人生の地図


THE MAP OF LIFE


CONDUCT AND CHARACTER

BY

WILLIAM EDWARD HARTPOLE LECKY


‘La vie n’est pas un plaisir ni une douleur, mais une affaire grave dont nous sommes chargés, et qu’il faut conduire et terminer à notre honneur’

Tocqueville

 

NEW IMPRESSION

 

LONGMANS, GREEN, AND CO.
39 PATERNOSTER ROW, LONDON
NEW YORK AND BOMBAY
1904
All rights reserved


 

 

 

人生の地図


行動と性格

ウィリアム・エドワード・ハートポール・レッキー著

 

「人生は楽しみでも苦しみでもなく、私たちに責任があり、私たちの名誉のために成し遂げられ、仕上げられなければならない重大な問題である。」

トクヴィル

 

新刷

ロングマンス・グリーン・アンド・カンパニー
ロンドン・パターノスター・ロウ39番地
ニューヨーク・ボンベイ
1904
無断転載禁止





原文:https://www.gutenberg.org/cache/epub/26334/pg26334-images.html
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目次

第一章… 3

第二章… 9

第三章… 22

第四章… 34

第五章… 48

第六章… 68

第七章… 81

第八章… 92

第九章… 114

第十章   政治家… 143

第十一章… 205

第十二章   性格の管理… 241

第十三章   金銭… 274

第十四章   結婚… 304

第十五章   成功… 320

第十六章   時間… 332

第十七章   終わり.. 349

 

 

 

第一章

 

 本書のテーマを扱うすべての論者に、当然ながら最初に生じる疑問の一つは、単なる議論や推論が、人間の幸福を促進するためにどのような力を持ちうるかということである。私たちが享受する幸福の基準は、主として私たちの生活環境や性格によって決まるのである。そして幸福や不幸の原因について議論するだけでは、それらに影響を与えることはほとんどできない。これらのテーマについて書かれた書物をいくら読んでみても、その大部分は単なる仰々しい一般論に過ぎないと感じざるを得ない。ごくわずかな経験でさえ、何らかの本物の深い悲しみを前にしたとき、それらが完全に無力なことを教えるだろう。また同様に、最も幸福な生活や性格をしている人々の大部分にとって、人生の幸不幸に関する内省や自己分析や推論は最も小さな場所しか占めていないことを理解せずに、世の中について何らかの真剣な知識を得ることはできない。健康と同様に幸福は、それが損なわれているとき以外、人が滅多に考えないものの一つである。そして、このテーマについて書かれたものの多くは、大きな憂鬱のストレスの下で書かれたのである。そのような論者はホガース(*ウィリアム、1697―1764、画家)の絵に描かれた、債務者監獄の中で国債の購入計画に没頭する男に似ている。私たちは誰でも「何も考えずに働こう、それが人生を耐えうるものにする唯一の方法であるTravaillons sans raisonner, c'est le seul moyen de rendre la vie supportable」というヴォルテール(*1694―1778)の言葉の力を感じる瞬間がある。

 

 このような考察に多くの真実があることは論を待たない。また、推論が及ぶ範囲は限られた領域でしかない。人間は精神的、道徳的特性を持ってこの世に生を受ける、そして彼がその特性に及ぼせる影響は非常に不完全なものでしかない。また彼の外的生活環境の大部分は全く、あるいはほとんどコントロールできないものである。同時に、周囲の環境を部分的に修正する技術、勤勉、忍耐の力、生来の弱い体質を強化し、寿命を延ばし、病気を予防する節制と慎重さの力、知的能力を発達させ、研ぎ澄まし、最大限に活用する教育と自習の力は誰もが認識している。また誰しも、ほとんどの人々の不幸のどれほど大きな部分が、自身の自発的かつ意図的な行為に直接起因しているかを認識している。人それぞれが持っている、自らの性格を教育し管理する力、そして特に幸福に最も大きく資する気質や傾向を養う力はそれほど認識されていない。おそらくそれは幅広いものではないが、現実的ではないものでもないだろう。(*本書はそれらについて書くことを目的としている。)

 

 ここで自然と私たちの前に、自由意志と決定論という永遠の問題が立ちはだかる。しかし、このようなテーマについて現代の論者が問題を定義し、自分の立場を述べる以上のことができるとは思わない。決定論者は、本当の問題は人が望むことをできるかどうかではなく、望まないことをできるかどうかであり、意志が動機なしに行動できるかどうかであって、結局のところ最も強い快楽以外の何かがその動機になり得るかどうかである、と言う。自由意志の錯覚は、私たちの動機の対立によるものでしかない、と彼は主張する。さまざまな形を取ったり偽装したりして、快楽と苦痛は私たちの行動を絶対的に支配しているのである。あるいは、磁石に囲まれた鉄片のように、最も強力な磁石に引き寄せられる、あるいは(巧みな想像だが)風見鶏のように自分の動きを意識しているが、それを動かしている風を意識していないのである。強制的因果関係の法則は、物質の世界と同様に心の世界にも当てはまる。私たちを私たちたらしめているのは遺伝と偶然である。私たちの行動は、私たちがこの世に生を受けたときの知的、精神的な性質が、外的な影響によって操作された必然的な結果なのである。(*というのが決定論者の主張である)

 

 一方、自由意志の支持者たちは、意志と欲望の間に明確な区別が存在することは事実として意識されている、そして両者は密接に結びついているが、適切に分析されるなら両者が混同されることはないと主張する。コールリッジ(*サミュエル・テイラー、1772―1834、詩人、批評家)はこの二つの関係を、「呼吸における空気と肺の生命エネルギーの、同時発生的かつ相互的な作用」に例えた。[1]欲望が意志に強力に作用するなら、意志も逆に欲望に作用する力を持っているのであって、意志は快楽や苦痛の単なる奴隷ではない。この見解の支持者たちは、私たちが好きでもないことをできるのは、最も明白に意識される事実であると主張する。また、私たちは強大な欲望の力を一時停止し、私たちの本性の偏りに抵抗して、義務のために、快楽を得たり期待できたりする道ではなく、最も少ない快楽しか与えない道を歩むことができ、選択肢を与えられた場合に、後者を選ぶことができるのであると主張する。彼らの主張は、さまざまな動機が心の前を通り過ぎるとき、心には選択と判断、受容と拒絶の力が残されているということ、理性の力によって、あるいは想像力によって、ある動機を際立たせ、それに注意を集中させて、その力を強めることができるということ、それに一致して他の動機に抵抗する力もあり、それらを後方に追いやって、その力を徐々に弱められるということ、欲望が放縦によって強くなるように、意志自体もその行使によって強くなるということである。意志と欲望の葛藤、自制と性格を修正する意志の力の真実性は、精神生活の最も身近な事実の一つである。バーク(*エドマンド、1729―1797、政治思想家)の言葉を借りるなら「人間の特権は、その大部分を自ら作り出した生き物であることである。」一生の間、あることを自発的に行いつつ、心中ではその逆のことを願っている人々がいる。すべての道徳は、人間には少なくとも善と悪の選択の自由があるという仮定の上に成り立っている。カントが言う通り「私はすべきである」ということは、必然的に「私はできる」ということを意味する。道徳的責任の感覚は、健全で成熟した人間の本質的な部分であって、それは必然的に自由意志を前提としている。それを本当に信じないことは不可能である、というのがそれを支持する最良の論拠である。どんな人間も、もしそれらが回避できない場合、何らかの行為を見て、憤り、恥、後悔、恨み、感謝、熱意、称賛、非難といった完全に無意味で非理性的な感情を抱かずにはいられない。この件に関して、この事実から得られる以上の証拠はない。自由意志の神秘を説明することは不可能である。しかし、自らこれらの感情が起こらなくなるまでは、人は自由意志を信じないことに成功したとは言えない。あらゆる人々の感情とあらゆる言語の語彙が、この信念の普遍性を証明している。

 

 ニューマン(*ジョン・ヘンリー、1801―1890、枢機卿)は、「弁証論」Apologiaの有名な一節で、アウグスティヌスの「世界の評決は決定的なものであるSecurus judicat orbis terrarum」(*教会には統一的見解が必要であって、分裂主義者は否定されなければならない)という一文が、彼がローマ教会を受け入れることを決める際に、自らの見解に与えた絶大な影響について述べている。ニューマン博士が言及したテーマに関して、この(*信念の普遍性の)考察の力がそれほど大きな重みを持っているとは思えない。それは、キリスト教会が人類のごく一部しか支配していなかった時代、正統か否かという問題がすべて実質的にその司祭団の手に委ねられていた時代、無知、信心深さ、迷信が頂点に達し、独立心や公平な評価の習慣が非常に衰退していた時代、そして優勢な教義に異を唱える人々に対してあらゆる種類の暴力的な迫害が加えられた時代に―ある司祭たちの評議会がキリストの二つの性質や三位一体におけるそれぞれの位格の関係といった問題についての全会一致が可能であることを発見し、彼らの見解と異なる人々を教会から追放できたということ、そして、この不可知の関係について僅かに異なる意見を持つ、かつて強力だった宗派は次第に衰退していったことを意味するに過ぎない。このようなテーマについて、このような方法で成し遂げられたこのような一致が、何らかの圧倒的な力を持つと私は思わない。しかし、論証が不可能で、常に人類の普遍的同意の上に成り立つしかない信念もいくつかある。(*内面性の世界に対する)現実世界の存在がそれである。また私が思うに、快楽と苦痛の区別とは別の、それよりも上位にある、善悪の区別の存在がそれである。これは、各々のカテゴリーに属する行動や資質に関する見解に大きなばらつきがあったとしても、すべての人間の本性に宿っているものである。自己決定の意志を信じることもそうである。このようなものは単なる幻想にすぎず、自分たちの能力は信用できないと主張する人々がいれば、それに反論することは間違いなく困難だろう。しかし、この種の懐疑主義は、行動にも感情にも実際的な影響力を持つことはない。

 

 

脚注

 

[1]「省察の助け」Aids to Reflection, p. 68.

 

 

第二章

 

幸福とは心の状態のことであって、境遇の性質ではないことを、人は常に忘れている。最もよくある間違いの一つは、幸福と幸福のための手段を混同し、後者のために前者を犠牲にすることである。それは守銭奴の過ちである。彼は金銭がもたらす楽しみのために金銭を求めることから始まって、ついには単なる金銭の獲得を唯一の目的とし、あらゆる理性的な目的や快楽を犠牲にしてまで、金銭を追い求めるようになるのである。幸福には境遇と性格の両方が寄与しているが、これらの大きな部門の一方や他方に払われる注意の割合は、個人によって大きく異なるばかりではなく、国や時代によっても異なる。例えば、宗教は主に性格の形成に作用する。そして人間の幸福との関係は特にこのフィールドで評価されるべきである。宗教が人生の外的環境に多大かつ多様な影響を及ぼすことは事実である。しかし、その慰めや支えの主な力は、人間の魂に直接的かつ即座に作用するものである。同じことがいくつかの哲学体系にも当てはまるが、それはストイシズムにおいて最も顕著である。ストア派のパラドックスである、善も悪も完全に内面から生じるものであるがゆえに、賢者にとって、すべての外的環境は重要なものではないという考え方は、この人生観を極端な形で表している。「幸福の大いなる秘訣は、自分の心を外部にあるものに合わせようと努めることであって、外部にあるものを自らに合わせようとすることではない。」[2]というデュガルド・スチュワート(*1753―1828、哲学者)の言葉はその最も穏健な形だろう。東洋諸国では自分たちの理想を主に心や感情の状態に置いて、環境の変化に置かないことがきわめて特徴的である。そしてそのような国々では、自分たちの生活の永続的な条件を変えたいと思う人々は、ヨーロッパ諸国よりもはるかに少ない。

 

一方、人間―その意見と性格―を本質的に環境に導かれたものとして扱い、人間に対する外界の影響を強調する哲学は正反対の傾向を持っている。ベーコン(*フランシス、1561―1626、哲学者)やロック(*ジョン、1632―1704、哲学者)から現代に至る、センセーショナルな哲学はすべて、幸福の外的環境や条件に注意を集中する傾向がある。そして同じ傾向は当然ながら、最も活動的で、産業が盛んで、進歩的な国、生活が非常に充実していて、忙しく、競争が最も激しい国、科学的発見が快楽を急速に増大させ、苦痛を急速に減少させている国、絶え間ない慌ただしさと変化を伴う町での生活が最も顕著な国に見られるだろう。このような場所では、人は幸福を内側からよりも外側から、言い換えれば、心や性格に直接働きかけるよりも、環境の改善という間接的な方法によって求める傾向が自然と強くなる。

 

大西洋の両岸におけるイングランド人の性格は―思考、興味、感情を最も習慣的に外側に向けるという―極めて客観的なものである。内省や自己分析は性に合わない。同じ文明圏にある大陸諸国民の生活と比べたとき、イングランド人が自分の感情に浸ったり、感情を表に出したりすることがいかに少ないかに気づかない人はいない。寡黙と自制は、最も不断に説かれている教えである。社会全体の風潮がそれを好んでいる。大きな悲しみがあったとき時、他国では至極当然とされるような悲嘆の実演は一定の恥とされる。服喪期間を長くしたり、注意深く年忌を守ったり、長く世間から遠ざかったりすることで、過ぎた悲しみを膨らませ、永続させようとする傾向は、大陸に比べてはるかに少ない。そして確実に減少しつつある。すぐに過去から目をそらし、新しい活動の場に慰めを求めるのがイングランド人の傾向である。感情はすぐに行動に移される。そしてこの転換によって強烈な感情がいくらか和らげられるのである。博愛主義がこれほど積極的で実践的な国は他にない。また宗教がこれほど国民の生活を支配している国もほとんどない。しかし、イングランド人のプロテスタンティズムは国民性に非常にはっきりと反映されている。他の全ての宗教と同じく、プロテスタントもまた思想や感情を管理するための習慣を定めていることは間違いない。しかし、それはごく大まかな性格のものである。プロテスタンティズムは、主に行動を規定するものであって、内面的生活には比較的重点を置いていない。それは、懺悔室が大いに促進しようとし、カトリックの聖人の著作に顕著に現れ、神秘主義者や瞑想的な修道会に特別に代表されている、細やかな内省的思考の習慣を思いとどまらせるか、少なくとも軽視している。イングランド人にとって行動の改善と環境の改善は進歩の主要な、ほとんど唯一の尺度なのである。

 

この傾向は全体として健全なものであることを、少なくとも私は固く信じている。しかし、この傾向にはある種の明白な限界があって、人から他のタイプの性格や幸福を評価する力をいくらか奪ってしまう。私たちの性格の形成において環境が果たしている役割は実に明白である。また、こうした環境の中で私たちが動物と共有している単なる身体的条件こそが第一の地位を占めているということは、屈辱的な真実である。長い目で見れば、そして大多数の人々にとって、健康はおそらく幸福のあらゆる要素の中で最も重要なものである。重大な肉体的苦痛や損なわれた健康は、最高の幸運を打ち消して余りあるものである。そして、私たちの性質の偏りや推論の過程さえも、身体的条件に大きく影響されている。ヒューム(*デイビッド、1711―1776哲学者)は、「物事の好ましくない面よりも好ましい面を見ようとする気質を持っているなら、年一万ポンドの相続財産があるよりも幸福である」と語っている。しかし、この幸福な気質の賜物は身体的条件に大きく起因していることは明らかである。一方、身体の病気がどれほど早く、どれほど強力に人間の精神状態に影響を及ぼすかはよく知られている。神経や脳のある種の疾患によって生じる病的な過敏性、肝臓疾患や長引く不眠、その他の心気症的な疾患の後にしばしば生じ、楽しむ能力をほとんど奪ってしまうのみならず、人生観に必ず色合いと偏りを与えてしまう深い体質的な抑うつ、そして良く知られる年齢と健康の条件が動物的情熱と動物的気質に等しく与える影響については、誰もが知っている。ホラティウスは「天候は人の気分を変えないcœlum non animum mutant」と言ったが、冬のロンドンの地獄の辺土のような雰囲気と、イタリアの空の輝きの下、あるいは山のすばらしく爽やかな空気の中で、どれだけ気分が変わるかを経験したことのない人はほとんどいないだろう。そして私たちが長きにわたる過労で疲れたときと、一晩ぐっすり眠ってリフレッシュしたときで、世界がどのように違って見えるかも、同様に明らかなことである。詩や絵画が、ある種の胆汁性気質を妬みの素因と結びつけたり、貧血やリンパ性気質を聖人のような生活と結びつけたりすることは、おそらく間違っていないだろう。また急性の病気が性格を根本的に変えることがあって、時にいつも陰うつだった人物が、陽気に明るく変わった例があることは十分に証明されている。[3]ある種の人々が持っている、悩みを振り切って、思考とエネルギーを迅速かつ果敢に新しい道に向けるというかけがえのない才能は、意志の働きによって大いに強化できる。しかし一部の生理学者によれば、脳への血流をより強くしたりより遅くしたりする、脳血管の収縮力の大小という、物理的な先行要因が十分に確認されているとのことである。もし「健全な肉体に宿る健全な精神」が幸福の至高の条件であるということが真実ならば、私たちが健康な肉体を持つことを望む以上に、健康な精神がそれに強く依存していることもまた真実である。

 

これらは、肉体が幸福に作用する明らかな例のほんの一部に過ぎない。これらが意味しているのは、意志は身体的条件の前に無力であるということではない。意志が性格を管理する上で遭遇しなければならない、非常に明確な素質(*predisposition)が存在するということである。何よりも人生に関する推論において、優れた推論者は対立する議論の力のみならず、自分の心の偏りをも考慮するものである。国民の健康の水準を高めることは、国民の福祉の水準を高める最も確実な方法の一つである。さまざまな楽しみの価値を評価する際、それ自体だけを考えれば、物差しの上で低い地位にあるように見えるものでも、目先の一過性の楽しみのみならず、強靭で健康な身体づくりに寄与するものであればその地位は高くなるだろう。治療法を発見して普及させる手段を奨励したり、複合的な努力によって特定の疾病を撲滅したり、一般社会における労働の適切な衛生環境を可能な限り守ったりする、国民の健康に関わるものほど、真に価値ある立法の分野はない。流行もまた、良くも悪くも、多くのことをなしうる。それは服装、教育、労働時間、娯楽、食事、出費の規模を調整し、彼らが主に目指す資質、従事する仕事、さらには彼らが最もよく培う美の形さえも決定して、大衆を殆ど絶対的に支配する。この強大な影響力が、健康に有益な、あるいは少なくとも健康を著しく害することのない生活習慣を促進するために使われるならば、国民にとって幸せなことである。また、健康的な生活の主な条件を教え、それを達成するための節制と自制の習慣を身につけさせる教育ほど、真に価値あるものはない。

 

大いなる回復力を持っている青少年は、後年には速やかに天罰を受けるような多くのことをしても、はっきりした罰を受けない。しかしその一方で、青少年期は習慣や嗜好が形成される時期でもある。そして、そのとき軽々しく、喜んで、気まぐれに引き受けた軛は、後に打ちひしぐような重量を持つようになる。生命を弱め、しばしば早世に至らしめる致命的な一歩を若いときに踏み出させる動機の軽薄さ、衝動の弱さほど印象的なものはない。大人の喫煙は、節度を持って行うなら、非常に罪のない、おそらく有益な習慣である、しかし、少年にとって喫煙がいかに有害であるかはよく知られている。そして実年齢より上に見られたいというだけの動機で喫煙を始めた少年がいかに多いことだろうか―それは若過ぎることの最も確かな証拠である。同じような動機ゆえに、あるいは禁じられた快楽を楽しみたいがゆえに、あるいは単に放蕩仲間たちとうまくやっていきたいがために、飲酒、ギャンブル、堕落した交友関係などの、はるかに悪質な習慣が身につけられたことがどれだけ多いことだろうか!生涯にわたる女性の虚弱のどれほどの割合が、最も愚かな虚栄心から生じる、コルセットをきつく締めるという若い時の習慣に起因していることだろうか!濡れた服を着替える手間を惜しむという、不注意な軽率ゆえに、どれだけの命が犠牲になってきたことだろうか!適度であれば無害であり、有用であって、称賛に値するものの行き過ぎによって―何らかの健康的な運動や遊びのやりすぎで血管が破れたり、つまらない賞にありつくために酷使した脳が壊れたりすることで―どれだけの人が健康を害し、寿命を縮めたことだろうか!強力で恐らく抵抗が不可能な誘惑に駆られて、達成が不可能な至高の欲望を実現しようとしたがゆえに、どれだけ多くの人生が破壊され、台無しにされ、堕落させられていったかを観察するのは憂鬱なことである。人生の失敗の中のどれだけの割合のものが、究極的には最も取るに足りない原因によるものであって、知性や意志に真剣な努力をさせるまでもなく回避できただろうかを観察するのは、さらに悲しいことである。

 

寿命の延長、さまざまな病気の根絶や減少、その影響の緩和のための、医学と公衆衛生学の努力が成功したことは十分に証明されている。すべての文明国において平均寿命が延び、単なる高齢期ではなく、活動的で有用で、楽しめる高齢期が、より頻繁に訪れるようになったと考える十分な根拠がある。しかし人間が得たのは、最初に想像されたほど大きな幸福ではなかった。死の悲しみが最も小さいのは幼児期か、極度の高齢期である。そして平均寿命の延長は、乳幼児死亡率の大幅な低下によるところが大きい。それが果たして祝福するべきことなのかどうかは疑わしい。極度の老齢が望ましいものであるとすれば、それはおそらく、通常それ以前に何年も丈夫で健康な生活を送れる体質であることを意味するからだろう。しかし、それらすべてを差し引いたとしても、医学と同じく衛生改革の勝利は、今世紀の歴史の中の最も輝かしい一ページである。最も有用であることが証明された措置のいくつかは、個人の自由をいくらか犠牲にし、強制的な衛生管理を広げることによってのみ実現できるものである。そして例えるならそれは、自由な政府というよりも、専制政治に近いものである。もし、このような政治形態が一般的だった時代に、支配者たちが軍事的栄光や領土の獲得や単なるけばけばしい利己的な虚飾ではなく、臣民の健康増進と寿命の延長を政策の主要な目的として掲げる知性を持っていたなら、世界の状況はどれほど違ったものになり、強力な君主制の人気はどれほど高まっていたことだろうか!

 

しかし病気の減少や人間の平均寿命の延長は、必ずしも、あるいは大体において、世間一般の健康状態の改善を意味しない、と考える理由もある。ある優れた評論家は言っている「急性疾患は致命的なものであるが、却って健康水準が高い集団に多い…例えば、疾病に罹患している人の数が少ない地域社会において死亡率が高いことがしばしば観察される。一方、一般的な身体的衰弱が慢性疾患の蔓延と併存しているにもかかわらず、死亡者の割合が大きくならないこともある。」[4]重篤な疾病とは無縁だが、習慣的に低い健康水準で生活し、そのような状態が生み出す憂鬱な気分や、楽しむ力の弱さを抱えた無気力な人々は、理想的な状態からはほど遠い。そして、このようなタイプが増加しつつあることを危惧する理由は沢山ある。現代生活を作り出すためには数多くのものが貢献しており、その中には誤った博愛主義や誤った法律も少なからず含まれているが、おそらく二つの原因が他の全てを圧倒している。その一つは公衆衛生学そのものの中に見出される。そのおかげで、昔なら乳幼児期に死んでいたような弱い体質の子供たちが大量に成長し、結婚して弱い子孫を残せるようになったのである。もう一つは、近代文明の最も顕著な特徴の一つである、田舎から町への着実な人口移動である。これら二つの影響は、必然的かつ強力に国民の活力を低下させ、そうすることで幸福の最も本質的な要素の一つである動物的な精神のレベルを低下させる傾向がある。生活水準の向上や衛生状態に関する知識の格段の増加が、この二つの力を完全に打ち消すことができるかどうかは、はなはだ疑問である。

 

生命に影響するほとんどの問題と同じく、この問題においても避けるべき正反対の危険がある。そして知恵とは主に、バランスと程度を正しく認識することである。政府によって推進された衛生改革が、全体として大きな恵みだったことに、合理的な疑問の余地はほとんどないだろう。しかし、最良の評論家の多くは、それが容易に危険な極端さにまで突き進む可能性があるという意見を持っている。個人の自由に対する愛着が、過去の世代においてどれだけ急速に減退したか、イングランド人がその生活の大きな領域において彼らを制限し、取り囲んでいる取り締まりの網に、いかに満足げに従っているかを観察するのは最も興味深いことである。個々のケースはその功罪に基づいて考慮されなければならない。そして成人男女が当然持っていると思っている、自らの仕事の環境を調整し、背負う危険を決定する権利が、マンチェスター学派(*19世紀に起こった、工場労働者の利益のための自由貿易運動)が認める以上に多くのケースで巧妙に侵害される可能性があることを今では誰も否定しないだろう。同時に、この世代において産業や衛生改革の分野で、強制的な法律の厳格さと範囲を拡大しようとする傾向が顕著であることは、注意深く監視されなければならない。その過信は、それが利益をもたらすことを意図している階級そのものを、さまざまな意味で、むしろ大いに傷つけることになりかねない。

 

個人の衛生教育についても、これと同じことが言える。既に述べた通り、健康的な生活につながる知識と習慣を若いうちに身につけることは、極めて重要である。衛生の綱領の主要項目は数が少なく、シンプルなものである。何事も節制と自制―豊富な運動、新鮮な空気、冷たい水―度を越さない、十分で安定した仕事―習慣を時々変えること、そして明らかに健康を害するものは絶つこと、これらが守るべき主なルールである。人生という大きなくじ引きでは、これらをすべて守った人物でさえ、患ったり、虚弱になったり、早世したりすることがある。しかし少なくとも、これらは強く充実した人生を送る機会を大いに増やしてくれる。親が子供の世話をするには更なる知識が必要だろう。しかし自己管理のためにはこれ以上のことはほとんど必要ない。また健康のルールを守ることは、若いころから習慣化されることによって、ほとんど本能的で無意識なものになる。しかし、これが並外れて重要な教育である一方で、それが本来の目的を挫折させるような極端にまで押し進められてしまうことも稀ではない。軽い慢性疾患があったり、弱い体質だったり、怠惰な生活を送ったりしている人物によく見られる、自分の健康や病気について常に考える習慣は、やがて幸福にとって非常に致命的な病弊になり、健康にとってもはっきりと有害なものになる。伝染病が流行したとき、最も感染しやすいのはパニックに陥った人物であることはよく知られている。また習慣的な病気恐怖症の生活は、健康の真の持久力(*stamina)を提供する神経エネルギーを速やかに低下させる傾向がある。ある高名な医師の言葉を借りるなら「人は過度に心配したり、過度に気にしたりすることで元気に長生きするのではない。よく生きるための最善の方法は、よく働くことである。良い仕事は、個人の健康を日々検査し、守るものである…現実的な目標は、秩序ある自然な生活を送ることである。私たちは一歩一歩震えながら世の中を歩むことを期待されていない…それは無駄というより、悪いことである。なぜなら、取り除くべき害悪を助長し、増大させてしまうからである…もし現代の病人が忙しく活動的な生活を余儀なくされ、自分の不幸を思い悩む暇がなくなったなら、彼らの半数は治癒すると私は確信している…自己管理における最も誘惑的で有害な誤りの一つは、惰性、弱さ、憂鬱に身を任せることである…生きたいと願う者は、精神の力こそが生きる力であること、そして意志は脳と神経系を通じて、身体に対して驚くほど強く、直接的な影響力を持っているということを、心にしっかり刻んでおくべきである。」[5]

 

 

脚注: 

 

[2]「能動的な力と道徳的な力」Active and Moral Powers, ii.312.

 

[3]この件に関する多くの興味深い情報は、ピエール・ジャン・ジョルジュ・カバニス(*1757―1808、医師、哲学者)著「身体と精神の関係」Cabanis’s Rapports du physique et du moral de l'hommeにある。

 

[4]ジェイムズ・ケイ=シャトルワース(*1804―1877、政治家、教育者)著「マンチェスターの綿織物工場に雇用されている労働者階級の精神的、身体的状況」Kay‘sMoral and Physical Condition of the Working Classes Employed in the Cotton Manufacture in Manche , p. 75.

 

[5]ジョセフ・モーティマー・グランヴィル(*1833―1900、医師)著「最良の人生の送り方」Mortimer Granville’s How to Make the Best of Life.

 

 

第三章

 

幸せな人生の主な要素について、より具体的な説明に入る前に、このテーマに関する一般的な考察に数ページを割くのは有益なことだろう。

 

最初の、そして最も明確に認識されている法則の一つは、幸福には、それが直接追求する対象ではないときに、最も到達しやすいということである。若い頃は、人生を仕事と遊びに大別し、前者を義務や必要、後者を楽しみと考えるのが普通である。幼年期と青年期の大きな違いの一つは、遊びよりも仕事を好むようになるということである。仕事は、私たちにとって、最大の楽しみとまではいかなくても、少なくとも人生の最大の関心事になる。そうではない場合でも、私たちの幸福の不可欠な条件になる。無目的で無為な人生ほど、幸福の少ないものはない。善悪の判断は別として、幸せな人生の第一条件の一つは、自分自身の外にある目的を達成するために、充実した忙しい人生を送ることである。不安と倦怠は、人間の幸福の帆船が最もよく難破するスキュラとチャリブディス(*難所を擬人化した古代ギリシャの海の魔物)である。贅沢な怠惰と利己的な安楽の生活は、第一の危険からいくらか人を救ったとしても、第二の危険をもたらさないことは稀である。どのような環境の変化も、どんなに多くの利己的な楽しみも、彼らをこの危険から長く解き放つことはない。カーライル(*トーマス、1795―1881、エッセイスト、哲学者、歴史家)は言っている「そこに導かれたあらゆる人間を悩ませる、フレゲトン(*ギリシャ神話の冥界の炎の川)やスティクス(*同地獄)の深淵にも通じる、暗く、ぼんやりした大洋の上げ潮のような、落ち着かない、じりじりとした退屈―それは実に、幽閉されたヒロイズムの悲痛な叫びではないのだろうか?あなたは幸福を求める。『ああ、幸福を与えてください』そして彼らは、肌に新たな覆いを、消化器に新たな補給品を手渡す…ああ、もしそれがあなたを『幸福』にするのなら、室内装飾や料理法を楽しめばいい。その種類を絶え間なく、無数にあるようにすれば良い。もしそれがあなたにとっての永遠の祝福ならば、あらゆることにおける永遠の変化をあなたの運命にすれば良い。私は御免である。預言者(*ダビデ王)の呪いを受けて、この地上界のあらゆる物事において『自らを車輪のように(*詩編83篇)せよ。』鉄道に乗り込んで、時速50マイル、お望みなら時速500マイルであちらこちらへ行けばよい。あの動かし得ない、すべてを取り囲む大洋の退屈のうめきから逃れることはできない。いや、惑星を旅して木星の縞の下をヨットで航海をしたり、土星の輪の上で鹿を追いかけたりできたとしても、それはまだあなたを取り囲んでいる。それから逃れることはできない。一瞬の慰めを得るだけのために、自分の居場所を変えることしかできない。『深淵』からの予言的な『説教』は、あなたがそれを賢明に解釈し、実行するまで、さもなければ『死』の『裂け目』がそれとともにあなたを飲み込むまで、あなたと共にあり続けるだろう。」[6]

 

 ほんの僅かな人生経験があれば、この一節の深い真理を十分理解できるだろう。理想的な人生があるとすれば、そこには知性と性格の両方に合っていて、大いに興味をそそり、僅かな不安しかもたらさないような仕事が豊富にあるだろう。それを実現できる人物はごく僅かである。人生の航路には多くの選択肢があり、巧みな水先案内の余地も大いにあるが、ほとんどの人々の仕事の大部分はその境遇によって決定されている。しかし、一番の大原則は、私たちは何かをしなければならないということ―人生には目標と意図がなければならないということ―仕事は単なる臨時の断続的なものではなく、着実かつ継続的なものでなければならないということである。楽しみは、仕事という台座の上にあって初めてその輝きを保つ宝石である。そして、空虚な生活は最も辛いものの一つである。しかし、多忙を極める人生に点在している余暇の島々は、私たちが最も楽しく振り返るものの一つだろう。

 

 賢者は快楽を得ることよりも苦痛を避けることを目指す、というアリストテレスの格言はもう一つの偉大な真理を伝えている。大きな死別や、人生のより重大な悲劇の力を和らげるために、人間ができることは現実にはほとんどない。そのようなことに直面したとき、私たちの哲学や推論の体系はすべて虚しくなる。打撃に打ち砕かれて沈んでしまうか、自らの活力を回復させる浮力を持っているかは、私たちの生まれ持った気質によって決まっている。そしてそれは大きく変えることができないものである。意識的かつ意図的な快楽の追求は多くの欺瞞と幻想を伴う。そして長きにわたる幸福につながることは稀である。しかし私たちは思慮深さ、自制心、知的な調節によって、人生を管理し、その悲劇の大部分を回避するために非常に多くのことができる。それと同時に、愛情を純粋に明るく保ち、興味を多様化して活動的な習慣をつくることによって、退屈や失望と闘うために、非常に多くのことができるのである。

 

 もう一つの真実は、人生における最も大きな喜びと、最も痛切な悲しみは両方とも、最も才能ある者や最も幸運な者だけが到達できる稀な頂きよりも、誰にでも到達可能な、より地味な場所にずっと沢山あるということである。大いなる労苦や野心に人生を捧げ、幸運から最も素晴らしい贈り物を受け取った人々のほとんどは、それでもなお、自分の本業とは関係ない、一般人にも手の届くようなものから主な喜びを得ていることは、少し調べれば分かるはずである。大志を抱き、知性、富、地位を手に入れた人々を最高に楽しませたのは、家庭の中の楽しみ、景色の楽しみ、読書の楽しみ、旅行やスポーツの楽しみだった。「オルソープ卿(*1782―1845、ジョン・チャールズ・スペンサー)の生涯Lord Althorp's Life」には、この最も人気があって成功した政治家が、その長い議員生活の終わりに当たって「この世で最も大きな喜びを与えてくれるもの」は「スポーツ犬が狩りをするのを見ること」であるいう確信を力強く表明した、興味深い一節がある。[7]私自身、イングランドの近代史の最も重要な時期に五十年近く下院の議席に座っていた老議員と一緒に、ある田舎を訪れたことを思い出す。問われれば、彼は1832年の大改革法案(*選挙法)の感動的な場面について話すことができた。しかし彼の話題がそのような事柄から、彼が植え、その成長のあらゆる段階を見守ってきた自分の所有地の樹木の歴史に、いかに速やかに、そして必ず移っていくか、また人生を振り返ったとき、彼の愛情が自然に向けられていたのはこれらの事柄であって、長い国会議員生活に関するものではなかったことがいかに明らかであるかを観察したのは興味深いことだった。私はある著名な公人に尋ねたことがある。彼は祖国のために多くの土地で輝かしい成功を収め、心から愛する土地で活動的な田舎紳士として晩年を過ごしていた。自分が幸福になるにはそこは狭すぎる、と彼は思っていなかった。「一日たりとも」と彼は答えた。「これまで行ったどの国でも、どの役職に就いていても、この場所のことがいつも頭の片隅にあった。」ある大作家は、ほとんど全生涯を一つの巨大な作品に捧げ、ついにその作品を自分でも驚くほどの成功に導いた。しかし悲しいことに、あらゆる方面から降り注ぐ祝福の中で、自分の感情を分析してみたとき、このような勝利が与える満足がいかに冷めたものであるかを、そして仲良くしている小さな子供たちが近づいてくる足音の方が、どれほど鮮やかな喜びであるかを感じない訳にいかなかった。と述べている。

 

 人間の本性のパラドックスの一つは、最も必死に努力して手に入れるものや、最もうらやましがられるものが、最も強烈な喜びや、最も純粋な喜びを与えるものではないということである。野心は幸せな人物の贅沢品である。それは時に、そしてより稀に、惨めな人々の慰めや気晴らしになる、しかし、その道に足を踏み入れた人々が正直に自らと向き合うなら、妻や子供の死に際して耐えるべき苦しみに比して、公的生活における重大な失望など取るに足りないものに過ぎないこと、家庭生活という小さな輪の中に、拍手喝采よりも真実の幸福を見出してきたことを認めるだろう。

 

見下ろしてくれ、輝かしい高みから見下ろしてくれ、

栄光の息子たちよ、教えてくれ、

君たちの鷲のような飛翔の喜びと苦しみ、

物語の最後を飾る勝利を、

 

生涯の念願だった

ゴールを決めたときの歓喜を/

そして、沈む夕日から声が返ってきた、

いや、最愛で最良のものは、より近いところにある。

 

そのような時、何度私たちは、怠惰な二人の恋人たちの夢に

想いを巡らせたことだろう/

若い妻のキスに/遊んでいる子供に/

あるいは、長い草に覆われた墓に!

 

もし心が昔のように輝けるのなら、

若さが永遠に続くのなら、

権力も金にも、そして人生のすべての虚しい努力にも、

私たちは決して見向きもしないだろう。

 

幸福を育む上でもう一つ考慮すべきなのは、恩恵が持続している間にその恩恵に気づく習慣を身につけることの重要性である。人間の性質の最も悲しい事実の一つは、失って初めてそのものの価値を知るということである。すでに述べたように、健康がそうであることは明らかである。私たちの存在の法則によって、身体の器官がうまく働いている間は、その働きはほとんど気づかれない。私たちの注意が器官に集中するのは、器官に異常が生じたり、障害が生じたり、機能が損なわれたりしたときだけである。その結果、完全な健康状態というものは、それが失われたとき、またそれが回復した後の短い期間以外に十分に感謝されることは稀である。グレイ(*トーマス、1716―1771、詩人、古典学者)は回復期がもたらす新たな喜びの感覚を、良く知られた詩に描いている:

 

見よ、この哀れな者を

長く苦しみの茨のベッドの上にあって、

やがて元気を取り戻し

そして再び息をして、歩く彼を/

谷間の最も見劣りのする花、

大風のうねる、最も素朴な音、

ありふれた太陽、空気、空、

彼にとってそれらは、開かれた天国である。

 

 健康について言えることは、他のことについても言える。悲劇に見舞われ、これまでの平穏な日常が破られ、長い間享受してきた幸運の恩恵が失われたときに初めて、私たちは失ったものの価値の大きさを実感する。私たちの人生には、ほんの昨日の自分に戻れるなら、世界中のすべてを差し出しても良いと思うような時がある。しかし、その昨日は感謝もされず、楽しまれもせず過ぎ去ったものなのである。ときにこの対比の認識が、私たちに永続的で有益な結果をもたらすことは確かである。自然による治療では、私たちの思考や想像力の流れを一変させる一過性ではあっても痛烈な悲しみが、慢性的な不安や気質の不健康さを癒すことがしばしばある。

 

 知識と実感(*realization、認識)の違いは、私たちの本質に関する、最も注目する価値がある事実の一つである。あらゆる人間の心には、不活発で、受動的で、論じられていない知識が大量にある。しかし、何か想像力を刺激するような出来事が起こって、その活動を活発にするまで、それらは思考や性格に実質的な影響を及ぼすことはない。私たちが享受している恵みを常に実感することほど、人生を幸福にするものはほとんどない。生来満足しやすい性格と生来不満足な性格の違いは、先天的な気質の顕著な違いの中の一つである。しかし、自分の置かれた境遇の恩恵に思いを馳せることを習慣にするなら、黙従をより積極的な楽しみに変えることもできる。この分野では宗教が大いに役立つ。それは祈りと同様に感謝を説き、未来への希望と同様に現在と過去への感謝を説くからである。世俗的な力のなかでも、対比と比較は最大の価値を持っている。ある種の人々は、常に自分より上位にある幸運に目を向け、自分の貧しさと他人の豊かさを見比べる。賢明な性格の持ち主なら逆に、自分より下にある運命の梯子に一通り目を向け、自分の境遇には他人のそれよりも優れている点が無数にあると実感することを習慣にするだろう。ジョンソン博士が言う通り「どれほど陰鬱で苦痛に満ちた境遇に置かれていても、自分の境遇を喜ぶことができるような、さらに孤独で惨めな人々を毎日見ない人はほとんどいない。」

 

 不幸にある人々が、他人のさらに大きな不幸を思い浮かべ、それと対比したときに自分の不幸が軽いことによって得る慰めは、デリケートな問題である。しかし、そのように使うなら、それは間違いではないし、しばしば非常に効果的である。おそらく、ラ・ロシュフコー(*フランソワ・ド、1613―1680、モラリスト文学者)が人々は親友の不幸を喜ぶ、とうそぶいたのは、もしそれが正しいとすれば、部分的にはそのためだろう。他人の突然の死や大きな困難が引き起こす哀れみの感情は確かに、それが自分たちに降りかかっていたかもしれないという実感と全く無関係ではないからである。しかし、すべてのモラリストが満足を幸福の主要な要素の一つと認めている一方で、現代の産業文明の最も強い影響力のいくつかが、それに敵対していることは注目に値する。政治経済学が教えている通り、全ての進歩の理論は、努力を刺激するための必要や欲求を生み出すことの重要性に基づいている。特に南方の気候の国では、人々の欲求は非常に少なく、それが満たされる限り彼らは呑気で不満のない生活を送り、現在を楽しみ、将来のことはほとんど考えない。このような人々の楽しみの総和が、私たちの先進的な文明に比べて本当に小さいかどうかは、少なくとも未解決の問題である。人間の幸福を描写するために特別に捧げられた唯一の詩の形式である牧歌が、常に最もシンプルで手の込んでいない人生を描いていることを指摘したのはショーペンハウアー(*アルトゥル、1788―1860、哲学者)である。そして彼はこのことを、倦怠という弊害を免れるのなら、最大の幸福は最もシンプルで、画一的でさえある生活の中に見出される、という持論を支持する一例と見ている。しかし政治経済学者は、私が述べたような人々の状態を嘆かわしいものと言うだろう。彼らを引き上げるための彼の最初の仕事は、彼らの運命に不満を吹き込み、彼らの欲求を増殖させ、より高い水準の快適さ、より充実したより大きな存在を目指すよう説得することである。現状に対する不満は、それを改善しようとする欲求の主要な源泉であって、この欲求こそが進歩の原動力なのである。この人生論では、幸福は満足の中にではなく、状況の改善の中に、新たな楽しみの開発の中に、活動的な生活が自然に与える喜びの中に求められる。私たちの本性において、満足の精神と向上心を適切な割合で維持すること、私たちが享受している恩恵に対する現実的な感謝の念と健全で統制のとれた野心を結びつけることは、容易ではないが、完璧な人生を目指すすべての人々が自らに課すべき問題である。「中間を行くのが最も安全である」In medio tutissimus ibis(*オイディウス「変身物語」)というのは、人格の涵養について極めて真実である。また、その最良の要素の中には、極端になると有害になるものもある。例えば、成功する人生の第一条件の一つである思慮深さは、人が常に不確実な未来の危険や害悪を予期して思い悩むような、最も惨めな精神状態に容易に堕落しかねない。人の幸福と不幸のどれほど多くが、この実感(*realization)と予期という二つの言葉の中に含まれていることだろう!

 

異なる時代の、異なる境遇の、異なる性格の人間が実現した幸福の度合いを正確に測定するユージオメーター(*気体の体積の変化を測定するためのガラス器具)など存在しない。もしそのようなものがあるとすれば、状況の多様性や改善が本当の幸福に与える影響は、私たちが想像しているよりも小さいということが明らかになって、私たちを落胆させるかもしれない。改善された環境にすぐに順応し、それに積極的な喜びを感じなくなる一方、その喪失には痛烈な痛みを感じるのが私たちの性質である。高度な文明は、無数の計り知れない恩恵をもたらすが、同時に、より未開の人々が免除されている数多くの苦しみをももたらす。文明は通常、動物的精神を低下させ、痛みに対する感受性を確実に強めると考えることには根拠がある。哲学者のなかには、現状が可能な限りの最高の世界であると主張する人物もいる。しかしそんなことは信じ難い。人間の努力のすべての目標は、この世界をより良いものにすることなのだから。しかし、その努力の成功は、それによって到達した、より高いレベルの全き幸福の中よりも、それが絶滅させたり軽減させたりした、数多くの恐ろしい人間の苦しみの中に、より明白に見られるのである。

 

 

脚注:

 

[6]末日のパンフレット「イエズス会」Latter―Day Pamphlets: ‘Jesuitism’

 

[7]ドニ・ル・マルシャン(*1795―1874、政治家、弁護士)著「オルソープ卿の生涯」Le Marchant’s Life of Althorp p143

 

 

第四章

 

道徳と幸福の間に密接な関係があることは普遍的に認められている。しかし、現実のものだろうが予期されるものだろうが、快楽と苦痛が人間の意志を支配しうる唯一の動機であって、美徳は最終的によく考慮された利益に分解され、ラ・ロシュフコーが「私たちの美徳はすべて、海に流れ込む川のように自己愛に終わる」と言った通り、美徳の究極的な理由はそれを実践する人々の幸福であると信じる学派に、私は属さない。「正直は最善の策である」という諺は、間違いなく偉大な真理を表している。ただし、このような動機ゆえに正直な人間は本当に正直な人間ではない、とはよく言ったものである。また、これが決して普遍的な真理ではなく、法律、治安、世論、個人の境遇など、変化する不確かな条件に大きく左右されることは明らかである。しかし、より高い道徳の領域では、幸福と美徳の一致ははるかに疑わしい。最高の性質が必ず、あるいは当然最も幸福である、というのが真実ではないことは確かである。異教が生み出した最も完璧なタイプであるマルクス・アウレリウスは深い悲しみに包まれていた。一方、キリスト教は「悲しみの人」として知られる人物に自らの理想を見出している。人類の良心は、自己犠牲を美徳の至高の要素にしてきた。そして、小さな幸福をより大きな幸福と交換する自己犠牲は決して本物ではない。ゲーテがキリスト教の本質と表現した「悲しみ」の崇拝を、道徳的化学で幸福の崇拝に変えることはできない。そしておそらくほとんどの人々にとって健康や気質は、どんな高次の美徳よりも、人生の本当の幸福のために、はるかに大きな役割を果たしている。一部のモラリストが人生の主な喜びの一つに挙げる、義務を果たすことの満足感は、人々を内側からの非難から救うという限りにおいて実在するものである。しかし良心の呵責を最も恐れないのは最悪の人々である。そして良心の呵責を最も感じないのは最高の人々ではないだろう。良心は、それが非常に敏感で気高いものであればあるほど、その逆よりも苦しみをもたらす。良心は、私たちが到達できないような理想の高みを目指す。それは私たちが達成したものの低い部分に注目する。それは多くの欠点にとても敏感で、激しく苦しむ。それは人を、良く過ごした人生の楽しい回顧に浸らせるどころか、絶え間ない、苦痛に満ちた、そしてしばしば失敗に終わる努力に駆り立てる。聖人や英雄のレベルにまで引き伸ばされた性質は、不調和な世界に身を置いたことに気づき、多くの摩擦や反発を引き起こし、より低い性質が穏やかに黙認するような多くのことに心を痛めるだろう。知的な美徳の最高の形は、そのものゆえの真理への愛である。それは、偏見を打ち砕き、反論や条件の制限を全面的に受け入れることで熱狂を和らげ、偏見を打ち砕いて、私たちが確実なものとして喜んで受け入れるような多くのことを、ありうること、起こりうることとするものである。率直さと公平さは、概ね気質の美徳である。しかし、人間の本性の真実を少しでも知っている人物なら、ほとんどの人にとって、揺るぎない偏見に支配されて生きることがどれほど快楽的であるか、大切にしてきた信念を揺るがし、あるいは修正しかねないあらゆる考えを意図的にシャットアウトして生きることがどれほど快楽的であるかを疑ったりはしない。エマーソン(*ラルフ・ワルド、1803―1882、哲学者、エッセイスト)は言っている「神はすべての心に真実と安らぎを差し出し、どちらかを選ばせられる。好きな方を選べば良い。しかし両方を選ぶことはできない。」自然宗教(*natural religion、ここでは人為的な宗教以外を指す)の最も強力な主張の一つは、美徳は報われないことが非常に多いという事実である。この信念ゆえに、これは本質的に不当なことであって、将来のある時点において是正されなければならないという考え方が人間の本性に深く根を下ろしているのである。

 

 このような理由から、美徳と幸福を同一視することはできないと私は考えている。反対派の見解は、主として不自然で欺瞞的な言葉の使い方に基づいているように思える。徳と快楽の結びつきが最も緊密なものだったとしても、昔のストア派が、徳が快楽を与えようとも、それは善人が徳を実践する理由にはならない、と言ったことは真実である。快楽は人生の道案内ではなく、道連れである。人が徳を愛するのは徳が人に喜びを与えるがゆえではない。人が徳を愛するがゆえに徳は人に喜びを与えるのである。[8]人間には幸福とは別のもの、分かりやすく言えば、より高いものを目指す力があって、その人生が気高いものかどうかは本質的にこの高遠な目的の優位性にかかっている、というのが人間の本性についての正しい認識だろう。人生の目的は、最後の安らぎでなければならないというのは全く正しくない。それは自分の義務を果たし、真実を語ることであるはずである。

 

 ただし、幸福よりも高次の目的が存在する、というこの偉大な真理は常に維持されなければならない一方で、道徳と幸福の関係は密接かつ親密なものであって、このことは十分に調査する価値がある。低次の、すなわち平凡な徳に関する限り、間違いは起こらない。健康で長く豊かな人生が、勤勉、節制、純潔によって、その反対よりも、達成される可能性が高いことは明らかである。酩酊と官能が健康を損ない寿命を縮めること、怠惰、賭博、無秩序な習慣が成功を台無しにすること、不機嫌、利己主義、嫉妬が友情を壊し、反感と嫌悪を引き起こすこと、どのように良く統制された社会においても、少なくとも義務の道と繁栄の道との間には一般的な一致があること、不誠実、暴力、他人の権利の無視は、法律か世論、あるいはその両方から、自然、かつ一般に、罰せられることは非常に明白である。バトラー司教(*アルバン、1710―1773、「聖人たちの生涯」the Lives of the Saintsの著者)は、徳が幸福をもたらす一般的な傾向と、悪徳が不幸をもたらす一般的な傾向は、現状においても、この世が道徳によって支配されていることの証であると主張した。そして、その推論についてどのような論争があろうとも、少なくとも事実の実質的な真実について疑いの余地はない。すでに述べたように、最もよく幸福に到達できるのは、それが直接的な、あるいは少なくとも主な目的ではないときである。無益で不活発な人生は、それ自体がつまらないだけでなく、人間が持つあらゆる力が健康的に活動することによって自然に生まれる非常に現実的で確かな喜びを奪ってしまう。一方、利己主義の人生は、人間の幸福に大きな役割を果たす共感の喜びを排除してしまう。経験が最も明確に教えている教訓の一つは、仕事、義務、性格の統制が、永続的な幸福の不可欠な要素であるということである。悪徳の快楽は往々にして現実的なものだが、それは概して一過性のものであって、苦しみや衰弱、不安という遺産を後に残していく。より高貴な喜びは大抵、年を重ねるごとに大きく、強くなるものである。青少年の情熱は、適切に制御されるならば、次第に習慣、利益、安定した愛情に変わっていく。また幸福の要素としての、徳の優位性が最も明らかになるのは、人生を長い目で見たときである。

 

 「娯楽(*pass time)」や「気晴らし(*diversion)」といった言葉は、数ある言葉の中でも最も憂鬱なものである、と言われていることは真実である。これらは、人間の本性は自分自身の中には幸福を見出すことができず、時間を埋め、空虚感を覆い隠し、考えを人生の現状や予測から逸らすようなものを求めずにはいられないことの告白だからである。社交界の、いや、あらゆる娯楽の楽しみのどれほど多くが、私たちに自分自身を忘れさせることを目的にしていることだろうか!人生の根本は悲しいものであり、それを取り巻く危険や不確実性を想う時、多くの外的な援助なしに、それに耐えられると考える人はほとんどいないだろう。このような援助の中で、第一の、最も重要なものは、強力な関心事を持つことである。快楽を追い求めるよりも、むしろ関心事を追及することによって、人生の憂いに最もよく立ち向かえる、というのが人間の存在の法則の一つである。しかし最高の効率を発揮するのは、無欲な性質のものだけである。自分の本性のすべてを他人のために捧げることによって、人は内省の憂鬱から最も効果的に解放され、人生の地平が拡大され、道徳的で共感的な感覚の発達が利己的な心配事を追い払うのである。そして私たちが人間の本性の他の部分で見てきたものと同じ逆説に従って、人は他人の幸福の追求に没頭することで、最も良く自分自身の幸福に到達するのである。

 

 バークがリッチモンド公爵に宛てた手紙の一節ほど、良く制御された生活の目的と視点が上手く表現されているものはない、と私は思う。「世の中にある多くの否定し難い苦しみの種と、快楽の持つ無数の苦い失望を想うならば、自分の力の及ぶ範囲内に、できるだけ多くの満足の供給源を持つことは実に賢明なことである。心を一つの目的に集中させるならば、その目的と人生そのものが一体にならざるを得ない。ただし、予備の活動を持つことが正しいとはいえ、何か一つの目的は主要なものとして守らなければならない。大いに、抜きん出てそうでなければならない。大切な人生の構造を堂々たるものにするためには、他の有象無象にはしかるべき従属関係を守らせなければならない。」[9]これらの目的の中で、利他的で、無私のものが優位な位置を占めるべきであるということは、同じように真実である。このような活動を、家庭という狭い領域や、近所の特定の仕事や慈善活動に限定する人々がいる。また他の人々では、それが大きな公共の利益になったり社会的、慈善的、政治的、宗教的事業への熱心な参加になったりすることがある。人生の幸福において、性格は知性よりも大きな役割を果たしている。そして、人間の本性の中の利己的でない部分を養うことは、道徳のみならず、知恵の最初の教訓の一つでもある。

 

 他の多くの物事と同様、このことが困難なのは初めのうちだけである。そして、着実な実践によって、それは第二の本能に変わっていくのである。人間の性格を根本的に変化させる力は非常に限られている。しかし全体的に見れば、性格の改善は知力の発達よりも手の届くところにあるだろう。ほとんどの人々にとって、それなりの知的な学習をするには時間や機会が不足している。そうでなかったとしても、誰しも自分の嗜好や適性、理解力と全く相容れない、数多くの知識や思想があることに気づくだろう。しかし、多少なりとも自己犠牲の教訓を学び、正しいことを実践し、自分の主な欠点を修正するか、少なくとも軽減することは、誰にでもできる。自己犠牲、静かな勇気、不運に際しての諦念、辛い義務の辛抱強い遂行、傷つけられたときの寛恕などの素晴らしい模範が、知的には最も平凡な人々の中にいかにしばしば見られることだろうか!

 

利己心の秘かな成長は、人々が最も警戒すべき病である。ただし、利己的ではない本能を無制限に満足させて良いと考えるのは、よくあることだが、重大な間違いである。しかし、ここで一つの重要な特徴に注意しなければならない。贅沢で思慮の足りない慈善活動から生じた数多くの大きな弊害は、常に、おそらく全体として、慈善感情の過剰さや浪費に起因するものではない。むしろ、その欠陥に起因することの方が多いのである。目の前に持ち込まれた問題の詳細を調べようともせず、自分の行為がもたらす結果を真剣に考えようともせず、どんな懇願にでもすぐに金銭を出し、そうすることで自分の義務を果たしたと考える資産家は、貧しい人々の間で一軒一軒、辛抱強く、こつこつと働くことに専念する人物よりも、はるかに害を与え易いだろう。このような仕事に人生の大部分を捧げている数多くの男性や、おそらくさらに数多くの女性は、やがて自分の慈善活動の結果をかなり正確に追跡し、事例ごとにその価値の有無を区別できるようになる。このような人々は、しばしば排他的に一方的になり、一種の職業的傾向を身につけて、あらゆる国家的課題を自分のテーマに従属させ、物事の正しい配分を見失ってしまうことがある、というのは疑いようのない事実である。しかし、おそらく最高の働き手たちにはそのような生活によって感情が過度に強められてしまう傾向はないだろう。バトラー司教は深遠な真理を述べている。繰り返しによって能動的な習慣は強化され、受動的な印象は弱められるものである。能動的な慈善活動に費やされる人生と、それぞれの事例についての平静な、むしろ冷静な判断力は両立し得る。苦痛を目の当たりにして最も心を動かされるのは、患者を治すために絶えず手術をしている外科医ではない。

 

 このことは全体として真実であると私は信じている。しかし人間の本性の中の、利己的ではない部分には特有の重大な病弊がつきまとうこともまた事実である。これは特別に危険なことである。なぜなら人は利己的ではないことは美徳であって、より崇高な側面であると感じているため、こうした傾向が管理や制御を受けずに働くことを許してしまいがちだからである。しかし、誤った判断による無私の行動から生じた悲劇はいくら誇張しても誇張し過ぎることはない。宗教的迫害の歴史全体が、それを豊かに物語っている。なぜなら、迫害者の大部分は、人類の最高の善であると信じるものを心から求めていたことに、疑問の余地はほとんどないからである。人類史のこの暗い一ページがほぼ閉じられたとしても、似たような悪が現れる道筋は他にたくさんある。気まぐれ、感傷、狂信は、特に人間の本性の無私の部分に群がって、数多くの奇妙で巧妙な方法によって悪事を働く。不相応な同情ほど、この世に害をもたらしたものは他に例がない。私たちの心を深く動かすのは、はっきりと実感できる苦しみだけであること、そしてさまざまな種類の苦しみが想像力に訴える度合いは、その実際の大きさには比例しないということは、私たちの本性の法則である。最も慈悲深い人物でさえ、自分の身近の早すぎる死や痛ましい事故に対しては決して示さない冷淡な態度で、日本の地震や南米の疫病の記事を読むだろう。また一般に、著名で孤立的な個人の苦しみは、無名の多数者の苦しみよりも、はるかに強く私たちの心を打つ。人目を引く犯罪者の死ほど際立った死はほとんどない。従ってこれほど広範な同情を買う死もほとんどない。「興味深い」殺人犯の死は、しばしば被害者の死よりも、あるいは世に知られない辺境の遠征で病や剣に命を落とした勇敢な兵士の死よりも、はるかに強い感情を呼び起こすことが多いと言っても過言ではない。こうした感覚は速やかに行動に移される。人道的精神によって刑法を緩和し、犯罪者の更生を主目的にすることは、刑罰の抑止力を低下させて犯罪を増加させない限り、また犯罪者の立場を、罪を犯していない貧しい人々よりも快適なものにしない限り、完全に正しい。しかしこれらの条件が満たされないなら、それは善ではなく悪である。私たちの行為がもたらす、遠くの、間接的な、実感されない結果の方が、明白で直接的な結果よりはるかに重要なことがしばしばある。また、ある集中的で目障りな悪を根絶するために、はるかに広い領域に及ぶ害悪を増大させたり、発生させたりしてしまうことは絶えず起こっている。例えば、社会のあらゆる悪を強制的な法律で処理しようとする人々の中に、社会の幸福に大きく貢献している、健全で、自立した、工夫に富んだ習慣を弱め、それと同時に政府の機能を増大させ、従って経費を増大させることによって、苦闘している産業に追加される新たな負担の危険性を十分に認識している人物がどれほど少ないことだろうか!博愛主義者たちが、苦しんでいる階級や人々に対する純粋な関心ゆえに、大戦争に火をつけたり、長引かせたり、拡大させたりすることによって、それが取り除く苦しみよりもはるかに大きな悲劇を生み出すことになる政策を、どれほど頻繁に提唱したことだろうか!野蛮な犯罪の大噴出や、国家における重大かつ永続的な混乱、あるいは何千人もの命を奪うような国際紛争が、判断力に欠けた人々が反発するような、迅速かつ断固たる厳しさによって、どれほど頻繁に回避されてきたことだろう!1848年2月、フランスに革命への真の広範な欲求が存在しなかった時期に、もしルイ・フィリップ(*1773―1850、オルレアン朝のフランス王)が、(*衝突を避けてロンドンに亡命せずに)ビュゴー元帥に革命派の暴徒に発砲することを許可していたなら、フランスとヨーロッパの歴史にどれだけの血塗られたページが残されていたことだろうか! 

 

男性や、より多くの女性を過剰な労働から守り、費用のかかる衛生上の予防措置で取り囲むような措置は、もし不適切に施行されたならば、ある性別や人々を産業の大きな分野から容易に追い出して、産業の競争の中で不利な立場に置き、生計を立てる手段を制限して賃金や快適さの水準を低下させ、結果として彼らの人生の幸福度を著しく低下させることになりかねない。完全に善良なものではなくとも、大衆に熱心な楽しみを与えている娯楽を無思慮に禁止することが、より秘密めいた、おそらくより悪質な他の楽しみへの衝動をもたらさないことは稀である。無思慮な慈善事業や、贅沢で甘すぎる貧民法は、必然的に勤勉や倹約に水を差し、通常それが救済しようとした貧困を悪化させる。子供にいかなる苦痛を与えることにも、子供が望むいかなる楽しみを禁じることにも尻込みする親は、子供の幸せな人生の基礎を築いているとは言えない。また贅沢、浪費、悪徳は当然破滅を呼ぶという自然の法則を打ち消したり、曖昧にしたりする博愛は、誘惑に耐えた真っすぐな人物にも、その徳が天秤の上で怪しげに上下している意志薄弱な人物にも、本当に優しいとは言えない。また、優れた能力や優れたエネルギーや勤勉さを持った人々が、人生の競争において不利益を被ったり、特別な報酬のために特別な危険を冒すことを禁じられたり、性質や能力の劣った人々の利益のために、規則によって労働や給与の上限を引き下げられたりすることは、長い目で見れば世の中のためにならない。

 

 軽はずみな博愛の致命的な悪弊は、代替案や遠隔的で間接的な結果を考慮せず、近接的で直接的な結果にしか目を向けないことである。偉大で気高い、立派な博愛は、動物の世界にも及んでいる。そしてイングランドでは、それはいくつかの点において大陸では決して見られないほどに実践されている。しかし、イングランド国内で(*動物実験が盛んな)パスツール研究所の設立を長い間不可能にして、人類を苦しめる最も恐ろしい病の一つに脅かされている患者を、いわゆるイングランド人の人道的感覚が本国で禁じている治療(*犬に咬まれた後、狂犬病の発症を防ぐためのワクチンの接種の事と思われる)を受けさせるために―毎回毎回―パリに行かせるというのは、なんという奇妙な慈悲の形だろうか!狩猟が社会の上層部の習慣的な娯楽になっているこの国で、生きた動物を使った、最も注意深く制限され、管理された実験さえも犯罪的であるとして糾弾し、人類の最悪の苦しみのいくつかに対する治療法を見つける最良の希望を閉ざすなどというのは、なんという奇妙な博愛の形だろうか!実のところ、外国の批評家たちはもっと踏み込んで、この問題と関係する他の形において、イングランドの世論は奇妙なほどに気まぐれで、矛盾していると考えている。女性に対する不当な扱いと、猫に対する不当な扱いに対して下される判決を比較して、彼らは驚く。またイングランドで法律で罰されたり、世論に非難されたりしている多くの事柄によって引き起こされる本当の苦しみが、非難されることなく絶えず行われている娯楽のための狩猟によって引き起こされるものよりも大きいかどうかを疑問視している。そして、一部の動物慈善事業の多大な人気と熱の入りように、誇張された、あるいは幻想的なものさえ見出しがちである。[10]同時にわが国では、広く認められている娯楽としての狩猟が、数多くの慈悲深い人々を大いに悩ませている。ここで私が言いたいのは、この趣味の恩恵は大きく、明白なものであること、そして、それを非難する人々は、もしそのようなスポーツが存在しなかった場合に、殺された動物の運命はどのようなものだったのか、また自ら他の生物を殺して生きている生物を殺すことによって、傾いたり、変化したりする苦しみのバランスがいかに小さいものであるかを常に忘れている、ということである。ある詩人は言った―

 

カモメが死ねば魚は喜ぶ、

サケの死は千匹のハエを養う。

 

 このような問題の多くにおいては、動物の幸福に与える影響よりも、人間の性格に与える影響の方がより重要な考慮事項である。法律が野生動物に対してできる最善のことは、無害な種が自分たちの子供を安全に産み育てる、禁猟期間の可能な限りの延長である。これは真実の優しさである。そしてこれは全く違った見地からも特別に必要とされるものである。というのも人間が関係する限りにおいて、銃器の改良と人口の増加は、古来の出生と死亡のバランスを完全に変化させてしまったため、何らかの歯止めがなければ、動物たちの大半はほぼ完全に絶滅してしまう恐れがあるからである。趣味としての狩猟に反対し、生きている動物に対するあらゆる実験を非難する敏感な女性たちが、鳥類の最も美しい種の絶滅につながり、時に非常に残酷な行為に依存しているファッションを完璧な冷淡さで支持しているのを観察するのは、憂鬱なことである。

 

 

脚注:

 

[8]セネカ「 幸福な生活について」Seneca,De Vita Beata.

