終的に約十五人のパーティーが反対側の岸に登ることに成功しました。それは右翼で働いていた徴集兵たちが敵の左翼に回り込み、丘の斜面のサンガーに到達したのとほぼ同時でした。左翼のこうした様子を見ると敵はこぞって逃げ出し、砲が950から1,400ヤードの距離で発砲し、歩兵隊がライフルで一斉射撃する中を彼らは長蛇の列でサンガーから流れ出しました。そしてケリー大佐はチトラルへの道を通ってヌラーを越えるべく全体の前進を命じました。できる限り急いで集められた中隊が追撃のために送られましたが、敵の逃走は非常に速く、ドラサンと右岸の丘の斜面へと退却し仰せました。

 

ケリー大佐はこの戦闘を報告する際に、二時間に及んだ戦闘の間と、前面と左岸から激しく苦しい銃撃を受けている間の、部隊の極度の落ち着きと勇敢さについてはどれだけ強調しても強調しすぎることはないとしています。彼はまた、銃火の統制が素晴らしく、敵のサンガーからの銃火を抑えるのに大いに貢献したと言っています。

 

敵は約六十人が死亡、百人が負傷したと推定されています。敵の中にはウムラ・カーンの部隊の約四十人がおり、ケリー大佐の部隊が直面しなければならなかった銃火はもっぱらマティーニ・ヘンリー・ライフルとスナイダー・ライフルからのものでした。

 

この二回目の成功は、最初の成功よりも大きなものでした。チトラルの砦の前に布陣していないこの土地のすべての主だった男たちが戦闘に参加しており、その陣地の強さには最大限の信頼が置かれていました。したがってチトラルへの道の主要な陣地が即座に奪われたことを見たとき、それはチトラル人にとって深刻な打撃でした。

 

ケリー大佐はその夜、サノガル村の対岸で休止しました。翌日4月14日、ドラサン(*マストゥージ川の右岸から流れ込む支流に位置する)に向かって行軍しました。モハメド・イサがその方向に逃げたと報告されたため、敵の兵力とその行方を確認するためでした。道路は破壊されていました、そこで道路から約2,000フィートも支脈を登って長い迂回路をとる必要があり、約二十マイルの行軍が必要となりました。

 

ドラサンの砦は放棄されており、そこには大量の穀物がありました。ケリー大佐がそれを持って行くことができれば非常に好都合だったでしょう。しかし近隣の村で捕らえられた男たちはいなかったため、その目的のための輸送手段はありませんでした。

 

チトラルへの通常の道はドラサンが位置する谷の反対側を走っています。ロス大尉とエドワーズ中尉とファウラー中尉が進んだ左岸のこの道で、彼らの指揮下のパーティーは全滅させられたのでした。敵はロス大佐のパーティーがひどい損害を受けた場所、あるいはその近くでケリー大佐の前進を阻止することを意図していました。しかしケリー大佐は恐ろしい隘路を避け、こうした困難な位置を通過するまで、ドラサンから右岸の高い丘の斜面を行軍することによって彼らの裏をかきました

 

大雨の中、彼は4月15日にクシュトに16日にルーンへと行軍しました/そして17日、最悪の隘路のかなり後方で彼は再び川床に降り、チトラル川を渡ってバルナスへ行きました。ただしこの地点で川の深さは胸まであって流れが速いため、通常は歩いて渡れるとは考えられていません。もちろん、兵士が渡ることには大きな危険がありました。しかし十人から十二人を縄で連結し、流れの中に徴集兵を配置して、足を取られる可能性のある兵士を助け、流れ去る可能性のある装備を守らせることによって、ケリー大佐の軍隊はこの深くて流れの速い山の川の渡渉を成し遂げたのでした。このようにして最も重要な戦略的移動が実行され、ほとんど難攻不落の陣地が一発の銃弾も発射されることなく迂回されたのでした。

 

