チャタム伯爵

 

THE EARL OF CHATHAM

from
CRITICAL AND HISTORICAL ESSAYS,
VOLUME ONE

By Thomas Babbington Macaulay

 


チャタム伯爵

評論的、歴史的エッセイ
第1巻より

トーマス・バビントン・マコーリー著

 

 

訳者より:ウイリアム・ピットの第一エッセイから10年後に書かれた後編です。最後の一文はW・チャーチルの唯一の小説“サヴローラ”の中で主人公が蔵書に下線を引いた部分として登場します。
原文:https://www.gutenberg.org/files/2332/2332-h/2332-h.htm

 

チャタム伯爵
(1844年10月)

1. チャタム伯爵ウィリアム・ピットの書簡集。全4巻、8折版。ロンドン 1840.
2. オーフォード伯爵ホレス・ウォルポールがホレス・マンに宛てた手紙。全4巻、8折版。ロンドン: 1843-4.

10年以上前、偉大なチャタム卿の政治生活のスケッチを始めた。その後ジョージ2世の死で一旦中断し、すぐに作業を再開するつもりでいた。しかし説明するのが面倒な事情により、この意図を実行に移すことができなかった。この遅れを残念とは思っていない。というのも現在我々が持っているものと比較すると1834年の時点で我々の手に入った資料はわずかで、満足のいくものではなかったからである。今でもまだ公開されていないいくつかの貴重な情報源を手に入れることができたとはいえ、ジョージ3世の治世の最初の10年間の歴史は不完全にしか知られていないと感じざるを得ない。とはいえ我々は読者諸兄に無益ではなく面白くなくはない物語を提供できる状態にあると考えたいと思う。そこで長い間中断していた仕事に喜んで戻ることにした。

我々はピットをイギリスのアイドルとし、フランスの恐怖とし、全文明世界の称賛の対象とした繁栄と栄光の頂点に置いていた。(*第一エッセイ終了時点)どの方角から風が吹いても、勝利した戦い、占領した要塞、帝国に追加された地域の情報がイングランドに伝わってくる。国内の党派心は16世紀の大規模な宗教的分裂が民衆の心を静寂から解き放って以来、決してなかったほどの無気力に沈んでいた。

これから述べる出来事を明確に理解するためには、イギリスの二大政党が一時的に活動を停止していた原因を明らかにすることが望ましいであろう。

単なる偶然を排除して、ホィッグとトーリーの本質的な特徴を見てみると、それぞれが国家の福祉に不可欠な大原則の代表者であると考えることができる。言うなれば一方は自由の守護者であり、他方は秩序の守護者である。一方は国家の推進力であり、他方は国家の安定力である。一方は帆であり、これがなければ社会の進歩はなく;他方は底荷であり、これがなければ暴風雨の中での安全性はほとんどない。しかし、ハノーヴァー家が即位(*1714年)してから46年の間にこれらの独自の特徴は失われたように思われた。ホィッグ派はプロテスタント王朝を熱心に支持することで市民的・宗教的自由の大義に貢献することができると考えた。トーリー派は革命が生んだ政府を攻撃することで革命に対する嫌悪感を表明することができると考えていた。両者とも次第に目的よりも手段を重視するようになった。両者とも不自然な状況に置かれ;環境に合わない場所に運ばれた動物のように衰弱し、退化していった。宮廷の陽光から離れたトーリーはラップランドの雪の中にいるラクダのようだった。王室の寵愛を受けていたホィッグはアラビアの砂の中のトナカイのようだった。

ダンテはマレボルゲ(*地獄の第八輪)で人間と蛇の奇妙な出会いを見たという。敵同士はひどい傷を負った後しばらくの間、お互いに睨み合っていた。大きな雲が彼らを包んだ後、驚くべき変容が始まった。それぞれの生き物は敵の姿に変身した。蛇の尻尾は二本の足に分かれ;人間の足は絡み合って尻尾になった。大蛇の体から腕が出て;人間の腕は体の中に吸い込まれた。やがて蛇は人となって立ち上がって言葉を発し;人は蛇となって地を這い、シューッという音を立てて去って行った。これと似たような変化がジョージ1世の治世に2つのイギリスの政党に起こった。それぞれの政党が徐々に敵の形と色を帯びていき、最終的にトーリー党は自由の熱狂者として立ち上がり、ホィッグ党は権力の足元に這いつくばって埃をなめていたのである。

確かにこの退廃した政治家たちが単なる観念の問題を議論するとき、そして何よりも自分たちの祖父の行動に関連する問題を議論するとき、彼らは自分たちの祖父がそうであったように依然として異なっているように見えたのである。3度の議会の間、一度も宮廷に反対票を投じたことがなく、会計検査官のスタッフや大きなワードローブのために自分の魂を売る覚悟のあるホィッグは、今でもロックやミルトンから政治理論を学んでいると公言し、ピムやハンプデン(*クロムウェルの仲間)の思い出を崇拝し、1月30日(*チャールズ一世が処刑された日)になるとまず仮面をつけた男(*処刑人)に、次に仮面をつけずにそれをした男に乾杯するであろう。一方、トーリー党員は温和で穏やかなウォルポールを自由の致命的な敵と罵る一方で、ストラフォードとラウドの鉄の暴虐を非難することはできなかった。しかしその時代のホィッグとトーリーのどちらが過去の出来事に対してどのような判断を下すにせよ、当時の現実的な問題に関してはトーリーが改革者であり、それも過激で軽率な改革者であったのに対し、ホィッグは保守的で偏見に満ちていたことは疑いの余地がない。我々自身も同じような原因で同じような結果が隣国で生じているのを見たことがある。15年前にはギゾー氏とヴィルマン氏がジュヌード氏やド・ラ・ロシュ・ジャケリン氏のような敵の攻撃から財産と社会秩序を守らなければならなくなるなどとは誰が信じただろうか。

このようにして、旧騎士党(*王党派)の後継者は大衆扇動者になり;旧円頂派(*議会派)の後継者は廷臣になった。しかし彼らの反感が和らぐまでには時間がかかった;政党の性質として元々の敵意は元々の主義主張よりもはるかに強固に残るものだからである。シドニー(*ゴドルフィン)が奴隷として鼻であしらったであろうホィッグの世代は、ジェフリーズ(*初代男爵、ジョージ1645-1689)が共和主義者として絞首刑にしたであろうトーリーの世代と何年にもわたって死闘を繰り広げていた。

ジョージ1世の全治世とジョージ2世の治世のほぼ半分の間、トーリーは王室の敵とみなされ、王室のあらゆる恩恵から排除された。田舎の紳士のほとんどはトーリー派であったが、ホィッグ派以外はピア(*貴族)やバロネット(*バロンの下、ナイトの上の階級)にはなれなかった。聖職者の多くはトーリー派であったが、ディーン(*修道院長)やビショップ(*主教)に任命されるのはホィッグ派だけだった。どの郡でも裕福で血筋の良いトーリー派の従者たちが自分たちの名前が平和委員会から除外されていると不満を漏らしており、一方で信教の自由や物品税、七年ごとの議会や常備軍に賛成していた低い身分や平凡な生まれの者たちが四半期会議の議長を務め、副統監になっていた。

徐々に和解に向けた動きが出てきた。ウォルポールが主導権を握っていた頃、彼の権力への反感から王位継承者を筆頭とするホィッグ派の大規模かつ強力な組織がトーリー派と同盟を結び、ジャコバイトとさえ休戦した。ロバート(*ウォルポール)卿の失脚後、トーリー派に対する公権剝奪が取り払われた。政権の主要な場所は引き続きホィッグ派で占められており、実際それ以外の方法で埋めることはほとんどできなかった;トーリー派の貴族や郷紳は数や財力では優勢であったものの、彼らの中にはビジネスや討論の分野で優れた才能を持つ人物はほとんどいなかったのである。しかし、そのうちの数人は下級職に就くことができ;この寛容さが全体の気分を和らげる効果をもたらした。ウォルポール辞任後のジョージ2世の最初の謁見(*1742年)は驚くべき光景だった。ブランズウィック家(*ハノーヴァー家)の不動の支持者、ラッセル家、キャベンディッシュ家、ペラム家に混じって、ページ(*小姓)やジェントルマン・ウッシャー(*使用人)には全く知られていない顔ぶれが登場したのである。そのエールやフォックスハウンド(*猟犬)がメンディップ丘陵の近辺やウォーキン周辺で有名な地方の荘園の領主で、白い杖のオックスフォードがアン女王を後見していた時代以来、宮殿の敷居をまたいだことのなかった人々である。

この日から18年の間に両党派は次第に安息の淵へと深く深く沈んでいった。国民が無関心になったのはウォルポール政権が不当な暴力で攻撃されたことも原因の一つである。自然界と同じように、政治の世界でも病的な興奮には病的な気だるさがつきものである。民衆は詭弁、中傷、レトリック、そして国の誇りを刺激するものによって狂わされていた。パンが満ち溢れていてもまるで飢饉が起こっているかのように騒いでいた。それまでどんな大社会も知らなかったような市民的、宗教的自由を享受しながら、彼らはティモレオンやブルータスのように圧制者の心臓を突き刺す、と叫んでいた。政権交代が行われたときの彼らの心境はこのようなものだったが、すぐに政府の制度には何の変化もないことがわかった。当然の結果である。狂信的な熱意が冷淡な無関心に変わったのである。愛国心という言葉は人々の耳を魅了しなくなっただけでなく、残部議会が崩壊した後のピューリタニズムと同じく吐き気を催させるような言葉になった。熱い気まぐれが終わり、冷たい気まぐれが始まったのである;扇動的な技巧や現実の不満でさえも一巡して終わりを迎えた周期的発作を取り戻すまでには時間がかかった。

この静けさを乱そうとする試みが2つあった。追放されたスチュアート家の後継者が反乱を起こし;不満を持つブランズウィック家の後継者が抵抗の先頭に立ったのである。反乱も抵抗も無に帰した。カローデンの戦いでジャコバイト派は壊滅した。フレデリック皇太子(*ジャコバイトを支援していた)の死によって、その指導下に弱々しく戦って父の政府に迷惑をかけていた一派は解散した。皇太子の主な支持者たちは急いで政府と和解し;政治的な無感覚状態は完全なものとなった。

フレデリック皇太子の死から5年後、国民の心は一時的に激しく動揺した。しかし、この興奮はホィッグ派とトーリー派の古い論争とは無関係であった。イングランドはフランスと戦争中であった。戦争は弱々しく行われていた。ミノルカ島が我々から奪われた。我々の艦隊はブルボン家の白旗の前に退却した。最も誇り高く、最も勇敢な国家にとっての初めての屈辱が他のすべての感情を凌駕した。王国のすべての郡や大都市から英国の勇武の名誉を回復する政府を求める叫びが上がった。この国で最も力を持っていたのはニューカッスル公爵とピットであった。勝利と敗北を繰り返しながら、彼らはお互いに単独では立ち行かないことを悟った。国益と自身の野心が彼らを合体するよう促した。彼らの連合によってジョージ3世が即位したときに政権を握っていた内閣が形づくられた。

この有名な内閣の構造を注意深く調べれば調べるほど、様々な、そして相容れないと思われた力の要素を一つの調和した全体にまとめ上げた技量や運に驚嘆せざるを得ない。清廉な誠実さから得られる力、最も卑劣な腐敗した術策から得られる力、貴族のコネクションの強さ、民主主義の熱意の強さ、これらすべてが初めて一緒になったのである。ニューカッスルは連合にウォルポールとペラムから彼に引き継がれた膨大な権力をもたらした。官公庁、教会、裁判所、陸軍、海軍、外交官などは彼の手下で溢れかえっていたのである。ずっと後に記念すべきスケジュールAとB(*法律で決定された境界)を構成することになる自治区(*borough)を代表していたのは彼が推薦した人々であった。何世代にもわたって党派争いの訓練を受け、強固なファランクス(*密集陣形)を組むことに慣れていたホィッグ派の大家族は彼を自分たちの隊長として認めた。一方ピットはニューカッスルが欲しがっていたもの、すなわち情熱をかきたて想像力をかきたてる雄弁、清廉さに対する高い評判、そして何百万人もの人々からの信頼と熱烈な愛を持っていた。

2人の大臣が政府の権限を分割したことは非常に幸せなことであった。それぞれが自分の適性に合った分野を担当し、どちらも相手の分野に入り込もうとはしなかった。ニューカッスルは国庫、市民と教会の庇護、議会議員への賄賂に使われていた諜報部の一部の資金の処理を担当した。ピットは国務大臣として戦争と外交の指揮を執った。このようにして政府の厄介で疫病的なあらゆる下水道の汚物が一方の水路に流れ込んだ。もう一方の水路には明るいものや汚れのないものだけが流れていた。意地悪で利己的な政治家たちは理事職や金の棒、リボン(*綬章)を欲しがってリンカーンズ・イン・フィールズの角にある大邸宅に集まってきた。謁見のたびに18~20着の主教服が現れた;最初の昇格かその後の移動のどちらかをニューカッスルに負っていない高位聖職者は一人もいないと言われていた。政府の主な力の源泉となる庶民院の浮動票を持つメンバーが現れた。1人目は自分の執事に物品税徴収の職を望んだ。2人目は自分の息子に聖職禄を望んだ。3人目は自分は常に陛下とプロテスタントの継承者を支持してきたが、前回の選挙は非常に高くついた、ポットウォローパー(*自治区において大鍋で煮炊きするような規模の家の家長に選挙権を与える制度)には良心がない;やむを得ず抵当を入れて金を借りたのだが500ポンドについて誰に頼っていいのかわからない、などとささやいた。公爵は全員の手を握り、全員の肩に腕を回し、全員の背中を叩き、ある者は金を、ある者には約束を与えて送り出した。ピットはこのようなやりとりには毅然とした態度で臨んでいた。彼は自分自身が清廉でありたいだけではなく、他人を堕落させるような嫌な仕事はしたくないと思っていた。しかし議会で20年、公職で10年を過ごして政府がどのように運営されているかを知らなかったわけではない。彼は同僚たちが大規模な贈収賄を行っていることを完全に理解していた。賄賂を嫌悪しながらもそれを抑えることに絶望し、またこのような時代に賄賂なしで耐えられる内閣があるだろうかと疑問に思い、それを見ないようにしようと決心した。彼は何も見ず、何も知らず、何も信じない。儲かる契約の株の話や、コーンウォールに都市自治体を確保する方法について彼に相談しに来た人たちは彼の傲慢な謙遜にすぐに間が悪い思いをした。彼らは彼を買いかぶりすぎたのである。そのようなことは彼の度量を超えていた。確かに遠征や条約に関する彼の稚拙な助言は恵み深い君主によって寛大に聞き入れられるであろう。誰が北米で指揮をとるべきか、誰がベルリンの大使になるべきかという問題であれば同僚たちは恩着せがましく彼の意見を採用するであろう。しかし彼は財務大臣には微塵も影響力がなく、あえて乗船税関監視官の地位すら求めることすらできなかった。

彼が人気を博したのは雄弁さや戦争管理の才能より、その見よがしの純潔さに負うところが大きかったのではないかと疑われるかもしれない。出生や財産の恩恵を受けずに偉大な平民が、宮廷や貴族の嫌悪にもかかわらず自らをイングランドの第一人者とし、イングランドを世界で第一の国としたこと、リスボンからモスクワまですべての宮殿で彼の名前が畏敬の念を込めて語られていること、彼の戦勝碑が地球全体にあること、しかし彼は依然として肩書きもリボンもなく年金も職位もない、ただのウィリアム・ピットであることがどこでも喜びと賞賛をもって語られていた。国を救った後、引退するときには馬車の馬と銀の燭台を売らなければならない。腐敗の汚点が広範囲に広がっていたが彼の手はきれいだった。その手は不名誉の代償を受け取ったことも与えたこともなかった。このようにして連合は人間の高い部分から低い部分まですべての支持を集め、美徳とマモン(*悪徳としての富)の力を結集して強くなっていったのである。

ピットとニューカッスルが協調して首席大臣を務めた。下級ポストは公然のジャコバイトを除いてあらゆる党派と少数の党派を政府に参加させるという原則に基づいて補充されていた。またその能力や状況から役職に就くと役に立つ、あるいは対立すると厄介な存在になると思われるすべての公人もいた。

当時はホィッグ派が圧倒的に大きな権力を握っており、彼らはそれを決まりきった権利と考えていた。政権を支えていたのは大ホィッグ・コネクションと呼ばれるもので半世紀近くの間、国内で常に最高の影響力を持っており、地位、富、自治区の利益、強固な組合から絶大な権威を得ていた。ニューカッスルを頂点とするこのつながりにはキャベンディッシュ家、レノックス家、フィッツロイ家、ベンティンク家、マナーズ家、コンウェイ家、ウェントワース家をはじめとする多くの名家が属していた。

他にも2つの強力なホィッグ・コネクションがあり、どちらかが強力な反対勢力の核になったかもしれない。しかし政府内にはこの2つを受け入れる余地があった。彼らは「グレンヴィル派」と「ベッドフォード派」と呼ばれていた。

グレンヴィル派のトップはリチャード・テンプル伯爵であった。彼の管理能力や議論の才能は決して高いものではなかった。しかし彼の莫大な財産、乱暴で無節操な性格、落ち着きのない活動、そして派閥の最も卑劣な戦術によって内閣にとって最も手ごわい敵の一人となったのである。彼は玉璽を保管していた。弟のジョージは海軍の会計役だった。ピットは彼らの妹と結婚しており、最も妻に甘いピットは彼らと親密な関係にあると思われていた。

ベッドフォード派、すなわち敵側が言うところのブルームズベリー・ギャングはベッドフォード公爵ジョンに率いられていると公言していたが、実際には彼らが選んだ場所に彼を連れて行き、彼が自分の意思では決して行かないような場所に連れて行くこともしばしばあった。公爵ジョンは頭脳も心も優れた資質を持っていたので、もし彼が友人たちの影響をあまり受けず、友人たちを選ぶときにもっと運が良ければ間違いなく立派な人物になっていたことであろうし、場合によっては傑出した人物になっていたかもしれない。彼らの中には正当に評価されるべき部分を持った人物もいた。しかし賛辞はここで終わりにしなければならない。サンドウィッチ(*第4代伯爵)とリグビー(*リチャード)は、優れた論客であり、愉快な仲間であり、巧妙な陰謀家であり、商売や選挙活動のあらゆる技術の達人であり、公私ともに恥知らずな不道徳者であった。ウェーマスには天性の雄弁があり、彼がどれほど勉強していないかを知っている人たちを驚かせることもあった。しかし彼は怠惰で乱暴者であり、早くからサイコロ賭博で立派な財産を、酒で立派な体質を損なっていた。公爵の富と権力、そして一部の郎党の才能と大胆さは最強の内閣を大いに悩ませたかもしれない。しかし彼の援助は確保されていた。彼はアイルランド総督であり;リグビーは彼の秘書であり、派閥全員が政府の施策を忠実に支持していたのである。

少し前まではウィリアム・マレーとヘンリー・フォックスという2人の人物がピットと庶民院の主導権を争うと考えられていた。しかしマレーは貴族院に移され、王座裁判所の主席判事となっていた。フォックスは確かにまだ庶民院にいたが、彼の積極的な支持は得られなくとも少なくとも彼の黙認を得る手段は見つかっていた。フォックスは貧乏人であり;親ばかな父親だったのである。膨大な費用がかかる戦争中の主計長官は当時の政府の裁量内にある最も金になる役職であった。この役職がフォックスに与えられた。数年で巨万の富を築き、愛息チャールズを十分に養うことができるという展望には抗しがたい魅力があった。庶民院を指導し、内閣に参加した後にいくら利益があるとはいえ下級職に就くのは確かに大きな下降である。しかしヘンリー・フォックスの人格には個人の位階に対する頑なな姿勢は見られなかった。

他にも何らかのつながりで政府に所属していた有力者たちをすべて列挙する時間はない。この時代の第一の法律家と言われるハードウィック、この時代の第一の財政家と言われるレゲ、鋭敏で機転の利くオズワルド、大胆でユーモラスなニュージェント、全人類の中で最も聡明で多才なチャールズ・タウンゼント(*1725生、三代目タウンゼント子爵の次男)、エリオット、バリントン、ノース、プラットなどが挙げられる。実際、我々の記憶によれば庶民院全体で優れた能力を持っていながら政府に関係していない人物は2人しかいなかった。ジョージ・サックヴィル卿とバブ・ドディントン卿のことである。

公務員や内閣のメンバーのほとんどは評判の良いホィッグ派であったが、トーリー派が採用されないわけではなかった。ピットは彼らの多くに民兵の指揮権を与え、彼らの収入とそれぞれの郡での重要性を高めていた。党員の中にはココアの木で食らったパンチ(*昔の遺恨)のことでまだ不平を言っている者もいたが、庶民院で不平を言っている者の中でピットの靴のバックルから目を離そうとする者は一人もいなかった。

このように反対意見はまったくなかった。というよりも、どのような分野で反対運動が起こりそうなのかを予測できるような兆候すら見られなかった。議会がその重要な機能を放棄したかのような状態が数年続いた。4回の会期中に発行された庶民院の日誌には党派的な問題で分裂があった痕跡はない。前例のないほどの大規模な歳出が議論なしに採決されたのである。この時期に最も活発に行われた議論は道路法案と囲い地法案に関するものだった。

年老いた王は満足していた;そして彼が満足しているかどうかはほとんど問題ではなかった。彼がその気になったとしてもこれほど強力な内閣から自分を解放することは不可能だったであろう。まったく彼にはそのような気持はなかった。確かにかつてはピットに強い偏見を持ち、ニューカッスルに何度も悪用されたこともあったが、ドイツでの戦争が活発かつ成功し、公務がすべてスムーズに行われるようになったことで王の心に好ましい変化が生じたのである。