 

[9]バークの書簡Burke's Correspondence, i. 376, 377.

 

[10]このページを書いている最中、ある新聞に次のような一文を見つけた―「犬の看護。金曜日にブロンプトン郡裁判所で、犬の医療行為についての示唆的証拠が提出された。タッターソールズ・コーナーにある犬の病院の経営者が、ハーディング・コックス氏の7匹の犬の食事と宿泊の料金を請求して訴訟を起こし、その養生法が説明された。犬たちは餌として最高の肉をポートワインで流し込み、消化を助ける卵を牛乳とアロールート(*クズウコンのでんぷん)に溶かして食べる。また、薬浴とトニック・ウオーターも支給され、時には田舎での一日を楽しむ。このような健康管理には、1週間に10シリング(*現在の価値で約10,000円)の費用を要した。被告は料金が高すぎると訴えたが、裁判官は原告に25ポンド(*同約500,000円)を支払うよう命じた。そのような扱いを受けている入院患者が一体どれだけいるだろうか?」1897年2月16日付デイリー・エクスプレス紙。

 

 

第五章

 

人間の本性の利己的ではない側面を、理性と意志による真剣なコントロールなしに、野放しにすることの危険性を示すには、前章に挙げた例で十分だろう。病的な想像力による誇張を排し、物事の全体像を正しいバランスで捉えることは、人生の主な目標の一つでなければならない。そしてこれは、そのことが最も必要とされる分野だろう。同時にどの時代にも、その時代の最強の、最良の力が集中する、理想的な道徳の独自のタイプがある。道徳の歴史は本質的に、何が正しくて何が間違っているかについての私たちの観念の変化というよりも、私たちがさまざまな美徳や悪徳に割り当ててきた相対的な地位や卓越性の変化の歴史である。世界史のある時代には最も重要なものとされたのに、ある時代には背景に追いやられる道徳的資質の大きなグループがある。一方、それに一致して、ある時代には非常に重大なものとして扱われたのに、ある時代には非常に些細なものとして扱われる悪徳のグループがある。異教の英雄的なタイプと、キリスト教の最も純粋な聖人のタイプは、その大部分が同じ要素で構成されているが、その混合比率は全く異なっている。軍事的と市民的美徳―優れた兵士と愛国的な市民を作る資質―が、他のすべてのものよりも優位を占めていた時代がある。最高の人々の自己犠牲は、常にここから湧き出して来たのである。このような時代には、ビジネスにおける誠実さや、家族の純粋さを守る家庭的美徳が高く評価されるだろう。しかし、それらは主に国家の幸福に不可欠であるがゆえに評価されるのである。自らの職業の最良の資質に最も高度に到達した兵士、快適さ、野心、そして人生を国家のために犠牲にする愛国者は、最高の模範である。そして、たとえカトーのように奴隷に酷い残虐行為を働いたり、古代の英雄たちのようにスキャンダラスな私的放蕩に耽ったりしても、その評価は僅かしか下がらない。

 

モラリストたちが軍人の生活を嫌悪し、愛国心が美徳の尺度の中で非常に低い位置にあった一方で、慈愛、優しさ、自己否定、信心深い習慣、思考、言葉、行動の純粋さが並外れて教え込まれていた時代もある。真実と虚偽を扱う知的な徳は、また別のグループを形成している。至高の理想として人に真実そのものを愛させ、あらゆる虚偽、誇張、党派的、宗派的な偽り、捏造から目を背けさせる心の習慣は、どの時代にも共通するものではない。それが美徳と認められ、教え込まれている時代もあれば、宗教的な教えの全体的傾向がそれを妨げていたと言って過言ではない時代もある。禁欲的で純潔な教会的な徳の基準は、何世紀もの間、完全に支配的な地位にあった。家庭の徳は、はっきりと認められてはいたものの、より高い徳とされた禁欲的な独身者のものよりも、ずっと低い地位にあった。慈善は、気高く培われ、実践されてはいたが、主に教義ゆえの行いとされていて、施しを受ける側の利益よりも、施す側の霊的な幸福のために実践されることが多かった。

 

大衆の目にとって聖人の生活の最も高貴な概念は、主にではなくとも、大いに現世的な利益や愛情からの完全な離脱にあった。砂漠の聖人や瞑想的な修道会の修道士ほど、あらゆる日常の義務や人間関係から完全に切り離されたタイプはなく、称賛されたタイプはない。聖人たちが絶え間なく説いたのは、現世的に死ぬこと、現世の目的、利益、快楽に無関心になること、人間の幸福とはまったく異なる基準ですべての物事を測ること、常に来世のために生きることだった。霊的側面の育成に重点が置かれたため、日常の全ての義務は低い水準に落ち込んでしまった。そして心の目は上と内面に向けられて、周囲の世界にはほとんど向けられなくなった。ある聖人は言った「神と自己という二つの対象しか見ない心は幸福である、前者の概念は心を至高の喜びで満たし、後者のそれは心を極度の落胆に沈める。」[11]別の聖人は言った「私たちが被造物に捧げる愛と同じだけの愛を、私たちは創造主から盗んでいるのである。」[12]三番目は言った「私が求めるものは、苦しみと死の二つだけである。」[13]トマス・ア・ケンピス(*1380―1471、オランダ、修道士に近いcanon regularの論者)は言った「すべてを捨てよ、さらば汝はすべてを見つけるだろう。欲望を捨てよ、そうすれば汝は安息を得るだろう。」「人はすべての被造物に対する愛着を捨てない限り、自由な心で神に仕えることはできない」。

 

宗教改革の後に起こった緩やかで静かな、そして半ば無意識な道徳のタイプの修正が、その結果の中の最も些細なものではなかったことは確かである。それはいくらかプロテスタント教会の独特の神学に起因していたとしても、それ以上に聖職者の独身制の廃止によって、宗教指導者たちが家庭の中心に置かれ、社会的義務の大きな輪に密接に関わるようになったためだろう。現在でもカトリック国とプロテスタント国の道徳には明白な違いがある。ここの違いは、論争家が言うような道徳の大小ではなく、道徳のタイプ、言い換えれば、さまざまな美徳と悪徳の重要度の違いなのである。時代の知的ムーブメントに僅かな影響しか受けていないヨーロッパのカトリック諸国ほど、美しく敬虔なタイプが見つかる場所は、おそらく世界のどこにもないだろう。しかし、良い観察者なら、完全に神学的根拠に基づいた義務の地位がいかに偉大なものか、また自然な義務でさえ、いかに大いにそうした根拠に基づいているか、そしてそれに支配され、制限され、時に取って代わられさえするかに気付かないはずはない。コンスタンツ公会議(*1414―1418)において、ジギスムントが自ら与えた安全通行権に違反し、厳粛な約束を破って、フスを火刑に処すように仕向けた聖職者たち[14]や、ヴォルムス帝国議会において、カール5世にルターに対して同じような背信行為をさせようとして失敗した聖職者たちは、現代にも広く浸透している道徳観念を象徴している。カトリックの国々では、教会の利益と相反する場合における真実の義務は、全く名誉に基づいたものであって、宗教には全然基づいていないと言って過言ではない。公平な観察者がカトリックの支配者たちを評価するとき、教会の利益を公的、私的道徳のあらゆる考慮事項よりも優先する、彼らの態度に気がつかないはずはない。

 

こういうことは過去の時代にはずっと多かった。教会は人々の心の中で、少なくとも(*帝国になる前の)ローマ共和国と同じ位置を占めていた。教会のために多大な犠牲を払い、教会に多大な奉仕をした人々は、他の誰よりも善良な人々と見なされた。そして、そのような人々については、私たちが重大な犯罪と見なす事柄も、単なる許容するべき過失としか見なされなかった。このことに疑問を抱く人は、初期のカトリックの聖人たちの生涯や、トゥールのグレゴリウスをはじめとする教会の年代記記者たちが、その時代の世俗史における著名な人物の性格や行為を記述した、さらに有益なページを研究してみるとよい。そうすれば、たちまち自分がある道徳的な雰囲気の中に入ったこと、そして現代のそれとはまったく違った道徳的な尺度や視点でものを見ていることを実感するだろう。[15]

 

高度に文明化された時代にも、同じ精神がはっきりと見て取れる。ボシュエ(*ジャック=ベニーニュ、1627―1704、司教)は確かに偽善者でもおべっか使いでもなく、厳格な美徳と疑いようのない勇気の持ち主だった。彼はルイ14世の浪費的生活を躊躇なく非難した。そしてその私生活の欠点より計り知れないほど大きな悲劇を国民にもたらし、ルイ14世をヨーロッパの災厄にした純粋なエゴイズムと虚飾のための戦争に対しては、彼も同時代の他のカトリックの神学者たちも真剣に抗議しなかったが―むしろ彼はその戦争について、歓喜に満ちた、手放しの賛辞を贈っている[16]が―彼は少なくとも「聖書から学ぶ政治」Politique tirée de l'Écriture Sainteの一章を「神は戦争を愛さない。」というテーマに割く美点を持っていた。しかしボシュエの目にとって、ルイ14世の生涯を支配する事実は、ナントの勅令の撤回とユグノーに対する野蛮な迫害だった。そして彼がルイ14世を最高の君主の一人に位置づけるには、このことだけで十分だった。[17]

 

このテーマを率直に考えようとする人物にとって、ここに驚くべきことは何もない。カトリック教会は霊感に満ちた導き手であって、地上において神の声を代弁し、善悪のすべての問題を絶対的な権威によって判断するという教義は、ごく自然に、教会の利益に資するものは何一つ本当の犯罪にはなりえないということを確信させた。そして、道徳のあらゆる分野において、賛否の度合いを統制した。いまだに広く公言されているが、現在では非常に微かにしか実感されていない、救済に最も不可欠なのは正統の信仰である、という教義は、行動を教義よりも重要ではないものとした。一方、宗教的信仰において絶対的な確信を持つことは(*予定されているのではなく)人間自身の力であり、誤った信仰は全能者にとって永遠の刑罰に値する犯罪であり、異端の指導者は人類の最大の敵であるという確信は、今では最も重大な道徳的逸脱と思われる行為を、信者の目には即座に正当化した。キリスト教の宗教的迫害の長く恐ろしい歴史に、数多くの卑しい動機と要素が混在していたことは疑いようがない。しかし、無数の良心的な人々の目には、この教えはそれらを正当化し、犠牲者に対する同情心を揉み消すために十分なものと映っていた。何千人もの年老いた、弱く、罪のない女性たちを拷問にかけ、死に追いやった魔女狩りを、多くの善良な男たちが絶対的な冷淡さで見ていたことも、同じ理由で説明できる。

 

もっと悲劇的でない例を挙げることもできるだろう。出産の場合、医師は母親の命を犠牲にするか、胎児の命を犠牲にするかの選択を迫られることがある。このような場合、プロテスタントや自由思想の医師であれば、大人の命の方がはるかに貴重であるとして、躊躇なく大人の命を救うだろう。カトリックの教義では、このような状況下では、医師の第一の義務は洗礼を受けていない子供の命を救うことである。[18]現在では完全に無罪で有用であると誰もが認めている数多くの商取引は、カトリックの高利貸しの教義によって長い間禁止されていた。金銭の貸付の対価として利息を要求することは、その利息が最も緩やかなものだった場合にも罪として非難されたのである。[19]

 

 世界の歴史の中で大きな役割を果たしてきたあらゆる宗教的、そして実際あらゆる哲学的体系には、特定の道徳的タイプを形成するか、それに同化する傾向がある。そしてこのタイプが優れているかどうか、またそのタイプを生み出すことに成功しているかどうかに、主にその体系の優劣がかかっていると見る目は数が多く、また増加しつつある。その信念の上部構造や足場は、彼らにとって比較的重要でないように見える。そして、かつてそれに結びついていた信条を捨てた後でも、ある特定のタイプに熱烈に傾倒している人物を見かけるのは珍しいことではない。たとえばカーライルは、ときどき自分のことをカルヴァン主義者であると語り、公的にも私的にも、自分と最も正統的なピューリタンとの間に重要な違いがないかのように言っていた。しかし彼が彼らの信条のほとんどすべての項目を信じていなかったことは明らかである。彼が言いたかったのは、カルヴァン主義が実際に優位に立っていたすべての国々で、彼の目から見て、この世にかつて現れたことのなかった、最も高貴な性格と道徳観念の明確なタイプが生み出されたということだったのである。

 

何よりも、兄弟たちよ、誓ってはならない。」(*マタイによる福音書5章34節)一般に考えられているように、これが普段の会話で冒涜的な誓いを立てる習慣を指しているとすれば、おそらく他の何よりも人間の幸福に小さな影響しか与えないこの悪徳が犯罪の物差しの中で占めていた地位は、いかに現代の考え方とかけ離れていることだろうか。また、この最も甚だしい悪徳とされたものが、神学的な影響が最も強かった時代に蔓延し続けたこと、それを非紳士的な行為として禁じるという流行の変化への単なる従順さゆえに、それがあらゆる善良な社会から消えてしまったことは、なんという興味深い事実だろうか!長い間、教会では一定の期間ごとにこれを非難する法令が朗読されていた。[20]その一節には、神を怒らせることで「今この国々を苦しめている多くの災難を増大させる」可能性があると書いてあった。「不道徳」という言葉の使用が通常一つの悪徳だけに限定されていて、不誠実で、利己的で、残酷で、乱暴な男でも、男女関係において罪がなければ「道徳的な人生」を送ったと言われるのは何と奇妙ことだろうか!公人の性格についても、私的な欠点と最も巨大な公的犯罪の比較に重点を置くという、同じように場違いな評価が常に見受けられる。評価の誤りは道徳的誤りではない。しかし、利己的、野心的、党派的な動機によって、自国を不当な、あるいは不必要な戦争に陥れたり、陥れる手助けをしたり、公共の利益を個人的な野心に従わせたり、階級的、国民的、地域的な憎悪の刺激に身を投じたり、国民生活の道徳的水準を低下させたり、それと知りながら不正を促進するような法案を支持したりするような公人は、その結果によって測るなら、単なる私的な非行が取るに足りないものになるような罪を犯しているのである。しかし、輝かしく成功した政治家の場合には、同時代の人々の評価や、時には歴史の評価においてさえ、いかに違った扱いを受けていることだろうか!

 

主要な道徳的影響力が過去よりもはるかに多様で複雑なことは、現代の特殊性であると私は思う。古代のある時期の異教の国家や、中世の教会が、人格に対して行使したような絶対的な支配力は、今や存在しない。私たちの文明は何よりも産業的文明(*indstrial civilization)である。そして世論が望む道徳的タイプを作り出す上で、おそらく最も強い力を持っているのは産業的習慣である。産業とそれが培う資質に深刻な不信感をもたらしていた奴隷制度は、もはや過去のものになった。産業を下位に置いていた封建制度は廃止された。また身分の特権や排他性を縮小し、富の重要性を拡大するという、現代の強い傾向もまた同じ方向を向いている。産産業社会には固有の悪徳や欠点がある。しかし、それは産業が最も育み易く、産業社会が最も大きく依存する道徳的資質を、自然に最も大胆に浮き彫りにする。それはまた、道徳に対する考え方のトーンに功利主義的な性格を与える。倹約、不断の勤勉さ、約束の時間の厳守、将来の不測の事態に備える不断の先見性といった、今や最も文明化されている国々の道徳的タイプに特徴的な価値観を世界にもたらしたのは、キリスト教ではなく産業主義である。

 

しかし、その他の多くの力も産業的なタイプを強めたり、修正したり、損なったりすることに寄与してきた。プロテスタンティズムは原始キリスト教の倫理を、それに上塗りされていた迷信的で偽りの義務の群れから引き剥がした。カトリック諸国でも合理主義と懐疑精神の影響下で、同様のプロセスが進行してきた。道徳に対する教義的神学の影響力は低下した。取捨選択の精神が、過去の膨大で複雑な宗教体系の中から、自然宗教に最も明白に合致し、地上の人間の幸福に最もはっきりと寄与するキリスト教の美徳を、特別に、そしてますます際立たせている。この体系の中心をなす博愛や慈善もまた、知識の増加と他人の困窮や悲しみへの理解によって、痛みに対する敏感さによって、高度に洗練された知的文明が自然に生み出した、和らげられた習慣と、より慈悲深い洗練された嗜好や習慣によって大いに強められた。現代の博愛には義務感が大きな役割を果たしている。そして、それを鼓舞する本物の親切心には、虚栄や慣習といった、より低い動機が大いに混在している。しかし全体として、現代人が他人に善を行う際には、昔よりもずっと、受け手の利益だけを考えていて、その行為に対する来世での報酬は考えていないようである。また、この利益に到達するや否や、彼らは喜んで、それに伴う自己犠牲をできるだけ減らそうとするだろう。現代の博愛にきわめて特徴的なのは、娯楽との緊密な結び付きである。かつて大きな慈善事業は当然のように、それに参加するすべての人に来世での具体的な利益を約束する免罪符の発行で支えられていた時代があった。私たちの時代には、慈善事業のために催される舞踏会、バザー、演劇その他の娯楽が、ほぼ同じ地位を占めている。

 

 同時に知識の、そして特に科学が与えてくれる知識の増大は、他の方法で私たちの善悪の判断に大きな影響を与えている。精神的な鍛錬、健全で正確な推論の習慣、科学が生み出す傾向がある、単なる権威と検証されていない主張や伝統に対する不信感はすべて知的な美徳を刺激する。そして科学は人間の幸福の真の条件をより明確に指摘し、過去の教えの根拠のなさや多くの誤りを明らかにすることで、人生の海図を正すために大いに役立ってきた。しかし、市民的影響力や軍事的影響力が減弱したとは言えない。国家が異教の古代とまったく同じ地位を占めているわけではないにしても、少なくとも民主主義の時代には、公共の利益が人々の生活の中に非常に重要な位置を占めていることは確かである。そして個人に対する国家の影響力を拡大しようとする危険な傾向が強まっている。一方、現代の軍国主義はヨーロッパ大陸の精華をその輪の中に引き寄せ、軍事教育を人格と理想の形成に最も強力な影響を与えるものの一つにしている。

 

 善悪の本質的な要素について、世界中で大きな違いはないと私は信じている。これらは人間の本性と人生の基本的条件の奥深くにあるものである。現在起きている、そして将来さらに強まるであろう変化は、主にさまざまな資質の重要性の変化なのである。

 

 無駄と思われる自己犠牲や不必要な苦しみは、できる限り避けられるようになった。苦しみそのものを、償いの力を持つものとして、「悲しみの人」に倣う方法として、それ自体ゆえに採り入れ、深く考え、長く続けるべきものと捉える感情の系譜は、いくつかの最も美しいキリスト教徒の生涯において、特にカトリック教会の影響下で形成されたものにおいて、非常に大きな役割を担っている。古い伝説によれば、あるカトリックの聖人の前にキリストが悲しみの人として現れ、最も希望する恩恵は何かと尋ねた。彼は答えた「主よ、私にもっと苦しみを与えて下さい。」この系譜はカトリックの禁欲的な文献や修道院の制度全体に深く浸透している。そしてカトリシズムの外では、神意によって送られたと思われる苦しみを部分的また全体的に麻酔によって和らげることへの消極性に、この傾向が見られる。クロロホルムの使用の歴史は、このことの顕著な実例である。私の読者の多くはローマのカンパーニャの、教会のある伝説につながる、最も伝染病が蔓延していた場所を耕すことに専念したフランス人修道士たちを覚えておられるだろう。彼らはそこに留まることが緩慢な自殺と何の違いもない時期に、不必要にそこに残ることに固執したのである。彼らは、自らよく言っていた通り、地上に煉獄を見出していた。そして健康が絶望的に打ち砕かれるまでそこに留まり、死を迎えるために母国に送り返されたのである。病や苦しみが最後の極限に達したとき、宗教的な動機から、最も簡単な緩和策を利用することをためらう人々の感動的な事例は、現代にも見られるかもしれない。[21]また、絶望的で苦痛に満ちた病を最後の瞬間まで長引かせたいという願いにも、同じような感覚が見られる。これらはすべて、明らかに、そして急速に失われつつある。忍耐と諦念によって不可避の苦しみに耐えること、勇気を持って危険や苦しみに立ち向かい、何らかの価値ある有益な目的のために努力することは、今世紀の倫理において過去最高の地位にある。しかし、苦しみ自体のための苦しみはもはや評価されていない。そして、それを制限し、減少させることこそ、賢明な人物が最優先するべき目標の一つと考えられている。

 

 ゲーテほど、現代の道徳の流れてゆく方向をはっきりと見抜き、かつ鮮明に描写した人物はいないだろう。ゲーテの哲学は地上の哲学である。昔の神学者たちなら、ゲーテはモーゼの十戒の第二表(*人との関係)が第一表(*神との関係)に取って代わったり、第一表を凌駕したりすることを許したと批判しただろう。彼について「超自然的なものへの嫌悪は、彼の心の本質的な部分だった」とされていることは大いに真実だろう。無益で不毛な思索を遠ざけること、知ることのできないもの、避けられないもの、取り返しがつかないものから絶えず思考を引き離すこと、思考を目前の現在と最も身近な義務に集中すること、精神的エネルギーを過剰な内省や自己卑下や自己批判に浪費せず、私たちのあらゆる力の育成と賢明な利用を人生の最高の理想とし、目的とすること、苦しみや後悔のための労力や研究に反対すること、暗い考えや大げさな不安を遠ざけること、「個人を全体との関係と協力の中で捉えること」、そして努力と行動を義務と幸福の主要な要素とみなすことこそ、彼が常に唱え続けた教訓である。「活力に恵まれ、実用的な目的を持って最も身近な仕事に取り組む心は、この世で最も価値あるものである。」「人格は、人が自分自身に可能だと感じることを着実に行うかどうかにかかっている。」「自分の義務を果たそうとするなら、自分の価値を知ることになるだろう。」「祈りは目的ではなく手段である。最も純粋な魂の静けさによって最高の修養をするための手段である。」「私たちは世の中の問題を解決するためではなく、問題がどこから来たのかを発見し、そして自分が理解できる範囲内に留まるために生まれてきたのである。」

 

 真理への真摯な愛と明確で確固たる観念を培い、偏見、狂信、迷信、誇張をできる限り排除し、広く、健全で、寛容で、多面的な人生観を持つことが倫理の中心である、と彼は考えていた。「私たちが感じ、見、考え、経験し、想像し、推論することとできるだけ一致した言葉を使うよう、真剣に努力しなさい。」「明白で偽りのない目的によって、誤った、的外れな、無益な考えを取り除こう。」「最も真実な寛大さとは、理解である。」「真実を愛するというのは、すべてのものの中に長所を見つけ、それを貴ぶ方法を知っていることである。」[22]

 

 この学派の目に、旧来の神学的倫理観の大きな欠点の一つは、それが過度に消極的であること、と映った。それは義務を果たすことよりも、罪を避けることを重視していた。私たちは知識を深めれば深めるほど、タラントのたとえ話(*マタイによる福音書25章14―30節)の精神で人を評価するようになるだろう。つまり、その人の人生の最終的な結果によって、その本質的な無私によって、その人の能力と機会をどの程度活用し、どのような対象に向けたかによって評価するようになるだろう。小さな良心の呵責や細かな自己点検、活動的な生活にはほとんど関係のない、あるいはまったく関係のない性格や行動の欠点に置かれる極度の重点は、道徳的生活の主役ではなくなる。怠惰な生活は、現在よりもはるかに不寛容な扱いを受けるようになるだろう。人はより内省的でなくなり、より客観的になる。そして、有益な行動はますます道徳を導く指針になるだろう。

 

 このことは、おそらく理論上では容易に認められるだろう。しかし、良い観察者ならば誰しも、ここには相当な視点の変更があることに気づくだろう。何の能力も本当に培うことなく、死んだときに惜しまれることもない、常態的な無気力と怠惰の生活をしている人物は、世間で悪徳と呼ばれるような行為をせずに過ごせるかもしれない。また彼は気質や態度において大きな魅力を持っていて、暴力的で攻撃的な利己主義者ではなかったとしよう。多くのモラリストたちはそのような人生を、自らを犠牲にして他人のために絶えず栄誉ある仕事をし、それと同時にいくつかの否定しがたい欠点を持っている人生よりも、はるかに高く評価するだろう。しかし、比較的欠点がないように見える人生は、実際には完全に失敗しているのである。片や、もう一方の人生は、数多くの欠点を持ちながらも、人生の主目的であるべきこと、つまり自らが持つあらゆる力を十分に伸ばし、有用に活用することを、ほぼ達成している。実際のところ、過敏な良心が常に卑小で巧妙な躊躇を促して、有益な行動を遠ざける麻痺の原因になってしまっている人々がいる。それは知的生活をほとんど不毛なものにしてしまうことが多い、おおげさな知的潔癖症や、困難なときに公人の行動を麻痺させることが少なくない、問題のあらゆる側面に目を向けて、あらゆる進路の危険や不利益を知ろうとする過剰な傾向に一致する、精神的弱さである。時にこのような過剰な良心的態度は、意志の奇妙で巧妙な偏りの下で、体質的に努力を好まない不活発で怠惰な性質の中で無意識に成長することがある。人生の大きな物語における義務の大筋は十分に明白である。そして良心の問題を増やし、非現実的な架空の義務を作り出すこじつけは、人生を高貴なものにすることを促進するよりも、むしろその妨げになる傾向がある。

 

 世の中が進むにつれて、道徳はここまで述べてきたような方向へとますます進んで行くだろう。それと同時に、道徳的資質や行動方針を、それが人間の幸福を促進するか阻害するかによって評価する傾向が、着実に強まって行くだろう。人間の福祉とはまったく関係のない目的のために熱狂したり、自らを犠牲にしたりすることは少なくなり、尊敬されなくなるだろう。そして、罪とされている行為に対する非難は、現在よりもはるかに、それが与えた損害に見合ったものになるだろう。過剰な贅沢や、何の準備もなく子供を産む無思慮など、今はモラリストや、少なくとも教会の教えにはほとんど入らないようなことでも、いつかは刑法にあるものより重い罪と見なされるようになるかもしれない。

 

脚注:

 

[11]聖フランシスコ・サレジオ(*1567―1622、ジュネーブの司教、作家の守護聖人)St. Francis de Sales.

 

[12]聖フィリッポ・ロモロ・ネリ(*1515―1595、オラトリオ会創設者)St. Philip Neri.

 

[13]アビラの聖テレサ(*1515―1582、神秘家、修道院改革者)Teresa.

 

[14]「前述のヨハネス・フスがあらゆるリーダーシップや特権を否定し、神と人の本質の方に対する信仰と誓いを否定して、執拗に正統派の信仰を攻撃したことはカトリックの信仰に反する行いである。」コンスタンツ公会議の宣言。マンデル・クレイトン(*1843―1901)著「教皇の歴史」Creighton's History of the Papacy, ii. 32.参照。

 

[15]これについては、拙著「ヨーロッパの道徳の歴史」History of European Morals, ii. 235―242にいくつかの例を示している。

 

[16]例えば、マリア・テレジアの葬儀での演説を参照。

 

[17]ミシェル・ル・テリエ(*1603―1685、政治家)Michel le Tellierの葬儀での演説における、ユグノー迫害に対する熱狂的な賛辞を参照。それはこう結ばれている:「ルイの敬虔さに心を向けよう。私たちは天に向かって拍手を送り、この新しいコンスタンティヌス、この新しいテオドシウス、この新しいマルキアヌス、この新しいカール大帝に、かつてカルケドンの公会議で六百三十の教父たちが言ったことを言おう。あなたは異端者を根絶されました。これはあなたの治世にふさわしい仕事です。これがその治世の本来の性格です。あなたの後に異端はもはや存在しません。この驚異を行うことができたのは神だけです。天の王よ、地の王を守ってください。それは教会の願いであり、司教の願いでもあります。」

 

[18]ジャック・ポール・ミーニュ(*1800―1875、カトリックの神学者)著「神学百科事典」良心の事例 Migne,Encyclopé dieThéologique,'Dict.de Casde Conscience',art.参照。

 

[19]この件に関しては、拙著「合理主義の歴史」History of Rationalism, ii. 250―270および「民主主義と自由」Democracy and Liberty, ii., ch. viiiを参照されたい。

 

[20]21 James I.c. 20/ 19 Geo.21/19 Geo.(*イングランドの法律、王の名が付いている)ただし、罰則は罰金、絞首刑、または短期間の禁固刑だった。教会で法令を朗読する義務は1823年に廃止されたが、この習慣はそれ以前に廃れていた。1772年、ある牧師が法令の朗読を怠ったとして(私的な復讐として)起訴され、罰金を科された。(年鑑Annual Register, 1772, p. 115.)

 

[21]ニューマンによる葬儀の説教の次の美しい一節はその一例である:「これほど汚れなく、これほど活動的で、これほど聖なる、最初から最後まで欠点のない人生であったなら、その終わりに際して長く厳しい苦行は不要だった、と人は考えるだろう。しかし、それは間違いなく、私たちの中で最も優れた人物でさえ、いかに不道徳で哀れな存在であるかを私たちに示すためのものだったのである…さらに、私たち自身が苦しみに耐えるための模範を与え、この主の忠実な僕の徳を増し、栄冠を頂く時期を早め、それを輝かせるために、全能の神はこの六年間、彼と戦い、彼を支配し、ついには彼を死に至らしめることになった病を彼に贈られたのである…毎年彼の近くに来た人々は、その長い苦行がもたらした、諦念、愛、謙虚に由来する多くの言葉や行いを心に蓄えた。これらの価値ある行いは「生命の書」に記されている。そして、それらは彼が行くところにはどこでもついて来る。それらは、彼の試練が進むにつれて増大し、強さと完璧さを増していった。そして、それが最も印象的だったのはその終了時のことである。先週、友人が彼を訪ねたとき、彼はこめかみを心地よい水で湿らせることを躊躇していた。彼は大きすぎる贅沢を恐れている、と言った。同じ友人が彼の苦しい喉の渇きを和らげるために飲み物を差し出したときも、彼の答えは同じだった。」―ヘンリー・ウィーダル師の葬儀での説教Sermon at the funeral of the Right Rev. Henry Weedall, pp. 19, 20.

 

[22]トーマス・ベイリー・サンダース氏訳の「ゲーテの言葉」The Maxims and Reflections of Goethe.と呼ばれる優れた小本を参照。

 

 

 

第六章

 

 道徳を消極的な面よりも積極的な面で捉え、世の中での行った善によって人を評価する傾向は、現代の生活の健全な要素である。神学的信念の崩壊や弱体化が一般的な道徳教育の大半の根拠としてきた基礎を混乱させている現在において、充実した、活動的な、有用な人生を送ることに対する強い義務感は、個人と国家の道徳を守るための最良の安全装置である。道徳の領域において、行動は推論よりも―私たちの困難を解き明かし、私たちが進むべき道を照らし出すことにおいてさえ―はるかに大きな位置を占めている。目の前の職務を積極的に遂行することによって、将来の職務の展望が最も明瞭になるのである。そして、活動的な職務に最も没頭している人々は、通常、人生の迷いや、些細な、行動を麻痺させるような疑念に悩まされることがない。富に価値を見出し、富によって尊厳を測ろうとする傾向が非常に強まり、富がその最も重要な形の一部において、特定の義務から完全に切り離されるようになった現代において、怠惰を戒め、公的義務の水準を高く掲げる世論は特別に価値あるものである。貧しく、幾分依存的な小作人に囲まれている地主の義務や、その雇用に多くの労働者や被扶養者が依存している大規模な工場や商店の長の義務は、十分に明白である。もっとも、こうした領域においてさえ、他人の干渉にますます敏感になった各階層の独立精神の高まりや、かつてのように任意の行動に任せるのではなく、ビジネスや契約のあらゆる関係を明確な法律によって規定しようとする立法的傾向の高まりによって、義務的な束縛は大幅に緩和された。しかし、特定の明確な義務から完全に、あるいはほとんど完全に切り離された大きな富もある。国や地方、市町村の債権から収入を得たり、大規模な商業や工業の株主や債券所有者になったりしている、膨大な、今なお増え続けている人々は、自分に富をもたらしている人々に対する実質的な支配力も関心も、ほとんど持っていない。このような富の増加は、現代の大きな特徴の一つであるが、重大な危険を伴っている。このような財産は、贅沢な無為に無類の機会を与える。そしてそれ自体は社会的影響力や地位をほとんど、あるいはまったくもたらさない。そこで財産を持っている者は、富と贅沢の誇示によってそうした地位を得ることへの特別な誘惑にかられる。このことは大いに社会を低俗化させ不道徳にする傾向を持つ。無為は不道徳につながる傾向があるというのは、長い間モラリストたちにとって常識だった。おそらく私たちの時代は過ぎ去った時代よりも、完全で習慣的な無為が不道徳であること、またある人物にその境遇が明確な仕事場を与えない場合、それを自分で見つけるのが彼の第一の義務であることをはっきりと認識している。ヴィクトリア女王の治世の初期には本当は忙しかったイングランドの若者たちが無為なふりをし、治世の末期には本当は無為な若者たちが忙しいふりをするようになった、と言われているのは幸せなことである。個人的な意見だが、英国では過度なまでの量のエネルギーが政治に注ぎ込まれている。そしてあらゆる社会的、道徳的悪弊と議会の立法で闘おうという一般的風潮には、危険な過大視が見られる。しかし、あらゆるレベルの知性や数多くのタイプの性格に適した、目立ち過ぎない仕事の場は他に沢山ある。そして人々は、その力を発揮するための豊かで有用な場をそこに見出し、余暇という計り知れない恩恵を享受するのである。

 

 道徳的評価の修正は、文明の最も重要な要素の一つである。大規模な道徳的進歩の可能性は、主にこれに懸かっている。社会にとって有害な人物や資質を羨ましいと思う習慣ほど、人々を誤らせるものはない。最も明白な例は、輝かしい征服者に与えられる情熱的な称賛である。そして、それはしばしば彼の戦争の大義や彼を突き動かした動機とはまったく無関係である。この間違った道徳観は、圧倒的な軍事力にほぼ間違いなく野望の道を歩ませるほどに、強力なものになっている。その主な原因は堕落した世論である。その魅力は栄光であって利益ではない。あるいは少なくとも前者を伴わない後者は無力である―もし悪辣な侵略が人類による当然の非難を受けないならば。

 

 またヨーロッパやアメリカの裕福な都市の特徴である、贅沢と虚飾の熾烈な競争の中にも別の、これに勝るとも劣らない、誤った理想の賛美の目に余る事例がある。ロンドンやニューヨークで催される一回の祝祭には、それによって産業を復活させ、貧困をなくし、広大な地域の苦しみを緩和できたであろう巨費が、しばしば最も下らない刹那的で派手な虚飾に費やされていると言って過言ではない。贅沢品への支出は間違いなく程度の問題であって、厳格なルールで縛ることはできない。最も派手な支出についても、それが生み出す雇用、その他の付随的な利点を理由に正当化しようとする人が多い。しかし、政治経済学において、現代社会における虚飾の贅沢のための膨大で増え続けている支出は、大量の資本を生産的労働から引き離すことによって経済の重大な弊害になっていること、そしてその量に対して本当の楽しみと本当の利益を、これほど僅かしか与えない支出はおそらく他にないということは、最も確かな事実である。物質的で卑しい卓越性の基準を設け、過剰な富への愛から生じる最も悪しき情熱を刺激し、持ちこたえられない競争へと誘惑された多くの人々を破滅に追い込むその弊害は、いくら強調してもし過ぎることはないだろう。慣習的な出費の水準を引き上げ、それを飾るのにふさわしい多くの人々を多くの社交から排除し、すべての交際に低俗で物質的なトーンを持ち込むことは、あらゆる階層で見られる。また、その帰結はこれだけではない。本物の快適さを増大させ、作り上げるための富は、あるいはそのコストに十分見合った楽しみをもたらす快楽に費やされる富でさえも、決して深刻な怒りを呼ぶことはない。最も利己的で最も低俗な社会的宣伝や競争のための、人間を幸福にする手段の途方もない浪費こそが、私たちの文明の未来全体を脅かしている無政府主義的な情熱に力を与え、それをほとんど正当化しているのである。このようなことが階級間の憎悪を刺激し、分裂を深めているのである。そして、もし世論が干渉して阻止しなければ、それらはいつか、それを助長している社会に引き金を引いて、正当な復讐を遂げるだろう。

 

 実際にはより有害でありながら、より広く受け入れられている間違った理想の例として、いくつかの社会や著作において顕著な、高級娼婦の美化が挙げられる。このような人物が、その性格を隠すことなく、ファッションの主流や国家の著名人たちの間に、公然とこれ見よがしに現れることは、健全な世論にとっては耐え難いスキャンダルと映るだろう。しかし、彼女らが流行のトーンを決め、社会の大きな、そして決して目立たなくはない部分の中心や模範になるなら、事態はさらに悪化する。世間がこのような人々を美化することから生じる弊害は、その存在から生じる弊害よりも計り知れないほどに大きい。民衆の道徳的水準は低下させられる。燃え上がりやすい性質に、最も魅力的な誘惑が押し付けられる。そして貧しく正直で勤勉な女性に最も有害な教育が行われる。このような悪が蔓延っている社会で、美徳よりも悪徳を好み、一気に成り上がって富と贅沢と安逸を手にし、称賛や模倣の対象として持ち上げられさえする同じ階級の女性たちを絶えず目にしているにもかかわらず、店員や使用人階級の奥ゆかしく魅力的な女性たちが未だに大変多くの美徳を持っているというのは、実に素晴らしいことである。

 

 人々の性格を賢明に評価するために、最初になすべきことの一つは、彼らの理想を理解することである。彼らにとって最も望ましいものに見えているのは、どのような人々、すなわち人生、どのような資質、どのような地位なのかを探し出してみよう。人々は常に自らの理想を完全に認識しているわけではない。なぜなら教育や社会の慣習ゆえに、本当は心の奥底に根を下ろしていないものを好んでいると主張せざるを得ないことがあるからである。しかし注意深く調べることによって、どのような人格や資質や環境や才能が、彼らに対して本物の、自然発生的な、引きつける力を持っているのか―彼らが本当に階級や地位や金銭や美貌や知性や優れた人格を至上のものとしているのかどうか―を確かめることは、大抵の場合可能である。もしあなたがその人物の理想を知るならば、彼の本質を知る真の鍵を手に入れたことになる。彼の性格の大まかな輪郭、想像力の不変の傾向、本質的な高潔さや卑劣さは、他の何よりもこのことによって効果的に明らかにされる。高い理想を持ち、それを賢く気高く称賛する人物は、大きな悪徳に陥ることがあっても、完全に卑しくなることはない。卑しい原理を崇拝する人物は、石像を拝んだことがなくても、実際には偶像崇拝者である。

 

 人間の心が持つ、善と悪、真と偽を区別する力は、悪徳同士の相対的な重さを正しく評価する力よりもはるかに強い。善悪の判断はほぼ常に正しい。罪の程度の評価はほぼ常に間違っている。そしてその誤りの根源は、私たちが自分とは性格や境遇が根本的に異なる人々の立場に立つことの極度の困難さにある。この想像力の欠如は、善についてと同様に、悪についても私たちの判断に大きく影響する。自分とはまったく違う卓越のタイプを想像できる人物はほとんどいない。このことが、虚栄心よりもはるかに強く、人を自分自身に近い卓越のタイプを最高のものと見なし、自分とまったく相容れない嗜好や習慣を無益で軽蔑すべきものと見なすように仕向けるのである。境遇の大きな違いから生じた性格の違い、特に道徳的感受性の違いを理解するのは、おそらく最も難しいことだろう。この困難は、過去に対する私たちの評価を大きく誤らせるものである。また偉大な歴史家には、私たちに非常に多様な性格や非常に遠く隔たった境遇を理解させる、強力な想像力が第一に求められる理由の一つでもある。歴史家たちが、優れた人物の評価や性格が、彼らが生きた時代や社会、職業の道徳的トーンによってどの程度色づけられているかについて、十分に斟酌することは稀である。しかし全体として見れば、私たちは現在の人物よりも過去の人物をより正しく評価しているのだろう。誰もシャルルマーニュやその同時代の人々の行動を、19世紀の倫理観の厳格なルールで判断したりはしないだろう。彼らが罪を犯したことは間違いないが、その罪は少なくとも、現代のまったく異なる環境や道徳的空気の中で犯された場合に比べれば、その凶悪性は限りなく低いと私たちは感じる。しかし、この推論の方法を同じ社会の異なる階層に適用することは稀である。洗練された社会のあらゆる快適さと、道徳的で自制的な影響力の中で育った人々は、文明の哀れなのけ者たちの犯罪について、しばしば彼らの立場がその行為の言い訳にならないかのように判断するだろう。「もし自分がこんなことをしたら、どんなに罪深いことだろうか」と彼らは自問する。そして、この件に関する彼らの評決はまさにここから導かれるのである。彼らはその行為の性質を理解している。彼らは行為者の性格や境遇をまったく理解していない。

 

 しかし、このような批判者の立場と、大都市のスラム街で絶望的な貧困の中に生まれた、酒に溺れた無知で放蕩三昧の両親の子供たちの立場との違いは、いくら強調してもし過ぎることはない。彼らにとって、幼い頃からの最も身近な体験は、あらゆる形の泥酔、冒涜、不誠実、売春、下品である。これらの社会的影響力はすべて悪しきものである。成長するにつれて、彼らにとって人生の選択肢は、過酷で賃金の低い、しかも不安定な労働を強いられて、おそらくは貧民院で終わるか、あるいは犯罪に手を染めて、より大きな利益をより早く手に入れ、粗野な快楽の一時期を過ごし、絶対ではないにしても、刑務所に入るか、早世するしかないように見えてくる。実際のところ、その富と時間をさまざまな楽しみに費やしている裕福な人々や贅沢な人々を、彼らは夢の中の人物のように、あるいは別世界の存在のように見ている。しかし極貧の人々にはジン酒場か、低俗なミュージック・ホールぐらいしか楽しみしかない。そして多くの場合、彼らは長きにわたる悪しき遺伝によって堕落し弱くなった天性、弱い意志を持ち、健全な野心に応える精神や人格の力を持たず、悪へと向かう強力な先天的傾向を持って、この誘惑と悪徳が悪臭を放つ空気の中に生まれてきたのである。その顔立ちや頭蓋骨の形は、彼らが犯罪者になる運命にあることを示している。ここにさえ、間違いなく善と悪はある。自由意志の働く余地はある。称賛と非難には正当な理由がある。社会が罪を厳しく罰してそれ自身を正当に守ることは最も自然なことである。しかし、どのような人間の裁判が道徳的な罪の重さを正しく測ることができるだろうか。あるいは、そのような環境下で起こった犯罪と、洗練された、よく整った快適な家庭で起こった犯罪との間に、どのような比較ができるだろうか?

 

 後者の場合の中でさえ、本当に正確に判断することなどできない。人はさまざまな強さの意志と情熱を持って生まれて来る。ただし成人後の、それぞれの強さや弱さの多くは自らの行いの結果である。同じ環境下の同じ誘惑でさえ、異なる性格に働きかける強さは千差万別である。また、自分自身が経験したことのない情熱の強さを完全に実感できる人物などほとんどいない。すでに使った例えを繰り返すなら、体質的に酒を飲めない人物がアルコール中毒者にとっての飲酒の誘惑の強さについて適切に理解することがいかに困難か、また情欲の少ない人物が強力な官能的誘惑を正しく想像することがいかに困難かということである前の章で、身体的条件が幸福に及ぼす力について述べた。それが精神に及ぼす影響の恐ろしさも僅かなものではない。最も穏やかな気質を常に過敏にさせ、最も健康な気質を病的な方向に向け、最も純粋な心を邪悪な考えで満たす病を、医師たちはよく知っている。最も強い意志の力を破壊し、性格からすべての落ち着きと自制心を奪ってしまうものもある。[23]私たちが長い間、ある人物の明らかな欠点を非難してきて、ついに彼が自殺するか、あるいは長い間気づかれずにいた身体的あるいは精神的な重い病が発覚して、その欠点が説明され、私たちの非難が同情に変わることはよくある。狂気では、道徳的な性質全体が逆転することがある。そして、正気のときには休眠したり抑圧されていたりした傾向が、突然他を圧するものになることがある。このような場合、そこに道徳的責任がないことは誰もが認めるところである。しかし、錯覚や抑えられない衝動を伴う狂気や、意志や判断力を完全に停止させる白痴のいずれも、弁護士がうそぶくような、鋭く正確な境界線で正気から完全に区分された、明瞭に定義された状態ではない。そこには初期の段階があり、徐々に近づいていく段階がある。正気と狂気の間の黄昏のような状態があることは、専門家のみならず、世の中の賢明な人々にはっきりと認識されている。監禁されたり、財産の管理権を剥奪されたり、罪を犯しても刑罰を免除されたりするほどには狂っていないが、よく使われる表現で言えば、「何かが欠けている」人たちが大勢いる―その奇行、幻想、気まぐれが狂気の手前にあり、その判断力が絶望的に障害されていて、その意志が完全に委縮してはいなくとも明らかに病んでいる人々である。財産の問題でも、犯罪の問題でも、家族の取り決めの問題でも、このような人々は最も深刻な当惑を巻き起こす。そして賢明な人物なら、バランスのとれた、よく成熟した人々に用いるのと同じ道徳的基準で彼らを評価することはないだろう。

 

 このような事実から導き出される推論は、自由意志や個人的責任というものが存在しないということではない。また私たちには他人の行為を評価したり、仲間の中の善人と悪人を区別したりする力がないということでもない。真の教訓は、罪の程度を評価しようとするとき、私たちの道徳的判断は極めて誤りやすいということである。ときに人は若いころに経験した誘惑の強さを、年をとって理解できなくなるがゆえに、自分の過去に対して不公平になることさえある。一方、世間についての知識が深まると、私たちは人々の道徳的環境には大きな違いがあることにより敏感になり、それとともに自らの他人への評価が信じられなくなり、寛大なものになる傾向がある。人生のカードがあまりに悪く、境遇や生まれつきの性格ゆえに悪徳による誘惑が圧倒的なものであって、罰したり、ある程度非難したりするにしても、有害な野獣以上の責任を問えると思えないような人々がいる。人生の恐ろしい事実の中でも、これほど恐ろしい事実はない。(*神によって)世界が賢明に統治されていると信じる人物でさえ皆、不相応な幸福と不幸の配分の巨大な差異に見られる人生の甚だしい不公正を時に、圧倒的な、少なくとも唖然とさせるような迫力で実感したことがあるはずである。しかし、道徳的環境の格差も決してそれより小さいものではない。それは多くの人々の信念を揺さぶってきたのである。それゆえ、獰猛、残酷、好色、臆病といった肉体的性質を持ってこの世に生を受けた人々が、地上での悪徳や苦しみの原因だった本性から解放される天国、またある人物をますます罪の深みに落ち込ませた境遇と、本当は善人でも悪人でもなかった人物に、大きな汚点もなく人生を送らせ、道徳的尺度の中でますます高い存在なることを可能にした境遇の違いに対して正当な手当がなされる天国を夢見る人々さえいた。

 

 他人を裁く力は不完全なものであるが、私たち全員が行使せざるを得ない力である。道徳的な罪や、酌量したり加重したりするべき境遇といった考慮事項を、刑法や司法から排除することは不可能である。ただし、刑法と道徳規範が同一の広がりを持っているわけではないこと、そして大いに不道徳な数多くの事柄がその範疇の外にあることは、いくら強調してもしすぎることはない。全体として、それはできるだけ他人を直接傷つける行為に限定すべきである。成人男性の場合、私的な悪徳、つまり、自分の自由意志以外には誰にも直接の影響を与えず、強制や詐欺の要素が存在しない悪徳は、その範疇に入れるべきではない。この理想を完全に達成することはできない、というのは事実である。立法者は世論の強い圧力を勘案しなければならない。刑法は時に、それを相殺する何らかの悪を生み出すことなしに、ある私的な悪徳を阻止し、制限し、あるいは再発を防止する、というのは事実である。しかしこのことは、その行為が彼ら自身以外の誰をも傷つけない場合にも、成人男性の自由意志による行為を罰する、すべての法律には当てはまらない。(*すなわちそういう法律は何らかの相殺的な悪を生み出す)社会的な非難、すなわち世論の評価は、多くの場合、非常に不完全な知識や認識に基づいているとはいえ、当然ながら、もっと先にまで及ぶ。全体として世論は、情熱や飲酒による罪や、深刻な貧困の重圧が生んだ罪や、酷い無知ゆえの罪を、厳しく裁きすぎているのではないだろうか。家庭内の混乱の原因は通常、非常に私的な性質を持っていて、加重したり酌量したりするための、知られざる、あるいは不完全にしか理解されていない要素を多く含んでいるため、ほとんどの場合、他人がそれを裁こうとしない方がよい。一方、世論は野心、貪欲、妬み、悪意、冷淡な利己主義の罪、特に法律で罰されない多くの事例における、富を不正に得たり不正に使用したりする罪の評価において通常、あまりに寛大過ぎる。

 

 悪の道において、最も大きな心理的負担を伴うのが最初の一歩であることは、道徳の常識である。最初の犯罪につきまとう羞恥、嫌悪、自責の念はすぐに薄れてしまって、悪の習慣は繰り返すたびに強くなっていく。それと同じようなプロセスが、私たちの物事への評価にも訪れる。どんなに見苦しい服装であっても、目が新しい流行にどのように順応していくか、男性たち、あるいは少なくとも女性たちが、いかに早く新しい人工的な基準を採り入れ、本能的かつ無意識的に、真の美醜の感覚に依らず、この基準に従って称賛したり非難したりするかという観察ほど興味深いものはない。たとえ生来の嗜好がいかに純粋なものだったとしても、低俗で、ますます低俗になってゆく環境の中で、嗜好のデリカシーを失い、また他の状況下なら反発しただろう事柄を―喜びはしなくとも、少なくとも納得して―受け入れることなしに、長く生きられる人物は稀である。同様に個人や社会も、より低い道徳的レベルにあまりにも容易に順応してしまうものでしかない。そして、個人や国家の性格が少しずつ堕落していく形や方向を見抜くためには、絶え間ない警戒が必要である。

 

 

脚注:

 

[23]テオデュール・アルマンド・リボー(*1839―1916、哲学者)著「意志の病」Ribot, Les Maladies de la Volonté, pp. 92, 116―119.参照。

 

 

 

第七章

 

 医師が合理的に治療を行うには、患者の体質と、その体質が陥りやすい病的傾向について、ある程度はっきりした考えを持っていなければならない。そして、性格を取り扱うためのさまざまな知恵の賢明さを判断しようとするなら、私たちはたちまち、人間の本性の善性や堕落についての最初の論争に直面する。これは極端な誇張がまかり通ってきたテーマである。18世紀後半に大陸を席巻したルソー学派は、人間は本質的に善なる存在としてこの世に生まれてくるのである、と説いた。そして世の中の道徳的な悪はすべて、生来の悪に向かう傾向のせいではなく、迷信、悪しき制度、誤った教育、悪く組織された社会のせいにした。もし人間の本性がこのような論者たちが想像するほど善良であったなら、これらの腐敗や堕落の力は決して大きくならなかっただろうし、少なくとも支配的な影響力を得ることはできなかっただろう、またこの哲学がその誕生に大きな役割を果たしたフランス革命が恐怖政治とナポレオン戦争による巨大な殺戮という言語に絶するほどの恐怖の結末を迎えたとき、大きく信用を失った、というのが分かりやすい批判である。一方、人間はエデンの園での破局によって、道徳的存在として完全に損なわれ、破滅させられた、「堕落の中に生まれ、悪に傾き、自力で善を行うことができない、」完全に、根本的に悪しき存在である、と説く神学者たちの大きな派閥がある。また、大抵神学との関係が非常に薄い―道徳哲学者の中には人間の本性の中の無私の要素をすべて否定、あるいは言い逃れ、人間を単に利己的な感情に支配されるものと説明し、教育や行政のすべての技術は、利己的な動機を適切に整理して、個人の利益と隣人の利益と合致させるためのものである、と主張する人々もいる。このような人間観が正しいものだったなら、社会は決して存続し得なかったと言っても過言ではない。世界は野獣の檻のようになっていたことだろう。そして人類は絶え間く血腥い戦争をして、たちまち滅びてしまっていただろう。

 

 このような人間観が真実でないことは、人間の本性についての最も明らかな事実の一つである。嫉妬、妬み、敵意、利己心が数多くのもっともらしく変装して人生の中で大きな役割を果たしていることは間違いない。冷笑的なモラリストが「虚栄心が伴わなければ、美徳は大したものにならない」と断言したのは、あながち間違いではなかった。また私たちの罪のみならず、最良のものとされる行為の多くでさえ、利己的な動機に起因しているかもしれない。しかし、ラ・ロシュフコー(*フランソワ・ド、1613―1680)やショーペンハウアーの格言が伝える人間像の大いなる誇張に気づかないような人物は、世の中について奇妙で不幸な経験をしてきたに違いない。彼らが言っているのは、友情とは単なる利益の交換であって、お互いが相手から何かを得ようとするものでしかないこと、ほとんどの女性が貞潔なのは誘惑されないからであって、誘惑されないことを残念に思っていること、もし私たちがいくつかの欠点を認めるとするなら、それは自分にはそれ以上の欠点はないと自分に言い聞かせるためであり、あるいは告白することによって隣人の好感を取り戻すためであること、もし私たちが他人をほめるとすれば、それは単に私たち自身がほめられるためであること、死の床で流す涙は、それが隣人を感動させるための偽善的な涙でないなら、自分が喜びや利益を失ったがゆえのものでしかないこと、世の中には妬みが蔓延していて、周囲の人々から心から好かれるのは、知性に劣る男性か美貌に劣る女性だけであること、意識的なものであれ無意識的なものであれ、美徳はすべてエゴイスティックな計算であることなどである。

 

 このような見方は、少なくともルソーやサン・ピエール(*ジャック=アンリ・ベルナルダン・ド、1737―1814、作家、植物学者)のバラ色の描写と同じくらい真実からかけ離れている。誰しも僻んでいない目で世の中を見るなら、そこに繰り広げられている膨大な量の無私の自己犠牲的な博愛や、無害で差し障りがないのみならず、絶え間ない義務の遂行、他人の利益のための不断の、そしてしばしば辛い労働に費やされてもいる無数の人生に気がつかないはずはない。功利主義の優れた一派は、人間の本性はその楽しみの多くを共感、言葉を替えれば他人の幸福に参加し、それを分かち合う力から得るようにできている、という真実を十分に認識している。苦しみを目にすれば、自然に同情心が起こる。親切は自然に感謝される。人々の共感は自然に悪よりも善の方に向けられる。このことは身近な事柄のみならず、歴史上の出来事や、小説や詩の登場人物について、完全に私心のない評価を下す際にも当てはまる。ヒロイズムと自己犠牲の偉大な発揮は、真の共感の熱狂を呼ぶ。国に対する愛は法則であって例外ではない。愛国心は純粋な無私の度量を噴出させて、大勢の人々に自分の利益とはまったく別の大義のために命を危険にさらさせ、あるいは犠牲にさせる。人間の本性は肉体的な欲求のみならず、道徳的な欲求をも持っている。そして自然に、本能的に自分自身の外側に興味と熱意の対象を求めるものである。

 

 世界の価値を間違いなく傷つけている悪徳や罪をもう一度見直すなら、人間の本性において例外的なのものは、悪の傾向ではなく、それを制止する良心であること、そして悪の起源は主に人間に特有の性質の弱さであることを信じるに足る理由がたくさん見つかるだろう。私たちが今持っている知識では、動物にいくらかの理性と道徳的感覚があることは否定できない。親としての愛情や献身といった高次の本能がはっきりと発達していることに加えて、疑いない反省、感謝、愛情、自己犠牲の兆候を示す動物たちもいる。あることを恥とし、あることを誇りとする名誉心さえも、はっきりと見分けることができるだろう。知能の高い犬を見たことがある人なら、このことに疑問を持たないだろう。また動物によっては、善と悪の資質が人間ほど大きく発達してはいなくとも、善と悪の割合では人間よりも優れていると主張する人は多いだろう。同時に動物の世界では通常、欲望は恐怖以外のなにものにも制限を受けずに満足されるが、人間の世界では道徳的自制心によって、間違いなく非常に不完全ではあるが、大部分が制限される。ほとんどの罪は、何らかの生来の根本的な欲望の悪からではなく、私たちの本性の中の、より高次の、別個の、すなわち付加的な要素の不完全さから生じているのである。不正やねたみの罪は、きちんと分析するなら、単なる望ましいものへの願望―自然で必然的な感情―がその根底にあるのである。欠けているのは、他人が所有している望ましいものを奪ったり、奪おうとしたりすることを押し止める自制心である。官能的な過ちは、完全に自然な衝動から生じている。しかしその衝動の働きを限られた環境に止める自制心が足りないのである。世の中の鈍感さや強情さの多くは、他人の苦しみを十分に理解することができない単純な想像力の欠如によるものである。人を悩ませる略奪的で嫉妬深く猛々しい感情は、動物界では思いのままに働いている。一方、人間の優れた知性は、自らの欲望に特別な性格を与え、その機会を大幅に増加させて、それを動物には思いもよらない領域にまで広げている。人間のほとんどの罪の根源は過度の、抑制されない欲望である。しかし同時に、他者の権利ゆえに欲望や利己心を制限する自制心は、完全ではないにせよ、主に人間の特権であるように思われる。

 

 この種の考察は、しばしば耳にする人間の堕落の極端な誇張を是正するのに十分なものである。しかし、これらは人間の本性は非常に堕落したものであって、強力な法的、社会的拘束力なしに、その自由な発露を放置するのは決して安全なことではない、という真実と矛盾しない。その堕落の例を刑務所の中に探す必要はないし、犯罪者集団の外の、しばしば身体の病気と同じくらい明白な病的な道徳の汚濁の中に探す必要もない。この憂うべき真実は、大規模に、大変大勢の人々の行動の中に、ふんだんに現れている。全体として、キリスト教は社会よりも個人に影響を与えることにはるかに成功している。戦場において人間が人間に対して意図的かつ巧妙に与えた、ぞっとするような数々の苦痛の光景だけで、人間の本性の牧歌的な描写をすべて四散させるには十分だろう。かつて大多数の論者たちは、不当な戦争を自らの利己的な野心のために何万人もの臣民の命を容赦なく犠牲にする、この世の支配者たちだけのせいにするのが常だった。彼らの罪は非常に大きい。国民の喝采が支配者に追随し、彼らを後押ししなければ、彼らが野心的な征服の道を歩んだりはしなかっただろうからである。そして大衆に権力を与えた民主主義には、戦争を減少させるいかなる本物の兆候も見られない。

 

 現代における戦争の危険は、政治家の陰謀よりも、深く根付いた国際的な警戒心や反感に由来している。人々の情熱は突然、火山のように噴き出す。千八百年もの間、平和を信条としてきたキリスト教圏は、今や軍隊の駐留地と化している。平和な時代に、人口と資源のこれほど多くの部分が戦争の単なる準備に費やされ、これほど多くの能力が破壊の道具の発明と完成に費やされたことは決して、あるいはほとんどなかった。幻想にとらわれずに世界を見ようとするなら、その平和の保証の主なものには、道徳的な動機よりも、純粋に利己的な動機の方がはるかに多いことを認めざるを得ないだろう。大国の財政的困窮、互いの深い不信感、現代の戦争にかかる莫大な費用、戦争が必然的にもたらす巨大な商業的災厄、その結末の極度の不確実性、敗北の後の完全な破滅―これらこそ、人類の虎のような情熱と貪欲な渇望を抑制している真の力なのである。また、国民皆兵の多くの弊害に付随する利点の一つは、戦時に家庭や家族、平和な職業から引き離される大市民軍には、自発的に入隊して全生涯を軍隊生活に捧げる純粋な職業軍人の中で生まれるような、戦いへの渇望がないことである。しかし、こういう側面があるにせよ、もし侵略の道が容易で、利益が上がり、安全なものならば、キリスト教諸国の自制を期待することができるだろうか。隣国による自国への侵略に対する各国民の評価が、自国の政治家による、自国の利益のための隣国への侵略に対する評価と大きく異なることは事実である。しかし、罪を犯したことのない大国はない。そしてほとんど常にそうであるように、征服者といくつかの輝かしい勝利が争いの道徳的問題を曖昧にしてしまうなら、たちまち尚武の感染症にかかってしまわない国民はおそらくないだろう。