この間ずっとケリー大佐はチトラルの駐屯軍から一言も聞くことはなく、彼の接近を知らせるメッセージを伝えることもできませんでした。彼は現在、チトラルからわずか二日の行程にいて、その困難な行進の重大局面が近づいていました。この日付は確かに遠征全体のターニングポイントでした―ケリー大佐は敵の最後の陣地を迂回しました/ハーレー中尉が見事な出撃をしたのはこの日でした。そしてこの日、ウムラ・カーンはロウ将軍の軍隊に対して最後の空しい努力をしていました。反攻は最高潮に達し、今や潮は急速に変わり始めました。

 

18日、ケリー大佐はモロイへの短い行軍を行い、19日にはチトラルから一日の行程のコガジに到着しました。ここで彼は困惑した駐屯軍から最初の手紙を受け取り、次のような吉報を得ました。包囲はちょうど解除され、ついに敵は逃げ去りました。

 

4月20日の午後、部隊はチトラルに進軍し、四十七日間砦内に包囲されていた仲間と手を握り合いました。

 

この有名な現地部隊の行軍はインド軍のユニークな偉業として長く記憶されることでしょう。ほんの一握りの英国人将校に率いられてインドの平原から積雪高度を越え、断崖絶壁の隘路を通って、反乱の成功に意気上がる土地の中心部へと進軍したのです。小さな部隊の成功のニュースはすぐに帝国全体に広まりました。いたるところで最高の賞賛が巻き起こり、その成果が示した私たちの将校と兵士の高い軍事的資質に対する私たちの賞賛に、大陸の巨大な軍隊の批評家たちも賛同しました。女王陛下はすぐにこの驚くべき偉業に対するその恵み深い賞賛をインドに電報で伝えました。そしてインドの最高司令官であるジョージ・ホワイト卿は、異常な困難に直面する中で部隊の前進と作戦が行われた際のその振る舞いと、それを克服するためにケリー大佐と指揮下の将校と部隊が示した不屈のエネルギーに温かい感謝を表明しました。最高司令官は、シャンドール峠を越えるために行われた準備、将校が示した忍耐力と技能、そして最高の賞賛に値する部隊の優れた行動を思い、全員を賞賛する中で、特に重要な部分として最初に峠を越えたボロダイル大尉とその分遣隊を挙げました。

 

 

ケリー大佐がチトラルに到着してから一週間後、「ロディ」オーウェン少佐と私はロウ将軍の前衛部隊に先行してチトラルに到着しました。明るく晴れた日でした。ガタクレ将軍がロワライ峠を越えさせたばかりの前衛部隊とチトラルの間の四十マイルを私たちが走り抜けたとき、土地はすっかり春の装いをしており、若いトウモロコシが畑で波打ち、木々に花が咲き、すべての自然が微笑んでいました。しかし人々の様子が対照的だったことは印象的でした。疲れ、震え、そして完全に怖気づいたトラル人は、彼らの国を護衛なしで騎行している二人の英国人将校にさえも怯んでいました。それは哀れな姿でした。私が数ヶ月前に見たとき男たちは陽気で、その瞬間に満足していないチトラル人などいそうもないように見えました。しかし彼らは今ややつれた顔で瘦せ細って消耗し、動き回っていました。チトラルの人々は反乱に燃え上がり、今や花火の炭のように燃え尽きていました。なぜ私たちと戦うような愚かなことをしたのか、と尋ねると彼らは自分の手を固く握って言いました「なぜって?私たちはパシャン人を憎んでいます/彼らは私たちの家を略奪し、私たちの女性を連れ去りました。しかし彼らは強くて近くにいました。あなた方は遠く離れていて、私たちはあなた方があれほど強力だとは知りませんでした。私たちはあなた方と戦いたくありませんでしたが、そう仕向けられたのです。」

 

しかし、村を通り抜けるときに出会った人々はごくわずかでした。ほとんどは丘に逃げていました。今やロワライ峠を越えたばかりのガタクレ将軍の旅団が前進して、三日のうちに彼らに恐るべき報復、すなわち大虐殺を行うと信じていたのでした。