これが1760年10月25日、ジョージ2世が急死し、当時22歳だったジョージ3世が国王に就任した時の状況である。ジョージ3世の状況は、祖父や曾祖父の状況とは大きく異なっていた。イングランドの君主が国民の誰からも愛されなくなってから何年も経っていた。ハノーヴァー家の最初の2人の王は、多くの場合、功績の欠陥を補う遺伝的権利も、多くの場合、称号の欠陥を補う個人的資質も持ち合わせていなかった。王子は輝かしい先達の長い家系から生まれた生得権によって統治されていれば、美徳や能力が低くても人気が出るかもしれない。簒奪者であってもその非凡な才能が統治する国を救ったり、強大化させたりしたならば人気者になることができる。おそらく現代ではフランツ皇帝(*オーストリア)とその娘婿のナポレオン皇帝ほど臣民の愛情を強く惹きつけた支配者はいないであろう。しかしナポレオンに勝るとも劣らない称号を持ち、フランツに勝るとも劣らない理解力を持つ支配者を想像してみて欲しい。リチャード・クロムウェル(*オリバーの息子)はそのような支配者であったが、彼は腕を振り上げられるや否や世界中の嘲笑の中、抵抗することなく倒れてしまった。ジョージ1世とジョージ2世はリチャード・クロムウェルと似たような境遇にあった。彼らがリチャード・クロムウェルのような運命から救われたのはホィッグ党の熱心で有能な活動と、国民全体にブランズウィック家と教皇のどちらかを選ぶしかないという確信があったからである。しかし数え切れないほどの証拠が示すようにチャールズ1世、チャールズ2世、ジェームズ2世がその最大の欠点にもかかわらず、また最大の不幸の中にあっても受けていた献身的な愛情をゲルフ家(*ハノーヴァー朝)はどの階級からも受けていなかった。資力と剣を駆使して新王朝を支えたホィッグ派の人々は献身的な忠誠心という感情とは無縁の、いや、ほとんど相容れない原則に基づいて行動していた。穏健派のトーリーは外国の王朝はより大きな悪を恐れるがために我慢しなければならない大きな悪である、と考えていた。ハイ(*伝統重視の)・トーリーの目には、選帝侯は強盗や暴君の中でも最も憎むべき存在に映っていた。選帝侯の頭には他人の王冠が乗っており、その手によって勇敢で忠実な人々の血が流されていた。このようにイングランド王は長年にわたって多くの臣民から個人的に強い嫌悪感を抱かれる一方、誰からも個人的に強い愛着を抱かれることはなかった。まったくこのような支持は彼らのためではなく、彼らが倒れることで危険にさらされるであろう宗教的・政治的制度のためになされたものであった。

ジョージ2世の治世の終わりには国民の半数が抱いていた長い間のブランズウィック家に対する嫌悪感は消えていたが、ブランズウィック家に対する愛情はまだ芽生えていなかった。実際、前国王の人物像には尊敬や優しさを感じさせるものはほとんどなかった。彼は我々の同胞ではない。彼は30歳になるまで英国の地を踏んだことがなかった。彼の話し言葉には外国での生まれ育ちが表れていた。生まれ故郷への愛は彼の性格の中で最も好ましい部分ではあるが、そのために英国の国民に好かれることはなかった。セントジェームズをヘルンハウゼンと交換できたときほど彼が幸せだったことはなかっただろう。毎年のように彼が大陸へ行くために我が国の艦隊が使われており、王国の利益は彼にとって選帝侯の利益とは比べものにならなかった。それ以外の面では彼には退屈なとき品行方正である資質も、放蕩を魅力的なものにする資質もなかった。彼は悪い息子であり、悪い父親でもあり、不貞な夫であり、優雅でない恋人でもあった。彼の記録には寛大な行動や人道的な行動は一つもなく;多くの卑劣な例や、彼が縛られていた憲法の強い拘束力がなければ国民を不幸にしていたかもしれないような残酷さがあった。

彼は崩御した;そして一気に新しい世界が広がった。若い王は英国生まれだった。彼の趣味や習慣は良いものも悪いものもすべてイギリスのものだった。臣下の誰もが彼を非難することはできなかった。スチュアート家の支持者の残党でさえ彼に簒奪の罪を負わせることはできなかった。革命、和解法、1715年と1745年の暴動の鎮圧について彼は責任がなかった。ダーウェントウォーターやキルマーノック、バルメリノやキャメロンの血は彼には流れていない。古い家系が追放されてから50年後に生まれ、ハノーヴァー朝の家系の4代目、3人目の王位継承者として生まれた彼は世襲権を主張することができたかもしれない。彼の年齢、外見、そして彼の性格について知られているすべてのことが世間の好意を集めた。彼は若々しく、人柄も話し方も好感が持てるものだった。彼はスキャンダルにまみれておらず;お世辞を言うにしても目に余るような不条理なしにその多くの高貴な美徳を称えることができたであろう。

したがって最近では魔女信仰や巡礼の習慣と同様に時代遅れと思われていた忠誠心の感情が彼の即位の日から復活し始めたことは不思議ではない。特にトーリー派の人々は常に国王を崇拝する傾向があり、自分たちがひれ伏すことのできる偶像がないことを長い間心苦しく思っていたが、久しぶりに崇拝する新しい子牛を見つけたアピスの神官たちのように喜んでいた。すぐに明らかになったのはジョージ3世が国民の一部から、その2人の前任者に抱いていた感情とは全く異なる感情を持って見られているということだった。彼らは単なる第一治安判事、総督、オランダ総督に過ぎなかったが;ジョージ3世は断然王であり、天から油を注がれ、国民の鼻の息(*主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。創世記2章7節)であった。トーリー党のやもめ暮らしと服喪の年月は終わった。ディド(*カルタゴ建国の女王)は前夫の冷たい灰に十分長く操を立てていたが;ついに慰めてくれる存在を見つけ、そしてそこに確かに昔の恋人の面影を見たのである。ハーレー(*ロバート・ハーレー:トーリー党)の黄金時代が戻ってくる。サマセット家、リース家、ウィンダム家が再び王座を取り囲むであろう。ドドリッジと文通したり、ウィストンと握手することを恥としなかった広教派の高位聖職者たちは、サウスやアッターベリーのような気質の聖職者たちに引き継がれるだろう。これまでスチュアート家に対して顕著に示されてきた献身は敗戦、没収、追放にも耐え、背信行為、圧迫、恩讐などにも耐えてきたが、今やブランズウィック家に全面的に移動された。ジョージ3世が騎士たちや高教会派(*形式を重んじる保守的教派)の人々の敬意を受けさえすれば、彼は彼らにとってチャールズ1世やチャールズ2世のような存在になるはずである。

このようにして長年疎遠になっていた人々から即位を歓迎された皇太子は生まれながらにして強い意志と、もっと厳しい名前が付けられてもおかしくないほどの堅固な気性を持ち、実際のところ鋭く広い理解力は持っていなかったが、ビジネスマンとしての資質は備えていた。しかし彼の性格はまだ完全には発達していなかった。彼は厳格な隔離生活の中で育った。未亡人プリンセス・オブ・ウェールズを非難する人々は彼女がその心を独占するために子供たちを社交界から遠ざけていたと主張した。しかし彼女はそれとは全く異なる説明をした。彼女は自分の息子や娘たちが道徳的に危険のない範囲で世間と交わることができるならば喜んでそれを見守りたい、と言った。しかし上流階級の人々の不品行ぶりは彼女を悩ませた。若い男たちは皆放蕩者であり;若い女たちは求愛を待つのではなく、自分から求愛していた。彼女は自分が最も愛する人たちをこのような社会の不潔な影響にさらすことに耐えられなかった。ヨーク公、カンバーランド公、デンマーク王妃を育てた教育システムの道徳的な利益についてはおそらく疑問が湧くことであろう。ジョージ3世は確かに放蕩者ではなかったが王位に就いたときには心が半分しか開かれておらず、しばらくの間、完全に母親と「ストールの花婿(*身辺世話官)」であるビュート伯爵ジョン・スチュアートの影響の下にあった。

ビュート伯爵は間もなく彼が統治することになるこの国では名前すら知られていなかった。彼は成人して間もなく議会の最中に発生したスコットランド代表の貴族の空席を埋めるために選ばれたのだった。彼はトーリー派に浮動票を投じることでホィッグ派の閣僚たちの反感を買い、次の解散で議席を失って、その後再選されることはなかったという。彼が政治の世界に身を置いてから20年近くが経過していた。そのうちの何年かはヘブリディーズ諸島の一つにある自分の邸宅で過ごしていたが、その隠居後にフレデリック皇太子の家臣の一人として登場したのである。ビュート卿は公的な生活から遠ざかっている間に余暇を楽しむための様々な方法を見つけ出していた。素人芝居ではなかなかの役者だったが、特にロサリオ(*Nicholas RoweのThe Fair Penitentに出てくる放蕩者)の役では大成功を収めた。画家も風刺家も注目するその美しい脚は彼が舞台に立つために必要な条件のひとつだった。彼は仮面舞踏会用の古風で趣のある衣装を考案した。幾何学、機械学、植物学にも手を出した。古美術や芸術作品にも興味を持ち、絵画、建築、詩の審査員としても活躍していた。彼は綴りを間違えたと言われている。まったく現代では誤字脱字は無知の証明とされているが、100年前の人に同じルールを適用するのは不公平である。チャールズ・グランジソン卿(*サミュエル・リチャードソン1689-1761の小説に出てくる人物)を主人公とする小説が出版されたのはビュート卿がレスター・ハウス(*フレデリックの住居)に登場した頃である。読者の皆さんはシャーロット・グランジソン(*主人公の娘)が二人の恋人について記したことを覚えているだろうか。一方はフランス語とイタリア語を流暢に話すファッショナブルな準男爵であるが、正書法(*言語を文字で正しく記述する際のルールの集合)に反する行為をしなければ自国語で一行も書けない;他方は若い貴族の中でも最も立派な見本で数寄者のような存在であり、地方の領主にしてはかなり上手に綴っていると書かれている。全体的に見てビュート伯爵は教養ある人物と言えるであろう。疑いの余地のない名誉の持ち主でもあった。しかし彼の理解力は狭く、その態度は冷たく高慢であった。彼の政治家としての資質を最もよく説明したのはフレデリックだが、彼はしばしば自分の部下を嘲笑うという、王侯貴族らしからぬ贅沢をしていた。殿下は「ビュート、君は何もすることがないドイツの小さな宮廷で特使を務めるのにふさわしい人物だ」と言った。

「ストールの花婿」が王太后の寵愛を受けている、というスキャンダルがあった。彼は間違いなく彼女の秘密の友人だった。この2人が王の心に及ぼした影響は一時的には限りなく大きいものだった。王太后は女性であり、しかも外国人であるため国務に関する賢明な助言者にはなり得なかった。伯爵は政治の世界で見習いをしたとすら到底言えない。彼の政治観はキュー(*植物園)やレスター・ハウスでフレデリックを囲んでいた社交界で培われたものであった。この社交界は主に王子が丁重に接してくれたためにハノーヴァー家と和解し、王子が即位した際には高い地位を得られるという希望を抱いたトーリー派で構成されていた。彼らの政治信条はトーリー主義の固有の変種であった。それは17世紀のトーリー派でもなく、19世紀のトーリー派でもない。それは、フィルマーやサシェベレルでもなく、パースヴァルやエルドンでもなく、ボリングブローク(*初代子爵、ヘンリー・セント・ジョン、トーリー派、1678-1751)が主治医であったと考えられる一派の信条であった。この信条はホィッグ派が長く支配していた間に生じたいくつかの大きな悪弊を指摘し、正当に非難したという点では称賛に値する。しかし悪事を指摘して非難するのは有益な改革を提案するよりもはるかに簡単であり;ボリングブロークが提案した改革はまったく非効率的であるか、あるいは除去できるよりもはるかに多くの悪を生み出したことであろう。

革命は国家をある種の悪から救ったが同時に―人間が何よりも不完全なものであるが如く―新たな解決策を必要とする別の悪を誘発したり助長したりした。自由と財産は君主の大権の攻撃から守られていた。良心は尊重された。ウィリアムとメアリーを王位に就かせた文書(*権利章典)で厳粛に認められた権利をどの政府も侵害しようとはしなかった。しかし新しい制度の下で公共の利益と公衆道徳が腐敗と派閥によって深刻な危機にさらされたことは否定できない。スチュアート家との長い戦いの間、最も賢明な政治家たちの主な目的は庶民院を強化することであった。闘争が終わった、勝利した、庶民院が国家の最高権力者となった、それまで代議制に潜んでいたあらゆる悪弊が繁栄と権力によって急速に発展していった。行政府が庶民院に対して実質的な責任を負うようになって間もない頃、庶民院は国家に対して実質的な責任を負っていないように見え始めました。構成機関の多くは個人の絶対的な支配下にあり、その多くは悪名高い最高入札者の指揮下に置かれていた。討議内容は公表されなかった。一人の紳士がどのように投票したか、外で知らされることはほとんどなかった。このように内閣は議会に対して説明責任を果たしていたが、議会の多数派は誰に対しても説明責任を果たしていなかった。このような状況では議員が自分の票に支払いを要求し、票の対価を上げる目的で組合を結成し、重要な局面ではストライキを予告して多額の報酬を要求するのは最も自然なことである。このようにしてジョージ1世とジョージ2世のホィッグ派の大臣たちは汚職をシステム化し、巨大な規模で実践せざるを得なかったのである。

このような乱用の原因を正しく知っているなら、その解決策を間違えることはない。その解決策とは庶民院から国家における重みを奪うことではないはずである。なぜなら票の重要性がなくなれば票を買うことはなくなるだろうし、詐欺師が団結しても何も得られないとなれば団結することはなくなるだろうからである。しかし専制君主制を導入して腐敗や派閥を破壊することは、悪いものをより悪いもので治すこととなる。適切な解決策は明らかに庶民院が国民に対して責任を負うようにすることであり、これは2つの方法で実現されることになっていた。第1に議会の議事を公開し、それによってすべての議員が世論の法廷で裁かれるようにすること、第2に庶民院の憲法を改革して品行方正で自立した有権者によって選出されなかった者を庶民院に座ることができないようにすることである。

ボリングブロークとボリングブロークの弟子たちは国家の病気を治療する方法として全く異なる方法を推奨していた。彼らの理論とは、愛国心のある国王が大権を積極的に行使するならば、すべての派閥的連合体が一気に解消され、敢えて議会議員を買収する必要がなくなるというものである。国王は自分が主人となり、いかなる者にも束縛されず、党派を超えて信頼できる者を閣僚に迎え、家臣が不道徳な手段で選挙母体や議員団に影響を与えないようにすると決意するだけでよい。この子供じみた計画はこの計画を提案した者が対処しようとしている悪の本質を何も知らないことを証明している。腐敗や派閥が蔓延している真の原因は、国民に対して責任を負わない庶民院が国王よりも権力を持っていることにあった。ボリングブロークの救済策を適用できるのは庶民院よりも強力な国王だけである。愛国者である王子はその同意なしにスループ(*10-20門の砲を持つ戦闘用帆船)の装備も、大隊の武装も、大使館員の派遣も、自分の家計の負担さえもできないのに、庶民院に反抗してどのように統治できるというのだろうか?彼は議会を解散させるつもりだったのであろうか?サドベリーやオールドサルムの代表者の悪行を訴えて何になるというのだろうか?密告者を送れというのか?船舶税を徴収するつもりだったのだろうか?もしそうだとしたら、この自慢の改革はおそらく内戦によって始まり、完了したとしても絶対王政の確立によって完了するに違いない。それとも愛国者である国王が庶民院を巻き込んで、その高潔な計画を実現しなければならないのだろうか? どのような手段で?腐敗の力を利用せずに、どのような動機づけでドッディントン家やウィニントン家に働きかけるのだろうか。習慣によって強化された臆病さが、美徳と団結に関するいくつかの素晴らしい申し渡しによって眠らせられることになるのだろうか?

この理論は不条理ではあったが、特に著述家の間には多くの支持者がいた。そしてその結果は賢明な人であれば予見していたように、最も悲惨で滑稽な失敗に終わった。

若い王が即位したまさにその日に、大きな変化の到来を示すいくつかの兆候が現れた。国王が王立評議会で行った演説は内閣には提出されなかった。この演説はビュートが作成したもので、先王の統治時代の情勢を反省していると解釈されかねない表現が含まれていた。ピットはこれを諌め、印刷する際にはこれらの表現を和らげるよう懇願したが、ビュートが譲歩したのは数時間後のことであり、ビュートが譲歩した後も国王は翌日の午後まで抵抗した。この奇妙な争いが起こった同じ日に、ビュートは枢密院の宣誓をしただけでなく、内閣にも入れられた。

その直後、国務大臣の一人であるホールダネッス卿が宮廷との共同計画に基づいて大臣を辞任した。ビュートは即座にその空席に任命された。すぐに総選挙が行われ、新長官は当時唯一可能な方法であったスコットランドを代表する16人の貴族の一人として議会に参加した。

閣僚たちがしっかりと団結していたならば宮廷に対抗できたかどうかは疑わしい。ホィッグ派貴族の議会への影響力とピットの天才、美徳、名声が組み合わさって抗しがたいものになっていたかも知れない。しかしジョージ2世の内閣には潜在的な嫉妬や敵意があり、それが今になって顕在化し始めたのである。ピットは長年の盟友であった財務大臣(*Chancellor of the Exchequer=大蔵大臣)のレゲと疎遠になっていた。閣僚の中にはピットの人気を妬む者もいた。他の者は、故ないことではなかったが、彼の威圧的で高慢な態度に嫌悪感を抱いていた。また彼の政策の一部に率直に反対する者もいた。彼らは彼が国を屈辱のどん底から栄光の絶頂に引き上げたことを認め、彼がエネルギーと能力を発揮して戦争を遂行し、見事に成功させたことを認めていたが、国の資源が例えようもなく枯渇し、モンタギューやゴドルフィンが愕然とするような速さで公的債務が増加していることを仄めかし始めた。我々の艦隊や軍隊の獲物のいくらかは有益なだけではなく誇るべきものであると認められていた。しかしジョージ2世が亡くなった今、宮廷人はあえてなぜイングランドがドイツの2大国間の紛争(*7年戦争)の当事者にならなければならないのかと問うであろう。ハプスブルク家とブランデンブルク家のどちらがシレジアを支配しているかは我が国には何の関係もない。なぜイギリスの最高の連隊がマイン川で戦っていたのか?プロイセンの大隊になぜイギリスの金が支払われていたのか?大臣は勝利の代償を計算することが自分には相応しくないと考えていたようだ。塔の大砲が撃たれ、通りが灯火で飾られ、フランス軍の旗が戦利品としてロンドンへ凱旋している限り、国民の負担がどれだけ増えようと彼にとってはどうでもいいことであった。むしろ彼の雄弁と成功に魅了された人々が安易に払ってしまい、長く苦しく後悔することになる犠牲の大きさを誇らしく思っているようであった。浪費や横領に対する歯止めはなかった。フェルディナンド王子の陣営から戻ってきた輜重監たちは入植地を買い取り、王国の古い貴族たちの豪華さに匹敵するような宮殿を建てていた。我が国は4年間の戦争で最も巧みで経済的な政府が40年間の平和を維持するのに必要な額以上の借金をしてしまったのである。しかし平和の見通しは以前にも増して遠のいていた。心を痛めた打ちひしがれたフランスがフェアな和解の条件に同意するであろうことには疑いがなかった、しかしピットが望んでいたのはこれではなかった。戦争は彼に力と人気を与え、彼の人生で最も輝いていたものはすべて戦争と結びついており、彼の才能は戦争に特別に適していた。彼はいつしか戦争そのものを愛するようになり、敵との和平よりも中立派との喧嘩を好むようになっていた。

ベッドフォード公爵やハードウィック伯爵もそのように考えていたが、海軍の財務官であるジョージ・グレンヴィルほどこの意見を強く支持していた政府関係者はいなかった。ジョージ・グレンヴィル(*リチャードの弟)はピットの義理の兄であり、常にピットの個人的、政治的な友人の一人とされていた。しかし才能と誠実さを兼ね備えた2人の人物がこれほどまでにお互いに全く似ていないということは想像するのが難しいことである。ピットは姉がよく言っていたように、スペンサーの『フェアリー・クイーン(*16世紀のファンタジー叙事詩)』以外は正確には何も知らなかった。彼は、どんな分野の知識も身につけたことがなかった。彼は財務も駄目だった。彼自身が最も輝かしい華であった庶民院の規則にさえ彼は精通していなかった。公法を体系的に学んだこともなく、実際に公法全体について無知であったため、ジョージ2世はある時、「ヴァッテル(*国際法の権威)を読んだこともない人間が外務の指揮を執っている」と苦言を呈したほどである。しかし、このような欠点を補って余りあるほどの優れた才能、大勢の人々に自信と愛情を抱かせる不思議な力、耳を楽しませるだけでなく血を騒がせ、目に涙を浮かべさせるような雄弁、独創的な計画の立案とそれを実行する力があった。一方、グレンヴィルは生来細部にこだわる人間であった。弁護士として育った彼は、官僚や議会の生活に殿堂(*裁判所)時代の勤勉さと鋭敏さを持ち込んだ。彼はこの国の財務制度全体に精通していると見られていた。彼は議会法に特に注意を払い、庶民院の特権と秩序に関するあらゆることに精通していたため、彼を最も嫌っていた人々でさえ、オンスローの後任として議長を務める人物は彼しかいないと評した。彼の演説は概して有益であり、ときにはその重厚さと真剣さから印象的でさえあったが、決して輝かしいものではなく、概して退屈なものであった。実際、彼が問題の先頭に立っているときでさえ、議会の耳目を集めるのに苦労することがあった。彼は知性だけでなく気質においても義弟とは大きく異なっていた。ピットはお金に全く無頓着であった。お金を手にしようとして手を伸ばすことはほとんどなく、手にすれば子供のように気前よく使ってしまう。グレンヴィルは断然高潔ではあったが、貪欲でけちだった。ピットは興奮しやすい神経の持ち主で、楽天的で、成功や人気に浮かれやすく、侮辱には敏感でありながら、すぐに許してしまう人物であったが、グレンヴィルの性格は厳格で、憂鬱で、粘り強いものだった。彼の最も顕著な傾向は常に物事の暗い面を見ようとすることであった。彼は勝利の最中に常に敗北を叫び、財源が溢れているときには破産を叫ぶ庶民院のカラスのようなものであった。バーク(*エドモンド)は静かで豊かな時代の彼を、オヴィッド(*紀元前43年生まれのローマの詩人)が描いたアテネの荘厳な神殿や豊富な聖域を見下ろし、泣くべきものが何も見つからないことに対して泣かずにいられない悪霊になぞらえて広く称賛された。このような人物に人気があるはずはない。しかしグレンヴィルは人気はなくとも執念で対抗し、時には彼を嫌っていた人々からも尊敬されるようになったのである。

ピットとグレンヴィルがそのような性格上、情勢について全く異なる見解を持っていたのは当然のことだった。ピットは戦勝碑しか見ておらず、グレンヴィルは法案しか見ていなかった。ピットはイングランドはアメリカでもインドでもドイツでもたちまち勝利を収め、大陸の審判者であり、海の主であると自慢した。グレンヴィルは助成金を打ち切り、軍隊の臨時費にため息をつき、国民が1年で800万ドルの借金をしたことを考えると心中でうめき声をあげた。

このように閣僚が分裂した状態であればビュートが付け入るのは難しいことではなかった。最初に倒れたのはレゲであった。彼は先王の治世の終わりにハンプシャー州の選挙でビュートの子飼いを支持することを拒否して若い王を怒らせた。彼は追い出されただけでなく、謁見室で印綬を返却する際に非常に無礼な扱いを受けた。