 

 確かに、戦争は常に、あるいはすべてが悪というわけではない。時には正当化でき、必要とされることもある。戦争が表向き、そして一部は実際に、大きな悪行に対する強い博愛感情の波に起因していることもある。もっともそれはあらゆる博愛の中で、最も自らを滅ぼすものであることは当然である。たとえ正当化できない場合でも、戦争は勇気、自己犠牲、忍耐といった素晴らしい資質を呼び起こして、その恐怖と犯罪性をまばゆい欺瞞的な魅力で覆い隠す。戦争はまた何よりも人間の本質的で不可避の要素であって、それ自体は美徳でも悪徳でもない興奮、冒険、危険への渇望に働きかけ、また人間の最良の行為と最悪の行為に等しく力強く溶け込んでいる。いつの時代にも、自分がはっきり理解しておらず、平易な言葉で説明するのが困難な大義のために、どれだけの人々が命を危険にさらし、犠牲にしてきたかを観察するのは実に奇妙なことである。

 

 しかし、世の中に存在する生粋の、ほとんど自然発生的な悪意の量は、おそらく私たちが最初に想像するよりもはるかに大きい。公的生活では、人間の本性のこうした側面の働きは即座に、まるで幻灯機がスクリーンに投影する姿のように、見過ごされようのない大きさにまで、拡大され、暴露される。たとえば、匿名の報道機関を調査するなら、その大部分は階級や人種、国家間の憎悪を助長するために、組織的、持続的、意図的に用いられており、その目的のためにしばしば虚偽情報を流していることに気づかない訳にはいかない。多くの新聞の存続がこのような魔力に依存していることは悪名高い話である。そしてそれらは他のどんな機関よりも、最も人類の平和を危うくする永続的な敵意を煽って、不朽のものにしているのである。このような新聞が多くの国で貧困層の主要な、そしてほとんど唯一の読みものになっているという事実は、大衆教育の価値から(*識字率が上がったことの弊害として)最も真剣に差し引かれなければならないものである。このような情熱に訴えかけることによって、どれだけの本が人気を博し、どれだけの議席が庶民院に獲得され、どれだけの影響力と利益のあるポストが獲得され、どれだけの政党が勝利を収めてきたことだろうか!彼らはしばしば、愛国心や国民という高尚な名の下に自分たちを偽装している。そして階級間に憎悪をまき散らし、仲が良い国民を分裂させることに人生のすべてを費やしてきた人々が、愛国者の仮面をかぶって、政治の舞台で少なからぬ役割を果たしてきたことが発見できるだろう。もしヨーロッパ人の生活に浸透した根深い反政府的扇動、激しい階級間、民族間憎悪が、デマゴーグ、政治的冒険家、大衆的論者たちによって人為的に刺激され、純粋に利己的な動機で助長されていなかったなら、その強度は嘆かわしい現状とはまったく違ったものになっていただろう。

 

 人を有罪にする最も悪質な行為の中には、一般的に法律に触れず、世論が微かにしか非難しないものもある。誤った病的な感情が簡単に容認する政治的な犯罪は、その中でも際立ったものである。富と権力を得るために、大勢の人々の生命と財産を賭ける男たち、自分の個人的野心のために、母国の最も重要な利益を犠牲にする用意がある男たち、国家が大きな危機と興奮にさらされているときに、反論されないうちに悪事を働くという確固たる信念の下に、意図的に虚偽に次ぐ虚偽の報道を行う男たちは厚顔無恥に、ほとんど非難されることもなく議会やその応接室にいる。世の中には単なる不注意や不正確、誇張とは言えない、明らかに意図的で悪意に満ちた虚偽の声明は数多く存在する。そして、それを過大評価することは困難である。それは時に、利益が上がるセンセーションを巻き起こしたい、あるいは個人的な嫌悪感を満足させたいという願望に由来するものであって、あるいは苦しめることを楽しむ、という謂れのない悪意によるものであることさえある。

 

 その目的は株の売買であることが非常に多い。それは金融の世界の隅々にまで浸透している。証券の価値を高騰させたり下落させたりして投資家を引きつけ、無知で騙されやすい人々を食いものにするのは、不実な人々が急速に富を得るための常套手段である。速やかに富が手に入る見通しがあるなら、大勢の人を完全に破滅させ、最も深刻な国際的利益を危険にさらし、おそらくは戦争という惨禍を世界にもたらすような道を行く用意のある人々は、常に大勢いる。このような人々が少数派であることは間違いないが、不道徳な手段で突然富を得る機会が万人に開かれていた場合、彼らが少数派に留まるか否かは定かではない。そして、こうした犯罪が成功したときに、それを容認することに慣れている人々は決して少数派ではない。最大の犯罪者が刑務所の塀の中にいるかどうかは、大いに疑問である。小規模の不正行為は、ほとんど常に罰せられる。巨大な規模の不正行為は常に罰を逃れている。スリや強盗が相応の罰を受けないことは稀である。しかし会社経営、産業的事業と投機の大きな領域では、大勢の人々を破滅させることと、法的に処罰されないとはいえ、本質的には詐欺的な手法によって巨万の富を手に入れることができる。こうした罪の大半を犯しているのは、必要なもの全て、ほとんどの快適さ、生活の贅沢品の多くを手にしている教養ある人々である。またその中の最悪の人々は現代文明の環境に強力に支援されている。現代において、世論がこうした人々を快く容認すること、そしてもしそれが悪名高い不正行為によって入手されたものであっても、絶対的な私欲に、またははっきりと風紀を乱す方法で費やされたものであっても、単なる富に影響力と社会的地位を与えることほど、大きなスキャンダルや道徳的な悪弊はない。多くの点において、人類の道徳的進歩は疑いの余地のないものと思われるが、この点において、特にイングランドとアメリカの社会道徳が深刻に後退していないかどうかは、極めて疑わしい。

 

 実際、世の中に存在する膨大な量の本物の優しさや自己犠牲、さらにはヒロイズムを否定するのは、人間の本性に対する重大な侮辱である。一方、人間の自制心の嘆かわしい弱さや、純粋に邪悪な情熱が持つ大きな力と、広範な影響力を否定するのも、同様に根拠のないことである。人生経験が育みがちな人間の性質への不信は、一般に加齢とともに保守的な傾向が強くなる大きな原因の一つである。社会の諸要素を平和的な協力関係の下に統合するには、法律、慣習、宗教によるあらゆる束縛が不可欠であることがますます感じられるようになる。そして人々は、妄想が大いに混在しているかもしれず、純粋な理性のテストには耐えられない制度や見解を、それがただ良い習慣を深め、道徳的束縛に更なる力を与えさえするなら、より寛容な目で見るようになっていく。彼らはまた、理想を高く掲げすぎたり、人々の平均的な善良さのレベルを大幅に超えた行動を強要したりすることの危険性を理解するようになる。そのような試みが強制的なものになった場合、道徳にとって非常に有害が反動を起こらないことは稀である。他のあらゆる分野と同様、ここにおいても、現実の生活における妥協の重要性は、経験が与える偉大な教訓の一つである。

 

 

第八章

 

 道徳的妥協という言葉には邪悪な響きがある。またそれは非常に困難で危険な、実践的倫理という問題を提起する。しかしこれは、意識的にせよ無意識的にせよ、誰しもが向き合わざるを得ない問題である。このテーマに関して神学的定型句の硬直性と実生活との間のコントラストは非常に大きい。しかし実際には、決議論という学問を成り立たせている巧妙な区別立てによって、多くの神学者たちはそれを回避しようとしてきた。ニューマン枢機卿の印象的な一節はこのコントラストを最もはっきりと浮かび上がらせるものだろう。彼は書いている「教会は太陽と月が天から落ち、大地が衰え、その上にいるすべての何百万もの人々が、現世の苦しみが続く限り、極度の苦悶の中で餓死する方が、一つの魂が失われるよりも、などと私は言わない、たった一つの小さな罪を犯すよりも、誰も傷つけない嘘を一つつくよりも、貧者からつまらないものを盗むよりも良いと信じている。」[24]

 

 確かにこのような教義は、隠者の庵や修道院の外のいかなる生活とも絶対に相容れない結果を招くと言っても過言ではない。それは全ての文明の根幹を覆すだろう。そして多くの人々は表面的に同意しようとするかもしれない。しかし、実際には誰もその信念に人生を導く力があるとは信じていない。このテーマについては別の本で触れたことがあるが、そのときに書いた数行をここで繰り返そう。もし「疑いようのない罪は、たとえ些細なものであっても、その本質と結果において、言葉にできないほど恐ろしいものであって、罪を犯すくらいなら、罪を伴わないどんな災難にも耐え、人類全体が苦しみながら滅びる方がましなのであれば、人類の最高の目標は罪を犯さないことであって、そのための手段が欲望の絶対的な抑圧であることは明白である。欲望の輪を広げることは、必然的に誘惑を増やし、したがって罪の数をも増やすことになるからである。」この理論によれば、物質的、知的な利点も、人々の幸福の増大も、人生の苦しみや悲惨さの緩和も、それが犯される罪を少しでも、あるいは最も偶発的にでも増やすなら、それは悪以外の何ものでもありえない。「君主は、戦争の結果を決算するとき、戦争が引き起こしたたった一つの罪、負傷兵へのたった一つの冒涜、たった一つの鶏小屋の強奪、たった一人の女性の純潔の侵害は、自国の商業全体の破滅、最も貴重な地域の損失、すべての権力の破壊よりも大きな惨禍であると考えなければならない。軍隊の編成が必ずもたらす不貞の増加という弊害は、軍隊が回避しうるいかなる国家的、政治的惨禍よりも計り知れないほど大きなものであると信じなければならない。自分の土地を荒廃させる最も恐ろしい疫病や飢饉も、それが悪徳を抑制する上で最も弱く、最も一時的な影響しか及ぼさないのであれば、喜ぶべきことと考えなければならない。臣民が大都市に集まることで罪の数が一つ増えるだけなら、いかなる知的、物質的利益も都市建設が恐ろしい災難になることを防げない。この原理によれば、欲望を目覚めさせたり刺激したりする、人生のあらゆる苦心も、大人数が集まるあらゆる娯楽も、ほとんどすべての芸術も、あらゆる富の獲得も悪徳である。なぜならこれらはすべて何らかの罪の源泉になり、その利益はほとんどの場合純粋に現世的なものだからである。」

 

 このようなことを正しく理解するなら、私たちが公言している信念の多くは不誠実で非現実的なものであることがはっきりと浮き彫りになる。まともな人物であれば、公休日がなければ起こらなかったはずの酩酊事件が、かなりの数起きているというだけの理由で、公休日を禁止しようと考えることはないだろう。しかし、もし同数の死者や身体的惨禍が発生していたなら、人道的な立法者はそれを禁止することを躊躇わないだろう。このような物事の相対的な重要度の評価方法は、楽しみの源泉としての利益を上回る道徳的な害悪を生み出す娯楽が数多く存在するという事実や、道徳はより高いものであって、私たちの存在の支配的な部分でなければならないという偉大な真理が一般的に承認されていることと相容れないものではない。しかし人生の現実を、硬直した神学的定型句で判断することはできない。人生とは、さまざまな種類の利益が混在するのみならず、互いを修正し、ある程度相殺し合う場所である。また人生は常に境界線が明確に引かれていることが稀で、最高の利益でさえ、他のものを完全に吸収したり無視したりしてはならない、という妥協によってのみ継続できるものである。私たちが取り扱わなければならないのは、その論理的結末まで押し進めることができない優れた原理や、杓子定規の法律の下には置けない、さまざまな道徳的規範なのである。

 

 例えば、社交において慣習的な礼儀とされている、数多くの虚偽を見てみよう。その中のいくつかは単なる純粋な言い回しの問題であって、誰をも欺くものではない。他には主に依頼を断ったり、招待や訪問を辞退したりする際に、その理由が気乗りしないからなのか、不可能だからなのかを明らかにせずに、丁重に隠すことを目的とするものもある。有益な目的のための嘘もある。おそらく、本人を死に至らしめるであろうショックから患者を救う唯一の手段としての嘘を躊躇う人は稀だろう。犯罪者が目的を達することを防ぐ方法が他になかったなら、彼を欺くことを躊躇う人はいないと思う。また、自分が真実だと信じていることを隠したり、自分が虚偽と信じていることを黙認したり、あるいは公然と受け入れたりする場合もある。自分の信念を完全に正直に開示したなら、他人の幸福を破壊したり、他人の精神衛生にとって明らかに必要な信念を覆したりする可能性がある場合である。この種のケースは人生において絶えず起こるものであって、その都度そのケースに対処する善良な人物なら、おそらく自らの進路の舵取りに大きな困難を感じないだろう。しかし道徳的妥協の曖昧で揺れ動くラインを、その論理的帰結を完全に実行するための固定的なルールに落とし込もうとするなら、道徳的に重大な危険を冒さざるを得ない。目的は手段を正当化するという教義が、ニューマン枢機卿を大いなる誇りとする教会の決議論者たちによって、いかに極端な不道徳にまで押し進められたかを示すには、パスカル(*ブレーズ、1623―1662、哲学者)の不朽のページで十分だろう。

 

 戦争においては、道徳的妥協の大きく、困難な領域が提示される。そこでは必然的に道徳律の大部分が完全に停止されるからである。このことは不正な戦争のみならず、最も必要で最も正しい戦争にさえ、程度の差こそあれ当てはまる。戦争は単なる情熱のない辛い義務の遂行ではないし、そうではありえない。破壊的で闘争的な情熱―猟犬が狐を狩り立てて殺すときや、虎が獲物に飛びかかるときのような獰猛で悪意に満ちた情熱―を、兵士の大集団の中で激しく燃え上がらせることこそが、その本質であり、成功の主要条件なのである。破壊はその主目的の一つである。欺瞞はその主な手段の一つであり、巧みな用兵手腕の偉大な技術の一つは、滅ぼすために欺くことである。他のどんな要素が戦争と混ざり合って、戦争に威厳を与えたとしても、少なくともこの要素は決して欠かせない。そして人々はどんなに不本意に戦争に参加したとしても、どんなに良心的にそれを避けようと努力したとしとも、ひとたび殺戮の舞台の幕が上がったなら、こうしたことは受け入れられ、容認されるのみならず、刺激され、奨励され、拍手喝采されなければならないと思い知ることになる。勝利を導く炎と情熱に最も奮い立った兵士たちが、敵に銃剣を突き立てるために突進するときのものほど、キリスト教の理想は言うに及ばず、日常生活の道徳からもかけ離れた性質を想像することは難しいだろう。

 

 確かに戦争は、文明の現段階において絶対に欠くことができないものであるが、その道徳は平和な生活のものとは大きく違っている。しかし道徳的動機の圧力が、これほど大きな変化をもたらした分野は他にない。人類史の初期段階では、それは単なる力の問題だった。海賊行為と正規の戦争との間に区別はなく、理由もなく略奪だけを目的として隣国に侵入しても、道徳的に非難されることはなかった。征服された国の住民を奴隷にし、包囲された町の全住民を虐殺し、広大な土地ですべての町や村や家を破壊し、そしてすべての捕虜を死刑にするのは、戦争では普通のことだった。ギリシャ・ローマ文明の最盛期には、こうしたことが非難を受けずに行われていた。多くの場合、年齢や性別ゆえに容赦されることはなかった![25]ローマでは、征服された将軍はマメルティネスの牢獄で絞殺されたり、餓死させられたりした。何万人もの捕虜が剣闘士ショーで死ぬよう宣告された。ユリウス・カエサルは、その慈悲深さを大いに称賛されたが「「ウェネティの元老院議員全員を処刑し、ウシペテス人(*ライン川下流の部族民)とテンクテリ人(*同)の虐殺を許可し、ジェナブム(*現フランス中部)の原住民4万人を奴隷として売り払い、ウクセロドゥヌム(*現フランス中西部、最初に反乱を起こした)の町を最後まで守り抜いたこと以外に罪のない勇敢な男たち全員の右手を切り落とした。」[26]歴史上、「人類の歓喜」と呼ばれた将軍の下で、エルサレムで起こった虐殺(*73年、ユダヤ戦争)ほど恐ろしいものはない。抵抗の最後の痙攣が収まると、ティトゥス(*39―81、後に皇帝)はユダヤ人捕虜を男女とも何千人も地方の円形闘技場に送り込み、野獣に食い殺させたり、剣闘士として虐殺したりした。

 

 しかし非常に早い時期から、いくらか恣意的なものではあったが、軍事的道徳のルールには明確な線が引かれていた。ギリシャでは、対ギリシャ国家の戦争と対蛮族の戦争は明白に区別されていて、後者はほとんど道徳的配慮の範疇の外にあると見なされていた。この区別は実はキリスト教諸国が、キリスト教圏内の戦争と、野蛮人や異教徒との戦争との間で実際に、絶えず行ってきたものと大差ない。ギリシャ、そしておそらくより多くのローマ時代のモラリストたちは、戦争の正当な理由について数多くの著作を残している。その多くは、すべての不当な、侵略的な、あるいは不必要な戦争さえも非難している。その中の数人は、戦争を回避するために話し合い、あるいは仲裁さえする各国家の常の努力の義務を主張している。これらの勧告はキリスト教の神学者たちのそれと同様、しばしば背かれてきたが、何の影響力もなかった訳ではない。ローマ人の戦争はこの点において、キリスト教時代の戦争と比較したときに非難されるものではない、と言って過言ではないだろう。戦争の倫理に関する最も優れたキリスト教の著作の大部分が、異教徒の道徳学者の勧告に基礎を置いているのは驚くべきことである。また戦争の真の原因は古代でも現代と同様、しばしば口実とは大きく異なっていた。しかし戦争における正義の感覚は、ほとんどのキリスト教時代と同様、ローマ時代にもはっきりしていた。[27]

 

 戦闘開始前に正式に宣戦布告を行う義務は、非常に重視されていた。ポリュビオス(*BC204―125)は、この習慣を怠ったアイトーリア人がギリシャで非難されたことに言及している。それはローマ時代には普遍的なものだった。そして中世には敵対国に挑戦状を送る習慣が注意深く守られていた。現代では、正式な宣戦布告はすっかり廃れてしまった。エリザベス女王時代のイングランドとスペインの戦闘や、グスタバス・アドルファス(*1594―1632、スウェーデン王)によるドイツ侵攻は宣戦布告なしに始まった。またその後にもこうした事例は数多い。

 

 捕虜の扱いは大きく変わった。確かに近代の戦争において、反乱軍、反乱を起こした兵士、反乱を起こした奴隷、自ら慈悲を与えない野蛮人に対しては、慈悲を与えないことが非常に多かったのは事実である。1870年の(*普仏)戦争におけるフランスのゲリラのように、軍服を着ずに自分たちの母国を侵略から守ろうとした非正規兵に対しては、しばしば―おそらく一般的に―拒否されてきた。降伏の合意を拒んで防御不能な場所を守ろうとした兵士に対しては、長い間拒否されてきた。ただしこの苛酷さは過去三世紀にわたって広く非難されてきた。しかし全体として、敗北した側の兵士の待遇は着実に改善されてきた。かつては殺された。別の時代には奴隷として保護された。そして身代金を支払って自由になることが許された。今では交換されるか宣誓した上で釈放されるまで、あるいは戦争が終結するまで拘留されるだけである。今世紀後半には、病院の維持と負傷者の適切な治療のための、数多くの緻密で有益な規則が国際的合意によって承認された。市民と戦闘員との区別はますます守られるようになった。一般に非戦闘員は敵を妨害しない限り、戦費の支払いや、その他の方法で侵略者の生活の糧を提供する以上の損害を受けることはない。私有財産の理由のない破壊はますます回避されるようになった。ルイ14世のプファルツの蹂躙のような行為は、ヨーロッパの戦争においては今や誰もが非難するところだろう。しかし、わが国のインド辺境戦争における村落の全面的な破壊や、キューバの内戦で双方に用いられた方法は、これによく似ているように思われる。商人の扱いにおいては、マグナ・カルタで定められた相互主義のルールがほぼ守られておいる。また1874年のブリュッセル会議は、非要塞都市への砲撃は戦時国際法に違反すると宣告した。アメリカの巨大な内戦(*南北戦争)は、戦争における慈悲の水準を高めることに少なからず貢献しただろう。これほどの決意とともに、あるいはこれほど多くの人命を犠牲にして戦われた長い戦争は少ないが、これほど理由なき蛮行を慎んで行われた戦争は非常に少なかった。

 

 数多くの制限的な規則もまた、戦争の実際の運用を少しばかり緩和する傾向があるものとして受け入れられている。そして倫理的にも論理的にも、明確な原則に基づいて戦時国際法を整備することはできないとはいえ、それらはこの方面にいくらかの実際の影響を与えている。暗殺および暗殺の奨励、毒薬または毒入り武器の使用、宣誓釈放の違反、停戦旗または赤十字の欺瞞的使用、負傷者の虐殺、降伏条件またはその他の明確な合意の違反は絶対的に禁止されている。1868年、サンクトペテルブルクに集まったヨーロッパ列強の代表は、戦争における14オンス以下の破裂弾の使用の中止、戦争の道具として伝染病を敵国に拡げることの禁止に同意した。ここに、戦争の目的は敵を無力化することに限定されるべきであって、その目的のために必要な限度以上の苦しみを与える武器は禁止されるべきである、という一般原則が打ち出された。同時に破裂弾、隠蔽地雷、魚雷、伏兵は、完全に許可された戦争の手段である。飢餓を利用することも、水の供給を断つことも、絶対的な毒性のないものを混入して飲用を不可にすることで水の供給を断つことも許される。敵側からのものに見せかけた偽の通信で敵を欺くこと、電信を改竄すること、新聞で偽の情報を流すこと、スパイや偽の脱走兵に部隊の数や動きについての虚偽の報告をさせること、偽の信号を使って敵を待ち伏せに誘い込むことは許される。敵を欺く目的で敵の国旗や軍服を使用することについては論争があったが。しかし軍の上層部は支持している。[29]スパイの使用は完全に許可されている。しかし発見された場合、スパイは戦争の権利から除外され、不名誉な死を免れない。

 

 ここまで私が論じてきたものとは別種の、戦争に関する非常に難しい問題がある。それは軍務に就いた人々が、個人的見解を捨てることの正当性である。小国ではこの問題はさほど重要ではない。というのも、小国で戦争が起こることはごく稀で、通常は自衛のためのものだからである。大帝国では全く違っている。自国の統治者の徳に自信を持っていて、自国がその領土のあらゆる場所で未開人とも文明人とも行うすべての戦争が正義であって、必要なものであるなどと信じている人はいないだろう。また、人々が個人的に自分に何の悪事も働いていない人間を、上司の命令に従って問答無用で殺す生活を生涯、あるいは数年間、自らに絶対的に課すことは、確かに一見したところ理想的な道徳に反する。しかし、この無条件の服従こそが軍隊の規律の本質であって、これがなければ軍隊の効率と国家の安全は絶望的に破壊されてしまう。それは社会の大きな利益にとって必要なことである。そしてそれゆえに、誓約の義務によって強化され、人間を支配する最も強い拘束力の一つである名誉の規定によってさらに効果的に維持されるのである。

 

 しかし、これは完全に絶対的なものではなく、さまざまな区別や妥協がなされてきた。自国の軍隊に入隊する者と、外国の軍隊に永続的または一度の戦争の間だけ入隊する者との間には違いがある。人が自国以外の二国間の闘争に不必要に積極的に参加する場合には、少なくとも単なる冒険心や個人的野心ではなく、自分が支持している大義は正しいものである、という強く理性的な確信を動機としていることが求められるだろう。自国と敵対するかもしれない外国の軍隊に入隊し、少なくとも自分に対して何の自然な権限も持たない上官に絶対服従することを自らに課した人物の振る舞いは多くの非難を浴びてきた。しかし、ここでも特別な事情を考慮しなければならない。18世紀という、欠格法がアイルランド系カトリック教徒を宗教ゆえにブリテン軍や国内のほとんどすべての野心の道から排除していた時代に、彼らがフランス、オーストリア、スペイン、ナポリの軍隊にあふれていたことを真剣に非難する人はいないだろう。また兵役を義務づけられている兵士の立場と、入隊が任意である国の兵士の立場、さらには法を犯すことなく地位を捨てられる将校の立場と、重大な軍法違反を犯さずに軍旗を捨てられない兵卒の立場の間にも、おそらくいくらかの違いがある。アメリカ独立戦争が始まったとき、数人のイングランド軍将校は自ら正しいと信じない大義に奉仕するよりも、軍を去った。彼らには完全にそうする権利があった。しかし、法的な選択権がない一兵卒が彼らに倣って脱走兵になることなど、おそらく彼らの中の誰も望んでいなかっただろう。

 

 しかし、軍隊の宣誓に背いて、軍規に従わないことが正当化される極端なケースもある。フランスの歴史上、王位簒奪者やその手先が兵士に命じて国民の代表を威圧させたり、発砲させたりしたことは一度や二度ではない。このような場合、「兵士の良心は人民の特権(*liberty)である」と言われる。そして明らかに違法な命令に従うことを兵卒が拒否することは、例外なしにとは言えないが、一般的に称賛されるだろう。しかし、このような場合のすべてにおいて、その評価には多くの曖昧さと矛盾が伴う。ここにも、道義的責任は命令を下した者だけにあり、兵卒には発言権も責任もないというルール主張する人々がいる。一兵卒が、アンギャン公爵(*1772―1804、反革命の冤罪による)の処刑やナポレオン3世のクーデターに参加することを拒むべきだったのだろうか。上官の命令の合法性を疑ったなら、群衆に発砲することを拒否しなければならないのだろうか?このような場合、民法と軍法が直接衝突することがある。そして、兵士が後者によって絶対的に強制された行為について、前者で処罰されたこともある。[30]

 

 おそらく、不服従を正当化できる最も強力なケースは、兵士が自らの信仰に背く内容を含む命令を受けた場合だろう。しかし、ここでも純粋な理性に照らして、これを不正な大義のために罪のない人々を殺すよりも重大なこととは言い難いだろう。初期の教会には、武器を持つことは信仰に反すると考えたため、あるいは偶像崇拝の香りがする行為を命じられたために死ぬことになった兵士の殉教者が何人かいた。ディオクレティアヌス帝の治世に(*異教の祭儀を拒んで)殉教したとされるテーベ軍団の逸話は、信頼できる典拠に基づくものではないが、この問題に対する教会の感覚をよく表している。ヨセフス(*フラウィウス・ヨセフス、37―100、軍人、著述家)は、ユダヤ人兵士たちはいかなる罰を受けようとも、バビロンのベロス神殿の修復のために他の兵士とともに土を運ぶことを拒んだことを伝えている。16世紀の宗教戦争では、軍務と宗教的義務との間に葛藤が生じることが少なくなかったに違いない。また、今世紀の私たちの軍隊にも、宗教的動機から、インドで偶像崇拝の行列を護衛したり保護したりすることを拒否したり、カトリックの国々で聖体が通過する際に捧げ銃を拒否したりする兵士がいる。戦争に関するクエーカー教徒の見解は、ほとんどすべてのヨーロッパ諸国で普及している強制的な兵役とは完全に相容れないものである。またロシアのラスコリニク(*ギリシャ化したロシア正教会から分裂した民族的宗派)を公権力と衝突させた動機には、徴兵に対する宗教的な疑念が含まれていた。

 

 現代における義務の衝突の最も深刻な例の一つが、1857年のセポイの反乱である。クライブ(*ロバート、1725―74)の時代から、セポイの兵士たちは英国の旗の下で素晴らしい忠誠心を持って服務してきた。一つの例外は1806年のヴェロールの反乱で、1857年の反乱と同様、英国政府が自分たちの信仰に干渉しているという信念に由来していた。大反乱の歴史の中で、セポイ連隊のイングランド人指揮官たちが、兵士たちの変わらぬ忠誠心を深く信じていたのは最も感動的なことである。彼らの多くは、最後の瞬間まで、あらゆる証拠にもかかわらず、この信頼を捨てることを拒否し、この信頼ゆえに命を落としたのである。彼らは欺かれた。そしてその後の激しい憤激の中で、セポイ兵の行為は極悪な、最も理由のない裏切りの烙印を押されたのである。

 

 しかし、これほど真実ではない非難はない。煽動家たちが自分たちの利己的な目的のために軍隊に働きかけたことは確かである。しかし、最近の研究によって、反乱の表向きの原因ばかりではなく、本当の原因も油を塗った(*ライフル銃の弾丸の)カートリッジにあったことが完全に証明された。最近セポイ連隊に支給されたカートリッジには、牛脂と豚脂の混合物が塗られていたと信じられていた。この成分の一方はヒンドゥー教徒の目にはまったく不浄なものであり、他方はイスラム教徒の目にはまったく不浄なものだった。このカートリッジを噛んだなら、ヒンドゥー教徒のカーストは破壊され、現世と来世の両方において、彼にとって最も大切で最も神聖なものすべてを失うのである。モスリムとヒンドゥーの両者の目にとって、それは最も重大で、最も取り返しのつかない罪であり、来世におけるすべての希望を破壊するものだった。また彼らの信じるところによれば、この罪は軍事的義務として上官に強いられたものだった。まるで17世紀のピューリタンの兵士たちが、救済の望みを捨て、キリスト教の信仰を否定し侮辱するよう、指揮官に命じられたようなものである。

 

 新しいカートリッジにこれらの有害な成分が含まれていることが、厳粛に否定されたのは事実である。しかし、セポイの信念の真摯さは疑いの余地のないものだった。そして、総司令官のアンソン将軍は、その弾丸を検査した結果、それが非常にもっともなことであると認めざるを得なかった。[31]「カートリッジを見て、私は彼らの異議にあまり驚きませんでした、」と彼はカニング卿に書き送っている「まさかあれほど大量のグリースが含まれている、いやむしろ塗られているとは思いませんでした。弾を撃った後、マスケット銃の銃口はグリースで覆われてしまうのです。」

 

 残念ながら、事件はこれで終わりではない。事実関係においてセポイの信念は完全に正しかった、というのが恥ずかしくも恐ろしい真実である。ロバーツ卿の言葉を借りるなら「最近のフォレスト氏のインド政府の記録の調査によって、カートリッジの調製に使用された潤滑混合物は実際には不都合な成分である牛脂と豚脂でできていたこと、そしてこれらのカートリッジの製造において兵士の宗教的不利益が信じられないほど無視されていたことが明らかになった。」[32]これは確かに、セポイたちが想像したような、カーストを破壊し、彼らをキリスト教に改宗させようという英国当局の思惑によるものではなかった。それは単に、英国の行政官たちが自分たちとはまったく異なる信仰や性格のタイプに対処する際に、あまりにも頻繁に見せる無関心、無知、無能の甚だしい実例だった。彼らは、彼らにとって幼稚に見える信仰に何らかの深みがあるかもしれないとは思っていなかった。その結果、一時はインドにおける英国の政権を根底から揺るがすことになった反乱が起こったのである。 

 

 カウンポールの惨劇(*1857年の反乱で降伏した東インド会社側の捕虜が合意に反して殺された)は―たった一人の男に起因するものだったが―やがてイングランド国民からこの争いを正気で判断する力を奪い去り、無慈悲な闘争は当然、極端に残忍なものになった。しかしこのことを振り返って、正当化される反乱があるとすれば、セポイ部隊の反乱ほど強力に正当化できるものは他にあり得ないことを、イングランドの論者たちは屈辱とともに認めなければならない。

 

 私の読者の多くは「強いられた新兵」という優れた短詩をご存じだろう。ブラウニング夫人(*エリザベス・バレット、1806―1861)が、オーストリア軍に徴兵されてソルフェリーノで同胞と戦うことを強いられた若いベネチア兵を描いたものである。彼は元気よく前進して、イタリア軍の大砲に殺されたのだが、彼は自分のマスケット銃に装弾していなかった。このような人物や軍法違反は万人の同情を買うだろう。しかし、自らの意志で軍隊に入ったにもかかわらず、愛国心の名の下にその信頼と誓いを裏切る者たちに対しては、まったく違った評価が下されるべきである。アイルランドにおけるフェニアン運動(*独立運動を進めた秘密組織)において、陰謀家たちの主な目的の一つは、アイルランド人兵士を堕落させ、いつの時代にも多くの軍隊においてアイルランド人の特徴だった、軍人の名誉の意識を打ち砕くことだった。当時の陰謀に深く関与したある論者は「(離反の)流行は個人のみならず、中隊や連隊全体のものだった。軍のフェニアン全員を軍法会議で弾劾しようとしたなら、もし恐るべき反乱が起こって外国の侵略を招かなかったとしても、イングランドはパニックに陥っていたことだろう。」と豪語している。[33]

 

 私はこの言葉を真実として引用したのではない。それは大いなる誇張であって、アイルランド人兵士への大いなる中傷であると信じている。またウイスキーのグラスを渡されて、あるいは狡猾な扇動者の説得によって、フェニアンの誓いを立てるよう誘導された兵士たちも、実際に紛争が起きていたなら、全員ではないにせよ、そのほとんどが女王陛下の忠実な兵士であることを証明しただろうと私は信じている。しかし、このような軍事的義務違反を称賛に値するものと見なす道徳の倒錯は、オブライエン氏(*ウィリアム、1852―1928、政治家、民族主義者)のような論者に限ったことではない。その顕著な例が、最近のアメリカの伝記の中に見られる。初期のフェニアンの陰謀家の中に、ジョン・ボイル・オライリー(*1844―1890、詩人)という若者がいた。彼は正真正銘の熱心家で、本物の文筆的才能を持っていた。晩年、彼は非常に高名な人々の愛情と称賛を勝ち得た。そして、若さゆえの誤った熱意の結果だった過ちが、その通りに認知されていたなら、私はそれほど厳しい目を向けようとは思わない。しかし実のところ、彼は道徳、宗教、世俗の名誉のあらゆる健全な原則に照らして、最悪の不届きな行為によってその経歴をスタートさせたのである。誓いを立てたフェニアンでありながら彼がフッサール(*騎兵)連隊に入り、女王陛下の軍服を着て、忠誠の誓いを立てたのは、その信頼を裏切って、連隊の兵士たちを勧誘するというはっきりした目的あってのことだった。彼は発見され、懲役刑に処せられたが、ついにアメリカに逃れ、そこでフェニアン運動に積極的に参加した。彼の死後、その伝記は無条件の賛辞のトーンで書かれたが、伝記記者は、私が述べた事実を正直かつ完全に暴露している。本書には、米国で最も著名なカトリック神学者の一人であるギボンズ枢機卿による序文がある。読者はこの伝記が明らかにした重大な裏切りと偽誓を、至高の、霊感を受けた道徳の指導者であると公言する教会において最高の次の地位にある人物がどう評価したかを知りたいと思われるだろう。この序文には、オライリーが恥ずべき行いをしたとは一言も書かれていない。彼は「偉大で善良な人物」と評されている。そして彼の罪についての言及は次の言葉だけである:青年期に、彼はあらゆる歴史の中でも最も悲しく奇妙なロマンスである自国民のニオベー(*ギリシャ神話:子供を自慢したため神に子供を殺され、自分は石に変えられた女性)―すなわち祖国の過ちと嘆き―に心を痛めていた。大人になってからは、あえてその自由を願ったために、彼は自ら「冥府」と呼ぶ場所にいる、不運な重罪人、逃亡した受刑者になっていた…幼少期に彼の魂に植えつけられた神への信仰は、そこで不滅の花を咲かせ、その祝福された力で彼の全存在に充満し、彼の思想と行動に最も崇高な理想をもたらした…彼を養子にした国は、彼を生んだ国と争って、彼の人生の高潔さを証言している…私はこれらすべての声に自分の声を合わせて、彼の存在が世界をより明るくした、と彼らの名において言おう。」[34]

 

 

脚注:

 

[24]ニューマン著、「国教会の難点」、Newman's Anglican Difficulties, p. 190.

 

[25]フーゴ―・グローティウス(*1583―1645、法学者)著「法」Grotius, de Jure, book iii. ch. iv.この問題に関するユダヤ人の考え方については、申命記、2章34節、7章2節、16節、20章10―16節、詩篇137章9節、サムエル記上15章3節を参照。この件に関しては拙著「ヨーロッパの道徳の歴史」の中で、さらにいくつかの事実を紹介している。

 

[26]R.Y.ティレル、L.C.パーサー著「キケロの書簡」Tyrrell and Purser's Correspondence of Cicero, vol. v. p. xlvii.

 

[27]グローティウス著「戦争と平和の法」Grotius, de Jure Belli et Pacis. 参照。

 

[28]この件に関する多くの情報は「『ヨーロッパにおける国際法の歴史と根拠』の著者による、過去二世紀間のヨーロッパにおける様々な戦争の始められ方に関する調査」An Enquiry into the Manner in which the different wars in Europe have commenced during the last two centuries, by the Author of the History and Foundation of the Law of Nations in Europe(1805年)という驚くべき小冊子(ピットによって修正されたと言われている)に記載されている。

 

[29]ハミルトン・トヴィー(*1841―1889、軍人)著「戒厳令と戦争の慣習」Tovey's Martial Law and the Custom of War, part 2, pp. 13, 29.参照。旗の欺瞞的使用の顕著な例は1781年に起こった。イングランドがオランダからセント・ユースタティウス(*カリブ海の島)を奪ったとき、オランダの旗を港に掲げたままにしておいたのは、何も知らないオランダ、フランス、スペイン、アメリカの船舶を港におびき寄せ、拿捕するためだった。これは戦争の権利の範囲内のことだったと主張する戦時国際法の論者もいる。

 

[30]ジェームズ・フィッツジェームズ・ステファン(*1829―1894、法律家)著「刑法の歴史」Fitzjames Stephen's History of the Criminal Law i. 205.参照。

 

[31]フレデリック・スレイ・ロバーツ卿(*1832―1914、軍人)著「インドでの41年」Lord Roberts' Forty―one Years in India, i. 94.

 

[32]同書431ページ。

 

[33]「コンテンポラリー・レヴュー」1897年5月号。ウィリアム・オブライエンの記事「フェニアン主義は強大だったか? 」

 

[34]ジェームス・ジェフリー・ロッシュ(*1847―1908、ジャーナリスト)著「ジョン・ボイル・オライリーの生涯」Roche's Life of John Boyle O'Reilly(ギボンズ枢機卿による紹介付き)。この本の出版の後、ギボンズ枢機卿(*ジェームス、1834―1921)は「タブレット」誌に書簡を寄せている(1899年12月2日)。「レッキー氏の批評を読むまで、私はオライリー氏がフェニアンだったことも、英軍兵士だったことも、他の兵士の忠誠心をたぶらかそうとしたことも知らなかった。実際、今の今まで、私は自分が序文を書いたその伝記を一行も読んだことがないのだから…私が知っていたオライリー氏のアメリカに来る前の経歴といえば、正確には分からないが、何かの政治的犯罪のために祖国から流刑地に追放され、後に脱走したという漠然とした情報だけだった。」

 

 私はギボンズ枢機卿のこの告白を歓迎するが、彼が自ら紹介した書物に一瞥もくれず、若い頃から彼が無条件の称賛を捧げてきた人生の最も顕著な出来事についてまったく無知だったことには驚きを禁じ得ない。私は、彼がこの手紙の機会を利用して、アイルランドの同胞の間に広く蔓延し、彼自身の言葉がそれを助長しかねない、ある種の道徳的倒錯を非難しなかったことも残念に思う。アイルランド国民党の国会議員が、かつて志願兵として女王陛下に仕えたことを非難され、自分はエドワード・フィッツジェラルド卿(*1763―1798、軍人、アイルランド独立運動家、イングランド軍の従軍歴があった)とボイル・オライリーが着ていたコートを着ただけだと言って自分を正当化したのは、つい最近のことである。別のアイルランド国民党の国会議員は、ダブリンの市民集会で、聴衆の喝采の中、南アフリカ戦争では、英国の旗の下にいるアイルランド兵が、ボーア人ではなく英国人に発砲することを望むと発言した。

 

(*なお著者レッキーもアイルランド人である)

 

 

第九章

 

前の章では、一つの偉大で必要な職業に、道徳的妥協の要素がいかに大きく入り込まなければならないかを十分に示せただろうし、この職業につきまとういくつかの道徳的困難の性質を示せただろう。同じような例は、弁護人という職業にも見られる。適正な司法運営のためには、いかに欠陥があろうともすべての動機は、またいかに邪悪であろうともすべての犯罪者は完全に弁護されなければならない。そして、この義務はある人々に委託されなければならない。事件に決着をつけるのが裁判官と陪審員の仕事であるが、彼らがこの職務を果たすためには、双方の主張が最も強い形で彼らの前に提示されなければならない。これは社会の明確な利益の要求である。そして弁護人の行動を管理するため、職業上の名誉とエチケットの基準が設けられている。事実や法律の虚偽記載、文書の誤引用、個人的意見の強い表明、その他の評決を勝ち取るためのいくつかの手段は非難される。高潔な法律家が引き受けないケースもある。また稀に公判の途中で申立書を放棄する義務があると判断するケースもある。

 

 しかし、この職業が必要で名誉あるものだったとしても、理想的な道徳の厳しい規範とはほど遠い側面もある。弁護の達人が、ただ冷静沈着に事実と自分の主張を述べるだけに留まると考えるのは愚かなことである。彼は必然的に、自分の申立書にある主張が虚偽であることを知っていながら、それが真実であるかのように見せかけるため、あらゆる修辞と説得の力を駆使し、自ら感じていない熱意と自ら持っていない確信を装い、敵対者のあらゆる失策や遺漏と、不利な証拠を排除できるあらゆる専門的規則と、危険な論点をごまかし、不都合な事実を不明瞭にするか最小化し、敵対する証人の信用を失墜させるために、法律の機微と厳しい反対尋問が可能にするあらゆる手段を巧みに利用するだろう。彼は自分の主張を助けるあらゆる先入観に訴えるだろう。しばらくの間、彼は自らその成功を至上命題とする主張を自分と完全に同一視するだろう。また巧妙で雄弁な懇願によって罪を犯した者を処罰から救ったり、証拠に抗って評決を奪い取ったりしたときには、ぞくぞくするような勝利の興奮を覚えずにはいられないだろう。

 

 必然的にそのようなことにつながる職業が、多くの良心的な人々に疑念を抱かせたとしても驚くには当たらない。スウィフト(*ジョナサン、1667―1745、風刺作家)は非常に大雑把に、法律家を「支払われる報酬次第で、白は黒であって黒は白であることを、その目的のために増殖させた言葉を使って証明する術を、若い頃から仕込まれている人々」と表現した。アーノルド博士(*トーマス、1795―1842,教育者)は、弁護人という職業に対する嫌悪感、むしろ憎悪を何度も表明している。正義と悪を無差別に擁護し、多くの場合、真実を知りながら隠蔽する弁護人という職業は必然的に道徳の倒錯を招く、と彼は主張した。過度に潔癖な道徳の洗練に耽っているとは到底思えないマコーリー(*トーマス、1800―1859)は、英国で認められているこの職業のルールを見直して「ある供述を真実であるとただ信じているのではなく、真実であると知っていながら、陪審員にその供述を虚偽と思わせるために、詭弁、修辞、厳粛な誓約、憤怒の叫び、身振り手振り、表情の演技、正直な証人を恐怖させ、また当惑させるといった、できること全てを行うのは正しいのかどうか。」と問うている。ベンサム(*ジェレミ、1748―1832、哲学者)は、正直だが対立的な証人を反対尋問する際の「雇われた法律家」の常套手段をさらに強い言葉で糾弾した。そして、ウェストミンスター・ホール(*当時は貴族院が最高裁判所の役割を果たしていた)には一般的な生活の規範とは全く違った、真実と正義への愛を破壊する直接的な意図を持つ道徳規範があると宣言した。一方、ペイリー(*ウィリアム、1743―1805、神学者)は、作り事だったとしても「弁護人の自らの正義、あるいは自らの依頼者の主張の正義を信じるという宣言」は嘘ではないとしている。なぜなら誰をも欺いていないからである。ジョンソン博士(*サミュエル、1709―1784、文学者)は、ボズウェル(*ジェイムズ、1740―1795、ジョンソン博士の伝記記者)のいくつかの反論に答える形で長々と、しかし思うにいくらか詭弁を弄して、この職業を支持する主張を展開している。彼は言う「あなたは依頼人に対して自分の意見を偽っても、欺いたことにはならない。裁判官に嘘を言ってはならないが、自分が有罪と信じている事件を引き受けたり、自分が感じていない熱意を装うことを躊躇したりする必要はない。裁判官が判断するまでは、自分の主張が間違っているかどうかはあなたには分からない…自分が納得できない議論でも、裁判官を納得させることができるかもしれないし、もし裁判官が納得したなら、あなたが間違っていて、裁判官が正しいのである。あなたが依頼人のための熱意を装って報酬を得ていることは誰もが知っている。従ってそれは偽りではない。」バジル・モンタギュー(*1770―1851、法学者)このテーマに関する優れた論考の中で、有能な人物の対立的弁論によって真実が最も効果的に引き出され、争いのもつれが最も効果的に解かれるという印象ゆえに、弁護人とは単なる司法の運営を補助する係員であると主張している。彼は「本人が感じていない感情を公言し、間違いと知っている主張を支持するかもしれない」とはいえ、また彼の弁護は「行動していることを公言しない行動の一種」であるとはいえ、その最終結果において、真実の本当の利益のために行動している組織の不可欠な一部なのである。

 

 もちろん、クエーカー教徒の原則を採用して、すべての法廷への参加を非キリスト教的なものとして非難することは可能である。カトリック教会はこのような極端な立場を取ったことはないが、弁護人という職業と聖人的な人格にはどこか相容れないものがあることを直感的に認識していたようである。ルナンは、ブルターニュの聖人である聖イヴ(*1253―1303)が、聖人伝に登場する唯一の弁護人であって、彼の祭りに参拝者が「泥棒ではなく弁護人―人々にとって驚くべきことAdvocatus et non latro―Res miranda populo」と歌う習慣があったという重要な事実を指摘している。この分野に多大な道徳的な妥協が必要なことは明らかである。そして実にさまざま善悪の基準が用いられてきた。例えば法律家は、自分が正しくないと信じる主張をどこまで支持してよいのだろうか。[35]古代の法律には、弁護人に不当と思う、あるいは不当であることを知った主張を弁護しないことを誓わせるものがあった。[35]聖トマス・アクィナス(*1225―1274、ドミニコ会士)は、不当な主張の弁護を引き受けるあらゆる法律家は重大な罪を犯しているのである、と強い言葉で言い切った。悪事を働いている者に協力することは不義であって、弁護人は明らかに、自分が引き受けた主張の持主に助言を与え、助けているのである、と彼は主張する。現代のカトリックの決疑論者も同じ精神でこの問題を扱っている。彼らは弁護人が、すべての情状酌量の余地を明らかにするために、有罪と知っている犯罪者の弁護を引き受けることは認める。しかし民事の主張については、弁護人は事前の慎重な検討によって、それが正当なものであると確信しない限り、引き受けてはならないこと、自分が不当であると知っているか、不当であると強く信じている主張を引き受ける弁護人は罪を免れないこと、もしそうしたなら、彼の良心は彼の弁護によって損害を受けた人々に賠償する義務があること、裁判の過程で、自分が正義だと信じていた主張が不当であることを発見した場合、依頼人を説得して止めさせるよう努めなければならず、これに失敗した場合は、自分が到達した結論を相手方に知らせないまでも、自らその主張を捨て去らなければならないこと、裁判中に隣人の評判を傷つけたり、裁判に無関係で本質的でもない相手方の悪行を提示して裁判官に影響を与えようとしたりしてはならないことを強く主張している。[36]最近のことだが1886年にはローマ教皇の明確な承認の下に、カトリック教徒が市長であれ裁判官であれ、離婚裁判に参加することを禁じる命令がローマから出された。離婚は教会によって絶対的に非難されているからである。[37]

 

 弁護人たちが、自分たちが正しいと信じる案件だけを取り扱おうとしたことは、昔もあったし、おそらく今もあるだろう。マシュー・ヘイル卿(*1609―1676、法学者)はその顕著な例だが、彼はこの件に関する自分のルールをかなり緩和したことを認めている。一見、とても無価値に見えたが、実際には十分な根拠を持っていた裁判を二つ経験したからである。一般的なルールとして、英国の法律家は、よほど不当なものでない限り、申立書を受理する際にこのような理由で差別をすることはない。また非常に極端な場合を除いて、一度受理した申立書を破棄して依頼人に大きな損害を与えることもない。彼らは、このように行動することが、長期的には司法の運営に最も有用であると主張し、この事実によってそれを正当化している。

 

 裁判の運営には、名誉ある戦争と不名誉な戦争の区別に似たルールが存在する。しかし、それはより不明瞭にしか定義されておらず、より一般的に受け入れられているわけでもない。刑事訴追において、検察官と弁護人の間には、非常に説明が容易だが、注目に値する違いがある。前者のエチケットは、真実だけを目指すことを義務として、被告に不利な点を強調したり、有利な事実を隠したり、自分自身が正しいと信じない議論を用いたりしないことである。しかし職業上のエチケットに従うなら、弁護側はそのようなルールに縛られない。彼は邪悪なものと分かっている議論を用いたり、依頼人に不利になる事実を厳密な法解釈による反論で隠したり、締め出したりするだろう。そして、いくらかの大雑把で漠然とした制限に従いながらも、彼が第一目標にしなければならないのは依頼人の無罪放免である。[38]

 

 極度に困難な事件が起こることもある。最もよく知られているのは、1840年にウィリアム・ラッセル卿を殺害したスイス人従者クルボアジェの事件だろう。裁判の過程で、クルボアジェは弁護人のフィリップスに自分が殺人犯であることを告白したが、同時に最後の最後まで弁護を続けるよう指示した。殺人がこの家で寝泊まりしていた誰かによって行われたに違いないという圧倒的な証拠があったため、唯一可能な抗弁は、他にこの家に住んでいた家政婦とコックも同程度に疑わしいということだけだった。裁判の初日、フィリップスは依頼人が有罪であることを本人の口から聞く前に、殺人の第一発見者である家政婦を大変厳しく、そして明らかに彼女に疑いをかける目的で反対尋問していた。さて、彼はどうするべきだろうか?ある著名な裁判官が、この裁判を審理する裁判官たちとともにベンチに座っていた。フィリップスはこの裁判官を彼の秘密に引き込んで、秘かに事実を話し、助言を求めた。裁判官は言い放った。フィリップスには弁護士に見捨てられたら裁判が絶望的なものになる被告の弁護を続ける義務がある。そして彼を弁護する中で証拠から生じる全ての公正な議論を用いなければならない。フィリップスの演説は、並外れて困難な状況下における雄弁の傑作だった。その大部分は、検察側の証人の信憑性に異議を唱えることに費やされた。彼は厳かに宣言した。誰が殺人を犯したかを言うのは自分の仕事ではない、この家にいる他の使用人たちに非難を浴びせようとは思っていない、この件に関して個人的な意見を差し挟むことを堅く慎む。しかし彼の議論の趣旨は、クルボアジェは陰謀の犠牲者であって、警察が彼の衣服の中に疑いを招くような物品を隠したのである、また彼に対する嫌疑を他の使用人に対する嫌疑と区別する明確な事情はない、というものだった。[39]

 

 この事件におけるフィリップスの行為は、事実が判明した時点で専門家以外の世論によって広く非難されたにもかかわらず、専門家の間では正当化する意見が優勢だったと私は信じている。一部の法律家たちは弁護の義務を論点に押し上げて、同業者からも多くの反発を買った。貴族院でキャロライン王妃(*アメリア・エリザベス・オブ・ブランズウィック=ウォルフェンビュッテル、1785―1821、ジョージ4世の王妃、離婚を求める王から迫害を受けた)を弁護する大演説を行ったブルーム卿(*ヘンリー、1778―1868、大法官)は言った「弁護人は、依頼人に負っている神聖な義務によって、その職務を遂行する上でこの世にたった一人の人間しか知らない―それは依頼人に他ならない。あらゆる好都合な手段を使って依頼人を救うこと、あらゆる危険と犠牲を払って他の何よりも、とりわけ自分自身よりも依頼人を守ることは、彼の最も高く、最も疑いようのない義務である。そして、自分が他の誰かにもたらすかもしれない警戒心、苦痛、苦悩、破滅を気にしてはならない。いや、愛国者の義務さえも弁護人の義務から切り離し、必要ならば風に任せて、不幸にも依頼人を守るために国を混乱に巻き込むような羽目になろうとも、結果を顧みず、突き進まなければならない。」

 

 この理論は、何人かの高名なイングランドの法律家に強く否定されてきた。しかしこの職業は、実践的にも理論的にも、法廷、時代、国によって大きく異なっていた。例えば、反対尋問において、正直ではあるが臆病で不器用な証人を威圧したり、困惑させたりすること、また裁判のテーマとはまったく関係ない若い頃の道徳的スキャンダルを掘り起こして、証人が提示する明白な事実の証拠の信用を傷つけようとすること、このような反対尋問によって、自分の過去は非難を免れないと自覚している証人を証人席から締め出すことはどの程度まで許されるのだろうか。本質的正義に対抗して、法的専門性を押し通すことはどこまで正しいのか、あるいは許されるのか。おそらくほとんどの法律家は、完全に率直に言えば、こうしたことは彼らの職業上ある程度避けられず、本当の問題は程度の問題であり、従って明確な定義は不可能であるということに同意するだろう。世の中には法律の精巧さや専門用語に熱中するあまり、それが導く予期せぬ、あるいは意図しない結果を喜ぶ種類の心理がある。あるイングランドの裁判官が、亡くなって久しい別の裁判官は、この感覚ゆえに不正義に積極的な喜びを感じていたと言うのを聞いたことがある。この国の人物ではないが、ある法律家は、起訴状の法的な瑕疵を発見して、自分の国の犯罪者の有罪判決を覆すことが快感であると私に告白したことがある。法律文書の日付が「私たちの君主の治世の第何年」という定式の代わりに西暦になっていたため無効になったケースや、詐欺師の逮捕のために発行された令状に書写役が「州長官」ではなく「州長官たち」と書いたため獲物を持ち逃げされたケース、遺言者の意思を示す可能な限り明確な証拠が提出されていたにもかかわらず、不動産譲渡取扱人の単なるミスで遺言状の重要な一語が抜けていたため、年間1万4,000ポンドの収入がある地所を失った女性のようなケースを喜ぶ心理もある。[40]このような法律家は、遺言では「真の問題は遺言者の意図ではなく、遺言状の言葉の意味である」と主張し、たとえ特定のケースにおいてそれが重大な不正義につながろうとも、法律の文章と専門用語に厳格に固執することは利益のバランスに適っていると主張する。

 

 実際、19世紀に至るまで、この職業について最も専門的な見解を持っていた法律家たちが、完全にこうした精神に則って行動していたことは認めなければならない。今世紀半ば近くまで、英国の立法と行政の中で、民法と刑法、特に大法官府裁判所を運営する部門ほどスキャンダラスなまでに悪しきものは数少なかった。この分野の全体に、不明瞭で、難解で、古めかしい専門用語の網が掛っていた。それはコストを積み上げ、決定を先延ばしにし、最も単純な法的手続きさえ訓練された専門家の力なしには完全に不可能にし、詐欺と正義の回避や敗北に無限の便宜を与え、しばしば法的事件を本物の事実よりも偶然や技量の方がはるかに大きな力を持つゲームに変える以外には、何の役にも立たないものである。ブルーム卿がイングランドの法律の大部分を「悪知恵と圧制の手に握られた両刃の剣」と評したのは、おそらく誇張ではなかっただろう。また1839年には、ある大法官府の法律の権威が、「現状では、断固たる敵対者がいる場合には、いかなる人物も、その終了時に自分がまだ生きているという合理的な見通しとともに、大法官府の訴訟を始めることはできない。(*とても時間がかかる)」と宣言した。[41]

 

 このような制度を運営するのは道徳的に非常に困難なことである。そして多くの場合、イングランドの陪審員たちはこの制度を取り扱う際に、荒っぽく手早い自らの道徳規範を用いた。彼らは示された法律に従い、提出された証拠に従ってすべての事件を判断することを誓っていたにもかかわらず、実質的不正義につながるような法的専門性に従うことをしばしば拒否した。そしてさらに頻繁に、そうすることによって被告が野蛮な、過剰な、あるいは不当な刑罰を受ける場合には、証拠に従った評決を下すことを拒んだ。英国法の最悪の乱用のいくつかは、その実施を拒んだ陪審員の偽誓によって緩和されたのである。

 

 過去半世紀の大改革によって、こうした悪弊はほとんど取り除かれ、同時に、より広範で公正な精神が法の実際の運用に導入された。しかし現在でも、実質的な正義を重視するか、法的専門性を重視するかが、裁判官によって大きく異なっていることがある。また現在でも、陪審員裁判の利点の一つは、男らしい常識や、専門家ではない人々の素朴な正義感を、それがなければ巧妙で細かな区別立てによってしばしば歪められてしまう領域に持ち込めることである。しかし法曹界では、最も困難な道徳的問題は、裁判官の立場より弁護人の立場で生じることがはるかに多い。無節操な弁護人と、高い名誉心と道徳観を持った弁護人との違いは非常に明らかある。しかし、最良の場合でも、この職業には非常に敏感な良心が尻込みするようなことが多々あるはずであり、長い目で見ればその存在とその所定の行動様式が公正な司法運営に不可欠であるという理由以外では、とても正当化できない数多くの言動があるに違いない。

 

 同じ推論方法が、人生の他の大きな分野にも当てはまる。政治において、それは特に必要である。自由主義国において政党政治は、公務を遂行する唯一の方法ではないにせよ、最良の方法である。しかし、大量の道徳的妥協なしに、頻繁な個人的判断と意志の放棄なしにそれを行うことは不可能である。善良な人物ならば無私の動機から、またその政党が国にとって最も有益な政策を代表しているという堅固で正直な確信によって自分の政党を選ぶだろう。彼は重大な局面において党派からの独立を主張することがあるだろう。しかし殆どの場合、たとえ党派が自分の意見といくらか相容れない道を行こうとも、彼は彼らともに行動しなければならない。

 

 政治に積極的に携わる人物なら誰しも―特に庶民院議員なら誰しも―個人の意見の絶対的な独立性を極限まで押し進めるなら、政治的無政府状態が生じることを理解しているはずである。複雑な法案において、多数者の独立的な意見が完全に一致することは不可能である。政党政治を続けようとするなら、内閣でも議会でも、絶え間ない妥協が必要になる。その成功の第一条件は、政府が安定した、永続的な、統制された支持基盤を背後に持っていることである。そしてこれを達成するために、個々の議員はほとんどの場合、自分の党派に同調して投票しなければならない。時には、自ら悪しきものであると知っている法案に賛成しなければならないこともある。なぜなら、その法案が否決されたなら、必然的に政権交代が起こり、それは法案を受け入れるよりもさらに大きな害悪であると信じるからである。そしてこの弊害を防ぐために彼は自分が真実であると信じる文言を含む決議案に直接の反対票を投じなければならないかも知れない。同時に、彼が正直な人物であれば、単なる党派の奴隷にはならない。時に、彼が何よりも重要と考える問題が生じたなら、党を離脱して、それを押し進めるか、打ち負かすためにあらゆる危険を冒して努力することがある。もっとよくあるのは、投票を棄権するか、個々の問題について政府に反対票を投じることである。しかし、彼がこのような行動をとるのは、それが政治的に深刻な問題を引き起こすことのない、単なる抗議であることが分かっている場合に限られる。ほとんどの重要な法案において、与党内には反対を唱える少数派が存在する。そしてそれは独立的な意見を代弁し、対立を和らげ、少数派を満足させ、意見の相違を穏やかにする修正や妥協を法案に持ち込むという、最も有益な力を持っていることが多い。しかし与党の行動は、その案件の価値についてのシンプルな考察以外の数多くの動機に支配されている。彼らは自分たちが真実だと信じるすべての決議案、自分たちが正しいと信じるすべての法案やその条項に賛成票を投じなければならず、自分たちが反対の判断を下したすべての法案や条項、決議案に反対票を投じなければならない、と言うだけでは十分ではない。時には、内輪でその法案の提出を阻止しようとすることもあるが、いざ提出されれば、積極的にそれを支持するか、少なくともそれに対する抗議を控えることを自分たちの義務と感じるだろう。反対票を投じたり、投票を棄権したりすることもあるが、それは多数決で可決されることが確実な場合に限られる。時に彼らの行動は取引の結果のことがある―彼らはより重要と考えている別の譲歩を政府から引き出し、反対している法案の一部に賛成票を投じるのである。彼らの反対行動の性質は、政府の強さや弱さ、多数派の規模、内閣の交代が国の全体的政策に与える影響の度合い、彼らが反対している法案が最終的に廃案になる可能性、あるいは別の年に改良されるか、より危険な形で復活する可能性に大きく左右される。その大きさや程度、後々の影響といった問題は、常に人々を揺り動かす。法案はしばしば、それ自体の本当の価値ゆえではなく、その法案が確立するかもしれない前例や、その法案から発展するかもしれない、あるいはその法案によって正当化されるかもしれない他の法案ゆえにしばしば反対を受けるのである。

 

 与党の一部が、自分たちが非常に重要だと考えている問題に関して、政府の政策に強い不満を持っているのは稀なことではない。彼らは自分たちが直接反対してもいかなる成功も得られないことを知っている。しかし彼らの不満は他の、票がより均等に割れている政府提出の法案に現れるだろう。彼らはその法案に反対するかも知れない。より多くの場合、採決を徹底的にボイコットするか、党への揺るぎない忠誠心があればしないような方法でその法案について独自の判断で動くだろう。またこれは単なる復讐ではない。彼らが最重要と考える事柄について譲歩を得るために、政府に圧力をかける手段である。また彼らは政治的同盟によって支持者を得ようとするだろう。議会政治において、アメリカ人が丸太転がし(*別々の私的法案に関心を持つ議員たちが、自分も同じ援助を受けることを条件に、それぞれ他の議員の法案を支持すること。)と呼ぶ取引ほど危険で、腐敗につながりやすいものはほとんどない。しかし同僚から、あるいはおそらく敵対者から、自分が最重要と考える問題について援助を受けたメンバーが、自分の感覚や意見が強く反映されない場合に、その援助を返そうとすることは避けられない。

 