 

4月27日の夜遅く、私たちはチトラルに乗り込み、名高い駐屯軍とケリー大佐の部隊の将校たちの素晴らしい業績を最初に祝福するという光栄に浴しました。私たちは将校たちがまさに私が何ヶ月も暮らしていた同じ建物で夕食を囲んでいることに気づきました。その家で、昨年10月にカーゾン氏と私は故メータルをもてなす晩餐会をしたのでした。それは砦から半マイルのところにありました。そしてここで私たちはジョージ・ロバートソン卿と他の将校に出会いました。彼らはケリー大佐の将校と会った時より幾分回復していましたが、それでも青白く、疲れて、痩せていて、それとともに不安そうな様子はまだその表情から消えていませんでした。彼らは上機嫌でした/彼らは病院で使うために長い間大切にされていたブランディのボトルを予備から持ち出しました、そしてその日のためだけにクリスマス・プラム・プディングを作り、私たちがこの贅沢を彼らと共有することを要求しました/しかし彼らは闘いが終わったことを今でもほとんど実感していませんでした。そして彼らの中の誰かしらが時折、家の周りに配置されている歩哨の元を巡回することでしょう。

 

彼らが私たちに語った最初のテーマの一つは、亡きベアードのことでした。この勇敢な将校よりも誠実に仲間を愛した将校はほとんどいませんでした。彼は軍隊で最も優秀で熱心な兵士の一人でした。彼はその機転と温厚な性格で有名であり、自分の職務を非常な熱心さで研究しました。彼の冷静さはその熱意と同じく顕著でした。彼は苦しみ、間違いなく死ぬことを知っていたにもかかわらず、快活で最後まで落ち着いていました。彼はこれから自分を待ちうけている兵士の死以外の死を望んだことはない、と言いました/彼は任務を遂行し、兵士としてあるべき姿で部下を率いました。そして決して運命を嘆くことはありませんでした。彼は家族に最後のメッセージをいくつか送り、そして顔には笑みを浮かべ、そして最後の最後まで自らの職務について考え、仲間の計画の成功を祈り、そして別れを告げたのでした。

 

 

写真 バッサーノ写真館、オールド・ボンド・ストリート

J・マクドナルド・ベアード大尉

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彼は3月4日の朝に死去し、いたる所で敵が発砲する中、真夜中に砦の正門の外に埋葬されました。二ケ月と少し後、救援部隊の前衛旅団がチトラルに到着したとき、ガタクレ将軍は彼の墓の上で弔事を読みました。三年前にフンザ遠征にベアードとともに従軍し、そこでビクトリア十字章を受けた王立砲兵隊のアイルマー少佐は彼の思い出のために墓石を建て、自身の手で碑文を刻みました。そして彼の仲間や同国人は、今や彼は遠く離れているにもかかわらず、その墓がおろそかにされることはなく、彼に続く兵士たちによって常に大事にされていることを知るでしょう。

 

亡きベアードの次に駐屯部隊の将校たちが最も感慨深く語ったのは、シーク隊が示した規律と決意の献身的で高貴な精神についてでした。四百人近くがいた駐屯地の中で、彼らの数は百人に過ぎませんでした。しかし将校たちは彼らがいなければ決して持ちこたえられなかった、そしてこのシーク隊がいなかったなら彼らのうちの誰一人として今ここにいなかっただろう、と言いました。包囲が狭まり、局面が厳しくなるにつれて、彼らはより意気盛んになるだけでした。波が打ち寄せる岩のように、彼らは静かに自らの力で誇らしげに敵に向かって立っていました。そして厳格な老現地将校であるグルムク・シンが彼らに植え付けた規律意識はとても素晴らしく、攻撃中に病室を出て戦いに参加しようともがいた病人には、その衝動的な勇敢さを許すことなく、兵士の最初の義務は服従することであって、彼らは病室にいることを命令されているのだからそこに留まらなければならない、と命じました。駐屯部隊を救ったのは兵士たちに根付いたこの規律でした。シーク隊が歩哨をしている限り、そしてシーク隊が脅かされた地点を保持している間、タウンゼント大尉は何も恐れることはありませんでした。敵は決してシーク隊の警戒をかいくぐることはできず、誰一人生きてシーク隊の持ち場を突破することはできませんでした。彼らが駐屯部隊を救ったのです、そして将校たちはその任務に厚く感謝の意を表したのでした。