レゲを好きではなかったピットはこの出来事に無関心であった。しかし危険は今や彼自身にも迫っていた。スペインのカルロス3世は早くからイングランドを激しく憎んでいた。20年前に2つのシチリア(*シチリアとイタリア半島の南半分)の王であったとき、彼はマリア・テレジアとの連合に参加することを熱望していた。しかしイギリスの艦隊が突然ナポリ湾に現れた。そして上陸したイギリス人船長は宮殿に向かい、テーブルに時計を置いて、1時間以内に中立条約に調印しなければ砲撃を開始すると陛下に告げたのである。中立条約が締結され、艦隊は入港から24時間後に湾を出港した。その日以来、謙虚な王子の心を支配することになった情熱は英国という名前に対する嫌悪感だった。彼は最近スペインと西インド諸島の王になったばかりだった。彼は羨望と不安を抱きながら我が国の海軍の勝利と植民地帝国の急速な拡大を目にしていた。彼はブルボン家の出身であり、自分の出身家の苦悩に同情していた。彼はスペイン人であり、スペイン人はジブラルタルやミノルカが外国の勢力に支配されているのを見るのは耐えられない。そんな気持ちに駆られてカルロスはフランスと秘密の条約を結んだ。ファミリー・コンパクトと呼ばれるこの条約によって、2つの大国は明確な言葉ではなく、最も明確な暗示によって共通してイングランドに戦争を仕掛けることを約束したのである。スペインはアメリカの財宝を積んだ艦隊が到着するまで敵対行為の宣言を延期した。

条約の存在をピットに秘密にしておくことはできなかった。ピットは彼のような能力と行動力を持つ人物がとるべき行動をとった。彼はすぐにスペインに宣戦布告し、アメリカから来る艦隊を迎撃することを提案した。彼はハバナとフィリピンの両方を遅滞なく攻撃することを決意したと言われている。

彼の賢明で毅然とした助言は却下された。ビュートは真っ先に反対を表明し、内閣のほぼ全員がこれを支持した。閣僚の中にはピットの情報が正しいかどうかを疑う者や、疑う傾向のある者がいたし、彼が提案したような大胆で断固とした方針を勧告する責任を恐れている者もいた。また彼の出世に嫌気がさし、口実をつけてでも彼を追い出したいと考えている者もいた。同僚の中で彼に賛同したのは義兄の二代目テンプル伯爵(*リチャード・グレンヴィル=テンプル、ジョージ・グレンヴィルの兄)だけだった。

ピットとテンプルはその職を辞した。(*1761年)若い国王はピットに対して、別れ際に最も丁重な態度で接した。他の場所では高慢で激しやすいのに王の謁見室の中ではいつも柔和で謙虚だったピットは感動して涙を流した。国王と寵臣は何か実質的なものを王室の感謝の印として受け取るよう求めた。カナダの総督になってみないか?年間5,000ポンドの給料がついている。当該地に居住していなくても良い。確かに当時の法律ではカナダ総督は庶民院議員になることができない。しかしピットが議会の議席を持って政権に参加することを許可する法案を提出し、その前文において王が国に感謝を要求すればよい。ピットは慎重を期して、自分のことよりも妻や家族のことを心配している、そして王室の善意の印が自分にとって最も大切な人々のためになるものであれば、これほど嬉しいことはないと答えた。この暗示は採用された。国務大臣の退任を発表した同じ官報には、彼の公務における偉大な功績を称えて、彼の妻が自身の権利として有爵夫人になったこと、彼自身には3世代にわたって年間3,000ポンドの年金が与えられることが発表された。偉大な大臣に与えられる報酬や栄誉が国民の心を懐柔する効果があると考えられたことは間違いない。また部分的にお金を軽んじることによって獲得されていた彼の人気が、年金によって損なわれるとも考えられたのかもしれない。実際、彼が国を売ったと非難する誹謗中傷の数々がすぐに現れた。彼の真の友人の多くは彼の人格の尊厳を第一に考えて、宮廷からのいかなる金銭的報酬も断ったほうが良かったと思った。しかし彼の才能、美徳、職務に対する一般的な意見は変わっていなかった。いくつかの大きな町から彼に宛てた挨拶が送られて来た。ロンドンではさらに顕著な形で彼への賞賛と愛情が示された。辞任後まもなく「市長の日」がやってきた。国王と王室はギルドホール(*ロンドンの市庁舎)で食事をした。ピットもその客の一人だった。若い君主は花嫁と一緒に公用馬車に座っていたが、驚くべき教訓を得た。彼はほとんど注目されなかった。全員の視線は辞職した大臣に注がれ、拍手喝采は彼に向けられた。彼の馬車が通り過ぎると、通り、バルコニー、煙突の上は歓喜の声に包まれた。女性たちは窓からハンカチを振っていた。庶民は車にしがみつき、従僕と握手し、馬にキスさえした。「ビュートはいらない!」「ニューカッスル・サーモンはいらない!」という叫び声と「ピットよ永遠に!」という叫び声が混ざり合っていた。ピットがギルドホールに入ると、大歓声と拍手で迎えられ、市の行政官たちも一緒になって歓迎した。その間、ビュート卿はチープサイド(*ロンドンの中心部の地名)でヤジられ、物を投げられた。もしも馬車の周りにボクサーの強力なボディーガードをつけるという予防策をとっていなかったら、危険な目に遭っていただろうと思われた。この時のピットの行動を国王に失礼だと非難する人が多かった。実際、ピット自身も後になって自分が間違っていたことを認めている。彼がこのような過ちを犯すようになったのは、後にもっと重大な過ちを犯すようになったのと同じく、乱暴でいたずら好きな義兄テンプルの影響によるものだった。

ピットが辞職した直後の出来事で彼の名声はかつてないほど高まった。スペインとの戦争は彼が予測していた通り避けられないものであることがわかった。西インド諸島からは彼が派遣した遠征隊がマルティニークを占領したというニュースが届いた。ハバナは陥落し、彼がハバナへの攻撃を計画していたことが知られるようになった。マニラは屈服し、彼がマニラへの一撃を計画していたと信じられた。彼が途中で捕らえることを計画していたアメリカからの艦隊はマドリード宮廷が本当に敵意を持っているとビュートが確信する前にカディス(*ジブラルタルのすぐ西)の港で膨大な量の金塊を降ろしてしまった。

ピットが辞職した後の議会は特に大きな嵐もなく終わった。ビュート卿は貴族院で最も重要な役割を担っていた。彼は国務大臣になり、さらには首相にもなったが、俳優として以外は一度も公の場で口を開いたことがなかった。そのため彼がどのような演技をするのかということは少なからず興味を持たれていた。庶民院の議員たちは貴族院の後ろの手摺に詰めかけ、玉座の階段を覆っていた。全体的には演説者が失敗することが期待されていた、しかし彼の最も悪質な聴衆は彼が予想以上に良い演技をしていたことを認めざるを得なかった。彼らは実際、彼の所作を芝居がかったもの、彼の話しぶりを誇張されたものと揶揄した。彼らが特に面白がったのは、彼が強調する言葉のたびに、ためらいではなく気取って長い間を置くことであり、チャールズ・タウンゼントは「分時砲!(*1分ごとに鳴らす号砲)」と叫んだ。しかし一般的な意見は、もしビュートが早くから討論の練習をしていたなら印象的な演説者になっていたかもしれないというものであった。

庶民院ではジョージ・グレンヴィルが主導権を握っていた。その仕事はまだそれほど困難なものではなかったが、ピットは反対勢力の旗を上げることは適当ではないと考えていた。この時期の彼の演説はライバルたちを凌駕する雄弁だけではなく、彼の性格に欠けていた節制と謙虚さが際立っていた。スペインに対して宣戦布告がなされたとき、彼はやがて誰の目にも明らかになったことを予見していたという手柄を正当に主張したが、傲慢で喧嘩腰の表現は慎重に控えた。この控え目さは彼にとってより名誉なことであったが、それは決して穏やかではなかった彼の気性が今では痛風と中傷の両方によって厳しく試されていたからである。廷臣たちが採用していた戦い方はすぐに自分たちに対してはるかに恐るべき効果を持って返って来た。グラブ・ストリート(*タブロイド・ジャーナリズムが集まっていた通り)の小屋の住人の半数はピットを罵倒することでミルク代を支払い、シャツを質から出していた。彼のドイツ戦争、助成金、年金、妻の爵位は、飢えに苦しむヘボ詩人たちの艦隊にとっては牛肉やジン、毛布や小さな石炭の入った籠のようなものだった。庶民院でもあらゆる党派の人々の怒りを買うような尊大さと悪意に満ちた攻撃をこの会期中に一度だけ受けたが;彼は堂々とした忍耐力でその攻撃に耐えた。若い頃の彼は自分を攻撃する者に応酬するのがまったく早すぎるくらいであったが、今は自分の偉大な功績と、全人類の目の中に自分が占めている場所を意識して個人的な争いには敢えて身を投じないことにしていた。「今は」と彼はスペイン戦争に関する討論会で言った。「口論や反論の時期ではない。すべての英国人が自分の国のために立ち上がるべき日が来たのだ。全体で武装し、一つの国民となり、公のこと以外はすべて忘れよう。私が手本を見せよう。誹謗中傷者に悩まされ、痛みや病気に沈んでいても、公のためなら自分の不調も病状も忘れてしまう!」。彼の人生を概観してみると1762年の議会の間ほど、彼の天才と美徳が純粋な輝きを放っていたことはないと思われる。

会期が終わりに近づいたとき、庶民院の黙諾に気を良くしたビュートはさらなる大きな一撃を加えて名実ともに第一大臣となることを決意した。数ヶ月前には強力と思われていた連立政権は崩壊していた。ピットの退任によって政府は人気を失っていた。ニューカッスルは自分が羨ましくもあり、恐ろしくもあった優秀な同僚の失脚を喜んでいたが、自分の破滅が近づいていることは予測していなかった。彼はまだ自分が政府のトップであると自惚れようとしていたが、侮辱に侮辱が積み重なってついに自らを欺くことができなくなった。これまで彼が授ける権限を持っていると思われていた地位は彼に無断で授けられた。また彼の諫言は彼は引退するべき時である、という重大な示唆を呼び起こしただけであった。ある日、彼はビュートにホィッグ派の高位聖職者にヨークの大司教の座を与えるよう迫った。「閣下が彼をそれほど高く評価されているのであれば」とビュートは答えた。「その力を持っておられたときになぜ彼を昇進させられなかったのでしょうか。」老人がいまだ必死にしがみついていたのは難破船だったのである。実際、キリスト教的な柔和さとキリスト教的な謙虚さが、彼の我慢強く救い難い野心に匹敵することは稀であった。ついに彼はすべてが終わったことを理解せざるを得なかった。彼は45年間高官を務めた宮廷を去り、恥と後悔の念を抱いてクレアモントの杉の間に隠居した。ビュートは第一大蔵卿(*First Lord of the Treasury=首相)になった。

寵臣が大きな間違いを犯したことは間違いない。彼がこうして捨ててしまった、いや、敵の手に渡してしまった道具ほど、彼の目的に適ったものは想像できなかっただろう。もしもニューカッスルが第一大臣を務めることができていたら、ビュートは安心して静かに権力の実権を握っていたかもしれない。ホィッグ・コネクションの大幹部が表向きは問題の先頭に立っていたなら、激しい騒動もなく政府のあらゆる部門にトーリー派を徐々に導入していくことができたかもしれない。このことをビュートに強く訴えたのがマンスフィールド卿(*ウイリアム・マレー)である。マンスフィールド卿は現代のトーリズムの父と呼ぶにふさわしい人物であり、庶民院が国家で最も強力な組織であるという状況に合わせて修正されたトーリズムの父であると言えるだろう。ビュートの目を眩ませた理論はマンスフィールドの優れた知性を欺くことはできなかったのである。深く根付いた強大な利害関係者の敵意をビュートが大胆にも引き起こしたことは、冷たく小心な性格のマンスフィールドにとっては不愉快であった。しかし説得は無駄だった。ビュートは忠告に苛立ち、成功に酔いしれ、見せかけだけでなく実際にも政府のトップになろうとしていた。彼は成功のために、そして安全のためにも遮蔽物が絶対に必要な事業に取り組んでいた。彼は必要な場所に素晴らしい遮蔽物が用意されているのを見つけたのに、それをぞんざいに押しのけてしまった。

そして新政府の体制が本格的に始動した。ハノーヴァー家の即位以来、初めてトーリー党が台頭してきたのである。首相自身もトーリー党員であった。ピットの後を継いで国務大臣となったエグレモント卿はトーリー党員でありトーリー党員の息子であった。フランシス・ダッシュウッド卿は体も小さく、経験も浅く、不道徳な性格であったが、トーリー党員であり、ジャコバイトであったという以外には考えられない理由で財務大臣に就任した。王室には数年前までは「King over the water(*ジャコバイトはフランスにいるスチュワート王朝のために水の入った器の上にワイングラスを揚げて乾杯する習慣があった)」に乾杯することを特別に好んでいた人々が集まっていた。国の二大学問機関の相対的な地位は突然変化した。オックスフォード大学は長い間、不満の中心地であった。物騒な時代には本通りに銃剣が並べられ、王の使者がカレッジを捜索していた。また階段講堂で謹厳な博士がまさにキケロ調で(*キケロのような荘重典雅な調子を指すが、キケロは反逆者を弾劾したことでも有名)反逆を語ることを習慣とし;学部生はジャコバイトの乾杯をして満杯を飲み干し、ジャコバイトの歌を合唱していた。歴代の大学長のうち4人は王位要求者に仕えていたことで有名で;他の3人は亡命家族と秘密裏に連絡を取っていたと完全に信じられていた。そのためケンブリッジ大学はハノーヴァー朝の王子たちから特に好意を寄せられており、その庇護に感謝していた。ジョージ1世はケンブリッジの図書館を充実させ、ジョージ2世はケンブリッジの理事会館に多額の寄付をした。その関係者には司教座や首席司祭座が与えられた。大学長はホィッグ派貴族の長であるニューカッスルであり、大幹事はホィッグ派の法律家の長であるハードウィックであった。大学の選出議員は二名ともホィッグ派の援助の下で執務していた。しかし時代は変わった。ケンブリッジ大学はセント・ジェームズ(*宮廷)では比較的冷遇された。オックスフォード大学の挨拶に対する応答はすべてが恵み深く温かみのあるものであった。(*反ホィッグ=王党派のオックスフォードが優遇され、ホィッグ=議会派のケンブリッジが冷遇された、スチュワート派とハノーヴァー派の対立はなくなった)

新政府のキーワードは大権と純潔であった。国王はもはやいかなる臣民の、あるいは臣民連合の操り人形にもならなかった。ジョージ3世は祖父がピットを就任させざるを得なかったように自分の嫌いな大臣を就任させざるを得ないということはない。また、ジョージ3世は祖父がカータレット(*ジョン、第二代グランヴィル伯爵、グレンヴィルと混同しやすい)との別れを余儀なくされたように、自分が尊敬してやまない人物との別れを余儀なくされることもないだろう。それと同時に先王までの時代に発展してきた賄賂の制度は廃止されることになった。若い国王の即位以来、選挙民も議員も機密費で買収されていないことが堂々と宣言された。腐敗や寡頭政治の陰謀から英国を解放し、大陸とのつながりを断ち切り、フランスやスペインとの血なまぐさい高価な戦争を終結させること、これらがビュートが公言していたもっともらしい目標であった。

彼はこれらの目標の一部を達成した。イングランドはその信用に深い汚点を残すことになったがドイツとの関係から撤退した。フランスおよびスペインとの戦争は和平によって終結したが、これは確かに名誉なことでありわが国にとっても利益となることであったが、世界各地で陸海空を問わず、ほとんど途切れることなく勝利を重ねてきたことから来る名誉や利益には及ばなかった。しかしビュートの国内政治の唯一の影響は派閥抗争がより激しくなり、汚職がこれまで以上にひどくなったことであった。

ウォルポールの没落後、ホィッグ党とトーリー党のお互いに対する敵意は沈静化し始め、ジョージ2世の治世の終わりにはほとんど消滅したかに見えた。それが今、力強く蘇ったのである。確かに多くのホィッグ派がまだ在職していた。ベッドフォード公爵はフランスとの条約に署名した。デヴォンシャー公爵は大変不機嫌であったが、まだ式部卿を続けていた。庶民院を率いていたグレンヴィルと、主計局の莫大な利益を黙って享受していたフォックスは常に強力なホィッグ派とみなされていた。しかし国中の人々の大半はこの新大臣を忌み嫌っていた。実際、彼の性格を非難するための人気テーマには事欠かなかった。彼は寵臣であったが;この国では寵臣は常に嫌われる存在であった。フェルトンの短剣がバッキンガム公爵(*ジェームズ1世の寵臣ジョージ・ヴィリアーズ)の心臓に突き刺さって以来、単なる寵臣が政府のトップに立ったことはなかった。この出来事の後、最も恣意的で最も軽薄なスチュアート家は議会や公職においてその才能を証明した人物に政府の指導を委ねることの必要性を感じるようになったのである。ストラフォード、フォークランド、クラレンドン、クリフォード、シャフツベリー、ローダーデール、ダンビー、テンプル、ハリファックス、ロチェスター、サンダーランドは欠点もあったにせよ、能力を認められた人物である。彼らの名声は単に君主の寵愛によるものではない。逆に、彼らは名声を得たからこそ君主に寵愛されるようになったのである。彼らのほとんどは敵対党派で見せた能力と活力によって初めて宮廷の注目を集めたのであった。革命により、カー(*ロバート、初代サマセット伯爵)やヴィリア(*ジョージ、初代バッキンガム公爵)の支配から国を守ることができたと思われた。しかし今、国王の個人的な評価によって公務を全く知らず、議会で口を開いたこともない男が、優れた演説家、金融家、外交官といった人々の頭上に一気に引き上げられたのである。私的侍従だったこの幸運な寵臣はたちまち国務大臣になったのである。政権のトップに立ったとき、彼は初演説を行った。大衆は出来事について簡単な説明を頼みとし、母なる王太后に対する最も粗悪な罵詈雑言があらゆる壁に書き込まれ、あらゆる路地で歌われた。

これだけではない。考えのない挑発行為によって長い眠りから目醒めさせられた党派心は今度はさらに激しく悪質な怒り、つまり国家的敵意を掻き立てることになった。トーリーに対するホィッグの恨みは、スコットランド人に対するイングランド人の恨みと混ざり合っていた。大ブリテン島の2つの地区の人々はまだ完全には融合していなかったのである。1715年と1745年の出来事(*いずれもジャコバイト蜂起)は痛ましくも永続的な痕跡を残していた。コーンヒル(*アバディーン)の商人たちはグランピア山脈から来た脚を露出した(*スカート状の民族衣装キルトを穿いた)山の民が自分たちの現金箱や倉庫を略奪するのではないかと恐れていた。反乱軍がダービーに到着したというニュースが流れ、街中の店が閉まり、イングランド銀行が6ペンスで支払いを始めたブラックフライデーのことを彼らは今でも覚えている。一方、スコットランド人は反乱軍に対する懲罰の厳しさ、軍隊による蹂躙、屈辱的な法律、殿堂の前で棒の上に晒された首、ケニントン広場での銃殺と四つに裂かれた遺体を自然な憤りをもって思い出していた。この寵臣が島のどの地域から来たのかをイングランド人は忘れることはなかった。官公庁、陸軍、海軍は頬の高いドラモンドやアースキン、マクドナルドやマクジリブレイ(*いずれもスコットランド人の姓)で埋め尽くされており、彼らはクリスチャンの言葉づかいができず、中にはクリスチャンのズボンを穿き始めたばかりの者もいる、と南部の人々は叫んだ。木のない丘、ストッキングのない少女、馬の餌を食べる男、14階からぶちまけられた手桶などの古いジョークがこの幸運な冒険家たちに向けられた。スコットランド人の名誉のために言っておかねばならないが、彼らはその思慮分別と自尊心によって報復を自制した。アラブの物語のお姫様のように耳をしっかりと塞ぎ、声高に罵られても動じることなく、一度も周りを見ることなく、まっすぐに黄金の泉に向かって歩いていったのである。

もともと趣味と読書の人とされていたビュートは、昇格した瞬間からメセナ(*BC70生のローマの政治家、芸術のパトロンの代名詞)のような性格になってしまった。文学や芸術を奨励することで民衆を和ませようと考えていたのなら、それは大きな間違いだった。実際、ジョンソン(*サミュエル)を除いて彼が寄付した対象はどれもよく選ばれたとは言えない。また当然のことながら大衆はジョンソンが選ばれたのはその文学的な功績よりも博士の政治的な偏見によるものであると考えた。というのもジョンソンとは激しいジャコビズム以外の共通点がなく、革命への誹謗中傷で投獄されたこともあるシェッベアという哀れな三文文士が『英語辞典』や『人間の願いの虚栄心』の著者に与えられたのと同じような王室の承認の印を与えられたからである。宮廷建築家はスコットランド人のアダム、宮廷画家はスコットランド人のラムジーであり、レノルズよりも好まれていることが述べられた。スコットランド人のマレットは大した文学的名声がなく、性格も悪かったが政府の贈り物を大いに享受していた。スコットランド人のジョン・ホームは「ダグラスの悲劇」で年金と職位の両方で報われた。しかし「吟遊詩人」や「田舎の教会墓地での哀歌」の作者(*トーマス・グレイ)が思い切ってその俸給を必要とし、多くの点で現存する誰よりも適任である教授職を願い出たとき、それは拒否された。そのポストは寵臣の義理の息子であるジェームズ・ローサー卿に顕著な気品と人間的美徳を身につけさせた教育者に与えられた。

このように第一大蔵卿は多くの人々からトーリー派として、多くの人々から寵臣として、そして多くの人々からスコットランド人として嫌われていた。このような様々な源から流れ出た憎しみはたちまち混ざり合い、和平条約に対する非難の声となって一斉に押し寄せて来た。この条約の交渉にあたったベッドフォード公爵は街中でヤジられた。議長をつとめていたビュートは襲われ、衛兵の部隊に辛うじて助けられた。彼は変装しなければ安全に街を歩くことすらできなかった。何年も前に亡くなったある紳士はコヴェント・ガーデンの広場で大きなコートに身を包み、帽子とかつらで顔を隠した寵臣の伯爵を見たことがあると言っていた。大衆が伯爵に奉った尊称はクリスチャン・ネームと称号をもじった「ジャック・ブート(*騎兵用の長靴、強圧的な支配という意味もある)」である。ジャック・ブートは通常ペチコート(*女性)を伴っており、時には絞首台に吊るされ、時には炎に炙られた。宮廷への誹謗中傷は、それまで何年も発表されてきたものよりも大胆で悪意に満ちており、散文と詩の両方が毎日のように発表されていた。ウィルクスは生き生きとした不遜な態度で、ジョージ3世の母親をエドワード3世の母親(*イザベラ、クーデターを起こしてエドワード2世から政権を奪った)と比較し、スコットランドの大臣を優しいモーティマー(*ロジャー、イザベラの愛人で協力者、エドワード3世に処刑された)と比較した。チャーチル(*初代スペンサー伯爵ジョン・スペンサー)は憎しみのエネルギーを込めて、哀れで誇り高い癩と飢餓の子供たち、ピクト人やデーン人よりも残酷で貪欲な新種の野蛮人に侵略された自国の運命を嘆いた。些細なことではあるが、この年パンフレット作者たちが初めて自分たちが嘲笑する偉大な人物の名前を長々と掲載したことは記録に残しておく価値がある。ジョージ2世は常にK――であった。彼の大臣はR――W――卿、P――氏、そしてN――公爵だった。しかしジョージ3世、王大后、そしてビュート卿を誹謗中傷する者たちは母音字の一つも容赦しなかった。