 さらに、議会政治において妨害が果たす大きな役割についても考えなければならない。異論が多い法案の審議を妨げるためだけのために、ほとんど誰も反対していない法案がとてつもなく長く討論されることがよくある。反対票を投じることで法案に反対できる。しかし遅延を意図したり、修正案や演説を何度も繰り返したり、立法府を混乱させるさまざまな手段を使えば、はるかに効果的に反対できることが多い。その導入を阻止することはできないが、政府または議会が意見を述べないこと、あるいは少なくとも直接の意見を述べないことが望ましいと考える数多くの法案がある。公言されず、表には出されていないが、実際にはっきりした目的を持って、投票や、それらの法案に対する内閣の宣言を阻止するために数多くの方法が用いられている。議会が、ある提案の理論的な正当性を十分に認めているにもかかわらず、立法化の機が熟していないと考えることがある。このような場合、法案はおそらく第二読会を通過するだろう。しかし賛成票を投じた人々の一部の黙認、共謀、あるいは実際の支援によって、委員会で妨害、遅延、あるいは否決されて、院外の支持者たちを憤慨、驚愕させることになる。一部の議員たちにとっては、便宜的な妥協が許されないほど神聖な原則に関わる法案が存在する。しかし、ほとんどの法案は妥協の余地があると見なされ、ここまで述べてきたような数多くの動機の下に可決され、廃案にされ、あるいは修正されるのである。

 

 このような不思議で不可欠な政党政治の仕組みはすべて、気高く純粋な公的義務感と共存するものである。そしてそのような意識が命綱として、他のすべての動機よりも優位を占めていないなら、必然的に政治生活は傾く。同時に、非常に厳格で融通が利かない性格の持ち主ならしり込みするような多くのこともしなければならないのは明らかである。政府が間違っていると信じているときでもそれを支持し、正しいと信じているときでもその法案に反対し、単なる口実である言い逃れや、はっきりと公言されていない根拠に基づく遅延を黙認することも、時には、そして実際に稀なことではないが、議会の義務である。国会議員はしばしば、自分は軍隊の最下級の兵士やゲームのプレイヤー、あるいは法的訴訟の弁護人のような立場にいると感じるはずである。多くの問題において、各政党は国内の特定の階級の特別な利益を代表し、擁護している。世論を二分するような、もっともらしい二つの代替案がある場合、野党はその立場上、政府が採用しようとする案に対抗する案のメリットを主張しなければならない。理論的には、これまで言われてきたように、議会で最も有能な人々が二つのグループに分かれ、一方は政府を遂行する義務を負い、他方はその任務を妨害し反対する義務を負って、膨大な数の互いに関連のない問題について、非常に有能な人々の二つの大集団が、同じ事実と議論を前にして、習慣的に正反対の投票者控室に入るような政治システムほど、不合理に思えるものはない。しかし実際には、大政党による議会政治が十分に理解され、実践されている国々では、あらゆる政治的意見の多様性を代表し、人物や法案に対する絶え間ない監視と批判を確保し、社会に拡大する危険な風潮が公衆に害を及ぼさないための安全弁を形成する上で、これは見事に効果的であることがわかっている。

 

 しかし、これは絶え間ない妥協によってのみ達成されるものであって、長い国民的経験なしに成功することは稀である。党派は存在しなければならない。それは良い政治の条件として維持されなければならないが、公共の利益に従属しなければならない。そして多くの場合、公共の利益のために棚上げされなければならない。最も重大な危険を伴うことなしに党利党略の土俵に持ち込めないテーマがある。インド統治はその顕著な例である。そして外交政策を完全にその外に置くことはできないにしても、党派的に扱うことの危険性は極めて大きい。数多くの異なる種類の政策が、庶民院の両側のフロントベンチ(*最前列に座った議員たち)の同意の下に実施されている。対立する政党の党首同士が、多くの問題に関して誠心誠意で団結していることは、議会政治の成功のための最も大切な条件の一つである。野党党首は、前面に出すべき質問と、差し控えることが公益に適う質問を差配する発言力を持っていなければならない。彼は政府に対して組織された反対派の公式のリーダーでありながら、多くの問題で政府にとって最も強力な味方なのである。彼は頻繁に彼らと内密の関係を持たなければならない。また彼の最も有用な役割の一つは、党の一部が公共の利益を危うくするような手段で党の利益を掠め取ろうとするのを阻止することである。国が良く統治されるためには、その政策に多くの継続性がなければならない。行政の一定の条件と原則は、強固に維持されなければならない。そして国家の非常時にはすべての党派が団結しなければならない。

 

 政党政治の根幹に関わる問題でも、ある程度の妥協がなされるのが普通である。討論は見解のみならず、代替案や妥協案も引き出す。そして賛成多数で可決される法案に少数派の行動の痕跡がはっきり残っていないことは稀である。戦線はあるときは一方へ、またあるときはもう一方へと、常に動いている。そして(通常は論理的な整合性はあまり考慮されることなく)さまざまな対立感情がある程度満足させられる。もし党派の境界線が強固に引かれていて、もし多数派がその力の完全な行使を主張するならば、議会政治は最悪の独裁政治と同じくらい圧倒的な専制政治になりかねない―おそらく、分割されることで責任の感覚が消滅した専制政治は、より危険なものになるだろう。一方、個人の意見に許される自由の範囲が大きすぎると、議会は必然的に集団に分裂してしまう。そして議会政治はその美徳の多くを失ってしまう。少数派が連携することでいつでも内閣を転覆させることができるようになれば、政府の力全体が失われてしまう。特定の部門との取引を買収する誘惑は非常に増大する。そして双方のフロントベンチの支配力が低下すると、責任感が薄れ、暴力的でエキセントリックな誇張された意見の影響力が増大する。野党の政策は、野党の最も重要な人物、とりわけ公職を経験しその責任を負ったことのある人物、そして再びその責任を負う可能性があることを知っている人物によって導かれることが、最も重要である。しかし、党内における個人の意見や表現の健全な自由の範囲は、現在私たちが検討している多くの事柄と同じく程度の問題であって、はっきり明確に定義することはできない。

 

 これとは少し性質が異なるが、重大な道徳的考慮を要する問題が、議員と選挙区民との関係から生じる。小さな行政区が求めによって公然と購入されていた(*腐敗選挙区)時代には、購入する議員に判断に完全な独立性が与えられるという理由で、この方法が擁護されたこともあった。ロミリー(*サミュエル、1757―1818)とヘンリー・フラッド(*1732―1791、アイルランドの政治家)は、このような独立性を確保するという明確な目的を持って議席を購入したと言われている。バークの政治哲学において最も強調された理論は、国会議員は代表者であって委任者ではないこと、有権者のために時間を割いて奉仕する義務を負うのみならず、独立した自由な判断力を行使する義務を負うこと、有権者の全体的な政治的傾向を反映しながらも、自らを単なる口利き役に貶めたり、個々の法案について自分が進むべき道を規定する拘束的な指示を受け入れてはならないということ、選挙後は自らを特定の地域の代表ではなく帝国議会の議員であると考え、地域的な特定の利害を国民全体の、より広範で一般的な利害に従属させなければならないということである。

 

 現代の政治状況は、この判断の自由を大きく狭めている。ほとんどの選挙区では、議員は具体的な施策に関する多くの公約に縛られて議会に入ることしかできない。そして政策の節目節目で選挙区民の一部が彼の行動を指図しようとする。当然ながら、彼は選挙に先立って、ある種の大雑把で全体的な公約をしている。彼は政府の支持者または敵対者として選ばれる。彼はある大まかな方針の信奉者であることを公言する。そしてまた、彼の選挙区で支配的な階級や産業の利益や、特徴的なタイプの意見を特別に代表する。しかし、選挙中でさえ、選挙民が大きな関心を寄せている特定の問題に関して、彼と彼らの意見は違うこと、それにもかかわらず選挙民が彼の選出に同意していることに彼はしばしば気がつく。そして長い会期の間には予測されなかった別の事がとても頻繁に起こるのである。政治的な変化は、選挙の時点ではとても問題になりそうにもないと思われていた事柄を前面に押し出したり、新たな問題を生じさせたり、予期せぬ党派の連携や展開、意図を生じさせたりする。このような場合、議員は選挙民の大多数とは異なる考えを持つことがしばしば起こる。そして彼は自分の判断をどこまで選挙民の判断に捧げなければならないか、選挙民の票が与えた影響力をどこまで行使し、選挙民の意向や、おそらくは選挙民の利益に反する行動をとってよいかという問題に直面しなければならない。例えば、ブリストル選出の議員だったバークは、アイルランドとの自由貿易の容認を支持することが自分の義務であると考えていた。しかし彼の選挙民たちは商業の制限と独占に強い関心を持っていた、あるいは持っていると思われていた。現代でも、ランカシャー州の製造業地区で選出された議員が、インドのライバル製造業に壊滅的打撃を与えたり拡大したりする法案、非常にいかがわしい侵略的な方法で遠くの土地に新市場を開拓するための法案、あるいは地域の製造業における児童労働を制限する法案に賛成するよう、突然求められることがある。そしてこのような議員たちはしばしば、正しい道は、選挙民の大部分にとって極めて不愉快な道であることを信じてきた。

 

 また時に、ある議員が純粋に世俗的な争点ゆえに選出されるが、国会の途中で、時折イングランドで起こりがちな激しい宗教的感情の突発的な嵐が全土を覆い尽くし、彼は選挙民の大部分は自分への共感を完全に失くしている、と気づくことがある。また、彼が議会入りして支持しようとした党派が、重大な問題に関して、彼が重大な間違いと信じている政策路線を進むことがある。そのとき彼は部分的な、あるいは完全で辛辣な反対派に回ることさえある。この種の争いは、その議員に何らかの利己的動機が働いた疑いがない場合でも、しばしば生じている。このような場合、彼は議員を辞職し、選挙民に再選を求めに行くことがある。あるいは、次の選挙まで議会にとどまる場合もある。しかし、それぞれのケースは個人の判断に委ねられるべきであり、明確で揺るぎない道徳的な線を引くことはできない。議員は自分自身の目と、自分が代表する人々の目に映る、係争中の問題の大きさ、その性質が恒久的なものか一時的ものか、自分の意見に反対する多数派の数と重み、解散によって選挙区民と対面するまでに経過しそうな時間の長さなどを考慮する。彼が緊急性や重要性がそれほど高くないと考えた問題については、自分の意見を選挙民の意見に従わせるか、少なくとも投票や自分の意見を主張することを差し控えるだろう。より重大な問題については、おそらく議席を捨てるという極端な手段を取ってでも、果敢に不人気に立ち向かうことが彼の義務である。

 

 国会議員が、それが否決されればより大きな弊害が生じるという理由で、自分が絶対的に悪いと信じている法案を支持する義務があると考えるケースは、幸いにもそれほど多くはない。投票や本当の意見の表明を控えることで、彼は多くの道徳的困難から逃れることができる。またほとんどの法案は、善と悪の要素が組み合わさった複合的な性格のものであって、ある程度は切り離すことができる。このような法案では、一般原則を受け入れつつ、特定の細部には反対することがしばしば可能であり、妥協や修正の余地はかなりある。しかし、国会議員が実際には何の知識も信念も持ち合わせない法案に投票せざるを得ないケースは非常に多い。非常に複雑で専門的な性格を持ち、彼が経験したことのない生活の部門に影響を与え、偉大な国民の莫大な産業、利益、境遇に関連する法案の山が、ごく短時間のうちに彼の前に持ち出される。どんなに強力な知性も、どんなに偉大な勤勉も、これに打ち勝つことはできない。単なる即席の知識、短い討論を聞くこと、新しいテーマについての国会議員の短い勉強が、彼の能力をその問題に生涯の知識や経験を活かせる人々と本当の同レベルにまで押し上げることは、まったく不可能である。

 

 国会議員になれば、すぐに自分が熟練するべき一群のテーマを選ばなければならないこと、一方で他の多くのテーマについては、自分の党派に盲従して投票しなければならないことに気がつくだろう。会期中に二つか三つの極めて重要な法案については、議会も国民もそれを判断する十分な能力を持つようになる。そしてそのようなケースでは、議論に勝つことが大きな重みを持つようになる。強力な内閣や強力に組織された政党なら、そのような法案でさえ可決するかもしれないが、修正や変更を受け入れざるを得ないだろう。そして、もし彼らが自らの政策に固執するならば、議会と国内における彼らの立場が遅かれ早かれ変化することは避けられない。しかし、多くの法案はより限定的な関心しか持たれず、広く理解されることはずっと少ない。庶民院は専門知識に富んでおり、議員の何人かが十分に理解していないようなテーマがそこに持ち込まれることはほとんどない。しかし膨大なケースにおいて、問題に決定を下す多数派は最も浅薄な知識に基づいてそれをせざるを得ないのである。議員が彼にとって必要な知識を得ることが物理的に不可能な場合も非常に多い。最も重要で詳細な調査が、彼が所属していない上の階の委員会で行われていたり、討論が行われている間、彼は議会の大事な用件で別の場所に引き留められていたりするのである。そうでないケースでも、すべての討論を理知的にこなせるだけの体力や精神力を持っている人物はほとんどいない。国会議員なら誰でも知っている光景だが、ほとんど誰もいない議場で討論が続けられた後、採決のベルが鳴って、問題に決着をつけるために議員たちが流れ込んでくる。頼りない瞬間がある。「私たちはどちら側なんだ?」「何の採決なんだ?」という質問が何度も繰り返される。そして議長が立ち上がり、魔法のような一文で状況を一掃する。その一文は、賛成者と反対者の数を、例えば与党院内幹事が計算すること(*分列表決)を告げるものである。議論でもなく、雄弁でもなく、無数のケースにおいて結果を左右し、国の法律を作り上げるのはこの一文なのである。多くの議員が、採決ロビーにはいないことは事実だが、通常はペアを組んでいる―つまり、討議が始まる前に、自分の立場を決めているのである。おそらく、彼らはどのようなテーマが審議されるのかさえも知らない。おそらく、長い会期中には予見される、あるいは予見されない数多くの疑問が生じるだろうからである。

 

 これは奇妙なプロセスである。そして、それまで細心の注意を払って議論と証拠を検討し、意見を形成と表明を真剣な義務として扱うように努めてきた新米議員にとって、当初は非常に辛いものである。彼は国家の大評議会において、自らが私生活の最も些細な問題を扱うよりも軽はずみに、重大な問題の表決の発声をすることを繰り返し求められている、と気づく。いかなる医者も最も軽い病気に薬を処方しないし、いかなる弁護士も最も簡単なケースには助言しない。いかなる賢明な人間も、投票する義務があるテーマについて国会議員がしばしば持ち合わせている以上の知識がなければ、私的ビジネスにおける最も簡単な取引さえしないし、晩餐会で隣人に持論を述べることさえしない。しかし、彼はこの制度が善かれ悪しかれ、機構の作動に絶対不可欠なものであることにたちまち気がつく。もし誰もが、自分が本当に理解し、関心を寄せている事柄以外には投票しなかったとしたら、庶民院で決定される問題の五分の四は議員のごく一部によって決定されることになる。その場合、政党制の下での議会政治は不可能になる。議会を効率的に運営するために不可欠な、安定した、統制のとれた多数派が目標とされるべきだろう。議会生活の条件を受け入れることを拒む人物は、そこに入ることを控えるべきだろう。

 

 この制度が正当化される理由の一つが、イングランドで行われている議会政治は全体として良いものであり、それが議会政治の存在に不可欠なものであるという信念にあることは明らかである。またおそらくほとんどの人々が、自分が理解できない問題や、重大な党派的争点を含まない問題については、政府を支持する傾向が強まるだろう。そうした小さな問題は、少なくとも責任ある人物によって、入手可能な最善の専門的知識の助けを借りつつ、その利益について慎重に検討されてきたことを彼らは知っているのである。

 

 この事実は、現代の議会生活に顕著な、立法の主導権をほぼ完全に政府に独占させようとする傾向に、私たちを黙従させるために大いに役立っている。過去において多くの有益な立法は、(*役職のない)平議員や無所属議員によるものだった。しかしそのような議員によって提出された法案が可決される可能性は確実に減少している。これは、何らかのはっきりした制度変更のためではなく、政府の業務が庶民院の開院時間にかける圧力が、常に増し続けているためである。そして特に十二時ルールと呼ばれる、午前零時に審議を打ち切るルールのせいである。

 

 これは明らかに賢明なルールである。通常、議会活動の時間を平均的な人間の体力の範囲内に制限するからである。議会政治には怪しげな面も多い。しかし、今でも時々見られる、政府が大切な法案を徹夜で強行採決しようとしたり、午後の三時か四時から早朝の同じ時間まで続いて、疲れて苛立っている議会が、重要で困難な原理的問題に票決を下し、大勢の人々の重大な関心事に対処するよう求められたりするときほど、それが邪悪に見えることはない。議会はこのような時間帯まで、まったく、そしてごく自然に議論を続けられないこと、修正案が続けて五分以内に提出されなければならないことについての不安、疲れた、熱っぽい雰囲気の中で、不意打ちや連携が行われ、議会が通常の状態ならほとんど耳を貸さないような解決策を採択することは、すべての観察者にとって明らかなはずである。この種のシーンは、議会の最大のスキャンダルである。そして会期末の数週間を除いて、このようなことを不可能にするルールは、現代における議会運営の最大の改善点の一つだった。しかし、その欠点は議員立法の可能性が大きく制限されたことである。この種の法案のほとんどが最終段階を通過したのは、夜遅くの迅速な審議によるものだった。十二時ルールが採用されて以来、平議員が提出した法案が法令集に載る頻度は大幅に減った。

 

 

脚注: 

 

[35]エドワード・オブライエン(*1806―1840)著「法律家」O'Brien, The Lawyer, pp. 169, 170.

 

[36]ジャック=ポール・ミーニュ(*1800―1875)著「神学大全」第一部、第十八章「良心の事例事典」「弁護人」Dictionnaire de Cas de Conscience, Art. 'Avocat/' Migne, Encyclopédie Théologique, i. serie, tome xviii.

 

[37]「国際的法律批評雑誌」Revue de Droit International, xxi.615.

 

[38]ジェームス・ステファン卿(*1829―1894)著「イングランド刑法の概観」James Stephen‘s General View of the Criminal Law of England,pp167,168.参照。

 

[39]フィリップス自身の行動に対する弁明は、「クルボアジェ裁判に関するS.ウォーレンとC.フィリップスの往復書簡」Correspondence of S. Warren and C. Phillips relating to the Courvoisier trial.と呼ばれる小冊子に記載されている。フィリップスは演説の中で、依頼人の無実を全面的に信じていたとよく言われてきたが、裁判を担当したC.J.ティンダルと、傍聴席に座っていたバーク男爵の発言によって、これは否定された。C.J.デンマンもまた、フィリップスの演説は特筆すべきものではなかったと述べている。1897年5月のコーンヒル・マガジンに、アットレイ氏によるこの事件に関する有益で興味深い記事が掲載されている。

 

[40]これらの事例については、サミュエル・ウォーレン(*1807―1877)著「弁護士の社会的および職業的義務」Samuel Warren’s Social and Professional Duties of an Attorney,pp.128―133,195,196参照。

 

[41]トーマス・ハンフリー・ウォード(*1845―1926)著「ヴィクトリア女王の治世」Ward’s Reign of Queen Victoria第1巻の「法の運営」The Administration of the Lawについての控訴院裁判官チャールズ・ボーエン(*1835―1894)Charles Bowenの優れた記事を参照。

 

(*レッキー自身もダブリン大学選出の国会議員だった)

 

 

第十章   政治家

 

前章で述べたことから明らかなように、普通の国会議員がその下で働かざるを得ない道徳的制限や条件は、理想的なものとはほど遠い。高潔な人物はこのような条件の下で、誠実さゆえに、そして国益のために良心的に最善を尽くそうとするだろう。しかし、彼は本質的にこの条件を変えることはできない。そしてそれらは数多くの誘惑をもたらし、善と悪の境界線を数多くの方法で曖昧にする傾向がある。彼は自分が見たことがない法案や、まだ明らかにされていない政策について自分の党を支持し、場合によっては自分の本当の信念に反して、多くの場合に本物の知識を持たずに投票し、自分の政治家としてのキャリアを通じて、争点になっている問題の実質的な利益についての根拠ある確信以外の数多くの動機に基づいて行動することを事実上誓約させられている、と気づく。

 

 選挙区民の希望と彼自身の本物の見解とが食い違う場合に生じる難しい問題については既に述べた。別の、より大きな問題は、彼が国益と見なすものをどこまで自分の指針にするべきなのか、彼が国益と信じるものをどこまで国民の偏見や希望に従属させるべきなのかということである。現役の政治家が最初に学ばなければならないのは、彼はしばしば自分とは大きく異なる意見や目的、願望、理想を持つ人々のために行動しなければならない受託者であるということである。議員としてのクラスによってこれが当てはまる程度が違うとはいえ、国会に議席を持つ以上、このことを忘れてはならない。平議員はそれを忘れてはならない。しかし同時に、彼は本来、国民生活のある特定の要素を代表するために特別に選出されたのだから、より狭い範囲に注意を集中するだろう。また、彼には国政に大きな公的役割を担っているメンバーよりも、不人気な意見を述べたり、時期尚早で不人気な運動を推し進めたりする自由がある。野党のフロントベンチの立場はやや異なる。彼らは特定の党派とその思想の特別かつ組織的な代表者である。しかし、彼らはいつでも国家の政治を丸ごと引き受けることを要請される可能性がある。また彼らが野党である間でさえ、全体的な政策を作り上げる上で大きな役割を担っているという事実は、単なる平議員が大いに免除されている制限と制約を彼らに課している。党派が政権を握ると、その立場はまた少し変更される。その指導者たちは、間違いなく野党時代に主張していた党派の政策から切り離されたりはしない。党派の主な目的の一つは、特定の政治的意見と社会の特定の層の利益を、政治の中で安定的かつ永続的な力になるであろう組織の中に組み込むことである。この手段によって、政治的意見が最も勝利しやすくなり、階級の利益が最も効果的に守られるのである。しかし、政府は単なる党利のための政治を行なってはならない。政府は国全体の受託者である。そしてその最も重要な義務の一つは、すべての層の願望と利益を可能な限り確かめ、尊重することである。

 

 おそらく抽象的な言葉よりも具体的な例の方が、私が述べようとする困難の種類を明白に示せるだろう。例えば、地域的禁止令やパブの日曜閉店といった手段によって強い酒の販売を制限しよう、という提案は多くの人々に支持されている。ある政治家たちは、酒類販売に妥協のない敵対的立場を採っている。彼らの主張は、イングランドでは強い酒が貧困層の悲惨さ、悪徳、堕落の主な原因なのは疑いようもないこと、強い酒は何万人もの心身を直接的に破滅するのみならず、罪のない家族にいくら評価しても過大評価にならないほどの不幸をもたらすこと、飲んだくれの酒への渇望は、しばしば遺伝性疾患として子供たちに遺伝すること、そして立法者は利用可能なあらゆる手段によって、国民の道徳的、物質的幸福を妨げる最大の障害を取り除く以上に崇高な目的も明白な義務も持ち得ないことである。強制の原理が産業のあらゆる部門にますます浸透している、と言われていることは正しい。他の業態の日曜営業を禁止する一方で、最も有害な日曜営業に特殊な特権を与えている国家が、それを制限したり撤回したりする権利を持っていないと主張することには根拠がない。また警察や救貧院、刑務所、刑事行政の維持のために社会全体に莫大な税金を課している立法府は、社会全体の利益のために、貧困、無秩序、犯罪の主たる原因を抑制するために全力を尽くすべきである。(*と絶対的禁酒派は主張する)

 

 別の政治家たちは、全く別の視点からこの問題にアプローチする。成人男性に子供に課すような道徳的制限を課すことに、彼らは強く反発する。人生のあらゆる義務と責任を引き受け、国政への発言権さえ持つ成人男性は、隣人に直接干渉しない限り、法的拘束なしに自らの行動を制御し、自らの過ちや行き過ぎがもたらした結果の責任を自ら負うべきである、と彼らは主張する。これこそ自由の第一原則であって、強く男らしい性格を形成するための第一条件である、と彼らは言う。日曜の小旅行で自分と家族が好む手ごろな気分転換をしようとする、あるいは―大抵の場合、友人に会ってビール片手に村の噂話をするために―パブに行く貧困者は全く隣人の自由を妨げてはいない。彼は何も間違ったことをしていないし、自分に完全にそうする権利がないことはしていない。資産家が日曜日にクラブに行くことを誰も否定したりはしない。そして貧困者は資産家のような個人的なワイン・セラーも、快適で広々とした家も持っておらず、娯楽を楽しむ機会が限りなく少ないことを忘れてはならない。この権利を乱用する、節度を守って酒を飲めない男たちがいるからといって、すべての男が酒を完全に禁じられるか、あるいは少なくとも日曜日には禁じられなければならないのだろうか?二人の男が酒を飲まないことに同意したからといって、不本意な三人目にも同じ義務を課す権利があるのか。パブに入ることがなく、その地位ゆえに入る必要のない人々が多数派になった場合、彼らにはパブを利用する人々に対してその扉を閉める権利があるのだろうか?このような理由から、こうした政治家たちは、これらすべての制限的な法律を不当で、不公平で、自由と相容れないものとして忌み嫌うのである。

 

 しかし、どちらの主張も、その論理的帰結まで貫き通す人物はほとんどいない。男たちを実際に管理した経験がありながら、酒類販売の完全な禁止を提唱する人は多くないだろう。また全ての特別な法的制限の撤廃を完全な自由貿易の前提にする人物は、さらに少ないだろう。重い責任を背負っている政治家が進むべき道は主に世論の変動に左右される。(*酒類販売や自由貿易に)制限は課されるだろうが、それは本物の世論に支持されたときに、その限りにおいてのみ課されるのである。それは単なる多数派ではなく、大いなる多数派でなければならない。安定した多数派でなければならない。特に、最も直接的な影響を受ける階層の本物の切実な願望を代表する、真の多数派でなければならない。巧みな組織や扇動、少数派の熱意が多数派の無関心に働きかけてしばしば作り出すような、単なる見せかけの多数派であってはならない。自由で民主的な国家の政治家にとって、最も必要なものの一つであると同時に、最も難しい技術の一つは、世論を検証することである。すなわち本物であって、成長していく、永続的なものと、一過性で、人為的で、衰退していくものを見分けることである。あるフランスの論者が言った通り「政治における偉大な技術は、話している人の声を聞くことではなく、黙っている人の声を聞くことである。」(*エティエンヌ・ラミーÉtienne Marie Victor Lamy、18454―1919、作家、議員)私が述べたような問題に関して、同じ政治家が何の真の矛盾もなく、同じ法案について王国のある地域では賛成し、別の地域では反対すること、世論の支持が強い時に支持し、弱い時に反対することに、私たちは気づくだろう。

 

 民主主義国家にはびこる最悪の道徳的弊害の一つは、日和見主義と人気取りへの過剰な傾斜である。そしてある意味、これらはともに必要なことであり、義務ですらあるため、その危険性はいっそう大きい。それらの道徳的な質は主にその動機に依存している。問われるべきは政治家の行動が個人的、あるいは単なる党派的な目的によるものか、それとも名誉ある公的な目的によるものかということである。すべての政治家は、ある風潮が真の国益にとって望ましいものなのか、それとも逆なのかということについての考えを持っていなければならない。それを加速させようとするか、遅延させようとするか、その圧力にゆっくりと屈服するか、容易に屈服するかは、この判断にかかっている。そして人気と影響力を危険にさらしてでも、容赦なく反対しなければならないケースもある。しかし長い目で見れば、自由な政府のもとでは、政治制度や法案は、国民のさまざまな階層の希望に沿うように調整されなければならない。そして、この調整こそが政治家の偉大な仕事なのである。提出された法案を判断する際、政治家は国内にその機が熟しているかどうかを常に自問自答しなければならない―それがいかに望ましいものであっても、世論にまだその用意がないため、提出は時期尚早なのではないか?―たとえ悪い法案だったとしても、国民がそれを望んでいることが明らかなら、概して賛成票を投じたほうが良いのではないか?

 

 同じような推論が教育の、特に宗教教育の難しい問題にも当てはまる。この問題に関心を持つ人々は皆、どのような教育が人々にとって最善なものか、また政府がどのような教育を行うのが最善であるかについて、自分なりの考えを持っている。彼は宗教教育をすべて有志の機関に任せて、国は純粋な世俗教育に専念することを好み、または英国教育委員会の非宗派的な宗教教育に賛成し、または宗派を明確に強調した数多くの教育の形の一つを強く支持しているかもしれない。しかし、彼が責任ある立法者として行動するようになったなら、問わなければならないのは単に自分が最善と考えることのみならず、子供たちの親が最も望んでいることでもある、と感じるだろう。両親の自由裁量が絶対的に認められているわけではないのは事実である。子供たちにとって、また国家の幸福と活力にとって一定の不可欠なものがあるという確信と、両親はしばしばそれについての最良の判断者ではないという確信が、立法者にいくつかの重要なテーマについて、親の意向を無視させる。児童労働に課された厳しい制限や―残念ながら現在は大幅に緩和された―子どもの予防接種に関する措置、そして親による不当な扱いから子どもを保護する法律などはその実例である。そして全ての異議の中で最も広範囲に、かつ将来にまで影響が及ぶものは教育である。数多くの疑念の末、国の与野党は、少なくとも初等教育を普遍的なものにすることが、子供たちの将来にとって不可欠であり、国家間の大いなる競争におけるイングランドの相対的地位を守るためにも不可欠であるという結論に達した。また、これは完全に無知な親たちには最も理解し難い真実の一つである、と彼らは確信している。それゆえ、近年の制度は義務教育を急速に拡大してきたのである。

 

 他の多くの国民たちはさらに先に進んで、許可されるべき教育の種類、あるいは少なくとも専ら国の資金で賄われるべき教育の種類を決める権利を国に要求してきた。イングランドではそうではない。さまざまな階層の保護者の希望や意見に一致した多種多様な教育が、教育効果に関する一定の検査を受けることと、少数派をその信仰への干渉から守る良心条項を条件として、国からの援助を受けている。

 

 かつて善良な人々を道徳的に強く憤慨させたのは、ローマ・カトリックの聖職者たちの絶対的な支配下にあって、ローマ・カトリックの信仰によって神学生を教育することを目的にしていたメイヌース・カレッジ(*アイルランド)への国からの交付金だった。この交付金は、(*1801年に連合王国議会に統合される前の)旧アイルランド・プロテスタント議会時代からのものだったが、アイルランド国教会の非国教化(*1871年)に伴って終了し、アイルランド教会基金からの多額の助成金によって代替された。そして現在もカレッジはこの助成金によって支えられている。国家がプロテスタントであること、国家は明確な宗教的信念を持っていて、それに基づいて良心的に行動する義務を持っていること、すべてのプロテスタントが迷信であると信じ、多くのプロテスタントが偶像崇拝的で魂を破滅させる誤りであると信じる教えに公的資金を交付するのは罪深い背教であることを理由として、数多くの優れた人々がこの交付金を非難した。イングランドにおけるこの種の感情の強さは、大陸では非常に広く存在し、うまく機能している(*新教と旧教への)同時交付金を、どのような形であれ世論に納得させることが非常に困難であったことからも伺える。

 

 また、聖職者の神学教育を国家が補助するという政策に異論がない多くの人々でも、アイルランドのカトリック教徒の世俗教育、特に高等な世俗教育が聖職者の完全な管理下に置かれていて、彼らの影響力ゆえにアイルランドのカトリック教徒が教育期間中、宗派の違う同胞から厳格に分離されることは、国家にとっても若者にとっても極めて有害であるという意見を持っている。(*Wikipediaアイルランドの教育参照)これほど確かな根拠のある信念はない、と私は思う。しかし、このような統制と分離を執拗に望み、一般的教育制度における不利や宗派的影響の除去には満足せず、司祭がこれを非難し、自らの良心が司祭の命令に縛られているがゆえに、あらゆる混合教育や非宗派的教育に反対し、その結果、本来であれば子供に与えるはずだった教育を差し控えているカトリック教徒の親が大勢いることを知るなら、このような信念を持つ人々が自分たちの考えを改めるのは極めて正当なことだろうと言うのが私の意見である。彼らは便宜的に、これらのカトリック教徒が中立的な大学教育を受けるのは、全く受けないより良いことであって、多くの正直で高潔で忠実な人々の不満が取り除かれるのは非常に望ましいことであると主張するだろう。原則として、高等教育の大部分がさまざまな形で公的財源から交付されているこの国で、その恩恵をほとんど、あるいはまったく受けられない国民が大勢いるのは、実に腹立たしいことであると彼らは主張する。カトリックの両親の反対は、ほとんどの場合、自発的なものではなく、司祭の命令によるものであると言うのは、十分な解答ではない。なぜなら私たちが扱っているのはそういう問題に関しては司祭に従うのが良心的なことであると考える人々だからである。また―非常に多くの賢明な人々がするであろうように―現存する大学ではカトリック教徒に課せられている教育から、カトリック信仰に少しでも合致しない可能性があるものはすべて排除されてきたし、名誉、報酬、権力を伴うあらゆる地位がカトリック教徒に開かれてきたし、何世代にも渡って彼らは喜んでダブリン大学(*エリザベス一世が創設、かつては国教会員だけが入学を許されていたが1793年からカトリック教徒も許された)の課程に進み、現在でさえ、聖職者たちはオックスフォードやケンブリッジの課程に進むことが許されているし、国家はすべての人に開かれた宗派的偏向のない教育の大原則を採用しているため、どの宗派も例外的な扱いを受ける権利はないが、どの宗派も疑いなく自らの費用で好きなように教育を行う権利を持っている、と主張するだけでは十分ではないと思う。返ってくる答えは、アイルランドのある集団のローマ・カトリック信者の反対は、混合的な非宗派的教育制度の下で起こる弊害に対してではなく、この制度そのものに対する反対であること、相当数の納税者層が良心に従って利用できる個人的なタイプの教育は、自発的な努力によって設立されたもの(*ヘッジ・スクール)だけだったこと、そして国からの交付金は不十分かつ間接的にしか与えられていないということである。[42]イングランドの非国教徒の世論が非宗派主義に向かっているのと同様に、アイルランドにおけるカトリックの世論は明らかに宗派主義に向かっていること、そして司祭に支配されたカトリックの民衆の教育をプロテスタントと同じ道筋では行えないことをイングランド政府はゆっくりと、そして非常に不本意ながらも認識するようになった。初等教育は(*アイルランドでは)ほとんど絶対的な宗派主義になった。そして直接的または間接的に、多くの交付金がカトリックの教育機関だけに与えられている。このような理由から、高等教育の司祭による支配に強い反感を抱いている多くの人々は、明らかな聖職尊重の大学やカレッジの交付金増額を擁護する用意がある一方で、それと並行して、プロテスタントのみならず、アイルランド系カトリックにも少なからず利用されていて、比較にならないほど優れていると信じる非宗派的教育機関を断固として支持している。

 

 私の読者の多くは、この非常に難しい問題について、おそらく反対の結論(*宗教と教育は分離することが望ましい)に到達されるだろう。私がこのことを書いた目的はシンプルに、ある政治家が本質的に悪いと信じているものの設立や交付金を良心的に擁護するプロセスを示すためである。極端だが最も良心的な昔ながらのトーリズムの優れた代表者であるロバート・イングリス卿(*1786―1855)は「その目的を正しくて良いものと思わないなら、一ペニーの公金の支出にも賛成しない。」と言ったとされる。代議政治の性質と、社会の全階層の受託者として行動する国会議員の義務を真に理解するなら、このような原則の実行が不可能なことは誰にとっても明らかだろう。この職能を行使する際、良心的な議員は皆、自ら嫌悪する目的のための資金の投入に繰り返し賛成することを余儀なくされる。今述べた特定の例において、私が説明した推論のプロセスは純粋で利害関係のないものである。しかしもちろん、こうした問題がこうした純粋な推論のプロセスによって決定されるわけではない。イングランドやスコットランドの議員は、自分たちの選挙区の投票に与える影響を考慮しなければならない。そこで大多数を占めているのは、アイルランドの教育の特殊事情についてはほとんど知らないが、ローマ・カトリック教会については非常に強い感情を持っている選挙民である。政治家たちは彼らの政策がアイルランドの社会的、政治的状況に与える影響を先々まで、また多岐に渡って熟考しなければならない。アイルランドの議員の圧倒的多数は、大学教育を受けることができず、教育に関するあらゆる事柄について司祭の指示に従って盲目的に動く小規模農業者や農業労働者に選出されているからである。(*アイルランドの選出議員の意向を汲むだけでは不十分である。)

 

 政治家にとって矛盾は非難されるべきことではない。そして政治家個人と同様に、政党もまたそれをふんだんに示してきた。政治における道徳的な困難が一部分をなすにすぎない本書の中で、イングランドの政党の歴史に立ち入るのは行き過ぎだろう。しかしそこに立ち入るなら、政党の歴史において放棄されたことのない政治行動の原則などほとんどなく、政党がその歴史のある時期には最も激しく抵抗していた法案そのものを、別の時期には主張するようになるのは稀なことではない、と容易に納得できるだろう。環境の変化、知的傾向の隆盛または衰退、党略、個人の影響力がすべて、こうした変化に寄与してきた。そしてそのほとんどは、非常に混じり合った愛国心と私利という動機から来ていた。

 

 党首の変わり身の道徳的性質を判断する上で通常、時間という要素は極めて重要である。たとえそれが否応なしに求められる状況だったとしても、党の政策の突然の乱暴な反転は、道徳的な重みを大きく失わずには成し遂げられない。ウェリントン公爵(*アーサー・ウェルズリー、1769―1852、ナポレオン戦争の英雄、後年政界でも活躍)とロバート・ピール卿(*1788―1850、トーリー党、首相)が、クレア選挙(*アイルランドのクレア州でカトリック教徒ダニエル・オコンネルが議員に当選したが、宣誓を拒否したので議席に座れなかった)によってアイルランドが革命の危機に瀕していた1829年に、カトリックの解放を実行に移そうとした動機が誠実なものだったことに、今では誰も異論を挟まないだろう。またロバート・ピール卿が穀物法の廃止(*1846年)を断行したのは、個人的な動機や党派的な野心によるものではなかったことは確かである。ただし、彼がまだ保護主義政党の党首だった時期に、その心は明らかに自由貿易の方向に動いていたこと、アイルランド飢饉は単なる口実ではなかったとはいえ、その廃止の原因のすべてではなかったことは、力強く主張されるだろう。これらのケースではいずれも内閣が、特定の現行法に敵対することを約束して、議会の支持を得た。有権者には何もアピールすることなく、そうしたのである。彼らの目にはその法案が公共の福祉にとって絶対に必要なものと映っていたこと、政治的状況ゆえに解散後に法案を可決することも、その仕事を他人の手に委ねることも不可能だったことが、その弁明になる。もしロバート・ピール卿が1828年のクレア選挙の後、職を辞するか議会を解散していたなら、カトリック解放法案は議会を通過しなかった可能性が高く、その延期はアイルランドを危険な反乱に巻き込んでいただろう、と彼は信じていた。政党政治にとって、1845年にホイッグ党が内閣を組織できなかったことほど大きな不幸はない。もしそれができていたなら、穀物法の廃止は、農業利権者(*地主層)の代表として権力を得た政治家ではなく、多少なりとも自由貿易派に支持された政治家によって行われていたことだろう。(*すなわち、このとき政党政治は機能しなかった)

 

 党派的観点から見れば更に成功したが、私見では更に厳しく裁かれるべきもう一つのケースは1867年の選挙改革法案である。保守党はディズレーリ氏の指導の下、グラッドストン氏の改革法案を、主にそれが民主主義に踏み込み過ぎであるという理由で否決させた。この勝利によって彼らは政権を獲得した。そして問題が提起された以上、自分たちで対処しなければならないと宣言した。彼らは選挙権を前政権が提案していたものよりはるかに低い水準まで引き下げる(*選挙民を増やす)法案を提出した。しかし、彼らはその法案を、その民主的性格を大きく変えてしまう特定の階級や利害関係者のための数多くの追加代表権の条項で包囲してしまった。

 

 こうした安全確保のための条項がなければ、党はこのような法案に耐えられなかっただろう。しかし党首は反対に遭いながらも、そうした条項は最も重要なものではないとして一つ一つ削除した。そして無節操な機敏さの典型とも言える指導力を発揮して、党に数カ月前に彼らが非難して葬り去った法案よりもはるかに民主的な法案を可決させることに成功した。この問題を解決しなければならない、恒久的かつ永続的な基礎の上に置かれなければならない、もはやホイッグの武器になってはならない、トーリーの選挙改革法案は「向こう見ず」でなものではあったが、少なくとも「ホイッグに一泡吹かせた。」という主張がなされた。それがディズレーリの真の信念に沿ったものだったことは疑いの余地がない。彼はボリングブローク、カータレット、シェルバーン、そしてそのキャリアのある時期にチャタムを初期の代表者としていた派閥に属していた。彼らは旧トーリー党内の貴族的要素の優位にはまったく共感せず、率直に民衆の支持に訴える断固たる気質を持ち、広範な民主主義的基盤の上に立つ強力な行政府こそがトーリー主義の真の未来であると信じていた。彼はその勝利に立ち会うことはできなかったが、現代において勝利を収めている政治思想の一派をかなりのところまで先取りしていた。同時に、1867年に最終的に可決された選挙改革法案は、会期初めの党の意向や方針から可能な限りかけ離れたものであって、その前の会期における党の言動と可能な限り矛盾するものであったことも否定できない。

 

 政党制に基づいて選ばれた議会政府は、ここまで見てきたように、国民全体の受託者であり、全体の福祉を至上の目的とするよう拘束されると同時に、特定の階級の特別な代表者であって、彼らの利益、目的、願い、原則の特別な保護者でもある。この二つの視点は同じものではなく、倫理的にも政治的にも、両者を調和させようとするなら、しばしば重大な困難に直面する。もちろん、党派の目的は単なる議場内の場所や権力の問題であって、本来愛国的な目的とは別ものである、というのは間違いである。党派の意味するところは、公人たちが特定の政治原則、特定の政策方針、特定の利益の保護と発展を、国家にとって極めて重要であると考えているということである。したがって、純粋に公的な根拠によって、彼らが自分たちの党派による政権の獲得を主目的にすることは、完全に正当化される。しかし、特定の政党が政権を維持することの重要性は、大きく異なる。英国史の多くの時代において、おそらくほとんどの時代において、政権交代は政策の暴力的な、あるいは大規模な変更を意味してこなかった。それは、立法におけるある一連の傾向が一時的にいくらか緩和され、別の一連の傾向がいくらか強化されること、ある階級の利益がいくらか増加し、別の階級の利益がいくらか減少すること、進歩や変化の速度がいくらか加速されたり減速されたりすることを意味するにすぎない。時には、これ以下の意味しか持たないこともある。二つのフロントベンチの意見はほぼ同化しているので、政権交代とは主として、党派政治とはまったく別に、単独で行政上の失策を犯したり、個人的に不評を買ったりした閣僚たちを一時的に罷免することを意味する。つまり、数年間の継続的な仕事によって疲弊し、擦り切れた閣僚たちを、より新鮮な頭脳と仕事への活力を持っている人々と交換することである。数年にわたって公職の全ての任命権が主に一つの党派の手にあったので、今度はもう一方の番である。国には、政府の一般的な政策には満足できても、それを遂行する人物に満足できない時期がある。優れた理念を持つ閣僚が、非能率的であったり、機転が利かなかったり、不運であったり、閣僚の間で諍いや嫉妬が生じたり、過去の因縁にとらわれず、新鮮な人物の手に委ねられれば、成功裏に終わらせることができる外国との困難な交渉が進行中だったりすることがある。国は政府の変更を望んでいるが、政策の変更を望んでいない。このような状況下での勝利した野党の任務は、新しい方向へ進むことよりも、足踏みをすること、国の業務を同じ路線で遂行しつつ、より優れた行政手腕を発揮することである。このような時期には、党派の目的の重要性はかなり低くなる。そして、単に党を政権に留まらせることを目的とする政策は厳しく非難されるべきである。

 

 しかし時には、野党がこの国にとって危険度が高い、あるいは破滅的でさえあると考えるような法案を、与党が公約することがある。その場合、この党を政権から追い出すか、政権に就いているにしても、この危険な計画が放棄されるまでは、ずっと弱々しい立場に留まらせることが最重要課題になる。このような状況下では、政治家が党派の目標と純粋な党派的立法を押し進めることが他の時よりもはるかに正当化される。自党を強化すること、自党のために最大限の人気を獲得すること、下院のさまざまな派閥の支持を獲得することが、大きな公的目標になる。そしてそれを実行するために、かつてであればごく当たり前に非難されたような、政策やいくらかの原則の犠牲、党がかつて反対した法案の受け入れ、党が公約した法案の延期や放棄が正当化されるようになる。国家の最高利益こそが彼らの政策の目標であり、弁明であって、それほど差し迫った状況でなければ不可能だったはずの同盟が結ばれる。そして、それは一旦確立されたなら、時として政党政治の恒久的な性格を大きく変えてしまうことがある。ここでも、ほとんどすべての政治的問題に似て、割合と程度に注意を払い、より大きなことを達成するためにより小さなことを犠牲にするのは、知恵の道であると同時に義務の道である

 

 政党政治家の誘惑には様々なものがあって、それは政治的発展の段階によって大きく異なる。最も悪いのは戦争の誘惑である。不必要な、あるいは少なくとも真剣な弁明なしに行われる戦争は、あらゆる健全な倫理において最も重大な犯罪とされている。その原因の中には、ここまで述べてきたような動機がしばしば発見されるだろう。多くの戦争は、王朝や党派を強固にするため、人気を得るため、あるいは少なくとも不人気から救うため、危険で厄介な内政問題から人心をそらすため、あるいは過去の争いや過ち、犯罪の記憶を拭い去るために始められ、あるいは長引かされてきた。[43]不幸なことに、国民の闘争心がいかに簡単に奮い立たせられるか、戦争の成功がいかに多くの人気を集めるかということは、経験によってあまりにもはっきりと示されている。このような場合でも、通常は戦争を仕掛けた側の国が貧しくなることは事実である。しかし、戦争が決して災いにならない人々も多数存在する。農産物価格の高騰、陸軍や海軍の職業に開かれた輝かしいキャリア、即座に活気づく多くの特殊産業、金利の上昇、証券取引所の激しい変動が生む富の機会、新聞の吸引力の増大―これらすべては、その継続を特定の人々の利益にする。時にそれは党派的な感情とも密接に関係している。アン女王時代の対仏戦争時には、マールボロ(*ジョン・チャーチル、1650―1722、軍人)がホイッグ党だった。そしてホイッグ党のホープだったハノーファー選帝侯が戦争に賛成していたという事実が、和平が遅れる非常に大きな原因になった。内政の大いなる不穏は、しばしば戦争への誘惑になる。しかし、それらは直接つながっているわけではない。それは支配者たちが対外戦争を、危険で不穏なエネルギーを新たな方向に向け、同時に社会の軍事的、権威的要素を強化する最良の手段と見なすためである。フランス革命の無政府状態を征服のキャリアに転換することが成功したのは、その典型的な例である。

 

 18世紀のイングランドに存在したような貴族政権では、腐敗への誘惑がとりわけ強かった。腐敗選挙区や、それをコントロールできる人物に組織的に栄誉を与えて巨大な議会勢力を構築すること、大企業や専門職集団の利益を増大させ、それを是正するためのあらゆる試みを差し控えて支持を獲得することが当時の主な政治手腕だった。様々な形の階級的特権が創設され、拡大され、維持された。そしていくつかの地方では―大陸よりはずっとマシだったものの―税の負担は最も不公平に割り当てられ、主に貧困層に重くのしかかった。

 

 民主的な政府では、誘惑の種類は異なる。そこでは人気こそが権力の最高の源泉である。最終的な裁定は頭数で行われる。政治の真の目的は大多数の人々の幸福であるが、それが最も無知な多数者の意見によって最も良く実現されるとは限らない。このような制度下における政治家の誘惑について語るにあたって、私は今、単に階級的な羨望や敵意を刺激することによって貧者を富者に敵対させ、公務の略奪の福音を説くことによって権力や悪評や人気を得ようとする、悪辣な扇動家やデマゴーグについて言及するつもりはない。また、巧みに考案された選挙のからくりによって、最も無知な有権者たちの大量の票を積み上げ、それを汚職に利用するという、米国で非常に多く用いられている方法(#?)について詳しく説明するつもりもない。私はむしろ、党の指導者が主に目先の人気や、その結果として自分の得票力を強化することに成功するかどうかで法案を評価せざるを得ないという、ほとんど必然的な傾向について考えたい。ある国では、この傾向は公共事業への惜しみない支出に現れている。この公共事業は大勢の労働者に雇用を提供し、選挙区において目先の人気を獲得するが、後世に累積債務という重い負担を残す。ヨーロッパの財政難の多くは、こうした原因によるものである。またほとんどの国において、政府支出における浪費は倹約よりも人気がある。それは時に、近接的または直接的な影響のみを考慮し、遠隔的で不明瞭な影響を完全に無視した立法として現れることがある。遠い将来のために現在を犠牲にするような、先見力のある政策は難しくなる。新しい原則を含む法案が、現在の困窮の対応や、目先の人気の確保のために、それが確立しようとしている前例や、その後に引き続く広範な変化についてほとんど考慮されることなく着手される。労働条件が目下の労働者の利益のために変更される。その代償としてある偉大な産業から資本が流出する。そして外国との競争に耐えられなくなる。その結果、長期的には雇用が減少して、まさに利益を受けるはずだった人々が深刻な打撃を受けることになるのである。

 

 一方の党派がこの種の法案を提出すると、もう一方の党派はそれと競り合いたいという強い誘惑に駆られる。そして競争のストレスの下で、また人気競争で後れをとることを恐れて、両党派はしばしば、どちらかが当初意図していたよりもはるかに踏み込んだ政策をとることになる。少数者の権利と多数者の利益が対立する場合には常に、後者が選ばれる傾向がある。少数派とは、ある産業を築き上げ、すべてのリスクとコストを負担し、その成功に断然大きな利害関係を持っている人々ということになるだろう。議員たちの傾向を決めているのは、単に彼らが少数者であるという事実だけである。彼らは常に、そうすることで有権者の大きな部分の歓心を買うことができるのならば、明確に定義され、保証された権利にさえ手を付けようとする性格を持っている。

 

 議会生活には数多くの長所がある。しかし、それは近視眼的な考えを助長するという明白な傾向を持っている。目先の党利党略に没頭するあまり、人々はその向こう側に大きく目を向けることが難しくなる。目の前の聴衆に最も影響を与える話題を用いたいという熟練した討論者や、目下の差し迫った争いの中で最も成功しそうな道を行きたいという党首の願望は、しばしば他のすべての考慮事項に優先する。そして先のことをほとんど考えず、あまり遠くないランドマークに注意を集中させるというのが議会生活の全体的な傾向になる。

 

 党派の矛盾の大きな原因の一つは、法律の同質化の絶対的な不可避性にある。例えば、政府の規制や干渉をあらゆる部門に導入しようとする現在の傾向は、少なくとも非常に大げさなものであって、より大きな領域を個人の行動や自由な契約に任せた方がはるかに良いという意見が大勢を占めている。しかし、産業の大きな部門が規制の下に置かれた場合、類似した産業を別の制度の下に置くことは事実上不可能である。そしてその傾向を最も嫌う人々が、しばしば自ら規制を拡大せざるを得なくなる。ある労働者たちに法的な保護やその他の特別な恩恵が与えられていた場合、そのケースを他の労働者たちと区別する真の根拠がないという主張に、彼らは反論することはできない。こうして支配的な傾向は自ずと拡大し、あらゆる重大な立法運動は、否応なしに他を巻き込んでいくのである。

 

 こうした重圧は、単に不便で愚かしいばかりではなく、明らかに不誠実と思われる法律の場合に最も痛感される。契約に関する法律には、明確な倫理的線引きがある。将来の契約の条件を規制することは、完全に立法者の道徳的権利の範疇にある。それは既存の契約を破棄すること、あるいは一方の当事者の利益のために他方の同意なしにその条件を変更し、他方の当事者をその制約に拘束されたままにしておくという、より極端な手段を用いることとは、まったく違う。

 

 アメリカ憲法には、いかなる州も契約に違反する法律を制定することはできないという特別条項がある。イングランドには、残念ながらそのような規定はない。この種の最も顕著で疑いのない例は、(*1870年に)グラッドストン内閣が始め、当初最も強く反対していた政党によって、大幅に拡大されたアイルランド土地法(*イングランド人不在地主に対するアイルランド人小作人の権利強化を目的とした)に見られる。間違いなく、それについては多くの弁明があるだろう。農業不振、土地の過剰な需要、アイルランドでは通常、(*農地の)改良は借地人(借地人は改良前の状態を完全に承知しており、それに比例して賃料も安かった)が行っていたこと、アイルランドの一部では法律で認められていない土地の慣行が蔓延していたこと、国を不名誉な無政府状態に陥れた大革命運動(*1867年、フィニアン蜂起)の存在などがそれである。しかし、こうしたことをすべて認めた上でなお、英国の法律が疑いのない正当な財産を補償なしに取り上げ、疑いのない正当な契約を破棄してきたことは、明晰で正直な人物ならば誰もが認めるところである。ある地主は自分の農場に借家人を1年ごとの借地権で住まわせていた。しかし、年度末に地主が明らかな法的権利を行使して農地を取り戻そうとするなら、「迷惑料」として年間賃料の約7倍もの補償金を支払わなければならなかった。ある地主は政府印の押された明確な契約書に基づいて、自分の土地を長期にわたって農民に貸し出していた。この契約書には支払うべき賃料、農場を維持するべき状態、それが所有者の手を離れている年数などが定められていた。賃貸契約書の基本条項には、当該期間の終了後、賃借人はその農場を所有者に返還しなければならないとはっきり明記されていた。法律が介入して、この農民が支払うことを約束した賃料は、所有者の同意なしに、また所有者に契約を解消して新たな借主を探すという選択肢を与えることなしに、政府の法廷によって減額が決定された。それはさらに先に進められた。借地人は借地契約の終了時に、契約条件に従って土地を所有者に返還するのではなく、独立法廷によって地主の意向と無関係に決められ、定期的に改定される賃貸料のみを条件として、将来にわたってずっと占有者であり続けられることが規定されたのである。アイルランドの莫大な土地は、帝国議会の代表として行動する政府法廷によって、インカンバー・エステート法(*抵当財産法、1849年、大飢饉で破産した地主たちの財産処分を目的としたもの)に基づいて売却された。そして、各購入者はこの法廷から、一覧表に記載された既存の借地権にのみ従うことを条件として、自らを土地の絶対的所有者、およびその上にあるすべての建物の絶対的所有者とする、議会に承認された権利を得た。その土地のそれ以前の歴史は一切知らされなかった。なぜなら、まだ失効していない借地権以外に、彼は過去の何物にも責任を持つ必要がなかったからである。ある記憶に残るケースゆえに、彼が手にした所有権は無効化できないものと見なされるようになった。ある人物の財産の一部が間違って他の人物の売却財産に含まれていたとき、控訴院は意図的な不正のケースを除いて、議会に承認された権利に背くことは不可能であるがゆえに、この不公正を是正することはできないと裁定したのである。[44]土地が安い賃料で賃貸されている場合や、賃借人の賃借権が間もなく満了する場合には、賃料を容易に引き上げられることが常に裁判所当局によって明示されて、購入者たちを誘っていた。

 

 この議会に承認された権利はどうなってしまったのだろうか。(*農地の)改良が、売却前に賃借人によって行われた、または行われたと推定される場合、その改良は購入者の財産ではないことになった。同時に、購入者は財産の最も明白で不可分な権利のいくつかを奪われた。彼は農場を公開の市場で処分する権限も、農場を貸す期間と条件を決める権限も、不適当と判断した借主を追い出す権限も、明示された借地期間が満了した土地を自分の手に取り戻す権限も、戦争や大いなる繁栄、その他の例外的な状況における財産価値の上昇から利益を得る権限も失ったのである。彼は相続、あるいは購入によって紛れもなく自分のものだった土地の単なる賃貸料徴収者になった。そして賃貸料の額は、彼の地所に関して絶対的な権限を持つ、彼が発言力を持たない法廷によって決定され、定期的に改定されるのである。彼が買った、あるいは相続したのは独占的権利である。法律はそれを二重の所有権にしてしまった。彼が財産を取得した当時、法律にはまったく存在せず、概ね一地方の慣習として知られていただけだった借地人の権利が、そこから作り出されたのである。この法律が制定されたとき、たまたまその農場を占有していた借地人は、所有者の同意なしに、その農場を現行の賃料で占有する権利を他人に貸すことができた。多くの場合、この借地権は農場の単純所有権よりも価値がある。明示された賃料での賃借を熱心に懇願した農民がその後、土地裁判所に出向いてその賃料を減額させ、そしてさらに二つの賃料の差額以上の金額で借地権を賃貸したケースは多い。多くの場合、借地人による(*農地の)改良の問題が有り得ないケースにおいて、このようなことが起こったのである。賃料が下がるにつれて、小規模農場の借地権の価値は着実に上がった。多くの場合、借地権の高すぎる価格は、アイルランドで一般的な土地への渇望や土地投機への情熱、あるいは特定の農場の借地権に法外な値段をつけるよう農民を誘導する例外的な原因(#?)のせいであることは間違いない。しかしそのような場合、借地権の価格が当てになる指標ではなかったとしても、その動きが全体的なものだったということは、賃料の削減は土地の市場価値の相応の下落を意味していたのではなく、それが単なる国による、ある人物から別の人物への財産の無償譲渡だったことのはっきりした証拠である。最初に地主の独占的所有権を単純なパートナーシップに変えてしまった法廷は、あらゆる衡平法を無視して、農業大恐慌のすべての重荷を二人のパートナーのうちの一方に押し付ける方向へと進んだ。法律が地主に先取特権を留保していたことは事実である。言葉を変えれば、売りに出された借地権を裁判所が決めた価格で買い取って、再び自分の農場の絶対的所有者となる権利である。裁判所が指定した金額は通常、賃料の約16年分だった。この大金を支払うことによって、彼は数年前までは紛れもなく自分のものであり、英国法の最も確実な権利の下に所有されていたものであり、正当な購入によってではなく、単なる法的没収によって奪われた財産を取り戻すことができるのである。

 

 いかに都合の良い弁解がなされようとも、この法律の本質が疑いようのないものであることは当然である。そして、それは今後拡大することが確実な前例を確立したのである。しかし、私が特に注目したいのは、これに最も強く反対し、その重大かつ本質的不誠実さを最もはっきりと暴いた政党が、これを受け入れるばかりでなく、拡大する義務があると気づいた、あるいはそう信じたという点である。彼らは、現実的な政治問題として、このような特権を一部の農地賃借者たちだけに与え、他に与えないのは不可能なことであると主張してきた。この法律が制定された当初の主な口実は、それは自分で交渉する能力のない非常に貧しい借地人のためのものであること、法律が年季借地人に与えた借地権の不変性は、賃料が支払われる限り、善良な地主が広く自発的に与えてきたものであるということだった。しかしこの法案は(*アイルランド独立に反対の立場を取る)ユニオニスト政権によって間もなく、農民の中で最大かつ最も独立した階層であって、明確な期間、明瞭な書面による契約に基づいて土地を占有している借地人にまで拡大された。実際、貧しく無力な農民よりも、聡明で裕福な農民の方がこの法律からはるかに多くの恩恵を受けたのである。

 

 強い有用性や絶対的な政治的必要性が、基本的な善悪の原則と明らかに対立するこの種の事例は、政治家が対処しなければならない最も困難な問題の一つである。政治家は国を統治し、耐え難くならないようにその秩序を維持しなければならない。そして彼はときに、無秩序に屈服せず、財産への攻撃や契約違反を犯すことなしに、それは不可能であると自らを説得することがある。彼が思うほど、その必要性が絶対的なものだったか、あるいはその有用性が正しく計算されていたかは実際のところ、大いに疑問である。しかし、アイルランドの農地法を推進した英国の政治家のほとんどが、それを心から信じていたことは疑いがない。また彼らの中には、残された財産に安全性と最終性を与えて、略奪された地主たちへの償いにすることを思い描いた者たちもいた。おそらく、このような状況下で言えるのは、賢明な立法者ならば、(#先取特権による借地権の)大規模な購入の促進によって破壊された絶対的所有権と契約の有効性を徐々に回復し、同時に、単なる経済的ものではなく、明らかに立法府の不正行為に起因する損失を―直接的にはできないとしても―間接的に元所有者に補償するよう努めるだろうということくらいである。

 

 党のリーダーが対処しなければならない別の種類の誘惑もある。最も深刻なものの一つは、分裂したり意気消沈したりした党の団結や熱意を回復させるために、本心から望んでいない問題を強引に取り上げる傾向である。政治家なら誰でも知っているように、魅力的な計画や人気のある選挙スローガンを求める気持ちは、政治において最も強いものの一つである。また彼らもよく知っているように、作られた世論や人為的に刺激された扇動というものが存在する。問題が提起され、押し進められる。それが国益だからではなく、単に党の目的に適っているからである。しばしばリーダーたちはほとんど、あるいはまったく抵抗する力を持たない。支持者、あるいは支持者の一部からの圧力は抗し難いものになる。思慮のない希望が持ち出され、無分別な誓約が強要されて、党全体が熱中する。これが数多くの早計で有害な立法の原因なのである。

 

 もう一つの非常に難しい問題は、公務のためのものとはいえ、道徳的に弁解の余地のない公務員の行為に政府が対処するべき方法である。国家の偉大な獲得物が、まったく批判の余地のない手段によるものであることはほとんどない。そして非文明的な、あるいは半文明的な民衆を相手にしなければならない大帝国では、暴力的な行為は確かに稀なものではない。革命やパニック、内戦の嵐の中で、大きな責任と危険を伴う職務に就いている人々のケースに、私的モラルの厳格さを完全に適用することは、歴史の評価についても、同時代の評価についても不可能である。莫大な利益を託され、恐ろしい危険に取り囲まれている彼らは、しばしば完全には、あるいは少なくとも法的には正当化できない手段を取らなければならないことがある。その一方で、このような状況にある人々は、マキアヴェッリやナポレオンの原則を受け入れ、政治と道徳との間にはまったく関係がないかのように扱う用意が出来過ぎている。

 

 この種のケースは、行為者の動機と、彼が遭遇しなければならなかった危険の大きさを注意深く吟味した上で、個別に検討されなければならない。彼が行動した環境の道徳的な空気が斟酌されなければならない。また彼の経歴は、その罪深い部分だけでなく、全体として考察されなければならない。ウォーレン・ヘイスティングス(*1732―1818、初代インド総督)の裁判や、帝国を築き上げた他の偉大な冒険家たちの生涯について歴史家たちが下した評価には、絶えずこの種の問題が生じている。

 