 

 

写真:包囲中にチトラル駐屯部隊の一部を形成した第14シーク中隊

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敵の技量というテーマについても将校たちは特別に長く話し合いました。以前チトラル人はあまり戦闘的な種族とは見られていませんでした/しかし彼らでさえ、ひとたび血が湧き立ったなら、激しく、そしてよく戦いました、そして彼らのパシャン人の同盟者たちは正式に訓練された軍隊の部隊と同じくらい熟練していて勇敢でした。ウムラ・カーンの部下たちは生まれながらの戦士でした/生来戦闘よりもポロとスポーツとダンスを好むチトラル人とは違って、パシャン人は子供のころから戦争のこと以外はほとんど考えていません。彼らは永遠にお互いを襲撃し、お互いの村を攻撃し、イギリスのパブとほぼ同様の密度でその土地に散らばっている砦を包囲し、防御します。したがって彼らはチトラルの包囲においてあらゆる巧妙さを示しました。弾薬を最大限に活用するため、彼らは目標をはっきり見分けることなしには決して発砲せず、そして常に目標を正確に狙えるようライフルを石の上に載せていました。彼らが壁に近づくための塹壕と胸壁の建設で示した技量/彼らが水場への道を繰り返し攻撃し、そして砦の塔や壁に火を放ったことで証明した賢明さ/そして、彼らがこれらの目的を遂行する試みにおいて示した勇気と決意は、包囲された側を最高に感心させました。

 

壁を弱体化させるための彼らの当を得た努力もそれに劣らず注目に値するものでした/そして包囲戦が終わった時防御側は、襲撃者を覆い隠すために運ばれ、砦の壁に向けて配置された巨大なひさしと、三人の男が並んで登ることができる巨大なはしごを見つけました。救援部隊が到着する前に敵はこうした仕組みの助けを借りて、坑道が首尾よく爆破されたなら、献身的な駐屯軍に対する最後の必死の攻撃をしようとしていたのです。ロバートソン氏が彼らとの交渉において常にそう信じるよう注意深く誘導していたので、彼らは防御側の物資は非常に不足しているに違いないと計算していました。彼らはまた現地兵士は士気が低く、いつでも降伏しようとしているに違いないと考えていました。したがって彼らは大いなる苦心の成果を一つ挙げさえすれば、まずチトラルの駐屯部隊を粉砕することができるであろう、それからわずかの部下しか持たず、物資を持たず、通信手段を持たず、今や土地の最悪の隘路の真ん中にいることを知っているケリー大佐を打ち負かすことができるだろう、と考えたのでした。しかし、ハーレーの下で慎重に計画され、見事に実行された出撃は、包囲者のこの最後の最高の奮闘を事実上挫折させ、ケリー大佐の軍隊は巧みな戦術と戦闘における勇敢さによって、敵の最も大事にしていた計画を阻止しました。惨事のちょうど瀬戸際のところでイギリス軍は勝利を収めたのでした/そして、英国人将校は一人の英国の兵士にすら支えられていなくても、自らの頑丈な心と信頼すべき強力な腹心たち、そして彼らが臣民民族の兵士に対して行使できる影響力によってその民族の名誉を維持できることが私たちの栄えある島の歴史に再び記されました/そして、チトラルの防衛と救援の物語はインドの軍事史の中で最も輝かしい章のうちの一つとして後世に伝えられることでしょう。

 

 

図:チトラル砦の包囲中にシェール・アフズルが占領した家

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現在は英国のエージェンシーとなっている

 

 

 

終わり