テンプル卿は、政府の最も卑劣な攻撃者を密かに励ましていると思われていた。実際、彼の傾向を知る者はモグラを追うように彼を追跡していた。地下に潜るのが彼の性質であった。土が山のように積まれていると、地下の汚い曲がりくねった迷宮で彼が工作しているのではないかと疑ってしまうほどだった。ピットは政府の汚い仕事から目をそらしたのと同じように、反対派の汚い仕事からも目をそらした。彼は自分の支持者がスコットランドの国民を侮辱していることに対する嫌悪感をあらゆる場所で表明する鷹揚さを持ち、ハイランド連隊が戦争中に見せた勇気と忠誠心を称える機会を見逃さなかったのである。彼は合法的で名誉ある武器以外は使わないようにしていたが、そのフェアな一撃はおそらく義兄の秘密の小剣の突きよりもはるかに手強いものであることはよく知られていた。

ビュートは心が折れかけていた。両院の会議が間近に迫っていた。条約は即座に議論の対象となるだろう。ピットやホィッグ・コネクションの有力者、そして大多数の人々が同じ側につくことが予想された。寵臣は先代の大臣たちが庶民院の機嫌を取っていた手段を忌み嫌っていると公言していた。彼は今、自分があまりにも良心的すぎたのではないかと思い始めた。彼のユートピアのビジョンは終わりを告げた。失われた時間を取り戻すためには賄賂を贈るだけでなく、前任者よりも恥ずかしげなく堂々と賄賂を贈る必要があった。どんな手段を使ってでも過半数を確保しなければならない。グレンヴィル(*ジョージ)にそれができるだろうか?果たして彼にできるだろうか。彼の堅実さと能力はまだ危険な局面で試されたことがなかった。彼は兄のテンプルや義弟のピットを控えめに支持していると一般に思われていたし、根拠はほとんどなかったが、今でも彼らに好意的であると思われていた。他に助けを求めなければならない。では、どこに求めればよいのだろうか。

一人の男がいた。彼の鋭く雄々しい論理は議論の中でしばしばピットの高尚で情熱的なレトリックに匹敵することがわかっていた。彼の仕事の才能は彼の議論の才能に劣らず、彼の勇敢な精神は、どんな困難や危険からも逃げず、恐怖と同様に良心の呵責にも悩まされなかった。ヘンリー・フォックスでなければ、誰にも、今にも吹き荒れようとしている嵐を切り抜けることはできないであろう。しかしそのような極限状態にあっても、宮廷が頼りにしたくない人物であった。彼は常にホィッグの中のホィッグとみなされていた。彼はウォルポールの友人であり、弟子であった。彼はカンバーランド公爵ウィリアムと長い間親密な関係にあった。トーリー派からは現存するどの人物よりも嫌われていた。彼に対する嫌悪感は非常に強く、先王の治世の終わりに彼がニューカッスル公に対抗する党派を結成しようとしたとき、彼らは全ての錘を天秤のニューカッスル公の側に載せた。スコットランド人にとってフォックスは、カローデンの征服者(*カンバ―ランド公爵)の親友として忌み嫌われていた。彼は個人的な理由から王太后に最も嫌われていた。彼は夫(*フレデリック王太子)の死後すぐに、後継者となる息子の教育を彼女の手から完全に引き離すよう前国王に助言していたからである。さらに最近では自分の美しい義理の妹であるサラ・レノックスがイングランドの女王(*ジョージ3世の妻)になるのではないかという野心的な希望を抱いていたため、さらに深刻な問題となっていた。かつて国王は毎朝ホランド・ハウスの敷地内を馬で通っていたが、その際、サラは仮面舞踏会の羊飼いのような服装で道路の近くで干し草を作っていたことが確認されている。この特異な恋愛にフォックスが関与したことにより、フォックスは枢密院議員の中で唯一、陛下がメクレンブルク王女との結婚を発表した会議に召集されなかった。そのため当時の政治家の中でトーリー派でありスコットランド人であり王太后の寵愛を受けていたビュートがいかなる状況下においても共に行動することが最も難しかったのはフォックスであったと思われる。しかしビュートは今、フォックスに頼らざるを得なかった。

フォックスには多くの高貴で愛すべき資質があり、私生活ではその資質が存分に発揮され、子供や被扶養者、友人たちに愛されていたが;公人としては尊敬の対象と見られていなかった。彼の中にはウォルポール一派に共通する悪癖が最悪の形ではなかったとしても、最も顕著な形で確実に現れていた。その勇気、激しい気性、体面を取り繕うことに対する軽蔑のため、彼は自分と同じくらい悪辣な人たちがきちんとしたベールで覆っているようなことをたくさん見せてしまったのである。彼が当時の政治家の中で最も不人気だったのは、彼が他の多くの政治家よりも多くの罪を犯したからではなく、偽善的なもの言いをしなかったからである。

彼は自分の不人気を感じていたが;それを強い心を持つ者の流儀で感じていた。彼は注意深くなるどころか意に介さず、全国民の怒りに直面して強情な反抗のしかめ面をしたのである。彼は生まれつき優しく寛大な気質であったが;追い立てられたり、誘惑されたりして本来の彼のものではない野蛮さを身につけ、彼をよく知る人たちを驚かせショックを与えた。窮地に陥ったビュートが助けを求めたのはそういう人物だったのである。

フォックスは援助することに吝かではなかった。嫉妬するような性格ではなかったが、ピットの成功と人気を見て苦い屈辱感を感じていたことは間違いなかった。自身を討論者としてはピットに匹敵し、ビジネスマンとしてはピットより優れていると考えていた。二人は長い間、好敵手だと思われていた。二人は野心を持って同じようにスタートした。長い間二人は肩を並べて走ってきた。しかしやがてフォックスがリードし、ピットが遅れをとるようになった。そこに、ヴァージル(*ウェルギリウス)の競走(*アエネーイスの中に出てくるニサスとユーライアラスのエピソード)のような突然の運命の転換が訪れた。フォックスは泥沼でつまずき、敗北しただけでなく、汚れてしまった。ピットはゴールにたどり着き、賞を手にしたのである。主計局の報酬は敗北した政治家を優位な競争相手に黙って従うように仕向けるかもしれないが、大いなる力を意識し、大いなる無念に苦しむ心を満足させることはできない。そのため戦争と偉大な戦争指導大臣の支配に反対する派閥が生まれるとフォックスの希望は復活し始めた。旧敵の助けを借りて失った重みを取り戻し、ピットと対等に渡り合えるのであれば、王太后やスコットランド人、トーリー派との確執は忘れてもよいと考えていた。

そのためこの同盟はすぐに締結された。フォックスが政府を窮地から脱出させることができたならば、かねてから希望していた貴族の地位を与えるという保証がなされた。フォックス側はフェアな手段で、あるいは不正な手段をとってでも和平への賛成票を獲得することを約束した。この取り決めによって彼は庶民院のリーダーとなり;グレンヴィルは憤りをできるだけ抑えて、この変化を黙認した。

フォックスは自分の影響力によってカンバーランド公爵やデボンシャー公爵をはじめとする個人的な友人である著名なホィッグ派の宮廷への支持を得られると期待していた。しかし彼の期待は裏切られ、他のすべての困難に加えて、最も有能で毛並みの良い貴公子たちと偉大なキャベンディッシュ家の反対を考慮しなければならないことがすぐにわかった。

しかし、彼はこの戦いに勝つことを誓ったのだから、後戻りすることはできない。気後れしている場合ではなかった。ビュートはウォルポールの戦術をウォルポール自身が呆れるほど実践することでしか内閣を救えないことを理解させられた。主計局は票の市場と化していた。何百人もの議員がフォックスと一緒にそこに閉じこもり、悪名の代償を持って出て行ったと信じるには十分すぎる根拠がある。最も情報に通じた人たちは、こうしてある日の午前中に2万5千ポンドが支払われたと断言している。最も安い賄賂は200ポンドの銀行券だったと言われている。

腐敗に威嚇が結びついた。最高位から最低位までのすべての階級が国王への臣従を教えられることになった。いくつかの郡の統監(*地元民兵の指揮官)が解任された。特にデボンシャー公爵はイングランドの大物たちが警告として受け取るべき運命の犠牲者として選ばれた。デボンシャー公爵は、その富、地位、影響力、汚れのない個人的性格、そして一族のハノーヴァー家への不変の忠誠も酷い個人的冷遇から彼を救うことはできなかった。彼が政府の方針に反対していることは知られていた;そこで王太后が「ホィッグ派のプリンス」と呼んでいた彼を辱めることにしたのである。彼は王宮に義務を果たすために出向いた。国王はある小姓に「彼には会わないと伝えてくれ」と言った。小姓はためらった。「彼のところに行って、その言葉をその通り伝えよ。」と王は言った。その言葉は伝えられた。公爵は金の鍵を引きちぎり、怒りに燃えて帰っていった。また公爵の親族も即座に辞職した。数日後、国王は枢密顧問官の名簿を取り寄せ、自らの手で公爵の名を消した。

この一歩には、知恵や善良さはほとんどないものの、少なくとも勇気があった。しかし宮廷が復讐するに当たって地位が高すぎる者がいないと同時に低すぎる者もいなかった。それまでも、そしてこれからも知られていないような迫害が、あらゆる公共部門で繰り広げられた。大勢の謙虚で勤勉な吏員がパンを奪われたのは、職務を怠ったからでもなく、内閣に反抗して積極的に行動したからでもなく、単に和平に反抗する貴族や紳士の推薦によってその地位を得たからであった。この排斥は乗船税関監視官、収税吏、ドアキーパーにまで及んだ。密輸業者との戦いでの勇気ある行動が評価されて年金をもらっていたある貧しい男はグラフトン公爵と親しくしていたために年金をもらえなくなった。また夫の海軍での功績により何年も前に官庁の管理人になっていた年老いた未亡人は婚姻によってキャベンディッシュ家と遠縁であると考えられたため解雇されてしまった。世間の騒ぎは当然のことながら日に日に大きくなっていった。しかし騒動が大きくなればなるほどフォックスは着手した仕事を断固として進めていった。彼の旧友たちは彼が何に取り憑かれているのか理解できなかった。「フォックスの政治的な気まぐれは許せる。」とカンバーランド公爵は言った。「しかし、彼の非人間性には困惑する。彼は以前、最高の人格者だったはずだ。」

ついにフォックスはジョージ2世が与えた特許がジョージ3世を拘束するかどうかという問題について法的判断をするまでに至った。もし同僚が怯まなかったらフォックスはすぐに大蔵省の出納係と巡回裁判の裁判官を追い出していただろうと言われている。

そうこうしている間に議会が開かれた。閣僚たちは国民からかつてないほど嫌われていたが、過半数を確保しており、ピットが痛風の重篤な発作で部屋に閉じこもっていたため議論で採決でも優位に立てると期待していた。ピットの友人たちは彼が出席できるようになるまで条約の審議を延期するよう提案したが、この提案は却下された。大事な日がやってきた。議論がしばらく続いた後、議場の前庭から大きな歓声が聞こえてきた。その音は階段を上がり、ロビーを通ってどんどん近づいてきた。扉が開くと、叫び声を上げる大勢の人々の中から従者に抱かれたピットが現れた。顔は痩せて死人のようで、手足はフランネルに覆われ、手には松葉杖を持っていた。担ぎ手は彼をバー(*議場の後ろの柵)の中に置いた。友人たちがすぐに彼を取り囲み、その助けを借りて彼はテーブルの近くの席まで這って行った。この状態で彼は3時間半にわたって和平に反対する演説を行った。その間、彼は何度も席に座らされたり、薬を飲まされたりした。その声はかすれ、動作は緩慢であり、その演説は時折素晴らしく印象的ではあったが、彼の最高の演説に比べれば弱々しいものであったと考えるのが自然であろう。しかし彼が行ったことを覚えている人々、彼の苦しみを見ている人々は、その言葉に単なる雄弁が生み出すよりも強い感動を覚えた。しかし彼はその場に留まることができず、その到着を告げる声と同じくらいの大きさの叫び声の中、議場から運び出された。

大多数が和平を承認した。宮廷の歓喜は限りなく大きかった。「やっと」と王太后は叫んだ。「私の息子は本当の王になった。」若い君主は、祖父を束縛していたものから解放たれたと語った。そしてある一点において、その心は揺るぎないものになっていると発表された。どんなことがあっても、先王を奴隷にし、自身を奴隷にしようとしていたホィッグ派の大物たちを権力の座に戻してはならない。

この大言壮語は時期尚早だった。寵臣の実際の力はある特定の採決で集めることができた票数に到底及ぶものではなかった。彼はすぐに再び困難に陥った。彼の予算の中で最も重要だったのはサイダー(*リンゴ酒)への課税だった。この措置は一般的に彼の政権に敵対する人々だけでなく、彼の支持者の多くからも反対された。物品税の名はトーリー派にとって常に憎むべきものであった。彼らから見たウォルポールの最大の罪の一つはこの種の資金調達方法を偏愛していたことである。トーリー派のジョンソンは自分の辞書の中で「物品税」という言葉をあまりにも軽蔑的に定義していたため、物品税委員会は彼を起訴しようと真剣に考えていた。この新税は常にトーリーの郡に特別に影響を与えていた。イングリッシュ・ヴィンテージの詩人ジョン・フィリップス(*1676-1709)はサイダー・ランドは常に王権に忠実であり、その数千の果樹園の高枝切りはすべて不運なスチュアート家に仕える剣に打ち直されていたと自慢していた。ビュートの財政計画はサイダー・ランドの紳士階級や小地主たちと首都のホィッグ派との間に結合をもたらす効果があった。ヘレフォードシャーとウスターシャーは燃え上がった。ロンドン市にはあまり直接の利害関係がなかったが、あればもっと興奮していたことだろう。この問題に関する議論は政府にとって取り返しのつかないダメージとなった。ダッシュウッドの財務報告は信じがたい混乱と不条理さによって議会で大爆笑を受けた。ダッシュウッドは自分が高い地位に就いているにもかかわらずその地位にふさわしくないことを自覚するだけの分別があり、滑稽なほどの絶望感に襲われて、「どうしよう。子供たちは通りで私を指差して、『やあ、史上最悪の財務大臣が行くぞ』と叫ぶだろう。」ここでジョージ・グレンヴィルが助け舟を出し、彼の大好きなテーマである、最近の戦争が続けてきた濫費について力説した。彼はその濫費のために税金が必要になったと述べた。彼は反対派の紳士たちにどこに税金をかけるべきかを言うように求め、この話題をいつものように冗長に語った。「言って下さい、どこですか。」彼は単調でいくらか苛立った口調で繰り返した。「サー、どこですか、言って下さい、と私は言っているのです。繰り返します、私には言う権利があります。どこですか?」彼が不運だったのは、その夜ピットが庶民院に来ていて戦争に対する非難にひどく苛立っていたことだった。彼はその仕返しによく知られた歌(*Tell Me Lovely Shepherd)の一節「優しい羊飼いさん、どこですか?」をグレンヴィルの愚痴に似せた声でつぶやいた。「もし」とグレンヴィルは叫んだ。「紳士がこのように扱われるのであれば―」ピットは極度の軽蔑を表すときのいつもの彼のやり方に倣って、ゆっくりと立ち上がって、お辞儀をして議場を出て行き、残された義兄は怒りに震え、他の人々は笑いに震えた。グレンヴィルは長きに渡って「優しい羊飼い」というあだ名で呼ばれた。

しかし大臣はさらに深刻な悩みを抱えていた。スコットランド人とトーリー派はフォックスに執念深い憎悪を抱いていた。極度に危険な状態の時には、彼らはフォックスの指導下に入ることに同意していた。しかし危機が去ったと思われるやいなや、彼らのフォックスに対する嫌悪感が爆発した。彼らの中には主計局の会計について彼を攻撃する者もいた。笑い声や皮肉な歓声をあげて、彼の発言を無造作に遮る者もいた。彼は当然のことながらこうした不愉快な状況から逃れたいと思うようになり、自分の功績に対する報酬として約束されていた爵位を要求した。

内閣の構成を変えなければならないことは明らかだった。しかしその立場上、政府のすべての秘密を知っていると思われる人々の中にさえ、実際に起こったことを予想していた人はほとんどいなかった。議会も国民も驚いたことに、ビュートの辞任が突然発表されたのである。

この奇妙な一歩について、20もの異なる解釈がなされた。ある人は深い意図があってのことだと言い、ある人は突然のパニックに陥ったと言った。ある者は野党の風刺文が伯爵を戦場から追い出したと言い;またある者は、伯爵は戦争を終結させるためだけに就任したのであり、その目的が達成されたら引退するつもりだったのであると言った。伯爵は公には健康を害したことを辞職の理由としていたが、非公開の場では同僚から心からの支持を得られないこと、特に自ら内閣に入れたマンスフィールド卿が貴族院で全く手助けをしないことを訴えていた。マンスフィールド卿はビュートの立場が非常に危ういものであることを認識しないでいるには賢すぎたが、他人のために自分を危険にさらすことには臆病すぎたのである。しかしこのときのビュートの行動は、ほとんどの場合のほとんどの人々の行動と同じように、さまざまな動機によって決定されたものである可能性が高い。というのも、公務に嫌気がさしていたのではないかと思われる;公的生活を遠くから見ている人が思っている以上に大臣の間ではこのような感情はありふれたものであり;このような感情がビュートの心に芽生えたことは何よりも自然なことである。一般的に政治家はゆっくりとした速度で登っていくものである。昇進の最高の頂点に達するまでには何年もの苦労の月日がある。従ってキャリアの初期には常に自分の上にある何物かを見ることによって誘惑される。その間に彼は野心的な人生につきものの煩わしさに次第に慣れていく。最高の場所に到達する頃には、彼は苦労に我慢強く、悪態に無感覚になっている。彼は最初は希望によって、そして最後には習慣によって、あらゆる苦痛に耐えて自分の仕事を守り続けることができるのである。しかしビュートはそうではなかった。彼の公的生活は2年に満たなかった。彼は政治家になったその日に閣僚になった。数ヶ月後には、名実ともに政権の最高責任者となっていた。今以上の存在になることはもうできなかった。彼がすでに持っているものが虚栄心と心痛であるとすれば、彼をその先へと誘うような妄想は残っていなかった。彼は野心の苦しみを味わう前に、野心の快楽に飽き飽きしていた。彼の性質は誹りや世間の憎しみに対して自分の心の守りを固めるようなものではなかった。嘲笑されたり、中傷されたりすることがどのようなことなのか自分自身の経験から知ることなく、堂々と48歳を迎えたのである。それが突然何の前触れもなく、いまだかつて政治家の頭上に吹き荒れたことのないような罵詈雑言と風刺の嵐にさらされることになったのであった。彼は義父の死によって莫大な財産を引き継いだばかりだったので;役職上の報酬はもはや何の意味もなかった。彼に与えられるすべての名誉は、すでに確保されていた。自分にはガーター勲章を、息子には英国の爵位を与えていた。また第一大蔵卿を辞めれば権力を手放すことなく危険や誹謗から逃れられ、非公式に王室の心に最高の影響力を行使できると考えていたようである。

その動機が何であれ、彼は引退した。同時にフォックスは貴族院に避難し;ジョージ・グレンヴィルは第一大蔵卿と財務大臣に就任したのである。(*1963年4月16日)

この配置をした人々はグレンヴィルがビュートの単なる操り人形になることを意図していたと思われる;というのもグレンヴィルは彼を長く観察してきた人にさえ、とても不十分にしか知られていなかったからである。彼は単なる役人の下働きで通っており;その性質に属する勤勉さ、緻密さ、形式主義、くどさをすべて備えていた。しかし、彼にはまだ現れていない別の資質があった、むさぼるような野心、果敢な勇気、思い上がりにも似た自信、そして異議に耐えられない気質である。彼は誰かの道具になる気はなかったし;政治的にも個人的にもビュートに何の執着もなかった。この二人には過酷で不人気な政策をとる傾向が強いこと以外には何の共通点もなかった。 二人の主義主張は根本的に異なっていた。ビュートはトーリー派である。自分にホィッグの資格がないと言われたらグレンヴィルは非常に腹を立てたことであろう。彼はビュートよりも専制的な手段を取る傾向があったが;専制的な手段を好むのは憲法上の特権という形で偽装されている場合に限られていた。彼は当時としては珍しくもない方法で17世紀の共和主義者の理論と英国法の行動原理を混合し、無政府的思想と恣意的な実践を結びつけることに成功していた。民衆の声は神の声であったが;民衆の声を発することのできる唯一の合法的な機関は議会であった。すべての権力は人民から来ていたが;議会には人民の全権力が委任されていたのである。グレンヴィルが最も純粋なホィッグの原則に基づいて議会に要求したようには、王政復古直後の数年間のオックスフォード系の聖職者ですら、国王にこれほどまで屈辱的で、これほどまで理不尽な敬意を要求したことはなかった。彼は議会が国民に対して専制的になることを望んだように、それが宮廷に対しても専制的になることを望んだのである。彼の考えでは庶民院の信任を得ている首相は宮殿の長になるべきである。国王は幸運にもセントジェームズのような立派な部屋やウィンザーのような素晴らしい庭園を楽しむことを許されている単なるチルデリックかチルペリック(*いずれも5-6世紀のフランク族の王)に過ぎない。

このようにビュートの意見とグレンヴィルの意見は正反対のものであった。またこの2人の政治家の間には個人的な友情もなかった。グレンヴィルの性格は寛容ではなく、数ヶ月前に庶民院の主導権をフォックスに譲らざるを得なかったことをよく覚えていた。

全体的に見て、革命以降のイングランドを統治した最悪の政権はジョージ・グレンヴィルのそれであったと考えるべきではないだろうか。彼の公的行為は国民の自由特権に対する侵害と、王室の尊厳に対する侵害の2つの項目に分類することができる。