 現代でもそれは頻繁に起こっている。1851年12月2日のクーデターはその極端な例である。ルイ・ナポレオンは、1848年に制定されたフランス共和国憲法を遵守し、擁護することを誓っていた。この憲法は、とりわけ国民の代表者たちの身体の不可侵を宣言し、大統領が議会を解散させたり、停会させたり、何らかの形でその職務の執行を妨害したりすることはすべて大逆罪に当たると宣言し、執筆と討論の自由を完全に保障していた。「今、私が行った宣誓は」と大統領は議会で演説した「私の今後の行動を命じるものである。私の義務は明白である。私は名誉を重んじる人間としてそれを果たす。全フランスが築き上げてきたものを違法な手段で変えようとする者は皆、国の敵とみなす。」その後も何度も演説の中で、彼は同じ感情を繰り返し表明し、いかなる状況下でも、自分が宣誓を破ったり、良心に背いたり、憲法上の権限の限界を踏み越えたりすることはあり得ない、と国を説得しようとした。

 

 彼がやったことはよく知られている。12月2日の夜明け前、18人の国会議員を含むフランスで最も有名な政治家たちが、彼の命令によってベッドの中で逮捕され、牢獄に送られ、その多くは後に国外追放されたのである。国会は兵士に占拠され、別の場所に集められた議員たちは牢獄に連行された。高等法院は武力によって解散させられた。戒厳令が敷かれた。この簒奪に街頭で抵抗する者はすべて、裁判なしに、直ちに射殺せよという命令が下された。報道の自由、集会や討論の自由は完全に破壊された。約100誌の新聞が弾圧され、多数の編集者がカイエンヌ(*南米の仏領ギアナの流刑島)に移送された。政府の許可のない出版は許されなかった。国民を欺いて大統領に多くの支持が集まっていると思わせるために「諮問委員会」が発表され、その名前がパリに貼り出された。このリストに名前が掲載された人々の半数は委員になることを拒んだ。しかし、抗議を受けたにもかかわらず、彼らの名前はそのまま掲載された。行われたことを彼らが承認したように見せかけるためである。[45]クーデター直後、即座に新政府への支持を書面で表明しない役人はすべて解任しなければならないという命令が出された。県知事たちには、彼らの管轄内で誰でも思いのままに逮捕する権利が与えられた。12月8日に出された事後布告によって、行政府は、過去に「秘密結社」に所属していた人物を裁判なしでカイエンヌやアフリカの流刑地に送れるようになった。この命令によって、政治クラブの多数の会員たちはすべて政府のなすがままになった。議会が再び開かれるようになったとき、それは何年もの間、自由な議論の欠片もないように組織され、束縛されていた。ほとんどアジア的なほどに苛酷な専制政治がフランスに確立されたのである。

 

 12月4日の悲劇は3,000人以上のフランス兵が15分以上にわたって、大通りの無害な見物人に向かって、反撃されることもなく、悠々と一斉射撃を繰り返し、家々に押し入って男性のみならず、数多くの女性や子供を殺し、あるイングランド人目撃者の言葉を借りるなら、ついには大通りが「いくつかの地点で完全に屠殺場」になって、その並木の周りが血の池になったものだが、大統領がそれを全く処罰せず、非難しなかったとはいえ、それが彼の命令ではなかったことは完全に認められている。この点については矛盾する証拠もあるが、家々から散発的な発砲があった可能性は高く、兵士たちに激しく血腥いパニックが起こったことは確かである。パリで広く信じられている、逮捕された囚人の大群が真夜中に牢獄から連れ出され、兵士の集団によって計画的に射殺されたという、ありそうな、あり得なくもない話は、誇張や虚偽だったかもしれない。真実を知っていたはずの警視総監モーパ(*シャルルマーニュ・ド、1818―1888)はそれを明確に否定した。しかし、自分が当初から陰謀全体の主導的な行為者だったことを自負する彼のような人物に、どのような信用が置けるのかという疑問が生じるのは無理もないことだろう。[46]出版は完全に禁止され、調査の可能性はすべて封じられていたため、これらの事についての証拠は殆ど得られないと言われているのは真実である。12月2日以降の数週間のうちに移送されたり、強制的に追放されたりした人々の数については、おそらく帝国の歴史家であり称賛者である人物に頼ることができるだろう。彼はその数を最大26,500人としている。[47]国民投票の後、新たな追放措置がとられた。そしてクーデターの最も熱狂的で巧みな賛美者の一人であるエミール・オリヴィエによれば、1852年の最初の数ヶ月間に、フランスの刑務所には15,000人から20,000人の政治犯がいたという。[48]ルイ・ナポレオンはこのような手段で、生涯の夢だった帝国を手に入れたのである。

 

 しかし、歴史上の大罪の多くがそうだったように、この事件にも弁解の余地がなかったわけではない。さらに詳しく調べるなら、それが決して取るに足りないものではなかったことがわかるだろう。ナポレオンは7,317,344票中、5,434,226票(*74%)を獲得して大統領に選出された。彼の名前、来歴、そしてよく知られた彼の野心とともに、この圧倒的得票が人々の真の望みをはっきりと示していた。彼の権力は普通選挙(*6カ月以上同一市町村に住む21歳以上のすべての男性)に由来するものであって、国会からは独立していた。彼自身は軍隊を指揮することができなかったが、そのことが彼に軍隊を指導する権限を与えた。そして彼は最初から独立した、ほとんど帝王に等しい地位に就いていた。当選後初めて行われた閲兵式で、彼は兵士たちの「ナポレオン万歳!皇帝万歳!」という絶叫に迎えられた。1848年憲法が極めて実行不可能なものだったことはすぐに明らかになった。パーマストン卿の言葉を借りるなら「それぞれが同じ源泉に由来する二つの大きな権力が存在して、それらの意見はほとんど確実に対立する。しかしその間を裁く審判者はおらず、どちらも何らかの法的手段によって他方を排除することはできない。」大統領は本会議を解散することはできないが、自分が選んだ内閣を国会に押し付けることができる。彼の任期はわずか4年で、再選は禁止されていた。一方で大統領と国会の権力は1852年に同時に失効するという、フランスを無政府状態にして深刻な混乱の危険にさらす、最も間の抜けた規定があった。

 

 1849年5月に選出された立法議会は、革命的な議会とはほど遠いものだった。それは少数の無鉄砲な社会主義者を含み、多くの派閥に分裂し、ほとんどの民主的なフランス議会と同様に、数多くの弱点と矛盾を示していた。しかし、議員の大多数は革命に共感しない保守派であって、大統領に対する彼らの振る舞いは、フェアに評価するなら、全体として非常に穏健なものだった。大統領はすぐに彼らを侮蔑的に扱うようになった。また彼らの背後に国民的熱意がないことは明らかだった。1849年6月、大都市で社会主義者の党派は急速に成長していた。パリでは失敗に終わった社会主義者の反乱があった。そしてリヨンでさらに手強いものがあった。それらは簡単に鎮圧された。しかし社会主義者たちはパリの代議士の大部分を取り込み、国中に荒々しいパニックを引き起こすことに成功した。その結果、いくつかの反動的な措置がとられたが、最も重要なものは、新しい居住条件を課すことによって参政権を大幅に制限する法律だった。この法律は、大統領の閣僚によって大統領の同意を得て国会に提出された。ただし、大統領はその後、普通選挙権の再確立を要求し、これを実現する法律をクーデターの主な理由の一つとした。この制限法は1850年5月31日、圧倒的賛成多数で本会議を通過した。しかし、それは一部の有力議員によって雄弁に糾弾された。そして国会の不人気に拍車をかけて、直接の普通選挙を権威の拠り所とする大統領との争いの中で、その権威を大きく低下させた。彼が国会の票決や意向とはまったく無関係に、またいずれの場合も、有力ポストをすべて自分の手先で埋めるために、閣僚の罷免や任命の権限を行使したことは一度や二度ではなかった。彼を支持する新聞は絶えず国会を非難した。そして1852年にフランスがさらされるだろう無政府状態の危険性と「社会の救世主」の絶対的な必要性を説いた。大統領は繰り返されたフランス旅行の中で、また一度ならず行われた閲兵式の中で「皇帝万歳!」という叫びが頻繁に飛び交うデモンストレーションの機会を何度も与えた。それは明らかに国会との戦いの中で彼に力を与えることを意図したものだった。

 

 彼が最も恐れていたのは、1848年末からパリ軍の司令官を務めていたシャンガルニエだった。彼はナポレオンよりはるかに無名だったが、軍に大きな影響力を持っていた。彼は強い権力志向を持った人物で、王党派から多くの求愛を受けていたが、しばらくは断固としてナポレオンに共感していた。しかし、ナポレオンから大きな申し出があったにもかかわらず、彼は次第に離れていった。彼は指揮下の軍隊に、閲兵式であらゆる党派的叫び声を上げることを絶対的に禁じる命令を出した。彼は国会で、これらの叫びは「奨励されたのみならず、扇動された」ものであると宣言した。そして大統領の任期延長の意図が明らかになるとオディロン・バロ(*1791―1873、ナポレオン政権の主要閣僚)に、彼の命令と国会議長の許可があれば、ルイ・ナポレオンを拘束し、投獄してクーデターの機先を制する用意があると確約した。[49]大統領は、彼から指揮権を剥奪し、自分の手下をパリ軍の指揮官に据えることに成功した。シャンガルニエは抵抗することなく解任を受け入れたものの、依然として国会の重要なメンバーであり続けた。彼は公然と、自分の剣は国会のものであると宣言した。もし武力衝突が起こったなら、彼が国会を代表することはほぼ確実だった。大統領の公式給与は48,000リーブル―アメリカ大統領の五倍近くだった。国会はこれを増額することを拒否した。ただし僅差の多数派の賛成とシャンガルニエの要請によって、彼の債務を支払うことには同意した。

 

 大統領の再選を可能にする憲法改正を求める声は全国的に急速に高まった。これが概ね期待できる唯一の平和的な解決策だったこと、大多数の国民の真の願いだったことには疑いの余地がない。それに賛成する膨大な数の署名とともに請願書が国会に提出された。そして、概ね議員たちがそのほんの一部をなすに過ぎない一般評議会(*the Conseils Généraux:県の審議機関)の圧倒的多数は改正に賛成していた。大統領は自身がそれを必要としていたほどには請願しなかった。彼は国会に送ったメッセージの中で、もし彼らが改正に賛成しなければ、1852年に国民は厳粛にその意思を表明するだろう、と宣言した。1851年6月1日、ディジョンでの演説で彼は、フランスの隅から隅までがそれを求めている、自分は国民の希望に従う、自分の手の中でフランスを滅ぼさせはしない、と宣言した。同じ演説の中で、彼は民衆の境遇を改善しようとする自分の願いを、国会が決して支持しなかったことを非難した。同時に、彼は自分の特別な共感と信頼が軍隊にあることを示す機会を逃さなかった。そして彼は、閲兵式での自分への好意的デモンストレーションにおいて最も目立った連隊の大佐たちに格別の好意を示した。[50]これらすべての意味するところは疑いようがなかった。シャンガルニエは、挑戦を受けて立った。憲法改正の問題が会議場に持ち込まれたとき、彼は「いかなる軍人も決して法と議会に背くことはない」と宣言し、議員たちに落ち着いて審議するよう呼びかけた。

 

 国会での投票の結果は466対278(*賛成63%)だった。しかし、憲法改正には4分の3以上の賛成が必要で、この数は得られなかった。フランスの各政党が崩壊している現状において、それが得られる可能性はほとんどないと思われた。状況が変わらず、緊張とパニックが極限に達したままで、間もなく国会は約2ヶ月間停会された。フランスの85の一般評議会のうち憲法改正に賛成したのは80県、棄権は3県、反対はたったの2県だった。

 

 大統領は今や完全にクーデターを決意した。そして国会が再開される前に、新しい内閣が作られた。サン・アルノーが陸軍のトップ、モーパが警察のトップになった。大統領の最初の行動は、国会に普通選挙を廃止した5月31日の法律の撤回を求めることだった。国会は大いに逡巡した末、たったの2票差でこれを拒否した。この問題は武力によってしか解決できないという信念が普遍的なものになりつつあった。議会内の大胆な人々は、新たな措置を講じなければ自分たちは軍事力の前に無力になることをはっきりと見抜いた。1848年の法令によって、国会の議長は必要があれば陸軍大臣と関係なく、国会の保護のために軍隊を招集する権利を有していた。そして、今や彼がこの権限を委任する将軍を選ぶことを可能にする動議が出された。軍の指揮権を分割し、国会も独自の将軍と軍隊を持つことができるという措置は、非常に有効なものだったかもしれない。しかし、それはおそらくフランスを内戦に巻き込んでいただろう。そして大統領は、もし国会がそのような票決をしたなら、直ちにクーデターを起こすことを決意していた。採決は1851年11月17日に行われた。サン=アルノーは陸軍大臣として、軍の指揮権が分割される危険を詳細に述べ、憲法上の理由からこの措置に反対した。しかし議論の間、モーパとマニャン(*パリ軍司令官)は議場の回廊にいて、議案が可決された場合にはサン=アルノーに軍隊を召集させて国会を包囲、解散させる命令を出そうと待ち構えていた。

 

 しかし、これは108票差で否決された。そして拳が振り下ろされるまでに、まだ陰謀とパニックに悩まされる数日間があった。国債の価格とすべての党の最高の目利きたちの言葉は、この不安が真実のものであることを示していた。クーデターが成し遂げられたときに発表された宣言書で、大統領が国会は単なる陰謀の巣になっていたと述べたのは事実ではなかった。そして自分がクーデターを行ったのは、君主制の陰謀から共和国を守るためだったという彼の主張には奇妙な図々しさがあった。しかし、武力行使が不可避になったという確信が一般的なものだったこと、最初の一撃がナポレオンかシャンガルニエのどちらのものになるかが最大の問題だったこと、そして国民の大多数がナポレオンの再選を望んでいることは明らかだったとき、一部の国会議員の間に、武力によってナポレオンを逮捕し、オルレアン家の誰かを代わりに選出しようという思惑があったことは、まったく事実である。[51]12月2日、幕が切って落とされた。そしてクーデターに伴ってナポレオンは国会を解散し、自らの権限で普通選挙権を復活させ、5月31日の法律を廃止し、包囲状態を確立し、フランス国民に投票によって自分の行動を評価するよう呼びかけた。

 

 確かに、大きな信頼を置けるような訴えではなかった。大統領に全面的に味方していた陸軍はクーデター直後、単独で公然の投票を行った。フランスが軍隊は大統領の味方であることをはっきりと認識し、大統領の意向にそぐわない判断を下した場合の結果を予測できるようにするためである。約3週間後、民間の国民投票が行われたときには戒厳令が敷かれていた。あらゆる公開の集会が禁止された。新政権に敵対的な新聞は許されなかった。政府当局の許可を得ていない選挙運動の紙やビラの配布はできなかった。秘密結社に所属したことがある者はすべて、アフリカの熱病の死地に送られるだろうという恐ろしい布告は、最も広い意味で解釈された。そしてあらゆる政治結社や組織がその対象に含まれていた。高度に中央集権化された国のすべての職員が熱心な選挙活動員になった。反対票を投じた場合、この国には政府が無くなり、無政府状態と内戦がほぼ確実になるため、有権者には大統領以外の、あるいは大統領に敵対する選択肢はなかった。このような状況下で、7,500,000票が大統領を支持し、500,000票が支持しなかった。

 

 しかし、あらゆる推論を行った上で、フランス人の大多数が新体制を容認したことに疑いの余地はない。社会主義の恐怖が広がっていた。そして、それが強い政府への熱烈な欲求をもたらしていたのである。血腥い無政府状態になる危険性が非常に高かったため、多くの国民はいかなる犠牲を払ってもそれだけは避けたいと考えたのである。議会主義の信用は大きく失墜していた。小作農は全く議会主義を気にかけたことがなかった。かつて議会主義を持て囃していたブルジョア階級も今ではすっかり怯えていた。近年の記事の中で、この時期の憲法の破壊と、同国人の中の最も著名な人々を数多く含む国会に加えられた重大な侮辱を目にしたときのフランスの大衆の無関心、ほとんど愉快そうな冷笑、あるいは安堵感ほど印象的なものはない。

 

 この点については、トクヴィル(*アレクシ・ド、1805―1859、政治家、政治思想家)以上の権威はいないだろう。彼ほど深く、苦々しく、行われたことの不道徳さを感じていた人物はいない。しかし、彼は国民の感情について幻想を抱いてはいなかった。憲法は徹底的に不人気だった、と彼は言う。「ルイ・ナポレオンには、誰も気づいていなかったもの―国民の潜在的なボナパルティズム―を発見するという功績、あるいは幸運があった……皇帝の記憶は曖昧で、確かなものではなかったが、それゆえにより堂々と、人々の想像の中に英雄伝説のように生きていたのである。」トクヴィルの意見によれば、すべての教養人はクーデターを非難し、否認していた。「37年間にわたる自由が、報道の自由と議会での議論の自由を、私たちにとって必要なものにしたのである。」しかし、国民の大部分にとってはそうではなかった。彼は予言した「新政権は、国民の大多数の不評を買うまで続くだろう。目下、不賛成は教育のある階級に限られているが。」「民主主義に対する反動、さらには自由に対する反動はそれに太刀打ちすることができない。」[52](*実際にはこの政権は普仏戦争に敗北するまで約20年間続いた。)

 

 この発言の両面にいくらかの誇張があることは間違いない。新政府による国外追放と投獄の恐るべき規模は、憎悪がトクヴィルの想定よりも深かったことを示しているようである。また一方で、フランスの国債が即座に91から102(#単位?)まで上昇し、フランスの商業のほとんどすべての部門が同様の上昇を見せたこと[53]、20人ほどの将軍がこの陰謀に積極的に関与していたこと、司祭たちの大部分はこの陰謀の成功を喜んでいたことを思い起こすなら、教育ある階級が行われたことを完全に否認していたとは言い難い。真実は、フランスの財界はクーデターの成功を大きな危機からの脱出と見た一方で、二つの有力な職業、軍と教会は大統領を強く支持したということのようである。ナポレオンの名前は軍隊では魔法のような力を持っていた。そしてローマへの遠征(*教皇国家の支援)と、新政府が聖職者の指導を受けるだろうことは、教会派が行われたことを正当化するには十分だった。

 

 実際、この奇妙な歴史の中で、「一つの魂が…一つの些細な罪を犯し、一つの意図的な嘘をつくよりも、それがこの世の苦しみである限り、太陽と月が天から落ち、地が衰え、この世に存在する何百万もの人々が極度の苦しみの中で餓死した方が良い。」と教えている教会の特定の指導者や代表者たちの態度ほど重要なものはない。[54]

 

 ラコルデール、ラヴィニャン、デュパンルーという―三人の著名な教会人が、クーデターの承認も、その立案者への信頼の表明も拒否したことは、彼らの不滅の名誉になった。しかし帝政の最新の称賛者は、彼らは業界ではほとんど孤立していたと豪語している。ローマ教皇のヌンシオとフランスの主要な司教の助言によって、聖職者たちは直ちに祝辞を述べた。誰よりもフランスの聖職者たちの大半を代表し、彼らに影響力を持っていたヴュイヨは、あからさまな無条件の歓喜とともに、この出来事について書いている。モンタランベールでさえ、クーデターの翌日には政府に馳せ参じた。彼はルイ・ナポレオンを「この六十年の間フランスを統治してきた他の誰よりも、宗教的利益に対して効果的かつ知的な献身を示した」君主と評した。そしてシブール大司教を筆頭とする聖職者の大群が、この重大な局面において新政府の熱烈な支持者だったということは誰しも認めるところである。[55]クーデターから三十日後、カトリックの儀式が持つ全ての華麗さの中で、教会の荘厳な祝福を受け、成し遂げられたことを全能の神に感謝する聖歌テ・デウムに耳を傾けるためにルイ・ナポレオンがノートルダム寺院に現れたときの情景を、キングレークは不朽の美しさを持つページの中に描写した。時が来た。それは事実である。ルイ・ナポレオンは彼らが想像していたよりも自由主義的(*liberal)であって、教会主義的ではないことに気づいて、聖職者たちは方針を変えたのである。しかし、フランスの自由主義者たちの教会に対する感情を推し量るとき、12月2日の偽誓と暴力に対する教会の態度が忘れ去られることは決してないだろう。

 

 ローマ・カトリック教会の政治倫理を、ニューマンのような論者の欺瞞に満ちたページからではなく、その歴史のさまざまな時代における実際の行動を検証することから判断する人々にとって、そこには何の矛盾もないように見えるだろう。それは、教会の利益に資すると思われるすべての行為に対して、教会がどのような態度を取るかを示す、数多くの実例の中の一つにすぎない。教皇にサン・バルテルミの虐殺を公式に感謝させ、ヴァザーリ(*ジョルジュ、1511―1574、画家、建築家)に命じてバチカンの勝利の壁画の中にコリニー(*1518―1572、ユグノー戦争のプロテスタントの将軍)の殺害を描かせたのも、同じ精神だった。近代のキリスト教君主の中で、1848年にガエタに逃れたローマ教皇を迎えたナポリのフェルディナンド2世(*1810―1859、両シチリア王)ほど悪い記憶を残した者はいない。グラッドストンがその政治を「神の否定」と評した君主である。彼は守ることを誓った憲法を破壊したのみならず、彼を信頼していた自由主義者の大臣たちを忌まわしい地下牢に放り込んだ。しかしローマ教皇の目にとって、彼の教会への貢献はすべての欠点をはるかに凌駕するものだった。この「最も敬虔な君主」のために建てられた記念碑は、サン・ピエトロ大聖堂の礼拝堂の一つの中に見られる。すべてのパリの旅行者たちはマドレーヌ寺院で、フランスのキリスト教の歴史を代表する最も有名で栄えある聖職者たちの称賛に囲まれ、その仕事を祝福するキリストを頭上に頂いて、意気揚々と雲の上に腰かけるナポレオン1世のフレスコ画を見ることができる。

 

 今やカトリックの国々において、公的生活における最も高い道徳的水準が、教会の精神や教えを代表する特定の人々の中に見られることは稀であって、それらや全ての教義神学と無縁の人々の中に見られることの方がはるかに多いというのは、実に重大な事実である。不正な戦争、不徳な同盟、憲法上の義務違反、正当な理由のない侵略、不寛容と狂信の大暴発を、カトリックの出版物が真剣に非難するのがいかに稀なことだっただろうか!実際、現代における最悪の道徳的堕落のいくつかは、聖職者と出版物の両者の間で、巨大で純粋なカトリックの見解によって支持され、刺激されてきたものであると言って過言ではない。反ユダヤ主義運動、ドレフュス事件についてフランスが示した正義への恥ずべき無関心、アイルランド土地同盟の支配に伴う無数の詐欺、非道、弾圧は、その最も新しく顕著な例である。

 

 前述したように、現世的な人々はルイ・ナポレオンのクーデターに、異なる評価を下した。フランス国家の華だった多くの人々が、新政府への忠誠や、癒着を拒んだのはフランスの歴史の中で最も名誉なことである。偉大な政治家たちや、輝かしい過去を持ち、輝かしいキャリアを予感させる数人の傑出した軍人たち、教授としてフランスの知的生活の中心を担ってきた非凡な人物たち、勤勉で忍耐強い努力によって専門職の階段を登り、その報酬に生活の糧を頼ってきた官僚たちは、簒奪を正当化するかのような宣誓をするよりも、貧困や追放、そして最も名誉ある野心の長い失墜を受け入れたのである。同時に疑いのない名誉を持つ政治家の中にも、その全体を、またどの部分をも非難しなかった人々がいた。その中で特に際立っていたのはパーマストン卿だった。行われたことの全てこそ是認しなかったものの、彼は常に、フランスは実行不可能な憲法の暴力的な破壊と強力な政府の樹立が絶対的に必要な状況になっていたこと、クーデターはフランスを無政府状態と内戦という最も深刻で差し迫った危機から救ったこと、この事実こそがクーデターを正当化するものであることを主張していた。もし、その直後の残忍な暴虐がなかったなら、彼の意見はもっと幅広い共感を得ていたことだろう。

 

 クーデターの道徳的性格について南米でしばしばなされてきた議論は、将来ヨーロッパでも稀なものではなくなるだろう。最も優れた観察者たちがますます理解している通り、党派的方針によって動く議会政治は決して容易なものではない。そして長い経験と、世界の国々に非常に不均等に分布している精神と性格の資質なしに、完全なものになることは稀である。妥協、忍耐、中庸の精神が必要とされる。また堅実で、実際的で、善意のものと、華麗で、まことしやかで、野心的なものを見分けることができ、厳格な統一性や原則の一貫性よりも、有益な結果や、多くの利害や意見の調整を重視し、個人的な野心や党の目的を追求しながらも、大きな局面ではそれらを公共の利益に従わせられる心が必要とされるのである。議会には一般社会にはない自立と規律の取り合わせが必要である。そして、それが存在しない議会はたちまち党首の操り人形の集団になるか、崩壊し、士気を失った、反抗的集団になってしまう。高貴で輝かしい知性、華麗なヒロイズム、平時と戦時における偉大な業績において傑出した―世界でも屈指のいくつかの国々が、このような政体において著しい失敗を犯してきた。イングランドではそれは私たちの成長とともに成長し、私たちの国力の強化とともに強化されてきたのである。私たちはさまざまな局面でそれを実践してきた。その伝統は深く根を下ろし、国民性と完全に調和している。しかし今世紀、この種の政治は、それにまったく適さない多くの国々によって採用された。そして彼らは通常、それを全ての中で最も困難な形―すなわち普通選挙に基盤を置く、制御されない民主主義という形で採用している。多くの国々で、そのような議会は政府の先頭に立つ者としてまったく不適格であることが明らかになりつつある。しかし彼らは誓約やその他の憲法の形式によって保護されているため、彼らが自ら手放す可能性のない権力は、暴力以外の何物によっても奪うことはできない。このような国々では、民主主義が議会制に移行するよりも、ある種の独裁制や、国民投票によって正当化される専制政治に移行する方がずっと自然なことなのである。このような方向への変化は数多く起こるだろう。純粋に公的な動機によって、あるいは偽誓や暴力なしにそれが実行されることは稀だろう。しかし世論は、それぞれのケースをそれぞれの功罪に基づいて評価するだろう。そしてその結果が有益なものであって、国民の大多数がそれを望んでいることが示されたなら、そのような行為が厳しく非難されることはないだろう。

 

 別の種類の倫理的判断が対立した事例を簡単に挙げてみよう。最もよく知られているもの一つは1865年のジャマイカ反乱時のエア総督のケースである。この事件で問題になったのは、個人的な利益や野心ではなかった。総督は極度の困難と危険の中で祖国に多大な貢献をした、汚れなき名誉を持つ人物だった。彼の迅速かつ勇敢な行動によって、黒人の反乱はすぐに鎮圧された。もしこの反乱が拡大していたなら、ジャマイカには計り知れない恐怖がもたらされたに違いない。しかし、彼が宣言した戒厳令は必要以上に長く続けられ、過度の厳しさで実施された。そしてそのとき裁かれたのは武器を取った男たちだけではなかった。一人の目立った市民扇動家は暴動を大いに刺激し、総督に言わせれば暴動の「主因であり発端」だった。しかしこの種の人間の多くがそうであるように、彼自身は直接関与しておらず、他人を扇動したに過ぎなかった。彼は島の戒厳令が布かれていない場所で逮捕され、イングランドの最高の法的権威が法的に全く不当であると公言した方法によって軍事法廷で裁かれ、絞首刑に処せられたのである。もし島の全体的な状況が考慮されなかったなら、この行為は厳罰に値しただろう。もし総督の功績がこの行為と別に考慮されたなら、それは王室から高い栄誉を授けられるにふさわしいものだっただろう。ジャマイカでは、総督は立法評議会と議会に全面的に支持されていた。しかし、本国では世論が激しく割れていた。そしてこの問題がイングランドの主な論者、識者たちを二分したという事実が、この問題を大いに興味深いものにした。カーライルはエア総督の弁護に主導的な役割を果たした。ジョン・スチュアート・ミルは、彼を単なる犯罪者とみなし、二年以上にわたって不断の執念深さで彼を追求し続けた委員会の委員長だった。予想されたことではあったが、一方は総督の功績にのみ言及し、他方は総督の悪事にのみ言及した。エア総督はその偉大な功績に対して何の報いも受けなかった。彼は敵によって破滅的な法的出費を余儀なくされたが、その出費は後に政府によって支払われた。しかしオールド・ベイリー(*中央刑事裁判所)の大陪審がその訴状を棄却したため、彼を殺人罪で裁判にかけようとした人々は挫折した。全体として世論は彼らがやったことを是認していた、と私は思っている。エア総督は勇敢で名誉ある人物であって、国家に多大な貢献をし、数え切れないほどの人命を救い、極度の危険とパニックの中で卑しむべきではない動機によって重大な過ちを犯したが、その罪は十分に償われた、というのがほとんどの穏健な人々の結論だった。

 

 トランスヴァールのジェイムソン襲撃事件(*1895年)という、最近の出来事についても触れておこう。襲撃そのものについては、ほとんど語るべきことはない。実際、これは最近の植民地史のなかでも、最も恥ずべきであると同時に、悪質な出来事でもあった。その特徴はヒロイズムや技量の輝きに全く救われるものではなかった。これに直接関与した者たちは正当に裁かれ、正当に罰せられた。この問題に関して、英国社会の一部は不名誉な態度をとってしまった。しかし少なくとも、彼らが酷く欺かれていたこと、主要な、そして通常は最も信頼できる言論機関の一つが、陰謀者たちの機関として利用されていたことは酌量しておかなければならない。

 

 トランスヴァールへの遠征を準備し組織した政治家については、さらに難しい問題が生じた。実際の襲撃が彼に知らされず、また彼の同意なしに行われたことは確かだが、それが知らされたとき、彼はそれを阻止するためのいかなる措置も講じなかった。また、実際に不満があったことも事実だろう。奇妙な運命の皮肉によって、世界最大の金鉱のいくつかが、おそらくそれを望んでいなかった唯一の人々(*ボーア人)の手に入った。狩人であり農民だった彼らは、近代的な考え方に激しく反発し、孤立と広い空間、そして外敵に邪魔されることなく原始的で牧歌的な生活を送ることのできる場所を求めて、二度にわたって故郷を捨て、遠い土地まで長い旅をしてきたのである。今や彼らは自分たちの土地が巨大な移民の流れの中心になったことに気がついた。金鉱が必ず呼び寄せる、最も好ましくない種類の移民である。彼らの法律は非常に後進的なものだったが、最も抑圧的だったのは、ほとんどすべてが移民の手中にあった金採掘事業に関する部分だった。そしてこれこそ、彼らの政府の転覆が主目標にされた理由だった。物語の全体を通して金融の痕跡が見られる。しかし、ローズ氏は鉱山投機で莫大な富を築いていて、また金融業者として(*金鉱の発見と同時にトランスヴァールに誕生した)ヨハネスブルグの統治体制を覆すことに大きな関心を寄せていたとはいえ、単なる金銭欲に突き動かされるような人物ではなく、アフリカの開拓と文明化に密接に関わる政治的野心が彼を大きく動かしていたことは認めて良いだろう。共謀者たちの動機が同じようなものだったかどうかは疑問視されている。しかし彼が何をしたかは、はっきりと立証されている。ケープ植民地の首相という高度の機密を扱う地位にあり、同時に女王の枢密顧問官だったとき、彼は近隣の友好国の政府転覆の陰謀に加担したのである。彼はこの計画を実行するために、首相である自分の上司の高等弁務官を欺いた。閣内の同僚を欺いた。ヨハネスブルグでの暴動に協力するための軍隊を、偽りの口実で集めた。勅許会社の重役だった彼は、同僚に知られることもなく、その地位を陰謀の推進のために利用していた。彼は反乱のための大量の武器のトランスヴァールへの密輸に積極的かつ秘密裏に関与していた。また、彼の機関紙がヨハネスブルグは圧政への自然発生的な憤怒に燃えていると報じていた頃、彼はもう一人の大富豪とともに、この町で密かに何千ポンドもの金を費やして蜂起を刺激し、支援していた。彼は全体の中の最もけちな事件にすら直接関係していた。ヨハネスブルグの陰謀家たちは、ヨハネスブルグにいる英国人の女性や子供たちがボーア人に撃ち殺される危険があるとして、英国に即時の救出を促す馬鹿げた手紙を捏造した。この手紙は襲撃の何週間も前の、なんの混乱もないときにローズ氏の許可を得て作成されたものだった。そして最後の瞬間に日付を入れて、南アフリカにいる若い兵士たちを襲撃に参加するよう誘導し、その後、陸軍省で彼らの行動を正当化し、また襲撃の第一報と同時に英国の新聞に掲載して世論に働きかけ、襲撃は法的には間違っているが、道徳的には正しいものであると英国民を納得させるために保管されていたのである。[56]

 

 ローズ氏は偉大な才能と影響力を持つ人物で、過去に帝国に多大な貢献をしてきた。同時に、合理的な判断力があれば、この一件で非難されるべきなのは襲撃に参加し実際に法によって処罰された人々よりも、彼の方だったことに疑問を持たないだろう―実際、ヨハネスブルグの状況について酷い嘘の説明を受け、本国の偽りの意思の下に襲撃に参加し、最も厳しく罰された若い将校たちよりもはるかに非難されるべきだろう。襲撃の失敗と、その計画への紛れもない加担ゆえに、ローズ氏は首相職と勅許会社の重役の辞任を余儀なくされた。そして少なくとも一時、アフリカでの影響力を失った。しかし閣僚たちは、彼が行ったことに対する処罰がこれらの辞職だけで十分か否かという問題に直面した。

 

 これは実に難しい問題の一つである。実際の襲撃はローズ氏の知らないところで着手され、ローズ氏に不利な証拠は主に調査委員会でのローズ氏自身の自発的な供述から出てきたという事実を前にして、政府が必然的に頓挫していたであろう起訴を試みなかったことは正しかった、と私は思う。彼から枢密顧問官の地位が奪われなかったことは、おそらく正しかったのだろう。この地位は過去の大きな功績の褒賞として彼に授けられたものであって、現女王陛下の治世では、この地位を授けられた者がそれを奪われたことは一度もなかった。また、襲撃の経緯について長く入念な調査を行い、ローズ氏の行為を十分に検証し、厳しく非難する報告書を出した後に、この問題をできるだけ早く収束させ、襲撃とそれが引き起こした党派間の敵意を沈静化させることが、南アフリカの平和と良き統治にとって最も重要である、と彼らが主張したことは正しかったと私は信じている。しかし、ここに記した事件全体について、ローズ氏はおそらく政治家に可能な限りの「巨大な過ち」を犯したとはといえ、彼の個人的名誉に関わるようなことは何一つしていない、と自ら庶民院に請け合った、ある大臣の言葉を私はどのように考えればよいのだろうか。[57]

 

 上述の例は、すべての政治家が政治的悪事を行う際に遭遇しなければならない困難の種類と、私生活の道徳に用いられる明確な線引きと基準ではそれらを取り扱えないことの説明に役立つだろう。世間から距離を置いた研究でいかなる結論に達しようとも、活動的な政治生活に参加するときには、動機、傾向、過去の功績、差し迫った危険、圧倒的な便宜、対立する利害を考慮しなければならない。その名にふさわしい政治家なら誰しも、自分の部下である公僕が帝国のために真摯に行動していることを知ったとき、それを強く支持する傾向を持っているはずである。これは実にすべての偉大な政治家の特徴であって、困難と危機の時代の公務員に何よりも大切な、信頼と活力を与えるものである。このような時に誤った決断は、臆病で、優柔不断で、先延ばしにされた行動よりも弊害が少ないのが普通である。賢明な大臣は、部下が最善と信じる方法で、迅速かつ実体のある正義に基づいて行動したのであれば、たとえ大きな間違いを犯したとしても、またその行動の結果が不幸なものだったとしても、彼を大いに擁護するだろう。

 

 しかし、あらゆる威信の中で、道徳的威信は最も価値あるものである。そして英国の力の主な要素の一つは、その背後にある道徳的重みであることを政治家は忘れてはならない。それは、英国の政策は本質的に高潔で率直なものであり、政治家や外交官の言葉と名誉は暗黙のうちに信頼して良いものであり、彼らの本質は陰謀や欺瞞とはまったく無縁なものであるという確信である。政治家は、二つの狂信の間で舵を取らなければならない―それが成功の栄冠を頂き、帝国を偉大さに導くのなら、どんなことでも許し、弱い国や野蛮な国には道徳的権利がないかのように振る舞う人々の狂信、そして常に自分の国に反発する傾向がある人々、戦争や無政府状態や反乱の時代にも、野蛮あるいは半野蛮の軍隊を相手にするときにも、平和な時代や高度に文明化された国と同様に、厳密な法的手続きを尊重し、常に高い水準の道徳的潔癖さで行動できると思い込んでいる人々の狂信である。私生活の問題では通常、善悪の区別は非常にはっきりしている。しかし公務ではそうではない。政治的行為の道徳的側面でさえも、大局的で、公正で、理解のある判断力を働かせることなしに正しく評価できることは稀である。政治家を動かすべき精神は、神学者や法律家や抽象的なモラリストのものよりも、むしろ気高く、尊敬に値する、世間に通じた人物のものでなければならない。

 

 現代において、政治道徳の水準がいくつかの点で向上したことは間違いない。しかし、国際政治において、それは決して確かなことではない。19世紀後半に起こった戦争の真相は、私たちに大いにそれを疑わせるだろう。そして最近になって明らかになったのは、その中の最も恐ろしいもの―1870年の普仏戦争―の責任は、これまで私たちが信じてきたよりも、ずっと平等に問われなければならなかったということである。私たちの時代にトルコ兵が行ったものほど巨大で、政府の行為であることが明らかな虐殺は、歴史上にほとんどない。キリスト教国の国民感情のレベルの低さの徴候として、この虐殺を見つめていたときのほとんどの国の一般的な無関心ほど印象的なものはない。軍事力を保持し、それゆえに同盟を求められ、敵国として恐れられている国は、弱小国ならば速やかに報復されるようなことを罰されたり、ほとんど非難されたりせずに行えることが明らかになった。19世紀の歴史の小さなエピソードの中でも、野蛮なアルメニア人虐殺の直後、キリスト教諸国の中で最も偉大で最も文明化された国の君主(*ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、オスマン帝国と手を組んで中東に手を伸ばそうとした)がいかに速やかにコンスタンティノープルに急行し、キリスト教徒の血に深く染まった手を握り締め、その土地において彼の人気と影響力を高めたと夢想して、権力の傲慢を挫き、野心の夢を払拭するのに最もふさわしい、最も神聖な記憶に聖別された景色を持つオリーブ山に行って、芝居がかった敬虔さで、自らをキリスト教信仰の擁護者であり、後援者であると宣言したかを歴史家が忘れることはないだろう!ごく近年の歴史の中からだけでも、政治家の意図的な虚偽の例、明確な条約上の約束や義務が一方の国にとって不都合だからという理由で簡単に破棄され、罰されることもなく反故にされた例、何の挑発も行わなかった弱小国が併合されたり略奪されたりした例が、どれだけ沢山挙げられることだろう!強国の前での弱国の安全は、国際道徳の最良の試金石である。この試金石を用いたとき、現代の公衆道徳が非常に高いものであると言えるだろうか。野蛮国や半文明国との戦争において、それが成功しさえすれば原因の調査がいかに軽薄なものになるか、ヨーロッパの現在の商業政策が侵略への情熱をどれほど強く刺激しているか、その政策がすべての大国で世論と報道機関にどれほど熱く支持されているかということに、誰しも気づかないはずはない。

 

 このようなことから生じる道義上の問題は数が多く、複雑であって、短い単純な定型句で片付けることはできない。侵略的な外国に自国を脅かされる重大な危険が迫っていることを察知している、あるいは察知していると考える政治家が、機先を制して都合のよいタイミングで、しかも直接的な挑発を受けていないのに戦争を強行することは、どこまで正当化されるのだろうか?人道的な動機から、自国民の命を犠牲にしてまで、条約上干渉する義務を持たない重大な過ちを正すことが、どこまで彼の権利や義務であると言えるのだろうか?複数の国が小国の安全を保証することに同意した場合、パートナーたちがそれを拒んだり、略奪の共犯者になったりしたなら、ある国はどこまで大きな危険を冒して単独で干渉しなければならないのだろうか。他国の侵略によって、自国が国家間の競争の中で商業、その他の不利益を被った場合、そのような不利益を防ぐために、政治家はどこまで、他の状況下では明らかに正当化できない手段を取ることができるだろうか。国家は、その威厳、臣民、国旗に向けられた侮辱に対して、どの程度の几帳面さで、財産と生命を犠牲にしてまで憤るべきなのだろうか?国家的利己主義と国家的利他主義の意味と限界とは何だろうか?国家間には礼節というものがある。そして条約上の義務を別にしても、いかなる大国も、国境の外の犯罪や侵略を無視して完全な孤立政策をとることはできない。一方、すべての政治家の第一の義務は、自国に対するものである。彼の仕事は人類のうちの数百万人に可能な限りの平和と繁栄をもたらすことである。そして利己心は少なくとも、他者を傷つけることを避けると同時に、人類の大きな部分の幸福を促進することに自らを限定するような狭量なものではない。(#?)善良な人物が自分一人に降りかかってくるのであれば受け入れるのが当然の義務と考える犠牲や危険も、彼が偉大な国家のために、そしてまだ生まれていない世代の利益のために行動する管財人として動いているなら、別の様相を呈してくる。政治が道徳から切り離されるほど悲惨なことはない。しかし現実の政治において、公的道徳と私的道徳が完全に一致することはない。国民の世論は、必然的に政治家を鼓舞し、抑制する。それは完成度に高低があるにしても、すべての国で彼らに義務の道を示す倫理規範を作り出している。偉大な政治家がその水準を高めるために何かをしたとしても、その影響から完全に逃れることはできない。国によってその高低には差がある―外交における誠実さと真摯さの差は非常に大きい―しかしそれが人々の私生活における行動の厳格な規範になることは決してない。山上の垂訓と大きく違うことは確かである。

 

 半ば無意識的に、半ば公言されながら、私たちの世代において世界中を駆け巡り、英語圏の国々が実質的に受け入れている信念がある。それは未開の種族を文明に復帰させ、文明的国々の外にある無政府状態、あるいは著しく間違った統治が行われている土地を、賢明かつ公正な支配者に委ねることは、侵略と征服を十分に正当化する、というものである。一般論として、強い国が弱い国を併合する目的で行う、不当でいわれのない戦争を厳しく非難する人々の多くは、それが善い統治ができないことを自ら示している国との戦争であれば、容認するか、ほとんど非難しないだろう。世界を最も良く統治できる人々の手に委ねることは、至上の目的と見なされている。戦争は実際にはこの目的のために行われていない。たとえ人道主義的熱狂の突風が政治家たちの計算された行動にしばしば衝動や口実や支援を与えることがあるにせよ、国々の博愛主義が戦争や征服という形をとるとき、利己心が混在していないことは稀か、決してない。しかし、戦争がいかに利己的でいわれのないものであったとしても、文明の領域を広げ、真の進歩を促し、野蛮な風習や抑圧や無政府状態に終止符を打つことに貢献するのであれば、被征服国の住民が変化を望まず、戦場で激しく抵抗するような数多くの場合でさえ、それは現在、非常に寛大に評価されている。

 

 国外と同様に、国内政治においても、それが国内世論と釣り合っていないなら、政治的手腕が高い道徳的水準を維持することは不可能である。国家で道徳が衰退すれば、それに伴って公人たちの堕落が非常に速やかに起こる。そして実際、一般的に公人の水準は、世間の優れた人々の水準よりもいくらか低くなる傾向があることが見られるだろう。彼らは私が既に指摘したような、特別な誘惑にさらされているのである。

 

 議会政治とは切っても切れない、党利党略、差し迫った問題、目先の人気取りのために問題を検討する不断の習慣が、最も誠実な知性に何らかの傾向を与えないはずはない。ほとんどの問題は、多少なりとも妥協的に扱われなければならない。また政治的モラルの厳しい基準に非常に資するとは言えない同盟や連合は頻繁に見られる。幸いなことにイングランドでは対立する政党の有力者同士が互いに尊重し合うことができていた。庶民院の両側には同じ名誉の基準が見られる。しかし、どの議会にも、悪名高い扇動家、陰謀家、利己主義者、刑法に触れようが触れまいが、少なくとも誠実な人々の見解にその人柄を深く刻み込むに十分な行動をした人々がいる。このような人物を党派の連携の中で無視することはできない。政治的リーダーは、議会生活の毎日の交際や業務において彼らと協力し―時には彼らに好意を求め―敬意と配慮を持って接しなければならない。あるテーマについて、またある時期に、目に余るような放蕩に耽った人々でも、別のテーマでは判断力、節度、さらには愛国心とともに行動し、有力な支援者、あるいは手強い敵対者になるのである。このような連携は、決して間違ったものではない。しかし、道徳的な知覚を鈍らせ、気づかないうちに道徳的判断の基準を下げるような傾向を持っている。万華鏡のように目まぐるしく変化する党の中では、過ぎたことはすぐに忘れ去られる。昨日の敵は今日の味方になって、現在の貢献はたちまち過去の悪行を覆い隠す。そして人々は知らず知らずのうちに意見の多様性だけでなく、重大な逸脱行為に対しても大変寛容になる。政治的モラルの高い水準を維持するためには、外部の世論を常に注視していることが不可欠である。

 

 世論が決して非の打ちどころのないものではないというのは事実である。政治的目的があれば犯罪は犯罪でなくなる、また最悪の犯罪も民衆の投票によって赦免されると考える傾向は、あまりにも一般的なものである。富や地位、非凡な才能や成功ゆえに、イングランド社会の大部分はほとんどの政治的悪行を赦免してしまう。そして国家はその最良の時でさえ、自国の利益に大いに資する行為を、他国の同様の行為に対するような厳しさで裁くことはない。しかし、このようなことをすべて認めてなお、イングランドには、あらゆる政治に健全な道徳的感覚を持ち込み、公正で正しい政策を単なる党利党略よりも上位に置く世論が多勢を占めていることは真実である。イングランド政府の気高い性格は最終的に、この世論の力と圧力にかかっているのである。

 

 

 脚注: 

 

[42]ここの文章はイングランドの読者には分かりにくいかもしれない。説明しておくと、ビーコンズフィールド卿の巧妙な取り決めによって、スティーブンズ・グリーン(*ダブリン)のイエズス会カレッジの教授たちはほぼ全員が王立大学のフェロー(*教員を兼ねる研究員)になり、教養学部のフェローは年間400ポンド、3人の医学部のフェローはそれぞれ150ポンドを受け取っている。このような仕組みによって、カトリック大学に国から年間6,000ポンドから7,000ポンドが交付されている。この事実によって、不満はかなり軽減された。

 

[43]例えば、ヘンリー4世が死の床で息子に語った言葉を参照されたい。

「だから、私のハリーよ、 

軽薄な連中を外国との争いで

忙しくさせることだ、そのときに起こる戦闘が、 

過ぎた日の記憶を意味のないものにするだろう。」

 ヘンリー四世 第2部 第4幕 第4場

 

[44]レインズボロー卿とキャサリン・ライリー夫人の裁判(*1869年)

 

[45]「トクヴィル回顧録(英訳版)」Tocqueville's Memoirs (English trans.), ii. 189、タイムズ誌への手紙参照。

 

[46]モーパ「第二帝国回顧録」Maupas, Mémoires sur le Second Empire, i. 511, 512.参照。兵士たちはサン・アルノーの命令に反して、通りで武器を所持していたり、バリケードを築いたり守ったりしているところを発見した人々を直ちに射殺するのではなく、多くを捕虜にしたと言われている。そして彼らがどうなったかは定かではないが、グラニエ・ド・カサニャックは、シャン・ド・マルス公園での処刑を全面的に否定している。(ⅱ.433)

 

[47]「グラニエ・ド・カサニャック」Granier de Cassagnac, ii. 438.

 

[48]「自由の帝国」L'Empire Libéral, ii. 526.

 

[49]「オディロン・バロ回顧録」Mémoires d'Odilon Barrot,iv. 59―61.

 

[50]「オディロン・バロ回顧録」Mémoires d'Odilon Barrot,iv. 56, 57.

 

[51]この件に関するパーマストン卿の発言は、エヴリン・アシュリー著「パーマストンの人生」Ashley's Life of Palmerston, ii. 200―211を参照のこと。しかしトクヴィルは、議会の多数派がこのような意見に同調していたことを全面的に否定している。「トクヴィル回顧録(英訳版)」Tocqueville's Memoirs (Eng. trans.), ii. 177モーパは彼の回顧録の中で、ボナパルティスト側の陰謀について非常に詳しく述べている。シャンガルニエの「信頼する人物」は彼に買収されていたようである。

 

[52]「トクヴィル回顧録」Tocqueville's Memoirs, ii.

 

[53]アシュリー著「パーマストンの人生」Ashley's Life of Palmerston, ii. 208.

 

[54]ジョン・ヘンリー・ニューマンNewman.

 

[55]エミール・オリヴィエ(*1826―1913、フランス首相)著「自由の帝国」Ollivier, L'Empire Libéral, i. 510―512.参照。

 

[56]「南アフリカについての秘密委員会の第二回報告書」Second Report of the Select Committee on British South Africa (July, 1897).

 

[57]議会討論Parliamentary Debates, July 26, 1897, 1169, 1170.

 

 

第十一章

 

私が軍隊、法律、政治の分野で辿ってきた道徳的妥協の必要性は、教会でもそれに劣らない、別の際立った形で見られるだろう。何世紀も前に作られた定型句や信条に縛られた古い教会のメンバーや聖職者たちは、それらの形式と人々の知識の変化を折り合わせることの難しさに絶えず直面している。そしてその困難の圧力は通常の力が及ぶものではないと感じられるときがある。たとえば、ルネサンスと宗教改革の時期がそうだった。ヨーロッパの知的状況が変化して、無謬とされていた教会が膨大な量のぺてんと妄想を承認していたことが広く確信されるようになった。その結果ある国では、多数の教会の指導者さえも含む教養階級の間で、あらゆる宗教的信仰が静かに消え去ったのである。そして別の国では、キリスト教を原始的な形に回帰させ、その周りに集まっていた迷信を拒絶しようとする宗教的熱意が大爆発した。コペルニクスの理論によって、私たちの世界は長い間信じられていたような宇宙の中心ではなく、中心である太陽の周りを他の多くの惑星とともに回っている一つの惑星であることが証明され、望遠鏡という道具によって、私たちの地球が宇宙の中で占める場所が限りなく小さいことが発見されて、人々の蓋然性の尺度を変え、間接的にではあるが、彼らの神学的信念に広く影響を与えた。

 

同様の変化は、宇宙の全ての体系が一つの偉大な法則によって貫かれているというニュートン的発見によって、また科学的知識の着実な増大によって徐々にもたらされ、かつては孤立した気まぐれな霊的介入によるものとされていた膨大な数の現象が、一定不変の、曲げることのできない、全てに行きわたっている法則によって制御されていることが証明された。彗星や日食が災いを予兆するために送られたと信じられていた時代、気象の大きな変化がすべて孤発的な霊的な要因によるものとされていた時代、魔術や悪魔憑き、超自然的な病や超自然的な治療が疑いの余地のない事実とみなされていた時代、神的なものであれ悪魔的なものであれ、同時代の奇跡の報告が奇妙ともありそうもないとも感じられていなかった時代から、私たちが信仰を告白する際の定型句の多くは、今も受け継がれている。科学的精神が宇宙を支配するまったく別の概念を紹介し、奇跡的なものが、絶対的に否定されているわけではないにせよ、少なくともほとんどの教養ある人々の目にとって遠い過去のものになっているこの時代に、こうした定型句が時に矛盾したものに見えるのは驚くべきことではない。

 

今世紀は、旧来の宗教的信念に対する強力な反動が見られる一方で、それに最も深い影響を与えるような変化の豊富さにおいても異例だった。世界史のドラマ全体が「失楽園」と「復楽園」の枠組みで構成されていると信じられていた頃から、それほどの年月は経っていない。人間は、罪のない世界に罪のない存在として現れたが、すぐに最初の地位から転落し、その転落は世界的な結果をもたらした。それが地球にもたらしたものは、罪、死、苦しみ、病気、不完全さ、衰退、人や獣の他者を傷つける凶暴な本能や傾向、生きとし生けるものを苦しめるすべての争い、恐怖、不安、悲しみだった。そして教父たちは大地の荊や雑草や不毛さえもそうであるとよく言っていた。復楽園と失楽園は不可分の関係にあると信じられていた。一方は他方の説明だった。一方が病を、他方が治療をもたらしたのである。

 

この図式の主な輪郭が全く変わってしまったことは否定できない。かつて天地創造が行なわれたとされていた時期よりもはるか昔から地球は存在していたこと、アダムが楽園を失ったと信じられていたよりも数えきれないほど古い時代から死は最も身近な事実で、曲げられない掟だったこと、そこに生きていた動物たちはその目的に特別に適した爪と歯で、今と同じように互いを餌食にして貪り食っていたということが、初めて発見されたのである。半ば消化された遺残物でさえ、化石として残っている。

 

ある異教の哲学者は教会の教えとは際立って対照的に、「死は法則であって、罰ではない」と書いている。そして発掘調査は彼の主張を完全に裏付けている。

 

そして、起源とされる人間が地上に生きて死んだ何千年も前に、人間が存在していたことを示す決定的な証拠が見つかった―残された遺物から判断する限り、彼らは私たちよりも優れておらず、むしろ大幅に劣っていて、そのほとんど唯一の技術は殺傷用の粗末な道具を作ることであって、その建造物と生活は、現存する最も程度の低い未開人のものに非常に近かった。

 

その後、ダーウィンの学説が登場して、生物界の全ての歴史は主に絶え間ない争いによって、低い形から高い形へとゆっくりと連続的に進化してきた歴史であって、人間自身もこのようにして動物界の最も粗末な形から徐々に出現してきたのであって、エデンのリンゴに起因するとされる道徳からの逸脱のほとんどは、彼の存在以前の低い段階の遺物と継承物であると主張した。低い段階から高い段階への連続的上昇説は、堕落説に取って代わって、人類の歴史を説明するものになった。それが人類に希望を与えない理論ではないことは確かである。それは物事の究極的な起源を説明しない。また神的で創造的な起源や、定められた神の計画への信仰と矛盾するものではない。しかし、キリスト教圏が18世紀に渡って根本的な真理として受け入れてきた人間の歴史と本性に関する概念からは、可能な限りかけ離れたものである。

 

これらと同時に、別種の力がもたらされた。比較神話学は神話や奇跡が、いかに人類史のある段階の、ある種の自然現象に対する原始的な思い違いの自然な産物であるか、細部に多少の違いはあれど、本質的に同じ種類の伝説がいかに多くの異なる場所で生まれ、それらがいかに移動し、互いに影響し合ってきたかを示す、膨大な量の証拠を蓄積してきた。聖書批評は同時に、ユダヤ人の著作を分解、分析して、教会が認めてきたものとはまったく別の年代や権威を割り当ててきた。このことがそれらの宗教や道徳の継続的発展の記録としての重要性を損なったわけでも、人類の最も高邁で永続的な宗教的感情の表れとしての価値を減じたわけでもない。しかし、教養のある人々の大多数の目には、かつて権威ある絶対的なものとされていたその性格が失われてしまったと映った。同時に歴史批評は、より厳しい証明基準、歴史的なものと伝説的なものをより効率的に区別する手段をもたらした。それは宗教の段階と変動、そしてそれらを支配する影響力を、過去には存在しなかった豊富な知識と独立的な判断力で追跡した。そしてこれらの問題において、疑い躊躇う精神を美徳とし、信心深さと軽信を悪徳と見なすよう、その信奉者たちを導いてきた。

 

本書は神学の本ではないため、これらのことについて詳しく述べるつもりはない。しかし、現代の思想を知っている誰しもにとって、こうした影響力がいかに大規模に、非常に数多くの教養ある人々の神学的信念に取って代わったかは明らかなことだろう。いかに数多くの、かつて広く信じられていた事柄が、今ではまったく信じられなくなったことだろう。いかに多くのかつて確実な領域にあるとされていた事柄が今では単に、おそらくそうだろう、あるいはもしかしてそうかも知れない、という低い領域に沈んでいることだろう。ガリレオの時代以降、こうした変化はキリスト教信仰の全体構造と相容れないものとして非難されてきた。バークレー司教(*ジョージ、1685―1753)に劣らない弁証者は、世界は創世記から推測されるものとほぼ同じ時期に誕生したという信念は、譲れない根本的なものの一つであると宣言した。[58]1773年に旅行家ブライドン(*パトリック、1736―1818)がシチリア島を旅して、溶岩の堆積物から、世界はモーゼ(*創世記はモーゼ五書に含まれている)の宇宙観が認めているよりもはるかに古いはずであると推測して発表したとき、彼の仕事はキリスト教信仰の基礎を覆すものとして非難された。同じような非難は、かつての地質学者たちに、そして現代ではダーウィン理論の初期の支持者たちに向けられた。そして現在生きている多くの人々は、ドイツの批評原理を最初にイングランド思想に導入して、五書の歴史的性格や、想定される著者について異議を唱えた人々に対する怒りの噴出を覚えている。

 

それは驚くべきことでも理不尽なことでもない。このような変化が、かつて本質的なものと考えられていた信仰の大部分を深く変えてしまったことは否定できないからである。宗教の主な目的の一つは宇宙論とでも呼ぶべき―その起源、運命、そしてそれが示す奇妙な矛盾や不完全性を説明する―ものを提供することであると信じられてきた。ユダヤ教の理論は非常に明快で明確なものだった。しかし、それは確かに近代科学のものとは違っている。

 

しかし、最も注目する価値があるのは、このような連続的な変化が国教会内に徐々に定着して行ったときの容易さ、そしていかに国教会がこの事実に揺るがなかったかである。国教会の聖職者たちは、まだ完全に確立された真理とは認めていなかったものの、ダーウィンの理論にさえ、その主要部分について絶えず称賛とともに言及していた。進化論は彼らの教えに大いに浸透している。聖書は科学や科学的事実を教えることを意図したものではないという理論や、現代の聖書批評の主な事実や結論は、最も教養ある聖職者たちに大いに受け入れられている。現在では、世界が大昔からあったこと、人間が大昔からいたこと、死が大昔からあったことを否定したり、モーゼの宇宙観が地球と人間の起源について真実かつ文字通りの説明であること、モーゼが著者であることや五書の無謬性を熱心に主張したりする聖職者はほとんどいない。

 

そして、この種の変化が一つの方向に進む一方、反対方向では別の大きな動きが起こっていた。イングランド国教会は基本的にはプロテスタント教会だったが、他の多くの教会よりも政治的影響力の下にあって、連続的な進歩の段階を経て、大きく多様な意見を持つ層を囲い込むことを目的として築かれたため、それが取って代わる前の(*カトリック)教会に由来する定型句や教義を数多く残していた。スコットランドや大陸の宗教改革で優位に立ち、ローマとの妥協を一切拒否した熱心なプロテスタントや清教徒がイングランドの世論の中で力を持つようになるのは、国教会の枠組みが確立されてしばらく経ってからのことだった。すでにイングランド人の特徴になっていた妥協と保守の精神、国教会の形成において王や法律家たちが果たした大きな役割、教皇権から離脱したものの、その他の点においてローマ・カトリックの儀礼や教義に大きな異論を持たない人々と、ドイツやスイスの強いプロテスタント的感覚に深く染まった人々から成る一つのイングランドを維持したいという彼らの願い、ヘンリー8世、エドワード6世、メアリー、エリザベスという相次ぐ変化の間、イングランド人聖職者の大多数の登用を続けさせ、迫害を回避させた信条と行動の奇妙な柔軟性がすべて、非常に混成的な性格を持つ教会の形成に役立った。その中には、二つの異なる理論があった。一つの学派によれば、それは単に宗教改革以前の教会を、その周囲に集まっていた特定の悪弊から清めたものであって、神から任命された司教団によって組織的に結束し、権威ある教会的基盤の上にあって、カトリック教会の三本の枝の中の一本を成している。もう一つの学派によれば、それはプロテスタント教会の一つであり、聖書によって正当化されるような古い教会組織の一部を確かに残してはいるが、それらをキリスト教の本質的なものとは見なしていない。また他のプロテスタント団体とは根本的な点では一致しているが、主に本質的ではない点だけで異なっている。そして「聖書が、そして聖書だけがプロテスタントの宗教である」という原理を心から受け入れていると同時に、彼らがローマの大いなる背教者と見なしているものとは、最も重大で最も致命的な相違点によって切り離されている。

 

一方では、イングランドの教会はその聖職的、法的組織においてヘンリー7世時代の教会と同一であること、その連続性に何の問題もないこと、宗教改革以前も以後も主教(*国教会では主教、カトリックでは司教と呼ばれるが、英語ではどちらもbishop)が、それもしばしば同じ主教が同じ主教管区に着任していたこと、教区の聖職者の大部分は変わることなく、同じ資格と身分保障によって俸給を受け、同じ法廷に服し、前任者と同じ方法で大主教区会議に招集されたこと、古いカトリックの礼拝は単に翻訳され、改訂されただけであること、決して完全には容認されていなかったローマによる簒奪が決定的に拒絶され、多くの迷信的な新奇さが取り除かれたとはいえ、イングランド教会は依然として聖アウグスティヌス教会であること、最も暗い時代においてさえ、その明瞭な存在を失いはしなかったこと、すべての分裂主義者に否定された超自然的な恩寵と聖職者の力は、監督制度を通じて途切れることのない流れでそこに降ってきたことが主張された。他方では、真の教会の本質は教会統治の方法にあるのではなく、その教義と聖書の言葉の一致にあるのであって、法的な観点からはどうあれ、宗教改革の前後の教会が同じものであるという理論は神学的な意味において虚妄であるという主張がなされた。ヘンリー7世の時代の教会は、使徒の中の第一人者の後継者とされた教皇を精神的なアーチの要石とする、断固たる神権政治、すなわち教会君主制だった。ヘンリー8世とエリザベスの時代には、イングランド教会は一種の主教たちの貴族社会になって、非常に現実的にのみならず理論的に王室によって統治され、ペテロの座と呼ばれるものから完全に切り離され、キリスト教圏のカトリック教会との関係は完全に新しいものになった。この間に、英国国教会は教皇のみならず、それ以前の何世紀にもわたって、神学と祈祷において議論の余地なしに致命的に必要とされてきたものの大部分をも捨ててしまった。古い組織や古い定型句の多くは保持されていたものの、その著作や説教、創立者たちの不断の教えには、疑いようもないプロテスタンティズムの精神が息づいていた。ローマに属し続けた教会は、ヘンリー7世の時代の英国教会と同じ教義を持ち、同じ祈祷を行い、同じ儀式を行い、それを絶対に確実なものと公言した。そしてイングランドの新しい教会とのつながりをすべて絶ち、それをプロテスタントの一つの分派としか見なさなかった。一方、イングランド国教会は、その公認の定型句の中で、ローマ教会の中心的な信仰と祈祷のいくつかに冒涜的、偶像崇拝的、迷信的、欺瞞的という烙印を押し、それを長い間、聖人の血に酔った黙示録の大淫婦の反キリストの教会と見なしていた。それぞれの教会は長い間、その力の限りに他方の教会を弾圧し、迫害した。

 

エラスチャン(*教会の問題において国家の優位を主張する人々)にも、ピューリタンにも、これら二つの集団を宗教的に一致させる理論や、そこから推測されるさまざまな聖職の行きつく先は途方もないものと思われた。しかしわが国の改革者たちの第一世代は、大陸の非監督派プロテスタントとの交流、共感、協力を躊躇うことはなかった。彼らは教父たちの権威を重視し―主に政治的な動機から―古い教会に由来する多くの事柄を祈祷書に残すことに同意した。しかしローマ・カトリックが原始キリスト教よりも後の教父たちに似ているように、英国国教会の(*形式を重んじる)高教会理論は宗教改革者たちというよりは、むしろ(*後の)17世紀の神学者たちが作り出したものである。クランマー(*トーマス、1489―1556)、ラティマー(*ヒュー、1485―1555)、リドリー(*ニコラス、1500―1555)、ジュエル(*ジョン、1522―1571)、フーパー(*ジョン、1495―1555)、がどちら側に共感していて、どのような意見を持っていたのか、またその著作や説教がどのような精神に貫かれていたのかについては、誰も疑問を持たないだろう。こうした学派の人々の目にとって、無謬であることを主張しない教会、その特別な形態が主に政治家の聡明さにかかっている教会、聖職者が説いてよい教義を決定する最高法廷が世俗法の裁判所である教会、国民の傾向や感情が教会の顔色を決めるほど整合性による拘束力が弱い教会は、ローマ教会が持っている権威を自らも主張したり、分け合ったりする権利を持ち得ないように見える。それは別の基礎を持っている。それは別の根拠によって正当化されなければならないのである。

 

しかし、この二つの学派は国教会内に存在している。それぞれの学派は祈祷書にいくらかの支援を受けている。主にスチュアート朝で練り上げられ、繁栄した古い伝統的な高教会派は、キリスト教圏の最も学問的な神学の大部分を生み出し、その初期にローマへの傾斜はほとんど、あるいは全くなかった。それは非国教徒にとっては排他的で不快なものだった。またそれは教会の権威を非常に高いものとしていた。しかし、教会員の大多数は英国国教会に忠誠を強く誓い、その中で満足して生き、死んでいった。しかし、真の理想をその外側に見出す、別種の教会人たちが常にいた。フォークランドは1640年に行った注目すべき演説の中で、彼らについて非常に辛辣に語っている。「ある者たちは、彼らが感謝の念からそこに戻ることを望んでいるのではないか、少なくとも半ばそれと同じ道を行くことを望んでいるのではないかを大いに疑わせるほどに、自分たちの由来がローマであることを明らかにしようと懸命に働いた。ローマ・カトリックではなくとも、英国カトリックを導入しようと努力している者がいることも明らかである。私は外見や服装のことだけを言っているのではない。同様に絶対的な……いやそれどころか一般的な名誉さえも通常の虚偽より酷い虚偽だと言っているのである。もし彼らの中の誰も、イングランドの聖職者の登用についてローマの指示に満足せず、年俸1500ポンドさえ受け取れば、絶対的で直接的な心底からの教皇派であることを告白しないのならば。」[59](#?)