彼はまず報道機関を攻撃した。迫害の対象に選ばれたのはアイルズベリー選出の議員であるジョン・ウィルクスである。ウィルクスはつい最近まで主に街中で最も罰当たりで放埓で愉快な放蕩者の一人として知られていた。彼は趣味がよく、読書家であり、魅力的なマナーの持ち主であった。彼の軽快な会話は、控室や酒場の楽しみであり、彼が十分に自制して、自分の情事の詳細を述べたり、新約聖書についての冗談を言ったりしないようにしていれば謹厳な聞き手をも喜ばせた。しかし放蕩にお金を使ってしまった結果、ユダヤ人に頼らざるを得なくなった。彼は破滅寸前になって、政治的冒険者としてのチャンスを狙うことにした。議会では成功しなかった。彼の話し方は気が利いていたが、弱々しく、風刺画家たちがその立場にも関わらず実物以上に良く描かなければならなかったほど醜いその顔を忘れるほど、聴衆を惹きつけることができなかった。しかし文筆家としての彼はもっと優れていた。彼は「ノース・ブリトン」という名の週刊紙を創刊した。この雑誌は多少の滑稽さを交えながらも非常に大胆かつ不謹慎に書かれており、かなりの数の読者を獲得していた。ビュートが辞任した時には44号が発行されていたが;ほとんどの号に重大な誹謗中傷が含まれていたにもかかわらず告発されたことはなかった。第45号はそれ以前の大部分の号と比べて罪のないものであり、実際、我々の時代にタイムズ紙やモーニング・クロニクル紙の主要記事に毎日掲載されているような強い内容のものは含まれていなかった。しかし今やグレンヴィルが国務のトップに立っていた。政権には新しい精神が吹き込まれていた。権威は維持されなければならない。もはや政府に勇敢に立ち向かった者が罰さないことはない。ウィルクスは一般令状によって逮捕され、塔に運ばれて異例の厳しい環境で監禁された。彼の書類は押収され、国務大臣に届けられた。このような過酷で違法な措置は、民衆の激しい怒りを引き起こしたが、すぐに喜びと歓喜に変わった。プラット裁判長が主宰する民事訴訟裁判所はこの逮捕を違法とし、囚人は釈放された。政府に対するこの勝利は、ロンドンでもサイダー地方でも熱狂的に祝われた。

閣僚たちは日々国民の反感を買う一方で、宮廷からも反感を買うために最善を尽くしていた。彼らは自分たちはビュート卿の手先にはならない、という決意を国王にはっきりと伝え、秘密の助言者が王室の耳元に近づかないようにすることを約束させたのだ。彼らはすぐにこの約束が守られていないことを疑う理由を見つけた。彼らは主君をこれまでにも聞き慣れていた敬意を欠く言葉で諌め、主君が寵臣と内閣のどちらを選ぶかを決めるために2週間の猶予を与えた。

ジョージ3世は大いに動揺した。彼が巨大なホィッグ・コネクションの束縛から解放されたことを喜んでいたのはほんの数週間前であった。彼は自らの名誉にかけてそのコネクションのメンバーを二度と自分に奉仕させないことを宣言していた。しかし今になってみれば、彼はある支配者たちを交代させてさらに厳しく威圧的な支配者たちを据えただけだった。悩んだ彼は、ピットのことを考えた。ピットからであれば、グレンヴィルやニューカッスルが率いる派閥よりも良い条件を引き出すことができるかもしれない。

グレンヴィルは地方への小旅行から戻ると、バッキンガム・ハウス(*バッキンガム宮殿の前身、1761年にジョージ3世が私邸として使うようになった。)に向かった。入り口に彼だけでなくロンドン中が知っている形の椅子が置かれていたので彼は驚いた。その椅子には偉大な平民の痛風で腫れあがった足に合わせて作られた大きなブーツが置かれていた。グレンヴィルはすべてを察していた。彼の義弟は国王と懇意にしていた。ビュートは自分の後継者たちの非友好的で恩知らずな振る舞いを問題視し、ピットを宮殿に呼び寄せるよう自ら提案したのであった。

ピットは2日連続で2回の謁見を行った。彼は初日の面会では交渉が満足のいく形で終わるだろうと期待していたが;翌日になると国王があまり乗り気でないことがわかった。この協議についての最良の、いや、唯一信頼できる記録はピット自身の口からハードウィック卿に語られたものである。ピットは王室の不興を買った不幸なホィッグ派の要人たち手なづけることの重要性を強く訴えたようだ。彼によれば、彼らはハノーヴァー家の最も忠実な友人であった。彼らの力は大きく;長く公務にも精通していた。彼らが追放の宣告を受けたなら、しっかりとした政権をつくることはできない。陛下は最近強い怒りを示して宮廷から追い出した者たちの手に自分が舞い戻ることを考えることに耐えられなかった。「すまない、ピット氏」と彼は言った。「それはできません。私の名誉に関わることです。私は自分の名誉を守らなければなりません。」陛下がどのようにして自分の名誉を守ることができたかは間もなく分かることでしょう。

ピットは退出し、国王はそれまで捨てようとしていた閣僚たちに留任を要請することになった。その後の2年間、ベッドフォード派と密接に連携していたグレンヴィルが宮廷の支配者となり;厳しい支配者であることを証明した。彼は自分が留任できたのは彼自身とホィッグ派のどちらかしか選択肢がなかったからだと知っていた。いかなる状況下でもホィッグ派が許されることはないと考えていた。彼を排除しようとする試みは、彼の憤りを掻き立てたが;その試みが失敗したことで彼はすべての恐怖から解放された。彼は決して宮廷的ではなかった。彼は今、コルネット・ジョイス(*チャールズ1世の死刑執行人とされる)やブラッドショー大統領(*チャールズ1世の処刑を決めた裁判官でその後英国連邦議会の初代大統領になった)の時代以来、英国王が聞くことを強いられたことがなかった言葉を話し始めた。

ある問題ではグレンヴィルは正義と自由特権を犠牲にして宮廷の情熱を満足させ、自分の情熱を満足させた。ウィルクスへの迫害は熱心に行われた。ウィルクスはポープ(*アレキサンダー)の「人間についてのエッセー」のパロディを「女性についてのエッセー」と題して書き、ウォーバートンの有名な注解を嘲笑する注釈を添えていた。この作品は過剰に放埓なものであったが、ポープ自身のいくつかの作品、例えばホラティウスの最初の著作に対する風刺である二番目の著作の模造以上のものではなかったと思われ;ウィルクスを正当に扱うとするなら、彼はポープほど広く世間に下品な言葉を吐いた訳ではなかった。彼は私設の印刷所でごく少数の本を印刷しただけであり、暖かい日差しで日焼けする黒人のように、放漫な本によって道徳が堕落する危険性のない愉快な仲間たちにそれを贈るつもりだったのである。政府の手先が印刷業者に賄賂を渡してこのゴミの複写を手に入れて大臣たちの手に渡した。閣僚たちは法律の最大限の厳格さでウィルクスのエチケット違反を裁くことを決意した。信心深さと道徳心の尊重がこの決議にどれほど影響を与えたかということを、後にクイーンズベリー公となったマーチ卿ほどこの放蕩詩人を罰することに熱心だった人物はいなかった、という事実から読者は判断できるだろう。議会の初日、ベッドフォード公の意向で国務大臣に任命されたサンドウィッチ伯爵が、このように不名誉な方法で手に入れたこの本を貴族院のテーブルに置いた。議会全体でそのことが起こるまで、不幸な著者は自分の放埓な詩が印刷者と数人の放蕩仲間以外の目に触れてはいないことを少しも疑っていなかった。彼は穏やかな性格で危険を嫌い、恥じらいをあまり感じない人物であったが、驚きと不名誉、そして完全な破滅の予感に我を忘れてしまった。彼はビュート卿の部下に絡んで決闘をして重傷を負い、半分回復したところでフランスに逃亡した。彼の敵は議会でも王の法廷でも思いのままに振舞った。彼は非難され、庶民院から追放され、法による保護から外された。彼の作品は公共の死刑執行人によって焼却されることになった。しかし多くの人々は彼に同情的であった。多くの道徳的、宗教的な人々でさえ、心中では彼の罪は彼を告発した人々の罪に比べれば軽いものだと思っていた。特にサンドウィッチの行為は世間一般で嫌悪感を抱かれた。彼自身の悪癖は有名で;「女性についてのエッセー」を貴族院に提出するわずか2週間前にはロンドンで最も堕落したクラブのひとつでウィルクスと酒を飲み、締まりのない輪唱していたのである。議会が開かれた直後、コヴェント・ガーデン劇場で「乞食オペラ」が上演された。マキースが―「ジェミー・トゥウィッチャーが俺を殴るとは驚きだ」―という言葉を口にしたとき、一階席、ボックス席、天井桟敷は屋根が落ちるかと思われるほどの大歓声に包まれたという。その日からサンドウィッチはジェミー・トゥイッチャーというニックネームで広く知られるようになった。ノース・ブリトン誌を燃やす儀式は暴動で中断された。巡査は殴られ、雑誌は救出されたが;その代わりにジャック・ブートとペチコートが火にかけられた。ウィルクスは自分の著作を押収されたことで国務次官を相手に訴訟を起こしていた。陪審員は1000ポンドの損害賠償を命じた。しかしこのような世論の動きも他のどのような兆候もグレンヴィルを動かす力にはならなかった。彼には議会があり、彼の政治信条によれば民意は議会からのみ吸い上げられるべきものであった。

しかし、すぐに彼は議会にすらも見捨てられることを恐れることになった。一般令状の合法性に関する問題では、すべての健全な原理、すべての憲法の権威、そして全国民の声を味方につけた反対派が集まって大変な力となり、通常は政府に反対票を投じない多くの人々までもがこれに加わっていた。ある時は満員の庶民院で政府はわずか14票の賛成票しか得ることができなかった。しかし、嵐は去っていったのである。原因が何であれ、成功がほぼ確実と思われた瞬間に反対派の精神は衰え始めたのである。議会は何の変化もなく終わった。ピットは主要な討論の場ではいつものように雄弁に輝き、人気もかつてないほどに高まっていたが、依然として私人であった。宮廷と国民の両方から嫌われているグレンヴィルは相変わらず大臣であった。

両院が閉会するやいなや、グレンヴィルは彼がいかに専制的で、いかに喧嘩っ早く、いかに大胆不敵な性質を持っているということをこれまでのどんな行動よりも証明するような行動をとった。通常は政府に反対しない紳士たちの中で憲法上の大問題である一般令状に関して少数派に賛成したのは勇敢な軍人であり、立派な演説者であり、賢明でも精力的な政治家でもないが、善意に満ちたヘンリー・コンウェイであった。今や彼は2つの戦争で忠実かつ勇敢に働いたことによって得た報酬である連隊を奪われた。この乱暴な措置には国王も心から同意していると確信を持って断言されていた。

しかしウィルクスの迫害やコンウェイの解任が王室の心を喜ばせたとしても、陛下が閣僚に対する嫌悪感を日に日に募らせていったことは確かである。グレンヴィルは公金を倹約するだけでなく、バッキンガム宮殿の庭園の西側にある空き地を購入するために数千ポンドを使ってほしいという国王の要請を不機嫌に拒否した。この拒否の結果この野原はすぐに建物で覆われ、王と王妃が最もプライベートな散歩をしているところを100軒もの家の上の窓が見下ろすことになった。最悪だったのはこれだけではなかった。グレンヴィルは金を惜しんだが言葉は惜しまなかった。彼は事業を始めたばかりの若い頭脳の注意を引くことができるような明確かつ簡潔で生き生きとした説明をする代わりに、国王の謁見室で庶民院で話すのと同じように話した。彼は2時間熱弁を揮った後、自分の時計を見た、議長の椅子の反対側にある時計を見る習慣があったのである、そして話が長いことを謝り、さらにもう1時間続けた。庶民院議員たちは演説者を咳払いで黙らせたり、夕食に出て行ったりすることができ;グレンヴィルが立っている時にはこうした特権を惜しみなく使っていた。しかし哀れな若き国王はこのような雄弁に悲しみを催させるほどの礼儀正しさで耐えなければならなかった。彼は生涯グレンヴィルの演説の恐怖を語り続けた。

この頃、ピットの人生の中で最も特異な出来事が起こった。かつてサマセットシャーの直臣でホィッグ派の政治家であったウイリアム・ピンセント卿という人物がいて、アン女王の時代に庶民院議員を務めていたが、アン女王の治世の末期にトーリー党が議会で優位に立ったため、農村で隠遁生活を送っていた。彼のマナーは風変りであった。彼のモラルは非常に評判が悪かった。しかし、自分の政治的意見に対する忠誠心は揺るぎないものであった。50年間の隠遁生活の間、彼は自分を公の場から追放した状況、すなわちホィッグ派の放逐、ユトレヒトの和平、同盟国の離脱について考え続けていた。マールボロの失脚とピットの失脚、ハーレーの昇格とビュートの昇格、セント・ジョンが交渉した条約とベッドフォードが交渉した条約、1712年のオーストリア家の過ちと1762年のブランデンブルグ家の過ちなど、若かりし頃の記憶に残っている出来事と、高齢になってから目の当たりにした出来事との間に、密接な類似性があるのではないかと考えたのである。老人はこのような思いに駆られ、自分の全財産をピットに託すことを決意した。このようにして、ピットは思いがけず年に3,000ポンド近くを手にすることになった。彼の敵がどれほど悪意を持っていたとしてもこの取引を非難する理由は何もなかった。誰も彼をレガシー・ハンター(*遺産目当てにおべっかを使う者)と呼ぶことはできなかった。他の人物に正当な権益を奪った、と彼を非難することは誰にもできなかった。というのも彼は生涯ウィリアム卿に会ったことがなく;ウィリアム卿には地所の相続権を持つ近親者がいなかったからである。

ピットは順風満帆に見えたが;その健康状態はかつてないほど悪化していた。1765年1月に始まった会期中、彼が議会に姿を現した形跡は一度もない。彼は数ヶ月間、お気に入りの別荘であるヘイズに深く身を隠し、肘掛け椅子からベッドへ、ベッドから肘掛け椅子へと移動する以外はほとんど動かず、妻を秘書にして極秘の手紙のやり取りをしていた。彼に対する中傷の中には彼が姿を見せないのは、痛風のせいであると同じくらい勿体ぶっているせいである、という囁きもあった。実際のところ彼の性格は高貴で素晴らしいものであって、シンプルさを求めていた。彼は舞台演出の助けを必要としない天才を持っており、舞台演出よりもはるかに優れた精神を持っていたが、すでに生涯にわたってそれを実践することを習慣としていたのである。したがって彼は雄弁と国家への多大な貢献から得られるすべての報酬を得た後、頻繁に公の場に姿を現して自分を安売りしたりはせず、病気を口実に神秘に包まれ、長い間隔を空けて重要な機会にのみ姿を現し、その他の時には彼の殿堂へと巡礼してくる少数の恵まれた信奉者にのみ託宣を伝えることにしたのではないかと推測されていた。彼がそういう目的を持っていたとすれば、それは一時的には完全に達成された。この沈黙と隠遁の年ほど、彼の名前の持つ魔力が強力であり、彼が自分の国から迷信的な崇拝を受けた時期はなかった。

ピットが議会を欠席している間に、グレンヴィルは全人類が長くその影響を受けるであろう大革命を引き起こすことになるある法案を提出した。北米の植民地に印紙税を課す法律の事である。この計画には起草者の特徴が顕著に表れている。親の特徴がすべて子に現れている。臆病な政治家であれば植民地の力がはるかに弱かった時代に、ウォルポールが―「これを提案する者は、私よりもはるかに大胆な人間ということになるであろう」と言ったような一歩を踏み出すことをためらっただろう。しかしグレンヴィルの性格は怖いもの知らずであった。広い見識を持つ政治家であれば、ウェストミンスターでニューイングランドとニューヨークに税金を課すことは、実際のところ法令集の文言や定期報告書に記載されている決定に反してはいないが、善良な政府の原則と憲法の精神に反していると感じたであろう。広い見識を持つ政治家であれば、たとえ母国と植民地の間に瞬間的な争いがあっただけでも、アメリカの印紙の推定生産量の10倍は高くつくと感じたことであろう。しかしグレンヴィルは法律の文言とは異なる憲法の精神や、ポンド、シリング、ペンスで表現されるもの以外の国益を知らなかった。自分の政策が五大湖畔からメキシコ湾までのすべての州に深い不満を生むかもしれないこと、フランスやスペインが復讐の機会をつかむかもしれないこと;帝国がバラバラになるかもしれないこと、自分の政策の結果、ピットを常に非難していた借金が2倍になるかもしれないこと;あの小さく鋭い頭脳にはこれらの可能性は思いもよらなかった。

印紙法は地球が続く限り記憶されることであろう。しかし今ではほとんど忘れ去られてしまった別の法律に比べ、この法律は当時この国ではあまり注目されていなかった。国王は体調を崩し、危険な状態にあると考えられていた。彼の病気(*精神疾患、ポルフィリン症とも言われている)は後に何度も王としての役割を果たせなくなった時のものと同じであったと思われる。皇太子はまだ2歳であった。王が未成年の場合の政府の運営についての条項を作成することが適切なのは明らかであった。この点に関する議論で宮廷と内閣の間の争いは危機的状況に陥った。国王は自分の意思で摂政を指名する権限を与えられることを望んでいた。閣僚たちはもし国王にこの権限が与えられたら王太后が指名されるのではないか、あるいはビュート伯爵が指名されるのではないかと恐れた、あるいは恐れるふりをした。そこで彼らは法案に国王の選択対象を王族に限定する文言を入れることを主張した。こうしてビュート伯爵を除外した後、彼らは国王に対し最も際立った方法で王太后をも除外することを許可するよう求めた。彼らは庶民院が間違いなく王太后の名前を削除するだろうと断言し、この脅しによって王から渋々ながらも同意を得たのである。しかし数日後には国王に母への甚だしい公然の侮辱をさせることとなった彼らの説明には根拠がないことがわかった。庶民院の王太后の友人たちはその名前を入れるべきだと主張した。閣僚たちは自分たちの主人の親をまともに攻撃することはできなかった。彼らは野党が助けてくれること、喜んで屈服するような圧力をかけてくれることを期待していた。しかし反対派の大多数は王太后を憎む以上にグレンヴィルを憎んでおり、彼の窮地を見て喜び、彼を救うようなことは何もしようとしなかった。その結果、王太后の名は摂政となる資格を持つ人物のリストに加えられた。

国王の怒りは頂点に達していた。目下の悪事は彼にとって他のどの悪事よりも耐え難いものであった。ホィッグ派の貴顕の徒党ですら、彼が現職の大臣たちから受けた以上の仕打ちはしない。苦悩のあまり、彼は叔父であるカンバーランド公爵に心の内を打ち明けた。カンバーランド公爵は愛されるような人物でなかったが、信頼すべき人物であることは間違いがなかった。彼は勇猛な気質と強い同情心、そして名誉と義務について高い意識を持っていた。将軍としては、戦いのほとんどで敗北を喫しながらも頑強で熟練した軍人と評価されている指揮官の中で、特に優れたクラスの指揮官に属していた、コリニー(*1519-1572、ユグノー戦争の指導者)やウィリアム3世(*1650-1702、名誉革命でイングランド王になる)のような指揮官である。このリストにソウルト元帥(*1769-1851、ナポレオンやルイ・フィリップ王に仕えた軍人)を加えることができるかもしれない。カンバーランド公爵の勇敢さは、その勇敢な一族の王子たちの中でも際立っていた。マスケット銃や大砲の玉が飛び交う中を平然と馬で走り回っていたことは彼の豪勇を示す最高の証拠ではなかった。絶望的な病気や恐ろしい外科手術も彼を気落ちさせるどころか、気を滅入らせることすらなかった。勇気とともに彼は勇気と同種の美徳を持っていた。彼は真実を語り、敵意も友情も率直で、すべての取引において高潔であった。しかし彼の性格は硬質であり;彼にとって正義と思われるものが慈悲で和らげられることはほとんどなかった。そのため彼は長い間イングランドで最も不人気な人物の一人であった。カローデンの戦いの後、反乱軍を厳しく扱ったことから彼は「肉屋」と呼ばれるようになった。当時最も無秩序な状態にあったイングランド軍にポツダムの厳格な規律を導入しようとしたことでさらに強い嫌悪感を抱かれるようになった。彼について信じられているほど悪いことは何もなかった。多くの正直な人々は甥たちがまだ小さい頃に彼が摂政であったなら、塔の中で窒息死が起こった(*リチャード3世がロンドン塔で幼い甥エドワード5世を暗殺したとされる)のではないかと考えるほど愚かだった。しかし、こうした感情は消え去った。公爵はここ数年、隠居生活を送っていた。スコットランド人に反感を抱いていたイングランド人はただキャメロンやマクファーソン(*スコットランド人に多い姓)が検査官や税関職員になるのを放置したことについて殿下を非難するだけだった。そのため殿下は現在、同国人、特にロンドンの住民の人気者となっていた。

彼には国王を愛する理由がほとんどなく、差し出がましくはなかったものの最近の体制に嫌悪感を抱いていることは、はっきりと示していた。しかし彼は王族の一員として、一族の長に対して負うべき義務について気高くロマンチックな考えを持っていた。彼は甥を束縛から解放し、両者にとって名誉ある条件でホィッグ党と国王を和解させることを決意した。

こういった心づもりで彼はヘイズへと出発し、ピットの病室に入ることを認められた;ピットは自分の部屋から出ようとせず、地位の低い使者とは話をしようとしなかったのである。このようにして輝かしい政治家の長い一連の過ちが始まった。過ちは彼の国を、彼の天才がかつてそこから救い出したものよりもさらに深刻な困難と苦悩に陥れた。彼の言葉は傲慢で、不合理で、ほとんど理解できないものだった。曖昧でとても親切とは言えない言葉の雲を通して唯一理解できたのは、彼がその時点で政府に参加しないということだった。実際はこういうことだったのではないだろうか。ピットにつきまとう悪魔であるテンプル卿は新しい政治計画を立てていた。ビュートと王太后への憎しみがテンプル卿の魂を完全に支配していたようである。弟のジョージと喧嘩したのはジョージがビュートと王太后と結びついていたからであった。ジョージがビュートと王太后の敵となった今、テンプルは一族の和解を実現したいと考えていた。テンプル、グレンヴィル、ピットの3兄弟はビュートにもホィッグ・コネクションにも頼らずに組閣することができる。このように考えたテンプルはあらゆる影響力を駆使してカンバーランド公爵の提案に応じることを思い止まるようピットを説得した。ピットは納得しなかった。しかし、テンプルは彼に対して他の人にはない影響力を持っていた。二人はとても古くからの友人であり、とても近い関係にあった。ピットの才能と名声がテンプルの役に立ったとすれば、テンプルの財布はかつてピットが困ったときに役に立ったことがあった。二人は政治的に離反したことはなかった。一緒に入閣したのが2回;辞職したのも2回である。ピットには盟友のいない状態で入閣することは考えられなかった。しかし彼は自分が間違ったことをしているのではないか、国に貢献する絶好の機会を無駄にしようとしているのではないかと感じていた。カンバーランド公爵の申し出に対して彼が不明瞭でつれない回答をしたのは、心が穏やかでなかったことによる困惑と苛立ちのせいだったのかもしれない。彼はテンプルに向かってこう嘆いたと言われている。