 

この17世紀の学派の発展が、その後ローマに向かう大きな離脱をもたらすことはなかった。しかし、それは宣誓拒否派(*Nonjuring schism、聖職者が就任時の君主への忠誠の誓いを拒否する運動)の中で大きな役割を果たした。そしてそれはこの分派の衰退とともに、また18世紀の(*形式を重んじない)広教派的傾向の下で大きく衰退した。しかし、英国国教会の多くの指導者たちをローマに引きつけたトラクト派運動以来、ローマへの共感とローマ的理想を持つ人々が教会内で異常なまでに増加した。彼らは神学的な仰々しさを宣誓拒否者たちよりもずっとローマの方向に進めることに留まらなかった。多くの場合、法衣やろうそく、旗や香、跪くことや、ささやくような祈りによる古くて簡素な英国国教会の礼拝を、知らない人が見たらローマ・カトリック教会ではないかと思うほどに一変させたのである。彼らは聖職者としての仰々しさを前面に押し出すことにおいて、決してローマに劣らなかった。彼らの信仰的著作や思想はすべてローマ的傾向を持っている。彼らはまた、儀式や服装の最も些細な点でさえ、より大きな教会を模倣して敬意を払うことを常としている。

 

そこにある、いくつかの真実の相違点を否定するのは不公平なことだろう。教皇の絶対的権威と無謬性は簒奪であるとして真摯に否定されている。儀式主義者の理論が教皇に認めているのは、司教たちの間での優位だけである。ローマ教会を際立たせている規律と教会権威への服従も、英国国教会の中のその模倣者の多くにはまったく欠けている。同時にイングランド人の真実の感覚は国教会に、ローマ・カトリックの国々で一般的な、虚偽の奇跡や著しく迷信的な慣習を容認し、広めさせないために十分なものであることが証明された。しかし、この点において英米のローマ・カトリック教徒と、欧米の南部諸州のカトリック教徒はほぼ同様に異なっていると思われる。ただし、このようなことをすべて認めた上で、イングランド教会の大きな部分に、ローマへの共感と、宗教改革者たちの精神やイングランド教会の教義的定型句とはまったくかけ離れた、プロテスタンティズムやプロテスタント的タイプの思想や性格への反感が広がったことは否定できない。

 

この動きの広がりと深まりを正しく評価することは容易ではない。高教会派には大きなばらつきがある。極端な人々が最も数多いわけではなく、彼らが最も有能な人々とは程遠いことは確かである。そして確かな信念以外の多くの力が党派を強化する傾向があった。高教会派は以前のトラクト派とは違って、文筆的、神学的能力に著しく欠け、イングランド教会の豊富で高貴な神学的文献にほとんど貢献していない。宗教の領域では常に特別に強力な、単なる目新しさの魅力が、多くの人々を儀式主義に引き寄せる。また儀式主義的な教義にほとんど関心のない何千もの人々が、儀式主義的礼拝の音楽、華やかさ、絵画的な美しさに魅了される。イングランドでは近年、美への嗜好が非常に高まっている。そして日曜日に娯楽施設が閉鎖されることが、より魅力的な礼拝への渇望を煽っているのだろう。主にこの願望を助長し、主にその恩恵を受けてきたのは極端な高教会派だったが、それはさらに広い範囲に及んだ。それは清教徒や非監督派の団体にまで及び、時に極端な広教会派の見解とも結びついた。実際、このような礼拝は、あるタイプの心にとって、半ば禁じられた疑念に対する幸福な鎮静剤になる。その痛切な屈辱と深い感情において、もはや礼拝者の真の感覚とは一致しない祈祷も、それらが詠唱されたときには薄められ、一変したように見える。そのまま読まれれば共感や良心に衝撃を与える信条は、音楽の一部として演奏されたなら容易に受け入れられる。信念と同様に、懐疑が教会を満たすことがある。宗教的な礼拝から自分を切り離したくないと考える大きな層は、かつてこの上なく重要なものと考えられていた神学的卓越への興味や、教義体系の大部分への強い信仰を全て失ってしまった。そしてそのような人々は自然と、音楽や装飾によって自分たちの嗜好を満足させ、想像力を慰め、あるいは刺激する礼拝を好むようになるのである。

 

しかし、極端な高教会派には、他にも魅力的な要素がある。その力の多くは、新しい真の霊的生活という源泉と、高度に発達した聖職者制度と、積極的な熱意を即座に育て、励まし、組織化する半修道会から生まれた、新しい形の真の有用性と慈善によるものである。この党派の力が耕作者階級のみならず貧困層にも作用していたことは非常に明らかある。そしてそれはイングランド教会に、過去の世代が持っておらず、現代において最も重要な、民主的性格を与えるために大いに役立った。儀式主義が優勢な地域で、礼拝のみならず聖体拝領者が増え、教会生活への関心が非常に高まっていることに疑いの余地はない。その非常に飾り立てられた礼拝は、それまで教会に足を踏み入れたことのなかった多くの人々を引き入れた。そしてそれはしばしばフランシスコ会修道士やメソジストの説教者のような、親しみやすく、同時に情熱的な説教スタイルと組み合わされて、無知な人々に働きかけるにはうってつけのものになった。その聖職者たちが主教への不従順で知られていなかったなら、自分たちの地位と権威を高めようとする旺盛な意欲を疑うべくもない態度で示していなかったなら、彼らは礼拝を増やし、奉仕団体を創設し、貧困と悪徳の最悪で最も人目につかない生息地にまで攻め込んだ熱意と自己犠牲の精神において傑出していた、と付け加えるのもまた公平なことだろう。

 

しかしその結果、教会内に常に存在していた対立が、大いに深まってしまった。その中には、単純な理神論や広教主義と区別できないような意見を持つ人々や、プロテスタントの名を捨てて、ローマ教会とは最も薄い仕切りで隔てられているに過ぎない人々がいる。そして16世紀の著作と定型句によって結びついている教会に、この多様性が存在しているのである。

 

恐らく先験的に、これほど多様な意見と精神を持つ教会は、弱体化し、崩壊した教会だったと想像されるだろう。しかし率直な人物なら英国国教会の性格をそのようなものとは考えないだろう。統合された活力のすべての兆候はふんだんに示されており、それがイングランドの生活において活発で力強く、最も有用な役割を果たしていることは否定できない。まず知的な側面から見てみると、この国の優れた知性のどれだけ大きな割合が、その中で生活することのみならず、その奉仕に積極的な役割を果たすことを喜んでいるかは明らかである。国教会の聖職者からもたらされる高等文献の量と、世界中に散らばる膨大な数のカトリックの司祭からもたらされるそれの量を比較し、英国の聖職者、あるいは教会の教えを深く心に刻んだ信徒が英国文学に占める地位と、カトリック司祭、あるいは心からのカトリック教徒がフランス文学に占める地位を比較してみよう―そのコントラストは十分に明らかである。英文学の真面目な分野において、英国国教会の聖職者が目につかないものはほとんどない。虚偽で迷信的な信条の中に、いくつかの文筆の形式と相容れないものはない。それは天才的な詩人や、優れて美しい文体を持つ詩人や物語作家とも、簡単に結びつくことができる。しかし、英国国教会の文筆的業績がこうした形式に限定されないものであることは確かである。物理科学の分野でも、道徳哲学、形而上学、社会、さらには政治哲学の分野でも、そしておそらく歴史学の分野ではより一層、その聖職者たちは第一級の地位を占めてきた。イングランドで最も真面目な批評、最も優れた定期刊行物の大部分は、英国国教会の聖職者の仕事であることはよく知られている。今世紀の代表的な歴史家を列挙する際に、過ぎ去ったばかりの世代のミルマン(*ヘンリー・ハート、1791―1868)、サールウォール(*コノップ、1797―1875)、メリヴェール(*チャールズ、1808―1893)、あるいは同世代のクレイトン(*マンデル、1743―1901)やスタッブス(*ウイリアム、1825―1901)といった名前が省かれることはないだろう。そしてこれらは、国教会が多大な貢献をしてきたある種の文筆の顕著な例に過ぎない。彼らの歴史書は、文体の美しさが特に際立っているわけではなく、深い学識だけが際立っているわけでもない。判断力、批判力、公平さ、真実の希求、虚偽や単なるありそうなものと証明できるものを分離する技量において、彼らは著しく際立っているのである。カトリックの司祭たちが書いた主な歴史書と比較してみよう。文筆の歴史において、忍耐強く、生涯を懸けた偉大な仕事のいくつかは、カトリックの司祭団、とりわけ修道会のメンバーによるものだった。現代においても、彼らは偉大な学識、弁証法の技量、そして文体の美しさを備えた作品をいくつか生み出している。しかし、ほとんど例外なく、これらの著作には主唱者の印が押されている。そして一方の落ち度を隠したり釈明したり、他方のそれを不釣り合いに浮き彫りにしたりすることによって、自らの主張の正しさを証明する目的で書かれている。敵対者の長所を率直に評価したり、敵対的立場の全容を明らかにしたりするために、これらが読まれることはないだろう。かつて、カトリック司祭団が19世紀に生み出した最も偉大な歴史家としてその名を挙げられたであろうデリンガー(*ヨハン・イグナツ・フォン、1799―1890)は、教会から破門されたままで死んだ。そして現代イングランドのカトリシズムにおける最も優れた著作の中のどれだけの割合が、プロテスタントの大学で育ち、英国国教会でその技量を身につけた論者から生まれていることだろうか!

 

その国の最高の知性がその聖職に就けること、それが文筆のほとんど全ての分野において世俗の学者から尊敬や称賛を受ける人々を含んでいることは、少なくとも教会の活力の一つの大きな試金石である。聖職につく有能な若者が減っていると言われる。それは、単に農業恐慌のために教会が職業として望ましいものではなくなったからでも、実際、多くの場合にいくらかの私財を持っていない人物にはほとんど不可能になったからでもなく、単に競争的試験が最も有能な俗人たちに魅力的な野心の場を提供した(*聖職以外の出世の道が開けた)せいでもなく―最高の知性を持つ人々の教会の教義からの大きな乖離、そして本心から教会の約款に署名し、定型句を唱えることができないという彼らの確信ゆえのことであると言われている。このことは事実であると私は信じている。しかし、一般的な学識、批判力、能力を備えた人々の奉仕をこれほど惹きつけ、引き留められる教会が他に現れたことがないのも事実である。英国の聖職制度の最も重要な特徴の一つは、教会を目指す学生を、他の学生と同じように大きな国立大学で教育してきたことである。他の教育制度からは、より専門的な学識と、より強烈で排他的な熱意を持った聖職者が生まれるかもしれない。しかし教会と平均的な教育水準の国民の意見の間の、思想と傾向の一般的な一致を保つために、これほど効果的な教育制度は他にない。

 

別のテストをしてみよう。他のどの新聞よりも穏健な教会人の意見を代弁しているガーディアン紙と、フランスの司祭団に最も読まれ、彼らの意見に最も影響を与えている新聞を比べてみよう。確かに、ルイ・ヴイヨ(*1813―1883、教皇至上主義者)に匹敵する能力を持つ英国人ジャーナリストはほとんどいないし、彼が指揮していた頃のユニヴァース紙ほど、教会の聖職者に大きな影響力を持っていた新聞もほとんどない。しかし、その野蛮で口汚く不寛容で、当時の進歩的で自由主義的な傾向のすべてに空しい憎悪を燃やし、教会の利益のためなら、虚偽の報道や犯罪の擁護も躊躇わないページを読んだ人物なら誰しも、それがいかにフランスの俗人の最良の思想と全く一致していないかに気がつかないはずはない。時に英国の宗教ジャーナリズムも、非常に軽いものではあるが、このような特徴を示したことがあった。しかし、他のどの新聞よりも多くの聖職者にアピールしていると思われるガーディアン紙を読めば、誰しもそのコントラストに気がつかないはずはない。それはただ常に紳士的文体と気質で書かれているのみならず、その批評、公平さ、思想のトーンには、時代の最も優れた知的影響力がはっきりと反映されている。政治や神学については賛否両論があるだろう。しかし、この新聞を読めば、それが教養ある俗人の意見に完全に通じていること、そして実際にその世俗的な側面だけに関心がある大勢の人々に人気の新聞であることは、誰しも認めざるを得ない。

 

しかし教会の聖職者たちの知的能力は、一つの試金石ではあっても、決してその教会の宗教生活にとって決定的、かつ絶対的なものではない。ルネサンスの時代、カトリック教会への本物の信仰がどん底にまで落ち込んでいた頃、文筆的嗜好や才能を持つ人物のほとんどは、ともに司祭職か修道会に属していた。これは決して熱烈な信仰心ゆえのことではない。単に当時の教会が、妨害を受けず、快適に、十分な報酬を得ながら文筆的生活を送ることができる、ほとんど唯一の場だったからである。イングランド教会に見られる文筆的才能の多くは、単にそれが学究的生活を望む人々に与える、魅力と便宜ゆえのものであることは疑いない。このような観点からすると、多数の暇な聖職の廃止と、現代の世論が課した聖職者の義務的活動の大幅な増加が、この職業を望ましくないものにしたことは間違いない。しかし現在でも、大学以外でこれほど文筆的生活に適した職業は他にない。そして英国国教会の最も著名な思想家や論者のかなりの部分は、神学とはほとんど、あるいはまったく関係のない分野において著名なのである。

 

教会が繁栄しているかどうかの試金石は他にも必要だが、それは簡単に見つけることができる。政治的権力はその一つではあるが、非常に粗雑で、非常に欺瞞的なものである。最も迷信的な信条は、しばしば政治的に最も大きな力を揮うと言って過言ではない。それらは聖職者たちに殆ど絶対的な権威を与えるからである。また教養ある階級における迷信の衰退が、必ずしもそれに一致した教会の影響力の衰退をもたらすわけではない。異教の時代にもキリスト教の時代にも、懐疑的で高度な教養を持つ支配階級が、大衆を統治し道徳的にする最良の手段として、迷信的な教会を支持し、同盟を結んだ例があった。このような諸教会は、巧みな組織化、個々の支配者に対する主導権、あるいは政治的同盟によって、長い間絶大な影響力を行使してきた。そして民主的な時代において、政治権力の優位は、最も教養ある階級から着実に消え去りつつある。同時に、高度に文明化され、完全に自由な、宗教的資格剥奪や強制に関するあらゆる法律が消滅し、宗教に関するあらゆる問いが永遠の議論に付託されているこの国で、イングランド教会が維持している政治権力は、少なくともその背後に存在する、本物の真剣な意見の莫大な重みを証明している。政党に賛成したり反対したりするときの、教会の団結した、非常に重みのある影響力を否定する政治家はいない。ある皮肉屋の観察者によれば、平均的な英国人が家族以外で最も重視するものは、地位、金銭、英国教会の三つとのことである。確かに、優れた観察者なら英国民のすべての階層が持つ教会感覚の強さや真剣さを過小評価することはないだろう。

 

それでもなお、教会がその高度な教育的影響力を維持していることは否定できない。長きに渡って、国民の教育のほとんど全てはその手に委ねられていたのである。そして全ての宗教的資格の剥奪とほとんど全ての特権が廃止された現在でも、英国の教育において、教会はある人々を警戒させ、他の人々に称賛されるような役割を果たしている。それは自ら勇んで新しい政治的状況に飛び込んだのである。そして聖職者の力で設立された莫大な数の有志立学校と、聖職者の用途のために毎年集まる莫大な金額は、その背後にある疑いの余地のない支持と熱意の総量を示している。高等教育のあらゆる分野において、聖職者たちは際立っている。そして彼らの国民を教育する際の力は、説教壇や大学、学校にとどまらない。イングランド人の生活の率直な観察者ならば、教区制度が原則と実践の両面において道徳水準を維持するために発揮している多大な効果、またすべてが、あるいは大部分が英国国教会に由来している、慈善や教化の力の、数の多さ、活発さ、価値を疑うことはないだろう。

 

また、人々がその起源や意味についてどのような見解を持っていようとも、少なくとも人間の本質の偉大な現実の一つである霊的生活の促進のために、教会が非常に有効だったことに疑いがないのは当然である。宗教の力は、その団体の活動や、それが創設する制度や、それが世界の統治に果たす役割からのみ、あるいは主にそれらによって判断されるべきものではない。宗教の力は個人の魂への働きの中にこそ、そして特に人が社会から最も孤立している時期や環境においてこそ、見出されるべきものである。その力は、個人の人生に対する理想と動機の提供、感情の指導と浄化、地上のものを超えた思考と感覚の習慣の促進、老い、悲しみ、失望、死別、病気、衰弱、能力の衰え、死期の接近にそれが与える慰めにおいて最も感じられる。どれか一つの信条や教会がこの力を独占することはできない。しかし、それぞれがこの力をしばしば自分たちに特有のものと同一視しようとしてきた。このことはカトリック教徒にもクエーカー教徒にも、またその力を自らの聖餐制度に帰する高教会派にも、そして聖餐制度に極めて従属的な地位しか与えていない福音派にも見られるだろう。ここで言っておかねばならないのは次のことだけである。誰しもイングランド教会の宗教文献を研究したり、より敬虔な信者の生活を見たりしたなら、その中でこの生活が大いに存在し、繁栄できることを疑ったりはしない。

 

教会の中に生まれながら、その神学の大部分に異議を唱えるようになった人々が、この偉大な善の装置に対して取るべき態度は、前章で考察してきた問題に劣らず、込み入ったものであることは間違いない。最も困難な立場にあるのは、もちろん、その実際の聖職者たちと、その定型句に署名した人々である。そのような立場にある人々はそれぞれ、自分の良心に照らして判断しなければならない。教会の教義と根本的に相容れないにもかかわらず、教会でそのような立場を受け入れる人々のケースと、教会での奉仕に従事した後、科学の進歩や、より成熟した思想や研究によって、おそらく非常にゆっくりと、古い信念が修正されたり、揺らいだりしていることに気づく人々のケースには大きな違いがある。1865年の法律は、教会の教義全体を信じる、という入信者の一般的宣言を、信条と祈祷書を「すべて、何もかも」信じるという宣言で代用することによって、古い入信形式の厳重さを大いに和らげた。イングランド教会は、無謬の教会であることを公言しているわけではない。しかしそれは、多かれ少なかれ意見の分かれる大きな団体を代表し、内包している国民的教会であることを公言している。そしてゴーハム事件(*国教会の教義に反対した聖職者が、それを理由とする地位の剥奪を不当として世俗の裁判に訴え、勝訴した)以後の法的判断の全体的傾向は、許容される意見の範囲を拡大するものだった。国家的教会が地域社会のより賢明で知的な部分と接触し続けられる可能性は、主にその聖職者に与えられる意見の自由度と、新しい知識を受け入れて採り入れる力に懸かっている。高い知性が宗教的影響力から切り離されることほど、国家にとって大きな悲劇はない、という主張は妥当なものだろう。

 

また広教会派の側では、教会の教えに起こる変化は、古い教義の公然たる否定よりも、静かな消失によるものの方がはるかに多いということを忘れてはならない。それらは説教壇の勧告から外れてしまう。宗教的な教えの異なる部分の相対的な重要性が変化するのである。教義は背景に沈んでいく。もはや真剣に信じられなくなった物語は、長々しい道徳の教科書になる。かつて最も重要なものだった内省的な習慣や、純粋に教会的な義務に重きを置く傾向は消失してしまう。説教壇が説くのは、むしろ活動的で、有用で、利己的ではない人生、世界に依然として存在する、数多くの救済可能な苦悩や困窮のより明確な洞察、世俗生活のあらゆる歩みにより気高く、より利己的ではない精神を持ち込む義務、人や教会を主にその成果によって判断し、その信条によって判断しない習慣である。長い間、道徳的な教えと密接に結びついていた古い宗教的信念の崩壊や退廃は、常に重大な道徳的危険をもたらす。しかし、暴力的な発作や混乱なしに人々が旧来の宗教的慣習から切り離され、信念の変化が緩やかな移行によってもたらされる場合には、そうした危険は大幅に減少する。このような移行はイングランドでは多くの教養ある人々の間で、またいくらかは聖職者の影響下で、静かに起こってきた。そして、そのことによって教会は弱体化しなかった、と私は思っている。このような人々の義務の水準は下がるどころか、ほとんどの分野で目に見えて上がっている。彼らの熱意は、純粋に教会的なものよりもむしろ博愛主義的な分野に注がれているが、衰えてはいない。国教会と他のプロテスタント団体を隔てている特定の教義には、実質的な根拠がなく、実際の重要性もないという確信は、より大きく、より自由な教会にとって有利なものである。同じ教会の中で、非常に目につく聖職尊重主義と広教会主義を許容する包括性を、その教会員の多くは、弱みというより、むしろ強みと見ている。

 

ニューマン枢機卿ほど、時代の宗教的傾向を鋭い目で見ていた人物はいなかった。そして自ら目撃した広教会的傾向を、これほど激しく憎んだ人物はいなかった。その国教会への影響についての彼の評価は非常に注目するべきものである。友人のアイザック・ウィリアムズ(*1802―1865、トラクト派)に宛てた手紙の中で、彼は次のように述べている「私が耳にするすべてのことが、イングランド教会に広教会的な意見が猛烈に広がっていることを恐れさせる。私はそのことを深く悲しんでいる。英国国教会は、懐疑主義に対する最も有効な防波堤だった。私のみならず、あなた方も、このようなことを言われる時が来るかもしれない、『なぜ土地を無駄に塞がせておくのか?』(*ルカによる福音書13章7節、主人が三年間実を付けないイチジクの木を切り倒すように命じる譬え話)しかしそれは現在、イングランドでは他のどの宗教よりも、またカトリック・ローマ教会よりも、はるかに多くの真実を保持している。しかし、私が恐れているのは、それが直接的な誤りを教える強力な国教会(*Establishment、支配層)になる傾向があることである。そしてその誤りは今までより強力な、三倍も強力なものである。なぜなら国教会(*支配層)がその誤りを教えているからである。」[60]

 

しかしもちろん、数多くの信条や教義的定型句に縛られた教会の聖職者が合理的に主張しうる意見の幅に制限がなくはないことは明らかである。そしてその線引きは各人が自らしなければならない。それが国教であるという事実も、聖職者に特別な義務を課している。イングランド教会のすべての教会員が参加できるような形で公の礼拝を行うことは、彼らの第一の義務である。教会の儀式にどのような解釈が加えられようとも、少なくともその儀式は実質的に同じものでなければならない。初めてこの教会に足を踏み入れた外来者は、過去何世代にもわたって国教会のあらゆる部分で行われてきたような、分かりやすく、見苦しくない公の礼拝が行われていることを確信できるはずである。私が思うに、この第一の義務が無視されて、かつての世代の教会人が認識していなかったような礼拝がイングランド教会で行われ、英国の公の礼拝をローマ式ミサの模倣にするための明らかな試みがなされたことは、重大な義務の不履行に続く、重大なスキャンダルだった。人々は、最も緩い制限の中で、思いのままに宗教的儀式を行い、思いのままに宗教的教義を説く完全な権利を持っている。しかし、国教会の中の人々にはその権利はない。

 

意見の検閲はまた別の問題である。そして英国人の生活環境において、それが非常に有効に持続したことはない。国教会で認められている意見の自由度は非常に大きく、またそうあるべきである。しかし、思うに国教会の説教壇から雑多な聴衆に語りかける聖職者は、いくつかのテーマについて、私生活や自らの出版物において求められる以上に、表現の慎重さを守らなければならないことは明らかである。

 

教会の定型句から大きく乖離するようになった俗人たちの態度は、それほど不可解なものではない。また最近の聖職者たちの仰々しさの復活が反発を受けていることは別として、私が間違っていなければ、近年この種の最良かつ最も洗練された俗人たちの見解は、国教会にますます好意を寄せるという決定的な傾向を持っている。かつてそれを維持することが民衆の大部分の利益と対立していた宗教的、政治的資格剥奪の完全な廃止、見解を変えた聖職者を他のあらゆる生計手段から排除していた聖職からの離脱禁止の廃止、教会内で許される意見の大きな弾力性、教会的根拠のみに基づいた、ほとんどすべての罰則や制限の法令全書からの削除―これらすべてに、このような人々の教会に対する反発を弱める傾向があった。それは自らの外側にいる人々を傷つけたり、単なる名ばかりの信者に干渉したりしない教会である。それは最高の有用性を持つ機能を、効率的に、かつ腐敗することなく果たしており、社会における精神的、道徳的生活の主な源の一つになっていて、ますます良く組織された恩恵の装置と見なされるようになった。いかなる近代的影響力も、それに取って代わったとは言えない。現代の経験は、単なる知的教育は、もし人格教育を伴わないならば不十分であることの多くの証拠を示してきた。そして現代の教育に最も欠けているのはこの側面なのである。現代の教育は間違いなく、人々を運命の不平等さに昔よりはるかに敏感にさせるものである。(*天国と地獄による死後の清算はない)一方、常に直接的な目標として具体的な褒美を持ち出す習慣と、かつて意志を訓練していた強制的な教育方法の消滅は、おそらく現代の教育の道徳的向上の手段としての効率を低下させている。

 

また、教養ある人々の間に急速に広まったいくつかの思考習慣も、同じ方向に強く傾いている。神学的問題における真実と虚偽の著しいコントラストは、かなり減弱した。視点が変わったのである。世界の歴史において、宗教に対する全体的、物質的な概念は自然のものだったのみならず、不可欠なものだったとこと、そして大衆がより高く、より純粋な概念を持つための準備は、知的進化の緩やかな過程によってのみ可能になるということが信じられている。迷信と幻想は、社会の大きな織物をつなぎ合わせるために、少なからざる役割を果たしている。「あらゆる虚偽は、真実と合金することで一定の可鍛性を得る」と言われてきた。一方、世界史のある段階において、最も重大な真実は、迷信の衣をまとって初めて効力を発揮する。神の霊は、粗末で物質的な媒体を通して人の心に届くのである。人類史のさまざまな段階に当てはまることは、現代のさまざまな層の知識や知性にも当てはまる。人間の平等について民主主義的宣言がなされているにもかかわらず、同じ種類の教えが誰にとっても良いものと限らない、と感じられることがますます増えている。真理は原液のままでは、多くの人々の心には強すぎる薬である。高度に洗練された知性であればおそらく捨ててしまうような、それも何の危険もなく捨ててしまうようなものでさえ、多くの人々の道徳的存在にとって不可欠なものなのである。すべての偉大な宗教システムの中には、一過性のものと永遠のものがある。私たちを取り囲み、私たちに影響を与える外界の自然現象に対する神学的解釈や、無批判で迷信的な、遠い過去から私たちに受け継がれてきた神話的物語は、変形されたり、信じられなくなったりするかもしれない。しかし、宗教の中には理性よりも、悲しみや愛情に根ざした、人間の本質的で不滅の部分である不満、道徳的な欲求、願望を表している要素がある。

 

このような考え方は、それが正しいか間違っているかにかかわらず、教養のあるヨーロッパに非常に広く浸透していること、そしてそれは一般的に年齢とともに強まる思考習慣であることを誰も疑わないだろう。若者たちは宗教の問題を単に真偽の問題として論じる。その後の人生においてそれらの信条は、人生の作業仮説として、無数の不幸の慰めとして、人生が憂鬱のどん底に陥らないための一つの仮定として、道徳的義務に不可欠な拘束力を与えるものとして、人間の本性の最も奥深いところに根付いている欲求、本能、憧れの満足、反映として、社会を支えている主要な柱の一本として受け入れられることが多くなる。布教的、攻撃的、批判的な精神は弱まっていく。非常に多くの場合、彼らは自分たちの思考を、果てしない論争や、単なる否定的な結論にしか至らなさそうな問題から意図的に遠ざけ、道徳的生活の基盤を、同族の利益のための、何らかの強い非利己的な関心に置くようになる。活動的で、有益で、非利己的な仕事の中に、彼らは信仰の迷いからの最良の避難場所と、道徳的性質を育てるための最良の畑を見出す。他人の利益ためにする仕事が、自分の幸福に強力に作用しないことは稀である。また、教義的な体系を完全に放棄した人々が、その周囲に育ってきた精神的な美に対して常に最も鈍感とは限らない。会堂の中の礼拝者にとってはとても耳障りで、凡庸なものに聞こえる村の教会の音楽は、ときに外で墓の間に座って聴いている外来者の目を涙で一杯にすることがある。

 

信仰という大きな対立軸をめぐって、現在イングランドでは部分的な休戦が続いているが、これがどこまで永続的なものなのかは分からない。世の中を知っている人物なら誰しも、習慣的に礼拝に参加している人々の中の大きな、そしてさらに増加しつつある部分が、彼らが使う定型句に明示されている、あるいは暗示されている信念から、程度の差こそあれ、大きく乖離してきているという事実に気がつかないはずはない。習慣、流行、古くからの付き合いの魅力、自分の道徳的あるいは霊的本性の熱望、有用な道徳的訓練のシステムを支援したい、子供や家庭や隣人に良い手本を示したいという願いが、口先で公言している信念が大いに薄れてしまってもなお、彼らを昔ながらの場所に留まらせているのである。私は彼らを非難したり裁いたりするつもりはない。このような問題では、個人の良心と性格、そして個別の事情が決定的な力を持っている。しかし、公言された信念と実際の信念との間に、我慢できないほどの大きな隔たりが生じて、不誠実さや半信半疑が国民の道徳的性格に深刻な影響を及ぼすときがある。ゲーテは言っている「世界史の最も深いテーマ、いや、唯一のテーマ、他のすべてが従属するテーマは、信仰と不信仰である。それがどのような形であれ、信仰が優勢だった時代は、人類史の中で特筆すべき時代であって、後の全ての時代にとって、心を揺さぶる記憶と、本物の利益に満ちた時代である。それがどのような形であれ、不信仰が優勢な時代は、一時的に栄光と成功の外観を呈したとしても、不毛で実りのないものに思いを馳せない後世の人々の目にとって無価値に映ることは避けられない。」

 

私の読者の多くは、このような考察の持つ力と、それが示唆する道徳的問題を感じられたことがあるだろう。そしておそらく、詩人の問いを自らに問われたことがあるだろう―

 

教えてくれ、私の魂よ、お前の信条は何か?

それは信仰なのか、それとも単なる必要なのか?

 

しかし、人間の本性が最も純粋で高い状態にあるときに普遍的に感じられる必要ならば、それは信念に根拠を与えるものになる、また宗教がその本質や力を失うことなく遂げる変容には、誰も敢えて制限を設けられない、と考えられるだろう。世間一般の慣習ゆえに、私たちは自分たちが福音主義的な教訓の文字通りの遵守からどれほど乖離しているかに気づかないが、(*信仰のみならず)道徳の分野でも、これらは非常に大きなことだった。貯蓄銀行の上に「明日のことを思い煩うな、明日のことは明日自身が思い煩うだろう」、イングランド銀行の上に「地上に宝を蓄えてはならない」、「金持ちが神の国に入るのは難しい」、外務省、裁判所、刑務所の上に「悪に手向かうな」、「汝の右の頬を打つ者には、もう一方の頬を向けよ」、「汝の上着を奪う者には、汝の外套も与えよ」などとは決して書かない。貧困を避け、快適さを増すことを目的とした絶えざる先見の習慣を持つことが、社会的進歩の第一の義務であって、主要な要素であり、手段であると考えられていて、物乞いを奨励し、先見と倹約の習慣を妨げる見境ない慈善が、最も激烈で、最も致命的で、しばしば最も悪意に満ちた競争に基づく産業システムよりもはるかに真剣に非難されていて、富はもし正当に手に入れ、賢明かつ気前よく用いられるならば、普遍的に求められ、普遍的に悪ではなく善と見なされるものであって、理由のない攻撃や暴力的で喧嘩早い気質はその中で間違いなく非難されるものの、権利が不当に侵害されたときにはいつでもそれを守ることが全ての善良な市民の義務と考えられていて、戦争と戦争の準備が最も情熱的な興奮を呼び起こしてキリスト教圏のエネルギーの巨大な部分を吸収し、国旗に対する些細な侮辱に即座に憤慨しなければ、いかなる政府も一週間も政権を維持できないような産業社会が、このような言葉の持つ全ての力と意味(*無力、無意味)を表していると言えるのではないだろうか?

 

近年、イングランド教会で大きく広がっている聖職尊重主義(*神と人の間には聖職者が介在しなければならないというカトリック的考え方)が、激しい混乱を引き起こすことなく拡大できるかどうかは、別種の問題である。聖職者による世俗支配の根を断ち切ることは、宗教改革の主な目的と目標の一つだった。すでに述べた理由から、それを再興しようとする一派には、これまで言われてきたような力は全くないと私は信じている。確かに広教会派は多数の教養ある俗人の意見を忠実に反映しているとはいえ、活動的な教会生活の中で、その主な代表者の名声に見合った影響力を行使したことが全くないのは事実である。福音派の信条は今でも、救世軍と、その他の貧しい人々に大きな影響力を持つ多くの街頭説教者の説教の主要素になっているとはいえ、国教会の説教壇や宗教文献において、かつての地位を著しく失っていることも事実である。しかし、イングランドの中下層は心の底で深く聖職者による世俗支配を憎んでいて、カトリックに対する恐怖心は薄らいではいるものの、先祖たちが捨てたその権力を復活させようという試みに応じるつもりはさらさらないと私は信じている。

 

ある側面において、国教会の聖職尊重主義はローマ教会よりも悪いものである。そこには規律も秩序もないからである。教会の歴史は、懺悔室が生んだ危険をふんだんに示している。ただし、ローマ・カトリックは懺悔室の日頃の抑制的、道徳的な影響力は、こうした時折の弊害を大きく凌駕していると主張するだろう。しかし、ローマ教会では、告解は最も厳しい監督と規律の下で行われている。告解を受けることができるのは、秘密を守ることを最も厳粛に誓い、重病の場合を除いて、開かれた教会の中でだけ告解を受け、その義務に耐えうるように特別に、巧みに考案された、注意深く長い教育課程を経た熟年の独身司祭だけである。国教会の懺悔において、これらの条件は一切守られていない。

 

その他の点で、実際に聖職尊重精神がローマ教会とまったく同じになることはないだろう。英国の大学のあらゆる世俗的影響を受け、俗人の仕事や学問、社交や娯楽に参加している既婚の聖職者たちは、独立的なカーストや、強力な聖職者集団を作ったりはしないだろう。彼らの自負が重々しいものになることは少々考えにくい。そしてイングランド人の生活全体を包んでいる無制限な議論の空気は、意見に対する強制的で制限的な法律の危険性を効果的に排除してきた。道徳的強制や、たとえそれが他人に何ら干渉しないものだったとしても、人々の習慣に道徳的根拠に基づいて法律で干渉する傾向は、ますます強まっている。これはアングロサクソンの民主主義の顕著な傾向の一つである。そして特定の教会に特有だったり、特に顕著だったりするものからはほど遠い。しかし、何世紀にもわたって中世の聖職尊重主義の力を血と炎で示してきた、力によって意見の表明を抑圧しようとする態度は、現代のイングランド人の性質にまったくそぐわない。少なくとも信仰のあらゆる熱狂、誇張、迷信の中で、この種の強制は決して恐るべきものにはならないだろう。また最も極端な聖職尊重主義の聖職者たちですら、そんなことは望んではいないと私は信じている。今世紀のカトリックと国教会の歴史には、一つの重要なコントラストがある。カトリック教会では教皇至上権的な要素が着実に優位を占め、意見の自由を制限してきた。かつて教会によって定義されず、誠実なカトリック信者がある程度の意見の自由の幅を持っていた重要な教義は、鉄の軛に繫がれるようになった。懐疑主義と無関心の拡大が、教養ある俗人の大多数を教会に敵対的または無関心にしたこと、そして教会の運営が主に聖職者と、より頑迷で無知で偏狭な俗人の手に委ねられたことが、その大きな原因であることは間違いない。しかし英国国教会では、教養ある俗人が教会生活から疎外されることは少なく、主に世俗的な法廷が最高権威を持っている。その結果、聖職尊重的要素は大幅に増えたとはいえ、教会内の意見の自由の幅は着実に広がっている。

 

同時に、教会内でプロテスタント的ではない影響力が拡大し続けるなら、教会に深刻な危険がもたらされるだろう。もし教会がその主要な傾向において宗教改革から自らを切り離すなら、国民が教会を支持し続けるとは思えない。イングランドにおけるカトリックへの改宗は、おそらくかなり誇張されてはいるが、非常に多い。そして確かにそれは不思議なことではない。もしローマ教会が説教壇で常にプロテスタンティズムを教え、プロテスタンティズムの礼拝や性格のタイプを習慣的に称賛することを許したなら、その信奉者の多くが動揺することに疑いはない。もしイングランド教会の一部の教会ですでに起こっていることが全体的なものになったなら、イングランド世論は国内におけるその特権的地位をいつまでも容認していないだろう。もしそれがプロテスタントの教会でなくなったなら、長く国家の教会であり続けることないだろう。それが国家の教会でなくなったなら、おそらくその後に、見解をはっきり定義するための分裂が起こって、現在の英国の宗教生活の特徴である信仰の自由の幅や妥協の精神は深刻に損なわれてしまうかもしれない。

 

 

脚注:

 

[58]「アルシフロン(*ジョージ・バークレーの著作)、対話篇、第六篇」Alciphron,6th Dialogue.

 

[59]「ナルソン(*ジョン、1638―1686、牧師、歴史家)のコレクション」Nalsons's Collections, i. 769, February 9, 1640.

 

[60「]アイザック・ウィリアムズ自伝」Autobiography of Isaac Williams, p.132.この手紙は1863年に書かれた。

 

 

第十二章   性格の管理

 

人生において人間に課されたあらゆる仕事の中で、性格(*character、人格)の教育と管理は最も重要なものである。そしてそれを成功させるためには、誤りを隠し、優れた点を誇張する自己欺瞞や、自分の善の力を認めようとしない見境ない悲観主義に惑わされることなく、自分自身の傾向を冷静かつ注意深く調査する必要がある。人間には自分の本性をどうする力もないと説くような運命論は避けなければならない。またこの力が無制限のものではないこともはっきりと認識しなければならない。人間は自然から自分のカード―その気質、境遇、そして意志の強さや弱さ、心、肉体―を受け取るカード・プレイヤーのようなものである。人生というゲームは、偶然と技量が混ざり合ったものである。絶望的に悪いカードが配られたなら、最高のプレイヤーでも敗北するだろうが、長い目で見れば、プレイヤーの技量が必ずものを言うだろう。人間が自分の性格を支配する力は、肉体を支配する力によく似ている。人々は、その健康状態や丈夫さ、病気になりやすい遺伝的体質において同じではなく、臓器の正常な状態において大きく異なる身体でこの世に生を受ける。同時に、節度のある、あるいは節度のない生活、巧みな、あるいは巧みでない養生法、弱い部分の強化に適した身体運動、身体への無関心、危険な放縦、間違った、あるいは過剰な努力は、すべて違った方法で体調を変化させ、病気や早世の可能性を増減する。しかし、人格に対する意志の力は、身体に対する意志の力よりも強いか、少なくとも幅が広い。意志の影響を受けない器官があり、意志が影響を及ぼしえない病気がある。しかし、私たちの道徳的性質には、私たちがある程度影響を与えたり、修正したりできない部分はない。

 

私はしばしば、味覚の多様性が性格の根幹に大いに光を投げかけているように感じてきた。同じ料理が、ある人には強い喜びを与え、別の人には不快感や嫌悪感を抱かせるのはなぜだろうか?このシンプルな疑問に対する本当の答えはない。ある果物や肉や飲み物が、ある味覚に快楽を与え、別の味覚にはそれを全く与えないというのは、人間の本質的な事実である。同時に、元々の生まれながらの違いが存在することは間違いない。しかし完全に、あるいは大いに特別な、しばしば一過性の原因に由来する違いも多い。料理が魅力的だったり、逆だったりするのは、それが古い記憶や習慣と結びついているからである。習慣ゆえに、フランス人はメロンを塩で食べることを好み、英国人は砂糖で食べることを好む。古くからの観念の連合ゆえに

英国人は、カエルやカタツムリを食べることに尻込みしてしまう。しかし、もしそれと知らずに食べたならきっと好きになり、容易にそれを食べるようになるだろう。ある時代やある国民が一般的に好む料理でも、別の時代や別の国民は不味いと感じる。視覚が味覚を支配することはよくある。そして見た目が強烈な嫌悪感を抱かせる料理も、盲人にはそのような嫌悪感を抱かせない。世界中、特に未開の国々を渡り歩いた人々は、多くのかつての反感を捨て、味覚の潔癖さを失って、新しい本物の味覚を身につけるだろう。元々の先天的な違いは完全に消失するわけではないが、深く、さまざまに修正される。

 

このような味覚の変化は、私たちの道徳的性質に起こることとよく似ている。それ自体はほとんどの場合、シンプルに道徳の外側にあるものである。ただし、少なくとも一つの顕著な例外がある。多くの人々は、いや、ほとんどの人であって欲しいものだが、酩酊の誘惑に駆られることなく、気分を高揚させる酒を存分に楽しんで一生を終えるだろう。宗教的、道徳的、社会的、肉体的、あるいは知的な影響に関するあらゆる考慮は別にして、彼らは単に嗜好の問題としてそうすることを控えるのである。一方、過度の飲酒がもたらす快楽に抵抗するために、壮絶な努力を必要とする人々もいる。飲酒が最大の楽しみであるのみならず、生まれながらにして酒を渇望している人々もいる。遺伝という恐ろしい事実が、これほどはっきりと、これほど悲劇的に現れることはない。元々はそれを渇望していなかった多くの人々も、次第に渇望するようになることがある。ときに過度の飲酒の習慣を持つ仲間という単なる社会的影響ゆえに、より頻繁に人に我を忘れるような強い快楽を求めさせる憂鬱や悲しみゆえに、あるいは過剰な労働による心身の慢性的な疲労ゆえに、また退屈で、色がなく、喜びがない惨めな貧困の境遇ゆえに。飲酒や官能的な快楽は、もし酷く耽溺すれば(間違いなく肉体的な原因ゆえに)その満足への強烈な渇望を生む。しかし、このことはすべての快楽に当てはまるわけではない。多くの快楽はそこにあるときには強烈に楽しめるが、それがないときに深刻に恋しくなることはない。ときに過剰な耽溺の結果として味覚が損なわれ、失われてしまうことがある。そしてかつて喜ばしかったものが、欲望の対象ではなくなってしまう。これもまた、他のことに似ている。小説の読みすぎは分かりやすい一例だろう。初めは一種の興奮状態にあるが、終わりにはかつて最も強い誘惑だった読書をするために、真剣な努力が必要になるような疲労困憊に陥るのである。

 

味覚の嗜好もまた、年齢やそれに伴う身体の変化とともに自然に変化する。小遣いが少ないためにタルトや砂糖菓子を思うように買えないことを苦々しく思っている学童も大人になれば、ポケットに何シリングも持っていても、菓子屋に入りたいなどとは全く思わずに、毎日その前を通り過ぎるだろう。

 

こうした事柄と、性格の根本的な基盤を形成し、私たちの人生の色合いを決定する、好きと嫌い、道徳的、知的なものの集合体が大変似ていることは明らかである。マルクス・アウレリウスは言った「誰が人間の欲望を変えることができようか。」先天的なものであれ、後天的なものであれ、ほとんどの場合、最も強い習慣的な快楽を与えるものが結局は優位に立つのである。ある種のものは常に強烈な快楽を感じさせ、ある種のものは興味を引かなかったり、嫌悪感を与えたりする。そしてこの吸引力こそが性格の基礎であって、大多数の人々の振舞いを主に決定しているのである。若い時の交友関係やその他の原因によって、こうした生来の好き嫌いはいくらか修正されるかも知れない。しかし若い時でさえ私たちの力は非常に限られたものであって、その後の人生ではなおさらである。自由意志の真の信奉者なら、人間を自らの欲望の絶対的な奴隷とは考えないだろう。世の中を知っている人物なら、平均的な人間は最も強い情熱や欲望に支配されていることを否定しないだろう―その欲望が邪悪なものでなければ幸せなことだが。

 

年齢とともに情熱は弱まるが、習慣は強まるものである。良い習慣と、人生を最も幸福にする嗜好を身につけることは、若者の大きな仕事である。他の多くの事柄と同様に、これも強調し過ぎるべきではない。あまりに厳格に、そしてあまりに排他的に未来を待ち望むということがある―決してやってこないかもしれない未来を。これは幼少期の生活を重荷と苦役にする教育過剰主義者の、また大人の嗜好や楽しみを若者に押し付けようとする人々の大きな過ちである。青春期には青春期の楽しみがあり、それは常に最も大きな楽しみを与える。そして幸せな青春期はそれ自体が目的になり得る。この時期には楽しむ力が最も強くなる。そして、それにはしばしば極度の感じ易さが伴うため、最も些細なことについての子供の苦しみは、持続性はなくとも、少なくとも激しさにおいて大人の苦しみに劣らない。わが子の棺のそばに立つ多くの親は、思慮のない教育によって、その短い人生からどれほど多くの楽しみの機会が奪われてしまったかを痛切に感じて来た。また大人になっても、不幸な子供時代の弊害が完全に埋め合わされることは稀である。回顧の楽しみは人間の持つ最も真実の喜びの一つである。そして最も愛おしい思い出が自然に集まっているのは子供の頃である。私たちの力を早期に過剰に緊張させると、後にしばしば永続的な歪みや弱さが残る。また悲しい子供時代は、性格に陰鬱な要素や、消えることのない苦味を持ち込んでしまう。

 

快楽を判断する際の最初の大原則を、セネカは上手く言った「Sic præsentibus utaris voluptatibus ut futuris non noceas」―未来の楽しみを損なわないように、今を楽しむこと。酩酊、官能、ギャンブル、常習的な浪費、自己陶酔が若者の楽しみになれば、人生が破滅することはほぼ確実である。それ自体には何の罪もない快楽も、それが唯一の、あるいは主な目的になったなら、楽しませる力を失ってしまうのである。

 

人生の始めには、私たちはおおよそ、若さ、健康、体力があるときにしか満足できない嗜好や快楽、理想に、不相応な価値を見出してしまいがちである。近代イングランドの生活の中で運動競技や屋外スポーツが占めている大きな位置は、その一例と思われる。確かにそれらは非難されるべきものではない。それは直接的な効果として、大量の強烈で罪のない喜びを与える。そして間接的な効果には、さらに重要なものがある。体力と健康のレベルを上げ、座りっぱなしの生活や病気がちで不活発な身体につきまとう不健康な気質を払拭する限りにおいて、それは永続的な幸福に力強く貢献する。少年期から壮年期における最良の果実の一つである、友情の形成にも大きな役割を果たす。その中には、勇気、忍耐力、行動力、自制心、失望や敗北を朗らかに受け入れることなど、人格形成に小さくない価値のある教訓を与えるものもある。そして賭けと無縁なら、それは時に若者を不道徳な快楽から遠ざけるという、計り知れない利点を持っている。同時に、現世代のイングランドの若者の生活において、その卓越性が過大視されたものであることにも疑いの余地はない。知的向上心が最も強く、知識の習得が最も重要であるはずのこの時期に、わが国の大学生の大半は、どんな知的業績よりも、クリケットやボートやサッカーの技量を重んじていると言って過言ではない。ここ40~50年の間に、英国の上流階級と中流階級の相対的な知的地位が著しく変化したのは、前者の生活の中で屋外の娯楽が不釣り合いな位置を占めるようになったせいである、という英国の大学生活に長く携わってきた、ある優れた識者の意見を聞いたことがある。現代の若者の間では、知的なものに対する純粋な愛情や畏敬の念、熱意が、彼らの父祖の時代に比べて希薄になっている、というのが非常に有能な識者たちの印象である。熱意を冷ましてしまう批評精神の優位、競争試験で勝ち取る賞こそが知識の至高の目的であるかのように若者に教える詰め込み教育はなおさら、その大きな原因であることは間違いない。しかし運動競技の法外な賛美も大きな原因である。

 

先に述べたような楽しみと、読書やそれに類する知的な楽しみを比較すれば、後者が優れていることは明らかである。猟の獲物がほとんどの若者に、少なくとも本と同じくらいの喜びを与えることは事実である。また読書の楽しさを、生粋の学者の言葉で測る必要は全くない。誰もがギボンのように、読書への愛はインド諸国の全ての富とも交換できない、とは言えるわけではない。彼に賛同する人々は非常に多いことだろう。しかし、ギボンは生まれつき知識欲が旺盛な人物であって、幼少期の健康状態の悪さが、その情熱をさらに高めたのである。しかし、体力を必要とする嗜好が年齢とともに衰えたり、過ぎ去ったりする一方で、読書への嗜好は着実に高まっていく。そこに開けている楽しみの展望は計り知れない。それは最も容易に満足でき、最も安価で、最も年齢や季節や生活の変化に左右されない楽しみの一つである。それは衰弱し、閉じこもりがちになった病人を励まし、眠れない夜の退屈な時間を明るくし、愉快な考えを心に蓄え、倦怠感を追い払い、活動的な生活の隙間や強いられた休息を埋め、少なくともしばらくの間は不安や悲しみを忘れさせてくれる。もし適切に管理されるならば、それは性格を鍛え、思考を訓練し、向上させる最も強力な手段の一つになる。それはそれ自体が良いものであるばかりではなく、他の多くのものを向上させる大いなる楽しみである。それは私たちの知識の範囲を広げ、共感と鑑賞の力を拡大することによって、社交の楽しみ、旅の楽しみ、芸術の楽しみ、私たちを取り巻く大きな世界のドラマを形成する多種多様な出来事への興味を計り知れないほどに高めてくれるのである。

 

この嗜好を若い時に身につけることこそ教育の最高の果実の一つである。そして読書の嗜好が知識の嗜好になって、ある程度の専門化と集中、観察力の行使を伴っている場合には、特に有用である。「多くの嗜好と一つのホビー」は、目指すべき悪い理想ではない。化石や花や昆虫を集めて分類することを学んだり、化学実験が好きになったり、何らかの特定の種類や分野の知識についての嗜好を持ち始めたりする少年は、人生の数多くの幸福の基礎を築いているのである。

 

それぞれが互いに補完し合って、異なる楽しみが衝突せず、むしろ人生の様々な領域や季節をカバーし、それぞれが生み出す性格の欠点や欠陥を互いに修正し合うような楽しみの選択や嗜好の育成には、多くの知恵が示されている。鋭敏な文筆的嗜好と、屋外スポーツへの熱烈な愛情を持ち、それぞれを満足させる手段とともに人生をスタートした若者は、おそらく単なる娯楽では得られないほどの幸福の要素を持っている。しかし一つの楽しみが、他の楽しみを味わう能力を失わせてしまうことがよくある。また楽しみの中には、それ自体まったく罪のないものだったとしても、より良いものによる楽しみを鈍らせることによって、性格に悪影響を与えるものもある。例えば習慣的に小説を読むことによって、しばしば真面目な著作に対する嗜好が失われてしまう。また、それが全く不道徳なものではなかったとしても、低劣な著作で絶えず心を満たす習慣ほど、健全な文筆的感覚を損ない、人格を低俗化させるものは稀である。時には逆の弊害が生じることもある。過度の潔癖症は私たちの楽しみを大きく制限する。そして極度の集中力という計り知れない才能には、しばしば高価な犠牲が伴う。ダーウィンが科学に熱中するあまり、最も崇高で想像力豊かな著作を楽しむ力さえ失ってしまった、と告白したことはよく知られている。このことは、より高く、より厳しい科学的思想に多くの業績を残した多くの人々が陥る危険を示している。そのような人々は大抵、生来の気質によってそうなるのだが、後天的な習慣によってさらに強い、狭い、集中的な性質を持つようになる。そして、その考えは狭い水路の中に閉じ込められて、圧倒的なエネルギーで一つの方向に向かう、深く速い流れに似ている。それは多才さを犠牲にすることであって、彼らは大いにそうするのである。そして、結果はそのことを十分に正当化する。しかし、それは本物の犠牲であって、多くの能力と楽しみを奪ってしまう。

 

同じ楽しみでも性格の違いによって、特に性別に伴う性格の違いによって、その作用は異なる。かつてほとんど男性だけのものだった娯楽が、近代になって女性にも広く開放された動きは、全体として良いものだったことを、私自身は疑わない。それは、より高いレベルの健康、より強い神経、より病的ではない性格を生み出した。そして、かつてはその境遇や環境ゆえに、人生を非常に退屈でつまらないものと感じていた多くの人々に、強烈で罪のない楽しみを与えてきた。しかし、男性には何ら悪い影響を与えない娯楽が、女性についてはしばしばその品性や人格をいくらか損なうものであること、また、一方の性がまったく罰を受けないで異性のように生きられはしないということに、ほとんどの優れた観察者は同意するだろう。またいくつかの楽しみは、他の楽しみよりも生活習慣全体に大きな影響を与える。屋外での生活、活発な運動、自立した習慣を限りなく増大させた自転車の発明は、多くの人々の生活に革命をもたらしたと言って過言ではない。それ自体ほとんど価値のない娯楽でも、人々が社会の異なる領域に入っていくときの助けになるように、あるいは老後の暮らしの気晴らしになるように、賢明に培われているものもある。タレーラン(*シャルル=モーリス・ド、ペリゴール、1754―1838、フランス首相、外相)がホイスト(*ブリッジの元になったカード・ゲーム)が知らない人物を非難したことは完全な間違いではなかった「君は何という不幸な老後を準備しているのかね!」

 

外的環境と心の性質に割り当てられる、幸福の手段としての相対的な重要度は、国や時代によって違うこと、そしてより進歩的な国では主に環境の改善によって幸福を追求する傾向があることについては既に述べた。もう一つの大きな境界線は、欲望に特別に働きかける教育と、意志に特別に働きかける教育との間にある。近代的教育システムの偉大な理想は、主として前者にある。その目的は知識と美徳を魅力的なものにして、欲望の対象にすることである。そのために、それらは最も魅力的な形で提示されたり、できるだけ密接に褒賞と結びつけられたりする。現代の道徳教育の大原則は、罪のない、有益な興味、嗜好、野心を増やすことである。それは徳の道を自然で、容易で、喜ばしいものにすること、その発展に好ましい社会的雰囲気をつくること、義務と利益を可能な限り一致させることである。邪悪な楽しみは、健全な楽しみの増加と、それぞれの帰結についての、はっきりした洞察によって打ち負かされる。怠惰で不活発な性格は、価値ある関心や野心を抱くことによって刺激される。教師と立法者は等しく、人生の轍や水路を、自然に、そして容易に善に向かうものにすることを目指している。しかし、意志―つまり欲望の流れを断ち切って、不快で苦痛なことを長期間にわたって行う力―の教育は、過去のある時代に比べてはるかに行われなくなった。

 

これには多くの要因がある。現代人の性急さ、慌ただしさ、そして文明の中心地における数え切れないほどの、多種多様な束の間の印象は、精神の集中には非常に不向きであって、おそらく修養にはなおさら不向きだろう。娯楽、そして娯楽に対する欲求は大きく拡大した。生活はより充実したものになった。長い余暇、内省的な習慣、かつてカトリックの修養において顕著だった瞑想的な生活vita contemplativaは、非常に稀なものになった。考え事や興味はより外側に向けられるようになった。そして現代の生活、中でも現代の教育の快適さ、贅沢さ、柔らかさ、慈悲深さは、人々を嫌なことに直面させたり、辛いことに耐えさせたりしなくなった。

 

このように、教育の出発点は静かに変化している。その変化の程度は、おそらく昔のカトリックの禁欲的な訓練が最もよく示している。その最高の目的は、意志を鍛え、強化することだった。快楽を否定し、苦痛を受け入れるよう習慣づけること、最も自然な嗜好や情緒を抑制すること、欲望の領域を狭め、弱めること、人間を外部の環境から完全に自由にすること、自己放棄自体が目的であると説くことだった。

 

この制度の価値については、常に意見が分かれるだろう。私個人の意見としては、カトリックが支配していた時代の道徳水準が、全体的に、また大筋において、私たちのそれよりも高かったとは信じ難い。官能的な本能の抑制は禁欲的道徳の中心的な事実だった。しかし、この試験によって評価したとしても、それが失敗しなかったかどうかは、少なくとも大いに疑問である。最良の男たちが世俗社会から立ち去ったことで、良い影響力が大いに制限されてしまった。また不自然な理想を目指す習慣は、一般的で日常的な家庭の美徳にとって好ましいものではなかった。聖職者と修道士の独身制の歴史は、不自然な規範を採用することによって、容易に避けることができたかもしれない悪徳がどれほど大きなものになったか、またその規範を守った人々にどれほど頻繁に重大な性格の歪みが起こったかをふんだんに示している。健康的で自然な発散を否定された愛情や衝動は、完全に萎縮するか、別の病的な形を取った。そして苦しみに耐える用意と同じく、苦しみを与える用意もできている、硬く残酷で独善的な狂信者は、その不自然ではない結果だった。しかし、その失敗や過大視がどのようなものだったとしても、カトリックの禁欲主義は少なくとも意志を鍛え、強化するための偉大な学校だった。そして意志の強さと訓練は徳と幸福の第一の要素をなしている。

 

17世紀のイングランドやアメリカによく見られた重厚で高貴なタイプの性格では、意志の強さが際立っていた。人生は現在よりも厳しく、単純で、深刻で、気まぐれではないものだった。そして強い確信が人格を形成し、強固なものにしていた。ある偉大なアメリカの論者は言っている。「それは私たちが才能と呼ぶものが、今よりもはるかに軽視されていたが、それよりもはるかに人格の安定性と尊厳を生み出す、巨大な人材が重視された時代だった。人々は世襲の権利ゆえに敬意を払われるという特色を持っていた。しかし、その子孫については、まだ残っているにしても、それは減少した。そして、公人の選択や評価におけるその力は大きく減退した。この変化は良いことでもあり、悪いことでもあって、おそらくはその両方だろう。その昔、王や貴族やあらゆる不快な上流社会の下を去って、この荒涼とした海岸に入植したイングランド人は、まだ敬愛の念を抱く力と必要性が強く残っているうちに、年齢を重ねた白髪と荘厳な眉に、長きに渡って試されてきた誠実さに、堅実な知恵とくすんだ色の経験に、永遠の観念を与え、一般的に品行方正の定義に入る謹厳で重々しい人々に、それを捧げたのである。したがって―ブラッドストリート(*サイモン、1603―1697、マサチューセッツ植民地総督、以下の三人も同じ)、エンディコット(*ジョン、1601―1664)、ダドリー(*トマス、1576―1653、)ベリンガム(*リチャード、1592―1672)、そしてその同志たちといった―民衆の初期の選択によって権力に押し上げられたこれらの素朴な政治家たちは、決して華々しくはなく、知性の活発さよりもむしろ、重々しい落ち着きによって際立っていたようである。彼らは不屈の精神と自立心を持っていた。そして困難や危機の際には、嵐の海に向かって立ち並ぶ崖のように、国家の福祉のために立ち上がった。」[61]

 

しかし意志の力は、それが大変強力に存在するときでも、しばしば不思議なほどに気まぐれなものである。大きな試練や緊急事態において、称賛に値する忍耐強いヒロイズムによって行動したにもかかわらず、私的な悪徳や情熱に容易に屈した人物の例は歴史上に数多い。意志と欲望は同じものではないが、両者の関係は非常に近い。遠い目的への愛、圧倒的な野心や情熱は、人生の他の分野では悲しいほど意志が弱い人々の中に、まったく不愉快な仕事への長期的な忍耐力を喚起する。自分の才能と性格の本領を発揮するような長い文筆の事業に、本当に真剣に取り組んだことがある人物なら誰しも、生まれつきの適性もなく、喜びも感じないこの事業の長い行程を我慢強く進んで行く、自らの例外的な力に驚くだろう。軍事的な勇気は、ほとんどの人々にとって主に気質と衝動の問題である。しかし、生まれながらの危険からの強いしり込みが戦場でも消えなかったことを正直に認めてきた、偉大な兵士や水兵たちの顕著な実例がある。ただし強い意志の力ゆえに、この臆病さが彼らを支配したり、弱くしたりはしなかった。想像力豊かな人々は、普通以上に危険や苦しみを予感するため、臆病になる傾向がある。一方、最悪の犯罪者の多くに見られる、冷淡で半ば無感覚な気質が、彼らにどれだけ冷静に絞首台上の死を迎えさせてきたかはしばしば注目されてきた。

 

勇気そのものにも多くの種類がある。兵士の勇気と殉教者の勇気は同じものではない。そして互いに決して相手のそれを持っていない。銃剣や大砲を恐れず、決死隊を率いることのできる人物の中には、責任の重さに耐えたり、長く続く不安を我慢したり、自らを非難や不人気にさらすような決断を下したりできないことを示した人物も少なくない。危険に遭遇し、それを喜ぶ能動的な勇気を示す男性は、しばしば苦しみや不運や病気に耐える勇気を示さないことがある。能動的な勇気において男性が女性を上回るのと同様に、受動的な勇気においてしばしば女性が男性を上回ることがある。能動的な勇気においてさえ、慣れは大きな役割を果たす。共感と熱意は大きな、しばしば非常に多様な役割を果たす。そして奇妙な例外が見られることがある。チュートン民族とラテン民族は、その軍事的勇気においておそらく同じように際立っているが、その勇気の性質や、それが最も見事に発揮される通常の環境や条件において、両者の間には明らかな違いがある。剣闘士が被る危険は、兵士が遭遇する危険よりもはるかに大きかった。しかしタキトゥス[62]は、最も勇敢な剣闘士の何人かがローマ軍に採用されたとき、彼らは軍事的勇気において普通の兵士にはるかに劣っていたため、まったく役に立たなかったと述べている。

 

生活環境は意志を形作り、強化するための偉大な学校である。そして現代の産業主義の過度の競争と闘争の中に、この学校は不足していない。しかし、倫理や教育のシステムには、その育成的な価値が十分に感じられないことが多い。若いときに身につけることの中で、自制心、自己犠牲、精力的かつ継続的、集中的に努力する力と習慣ほど、本当に価値あるものはない。私たちの中の最良の人物でさえ皆悪い癖を持っている。そして義務の道はしばしば不愉快なものである。風と潮の流れがいかに好都合でも、舵に従わなくなった帆船が港に着くことはない。生まれつき優しく、愛情深く、純粋で、自制心がなく、感情の赴くままに人生を漂う弱い性質には確かに魅力がないわけではない。そしてよく組織化された、良い環境の、誘惑の少ない社会では、それは高度な美しさに到達するかもしれない。しかし不屈の精神、忍耐力、原則がなかったなら、それに絶えずつきまとう弱点は着実に増大するだろう。それは回復するエネルギーを持たない。そして、より不幸な別の性質の組み合わせなら容易に避けられたような道徳的破局に終わることがしばしばある。正義と悪の違いに対する強い感覚、原則と名誉という強固な土台の上に立つ抑制的な意志なしに、私たちの道徳的存在を恒久的に確保することはできないのである。

 

このような意志の着実な作用がいかに生来の欠点に強力に作用し、生まれながらの怠け者を疲れ知らずの働き者に変え、生まれながらの短気や邪悪な情熱を抑制し、制限し、時にほとんど消し去るかは、経験が十分に示すところである。意志の生得的な力は人によって大きく違う。しかし人間の本性の中には、行使することで強くなる部分も、使わないことで弱くなる部分もない。(#文脈からすると逆?前節にも「生活環境は意志を形作り、強化するための偉大な学校である。」とある。すなわち意志は強化できる。))性格の小さな欠点は通常修正される。しかし性格が一旦形成されたなら、そしてその傾向が本質的に悪いものならば、根本的な矯正も、大幅な改善でさえも可能なことは非常に稀である。ときに宗教がそれに強い影響を与えることがある。時には、病気や大きな不幸、あるいは移住に伴う交際の全体的な変化がそれに影響を与えることもある。結婚は人生の早期において、おそらく他のどのような通常の因子よりも性格を変化させるか、深く修正するだろう。それは強力な誘惑に終止符を打ち、習慣や動機、交際や欲望に深い変化をもたらすからである。しかし私たちは皆、生活の中で、悪しき放縦が大変に強まり、回復と道徳心を高める要素が致命的に弱まっていて、それが不治の病であって、いかなる環境の変化もそれを大きく和らげることはできない、とはっきりと認識できるほどに堕落した性質に遭遇することがある。これがどの程度の割合で本人の過失であるか、災難であるかについて、人は誰も正確に評価できない。

 

大きな財産の管理、大きな事業の続行、あるいは他の好都合な環境が、彼にはっきりと決められた仕事場を与えている場合を除いて、莫大な財産の、あるいは楽に暮らせるだけの資産の相続でさえ、いかに頻繁に若者を完全かつ迅速に破滅させるかという観察ほど悲しいものはない。大半の人々は、自分の環境に強いられない嫌な仕事を喜んで捨ててしまう。そして決まった仕事がなく、満足を得るためのあらゆる手段を持っている場合、誘惑は圧倒的な力を持つ。そして道徳的な生活の源泉は致命的に損なわれる。この数少ない人々の平均寿命が一般男性よりはるかに短いこと、また生まれながらに相当な能力を持っていたとしても、それが非常に稀にしか発揮されないことに疑いの余地はない。仕事に対する真の意欲を持つ人物にとって、そうした環境は実に計り知れない価値を持っている。それは余暇と、成人した後、すぐに迷うことなく最適な仕事に携わる機会を与えるからである。時にはその通りになる。しかし、はるかに多い結末は、悪しき嗜好や、単なる怠惰、無目的な生活である。実際、時に気まぐれで制御されないエネルギーが大量に残っていることもある。しかし集中した真剣な労働は回避されて、真の成果が得られることはない。小川はそこにあるが、製粉機は回っていないのである。

 

ほとんどの人物は、生計を立てるための真剣で堅実な仕事を必要とするという境遇ゆえに、この危険を免れている。そしてほとんどの場合、仕事の種類はとてもはっきり決まっていて、選択の余地はほとんどない。選択の余地がある場合は、すでに私が述べたルール(*三章:理想の人生を送れるとするなら、そこには知性と性格の両方に合った、大いに興味をそそり、僅かな不安しかもたらさないような仕事が豊富にあるだろう。)を忘れてはならない。人は自分の才能や機会のみならず、できる限り自分の性格に合致した仕事を選ぶべきである。自らの最高の資質を行使するのに最も適したものを選び、あるいは少なくとも、自らの主な欠点を増悪させたり助長したりするような特別な傾向を持つものは避けるべきである。人の性格は全体として、その見解よりも、何に従事しているかによって、はるかに深い影響を受けるものである。

 

仕事の選択は、若者の人格を管理する偉大な力の一つである。友人選びもそうである。バークの言葉を借りるなら「意見の法則は…人間の心の枠組みを構成する最も強力な原理である。そして人間の幸福と不幸の多くは、外的環境をすべて合わせたものよりも、この内的な原理に宿っている。」[63]このことは、空気のように私たちを包み込み、その静かな圧力によって、私たちの生活の質感の全体を着実に、そしてほとんど無意識のうちに形作ったり、それに影響を与えたりしている、時代や国の大きな世論について真実である。他の何よりも美徳の道を容易にしたり困難にしたりする、私たちの親密な小さな交友関係について、それはより一層真実である。気高い野心の動機や、最初の悪の誘惑の中のどれほどが、幼い頃の友情に遡れることだろう。大学の食卓を囲む小さな輪の中で、人生が初めて見定められ、理想や熱意が形成され、それらがその後のすべての年月を彩るというのはよくあることである。実際、強く憧れ、賢く憧れることは、道徳的向上の最良の手段の一つである。

 

しかし、性格の管理の非常に多くの部分は、個人が完全な孤独の中で、自分自身の心の部屋の中で、自らの性質に働きかけることによってのみ達成できるものである。思考の訓練、思考の過程における意志の優位の確立、一連の病的な内省を捨て去って、断固として人生の他の問題や側面に目を向ける力、心を深刻な問題に強力に集中させ、継続的な思考を遂行する力―これらはおそらく、賢明な自己教育の最高の果実である。その重要性は実に多岐にわたる。高次の知性の散策路において、この精神の集中力には最高の価値がある。ニュートンは哲学における自分の業績を、主にこの並外れた集中力ゆえのものと考えていたと言われる。そして同じことは、ほとんどの偉大な思想家たちについても言えるだろう。幸福を追求する上で、心配事を捨て去り、悲しみの時には健全な仕事に目を向け、習慣的に物事を明るく考える力ほど本当に価値あるものは、外的環境にはほとんど存在しない。このように意志の働きの中で、テニスン(*アルフレッド、1809―1892、桂冠詩人)の詩の真理は最も良く実感できるのである:

 

ああ、意志が強いのはいいことだ、

彼は苦しむが、長く苦しむことはない。

 

脳裏を去らない数多くの悲観的な考えや想像を捨て去り、より純粋で、より高く、自制的な考えを呼び起こし、誘惑に立ち向かう力を身につけるのは、精神の訓練において重要なことである。私たちが持っている、何らかの考えやイメージや主題を前面に押し出し、他のものを背景に追いやることによって、自らの内的な衝動を交換し、強める能力は、精神的な進歩の主要な手段の一つである。この力を養うのは、絶えず自己分析や自己点検に没頭し、絶えず後悔しながら過去の過ちや本性の中の病的な要素について考え続ける、内省的な心の習慣を養うよりもはるかに賢明なことである。人類の幸福に深く影響するにもかかわらず、より小さなものとされる教訓の中で、思考の管理が重要なものであることは明らかである。機嫌の良し悪しの秘密は、苛立たしいことや避けられないことを考え続けるか、そこから逃げるかという習慣的な傾向にある。満足か不満足か、温和かその逆かは、主に自分の運命の良い面や悪い面、周囲の人々の長所や短所に特別に目を向ける私たちの心の傾向に左右されるのである。所定の対象から思考をそらす力は、自制心の唯一の要素ではないにしても、少なくとも最も重要な因子の一つである。

 

この意志が思考に及ぼす力は、人によって千差万別である。例えば―最も身近な例を挙げるなら―心配事やそれに伴うあらゆる感情の誇張や歪曲に耐える力が体質的なものであることは非常に明らかである。そしてそれが高度な場合には、理性や意志によって取り除くことはできないだろう。そのような人物は、その無益さと愚かさを、可能な限りはっきりと知的に認識できるかもしれない。しかし、それはしばしば彼の枕から眠りを追い払い、習慣的な憂鬱と共に、人生のすべての歩みについて回る。そして彼の幸福度を、はるかに恵まれない境遇にありながら、過去を軽やかに捨て去って楽観的に陽気に未来に期待する天賦の才を持つ人々よりも、ずっと低いものにしてしまう。同じトラブルが別の人々に与える苦しみの大きさの違いについては、いくら強調してもし過ぎることはない。人生の幸福度は、遭遇する楽しいことや辛いことの量ではなく、主に一方、あるいはもう一方の事を思い続ける、思考の性質にかかっているのだろう。楽天的な気質が文明や教育によって増大するものではないことは明らかである。それは主に物理的なものである。それは気候や健康状態に大きく影響される。この種のとても明快な説明ができない場合、それは国によって大きく異なっているとも言える。良い観察者なら、持続的な集中した意志はアイルランドよりもブリテン諸島に多く見られるが、楽天的な気質の賜物はイングランド人よりもアイルランド人に多く見られることを否定しないだろう。とはいえ、それは国民の性格の中で、非常に純粋な強い憂鬱の気分と共存している。そして、それにはしばしば苦しみに対する強烈な感受性が伴う。この組み合わせはとても一般的なものである。死の床に立ち会ったことのある人物なら誰しも、悲しみに打ちひしがれ、とめどなく涙を流す遺族の方が、涙を流すのを拒み、一瞬たりとも自制心を失わない遺族よりも、ずっと完全に、そしてずっと早く悲しみを断ち切れる、というのがどれほど頻繁なことかを知っている。(*アイルランド人は死別を大いに嘆き悲しむが、立ち直るのも早い。)

 

しかし、生来の気質ゆえに、ある人物が最大限の努力をしても成し遂げられないことを、別の人物が努力なしに成し遂げられるとはいえ、その病を和らげる治療法はあるはずである。社交、旅行、その他の娯楽はいくらか役立つだろう。そして「気晴らし」や「気分転換」といった言葉は、多くの楽しみの最大の美徳は、私たちの心を辛さから逸らしたり、紛らわせたりすることである、という真実の記憶を残している。パスカルは、これを人間の本性の惨めさと卑しさの表れであると考えた。そして不安と深い悲しみを胸いっぱいに抱いてベッドから起き上がり、趣味とする狩猟の情熱的な興奮によって、一時すべてを忘れられる男の姿を嘆かわしいものとして描いている。しかし実際、そのような力を持っているなら―弱く一過性のものだったとしても―それは人間の運命を大きく緩和するものの一つである。宗教は強力な動機と、幅広い慰めと癒しの思想とイメージを持っているが、それが病的な形をとらず、悲しみを強化することなく緩和するならば、この領域において大きな力を持っている。そして意志を着実に行使することによって、私たちは不完全ながらも自らの感情の流れを、思考の流れと同様に、実際に、次第にコントロールできるようになる。

 

夢想の力は、しばしば私たちを助けてくれる。苦しいほど重くのしかかる考え事を、別の真面目な考え事に切り替えられないとき、私たちは想像力に手綱を渡すことができる。そして、たちまち理想的な光景に夢中になれる。想像の世界に生きることを常の習慣にしている人々がいる。それは彼らにとって第二の人生になる。そして彼らの最も強い誘惑と最も大きな喜びはそこにある。彼らにとっては「普通の生活がタペストリーに描かれた夢のように見える。」彼らは現実では得られないような喜びを、想像や記憶の中の楽しみから得ることも少なくない。彼らは想像の中で特定の側面や部分を選んで、他を影へと追いやり、印象を強めたり弱めたりして、物事の真実を変形させ、美化する。自分の存在を幸せな白日夢で満たす力は、彼らにとって最も貴重な贅沢品である。彼らはアイルランドの詩人[64]の悲痛な一節の力を、最大限に実感している:

 

甘い想い、明るい夢が私の慰め、

私の傍には何の喜びもない/

ああ、私の周りに群れ集え

権力、国、名声、そして花嫁よ。

 

私たちの本性のこの側面を鍛えることは、性格の管理の中の小さな部分ではない。幸福と不幸の大部分は、周囲の環境とはほとんど、あるいはまったく関係なく、主に私たちの心が集中している考え、イメージ、希望、恐怖に左右されている。このような形の想像力の行使は、しばしば知的、精神的に大きな影響力を持っている。教師なら誰でも知っている通り、子供時代には想像力はしばしば気を散らせるものである。そして大人の場合でも、時には集中を要する推論や観察の妨げになって、精神を冷静で困難な思考から遠ざけてしまう。しかし、生産的な思考にきわめて役立つ夢想もある。それによって人は完全に別の思考や生活の状況に身を置くことができるようになって、その状況に結びついたアイデアが自然に思い浮かぶようになる。自分のものとは違う性格や環境を、真実かつ鮮明に実感できるようになる。自分自身を別の環境に置いて、想像の力や機能を使うだけでも、時として人間の大きな悪への対処法が思い浮かび、政府や社会の調和、困難、状況についてのより明瞭な視野が得られる。科学における多くの発見は、目に見えない状況を理解するこの想像力によるものだった。自分のものとは別の人生を生きる習慣や能力は、歴史家や政治家にとって、詩人や小説家、戯曲家にとってのそれに少しも劣らない価値を持っている。それは単なる生命のない知識を実感に変える魔法の手を持っているのである。

 

想像力が人格に及ぼす影響もまた大きく、様々である。堕落した想像力が性格を堕落させることは誰にでも分かる。そしてその堕落は、外から来るもののみならず、私たちの心の中に自然に浮かび上がるものからも生じるだろう。また、純粋な想像力にも絶対に危険がないわけではない。行動に結びつかない感情への過度の耽溺は、精神的な活力を刺激するよりもむしろ枯渇させる傾向があることは、人間の本性のよく知られた法則である。小説や芝居の架空の悲しみに情熱的に涙を流すような大げさな感傷は、博愛的で非利己的な性質の確かな兆候ではなく、現実の悲しみへの冷淡さや、その緩和のための努力に消極的であることと全く矛盾しない。しかし、デュガルド・スチュワート(*1753―1828、スコットランドの哲学者)が言ったように、人の見かけの冷たさや利己主義は、多くの場合、自分が直接触れたことのない苦しみを実感する想像力の欠如によるものであって、一度それを実感する力を持ったなら冷淡さはたちまち消え去る、ということもやはり真実だろう。思考の管理において、喜びのない憂鬱な人生を照らし出し、悪や苦悩の鎖を断ち切る夢想の力が、しばしば人間の苦しみを和らげるために最も重要な役割を果たすことに疑いの余地はない。

 

その手段がいかに広く普及し、その洗練にいかに多くの時間と才能が費やされているかは、フィクション文学が世の中で占めている巨大な地位が示している。しかし、それは大人になってからよりも、子供時代や青春時代により鮮烈なものであるがゆえに、人生の後の段階よりも、初期の未熟な段階において実に強力なのである。あるアメリカの論者[65]は上手く言った「子どもは夢を見ずに眠っても差し支えない。寝なくても十分に夢を見ているからである。」世界の幼年期もまた、大いなる夢の時代だった。文明には、夢の世界が現実の世界と非常に親しく混じり合い、想像が常に自然に変形したり歪んだりしているために、人々が現実とフィクションをほとんど区別できない段階がある。これが正真正銘の神話と伝説の時代である。そして現代社会にも、同じ状況をいくらか再現している階級がある。ある鋭い観察者は言っている「現代においても、夢は想像力を絶えず働かせている人々よりも、あまり読み書きをしない人々にとって、ずっと現実的なものである…文筆業に没頭するようになってから、私の夢は鮮明さを失って、木々の影よりもリアルなものではなくなった。それは眠っているときも同じである。一日のどの時間でも、私は人の姿を目の前に、意のままに呼び出すことに慣れている。彼らの輪郭は、そして顔色さえも、とてもはっきりしている。文字に縁がない人々ほど夢を信じるものである。迷信が消滅したのは、理性の洗練や知識の普及のせいではなく、純粋に読書の機械的効果のせいである。読書は心の視線の前に絶えず姿形や空中の幻を置くため、やがて自然に現れる想念は本が呼び起こす以上のものにならなくなる。本がほとんど読まれないような辺鄙な田舎では、人々は幻を見たり、運命についての神託を求めたりする。彼らにとって夢は現実なのである。」[66]

 

性格の管理における最後のポイントは、道徳の安全弁と呼ばれるものの重要性である。教育における最も致命的な間違いの一つは、教育者が自分の性質に合った習慣や嗜好を、本質的に異なる性質に押し付けようとすることである。リンパ質で、勉強好きで、高潔で、内気な嗜好の持ち主が、人生を歩み始めたばかりの元気の良い若者に自らの型を押し付けようとすることがよくある―全く違った性質がそのような理想に決して満足しないこと、またそれを目指すことによって、容易に到達できる種類の卓越性が失われることを忘れて、自らに最も適した嗜好と探究の型を彼に強いるのである。これは幼児期を過ぎた男児の教育が女性の手に委ねられたときに、非常に頻繁に生じる弊害の一つである。これが聖職者の子供たち、あるいは少なくとも頑なで厳格なピューリタン的教育を受けて育った子供たちが、非常にしばしば際立って堕落するという、よく指摘されてきた事実の正しい説明である。それに適さない性質に強いられたこのような教育は、概ね偽善に始まって、激しい反動から来る悪徳に終わることが稀ではない。教育において、青少年期の美徳を陰鬱な色彩や絶え間ない制限と関連づけることほど大きな間違いはない。そして常に新しい罪を考え出している人々ほど、世の中にとって有害な人々はいない。喫煙、趣味としての狩猟、観劇、小説、騒々しい遊び、日曜日の最も無害な娯楽が、あたかも重大な道徳的犯罪であるかのように扱われるような小社会では、重大な道徳的犯罪をこれらのことより悪くないと考える若者が絶えず育っている。彼らは道徳の調和や釣り合いの感覚を全く失っているのである。常にブヨに気を取られている人々は、しばしばラクダを失う傾向がある。(*マタイによる福音書23章24節:小事にこだわる人物は、大事を怠りがちである。)私が述べてきたような人生の理想を自ら身に着けた人物が、忠実にそれに従うことは全く正しい。しかしそれを他人に押し付けること、普遍的に適用すると規定することは別である。実際には単にその乱用や過剰のみが咎められるべきものを、絶対的に悪いものと教えることによって、節度をもって自制して楽しむ習慣が失われてしまう。そして完全な禁止期間の後には、しばしば抑制されない放縦の期間が続くのである。

 

人間の本性には、容易に悪の方向に傾いてしまうため、多くのモラリストたちから、存在しない方が良かったと思われている要素がある。しかし、それは同時に私たちの存在に固有のものであって、正しく理解するなら、人間の進歩に不可欠な要素である。興奮と冒険を愛し、危険と闘争、そして破壊さえも喜ぶ激しい闘争本能、飽くなき熱望とともに自らの地位を高め、まだ登っていない高みに登ることを目指すたゆまぬ野心、単なる喜びのみならず、情熱的なスリルをもたらす楽しみへの渇望―これらは全て人間の本性の奥深くに存在している。そして生存のための闘争、文明を作り出し、能力を刺激して最大限に発揮させ、人類の進歩を確かなものにする、過酷で痛みを伴う進化の過程において、大きな役割を果たしている。個人の教育においても、民族の教育においても、これらのものに対処する真の方針は、健全で有用な、あるいは少なくとも無害な行動の領域を見つけることである。性格の化学反応において、それらは最も英雄的な部分と同じく、人間の性質の最も悪い部分と手を組むかもしれない。そしてある人物では破滅的な悪徳の形を取るものと同じ興奮への情熱が、別の人物では輝かしい事業につながるかも知れず、また別の人物では大した困難もなく非常に罪のない道に転じるかもしれない。

 

例えば私がすでに述べた、ある年齢になって、働く必要がないほどの資産を持っていて、自分には野心も、文筆や芸術の嗜好も、仕事への愛情も、政治への関心も、宗教的あるいは慈善的な熱心さも、特別な才能もないことに気づいた完全に平凡な少年を取り上げてみよう。彼はどうなるのだろうか?おそらく多くの場合、待ち受けているのは破滅、病気、早世である。娯楽と興奮だけを求める彼には―酒、ギャンブル、女性という―三つの致命的な誘惑が待ち受けている。これらの誘惑に、あるいはその一つにでも負ければ、財産か健康か、あるいはその両方を失うことはほぼ確実である。彼の前に高い動機や理想を掲げたり、彼にその適性がなく、喜びも与えないような生き方に彼を駆り立てたりすることは、全く意味がない。では何が彼を救うのだろうか?最も頻繁なのは、幸せな結婚である。しかし、たとえ彼にそのような幸運があったとしても、それはおそらく数年後のことだろう。そしてその間に、彼の人生に決して元に戻せない致命的な偏りが生じることがあり得る。しかし、この種のケースではスポーツへの強い愛情がしばしば大きな力を発揮することが経験から分かっている。銃や猟師と一緒にいることによって、彼は興味や興奮を覚え、特別に立派でなくても、少なくとも十分に夢中になれる活動を見つける。そして、それは道徳や健康、財産にとって有害なものではない。楽しみ同士の競争において、田舎での楽しみが、私が述べたケースにおいて通常は悪の快楽を意味する、街の楽しみに取って代わるなら、その利益は決して小さなものではない。

 

また、趣味としての狩猟が精神的な安全弁になって、病的な嗜好を追い散らし、悪に転化しやすい性格や感情の傾向を無害で健全な形で発散させるのは、決してこのようなケースに限らない。イングランド人の上流階級の性格を形成する影響力の中で、それは大きな役割を担っている。それにはしばしば誇張や浪費が伴うとは言え、良い観察者ならば、それが持っている良い影響力を疑ったりはしないだろう。イングランドの上流階級にいかに俗物的な要素が多くとも、彼らの限界や欠点がいかに明らかであろうとも、全体としてイングランド人の生活がこの分野で成功を収めていることは疑いようがない。凡庸な人々の手の届く範囲には、その伝統的な嗜好、名誉の基準、宗教、共感、理想、見解、本能を備えた英国紳士ほど(*模範として)役立つタイプはない。彼は聖人でも哲学者でもないだろう。しかし、十分な良識と節度を持っていて、公的な義務にも忠実な、名誉ある有用な人物であることはかなり確かだろう。屋外の娯楽や興味の数々は、彼の病的な気質を払拭し、数多くの外国の貴族を悩ませてきた閉塞感や官能から彼を救うために大いに役立っている。田舎の事物は彼の活動を刺激し、階級的偏見を和らげ、判断力を作り上げる。そして彼の名誉の基準は、見解が大きく揺れ動く中でも、彼の正しさをしっかりと守ってくれるだろう。

 

読者は、ご自分の性格についての経験から、私が強調している考え方に沿って別の例を挙げることがお出来だろう。私たちを襲う誘惑の中には、しっかりと立ち向かい、鎮めなければならないものがある。また―そのような誘惑を呼び起こすような考えや場面を避けて―逃避するのが最も良いものもある。一方、私たちが離れていたいと思うような性格の他の要素には、しばしば結婚という方法で対処することが望ましい―つまり禁欲主義や抑制的な企てよりも―賢明な調整と無害な適用である。人は―自分自身を教育するときでなくても、少なくとも他人を教育するときには―自分の基準や理想を高くしすぎることがある。彼らがなすべきことは、自分自身の資質と、自分が影響を与える人々の資質をありのままに認識し、通常は非常に不完全なこれらの材料を、有用で名誉ある幸福な人生を築くために、最も効果的に活用するよう努めることである。本書の理論では、人間は自由意志を持ってこの世に生を受ける。しかし、その自由意志は真実のものではあるが、本人が通常想像しているよりも狭い範囲で、より多くの制限を受けながらしか働けない。しかし、その中で彼は苦しみや誘惑を減らし、幸福でまっすぐな人生の外的条件を確保するよう、自分の人生の環境を整え、調整し、修正するために多くのことができる。そして懸命で辛抱強い自己訓練によって、幸福と美徳が、いかなる外的環境よりもそれに依存している、性格の改善のために何事かができるのである。

 

 

脚注:

 

[61]ホーソーン(*ナサニエル、1804―1864、アメリカの作家)の「緋文字」Hawthorne's Scarlet Letter, ch. xxii.

 

[62]「同時代史」Hist. ii. 35.

 

[63]ウォーレン・ヘイスティングス(*1732―1818、インドの初代総督)の弾劾に関する演説Speech on the Impeachment of Warren Hastings.

 

[64]デイビス(*トーマス・オズボーン、1814―1845、アイルランドの作家)Davis.

 

[65]ケーブル(*ジョージ・ワシントン、1844―1925、アメリカの作家)Cable.

 

[66]ジェフリーズ(*リチャード、1848―1887、イングランドのネイチャー・ライター)著「畑と生垣」Jefferies, Field and Hedgerow, p. 242.

 

 

第十三章   金銭

 

 金銭と幸福および性格との関係について書かれた数ページを紹介するなら、ヘンリー・テイラー卿(*1800―1886、劇作家)のエッセイ[67]の示唆に富む一節ほどふさわしいものはないだろう。「金銭が人間の生活や性格に及ぼす影響は実に多方面に渡るため、金銭関係によって人間の生活を探ろうとする洞察力は、その人物の性質のほとんどすべての隙間に入り込むことになるだろう。聖パウロのように、いかに惜しみ、いかに大きく使うかを知っている人物は、偉大な知識を持っている。というのも―正直、正義、寛大さ、慈愛、倹約、思慮深さ、自己犠牲といった―金銭と混じり合っているすべての美徳と、それに相関する悪徳を考慮するなら、金銭は人間の縦横の全てをカバーするに近い知識だからである。そしてその入手、貯蓄、支出、贈与、収奪、貸与、借用、遺贈における正しい処置は、彼がほとんど完璧な人間であることを示すからである。」

 

 金銭に対する価値判断ほど、人々が公言していることと実際の信条が対照的なテーマはない。富は他のどんなものよりも人間の努力の目標であって、大抵は生涯の目標である。人類の大多数にとって、いかなる富の増加も、疑う余地のない幸運である。しかし、私たちがみな聞いて来た、多くの教訓を文字通りに受け止めるならば、生活に必要な限度を超えた金銭は、良いというよりむしろ危険なものであり、悪と誘惑の顕著な源である。そして人間の最初の義務の一つは、それを増やしたいという強い願望に他ならない、金銭への愛から自らを解放することである、という結論が導かれるだろう。

 

 ここでも他の多くの事柄と同様に、問題の大部分は程度の問題である。人類の大きな部分が陥っている救い難い貧困の実態を知っている人物なら誰しも、少なくとも彼らをそのような境遇から救い出すだけの金銭が、人類の最大の恩恵の一つであることを疑わないだろう。極度の貧困とは、命をつなぐために最低限必要な収入のために生涯闘い続けることを意味する。それは哀れな掘っ立て小屋で、食料、衣服、薪炭にも事欠いて、強いられた絶対的な無知の中で暮らす生活、人間としてのより高い能力の大部分を発達させていない、ほとんど完全に動物のような存在を意味する。このような境遇にある人々と、文明国のほどほどに裕福な職人との間には、幸福の物質的要素において、後者と大富豪の間のものよりもはるかに大きな本物の格差がある。

 

 金銭はまた、少なくとも、人が自分の人生の進路を自分で決めることをある程度可能にする額であれば、全体として大きな善である。この第二の利益の程度において、それが幸福に及ぼす影響力は健康や、おそらく性格や家庭環境よりも小さい。しかし、少なくともその影響力は非常に大きなものである。金銭は良いものである。なぜなら他の多くのものに変えられるからである。それがあれば教育を受けることができる。教育はそれ自体が性格の舵を取るために大いに役立ち、数え切れないほどの趣味や楽しみの領域を広げてくれる。それは持ち主を老後の貧困の不安や、残された人々の困窮という、非常に貧しいとは言えない大勢の人々を苦しめている心配事から解放する。それは病気や不幸、老齢に際して、また暑さや寒さが厳しく、活動的な労働が肉体的苦痛に他ならない時期に、労働を休むことを可能にする。それは彼自身と、彼が愛する人々の生きるチャンスを増大させ、病気からの回復の希望を増大させる。自分の妻や子供たちが病気で衰弱していくのを目の当たりにして、よりよい食事や医療、外科手術や気候の違いが彼らを救うことができたかもしれないと知っている、あるいは信じている貧困者のものほど、激しい貧困の痛みは他にないだろう。金銭はまた、労働を不要にまではしなくとも、少なくとも労働の選択肢を与え、より長い余暇をくれる。非常に貧しい人々には、このような選択肢はほとんど、あるいは非常にわずかしか存在しない。育てられる機会や余暇がないために、彼らの最も際立った天賦の才のいくらかは発揮されることがない。比較的裕福な人々の場合はそうではない。金銭があれば、自分の嗜好に合った、天賦の才に最も適した人生を選ぶことができる。あるいは自分が一番好きな趣味を仕事にできなくても、少なくとも金銭があれば、それを育む余暇が得られる。余暇を自由に使えることは、それが嗜好に合った仕事に費やされる実りある余暇ならば、おそらく多くの人々にとって最大の恩恵である。チャールズ・ラム(*1775―1834、エッセイスト)は言った「豊かさが良いものである主な理由は、それが私たちに時間を与えてくれることである。」「自分の時間をすべて自分のために!私の心が資産家への羨望に苛まれる理由はそれだけである。本は良いものだし、絵も良いものである。従ってそれらを買う金も良いものである―しかし時間を買う―つまり人生を買う金は何より良いものである。」

 

 ある人々にとって、金銭の主な価値は、金銭のことを考えずに済むことにある。日常生活の決まり事を除いて、それは彼らを悩ませ、不愉快にする心配事を脇に置くこと、そして彼らの思考とエネルギーを他の対象に集中させることを可能にする。十分な収入の保証もまた、いかに控えめなものであったとしても、独立というかけがえのない恵みを与える。人生には道がある。野心のフィールドがある。一方に不十分な報酬と困窮の重圧、他方に不正な利益を得る容易さと誘惑にさらされる被雇用階級がある。貧困者がまっすぐに歩くことは極めて困難である。不正な利益とは、単なる刑法が適用される範囲内の利益を意味しない。それらの多くは法的な、そしておそらく社会的な非難を免れ、慣習による承認さえ受けるかもしれない。資産はその大小にかかわらず、最も強力で飽くなき情熱の一つである貪欲に対抗する、確かな予防薬にはなり得ない。しかし、それは少なくとも誘惑を減少させる。それはかつて十分に実直だった多くの性質を壊してしまった、困窮の重圧を取り除くのである。

 

 金銭の浪費には、習慣的なもの、見せかけのもの、純粋な見栄のためのものが非常に多いのが常である。しかし、私たちがここで扱うのは人生の最も深刻な現実である。幸福と性格について、ここまで述べてきた要素以上に重要なものはほとんどない。そして、資産は小さなものであっても力強くそれに貢献する。従って誰もそれを見くびってはならない。賢明に用いるならば、それは人生の最も真実の恩恵の一つになるからである。もちろん、それに手が届くのはごく少数の人々だけである。しかし、その数は容易に、ずっと大きなものになっていたかもしれない。多くの場合、とても若い頃に相続された財産は、一年か二年のギャンブルと遊興の末に霧散してしまう。そして後には生涯の悔いが残る。また、それが怠惰な生活を許したり、子供が増えたり、不幸が訪れたりすると、かつては資産だったものが単なる必要物に過ぎなくなって、一代のうちに散り散りになるケースもある。さらに多くの場合、人々は収入を得ると、たちまちそれに完全に見合った水準の生活を始めることによって、その利益の多くを失ってしまう。家を一つしか持たなければ裕福だっただろう人物は、家を二つ持つ生活が苦労の連続であることに気づくだろう。一連の習慣が身に付いて、贅沢な尺度や基準を採り入れたなら、余裕の余白は一掃される。豊かか貧しいかは、単なる財産の多寡に左右されるのではなく、欲望の調整に大きく左右される。人々は自分の収入の物質的な物差しで自分の生活を設計して初めて、資産の利益を完全に感じられるのである。こうして支出の大きな輪郭を賢明、かつ質素に確立するなら、彼らは小さな支出も大いに自由に、大いに容易に扱うことができる。

 

 もちろん、このように人が自分の支出を調整する力が決して絶対的なものではないことは事実である。人の生まれながらの社会的地位には、捨て去ることができない慣習や義務がある。莫大な財産と際立った社会的地位を受け継いだ大貴族は、自分に落ち度があるわけでもないのに、平凡な平民の紳士にあらゆる手ごろな人生の楽しみを与えるのに十分な収入の10分の1をめぐって、絶え間ない困難と争いに巻き込まれることに気づくだろう。紳士の地位を守る義務がある貧しい聖職者は、裕福な職人より実際の収入が多少多くても、実際にははるかに貧しい。しかし、社会の慣習が否応なしに定めている範囲の中でも、様々な規模の支出は可能である。そしてこれらの賢い舵取りは、主な実用的な知恵の一つである。

 

 しかしこの点において、人々のみならず国々の間にも大きな違いがあること、そしてそれは単なる賢明さと愚かさ、思慮と情熱の違いゆえではなく、大部分が嗜好や理想の違いゆえのものであることが観察されるだろう。全体的にイングランドよりも、大陸諸国では自由な財産を持つ人物は支出を身の丈よりも小さく抑えがちである。そして何か稼げる仕事をした人物はすぐに自分の得た収入に満足して、喜んで仕事を余暇の生活と交換しがちである。イングランド人は支出の割合をより大きくすることを好み、仕事は止めない傾向がある。

 

 幸せが金銭に左右される限り、最も幸せなのは―確かに最も羨ましがられないにしても―現在と将来について深刻な金銭の心配をしなくてすむだけの換金可能な資産を持ちながら、同時に職業による収入を加えることによって、自ら選んだ社会的地位を維持でき、子供たちに思い通りのものを与えられる人物だろう。仕事は幸福と性格の両方にとって必要なものである。そして、集中力と継続力が最も頻繁に最大になるのは仕事をしているとき、言い換えれば金儲けをしているときである。人は(*牛馬を車につなぐ)引き革につながれて働くのであって、自由に働くことは稀である。必要とされる性格、堅実な習慣、職業生活の絶え間ない競争が、意志を形作り、強化する。そしておそらく最も幸せなのは、このような仕事を持ちながらも、それだけに依存しなければならなくなる恐れがない人々だろう。

 

 また、年齢とともに富が増える傾向にあるのも良いことである。「老齢期は大変金がかかる」と言われてきた。快楽への嗜好が減退すれば、快適さの必要性が増大する。人々はより依存的になり、より気難しくなる。そして若い頃にはどうということもなかった困難が大変辛いものになる。その上、金銭的な心配は老人には特に重くのしかかりがちである。よく観察されている通り、強欲は明らかに老齢期の悪癖である。強欲とは無縁の人物でも、年を取ると若いときよりも金銭的な不安を感じ、それが脳裏を去らないようである。稼ぐ力がなくなってしまったという無力感もある。一方で若い頃、とりわけ窮乏の重圧の中の新婚時代の暮らしは、しばしば人生の中で最も幸福で実り多かった時期として振り返られる。それは性格の最良の鍛錬の場である。そのような境遇でこそ、人は確かで堅実な仕事、質素倹約、道理、先見性、時間厳守、シンプルな嗜好といった習慣を身につけるのである。そして、より豊かな環境では得られなかったであろう共感や認識を得る。小さなことに大きな喜びを感じ、金銭と時間を正しく大事にするようになる。その後、溢れんばかりの富と贅沢が訪れたとしても、これらの教訓が完全に失われることはないだろう。

 

 幸福の要素としての金銭の価値は、その量に比例して急速に低下する。より小さな財産の場合、それが増えるたびに、楽しみと快適さが大きく増す。そしておそらく本当の幸福もかなり大幅に増えるだろう。豊かな人々の場合はそうではない。巨大な財産の中で、持ち主の個人的な楽しみのために本当に役立っていると言えるのは、ごく小さな一部分に過ぎない。楽しみとその費用は、ほとんど滑稽なほどに釣り合っていない。私たちに最初のシェイクスピアを与えた二、三シリングは、デザート・テーブルの手をつけられなかった一品を提供する金額にも足りない。人の心が生んだ極上の最高傑作―何世紀もの長い間、人々の生活を高め、慰め、輝かせ、方向づけることに最も貢献してきた人間精神の作品―の値段は、女性のネックレスどころか、その中の小さな石の一つか二つに過ぎないのである。疲れた徒歩旅行者がパンとチーズを美味しそうに食べる様子と、荘厳な宴席に座っている人々の食欲を比べてみよう。村のダンスと、社交新聞が感嘆でもちきりになる大都会の贅沢で華麗な舞踏会の盛り上がりを比べてみよう。大学の談話室の会話の魅力と、億万長者の食卓でよく見る疲れた顔を比べてみよう―富の虚しさについて良い教訓が得られるはずである。困窮から安楽への移行は、強い喜びと永続的な幸福をもたらす。単なる安楽から贅沢への移行は、比較にならないほど僅かなものしかもたらさず、比較にならないほど費用がかかる。莫大な富を持つ人物に日々の生活を分析させて、彼に本物の生き生きした喜びを与えてくれた物事や時間を挙げさせてみよう。多くの場合、彼はそれを仕事の中に―あるいは葉巻、新聞、本、クリケット、狩猟場での興奮、旧友との会話、娘たちの歌を聞くこと、(*寄宿)学校から帰ってきた息子を迎えることに費やした時間の中に見出したと言うだろう。彼に自分の家の華麗な装飾品を見回させ、その中のどれだけのものが費用に見合う喜びを与えてくれたかを尋ねてみよう。彼はおそらく多くの場合、自分と正直に向き合うなら、肘掛け椅子と本棚だけが例外であることを告白するだろう。

 

 蒸気機関、印刷機、教育の普及、公共図書館、博物館、美術館、展覧会の激増によって、生活の主な楽しみは、過去のどの時代よりもはるかに大規模に、労働者階級と呼ばれる人々の手の届くところにやって来た。現代の生活環境では、金銭で買える真の楽しみのほとんど全ての大きな供給源が、並外れたものではない資産といくらかの余暇を持つ人物に開かれている。知的嗜好は十分に満たすことができる。本については少なくとも文明の中心地では、彼の読書能力をはるかに超えるほどに入手ができる。劇場の楽しみ、社交の楽しみ、あらゆる形の音楽の楽しみ、あらゆる種類の興味深い旅行の楽しみ、そしてスポーツの楽しみの多くも思いのままである。最高級の芸術作品の所有は、間違いなく大資産家に独占されつつある。しかし美術館や展覧会、旅行が容易になったことによって、芸術に関する知識や楽しみは、以前よりもはるかに広い範囲に及んでいる。芸術作品の複製は技術が飛躍的に向上して安価になった。少なくとも一つの形で、最高の芸術が、ごく普通の資力を持つ人物の手の届くところにやって来たのである。写真は絵画を完璧に再現することができるため、彼は原画と見分けがつかないミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチの作品を自宅の壁いっぱいに飾れるだろう。現代において、裕福な家庭では単なる物質的な快適さの水準は非常に高くなっている。そして健康ならば、百万長者でさえ、それ以上のものはほとんど持っていない。富がもたらす楽しみの中で、おそらく最も強い影響力を持つのは田舎暮らしだろう。特にそれが古い記憶と、愛情と想像力に強く訴えかける思い出を蘇らせる場合にはそうだろう。それは他のどのような無生物よりも、人間の心に絡みついて、深く永続的な愛情の対象になる。しかしここでも、いくつかの場所で代わる代わる暮らしている大所有者よりも、一つの田舎の地所の所有者の方が―多大な費用と手間をかけて、多くの監督を委任することでしか管理できない、そして通常はそれらが所有者に与えるよりも真実の喜びを他人に与えるよう、気前よく大衆に開放される広大な庭園の所有者よりも、適度の規模の所有者の方が―この喜びを感じるだろう。

 

 大資産家の特別な楽しみのなかでも、コレクションへの情熱は際立っている。そして当然ながら、大変豊かな人々は、それを並みの資産しか持たない人々の手が届かないものにしてしまう。稀に、コレクターが強い本物の芸術的嗜好の持ち主の場合には、美しい作品を所有することは永続的な喜びになる。しかし一般的には、単なるコレクションへの愛情は、しばしば狂気に近い情熱になるとはいえ、金銭的な価値にはほとんど比例しない。化石の知的なコレクターは、宝石のコレクター同様の―いや、それ以上の喜びを得ることができる。前者の研究はより多彩な興味をそそるものであって、通常は大いにコレクター自身の努力に懸かっているからである。地質学のコレクションを眺めるとき、目にする全ての石が誰かに喜びを与えてきたのだと思うのは楽しいことである。キャクストン(*ウィリアム、1415―1492、イングランドの最初の印刷業者)のコレクター、大型の印刷版や図版版のコレクター、名著の初版本のコレクター、著者が何らかの間違いを犯し、それを後に訂正したために珍重されている版のコレクター、誰も再版する価値があると考えなかったため、あるいは時代遅れの馬鹿馬鹿しさが際立っているために希少本として生き残っているユニークな本のコレクターは、何らかの時代や話題に興味を持って、関連する名もない忘れられた文献を古書店で探すことを好む単なる文学好きよりも大金を使うだろう。しかし大きな喜びを得ることないだろう。他の嗜好についても同じことが言える。強い嗜好や趣味の満足は、常に喜びを与えるものである。そして、それが高価なものであろうと安価なものであろうと、その喜びにほとんど違いはない。

 

 手に入れる喜び、所有する喜び、誇示する喜びは間違いなく真実のものである。しかし、それらは異なる性質に非常に異なる程度に作用する。そして中には一方の性より、もう一方の性にはるかに強く作用するものがある。しかしそれらは一般的に、受動的で不活発なものになりがちである。贅沢や豪華さは、生まれながらにそれを享受している人々にはほとんど有難がられない。苦労と困窮の時代が過ぎ去った後では尚更である。しかしその場合にも、生活の状況や環境はすぐに第二の天性になる。人々は贅沢や豪華さをほとんど機械的に受け入れること、それらが確かな喜びを与えなくなることに慣れる。しかしそれらの喪失は確かな痛みを与えるのである。しかし、権力への愛、社会への愛―それらとまったく同じものではない―社会的影響力への愛は、より強く、より永続的なものである。そして巨万の富が重宝されるのは、常にとは言えないが、それらをもたらすために役立つからである。ただし、それらを同様に、あるいはより大きくもたらすものは他にもある。多くの大資産家にとって、ある種の屋外スポーツは、おそらく金銭がもたらす最大の喜びだろう。それは少なくとも、本物のスリルという紛れもない楽しみを与えてくれる。

 

 百万長者の特別な楽しみに、純粋に利己的と言えるものはほとんどない。なぜなら彼が完全に占有しているものは数少ないからである。大庭園は通常、一般公開されている。絵は展示のために貸し出されたり、彼の家で展示されたりする。猟犬の群れを飼っていれば、他人も一緒に猟をする。もし大量の獲物がいる狩り場を持っていれば、大勢の人を狩りに招待する。そして彼の盛大なもてなしを、疲れ果てたホストよりも楽しんでない人物は誰一人いない、ということがよくある。

 

 同時に、このような巨大な金額が喜びをほとんど、あるいはまったく与えない、単なるありきたりの見栄のために費やされること、ロンドンの最も優れた邸宅は最も長く人が住んでいない邸宅であって、最も魅力的な庭や大庭園のいくつかは一年のうちの数週間しか持ち主に鑑賞されない社会において、楽しむための手段が非常に浪費されていることに、思慮深い人物なら心を打たれないはずはない。

 

 ハマートン(*フィリップ・ギルバート、1834―1894、美術評論家)は「ボヘミアン主義」の中で、このような生き方の根拠の大部分は単に、社交を妨げ、制限する形式や高価な慣習や社会的制約を捨てることによって、社交から得られる最大の確かな喜びや楽しみを得ようとする人々の試みであることを、実に正しく示している。単なる見栄の競争のために、従来の出費の基準が引き上げられること、そして何の喜びも、あるいはその出費に見合わない喜びしか与えない、新しく高価な贅沢品の数多い導入によって人々の交際が制限されることは、非常に裕福な社会の最も悪い傾向の一つである。大資産家が、その富に見合った真の楽しみを人生から得られると考えて、それを純粋に利己的な目的のために使っている例が時々見られる。成金の百万長者の自分の虚栄心を満足させ、隣人の目をくらませようとする、ほとんど狂気じみた下品で空虚な贅沢や、莫大な財産を受け継いだ若者の多くに体を壊させ、不名誉な墓場への道を急がせる放蕩と悪徳の奔放な繰り返しの中に、それは見出されるだろう。彼らは金銭が与えてくれないものを金銭に求めたのである。そして影を追い求めている間に、手の届くところにあった実体を逃してしまったことに遅まきながら気づくのである。

 

 しかし理知的な百万長者、そして特に、大きな財産を持つように育てられた人々の、富に対する見方は全く異なる。それは財産であって、多くの利益と多くの義務が付属する信託物であって、大きな責任という重荷が伴うのである。このような人生において単なる楽しみ探しは、ほんの小さな、まったく補助的な役割しか果たさない。そして通常、それはより有用な仕事に満ちている。例えば、この人物は大銀行家である。彼の生活を追いかけるなら、彼は一週間のうち四日間、部下のいかなる銀行員にも劣らず着実に、絶え間なく職務をこなしていることが分かるだろう。彼は自身の巨大なビジネスの詳細のみならず、国際関係の中の金融という偉大なテーマ全体にも精通している。彼は多くの国で力を持っている。金融のあらゆる危機に際して相談を受ける。彼は多くの事業に重要な影響力を持っている。それらのほとんどは有益であると同時に儲かるものであって、その中のいくつかは明らかに博愛主義的なものである。土曜日と日曜日は田舎の別荘で過ごし、多くの客をもてなすことを常としている。狩猟シーズン中にはもう一日を、大好きなスポーツに費やす。彼の休暇は専門職の人物の通常の休暇であって、それは長くなるよりは短くなる傾向にある。というのも、彼の生来の傾向は強く仕事に傾いているため、仕事から離れていると、すぐに時間が重くのしかかり始めるからである。

 

 また別の人物は熱心な博愛主義者で、その博愛主義はおそらく多くの宗教的熱情と融合し、結果として彼は宗教界の指導者となる。このような人生は、豊かで満ち足りたものに違いない。宗教的な会合や委員会、彼が関係している多くの機関のさまざまな利益、さまざまな宗教団体の相反する、競合する主張などが、彼の時間と思考を完全に占有し、時に私的なことを非常におろそかにさせる。

 

 もう一人は違うタイプである。内気で、引っ込み思案で、人目を嫌い、政治にはあまり関心がない、巨大地主である。そして自分の人生の仕事をその領地の発展に集中させている。彼はすべての村、ほとんどすべての農場の状況を把握している。彼の領地にはひどい家に住んでいる小作人がいないこと、だらしなかったり、管理が行き届いていなかったり、貧困にあえいでいたりする部分がないことが彼の誇りである。彼は教会や病院に寄付をし、公共建築物を建て、あらゆる地場産業を奨励し、困窮の時にはより貧しい人物にはできないほどの多額の賃料の減免を行い、所有地の多くの利益を個人的に監督し、収支のバランスを正確に把握し、衛生設備、農業の新しい改良と実験、多数の小作人の利益に影響を与えるあらゆる多種多様な事柄に大きな関心を寄せている。彼は国家の大事業に惜しみなく寄付し、それを自分の地位にある者の義務の一つと考えている。しかし、彼の核心はそのようなところにはない。そして自分の広大な領地とそこに住む人々の幸福が彼の人生の目的であり仕事なのである。一年のうち数週間、彼はその地位にある人物に期待される華麗で贅沢なもてなしをする。そしてその数週間が終わると大変喜ぶのが常である。ヨット、絵画館、博物館、野生動物のコレクション、温室、競馬場などである。しかし、彼は本当の喜びを与えてくれる―ヨット、絵画廊、美術館、野生動物のコレクション、温室、競馬場といった―高価な趣味を持っている。そのうちの一つ、あるいはいくつかが、彼の活動的で有用な人生の真の娯楽になっている。

 

 イングランドでより一般的なタイプは、活動的な政治家である。巨万の富、そして特に大きな所有地は、人を容易に議会へと導く。そして勤勉さといくらかの能力と結びつくなら、公職へと導く。こうして公的生活は職業になる。そして多くの場合、非常に骨の折れるものになる。政治において主導的な役割を果たし、政府の重要な省を管理し、その巨大な財産について失敗を犯さず、また多くの社会的義務やそれらに関わる地元の利益を疎かにすることのない大貴族の人生ほど、充実した生活、巧みな管理、時間の節約の好例が見られるものは他にない。実際、彼らの成功の大半は、信用に値する効率が良い権限委譲による時間の節約に、賢く金銭を使ったことの結果である。しかし、監督者としての頭脳、巧みな選択、自分自身の管理は不可欠である。これほど忙しい生活の中で、彼がスコットランドの湿原や大陸の水辺で数週間を過ごすことは、決して非難されるべきではないだろう。

 

 しかし時間の節約、頭脳と性格の弾力性といった点において、このような生き方はおそらく他の階級に凌駕されている。現世代の社会生活において、大きな地位にある多くの女性たちがその下で生きることを習慣としている、強いプレッシャーほど注目に値するものはない。他のヨーロッパ諸国にはこれに迫るものがないこと、これがイングランドの過去の世代に存在した何物をもはるかに凌駕していることに、大陸の観察者はみな驚く。しかし、楽しみを与えることと大いに結びついている楽しみを求めることは、イングランドの生活において、大陸の生活よりもはるかに重要な位置を占めている。裕福で地位のある女性にとって、社交が人生のすべてであることは少なくない。また一般に、女性はあらゆる社交から男性よりも多くの喜びを得ていると思われる。もっとも、彼女らが社交の重荷のより大きな負担に耐えていることも事実である。しかし、このような層の中にも、実に驚くほど数多くの多様で真剣な関心を社交と結びつけている人々が大勢いる。彼女らの人生は大邸宅の管理のみならず、学校や慈善事業の監督、大きな領地に関連する地域的事業のみならず、博愛主義、芸術、政治、時には文学といった、さまざまな関心事に満ちている。どのような地位に就いたとしても、これほどに溢れんばかりの、これほどに強い、これほどに絶え間ない、これほどに様々なことに費やされる人生はないだろう。ほとんどの外国では完全に女性の領域の外側にある公的生活が、熱心に追い求められている。現在生きている多くの人々の記憶では、英国社会のいかなる地位の女性もしたことがなかった演説は、今ではごく普通の嗜みになった。彼女らの目的は、青年期から老年期に至るまで、人生が与える限りのものを人生に注ぎ込むことである。そしてその目的の達成のために遠くまで足を伸ばしている。テーマからテーマへと素早く向きを変えられる、知性の素晴らしい敏捷さと柔軟性が発達しているために、彼女らは興味と楽しみの非常に広い領域に通じているのである。

 

 これら全てには間違いなく重大な不利益がある。多くの人は、家庭生活の義務がこの対外的活動の犠牲になっているはずである、と言うだろう。しかし、この件に関しては少なくとも多くの誇張があると私は思う。今日では裕福な家庭の若者の教育は、熟練した専門家によって通常は一日に何時間も施されるものとされ、それが標準になっている。最も多忙な生活は、家庭への配慮を最もおろそかにする生活とは私は思わない。しかし、この激しく絶え間ない緊張がどこまで身体の健康と両立するのかは、より重大な問題である。そして多くの人が、そのことによって次の世代に弱い体質を伝えることを恐れている。また絶え間なく興奮し続ける生活も、他の面において有益ではない。知的、そして道徳的健康のためには、自然に従って、活動的な時期と休息の時期を交互に繰り返すのが最良の生活である。隠遁、静かで着実な読書、性格を成熟させ、印象を深める静かな思索は、多くのイングランド人の生活から消えかけているように見える。しかし私が述べてきたような(*女性たちの)生活は決して無益なものでも、未熟なものでも、利己的なものでもない。そしてそれらは、幸福は快楽よりもむしろ興味に求めるべきであるという、幸福の偉大な法則に大いに適っている。

 

 金銭の価値を、それについての考えや心配ごとを頭から消し去ることができることに見出す人々については既に触れた。全体として、この目的に達することが多いのは、大資産家よりも、控えめだが十分な資産を持っている人々だろう。これは少なくとも、大きなリスクや変動がなさそうな有価証券に資金を投資できるほどに裕福な場合である。莫大な財産が、その管理に多大な配慮を必要とせず、多くの思慮と決断を必要としないことは稀である。しかし、一つだけ重要な例外がある。子供が大勢いる場合、大資産家は中程度の資産家よりもはるかに楽に子供の将来に備ることができる。

 

 しかし、これらの人々とは正反対に、単に金銭を得ることを人生最大の関心事と楽しみにしている層がいる。大多数の人々の主な仕事は、何らかの金儲けである。しかし、それは通常、目的の達成のための手段である。それは生計を立て、あるいは社会的地位を守り、あるいは引き上げ、あるいは後を継ぐ子供たちにふさわしいと思うものを与えるための収入を得る手段なのである。しかし時に、何の隠された動機もない大資産家が、金儲けそのものに夢中になることがある。彼らは大いに有利にそれを追い求めることができる。なぜならよく言われるように、金ほど金になるものはなく、莫大な資本の所有は、それを増やすための無数の便宜を提供するからである。収集の情熱がこの形をとる。彼らは金銭で買える何ものよりも、金銭を気にするようになる。ただし、金銭そのものよりもそれを手に入れる興味と興奮ゆえのことである。変動、不確実性、サプライズを伴う投機的な事業が、彼らの最も強い関心事になり、最大の娯楽になる。

 

 それが正当に行われるなら、非難を受ける真の理由はない。現在の状況では、そのように費やされる人生は通常、世の中にとって有用である、と私は思う。それは概ね実際に価値ある仕事を奨励するからである。全く真実に言えることは、それは重大な誘惑を伴い、道徳心を低下させやすいということである。投機はその興奮の激しさゆえに、容易にギャンブルの一つになり、絶え間なく大規模に続けられるなら、より高く静かな楽しみのためのあらゆる能力を消し去って、悪辣な利得への誘惑を計り知れないほどに強め、性格全体のバランスを乱し、しばしば生命を縮めることさえある。また他の人々では蓄財への愛が奇妙な力を持って、性格を即物化し、狭め、硬化させることがある。時に奇妙で一貫性がなく、特定の物事や生活の一部にのみ適用される―吝嗇の習慣が少しずつ彼らを覆い、金銭への愛は熱狂の性格を帯びてくる。金銭に関する誘惑は、最も陰湿で最も強力なものの一つである。それは飲酒よりも幅広い支配力を持ち、動物的な情熱から生じる誘惑とは違って、年齢とともに衰えるどころか、むしろ強くなる。人間にとって、自分の性格を見守り、非利己的な要素が減らないよう注意し、気前の良い支出によって利得への愛を正すほどに必要なことは他にない。

 

 本当の意味での真剣な自己否定を伴う最高の慈善は、富裕層よりも貧困層において、また非常な貧困層においてさえ、よく見られるものだろう。貧しい人々同士の交流について実際によく知っている人々のほとんどが、このことを認めるだろう。財産において対極にある人々の間で、それがはるかに少ないことは確かである。彼らには同じ規範がなく、実際に同じ自己犠牲を払う見込みがなく、同じ貧困の苦しみを実感する手段もない。彼らの慈悲心を阻む、無理もない理由がもう一つある。巨万の富を持つと噂される人物は、やがて自分が無数の物乞いや詐欺師にとり囲まれていることに気がつく。彼は、誰しもが自分から奪うことを企んでいると感じるようになり、自然と疑り深い自己防衛的な態度になる。気前がいいという評判が立って、懇願が途切れなくなってしまうのを避けるため、彼は気前よく多額の寄付をするときでも、絶対的な匿名のベールをかぶることがよくある。彼が知的な人物なら、おそらく自分の経験を一般化するだろう。彼は無思慮な慈善活動が生み出した巨大な害悪と、生産的な金銭の支出の方が、慈善的観点から見た場合でさえ、優位であることに深く感銘を受けるだろう。

 

 そして実際、無分別な慈善が節約精神、勤勉さ、先見性、自尊心をそぐという弊害はいくら強調しても強調し過ぎることはない。それらは多くの形を取ることがある。その中には極めて明白なものもあれば、遠因を注意深く考察しなければ正しく評価できないものもある。かつて素朴だった地域で、子供たちに小銭をばらまいてかき集めさせることで、早期教育の最も価値ある教えの一つである自尊心を壊してしまったり、貧しい人々に物乞いやほとんどそれと見分けがつかないようなことは実直で継続的な労働よりも大きな利益をもたらす、という致命的な教訓を与えてしまったりする下らない旅行者がいる。巧みな物乞いの手紙を書くことを実入りの良い職業にし、裕福で慈悲深く弱い男女を常に貪欲な詐欺師の餌食にする、衝動的で考えなしの慈善がある。単純な貧困に手を差し伸べるための、古くからの慈善事業があるが、これは近隣の極貧層をすべてその中心に引き寄せ、賃金を下落させて、自らその役に立とうとした地区や人々そのものを貧しくしてしまっている。悪徳の当然の結果であり罰である苦しみを大幅に和らげるのみならず、犯罪者や質の悪い人々の境遇を勤勉な貧しい人々のそれよりも良いものにさえしてしまう慈善事業がある。異なる宗派同士の対立や、彼らに関係する役人の利益ゆえに、惜し気もなく浪費されている、ほとんど完全に過ぎ去ってしまった環境や苦しみを扱うために設立された、時代遅れで旧式の―無益な、あるいはほとんど無益な何らかの愚かな流行を実行するための、あるいは何らかの愚かな虚栄心を満たすための―同じ部門を扱いながら重複している慈善事業がある。またある宗派の信者以外のすべての人の目には、無益であるのみならず、悪意にしか映らないような目的までも達成するための宗派的な慈善活動、先の事を考えない結婚を奨励したり、男性が明白な義務を怠るのを容易にしたり、半貧困層を決して成功することのない雇用や農地に留まらせたり、その他の方法で自然で健全な産業の流れを困難にしたり、妨げたり、逸らせたりするような慈善事業がある。このテーマについて注意深く研究している人物なら誰しも、これら全ての弊害の実例に思い当たるだろう。知性のない、思慮のない、純粋に衝動的な慈善や、苦しみを和らげたいという真の願い以外の動機に触発された慈善は、必ず失敗するだろう。しかし聡明な人物なら誰しも、最大の気前良さが豊かな実りによって報われる、広大な畑を容易く見つけることができる。

 

 避けがたい不幸を緩和し、貧しい病人にも資産家同様の、いくらかの回復の機会を与えるための病院や類似の施設は大抵、この項目に入る。価値に見合う報酬をもたらさないような知識や事業や研究を促進したり、能力があって勤勉な貧しい若者が特別な才能を伸ばすことを支援したり、さまざまな形で倹約や自助努力や協力を奨励したり、陸や海での何らかの大災害、産業の大転換、階級の景気の大きな変動や落ち込みの後の避け難い苦しみを緩和したり、過密な町の住民たちに健康的なレクリエーションや品位ある楽しみの手段を与えたりするために使われる金銭が無駄になることは滅多にないだろう。教育という広大な領域には、惜しみない支出のための無限のフィールドが広がっている。そして信仰に篤い人物なら誰しも、自分と同じ信仰を持つ人々のみならず、他の多くの人々でさえ並外れて重要なものと認めるような目標を見つけられるだろう。また、そのいくらかが本人の過失に起因している、あるいは特異な先見力や自己否定によって回避できたかもしれない全ての不幸に対する慈善は拒まなければならない、というのも正しい原則ではない。経済学者の中には、あたかも貧しい人々や無学な人々に、豊かな人々よりもはるかに高い水準の意志や道徳が期待できるかのように書く人々がいる。(*しかし、それは正しくない。)ここに良識と正しい感覚は容易に一線を引くだろう。すなわち浪費や悪徳を実際に助長するような慈善事業は差し控えるべきであるが、人間の本性の普通の弱さには十分な配慮をするべきである。