“Extinxti te meque, soror, populumque, patresque Sidonios, urbemque tuam.”(*ラテン語「あなたは一度にあなた自身と私を、あなたの町を、あなたの元老院を、あなたの植民地を破壊してしまった。」カルタゴ女王ディドーの最期の言葉~アイネイアース)

この予言はあまりに正しかった。

ピットは無理だと考えたカンバーランド公爵は必要に応じてグレンヴィルとベッドフォード派を確保しておくよう王に進言した。確かに今は空席にしておけるような時期ではなかった。政府が不安定な状態にあったため公務のすべての部門に全般的な弛緩が起こっていた。以前であれば無害だった集会が今では暴動に変わり、急速に反乱の様相を呈してきたのである。国会議事堂はスピタルフィールズの織工たちによって封鎖された。ベッドフォード派は猛烈な暴徒に四方八方から攻撃を受けており、騎兵と歩兵によって強力に守られていた。これらの騒動をビュートの友人たちのせいだとする人もいれば、ウィルクスの友人たちのせいだとする人もいた。しかし原因が何であれ、その結果は全体を不安定にした。このような状況下では国王に選択の余地はなかった。国王は苦々しい思いで大臣たちに、彼らを引き留めるつもりであることを伝えた。

彼らは王室の言葉として今後二度とビュート卿に相談しない、という約束を要求した。その約束は守られた。しかし彼らはそれ以上のことを要求した。ビュート卿の弟であるマッケンジー氏がスコットランドで実入りのいい役職に就いている。このマッケンジー氏を解任しなければならない。国王はこの役職は非常に特殊な状況下で与えられたものであり、自分が生きている間は絶対に取り上げないと約束している、と答えた。グレンヴィルは強情であり;国王は大変嫌々ながらこれを受け入れた。

議会は終わった。閣僚たちの勝利は完全なものとなった。国王はチャールズ1世がワイト島にいたときと同じように囚われの身となっていた。ほんの数ヶ月前には横暴な臣下の独断から王位を永遠に守ることができると言われていた政策がこのような形で結実したのである。

陛下の鬱憤が表情や言葉の端々に表れていたのはもっともなことであった。窮地に立たされた陛下はかつて恐怖と憎悪の対象であったホィッグ・コネクションをもの思わし気に見つめていた。とても不当な扱いを受けたデボンシャー公爵が最近亡くなり、まだ少年だった息子が跡を継いだのである。国王は下手に出てこれまで起こったことに遺憾を表明するとともに若い公爵を宮廷に招待することにした。高貴な青年は叔父たちに連れられてやってきて、非常に丁重に迎えられた。

この事やこれと同じような兆候が大臣たちを苛立たせた。彼らはまだ君主に、彼の祖父なら彼らを部屋から追い出したであろうほどの侮辱を加えようと待ち構えていたのである。グレンヴィルとベッドフォードは陛下に謁見を求め、彼らが丹精込めて作成した何ページにもわたる諌言を読み上げた。陛下は約束を破って助言者を著しく不当に扱っていると非難された。王太后についての賛辞など全くなかった。ビュートの首が危ういことが仄めかされていた。国王はこれまでのように自分が置かれた状況を嫌っていることを見せ続けてはならないこと、反対派にしかめっ面をしてはならないこと、公の場で閣僚をフェアに扱わなければならないことをはっきりと告げられた。彼は何度も朗読を遮り、ビュートとの連絡は一切絶ったと宣言した。しかし大臣たちは彼の否定を無視して読み進め;王は怒りで息が詰まりそうになりながら黙って聞いていた。閣僚たちが朗読をやめると国王はただ放っておいてほしいという意思を示すジェスチャーをしただけだった。発作が起きるかと思った、と後に語っている。

絶望に追い込まれた彼は再びカンバーランド公爵に頼み;カンバーランド公爵は再びピットに頼み込んだ。ピットは事態の指揮を執ることを切望しており、国王の提示した条件は臣民が望みうる最上のものであろう、と多くの恭しい表現を使って認めた。しかしテンプルにはその気がなく、ピットは非常に残念に思いながら、義兄の同意なしには政務を引き受けることはできないと宣言した。

公爵が甥を救う方法はただ一つ。ピットの助けを借りずに逆にホィッグ派で政権を作るしかない。困難な状況はほとんど克服できないもののように思われた。この前まで国の最高権力であった党は、死と離脱によって大幅に戦力を失っていた。公爵が選んだ人材は重要な役職には年を取りすぎている者と、これまで重要な役職に就いたことのない者の2種類に分けられるであろう。内閣を故障した傷病者か未熟な新兵で構成しなければならなかったのである。

これは悪ではあったが、混じりけのない悪ではなかった。新生ホィッグ派の政治家たちはビジネスや議論の経験がほとんどなかったが、その一方で彼らの前任者たちを深く蝕んでいた政治的不道徳の影響を受けていなかった。長い繁栄が、スチュアート家を追放し、王室の大権を制限し、階級制度の不寛容を抑制した偉大な政党を堕落させた。逆境はすでに有益な効果を生んでいた。ジョージ3世即位の日にホィッグ党の支配が終わり;その日からホィッグ党の浄化が始まったのである。ホィッグ党の新進気鋭のリーダーたちは、サンディスやウィニントン、サー・ウィリアム・ヨンジやヘンリー・フォックスとは全く異なるタイプの人物だった。彼らは、チャルグローブ(*1643年の王党派と議会派の戦い)でハムデン(*議会派の戦死者)の側に立って突撃したり、リンカーンズ・イン・フィールド(*処刑場としても使われたロンドン・シティの広場)の足場でラッセル(*ウイリアム、1683年チャールズ2世暗殺を企てたとして処刑された)と最後の抱擁を交わしたりするにふさわしい人物だった。彼らは自分の個人的な取引を制御しているのと同じ高い美徳の原則を政治に持ち込んでおり、最も高貴で最も有益な目的であっても、名誉と品位によって非難されるような手段で推進しようとはしなかった。このような人物はジョン・キャベンディッシュ卿やジョージ・サヴィル卿をはじめとする、ホィッグ党の第二の創設者として、半世紀にわたる退廃から初期の健康とエネルギーを取り戻した人物として我々が尊敬する人物である。

この品行方正な一団の長は、ロッキンガム侯爵であり、立派な財産と優れたセンス、そして汚れのない性格の持ち主であった。彼は非常に神経質で、彼の人生のまさしく終わりまで貴族院の演説をとても苦手とし、気後れしないではいられなかったという。

しかし優れた雄弁家ではなかったものの、政治家としての資質は十分に持ち合わせていた。彼は自分の友人をよく選び;最も名誉ある絆で友人を自分に結びつける並外れた術を持っていた。彼が権力を握ったときに見せた公平無私な態度や繊細さに負けず劣らず、長きに渡る対立の時期に彼らが快い忠実さで彼を支持したことは賞賛に値する。

党派の利用と乱用をうまく説明するために、当時の2つの強力なコネクション、ロッキンガム派とベッドフォード派の比較以上のものはない、と我々は考えている。ロッキンガム派は、まさに党派のあるべき姿を示していたと私は思う。それは、共通の意見、共通の公的目標、互いの尊敬によって結ばれた人々で構成されていた。彼らは正直で憲法に則った方法で物事を進めたい、と公言していた。彼らはしばしば公職の名誉や報酬を受けるように誘われたが、自分たちの原則と相容れない条件であれば断固として拒否した。ベッドフォード派には党派としての原則は何もなかった。リグビーとサンドウィッチは公金を欲しがっており、単独でいるよりも組んだ方が高値で売れると考えていた。そのため彼らは協調して行動し、自分たちよりもはるかに重要で優れた人物を説得して一緒に行動させた。

カンバーランド公爵が頼ったのはロッキンガムだった。侯爵は第一大蔵卿を引き受けることに同意した。ニューカッスルは長年にわたってホィッグ派の最高責任者として認められていたため、内閣から排除することはできなかった。彼は枢密院の長官に任命された。ダウデスウェルという名の非常に正直で頭脳明晰な郷紳が財務大臣になった。カンバーランド公に仕えていたコンウェイ将軍はカンバーランド公と強く結びついていたため、庶民院の主導で国務大臣に就任した。もう一人の国務大臣は当時大きな期待を寄せられていた壮年期のホィッグ派の大貴族、グラフトン公爵オーガスタスであった。

生存する最高齢者が記憶している限り、弁舌の才能にも実務経験にもこれほどまでに乏しい政府はなかった。休会中に大臣は執務するであろうが、議会での討論の初日が政権の最後の日になるだろう、というのが一般的な意見であった。チャールズ・タウンゼントが新政権についてどう思うかと聞かれた。彼は「これは単なるリュートストリング(*女性のシルクの夏着)であり;夏に着るにはとても良いものだ。これでは冬は越せない」

ロッキンガム卿はこの時期にピットの雄弁を凌ぐ雄弁と、グレンヴィルの勤勉に恥じない勤勉を併せ持ち、ピットもグレンヴィルも争うことができないような幅広い理解力を持つ味方の価値を見つけ、助力を得るという賢明さを持っていた。しばらく前に若いアイルランド人が運を開くためにロンドンへやってきた。彼は本屋のために多くの文章を書いていたが;ボリングブローク(*前出、トーリー)の文体と論法を絶妙な技術で模倣して揶揄した小さな論文と、我々が趣味の対象から受ける喜びについての健全さよりも独創性に富んだ理論で最もよく知られている。 彼は話し手としても高い評価を得ており、タークス・ヘッドで一緒に食事をする文人たちからはジョンソン博士(*サミュル・ジョンソン)の唯一のよい話し相手とみなされていた。彼はロッキンガム卿の私設秘書となり、この後援者の力で議会に招かれることになった。しかし実際のところ、この配置にはいくつかの困難があった。ニューカッスル公爵はいつもお節介をしたり無駄口を叩いたりをしていたが、本名をオバークといい、野性的なアイルランド人であり、ジャコバイトであり、教皇派であり、隠れイエズス会員であることを自ら知っていたこの山師に気をつけるよう、第一大蔵卿に懇願していた。ロッキンガム卿はこの中傷を相応しいものとして扱い;そしてエドマンド・バークの加入によってホィッグ党は強化され権威を持つようになった。

この時期、実際のところ党は新メンバーを必要としていた;ほとんど回復不可能なほどの損失を被り続けていたのである。カンバーランド公爵は政府を構成し、その主な支持者であった。その高い地位と偉大な名前はピットの名声とある程度釣り合っていた。カンバーランド公爵はホィッグ派と宮廷の仲介者として他の誰にもできない役割を担っていた。彼の性格の強さが新内閣の最大の欠点を補っていた。特にコンウェイは優れた志と相当な才能を持ちながらも人類の中で最も依存心が強く優柔不断な人物であったが、自力ではなく、この男らしい人物の助言によって決断を下すことができたのであった。議会が開かれる前に公爵が急逝した。その死は大きなトラブルの前兆であると広く考えられ、それゆえに彼の個人的な資質への敬意のためと同じくらい非常に嘆き悲しまれた。ロンドンの服喪はかつてないほど全体的で、官報が定めたよりも深く長いものであったと言われている。

一方、アメリカからの郵便物はどれも憂慮すべき知らせばかりだった。グレンヴィルが蒔いた種は後継者が刈り取らなければならなかった。植民地は反乱に近い状態になっていた。印紙は燃やされた。収税官はタールを塗った上から羽毛で覆われた(*私刑に遭った)。不満な属州と母国との間の交通はすべて遮断された。ロンドンの取引所は混乱していた。ブリストルとリバプール(*港町)の商会の半数が倒産の危機にさらされた。リーズ、マンチェスター、ノッティンガム(*繊維産業)では、10人に3人の職人が路頭に迷っていると言われていた。内戦が間近に迫っているかのように見えた。英国民がいったん分裂すれば、フランスとスペインがすぐにその争いに参加することは疑う余地がなかった。

閣僚たちには3つの選択肢があった。一つ目は印紙法を武力によって施行すること。これは国王と、国王が人一倍嫌っていたグレンヴィルが同じく考えていた方法である。二人の性格は専横で頑固であった。彼らは決して友人にはなれないほどお互いに似ていたのであるが;現実の重要な問題のほとんどすべてを同じ視点から見ているという点でも似ていたのである。どちらも相手に支配されることには我慢できないが;国民を支配する最善の方法については完全に同意していた。

もう一つの方法はピットが推奨する方法であった。彼は英国議会には植民地に課税する法律を制定する憲法上の権限はないと考えていた。したがって彼は印紙法を無効なものと考え、チャールズ(*1世)の船舶税やジェームズ(*2世)の刑罰法を廃止する布告と同等の合法性しか持たない文書であるとした。この理論は全く受け入れがたいものであるということを我々は認めなければならない。

これらの両極端なコースの間に第三の道があった。当時の最も賢明で穏健な政治家たちの意見は、英国憲法は大英帝国全体に対する英国王、貴族院、庶民院の立法権に何の制限も設けていないというものであった。彼らは議会にはアメリカに課税する法的権限があると考えていた、それは本人に不利な証人を尋問することなく、また本人の弁明を聞くこともなく、ロンバード街のすべての商人の財産を没収したり、王国内のいかなる人物をも大反逆罪で逮捕したりすることによって、他のいかなる愚行や悪行にも関与する法的権限を議会が持っていることと同様である。最も残虐な没収や私権剥奪の法律は、寛容法や人身保護法と同様に正当な法律である。しかし法律家はあらゆる道徳的責任によって、没収行為や私権剥奪行為を控えるよう組織的に縛られている。それと同じく英国の立法府はアメリカ植民地への課税を控えるべきである。印紙税法は議会の憲法上の権限を超えていたからではなく、不正で得策ではなく、収入が少なく不満が多くなるものであったため、擁護できないものである。この健全な理論はロッキンガム卿とその同僚によって採用され、バークによってそのいくつかが英語が続く限り残るような名演説の中で、長い年月にわたって諄々と説かれた。

冬になり議会が開かれると、植民地の状況が即座に激しい論争の的となった。バースの温泉で健康を取り戻したピット、再び庶民院に姿を現し、熱烈かつ悲愴感あふれる雄弁で印紙法を非難しただけでなく、マサチューセッツ州とバージニア州の抵抗を称賛し、そう言わざるを得ないのであるがあらゆる道理と典拠に反して、英国憲法によれば最高立法権には課税権は含まれないと熱烈に断言した。一方グレンヴィルはエジンバラでの典礼反対運動のニュースが入ってきたとき、チャールズ1世の会議場でストラフォード(*初代伯爵)が使ったであろう言葉を使った。植民地人は裏切り者であり;彼らを許す者もまた同様である。フリゲート艦、迫撃砲、銃剣、サーベルなどがこのようなジステンバー(*犬の病気)に対する適切な治療法である。

大臣たちは中間的な立場をとっていた;彼らは全帝国に対する英国議会の立法権はいかなる場合にも最高位であることを宣言し;同時に印紙法を廃止することを提案していた。前者についてはピットが反対したが;反対の声はほとんど拡がらなかった。印紙法の廃止はピットが強く支持したが、手ごわい反対集団が勢ぞろいして政府に立ちはだかった。グレンヴィルとベッドフォード派は激怒した。テンプルは弟としっかり結びつき、ピットとは袂を分かっていたが決して卑しむべき敵ではなかった。しかしもっと悪いことがあった。内閣は本来の力を失っていた。公然の敵だけでなく、国王やこの頃国王の友人と呼ばれるようになった人々の陰湿な敵意と闘わなければならなかったのである。

この派閥の特徴をバークがいつも以上に力強く、生き生きと描いている。彼の生涯を通じて情熱がその判断がどれほど偏向させていたかを知る人は、当然ながら彼が我々に残したものを似顔絵というよりもむしろ風刺画であることを疑わないであろう;しかし肖像全体の中で、その迫真性を疑う余地のない事実によって証明されていない部分はほとんどない。

一般の人々は王の友人たちをビュートを中心とした一団とみなしていた。伯爵が政治から足を洗ったと公言したり、毎年毎年謁見や応接室から姿を消したり、北へ行ったり、ローマへ行ったりしていたのは無駄なことだった。何らかの不可解な方法で彼が宮廷のすべての方策を指示しているという考えは一般の人々だけでなく、情報を得る機会に恵まれ、俗間の偏見により上に位置しているはずの一部の人々の心にも定着していた。しかしこのような疑念は根拠のないものであって、ジョージ・グレンヴィルが解任される前に彼は政治的な問題について国王と連絡を取ることをやめたというのが我々の考えである。実際、この現象を説明するのにビュートの影響力を想定することは決して必要ではない。国王は1765年には母親とストールの花婿に管理されていた1760年のような無知で経験の浅い少年ではなくなっていた。彼は数年間にわたって政党間の争いを観察し、国家の重要な問題について有能で経験豊かな政治家と毎日話し合っていた。このような生活の中で彼は理解力と人格を高めていった。彼はもはや操り人形ではなく、人々に対しても物事に対しても非常に明確な意見を持っていた。彼が自分の大権を過大評価し、反対意見を嫌悪し、すべての公人が互いに切り離されて自分だけに依存することを望むのは当然のことであり;また当時の政界の状況の中で、彼が自分の目的に適した道具を見つけたのは当然のことであったと言えるであろう。

このようにして我が国では空前絶後の爬虫類のような(*卑劣な)政治家たちが誕生し、注目を浴びるようになったのである。彼らは国王との結びつきを除いてすべての政治的な結びつきを放棄した。彼らは即時にどんな党派とも合流し、どんな党派をも見捨て、どんな党派をも弱体化させ、どんな党派をも攻撃することを厭わなかった。彼らにとってはどの政権もどの対立勢力も同じであった。彼らはビュート、グレンヴィル、ロッキンガム、ピットをある一つの感情以外の好意も嫌悪感も持たずに見ていた。彼らは王の友人であった。しかしこの友情は個人的な親密さを意味するものではないことに留意すべきである。彼らは、かつてドディントン(*初代メルコム男爵)が父親(*ジョージ2世)と暮らしたように、また後にシェリダン(*リチャード・ブリンジー)が息子(*ジョージ4世)と暮らしたように主君と暮らしたことはなかった。朝に狩りをしたり、夜にトランプをしたり、羊肉を分けてもらったり、カブ畑を一緒に歩いたりしたこともなかった。公務の日以外に顔を出すのは1人か2人だけだった。しかし彼の個人的な傾向については常に全員が早くから正確な情報を得ていた。このような人々は決して政府の上層部にはいなかった。彼らは一般的に報酬が多く、苦労が少なく、責任を負わない場所にいることが多く;内閣が6~7回変わってもその場所にしっかりと居座り続けた。彼らの仕事は野党に対抗して内閣を支持することではなく、内閣に対抗して国王を支持することであった。彼の憲法顧問が必要と考える法案の提出を陛下が渋々承諾させられたとき、彼の庶民院の友人たちは必ず反対意見を述べ、反対票を投じ、議会の形式に沿ったあらゆる妨害を加えた。また国王が自ら嫌っている国務大臣や第一大蔵卿を謁見室に入れる必要があると判断した場合には、友人たちはその嫌な大臣の邪魔をしたり、卑しめたりする機会を逃さなかった。このような奉仕の見返りとして王は彼らを自らの保護の下に置いた。責任感のある臣下たちが政府に養われている者たちに日々裏切られ、邪魔されていると王に訴えても無駄だった。彼はある時は加害者たちを正当化し、ある時は赦免し、ある時は加害者たちに非があることを認めながらも、彼らと手を切るかどうかは時間をかけて検討しなければならないと言った。彼は決して彼らを追い出そうとはせず;国家の他のすべてのものが常に変化している中で、このおべっか使いたちはその役職の終身所有権を持っているかのようだった。

国王の友人たちは良く知っていた、国王が印紙法の廃止に同意したとはいえ、それは非常に嫌々ながら同意したのであり、また国王が非常に困っていたときにその耐えられない程の重荷からの解放すること約束してくれたホィッグ派を熱心に歓迎したとはいえ、国王は自分の救助者たちに対する初期の偏見を克服したわけではないことを。閣僚たちはすぐに、前方では強力な反対派の全勢力に遭遇し、後方からはこれまで援軍と考えていた大勢の人々に攻撃されていることに気づいた。

それにもかかわらずロッキンガム卿とその支持者たちは毅然として印紙法廃止法案を進めた。王国の製造業と商業のすべての利益が彼らに味方していた。議論の場では政府は強力に支持された。2つの異なる世代に属する2人の偉大な雄弁家である政治家が法案を擁護するためにあらゆる力を繰り返し発揮した。庶民院は最後にピットが、最初にバークが発言するのを聞いたが、雄弁の賞をどちらに与えるべきかを迷っていた。まさに素晴らしい日暮れと素晴らしい夜明けであった。

しばらくの間、事態がどちらへ転ぶかは不明であった。いくつかの採決において大臣たちは窮地に追い込まれた。ある時には王の友人である12人以上の役職者が政府に反対票を投じた。ロッキングハム卿が国王を諌めても無駄だった。陛下は不満には理由があることを認めた上で、穏やかな方法で暴徒たちに考えを改めさせることを望んだ。しかしこれ以上、彼らが不行跡を続けるようであれば内閣を辞職させるつもりであった。

そして、ついに決定的な日がやってきた。傍聴席、ロビー、民事裁判所、階段は島のすべての大きな港から集まった商人で混雑していた。議論は真夜中を過ぎても続いた。採決において大臣たちは圧倒的多数を獲得した。内戦の恐怖と王国の全貿易都市の声は宮廷と反対派を合わせた力よりもはるかに強かったのである。

2月1日の朝、薄明かりの中で扉が開け放たれ、敵対する党派の首領たちが大勢の人々の前に姿を現した。コンウェイは大きな拍手で迎えられた。しかしピットが現れると皆の視線は彼だけに注がれた。すべての帽子が頭から離れた。椅子に座った彼に長く大きな歓声が上がり、家までの道には付きそう崇拝者たちの列ができた。続いてグレンヴィルが登場した。彼の姿が視認されるや否や、シューッという声や呪いの嵐が吹き荒れた。彼は群衆に猛然と襲いかかり、一人の喉を捕らえた。傍観者たちは非常な恐慌に陥った。乱闘が始まればどうなるか分からない。幸いなことに襟首をつかまれた人物は「シューッと言ってはいけないのでしたら、サー、笑ってもいいでしょうか」と言い、グレンヴィルの顔を見て笑った。

多数意見があまりにも明らかだったため、一人を除いた議会(*Ministry:内閣と書いてあるが正しくは議会と思われる)の反対派はこれ以上の論争をせずに法案を通過させようと考えていた。しかしグレンヴィルには懇願も忠告も無駄だった。彼の不屈の精神は国民の憎しみを受けてますます強くなっていった。彼は最後まで粘り強く戦い抜いた。最後の読会(*英国では第三読会を経て勅裁を得たのち法律となる)で彼は義弟と激しい口論をしたが、これが何度も繰り返された激しい口論の最後のものとなった。ピットは英国王の毛皮に英国民の血を塗ろうとした男を最も高遠な論調で激しく非難した。これに対してグレンヴィルは持ち前の豪勇さと荒々しさで反論した。「もしこの税が」と彼は言った。「なおも課されるべきなのであれば、私は課したい。この税がもたらすかもしれない害悪については、今私を非難している者に責任がある。それが必要になったのは彼の濫費のせいである。王、貴族院、庶民院の憲法上の権限に逆らった彼の(*宣戦)布告がその必要を二倍にしたのである。私は彼が受ける歓声を羨ましいとは思わない。私はシューッと言われることを誇りに思う。もし私がもう一度同じことをするかと問われたならば、すると答える。」

ロッキンガム卿の政府の主要な政策は印紙法の廃止であった。しかしこの政府はウィルクス事件で国民の注目を集め、正当な怒りを引き起こしていた2つの抑圧的なやり方に歯止めをかけたという点で賞賛に値する。庶民院は大臣たちに促されて一般令状の使用を非難する決議と、名誉毀損事件において書類を押収することを非難する決議を行った。

彼の政権は議会議員への賄賂を控える勇気と美徳を持った長い歴史の中で最初の政権であったことを、ロッキンガム卿の永遠の名誉のために付け加えなければならない。彼の敵は彼と彼の友人たちを、弱さ、傲慢さ、党派心などで非難したが;彼の名を汚職と結びつけて中傷する勇気はなかった。

不幸なことに彼の政府はわが国にかつて存在した最高の政府のうちの一つであったが、最も弱い政府のうちの一つでもあった。王の友人たちはことあるごとに大臣たちを攻撃し、妨害した。国王に訴えてもただ新たな約束と新たな言い逃れが返ってくるだけであった。陛下は何か誤解があるに違いないと思っていた。ロッキングハム卿は紳士たちに話をした方がいい。次に失態があったら内閣を辞職させよう。次の失態はすぐに起こったが、陛下はまだあいまいな態度を続けていた。残念なことである。忌まわしいことではあったが;議会の閉会が間近に迫っていたので大した問題ではなかった。誤った者たちにもう一度チャンスを与えよう。もし彼らが次の会期にその振る舞いを改めないならば、彼が彼らに言うべきことは何もない。次の会期が始まるずっと前に、彼はすでにロッキンガム卿に大臣を辞めさせことを決意していたのである。

この物語は、ピットの天才的な才能と多くの高貴な資質を賞賛しながらも、痛みを感じずには語ることのできない部分に差し掛かった。我々はこの状況下で、彼がホィッグ派か国王の友人のどちらかに勝利を与えることができたと信じている。もし彼がロッキンガム卿と緊密に連携していたら、宮廷はどうすることができたであろうか?選択肢はホィッグ派かグレンヴィル派のどちらかしかなく;王の選択に疑いの余地はなかった。彼は叔父がそこから自分を救い出してくれた苦難を今でも非常に苦々しく思い出し、この頃「グレンヴィルよりも悪魔が謁見室に入ってくる方がましだ」と熱烈に語っていたのである。

何がピットがロッキンガム卿と手を組むのを妨げたのだろうか?最も重要な問題について二人の意見は一致していた。彼らは、講和、印紙法、一般令状、書類の押収を非難することで一致していた。二人の意見の相違点は少なく、重要なものではなかった。誠実さ、私心のなさ、腐敗への憎しみにおいて、彼らはお互いに似ていた。彼らの個人的な利益が衝突することはなかった。二人は別々の議院に所属しており、ピットは常に自分を第一大蔵卿になるように仕向けることはできないと宣言していた。

国家にとって有益で、関係者全員にとって名誉ある連立を組む機会が失われたとしても、その責任はホィッグ派の閣僚にあるわけではない。彼らはピットに対して心からの称賛と公共の利益への配慮からくるものでなければ卑屈と言われても仕方がないほどの盲従的な態度をとった。彼らはピットが自分たちの仲間に入ることを選んだ場合、同輩としてではなくリーダーとして彼を受け入れる用意があることを繰り返し彼に伝えていた。彼らは当時彼が最も信頼していたプラット裁判長に貴族の称号を与えることで、彼への敬意を証明した。ではピットとホィッグの間には何があったのであろうか?逆に彼と王の友人たちに、彼が彼らの目的に手を貸すような何らかの共通点があっただろうか?おべっかや陰謀に頼ったことがなく、その雄弁と独立心で二世代にわたる奴隷たちや汚職者たちを圧倒し、称賛する国民の熱気に押されて渋々二度も第一人者になることを強いられた彼に。

不幸にも宮廷はピット(*ロッキンガム派を排してピットだけ)を手に入れたが、それのために用いられたのはリグビーやウェダーバーン(*初代ロスリン伯)のような人物を手に入れようとしたときに用いられたような卑劣な手段ではなく、正道を外れていたとしても高貴な性質に適した魅惑的な手段であった。国王はグレンヴィルを入れずにホィッグ派を追い出すことができる人物を口説こうとした。国民のアイドルには、称賛、甘言、約束が惜しみなく与えられた。彼が、彼だけが、派閥争いに終止符を打ち、ホィッグ派、トーリー派、ロッキンガム派、ベッドフォード派、グレンヴィル派など、国中のあらゆる強力なコネクションに挑戦することができるのである。この甘言は大きな効果をもたらした。ピットの精神は高潔で男らしく、その雄弁はしばしば宮廷に対抗して恐るべき効果を発揮し、ロック(*ジョン)やシドニー(*アルジャーノン)の学派で政治論を学んだとはいえ、常に君主の人格を深く尊敬していた。王族を目の前にした途端、彼の想像力と感性はその主義主張を圧倒することとなった。彼のホィッギズムは氷解して消え失せ、彼はしばらくの間、昔のオーモンド(*第二代公爵、ジェームズ・バトラー)型のトーリー派になった。また彼はすべての政治的コネクションを解消する作業に協力したくなかったわけではない。彼自身の国家における地位はそのようなコネとは全く無関係であった。そのため彼はそのようなコネを嫌う傾向があり、国民から金を奪うことだけを目的として結びついている悪党の集団と、大きな公共の目的を推進するための高潔な人々の連合体とをあまりにも区別していなかった。また、すべての党派を消滅させようとする努力がある党派、それも最も不道徳で憎むべき党派の優位性を確立することにしかならないことを理解する賢さも持ち合わせていなかった。

もし彼の心が完全に健康で元気であったならば、このように惑わされていたかどうかは疑問である。しかし実際のところ彼はしばらくの間、不自然なほどの興奮状態にあった。この種の疑惑はまだ広まっていなかった。彼の雄弁が最近の討論の時ほど輝いていたことはなかった。しかし人々は後になってから不安を抱くべきであった多くの事柄を思い起こした。彼の習慣は次第に風変りになっていった。ワレンシュタイン(*ボヘミアの30年戦争のカトリック側の軍事指導者)の数ある奇行の一つと言われているように、大きな音を恐れるようになった。最も愛情深い父親であったが、この頃は自分の子供の声を聞くことに耐えられず、隣人の騒音がうるさくないようにするためだけに大金を投じてヘイズの家の隣の家を購入した。その後ヘイズを売却し、ハムステッド(*北ロンドン)のヴィラを手に入れた彼は再び左右の家を購入し始めた。この時期の彼の出費はベンガルやタンジョール(*南インド)の征服者の中でも最も裕福な人々と肩を並べるほどであった。バートン・ピンセント(*ピンセント卿から遺贈された西イングランドの地所)では広大な土地に杉を植えるように命じた。この目的に十分な杉はサマセットシャーでは見つからなかった。そのためロンドンで集められて陸上を馬車で運ばれてきた。労働者の交代班が雇われ;松明を灯して作業は一晩中行われた。ピットほど質素な食事をしている人物はいなかったであろうが;彼の台所の豊かさは美食家にとっても驚きだった。常に何種類ものディナーの下拵えがしてあり;常に彼の食欲は気まぐれで非現実的であったので;いつでも食べたいと思ったときにすぐに食事が出てくるようにしていたのである。他にもこまごまとした事柄があり、個別には小さなことであるが総合して考えると、またその後の奇妙な出来事と関連づけて考えると、彼の心はすでに病的な状態にあったと考えるのが妥当だと思われる。

議会の閉会後まもなくロッキンガム卿は解任された。ロッキンガム卿は敵も認めざるを得ない一貫性と高潔性を備えた強固な友人たちを引き連れて退いた。彼らの誰もが領地や復帰財産(*一代限りや一定の条件で返還する領地)、年金や地位を求めたり、受け取ったりしなかった。当時このような私利私欲のない政治家は珍しかった。彼らの長は輝かしい才能に恵まれていたわけではなかったが高潔なことで名声を得ており、それを最後まで守り通した。彼はほとんど乗り越えられないように見えた困難にもかかわらず、大きな権力の乱用を取り除き、内戦を回避した。彼はその16年後、暗く恐ろしい日に再び国家を救うことを求められた。彼の最初の政権の動きを妨げ、ついには崩壊させたのと同じ背信と強情さによって国家は破滅の危機に瀕していたのであった。

王の手で書かれた手紙によって宮廷に召喚されたときピットはサマセットシャーで農業をしていた。彼はすぐに急いでロンドンに向かった。旅の急激な移動で心身が過敏になり、旅が終わったときに彼は発熱していた。体調を崩しながらも彼はリッチモンドで国王と会見し、政権の樹立を約束した。

ピットは繊細で困難な交渉をしなければならない人間としてあるまじき状態であった。妻に宛てた手紙の中で、自分が役目を果たさなければならない会議によってその血液を熱くなり、脈拍は早くなると訴えていた。他の情報によると彼の言葉は彼が協力を求めようとしている人々に対してさえ、奇妙なほど高飛車で横暴であったという。この時期に書かれたメモがいくつか残されているが、それはルイ14世がフランス人の従者に話しかけるときに採用するのに相応しすぎる文体であると思われる。

すべての党派を解散させようとしてピットはいくつかの困難に直面した。宮廷が喜んでロッキンガム卿から引き離したいと考えていた一部のホィッグ派はすべての(*入閣の)申し出を拒否した。ベッドフォード派はグレンヴィルとの決別を完全に望んでいたが;ピットは彼らの条件に応じようとはしなかった。ピットが当初財務省のトップに据えようとしていたテンプルは強情であった。政治的には長く密接な関係にあった義理の兄弟の間にはここ数か月の間に急速に冷え込みが生じていた。ピットは印紙法の廃止に反対したテンプルに腹を立てていた。テンプルはストウ(*テンプル=グレンヴィル家の領地)で本命視されていた家族同盟を拒否したピットに腹を立てていた。ついにテンプルは権力と任命権を平等に分割することを提案し、その条件を飲むならば弟のジョージを外すことを申し出た。ピットはこの要求が法外なものであると考え、きっぱりと拒否した。そして激しい口論が続いた。彼らは同じ一族でありながらそれぞれ自分の性格に忠実であった。テンプルの心に憎しみがうずき、ピットの心は軽蔑に満ちていた。テンプルはピットを偽善者や裏切り者の中でも最も憎むべき人物と表現した。ピットはそれとは別の、おそらくもっと挑発的な口調で語った。テンプルは十分に善良な人物で、その唯一の優れた肩書は大きな庭と大きな湖を持ち、多くの東屋や夏の別荘を持っていることであった。偉大な演説者や政治家と幸運にもつながったことで、彼は自分の才能では決して手にすることのできなかった国内での重みを手に入れたのであった。その重みが彼の頭をもたげさせた。彼は自分が政権を作り、帝国を統治できると思い始めていた。善意の人がこのような妄想に陥っているのを見るのは痛ましいことであった。

こうした困難にもかかわらず、この内閣は国王の希望どおりに作られ、この内閣で国王の友人全員が気持ちよく受け入れられ、国王の友人を除いてそれまで一緒に行動したことがある4人以上のグループはなかった。一度も同じ側に投票したことのない人たちが同じテーブルに座っていたのである。一度も言葉を交わしたことのない二人が主計局を分け合っていた。主要なポストのほとんどはピットの個人的な支持者か、ロッキンガム卿が解任された後も残っていた前内閣のメンバーによって占められていた。前者には大印証を受けたプラット、現カムデン卿と、国務大臣の一人となったシェルバーン卿が含まれる。後者には第一大蔵卿となったグラフトン公爵と、政府と庶民院の両方でかつての地位を維持したコンウェイが属していた。どの党派にも属し、どの党派をも好まなかったチャールズ・タウンゼントが財務大臣となった。ピット自身も首相に任命されたが、面倒な仕事には就かなかった。彼はチャタム伯爵の称号を与えられ、枢密院の印章を渡された。

言うまでもないことであるがこの配置の失敗、つまり完全に不名誉な失敗は我々が名前を挙げた人物の能力不足のせいではない。彼らの中に能力不足の人はいなかったたし、ピット自身、シェルバーン、カムデン、タウンゼントの4人は知的に優れた人物であった。欠点は材料にあるのではなく、材料を組み立てる際の原理にあった。ピットはこれらの相反する要素を混ぜ合わせ、完全に自分に従属させ、互いに完全に調和させることができると確信していたのである。この実験がどのような経過をたどったかは間もなくわかることであろう。

新首相が国王の手にキスをした(*役職についた)、まさにその日に、彼が長い間ライバルなしで享受してきた人気と、彼がその威信の大部分を負っていた人気の4分の3が彼から離れてしまった。彼の行動のうち本当に厳しい非難に値する部分に対してではなく、非難すべき点が見当たらない一歩に対して激しい抗議の声が上がったのである。彼が貴族の称号を得たことで世間一般から怒りの声が上がった。しかし叙爵がこれほど良いことであったことはかつてなく、また上院の平穏さをこれほど必要とした政治家もいなかっただろう。ピットは年老いていた。体質的には年齢よりもずっと年老いていた。彼はいくつかの重要な場面で差し迫った命の危険にさらされながらも議会出席の義務を果たしていた。1764年の会期中、彼は一度も討議に参加することができなかった。夜な夜な庶民院で政府の業務を遂行するのは不可能であった。このような状況下でより忙しくなく、より波乱の少ない議会に移ることを望む彼の気持ちは自然かつ合理的であった。しかし国民はこのような事柄をすべて見過ごしていた。大平民を最も愛し尊敬していた人々は新たに叙された伯爵を最も大きな声で罵った。ロンドンはこれまで、いかなる浮沈においても彼に忠実であった。サマセットシャーの彼に使者が出されたこと、リッチモンドで国王と面会したこと、そして彼が第一大臣(*first minister)になることを知った市民は喜びに沸いた。盛大な催し物と全体的なイルミネーションの準備が行われた。官報によってこの熱狂の対象が伯爵に叙されたことが発表されたとき、実際に記念碑の周りにはランプが置かれていた。すぐに祝宴は中止された。ランプは取り外された。新聞社は誹りの叫び声を上げた。中傷や汚い言葉で作られたパンフレットがすべての書店に並び;その中でも最も苦々しいパンフレットは、悪意あるテンプルの指示で書かれたものであった。今ではウィリアム・プルトニー(*初代バース伯爵)とウィリアム・ピットという2人のウィリアムを比較するのが流行していた。2人とも雄弁と見せかけの愛国心によって庶民院と国内で大きな優位を獲得していた。二人とも政府の改革を任されていた。二人とも権力と人気の絶頂にあったとき、小冠の輝きに誘惑された。二人とも伯爵になり、数時間前まで国民に愛情と尊敬の念を抱かれていたのに、たちまち嫌悪と軽蔑の対象となってしまったのであった。

ピットに対する非難の声はこの国の外交関係に深刻な影響を与えたようである。ピットの名前はこれまでヴェルサイユやサン・イルデフォンソ(*スペイン王の夏の離宮)に呪文のように作用していた。大陸を旅したイギリス人は、自慢話に花を咲かせるフランス人を黙らせるにはピット氏が政権に復帰する可能性を仄めかすだけで十分である、と言っていた。一瞬にして深い静寂が訪れ;すべての肩が上がり、すべての顔が長くなった。不幸なことに外国のすべての宮廷はピット氏が公職に戻ったことを知ると同時に、彼がもはや国民の心を掴んでいないことを知ったのである。国内で愛されなくなったことによって、海外で恐れられることもなくなった。ピットの名前は魅力的な名前であった。我々の使者はチャタムの名で魔法をかけようとしたが無駄だった。

彼が周囲の人々に接する際の横暴な態度がチャタムを悩ませる困難を日々増大させていた。ロッキンガム卿は内閣交代の際、非常に穏健な行動をとり、新政府が旧政府の原則に基づいて行動することを期待し、さらには友人の多くが辞職するのを阻止するよう干渉していた。そのため高名な海軍司令官であるサンダースとケッペルの2人はその能力を必要としていた海軍本部に留まることになった。ポートランド公爵は引き続き式部卿、ベスボロー卿は郵政大臣を務めていた。しかしチャタム卿がこの人々にとても無礼な言動をしたため、彼らは4分の1年も経たないうちに嫌気がさして皆辞めてしまった。実際のところ謁見室の中では従順なチャタム卿の口調はこの時、内閣の中では耐えられないほどの暴君ぶりを発揮していた。彼の同僚たちは海軍、財務、外交の仕事をこなす彼の事務官に過ぎなかった。コンウェイは屈従的な性格であったが、ある時怒ってチャタム卿のような言葉はコンスタンティノープル以西では聞いたことがないと宣言し、辞職してロッキンガム卿の陣営に復帰しようとするのをホレス・ウォルポール(*ロバート・ウォルポールの三男)が苦労して阻止する一幕があった。

ロッキンガム派の多くが離反したことで政府に生じた綻びを、チャタムはベッドフォード派の助けを借りて補おうと考えていた。しかしベッドフォード派とは他の党派と同じようには取引できなかった。派閥の1人や2人を切り離そうと思って高値をつけても無駄だったのだ。彼らを手に入れることができるのだが;全部手に入れることしかできないのである。確かに一時は彼らの間に揺らぎがあり、論争が起こった。しかし抜け目なく断固としたリグビーの勧告が勝った。彼らはしっかりと共に立つことを決意し、そしてチャタムに「全部取るか、それとも全部取らないかだ」とはっきりと伝えたのである。この出来事は彼らの世代が国内のどのコネクションよりも賢明であったことを証明した。数ヶ月のうちに彼らは自分たちから条件を出すことができるようになった。

チャタム卿の政権下で最も重要な公共政策は有名な小麦貿易への干渉だった。不作のため;食料価格が高騰していたため;チャタム卿は自らの責任で穀物の輸出を禁止する必要があると考えた。国会が開かれるとこの手続きは野党からは違憲であると攻撃され、大臣たちからは必要不可欠なものだと擁護された。最終的には禁輸に関わったすべての人々に補償する法律が可決された。

チャタムが貴族院で最初に口にした言葉はこの時の自分の行動を擁護するものだった。チャタムは演説の聴衆にふさわしい冷静さと節度、そして威厳をもって話したのであった。同じテーマについて彼がその後に行った演説はあまりうまくいかなかった。彼は貴族のコネクションに反発を示し、貴族たちが慣れていない人を見下すような態度で、自分が今所属している議会よりもさらに大規模で荒れ狂う集会に適した口調とジェスチャーで話をしたのである。短い口論が起こった、彼がイングランドの由緒ある貴族を脅しつけるようなことは許されてはならない、ということが非常にはっきりと宣告された。

彼の精神状態が乱れていることは次第に明らかになっていった。東インド会社の領土獲得に注目した彼は、その大問題のすべてを議会に提出することを決意した。しかし彼は同僚の誰ともこの問題について話し合おうとはしなかった。庶民院の議事進行を担当していたコンウェイや財政を担当していたチャールズ・タウンゼントが、何が考えられているのかを少しでも明らかにしてほしいと懇願したが無駄であった。チャタムの答えはむっつりとしていて謎めいていた。彼らとの話し合いは断らなければならず、彼らの援助は望んでいなかった;彼は庶民院で彼の施策を担当する人物を決めていたのである。その人物とは政府とは無関係で、庶民院の耳目を集めることもなく、また集めるにも値しない議員であり、騒がしく、財産を誇り、無学の大衆扇動者であり、コックニー(*ロンドンの下町訛り)と発音を間違えたラテン語の断片が新聞でジョークにされていたアルダマン・ベックフォードである。この奇妙な出来事が政界全体を騒がせたことは想像に難くない。シティは騒然としていた。東インド会社は勅許状の信用を頼りとした。バークは閣僚たちに雷を落とした。閣僚たちはお互いに顔を見合わせ、何を言っていいかわからなかった。混乱の中、チャタム卿は自分は痛風であると宣言し、バースに引きこもった。しばらくして彼は回復し、まもなく戻ってきて、すぐにすべてを整えると発表された。彼がロンドンに到着する日が決まった。しかしマールボロ城の宿舎に到着すると彼は車を止めて部屋に閉じこもり、何週間もそこに留まっていた。その道を旅した人は皆、彼の随行者の多さに驚いた。彼の一家の制服に身を包んだ従僕や馬丁がイングランドでも最大級の宿を埋め尽くし、小さな町の通りにも群がっていたのである。実はこの病人は自分が滞在する間、城の給仕や厩務員はすべて自分の制服を身につけることを要求していたのであった。

彼の同僚たちは絶望していた。グラフトン公爵はマールボロに行って託宣を受けようと考えた。しかしチャタム卿は仕事上の会話を一切辞退しなければならないと伝えられた。一方、ベッドフォード派、グレンヴィル派、ロッキンガム派など閣外のすべての党派は、取り乱した政府に対して地租の投票で反対に回った。彼らはほとんどすべての郡議員によって強化され、かなりの多数を占めた。ロバート・ウォルポール卿の没落以来、庶民院の重要な採決で内閣が打ち負かされたのは、これが初めてのことだった。このように外部から猛烈に攻撃された政権は内部の意見対立によって引き裂かれていた。政権には何の原理原則もなかった。最初からチャタムの権威だけが、彼の仲間となった敵対的な派遣団が互いに衝突することを防いでいたのである。今やその権威は失われ、すべてが混乱に陥っていた。コンウェイは勇敢な軍人であったが、内政では最も臆病で落ち着きのない人物であった。国王を裏切ることを恐れ、新聞で罵倒されることを恐れ、外に出れば党派的と思われることを恐れ、内に留まれば私心があると思われることを恐れていた。彼を首相にしたいホレス・ウォルポールと、彼を野党に引き込もうとするジョン・キャベンディッシュ卿の間を羽根つきの羽根のように行ったり来たりしていた。チャールズ・タウンゼントは素晴らしい雄弁家であると同時に曖昧な主義主張を持ち、限りない虚栄心に満ちた図々しい人物であったが、どんな統制にも従わなかった。彼の資質、野心、傲慢さの全貌はまだ明らかにされていなかった;彼はピットの天才と高邁な人格の前では常に怯んでいたのである。しかしピットが庶民院を去り、主席大臣の地位を放棄したかのように見える今、タウンゼントはあらゆる抑制から解き放たれた。

このような状況の中、チャタムはついにロンドンに戻った。彼はマールボロに残った方が良かったかもしれない。彼は誰にも会わなかった。いかなる公的な問題について意見を述べることもなかった。グラフトン公爵は1時間でも30分でも5分でもいいから面会させてほしいと哀願した。しかしそれは不可能である、というのが答えであった。国王自らが下手に出て何度も何度も諫め、懇願した。「あなたの義務と」と手紙を書きました。「あなた自身の名誉のために、あなたの努力を求めます。」これらの訴えに対する返事は夫の口述を筆記したチャタム夫人の手によるものであることが常であった;彼にはもはやペンを使うエネルギーすらなかったのである。彼は王の足元にひれ伏した。最も不幸な人間に対して大いに示された王の御心に、彼の心は刺し貫かれた。彼は今しばらくの目こぼしを懇願した。彼はまだ仕事をすることができない。同僚に会うこともできない。陛下との会見の興奮にも耐えられない。

一部の人々は彼が軍事用語で言うところの「仮病(*徴兵忌避)」を使っているのではないかと半信半疑であった。彼は大きな過ちを犯し、それに気づいてしまったのであると。彼の絶大な人気と政治家としての高い評価は永遠に失われてしまった。自尊心に酔いしれて自分の能力を超えた仕事を引き受けてしまったのであろう。彼の目の前には苦悩と屈辱しかないため;自分には耐えられない苦悩から逃れるために病気を装ったのである。この疑念は彼の特性の最も顕著な欠点である病弱さからそれらしく見えたのであったが、確かに根拠のないものであった。前述したように彼の精神は第一大臣になる前から不健全な状態にあったが;肉体的・精神的な原因が同時に作用して彼の能力を完全に狂わせてしまったのであった。生涯の悩みの種であった痛風は強力な治療薬で抑えられていた。オックスフォード大学で過ごした少年時代以来、痛みを感じることなく過ごしたのは数ヶ月間に過ぎなかった。しかし手足の痛みから解き放たれるために神経が犠牲になってしまった。彼は憂鬱になり、空想に耽るようになり、短気になった。厄介な公務の状況、自らに課せられた重大な責任、自らの過ちの自覚、同僚たちの異議、中傷者たちの粗野な喧噪などが彼の弱った心をまごつかせた。しかし、と彼は言った、ただ1つのことだけが自分を救うことができる。それはヘイズを買い戻すことである。チャタム夫人の懇願と涙によって新しい住人の渋々の同意が得られ;彼女の夫は幾らか安らぐことになった。しかしビジネスの話になると、かつて全人類のうちで最も誇り高く、最も大胆だった彼はヒステリックな少女のように振る舞い、頭のてっぺんから足の先まで震え、涙の洪水の中へと飛び込んでしまうのであった。

同僚たちは彼の健康状態が間もなく回復し、隠退生活から抜け出すだろうと期待していた。しかし月日が経っても彼は謎の隠遁生活を続け、彼らが知る限り精神的に最も落ち込んでいる状態であった。彼らはついに彼に何かを期待することも恐れることもなくなり、まだ彼が名目上の首相であるにもかかわらず;彼のすべての意見や感覚と正反対であることがわかっている手段を躊躇なく用い、彼が追放した人々と手を組み、彼が最も重んじていた人々を罷免し、彼が最近出した強い声明に反して植民地に税金を課したのである。

彼が憂鬱な隠遁生活を送って1と4分の3年が経った頃、国王はチャタム夫人の手による短信を受け取った。彼女が夫の口述を筆記したもので、枢密院の辞任を許可してほしいという内容であった。辞表はいくらかの丁重な慰留の後、受理された。この時チャタムは既にウェストミンスター寺院に眠っているかのように忘れ去られていた。

ついに彼の心を覆っていた雲が晴れて過ぎ去っていった。痛風が再発し、より深刻な病気から解放されたのである。その神経は新たに引き締められた。心が軽快になった。病的な夢から覚めたようだった。奇妙な回復であった。人々は彼のことを死んだ者のように話すようになっていた、そして彼が初めて王の謁見の儀に現れたとき、まるで幽霊を見たかのように驚いた。彼が最後に公の場に姿を現してから2年半以上が経っていた。

彼もまた驚きを隠せなかった。彼が今入った世界は彼が出て行った世界ではなかった。彼がつくった政権は一瞬たりとも完全に変わったことはなかった。しかしあまりにも多くの離脱と加入があったため彼は自分の仕事をほとんど認識できなかった。チャールズ・タウンゼントは死んだ。シェルバーン卿は解任された。コンウェイは全く無価値な存在になっていた。グラフトン公爵はベッドフォード派の手に落ちていた。ベッドフォード派はグレンヴィルを見捨て、国王や国王の友人たちと和解して公職に就いていた。ノース卿は財務大臣となり、急速に重みを増していた。コルシカ島は争うことなくフランスに譲渡されていた。アメリカ植民地との紛争が再燃していた。総選挙が行われていた。ウィルクスは亡命先から戻り、法に保護されていなかったがミドルセックス州の庶民院議員(*Knight of the shire)に選ばれていた。大衆は彼の味方だった。宮廷は頑なに彼を破滅させようとしており、つまらない復讐のために憲法の根幹を揺るがそうとしていた。庶民院は全議会のみが持つ権限を当然自らが持つと思い上がり、ウィルクスは議会に出席できない、と宣言した。しかしそれだけではウィルクスを排除することはできないと思われていた。別の人物を入れなければならない。ミドルセックスの自由(*土地)所有者たちは裁判所が受け入れることができる議員を選ぶことを頑なに拒んだため、議会は彼らのために議員を選んだのである。これは恐らく裁判所の執念深い悪意を示す唯一の例ではなく、また最も不名誉な例でもない。国王の友人たちはロッキンガム派の揺るぎない反対に憤激し、ある著名なホィッグ派の貴族の私財を奪おうとした、そして彼らの卑劣な悪行は自分たちの従順な多数派が単なる嫌悪感と羞恥心から反旗を翻すまで続けられた。不満は国中に広がり、かつてないほどの刺激が民衆の心を揺さぶり続けた。ジュニウス(*新聞に仮名でグラフトン批判の寄稿をして人気を博した作家)が戦野に降り立ってサー・ウィリアム・ドレイパー(*中将、1762年のマニラ占領に功績)を踏みにじって辱め、ブラックストーン(*ウイリアム、英国法学者、裁判官)の心をほとんど折ってしまい、グラフトン公爵の名声を切り刻んだため、閣下は公務にうんざりし、ユーストン(*サフォークにある領地)の夕闇に物憂い視線を向け始めていた。チャタムが心に抱いていた外交、内政、植民地政策のあらゆる原則はその天才的な才能が失われている間に自ら作り上げた政府によって破られていたのである。

彼の人生の残りの数年間は自分が致死的一撃を加えることができたかもしれないあの瞬間にその保護下に置くことを促されたあの致命的な政策(*印紙法)に対して、無駄に闘うことに費やされた。彼の努力は彼自身の名声を高めたが、彼の国にとってはほとんど効果がなかった。

彼は自分の義理の兄弟であるグレンヴィル家とロッキンガム卿の2つの派閥が揃って政府に対抗していることを知った。ミドルセックスの選挙の問題では、これらの政党は合意していた。しかし他の多くの重要な問題では両者の意見は大きく異なっており;実際のところ彼らは宮廷に対して敵対的であることに劣らずお互いに敵対的であった。グレンヴィル派はここ数年、続けざまに辛辣なパンフレットを発行してロッキンガム派を悩ませていた。ロッキンガム派が報復に出ようとするまでには長い時間がかかった。しかし、グレンヴィルの指示で書かれた「国民の現状」と題された意地の悪い小冊子は彼らの忍耐の限界を超えた。バークは友人たちを擁護して復讐することを約束し、見事な技量と力強さでその仕事を成し遂げた。彼はあらゆる点で勝利を収めたが、中でもグレンヴィルが最も得意とする統計や財務に関する無味乾燥で微細な問題で争ったときには、より完全な勝利を収めた。この公務の苦役者は自分の選んだ場所でさえ、偉大な演説家でもある哲学者を相手に戦いを続けることはまったくできなかった。チャタムが再び姿を現したとき、グレンヴィルはこの当然の懲罰の恥ずかしさと厳しさに身悶えしていた。野党の2つの派閥の間には友好的な協力関係は不可能だった。また、チャタムはどちらとも簡単に結びつくことができなかった。多くの侮辱の応酬があったにもかかわらず、彼の気持ちはグレンヴィル派に引き寄せられていたのである。彼は強い家庭的な愛情を持っており;傲慢ではあっても決して頑固ではないその性質は苦難によって柔らかくなっていた。しかし植民地課税の問題では同族と大きな隔たりがあった。しかし和解が成立した。彼はストウを訪れてジョージ・グレンヴィルと握手を交わし、バッキンガムシャーのホィッグ派の自由保有者たちは公の晩餐会で3兄弟の結束を祝して何度も乾杯をしたのである。

チャタムは自分の親族よりもロッキンガム派に近い存在であった。しかし彼とロッキンガム派の間には簡単には越えられない溝があった。彼はロッキンガム派を深く傷つけたことがあり、彼らを傷つけることで国を深く傷つけたことがあった。彼らと宮廷の間でバランスが崩れていたときに彼は自分の才能、名声、人気のすべてを天秤の失政の側に載せてしまったのであった。加えて派閥内の多くの著名な議員は彼が政局の指揮を執っていたときに彼から受けた辛辣さや軽蔑を覚えていた。バークがチャタムを嫌悪感に近い感情で見ていたことはバークのパンフレットや演説から、そして私的な手紙や会話での言い回しからはさらに明らかである。チャタムが自分の過ちを自覚し、それを償おうとしていたことは間違いない。彼の友情の申し出は、真剣に、そして思いのほか謙虚になされたのであるが、ロッキンガム卿は最初冷たく厳しい態度をとっていた。2人の政治家の交際は次第に礼儀正しく、友好的なものになっていった。しかし過去を完全に忘れることは決してできなかった。

しかしチャタムは単独で行動していたわけではない。彼の周りには数は少ないが偉大で様々な才能を持った一団が集まっていた。カムデン卿、シェルバーン卿、バレ大佐、そして後のアシュバートン卿であるダニングがこのグループの主要メンバーであった。

この時からチャタムの死の数週間前まで、彼の知性が衰えていたと考える理由はない。彼の雄弁はほとんど最後に至るまで喜んで聞かれていた。しかし、それは貴族院の雄弁ではなかった。彼が誰よりも優れていた、気高く情熱的であるがいささか散漫な演説はギャリック(*ディビッド、俳優、劇作家)やタルマ(*フランソワ・ジョセフ、フランスの俳優)にこそふさわしい表情、声色、身振りによって引き立てられていたが、聴衆がしばしば眠そうな3、4人の高位聖職者、3、4人の長年にわたって美辞麗句を無視し、事実と議論だけを見ることに慣れている年老いた判事、3、4人の熱意のごときものは冷笑に変えることを流儀とする無気力で他人を見下している人物しかいない小さな部屋には似つかわしくなかった。庶民院では目を輝かせ、腕を振って、マレーを屈服させることもあった。しかし貴族院ではマンスフィールド卿の演説の特徴であった中庸、合理性、明快な秩序、穏やかな威厳に比べて彼の最大限の激烈さと情念は効果が薄かった。

ミドルセックス選挙の問題では三つの反対派閥のすべてが協調して行動した。両院の弁士の中でチャタムほど熱心に、また雄弁に、今では一般に認められている憲法上の根拠を擁護した者はいなかった。この話題が人々の心から消え去る前にジョージ・グレンヴィルが死去した。(*1770年)彼の派閥は急速に衰退し;短期間のうちに彼の支持者のほとんどが閣僚席に姿を見せるようになった。

もしジョージ・グレンヴィルがあと何か月か長生きしていたなら、長年の離間と敵意の後に彼と義弟の間に再び結ばれた友好的な関係は、おそらく再び手荒に解消されていただろう。イングランドと北米植民地との間の争いは今や陰鬱で恐るべき様相を呈していた。抑圧が抵抗を招き;抵抗が新たな抑圧の口実となっていた。時代を代表する偉大な政治家たちの警告も威圧的な宮廷と思い違いをした国民には届かなかった。やがて植民地の上院が英国議会に対峙した。そして植民地の民兵が英国の連隊と銃剣を交えるようになった。ついに連邦は真っ二つに引き裂かれてしまった。15年前にはケント州やヨークシャー州の人々と同じように王子に忠誠を誓い、国を誇りに思っていた200万人のイギリス人が厳粛な誓いによって帝国から離脱したのである。一時は反乱軍が母国の莫大な資金と軍事力を背景に奮闘しても効果がないと思われていた。しかし次から次へと矢継ぎ早に起こる大惨事は国民の己惚れた幻想をたちまち一掃することになった。ついにイギリスの大軍は疲弊し、飢え、敵対する農民に四方八方から迫られ、武器を放棄せざるを得なくなった。イングランドに先の戦争で著しく打ち負かされ、ケベック、ミンデン、モロの記憶について何年にもわたってむっつりと考え込んでいた政府は、今や復讐の日が近づいていることに歓喜していた。フランスはアメリカ合衆国の独立を承認した、これに倣ってスペインもすぐに追随することは間違いないであろう。

チャタムとロッキンガムは国をこのような危険な状況に陥れた致命的な政策のあらゆる部分に反対することで心から一致していた。しかし今や二人の道は分かれてしまった。ロッキンガム卿は反乱を起こした植民地は永遠に帝国から切り離されたのであり、アメリカ大陸での戦争を長引かせることは、集中させることが望ましい資源を分散させることになると考えていたが、その考えは後に証明されるように正しいものであった。ペンシルベニア州とバージニア州を征服するという絶望的な試みを放棄すればブルボン家との戦争は回避できるかもしれないし、避けられないとしても成功と栄光をもって遂行できるかもしれない。また国内の不穏な動きを利用して利益を得ようとしていた外敵の犠牲によって失ったものの一部を補償することもできるかもしれない。したがってロッキンガム卿と彼と行動を共にする人々はイングランドに現在開かれている最も賢明な道は米国の独立を認め、全兵力をヨーロッパの敵に向けることだと考えていた。

チャタムも同様の立場を取るべきだったと思われる。彼はフランスが我々の植民地との争いに関与する前から繰り返し言葉に力を込めて、アメリカを征服することは不可能であると宣言していたのであり、フランスとアメリカを同時に征服する方がアメリカだけを征服するよりも容易であると主張することは不条理であると言わざるを得なかった。しかし彼の情熱が彼の判断力を圧倒したために彼は自分の矛盾に気づかなかったのである。植民地の分離を不可避にしたその状況こそが、彼にとって全く耐えられないものであった。帝国の解体が国内の不和によるものであるなら、外国からの干渉によるものであるよりも破滅的でも屈辱的でもないと感じていた。彼の血は自国の衰退に沸騰していた。地上の国々の中での母国の地位を低からしめるものは何でも、彼はそれを自分に対する個人的な狼藉と感じていた。そしてその感覚は自然なことであった。彼は母国をとても偉大にした。彼は母国をとても誇りにしていたし;母国も彼をとても誇りとしていた。彼は20年以上前(*7年戦争)、暗澹たる狼狽の中で、領地を引きはがされ、国旗を汚されたとき母国が彼に助けを求めたことを思い出した。彼は自分のエネルギーがもたらした突然の輝かしい変化、一連の長い勝利、感謝の日、イルミネーションの夜を思い出していた。このような思いに駆られ、彼は植民地の独立を認めるべきであると主張する人々とは袂を分かつことを決意した。彼を最も高く評価している人たちでさえ、彼が間違っていたということに異論はないだろう。実際、数年後に連合州の共和国を承認した条約は彼の最も熱心な支持者と彼の愛息の手によるものであった。

リッチモンド公爵はアメリカとの敵対関係をこれ以上続けることに反対する演説を王室に通告していた。チャタムは病弱になってきたため、しばらくの間議会を欠席していた。今回は議会に出席し、自分の意見がロッキンガム派の意見とは断じて違うことを表明することにした。彼は非常に興奮した状態であった。主治医たちは心配して、落ち着くように、そして家にいるようにと強く勧めた。しかし彼をコントロールすることはできなかった。息子のウィリアムと義理の息子であるマホン卿は彼をウェストミンスターに連れて行った。彼は討論が始まるまで大臣の部屋で休み、そして2人の若い身内にもたれながら足を引きずって席に着いた。この日のことは些細な出来事まで記憶されており、注意深く記録されている。彼は自分と自分を支える人々を通すために立ち上がった議員たちに非常に礼儀正しくお辞儀をしたと言われている。手には松葉杖を持っていた。いつものように高価なベルベットのコートを着ていた。脚はフランネルに覆われていた。カツラは大きく、顔は痩せ細っていて、鼻の高い湾曲と昔の火のような輝きを残した目以外の特徴はわからなかった。

リッチモンド公爵の話が終わるとチャタムは立ち上がった。しばらくの間、彼の声は聞き取れなかった。しかしやがて彼の声は明瞭になり、動作も生き生きとしたものになった。聴衆はそこここにかつてのウィリアム・ピットを思い出させるような思考や表現を聞き取った。しかし、彼が本来の彼でなかったことは明らかだった。彼は話の筋道を見失い、ためらい、同じ言葉を何度も繰り返し、和解法について語る際にはソフィア選帝侯女の名前を思い出せないほど混乱していた。議会は厳粛な沈黙の中で、深い尊敬と同情の念を持って聞いていた。ハンカチを落とす音でさえ聞こえてきそうなほどの静けさだった。リッチモンド公爵は大変な親切さと礼儀正しさをもって答弁したが;彼が話している間、老人は落ち着かず苛立っているように見えた。公爵は座った。チャタムは再び立ち上がったが、胸に手を押しつけ、卒中の発作のように倒れ込んだ。彼の近くに座っていた3、4人の議員が倒れた彼を受け止めた。議会は大混乱に陥った。瀕死の男は議会の役員の一人の邸宅に運ばれ、そしてヘイズへの旅に耐えられるほどに回復した。ヘイズでは数週間過ごした後、彼は70歳で息を引き取った。彼のベッドは妻と子供たちによって案ぜられながら心をこめて最後まで見守られていたが;彼にはそのような世話を受ける資格が十分あった。他の人々には高慢で横柄な態度をとることが多かったが、彼らには女性のように優しく接していたのである。彼は生涯、政敵からは恐れられ、政友からは愛されるよりも畏怖の念をもって見られていた。しかし常に一千もの親しみやすい形で満ちあふれていた彼の慈愛がヘイズの小さな輪の中に呼び起こした愛情には恐怖が入り混じることはなかったようである。

チャタムが亡くなったとき、議会の両院に個人的な支持者は10人もいなかった。当時の公人の半分は彼の過ちのゆえに、残りの半分は彼がその過ちを償おうと努力したことゆえに彼から遠ざかっていたのである。彼の最後の演説は政府が進める政策と野党が推奨する政策を一度に攻撃するものであった。しかし、死は彼にかつての母国での人気を取り戻させた。これほどまでに偉大で、これほどまでに長く存続してきたものが没落していく様子を聞いて心を動かされない者がいるだろうか。境遇も現実というよりも、むしろ悲劇の舞台のようだった。天寿を全うし栄誉を極めた偉大な政治家が、たぐいまれなホープである息子に導かれて上院議事堂に赴き、全体会議で衰えた国の精神を奮い立たせようと弱々しい声を張り上げている時に打ち倒れたのであるから、特別な尊敬と優しさを持って記憶されないわけにはいかないであろう。あえて不平をつぶやこうとした少数の反論者たちは、今は無き彼の聳え立つ天才、汚れない誠実さ、争いの余地のない功績だけを記憶している国民の憤慨の喧噪によって沈黙させられた。このときばかりは全ての派閥の長が一致した。公葬と公的な記念碑の設置が熱心に議決された。亡くなった人物の借金は支払われた。その家族には給付が行われた。シティー・オブ・ロンドンは長い間愛し、尊敬してきた偉大な人物の遺体をその壮大な大聖堂のドームの下に安置することを要請した。しかしこの要請は遅すぎた。ウェストミンスター寺院に埋葬するための準備がすべて完了していたのである。

チャタムの死後の名誉についてはあらゆる党派の人々が同意していたが、彼の遺体を墓に運んだのはもっぱら反政府側の人々であった。チャタムの領地の旗はリッチモンド公爵とロッキンガム卿に付き添われたバール大佐が持った。バーク、サヴィル、ダニングが弔辞を述べた。カムデン卿も行列の中でひときわ目立っていた。喪主は同名の息子ウィリアム・ピットであった。27年以上の時を経て、彼自身の粉々になった体と傷ついた心が、同じように暗く危険な時期に、同じように華やかに、同じように神聖な姿で横たえられた。

チャタムは教会の北側の扉の近くに眠っており、その場所は同じ翼廊のもう一方の端が長い間詩人のために使われていたように、それ以来政治家のために使われている。マンスフィールドが眠っており、ウィリアム・ピット2世、フォックス、グラッタン、カニング、ウィルバーフォースも眠っている。これほど狭い場所にこれほど多くの偉大な国民が眠っている墓地は他にはない。これらの尊ぶべき墓の上にはチャタムの堂々とした記念碑がそびえ立っており、巧みな手によって彫られた彼の彫像は鷲の顔と伸ばした腕によって高いところからイングランドに元気を出すよう命じ、その敵に戦いを挑もうとしているように見える。彼の記念碑を建てた世代は消え失せた。彼の人物像について同時代の人々が下した早まった見境のない判断が歴史によって冷静に修正される時が来た。そして歴史は、激しく、高く、大胆な性格を戒めるために彼の多くの誤りを記しながらも、彼のそばにその骨が眠っている著名な人々の中に、より汚れなく、より輝かしい名前を残した人物はほとんどいない、と慎重に宣言することであろう。

2021.6.12