 

 こうしたあらゆる方法で、大資産家は有益な慈善の機会を十分に見つけることができる。巨万の富の特権は、他が緩和しかできないものをしばしば治療できることである。そして寄付者が他界した後も長く続く、恒久的な善の源泉を打ち立てられることである。個々の苦難のケースに対処するために、特定の状況を調査する時間もその気もない資産家は、他者の勧告に大きく頼るのが良いだろう。信頼できて、有能で、分別のある相談役を、私的な事柄を扱うのと同様の判断力を用いて選ぶなら、道を誤ることはないだろう。かつてこれほど多くの知的で無私の労力が、貧困層の境遇やニーズの注意深い詳細な調査に費やされた時代はなかった。教区の聖職者、地区の訪問者、慈善団体協会の代理人たちは毎年、十分に確認された特定の困窮のケースを選ぶことによって、彼らが必要としている知識を充分に与えてくれるだろう。

 

 ある国に、実際に彼らに楽しみを与える量をはるかに超える財産を持っている人々が大勢いることの利点と欠点は、政治経済学者とモラリストの両方を大きく二分してきた問題である。前者は長い間、法律と制度は富の最大限の蓄積を更に促す目的で確立されるべきであって、無制限の競争制度は平等な法律と相まって、各人に財産の所有と処分に最も完全な保障を与えるものであり、この目的を達成する最良の手段であると、いくらか頑なに主張することを常としていた。彼らはこのような制度のもとでは財産の不均衡が甚大になるとはいえ、大資産家の富の大半は賃金、購入、産業企業という形で、必然的に共同体の全体に分配されることになり、他の条件が同じならば、最も豊かな国が全体として最も幸福になるという大いなる真理を主張した。百万長者が増えれば増えるほど貧民が増え、社会は大資産家と惨めな貧困層の間で分裂していく、という一般的な主張が完全な虚妄であることを、彼らははっきりと見抜いていた。大資産家が最も多く存在する大きな産業地域は、最も繁栄した中産階級と、最も高く、最も改善傾向にある賃金相場と貧民の快適さの水準の中心地でもある。その中に多くの腐敗が存在することは間違いない。しかし、彼らの誠実さの水準が他の国々よりも全体的に低いと断言することは到底できない。彼らは少なくとも、多くの貧しい国々の、あらゆる行政部門における腐敗の最も大きな原因の一つ―王室の使用人の不十分な給与―から自由である。この一派の経済学者の目に、自由の道は知恵の道と映っている。そして産業発展の道を制限したり妨害したりするあらゆる立法的な試みに対して、彼らは深い不信感を抱いていた。

 

 私たちの世代では、明らかにいくらか違った傾向が強まっている。過去の政治経済学者たちは富の蓄積に注意を払い過ぎて、富の分配には注意を払わな過ぎたと言われてきた。人々は高いレベルの幸福と精神的健康(*moral well―being)により敏感になった。それはヨーロッパのより小さな、いくらか停滞した国々で達成されてきたものである。そこでは一般的に、富は巨大な工業や商業よりも倹約と堅実な産業によって獲得され、大きな財産は少ないが深刻な貧困も少なく、贅沢の水準は低いが本物の快適さの水準は高いのである。裕福な国々にはびこってきた企業買収、過当競争、浪費的でしばしば悪質な贅沢、公金の不正な運用といった巨大な害悪は、ますます感じられるようになってきている。このような国々には、富と富が与えるものへの強い渇望ゆえに人格、知性、マナーについての配慮をすべて喪失した、大きく影響力のある社会的集団が存在するということだけは、あまりにも真実である。ときに企業活動が少なく、民衆の快適さの水準が非常に低い国に、不平等な法律と腐敗した行政に由来する、莫大な財産を見かけることがある。自由で民主的な産業社会では、富の大きな変動や格差は避けられない。そして最も巨大な富のいくつかは間違いなく、私が述べたような邪悪な方法によって築かれたものである。しかしそれらは少数に過ぎず、非常に大きなものでもない。人生のあらゆる大きな成功と同じく、富の並外れた蓄積は通常、能力、性格、偶然のさまざまな組み合わせの結果であって、不正にまみれたものではない。全体として問われるべきは、その人物が何を持っているかではなく、それをどのように手に入れ、どのように使うかである。富が正当に入手され、賢く気前よく使われるのなら、その国の資産家は多ければ多いほどよい。

 

 世界各地における大量の金の発見に支えられた産業の諸条件が、現在ほど莫大な富の形成に有利な時代、そして百万長者がこれほど多い時代は、おそらく世界の歴史に存在しなかっただろう。その大半は英語を話す種族に属している。彼らの巨万の富の大半は、おそらく急速に蓄積されたものであって、大地主には不可避の、世襲の、明確な義務を彼らに課さない。また教育や初期の習慣に由来する、数多くの洗練された、当然高価な嗜好を持たない人々の懐に、こうした富のかなりの割合が入る。イングランドでは、新しい百万長者の多くは大地主になって大きな住居を構える。田舎趣味があまり顕著でなく、女中奉公が非常に困難なアメリカでは、このようなことはあまり一般的ではない。どちらの国でも、思い通りに使える莫大な財産を持った人々が非常に増えている。そして彼らの支出は国家にとって真に重要な問題になっている。

 

 その多くが単なる贅沢や見栄や、単なる投機や、現代の特徴である地位(*貴族の息子)と金銭(*資産家の娘)の結婚を通じて、古く荒廃した財産の修復のために使われることは間違いない。しかし慈善や博愛の目的に捧げられるものも多い。ここでも他の多くの事柄と同様に、非常に様々な動機がしばしば混在している。このような富を持つ人々にとってこうした支出は、たとえ大規模なものであっても真の自己犠牲を意味しない。またその誘因は常に最も高い種類のものとは限らない。ある人々にとっては、大きな慈善事業や教育機関の創設者に伴う、永続的で価値ある名声を手に入れたいという―正当で有益な―野心の問題である。他の人々は、少なくともイングランドでは、慈善事業への多額の支出は、家柄の低い粗野な男女を社交界のリーダーと目されている人々と密接かつ頻繁に結びつける、社会的成功への最も容易で最も早い道の一つであることに気づいた。一方、他の人々はそれが、不名誉な、あるいはいかがわしい手段で手に入れた富に、今なおこびりついている汚名を拭い去る最も手っ取り早い方法であることに気がついた。慈善の分野は流行、社会的野心、社会的競争と決して無縁ではない。しかし、自らの慈善活動に一切の利己的な要素を持たず、他者にとって最も真実の永続的な利益になるように資金を使うことをだけを望んでいる人々も大勢いる。

 

 そうした人々はとても大きな力を持っている。そしてその博愛的な支出が賢く用いられることは、計り知れない利益になるだろう。私は既に、その力が向けられるべき安全な方向を数多く指摘してきた。しかしこの件に関して一つか二つ、ヒントを追加することは無駄ではないだろう。おそらく一般的な法則として、こうした人々は新しい慈善団体を設立するよりも、本当に価値のある古い慈善団体を強化し、拡大する方が、ずっと賢い行動であることに気づくだろう。競争は産業の真髄ではあっても、決して慈善の真髄ではない。またイングランドでは同じ目的のために設立された施設が増えすぎたせいで、資金と組織が嘆かわしいほどに浪費されている。先に私が述べたような野心は、自分と同一視される新しい慈善団体を好む傾向があった。慈善団体の有給の職員たちは大きく強力な同業者連になった。そして当然、その影響力は同じ方向に向かって行使される。この国の数多いさまざまな宗教団体は、しばしば協力し合うことを拒んで、それぞれが独自の施設を持つことを望んでいる。慈善活動には流行がある。それは気前良さを大いに刺激するものではあるが、慈善を昔ながらの慎み深いものから乖離させてしまうことがあまりにも多い。一方、現在の経済状況の中で最も重要な事実は、工業の繁栄の並外れた、ほとんど比類のない進展に、長きにわたる極度の農業恐慌と金利の大幅な低下が伴っていることである。さまざまな富が驚くべき速さで蓄積され、賃金の上昇によって労働者階級には好景気が広がっている。しかし、農地の小作料や投資信託の利回りに直接、または間接的に依存している人々は深刻な打撃を受けている。彼らは社会における最も有用で、落ち度がなく、価値ある層の一部をなしている。彼らを傷つけたものと同じ原因が、通常、その収入の大部分を地代や公債への投資から得ている旧来の施設にも甚大な打撃を与えている。病院やその他多くの古くからの慈善団体、大学、国教会の聖職者たちから上がっている苦しみの叫びは、このことを十分に証明している。(*従って支援するべきは彼らである)

 

 しかし、新しい慈善団体よりも古い慈善団体を優先することには、非常に多くの例外がある。それは新しい国には適用されない。また数多くの、かつて人口が少なく、慈善や教育の施設がほとんどなかった地域に、産業の変化や発展のために巨大な人口が集積することになった場合にも適用されない。また現代の生活環境から生まれた、新たな慈善、新たな必要、闘うべき新たな危険や弊害、開拓すべき新たな知識の分野にも当てはまらない。旧来の大学の最大の難問の一つは、縮小しつつある交付金で、それらが設立されてから長い年月を経て初めて誕生した、あるいは少なくとも脚光を浴びるようになった科学や知識の分野の教育を賄うことである。またそれらの中には熟練した教員のみならず高価な器具や実験室を必要とするものもある。国際競争の激化と科学的知識の拡大によって、私たちの祖先が夢にも思わなかったような量の技術教育や農業教育が必要になった。また、地方の大都市の台頭、その活気、愛郷心の高まりは、労働者階級と中流階級の両方の立場の変化と同様に、旧来の大学とは違ったタイプの教育機関に対する真の需要を生み出した。女性の高等教育は基本的に十九世紀の仕事である。それは古来の交付金による支援もなく、現代の議会からの援助もほとんどないまま(*私人の寄付によって)行われてきた。公的資金の分配において、議会に全く代表を送っていない人々が公平な分け前を受けることは稀である。そして高等教育は、ほとんどの科学や、高等な文筆や、多くの価値ある研究と同様に決して自活できない。知識の中には、確実な交付金がなければ未開拓に終わるか、あるいは相当な私財を持っている人物にしか開拓できない大きな分野がある。私たちの世代では、さまざまな国や気候におけるさまざまな病の療養施設といった、かけがえのない治療機関が育って来た。最も実りある医学的研究や、最も単調で過度の緊張を強いられる生活に健康的な変化と輝きを与える最も効果的な手段のいくつかについても同様である。産業、人口、そして知識においてさえ、大きな革命が起こるたびに、新たな特別な欲求がもたらされる。そして、移住の支援が最良の慈善事業の一つになる場合もある。

 

 これらは、多くの大資産家が慈善事業に使おうとしている多額の余剰資金が有益に用いられる方向性のほんの数例に過ぎない。現代では、社会にさまざまな緊急事態が起こるたびに、強制的な課税を前提とする国家的支援で対応しようとする顕著な傾向が増大しつつある。実際の、あるいは事実上の必要を大きく上回る所得がある人々がほとんどいないような経済水準の国では、おそらくこの手法が必要だろう。しかし、ここまで述べてきたような数多くの必要は、イングランドの伝統的な手法である知的な個人的気前良さによって、より良く満たすことが可能である。そして大資産家の数が非常に多く、しかも増え続けているこの国に、このような気前良さが欠けてはならない。

 

 

脚注:

 

[67]「人生のノート」Notes on Life.

 

 

第十四章   結婚

 

結婚という広大なテーマについて何かを語ろうとする論者は誰しも、自分を未発見の真理という大海の岸辺で小石を拾っている子供のように感じた、というニュートンの美しい言葉を思い浮かべるだろう。莫大な種類の境遇や性格が、それに莫大な種類の方法で影響を与える。ここでできるのは、それについていくらかの孤立的で雑多な意見を述べることだけである。とはいえ、これはこのような本では省略できないテーマである。多くの場合、結婚は人生の大きな転機であって、それが行われるときはいつでも、人生の最も重要な出来事の一つである。結婚が他に何をするにしても、あるいはしないにしても、それが人を変えないことはない。それは彼の知性、性格、幸福、世界観のすべてに影響を与える。もしそれが彼を高めたり強めたりしないならば、低めたり弱めたりするだろう。それは幸福を深めないなら、損なうだろう。それは義務、利益、習慣、希望、心配、悲しみ、喜びをもたらし、彼の本性のあらゆる亀裂に浸透して、人生の全行程を修正するだろう。

 

 これほど永続的で重大な契約が、あるときは目の眩むような情熱ゆえに、またあるときは人生をまだロマンスや牧歌のように見ている年頃に、またあるときは富や肩書きや地位への欲望のための、単なる野心と計算として、どれほど軽薄に、どれほど僅かな知識によって結ばれているかは、考えてみれば奇妙なことである。男も女も、自分たちが本当に理解したことも、実感したこともない境遇に順応するために、習慣と必要の力に頼るのである。

 

 ほとんどの場合において、程度の差こそあれ、さまざまな動機が組み合わさっている。相手に対する圧倒的な愛情が最も強い動機になって、他のすべてを覆い隠してしまうことがある。結婚の主な動機が既婚者になることである場合もある。それは落ち着いた家庭と地位を得て、独身生活の「無計画な自由」と「漠然とした欲望」から解放され、愛情の対象を見つけ、着実な習慣を身につけ、またキャリアのために欠かせないことであるが家政の心配から解放され、家系を残し、家庭の不和を避け、あるいは家庭に新しい幸福を呼び込むことである。特定の人物への真の愛情は、このような動機と一体になっている。しかし、それは現世的な利益の選択、判断、比較、考慮を排除するような性格のものではない。

 

 女性が網を作るよりも、檻を作ることを考えるようになれば、世の中の不幸な結婚はもっと減るだろう、というのはスウィフトの至言である。人を惹きつけ、魅了し、幻惑する資質は、幸せな結婚に不可欠なものとは大きく異なることが多い。時にそれらは明らかに結婚にとって好ましくないこともある。結婚する際にそれらが役立つことはより頻繁である。しかしその度合いは、より低い、あるいは補助的なものに過ぎない。完成された浮気性の女性の気立てや性格は、確かに結婚生活の幸せを最も良く約束するものではない。また際立った美貌、輝かしい才能、英雄的な資質は、人生において大きな役割を果たし、社会的領域では際立って輝くが、結婚生活の幸福の要素としては低い地位に沈んでしまう。結婚では二つの生活が完全に同一になるため、あらゆる能力や才能が発揮される。しかし、その程度や割合は、公的な生活や表面的な交際や関係とは全く違ったものである。最も本質的なものは華麗な人生にはしばしば欠けていて、凡庸か、その少し上の人生や性格の中で育まれることが多い。世の中の抜け目のない人物は言っている「結婚前は姿形、容色がすべてを左右する。思いがけないことに、結婚後は心と性格が最も大きく重要なものになる。」[68]

 

 この関係は最も緊密で、信頼すべきものである。そして、二人のパートナーの利害が完全に一致していないなら、それぞれが持つ相手を傷つける力は計り知れない。優れた資質を備えた道徳的基盤は、極めて重要である。誠実で、正直で、信頼でき、自己犠牲と自制ができる性質が第一である。その次には親切で、穏やかで、足ることを知っている気質、共感する力、人や物のより良い面、明るい面を見る習慣が挙げられる。おそらく知的資質の中では判断力、機転、秩序に最も価値がある。男性は結婚に何よりも完全な正気を求めるべきであって、ヒステリーのようなもの全てを恐怖するべきである。美は喜びであり続けるが、大いにその力を減じるだろう。しかし、気品と物腰は、最後までその魅力の全てを保ち続けるだろう。それは人生の小さなことを無数の方法で輝かせる。そして人生とは主に小さなことから成り立ち、些細な摩擦にさらされ、小さな決断と小さな犠牲を必要とするものである。結婚生活においては広い関心と大きな理解が、どんな偉大な建設的、創造的才能よりも重要である。そして英雄や聖人の最高の資質よりも、なだめる力、共感する力、助言する力、耐える力が重要である。これらだけが、結婚生活を完全なものにするのである。

 

(*誰も来ない森の中で二人が暮らしたとしても)

「暗い夜には、あなたは心配事を忘れさせてくれる、

そして太陽の下では、あなたがいれば少しも寂しくない」

‘Tu mihi curarum requies, tu nocte vel atrâ

Lumen, et in solis tu mihi turba locis.’ [69]。

 

 しかし、これはすべての結婚に当てはまることではあるが、職業や生活環境の違いによって、求められる資質が異なるのは明らかである。重労働をしている労働者、あるいは肉体労働はしていないものの、貧困と闘う生活を送っている人物が、高い地位に生まれ、大きな社会的、経営的責任を担っている人物とまったく同じような性格を、結婚に求めることはないだろう。教区のさまざまな問題に没頭する聖職者の妻、長い間夫と離れて、おそらく多くの苦難の中で、多くの土地で暮らさなければならない軍人や商人の妻、活動的で野心的な政治家の妻、絶え間ない仕事のために家に帰ることが少ない多忙な職業人の妻、健康状態や仕事、習慣ゆえに常に家に閉じこもっている人物の妻には、それぞれ特別な資質が必要だろう。男女が生まれながらにして持っている、性質の弾力性や順応性、単調さに耐える力、習慣やルーティン、変化が幸福に占める位置ほど異なるものはない。そして違う種類の生活では、これらの重要度の違いは非常に大きなものになる。結婚前の子供や、片方のパートナーの家族との困難でデリケートな関係など、特別な家庭環境では特別な資質が発揮されなければならない。このような関係は実際、しばしば女性の性格の真の資質の最も鋭く、厳しい試金石の一つである。

 

 おそらく全体として、結婚の選択が成功する可能性が最も高いのは、妻が結婚後と全く異なる環境や考え方の中で教育を受けていない場合だろう。人種や肌の色が違う者同士の結婚が幸せであることは稀である。そしてマナーや習慣が大きく違うくらい社会的レベルが違う者同士の結婚も同じである。その他の少女時代と結婚生活の小さな環境の違いも影響することがある。しかしそれらはそれほど強くも、多様なものでもない。最も幸福な結婚のいくつかは、解放的結婚である。それは少女をその性格に合わない家庭環境から解放し、初めて自由に呼吸できる知的、道徳的空気の中に置くものである。同時に妻を選ぶ際、その女性が育ってきた家庭の性格、環境、習慣、トーンは常に重要な要素になる。人種にはその資質がある。血統には決して無視できない性格がある。フランクリン(*ベンジャミン、1706―1790、政治家、物理学者)は、妻は「束の中から」選びなさい、という言葉を賢者のものとして引用している。一緒に育った少女たちは見習うことによってお互いを高め合い、相互の自己犠牲と忍耐を学び、性格の角を取り除き、過度な自惚れを抱かなくなるからである。俗悪な趣味に支配され、名誉の水準が低く、浪費と気ままとだらしなさが常に蔓延している家庭には、そこから完全に逃れるためには強い個性を必要とする空気がある。肉体的な健康という大きな問題もある。男性は結婚によって一族の肉体的レベルを下げるよりも、上げるように努めるべきである。そして何よりも、遺伝性であることが十分に確認されている重大な病を、一族に持ち込まないようにすべきである。あらゆる自己犠牲の中で、このような病に冒されている人物が独身を守ることほど、明らかに正しく、明らかに有益なものはない。

 

 結婚と男女の関係ほど、宗教指導者がこだわってきたテーマは他にない。そして子供を増やすことがその第一の目的である、と常に強調されてきた。しかし一般的なキリスト教圏の倫理において、上に述べたようなことがほとんど無視されてきたのは奇妙なことである。人間にできる最も責任あることの一つが、人間をこの世に誕生させることならば、その最初の、そして最も明白な義務の一つは、その人間をできる限り健全な肉体と正常な精神とともにこの世に誕生させることである。これは両親が子供に残すことのできる最良の遺産である。そして大いに彼らの手が届く範囲にある。若すぎる結婚、過剰な多産、近親婚、そして何より重い遺伝性の身体的、精神的疾患や重大な生まれつきの欠陥を抱えた結婚は、両親に幸福をもたらしたとしても、子供たちに恐ろしい罰をもたらさないことは稀である。幼少期に良い教育のみならず、できる限りの健康状態を確保するのが両親の子供に対する最初の義務の一つであることは、はっきりと認識されている。しかしその義務はそれ以前の段階にまで遡るものである。そして結婚に際しては、生まれてくる子供の前途を決して忘れてはならない。これは将来の倫理において、これまでとはまったく異なる位置を占めるであろう考慮事項の一つである。

 

 似たような考慮事項で、同じくらい重要でありながら一般的な教育においてほとんど無視されているのは、養える見込みのない子供をこの世に送り出すのは道徳的な罪であるということである。この二つの義務の軽視が、世の中をどれだけ堕落させ不幸にしてきたかは、いくら強調しても強調しすぎることはない。

 

 ダーウィンの理論が遺伝に与えた大きな重みは、男性にこの中の第一の義務をより意識させるようになるだろう。結婚には二人のパートナーの相互の義務があるだけではない。そこには人生の他のどの行為よりも、子孫に対する明白な義務がある。精神異常やある種の病が遺伝することは議論の余地のない真実である。性格の遺伝は、実際のところ、まだこの地位をまだ獲得していない。そしてダーウィン派の中では、この問題に関して重大な分裂が起きている。しかし、注意深い観察者ならそれがある程度存在することを疑わないだろう。そしてそれが人生を形作る最も強力な影響力の一つである可能性はかなり高い。人間の本性がどのように形作られてきたか、そして人間が生まれながらにして持っているさまざまな本能や嗜好の由来については、前の世代に耽溺されていた、環境から生まれた思考や感覚の習慣や様式が、次第に種族の生得的なものになり、それらを最初に生み出した環境とはまったく無関係に、自然にかつ本能的に出現するのである、というのが今のところ最も説得力のある説明だろう。この理論によれば、同じプロセスは絶えず進行し続けている。人間は下等な獣のような状態から徐々に抜け出してきた。長く続いた環境の圧力は彼をその特定のタイプに作り上げた。しかし新しい感覚や習慣、あるいは古い感覚や習慣の修正が、絶えず彼の人生のみならず、本性にも入り込み、そこに根を下ろし、少なくともある程度は遺伝の力によって、彼の子孫の生得的な気質に再現される。(*本書が書かれたのは1899年。遺伝情報を伝えているのはDNAであることが分かってきたのは1928年以後。正しくは、新しい感覚や習慣、すなわち後天的な獲得形質はDNAに書き込まれないため遺伝することはない。)もしこれが正しければ、自己訓練の義務と結婚における賢明な選択の義務の両方に、新たな恐ろしい重みが加わることになる。つまり、子供は私たちの言動のみならず、私たち自身からも影響を受けるだろう、そして両親の性格はさまざまな程度と組み合わせによって、遠く離れた後世の人々にまで受け継がれるだろうということである。

 

 このことが過去の誤算に投げかかる光の恐ろしさは小さなものではない。この仮説に基づくなら、ガルトン氏が正しく指摘した通り、宗教的な独身の礼賛と修道生活の甚大な発展と奨励が世界にもたらした弊害はいくら強調しても強調し過ぎることはない。何世代にもわたって、何世紀にもわたって、広いキリスト教圏の全ての地域において、この宗教的概念は、最も優しく、最も無私で、最も真面目で、学問好きで、敬虔で、最も道徳的、知的な熱意を抱きやすい人々を、ほとんど全員、子供をつくらない独身生活に引きずり込んで、子孫の幸福と道徳的進歩に最も必要な資質を後世に伝えることを妨げたのである。様々な宗教制度から生じる善と悪を公平に評価しようとするなら、その天秤には常にこの問題が重くのしかかるだろう。[70]

 

 しかし、特定の結婚という狭い範囲に話を戻すなら、完全な信頼と、利害のある意味での完全な一致が完璧な結婚の特徴ではあるが、これは決して一方のパートナーが他方の複製でなければならないということを意味しない。女性は単なる弱い男性ではない。そして最も幸せな結婚では、嗜好、性格、知的資質において、妻は夫の鏡であるよりも、むしろ夫を補完していることが多い。これは知的な面において常に見られることである。純粋に実用的で面白みのない知性は、詩情やロマンに強く染まった知性と結びつく。事実に強い男性は、直観に強い女性と結びつく。科学や政治、経済や産業の問題と仕事に完全に没頭している男性は、芸術家や音楽家の天分、あるいは少なくともその気質を持っている女性と結びつく。このような場合、一方のパートナーは、もう一方に最も欠落している種類の知識、共感や資質、嗜好や鑑賞力をもたらす。そして異質な二つのタイプが親しく、そして絶え間なく接触することによって、それぞれは多くの場合、無意識のうちに、しかし通常は非常に効果的に改善される。男性たちの間で、知的共感に対する欲求には大きな差がある。完全に平凡な知的環境は大抵、優れた知性を妨げ、低めるものである。しかし、誰しもが最良の知的環境が自らの特別な天分に最も合っていると考えるわけではない。

 

 多くの人々にとって、厳しい知的労働は非常に孤独なものである。彼らが家庭で最も望むのは、それらについて一切考えないことである。科学の第一線で活躍し、親しい友人同士でもあり、ともに非常に家庭的な性格だった二人の人物を私は知っている。そのうちの一人は、ほとんどすべての仕事を妻の目の前で行い、可能な限り妻と緊密に協力することを習慣にしていた。もう一人は、家族の誰も彼のような科学的嗜好を持っていないため、仕事を離れて家庭に戻ると、まったく違った雰囲気の中で安らげることを喜んでいた。文筆家の中にも、仕事において常に刺激や関心、共感を必要とする人々がいる。また他人に管理されず、干渉されず、邪魔されず、明るく静かな雰囲気の中で自分の天分を伸ばすことだけを望む人々もいる。

 

 知性に当てはまることは、性格にもかなり当てはまる。常に一緒に生活している二人は、多くの嗜好や共感を共有しているはずである。そして二人の性格はほとんどの場合、同化する傾向がある。結婚生活において、性格の大きな相違が存続することがあるが、それは悪いことばかりではないのみならず、しばしば大きな利益になることがある。それぞれが他方に最も必要なものを埋め合わせている場合には、特にそうである。ある性質は鎮静剤を必要とし、ある性質は強壮剤を必要とする。幸せな結婚では、二つの異なる性質の結合が怠惰で不活発な者を刺激し、衝動的な者を和らげ、倹約家に気前良さを、浪費家に秩序を与え、最も必要な慎重さや積極性を与え、健康で陽気な性質との接触が不健康で陰気な性質を矯正することがしばしば見られる。

 

 結婚が逆の効果をもたらすこともある。結婚が共通の弱点への共感の上に成立することは少なくない。そしてこの場合、その欠点が悪化しないことは決してない。全体として女性は―持久力や忍耐力といった―いくつかの最も価値ある強さにおいては、少なくとも男性に劣らない。しかし弱くて慄きやすい神経、過度の感受性、衝動や感情の過剰な作用は、態度と性格の両面において、ある種の魅力と不可分に結びついている。それは極めて女性的なものであって、多くの男性にとって強烈に魅力的なものである。このような女性が弱い男性や元気のない男性と結婚したなら、どちらも幸福になることは稀である。しかし強い男性と結婚したなら、しばしば非常に幸福になる。強さは弱さと結ばれても、強さと結ばれても良い。しかし弱さが弱さと連れ添うことには注意しなければならない。蔦を楽々と支えるには樫が必要である。そして、幸福で陽気な性質と常に触れ合うことが幸福の第一条件であることを知っている人々は大勢いる。

 

 結婚においてパートナーのどちらかが個性を失うのは賢明でも正しいことでもないように、それぞれが独立的な権限の領域を持つのは正しいことである。それはもちろん、結婚の第一条件であるべき完全な信頼関係と、合理的な判断力がある場合のことである。多くの結婚が永久に破綻したのは、女性に金銭の問題についての独立性が認められておらず、小さなことでも夫に相談しなければならなかったからである。一般的に、夫は家庭のことに、妻は職業的なことに干渉しないほうがよい。男児や女児、年頃の女の子の教育は、ほとんど妻に任される。子供時代を終えた少年たちの教育は、むしろ男性の判断に委ねられる。多くの事柄は共同で管理される。しかし通常、家庭の大きな利害は主に一方のパートナーに、小さくて数が多いものはもう一方のパートナーに委ねられる。

 

 しかし、このような問題については例外が非常に多いため、一般論はほとんど意味をなさない。性格、年齢、経験、判断力の違い、そして数え切れないほどの特別な環境が家族のタイプに変更を加える。そして結婚における知恵は主にこの違いの発見の中に宿っている。結婚生活が性格に与える影響の方向もまた、非常にさまざまである。しかし、家庭の世話や家族の利害が大きな重荷になる多くのケースは通常、双方のパートナーを、特に女性を、強くすると同時に無私を強いるだろう。彼女は自分のために生きることがほとんどなくなり、家族のためだけに生きるようになるだろう。このような結婚は知的な側面において、純粋に知的な嗜好よりも、より健全な判断力と世の中についての幅広い知識を与えるのが普通である。結婚前の教育が、結婚生活の義務に備えるのみならず、おそらく結婚生活によって弱められるであろう関心事や嗜好に適切に割かれるのなら、それは良いことである。人生の厳しい戦いや、家庭にもたらされないことが稀な不安や悲しみは、当然ながら性格に深みと真剣さを与える。しかし、重大な悪徳には染まっていなくとも、このような教育でさえ力を持たないような、どうしようもなく軽薄な性格の持ち主もいる。エマーソンが言ったように「ハエはハイエナと同じく、飼いならせない。」

 

 結婚に最も適した年齢もまた、個々の事情に大きく左右される問題である。よく知られているように、古代の人々は男性の結婚をかなり遅らせた。また彼らは男女間に大きな年齢差があることを望んだ。プラトンは30歳から35歳の間、アリストテレスは37歳を男性の結婚適齢期とする一方で、少女たちを18歳から20歳で結婚させようとした。[71]しかし彼らの見解は、結婚を専ら男性と国家の側から見たものだった。彼らは主にそれを健康な市民を生み出すための手段と捉えていた。彼らはそれを愛の情熱とほとんど完全に切り離していた。モンテーニュはそのエッセイの中で、最も率直なシニシズムとともにこの見解を解説している。[72]とはいえ、男性が未経験の本性の新鮮さと純粋さを失わないうちに結婚し、人生の初期の詩情と熱意の少なくともいくらかを結婚生活に加えるのは最も大切なことである。また習慣の形成に大きな役割を果たす関係を、性格が柔軟性を失って、習慣が取り返しのつかないほどに固まってしまうまで先延ばしにするのも望ましいことではない。

 

 一方、双方のパートナーが世間や人々についての、本当の知識を持っていない年齢での結婚への反対意見は無敵である。そうした結婚が多くの幻想を生み、多くの後悔を残すのはあまりにも頻繁なことである。長期旅行で得られるような種類の知識は、結婚後よりも結婚前の方がはるかに容易に得られる。非常に早い結婚は通常、子供のための十分な備えのない不適切な結婚である。そして多くの場合、未成熟な結婚であって、重大な身体的弊害をもたらす。大きな地所や地位を相続する場合、所有者と相続人の年齢差があまりに小さく、おそらく高齢になるまで相続が先延ばしされるなら、良いことはほとんどない。

 

 人生の衰退期の結婚には、別の動機がある。男性が結婚に求めるものは主に、人生の最後の下り坂を優しく導く手である。

 この点については、結婚に関するほとんどのテーマと同様、一般的で杓子定規な規則を定めることはできない。モラリストたちは主に結婚の延期の危険性を強調し、経済学者たちは備えのない結婚の弊害を強調してきた。その進路は各人の境遇や気質によって、決められなければならない。しかし全体的には、ほとんどの文明国において、結婚を遅くする傾向が強まっている。豊かな人々の間では、贅沢や欲求のより高い水準、クラブ生活の快適さ、そして思うに人生に占める情動の地位の低下も、全てその原因になっている。一方、貧しい人々の間に広まっている先見性と、勤勉な習慣も同じ傾向を持っている。

 

 女性の視点から結婚を論じるには、男性のペンより女性のそれの方がはるかに優れているため、私はそのフィールドに立ち入ろうとは思わない。しかし19世紀の文明が既婚、未婚を問わず、女性たちにその程度において過去をはるかに凌ぐ独立性と自立性を与えた、顕著な傾向を見過ごすことはできない。ほとんどの文明国の法律は、彼女たちにその財産と収入の完全な保護、子供に対する後見権の拡大、職業的生活のためのより広い道筋、さらには公的な問題の取り扱いについての非常に大きな発言権さえも与えている。これらの影響力は女子教育の大幅な改善と、彼女たちの自立的行動の幅を大きく広げた社会の風潮の変化によって、さらに強くなった。私自身は、この動きが人生において孤独な戦いを強いられている人々のみならず、結婚生活を送っている人々にとっても、全体として有益なものであることを信じて疑わない。それには自然に、より大きな関心、より幅広い共感、より鍛えられた判断力、より強い自立心と自制心が伴う。そして結婚生活の浮き沈みの中で、これらはしばしば有効に発揮されるだろう。最も緊密な人間同士の絆が、死という偉大な離別によって断ち切られるとき、おそらくこれらはさらに必要とされるだろう。

 

 

 脚注: 

 

[68]第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラム(*1799―1848、政治家)Lord Melbourne’s Papers, p. 72. 

 

[69]アルビウス・ティブルス(*BC55―BC19、ラテン詩人)Tibullus.

 

[70]ガルトンの「天才の遺伝」Galton's Hereditary Genius, pp. 357―8.一方、修道院はそれがなかったなら病弱な子供を残していただろう弱い体質の者の、かなりの部分に独身を守らせたと言えるかもしれない。このことと、幼児期の高い死亡率が、衛生学が発達しておらず、外的条件が非常に不利だった時代には種族を強くしていたに違いない。

 

 [71]「共和国」Republic, Book V. 「政治」Politics, Book VII.

 

 [72]Livre III. Ch. 5.(*第三巻、第五章)

 

 

第十五章   成功

 

 経験が与える最も重要な教訓の一つは、人生における成功は全体として、そしてほとんどの場合、知性や幸運よりも性格に左右されるということである。数多くの華々しい例外が、この法則を曖昧にしてしまう傾向があることは間違いない。また最高の成功を収める性格の資質のいくつかは、重大な悪徳や欠点と結びついているかもしれない。しかし全体として、疑いのない法則は一つしかない。そして、それは文明が進むにつれてますます明らかになっている。節度、勤勉、誠実、倹約、自助、自制は多くの人々にとって、窮乏から安楽へと浮かび上がるための手段である。そしてこれらの資質が最も行き渡っている国が、長い目で見れば最も繁栄しているのである。偶然や環境は、多くのことをもたらすかもしれない。望ましい気候、幸運な合併、通商経路の好都合な変化は、国家の繁栄に大きな影響を与えるかもしれない。無政府状態、扇動、不当な法律、不正な事業などは、個人的利益、あるいは階級的利益に多くの機会を提供するかもしれない。しかし最終的に競争に勝つのは、堅実で勤勉な美徳が最も広まり、最も尊重されている国だろう。性格の道徳的な基礎こそが古代ローマの偉大さの真の基盤だった。そしてそれが損なわれたとき、衰退の時代が始まったのである。フランスの農民の堅実で、極度に倹約的で、勤勉な資質はこの国に回復力を与えてきた。その偉大さによって彼らは支配者たちの無数の愚行や放縦を生き延びて来たのである。

 

 さらに付け加えるなら、性格は最も多くの人々に関係していて、彼らの真の幸福に最も大きな影響を与える―高いレベルの物質的快適さや、安定した幸せな家庭や、隣人からの尊敬と信頼といった―成功の種類と程度において特に傑出している。全く異なる資質がしばしば素晴らしい報酬を得るという嘆かわしい事例があるにせよ、完全に信頼される性格が成功の主な要素ではない人生などあり得ないことは事実である。

 

 少数者しか歩むことができない野心の道では、知的資質はより大きな役割を果たす。そしてもちろん、それ自身の性質が基本的に知的なものである天才の仕事は数多く存在する。しかし人生における最も輝かしい成功でさえも、並外れた知的才能よりも、並外れた意志の強さと粘り強さ、並々ならぬ勇気、忍耐力、そこから生じる仕事の力、あるいはあらゆる知的資質の中で性格と最も近い関係にある、チャンスを巧みにとらえる機転と判断力によるものであることがしばしば見出される。

 

 

 意志の強さは必ずしも、いや、おそらく一般的に機転(*tact、如才なさ、気働き)とは結びつかない。そしてしばしば前者は後者を幾分損なうように思われる。強い情熱、強烈な信念、障害を乗り越え、反対を押し切る威圧的で不遜な性質は、しばしば異常に強い意志と同居するが、本来それは高度な機転の天分を持つ人物の特徴である控えめな言い回し、手際や手法の繊細さとは調和しない。この二つのそれぞれが、他方よりも重要になる環境や時期がある。そして各人の成功は主に、なすべき仕事と独自の才能の適合性にかかっている。「極限状態における大胆な水先案内人」はしばしば静かな海の最高の航海士ではない。危機やぞっとするような危険の際にこの上なく偉大に登場して、強大な国家を築き上げ、未開の部族を征服し、革命や内戦の嵐の中で巧みな手腕と勇気によって国家という船を導き、その名を歴史の一ページに不朽の文字で記した人々よりも、時に力の劣る人々の方が議会を運営したり、対立する利害を調整したり、古くからの憎しみや偏見を賢明な妥協によって和らげたりする手腕ゆえに大きな成功を収めることが証明されてきた。現代において私たちは、統一ドイツの偉大な創始者の生涯という、二つの異なるタイプのうちの少なくとも一つの際立った実例を経験した。

 

 しかし、意志と決意が非常に強い人物が、高度な機転の才も持ち合わせていることがある。そしてこれが健全な判断力と結びつくなら、それは通常、彼らの人生にその純粋な知的資質とまったく釣り合わないほどの成功をもたらす。ほとんどすべての行政職において、また人々を束ね、管理し、影響を与え、人種や利害や偏見の対立を調整し、調和させ、困難な仕事を摩擦なく、巧みな協力によって遂行するあらゆる職務において、これらの才能の組み合わせには至高の価値がある。それは才気、雄弁、独創性よりもはるかに価値がある。この組み合わせにおいて際立っていたある偉大な総督の行政についての、人物評に優れた論者の論評を私は覚えている「彼は常に自分の主張を通していたが、誰とも敵対しているように見えなかった。」他者の議論の良いところをすべて認める用意と、反対派の武装を解かせ、個人的な愛情を勝ち得ないことが稀な、物腰と気質の魅力ゆえに、固く一貫した意志の揺るぎない圧力がほとんど感じられなかったのである。

 

 絶対に相容れないわけではないが、通常は切り離されている資質の組み合わせは、多くの成功した人生の秘密である。例えば、最も素朴なものでありながら、あらゆる資質の中で最も有用で最も喜ばしい資質の一つ―人柄の良さ―を例にとるなら、これが性格の際立った特徴である場合、堅固さ、活力、判断力がいくらか欠けていることがあまりにも多い。しかしそうでないこともある。そしてその場合には、これほど大きな成功の要素はない。隣人の他人に対する評価が厳しいか優しいかを感じ取る、微細な磁力のような人々の共感、また他人を厳しく評価する人々自身が全体的としていかに厳しく評価されているか、一方で他人を短所よりも長所で評価し、おそらく長所を少し重く見る人々が人気を得るのを観察するのは興味深いことである。

 

 対立を和らげ、愛され、人生のさまざまな道筋を平らにし、さらに忘れてはならない、重大な欠点を隠す上で、人柄の良さが持つ効果には、実際誰しも気づかないはずはない。男性でも女性でも、機転の利く人柄の良い人物については、評判を落とすような締まりのない行動も常に忘れ去られるか、少なくとも許される。世間においてこの資質は、他のはるかに高い、確かな価値があるものよりも高く評価されている。例えば、社交界で完全に、あるいはほとんど完全に快楽のために生きていて、人生に高い目標もなく、真の義務感もなく、本物の真剣な自己犠牲の力もないが、同時に隣人に対して決して薄情なことを言わず、自分にも他人にも厳しい行動基準を設けず、生まれながらの愛嬌によって、周囲のすべての人を上手に、努力することもなしに、明るく幸せにする女性を見かけることは珍しくない。彼女はおそらく、隣人よりも称賛され、人気者になるだろう。その隣人とは、他人の利益のために人生の全てを犠牲にし、自らの義務のために最も愛する快楽、時間、金銭、天分を犠牲にしているが、おそらくは狭量で厳格な教育によって強化された、何らかの不幸な気質ゆえに、仲間の弱さを手厳しく批判する人物である。

 

 また機転という救いになる才能が欠けているとき、才気にあふれていたり、機知に富んでいたり、野心的だったり、精力的だったりする人物が、知的資質において大きく劣る人物に人生の競争で追い抜かれることがいかに多いかを観察するのも興味深いことである。彼らは目をくらませ、かき回し、それなりの力を揮って、簡単に二番手の座を勝ち取る。しかし、才能の発揮にそのものにおいて、常に何物かが彼らの足枷になっている。一方、判断力、機転、人柄の良さは、輝きは比較的弱いながらも、静かに控えめに舵をとっているのである。優れた話術の持ち主で、その才能と学識によって人を楽しませ、指導するのに非常に適しているにもかかわらず、不穏当な冗談や辛辣な皮肉、滑稽な逆説を慎むことができず、常に他人を傷つけ、敵を作り、考え方が不真面目であるという世評を受けて、管理職や信頼されるポストに就けなくなる人物がいる。拍手喝采の中、痛烈な毒舌や容赦ない嘲笑で政敵を追及して、自分自身に対する敵意を常に溜め込んでいる議会演説者がいる。彼は自分のキャリアにとって重要な連携への扉を閉ざして、党のリーダーになるチャンスを潰しているのである。自分の主張を完璧に述べることができるが、攻撃的態度、敵対者へのあまりに明白な軽蔑、あるいは大義名分の誇張によって、常に聴衆に反感を抱かせる弁護人がいる。タイミングが悪かったり、あまりに頻繁に軽率だったりすることで、真面目な資質がまったく信用されなくなったり、もったいぶったり、自己主張したり、自分を際立たせようとあくせく努力したりすることによって誰からも嫌われたり、エゴイズムや繰り返しや固執によって、あるいは本質と細部を区別したり、他人の気質を理解したり、時宜を見極めたりする能力がないために聴衆を疲れさせ苛立たせて、最も本質的な長所が理解されない人物がたくさんいる。機転が利かないために、本当に穏健な意見の持ち主は、過激派と評される。実際には親切な性格の持ち主は、行く先々で反感を買う。本当の愛国心の持ち主は、単なる道化師や党派的なギャンブラーとみなされる。偉大な才能を持ち、世の中に大きな貢献をした人物は執念深く退屈な人物と貶められ、同時代の人々はその成功にふさわしい報酬の十分の一も与えない。単に適切なタイミングで適切な人々に適切なことを言うだけが機転なのではない。それは言及されず、気づかない振りをされ、あるいは軽く、のらりくらりとしか触れられない多くの事柄によく表れるものである。

 

 それは人間の才能の中で最も高いものではないことは確かだが、最も価値のあるものの一つであることは間違いない。それは人が他の才能を生かすことを可能にし、欠けている才能を最も効果的に補うものだからである。それは性格と知性の境界線上にある。自制心、気立ての良さ、他人の感情に対する迅速で優しい共感を意味する。それはまた、性格や表現のより繊細な陰影を察知すること、人が多種多様な気質と接する際に、粗野な人々には感じ取れない、よりデリケートな感情の気配を捉えることを可能にする知的才能をも意味する。

 

 おそらくほとんどの場合、それは男性よりも女性において発達している。そしてそれは必ずしも他の目覚ましい才能を伴わない。時にそれは全体的な知的能力が非常に低い男女に見られることもある。そして多くの場合、それは私生活に魅力を加え、社会的に成功するためだけに役立っている。それが本物の才能と結びついた場合、その才能の持ち主はその才能を最大限に生かすことができるのみならず、しばしば周囲の人々にその才能の価値を非常に大きく見せる。この才能の有無は、さまざまな人物の相対的な価値が、同時代や後世の人々によって、直接の個人的な接触があった、あるいはなかった人々によって、また彼らを外側から、あるいは彼らの人生の大まかな結果で評価する人々によって、しばしば非常に違った評価を受ける主な理由のひとつである。本当の機転は良いマナーと同様に、自発的で自然なものである。あるいはそうなるものである。完璧に洗練されたマナーの持ち主は、良い社交界の礼儀や快適さを、その都度意識して慎重に守っているわけではない。それは彼にとって第二の天性になったのである。そして考えることも努力することもなく、一種の本能のようにそれを守っている。同じように真の機転とは、しばしば見られ、普通は策略と不誠実の印象を与える、手の込んだ不自然な機嫌取りや魅惑の試みとはまったく異なるものである。

 

 機転は性格も知性の程度もまったく異なる人々に見られるものだが、自然な親和性を持っている。それは不必要な摩擦を何よりも避けようとするため、妥協に強く傾き、強い信念や激しい熱意、熱烈な衝動的、感情的気質とは一般的にも自然にも相容れない。また一般的に深く集中する才能を持ち、何らかの特別なテーマに強烈に没頭している人々にも見られない。そうした人々はしばしば人生の社会的な面に無頓着で、自らの性格の良し悪しを評価できない。ただし彼らはしばしば、まるで子供のような純真さと本性の素朴さ、本質的な節度ある気質を持っており、それは優れた知性と結びついて、彼ら独自の魅力になっている。しかし機転は、穏やかで落ち着いた、良い人柄と自然な親和性がある。それは機会、バランス、程度を素早く察知する感覚、重要なものとそうでないものを容易く、かつ正しく区別する力、人生のさまざまな出来事の中で人を導き、自分の周りにいる人たちを評価するのみならず、自分の能力、自分に最も適した仕事、自分の手の届くところにあったりなかったりする野心の対象を正しく測ることを可能にする、健全な判断力と結びついている。

 

 より高度なものは、基本的に天賦の才であって、ときに完全に無学な人々に顕著に見られることもある。しかしそれを大いに培い、改善することはできるだろう。この点において、良い社交界の教育は特に価値がある。それが他にどう作用しようとも、このような教育は少なくとも生活のリズムから多くの雑音を取り除いてくれる。それは実際の重要性とはまったく不釣り合いなほど人々に不利に働く、マナーや態度、発音の欠点を正してくれる。そして世の中の表面的な評価は、主にその上に形成されると言って過言ではないのである。またそれは機転に欠かせない精神的資質も育んでくれる。

 

 ニューマン枢機卿が完璧な紳士の性格を描いた、素晴らしいページから抜粋したいくつかの文章以上に、本当に機転の利く人物の姿をよく表しているものはないだろう。

 

 「紳士を定義するなら、決して苦痛を与えない人物、ということになるだろう…彼は一緒にいる人々にショックや動揺を与えかねない―意見の衝突や感情の対立、全ての束縛、猜疑心、憂いや恨みといった―ものを注意深く避けている。彼の最大の関心事は、誰しもを安心させ、くつろがせることである。彼は全ての仲間たちに目を向けている。彼ははにかみ屋には優しく、打ち解けない者には温和で、愚かな者には慈悲深い。彼は話している相手が誰かを思い出すことができる。無分別なあてつけや苛立たしい話題から身を守る。会話の中で突出することは稀で、つまらなそうにすることは決してない。彼は自分の親切を軽く扱う。そしてそれを与えているときには、受けているように見える。彼は強いられたとき以外に自分のことを語らず、単なる返し言葉で自分を守ることもない。中傷やゴシップには耳を貸さず、自分に干渉する者の動機には細心の注意を払い、何事も一番良く解釈する。論争において狭量、卑劣になったりすることはなく、フェアではない利益を得ることもなく、個性や鋭い物言いを口論と勘違いしたり、口に出せない悪口を仄めかしたりすることもない…彼は侮辱に傷つくには常識があり過ぎ、心の傷を覚えているには忙し過ぎ、悪意を抱くには怠惰過ぎる…もし彼が何らかの論争に参加するとしても、彼の鍛えられた知性は、より優れてはいても教養がない知性が犯す、鮮やかに切るのではなく、鈍い武器のように引き裂いたり叩き切ったりする不作法から彼を守る…彼の意見は正しいかもしれないし、間違っているかもしれない。しかし不条理であるには頭脳が明晰過ぎる。彼はシンプルであると同時に強力であり、簡潔であると同時に断固としている。これほど公平無私で、思いやりがあって、寛大な人物はどこにもいない。彼は論敵の心の中に入り込み、彼らの思い違いを解き明かす。彼は人間の本性の弱さも、その強さも、その範囲も、その限界も知っているのである。」[73]

 

 私は本章の冒頭で、性格は成功をもたらすために、全体として他の何よりも大きな役割を担っていると述べた。また勤勉の美徳の着実な遵守が、人間の幸福に最も資する方向に何の報酬ももたらさないことは稀であると述べた。同時に、人生における成功は、道徳的なものであれ知的なものであれ、決してその報酬によって測られるものではないことも、あまりに明らかである。人生は大きな宝くじであって、その中で運と機会は非常に大きな役割を果たしている。高い資質は、中程度の資質や低い資質よりも成功しないことが多い。高い資質が最も成功するのは、別の下位の要素と混じり合ったときである。そして大きな報酬の大部分は悪辣で、利己的で、狡猾な者の手に落ちる。しかし、より大きな平均をとれば、おそらく功績と成功の不均衡は小さくなる。そして国家の運命は個人の運命よりもはるかにその真の価値と一致するだろう。成功もまた、幸福の同義語にはほど遠い。そして幸福を求める欲求はすべての人間の本性に内在している一方で―少なくとも生活の快適さを公平に享受するために必要な以上の―成功を求める欲求は決して普遍的なものではない。習慣の力、穏やかな家庭生活への願い、国や家庭への愛情は本当に有能な人々の間において、しばしば野心の衝動よりも強い。そして人生における競争や闘争、地位が高くなるとともに増える責任、そして後をついて来ないことが稀な嫉妬や羨望に対する嫌悪感は、もし闘技場に入ることを選択するなら、成功のためのあらゆる必要条件を備えているような人々の中にも見られるだろう。最も強い人物が最も熱心な登山家とは限らない。そして静かな谷間は、多くの人々にとって、人生の聳え立つ峰々よりも大きな魅力を持っているのである。

 

 

 脚注:

 

 [73]ニューマン著「大学教育の範囲と性質」Newman’s Scope and Nature of University Education, Discourse IX.

 

 

第十六章   時間

 

人間がこの地球上に生きてきた数え切れないほどの年月を考えるなら、人々がこれほどまでに人間の正常な状態を受け入れていないのは奇妙なことである。あらゆる時代の詩に歌われ、あらゆる人間の魂に程度の差こそあれ感じられる憂鬱のどれほど大きな割合が、特別な、すなわち固有の不幸ではなく、全人類に共通したものに由来していることだろうか!容赦なく飛び去る時間、老いと衰弱の到来、死の影、私たちの存在を取り巻く神秘、愛情の深さと人生の儚さ不確かさのコントラスト、人間の歴史を埋め尽くしている、破綻した人生、挫折した野心、無益な労苦、誤用された才能、有害なエネルギー、長く続いた妄想、偶然がしばしば知恵よりも強く、功績と報酬に大きな隔たりがあり、生きとし生けるものが、膨大で呆れるほどの冗長性の中で―いかなる有益な目的もなしに、食べ、殺し、苦しみ、死んで―世代を繋いでいるように思える世界を見つめる時、私たちを襲う深い虚無と無目的の感覚、これらはすべて、人間の通常の運命、すなわち避けがたい環境に属するものである。宇宙に関する知識をこれほどまでに広げた科学や、快適さを増やし苦痛を和らげた文明が、それらがもたらす悲しみを少しでも減じたとは言い難い。実際、人間が純粋に動物的な存在から引き上げられ、精神的、道徳的な力が発達すればするほど、この種の感情は増大するように思われる。

 

文筆において、現代ほどそのことがはっきり分かる時代は、世界の歴史上にほとんどないだろう。体質や気質は、それを深くしたり、軽くしたりする甚大かつ屈辱的な力を持っている。そして宗教的信念の強さや弱さが大きく影響する。しかし最も優れた者、最も強い者、最も信心深い者、最も成功した者も、そこから完全に逃れることはできない。時にその真実の表現がローリー(*ウォルター、1552―1618、軍人、探検家、作家)の短詩の中に見られることがある:

 

時間は預かるものでもある

私たちの青春、私たちの喜び、そして私たちが持っているものすべてを!

そしてそれは私たちに

老いと、暗く静かな墓の中の塵しか払い戻さない。

私たちがすべての道を彷徨い終えたとき、

それは私たちの日々の物語を閉ざす。

そして、墓と土と塵の中から、

主が私を引き上げてくださる、と私は信じている。

 

時にそれは、少し皮肉な、軽い憂鬱の色合いを帯びている。

 

人生は虚しい。

小さな恋、

小さな憎しみ、

そして―こんにちは。

人生は短い。

少しの希望、

小さな夢、

そして―こんばんは。[74]

 

フランクリンの言葉ほど私たちの心に刻むにふさわしいものはない。「あなたは人生に価値を見出している。ならば時間を浪費してはならない。時間は人生の糧なのだから。」人に与えられているもの全ての中で、これほど価値あるものはない。しかし、これほど多様な使い方をされているものもない。人生はその長さよりも、その内容によって真に評価されるべきである。時間の無駄というのは最も古いが、決して陳腐化しない決まり文句の一つである。時間を守らず、無駄な繰り返しの労力を回避せず、楽しいことや儲かることを疲れ、飽き、過剰になる前に適当なところで止める節度を持たず、無駄なことや重要でないことに拘り過ぎ、無気力で無関心な性質ゆえに仕事にも楽しみにも熱心ではないことで、貴重な「人生の糧」がどれほど浪費されていることだろうか。時間とは、ある意味で最も伸縮性のあるものである。それは最も多忙な人々が、特別な仕事に時間を費やすときに最も気づかれることの一つである。また活発な職業生活の強い刺激の下で、好きな仕事や研究に費やす時間があまりに少ないことを苦々しく思っている人物が、自分の時間をすべて自由に使えるようになったとき、そのフィールドで、過密な生活の中で苦労して稼いだ隙間の時間よりも少ない働きしかしていない、と気づいて驚くのはよくあることである。余った五分間、不意の空き時間や生活の隙間、を賢く使う術は、私たちが身につけられる、最も価値のあるものの一つである。時間をやり過ごすことが主な関心事になっている人生もある。それが、成し遂げなければならない全ての仕事のために時間を割くことである人生もある。ほとんどの人は人生のさまざまな時期に、その両極端を知っている。ある人々にとって時間とは空虚で、特色がないもので、素早く、気づかないうちに過ぎ去ってしまう単なる期間である。また他の人々にとっては、良きにつけ悪しきにつけ、仕事であれ楽しみであれ、一日一日が、そしてほとんど一時間一時間が、独自の刻印と性格を持っているように見える。この点において、歴史上の異なる時代、同じ国の異なる世代、町と田舎の生活、異なる国の間には大きな違いがある。「シナの全歴史より良いヨーロッパの50年(*テニスン著「ロックスリー・ホール」からの引用)」というのは大いなる真実である。そして、北国と南国における時間の価値の違いを旅行者が感じないことはないだろう。ある国の余暇は、他の国の仕事よりも忙しそうに見える。そして、働き過ぎて疲れ切ったアングロサクソンの本性にとって、時間にほとんど価値がないような国への短い滞在ほど安らげるものはない。

 

全体として私たちの世代において、より文明的な国々で寿命が大幅に延びたことに疑いの余地はない。シンプルにその平均期間が延長したのではない。これは幼児死亡率の減少によるところが大きいのである。進歩は、健やかで活動的な老年期が一般的になったこと、時間の節約によって時間を増やすための新しい発明品が数多く登場したこと、仕事と楽しみの両方において生活の強度がはるかに増したことに、より決定的に見られている。「ハイ・プレッシャーな人生」に不利益や弊害がないわけではない。しかし、それは少なくとも大いに、十分に利用される人生を意味している。

 

しかし仕事の合間は、たとえ積極的な楽しみではなかったとしても、時間の無駄ではない。生活のあらゆる分野において、一般に過労は不経済である。それはしばしば過労が―おそらく仕事よりも不安ゆえに―健康を害するからというよりも、むしろ過労が仕事の質を損なわないことは稀だからである。私たちの人生の多くの時間は、意識のない睡眠中に過ぎて行く。そしておそらく、他のどの時間よりも有効に使われている。睡眠は肉体的なエネルギーを回復させるのみならず、精神に真実で健康なトーンを与える。興奮した神経を鎮め、誇張された不安を払拭することによって、睡眠はこの世のあらゆるものの中で、最も良く物事の真実のバランスを整えるのである。しっかりした数時間の睡眠の癒しの力が、どれほど多くの自殺を回避し、どれほど多くの無謀な企てや決断を阻止し、どれほど多くの危険な争いを鎮めたことだろうか!「心配事で擦り切れた袖を繕ってくれる眠り(*マクベスの台詞)」は実際、世の中に悩み疲れたときの最高の恵みの一つである。その癒しと回復の力は、身体の病と同様に心の病にも感じられるものであり、そして(*夢で神に知恵を授けられた)ソロモンが何と言おうとも、人が自然の要求する睡眠を十分に取るのは賢明なことだろう。怠惰な人物の真の時間の浪費は、自然な睡眠の量ではない。それは、目が覚めてからベッドでぼんやりと過ごす時間や、身体が本当に渇望する休息とは別の、単なる精神の不活発、興味や注意力の欠如ゆえの不適切な時間外の睡眠である。

 

睡眠について、より多くのことを主張する人々もいる。ある古代の論者は「肉体の夜の時間は、魂の昼の時間である」と言った。また、神の霊が最も人間に語りかけるのは夜の夢の中である、という古い信念を絶対視しているわけではなくとも、起きている時間につきまとい、私たちの本性を物質的にし、硬化させるのに大きな役割を果たしているこの世の心配事から心を完全に引き離すことが、より高い人生の最初の条件の一つであると信じている人々もいる。「心は官能的で肉体的なものから離れるに従って、天上の霊的なものへと上ってゆくことができる。」とスヴェーデンボリ(*エマヌエル、1688―1772、科学者、神学者)は言った。散乱し、もつれ合った思考や判断が、夜の間に睡眠によってふるい分けられ、明確にされ、整理されているように見え、横になったときには絶望的に混乱しているように見えた問題が、目覚めると同時にあっさり解決していることがよくある。「まるで私たちが眠っている間に、起きている間の理性よりも完璧な理性が働いていたかのように。」これと似たようなことが、私たちの精神の性質にも起こっていると主張されている。「ここでは他のどの時間帯にもほとんど存在しない、あるいは不可能なプロセスが、私たちの中でとても有効に進行している。そして現象界に飲み込まれている時間よりも、その気を散らせる影響力から守られている時間に、私たちは精神的に成長し、発展し、成熟しているのである…現世の力は、起きている間のこの世での経験を最善の利益にするために必要な教えや霊的な助力を、私たちから不断に奪ってしまう。睡眠の役目とはまさに、こうした現世の力を私たちの毎日の一部の時間だけ休ませることではないだろうか?私たちの外的な現世の計画や野心が、神的な活力が意志に流れ込むのを妨げたり、遮ったりしなくなるのは、このような時間帯なのである。」[75]

 

しかし、このような考え方を採らなかったとしても、少なくとも人生の幸福の少なからぬ部分が睡眠中の時間にかかっていることは十分に明らかである。プラトンは自分の生まれつきの気質、傾向、誘惑を示すものとして、自分の夢を注意深く観察するよう勧めている。そして―おそらくより多くの理由から―バートン(*ロバート、1577―1640、文筆家、「憂鬱の解剖」の著者)とフランクリンは、「楽しい夢を見る技術」を、あまり認識されていない生命科学の偉大な分野の一つにすることを提唱した。これは主に、食事、運動、効果的な換気、賢明な時間配分の問題であることは間違いない。しかし、精神的な要因もそれに大きな影響を与えている。

 

Somnia quæ mentes ludunt volitantibus umbris,

Nec delubra deum, nec ab æthere numina mittunt,

Sed sibi quisque facit.

(*心に揺らめく影を映す夢、

それは神々を困惑させることも、神々をエーテルから送り込むこともない、

それは人々が自ら生み出しているものなのである。

ガイウス・ペトロニウス、20―66、政治家、文筆家、「サテュリコン」の著者)

 

心の動揺を鎮め、平穏で、まっすぐで、後悔のない生活を送り、意志によって思考の流れを支配する力を養い、手に負えない情熱、誇張された不安、不健康な欲望を抑制することは少なくとも、多くの人々の不幸に少なからず加担している、辛い夢を枕から追い出すための素晴らしい秘訣の一つである。

 

時間が不自然に長く感じられ、陰鬱な考えや、人生の試練についての誇張された、病的な見解が際立って優位に立つ、眠れない夜に何か健康的な心の糧を与えようとするのも、これに似た自己訓練の一つである。教育が人間を真の幸福に導く方法の中で、退屈な時間を楽しく、心を和ませる考え事で埋める力は、本や講演ではほとんど注目されないが、小さなものではない。おそらくこの点において、幼少期に詩―特に宗教詩―に触れ、記憶するという習慣は最も重要なものだろう。

 

積極的な楽しみに費やされない労働の合間の価値を評価する上で、もう一つ留意するべきことがある。心には休むべき時がある。有益な知的生活を送ってきた人物なら誰しも、心が失っていた伸縮性を最も取り戻し、自然発生的な思考が最も豊かになるのは、しばしばそのような時であることを経験している。人生には、一見すると単に使われなかった時間のようで、実は最も価値のある時間がたくさんある。

 

時間は本質的に最も均一なものであるにもかかわらず、見かけ上は極めて不均一であるという不思議な事実に、私たちは皆気づいている。痛みや激しい不快感のある時間は、不自然なほど長く感じられる。しかし幸いにも、この時間の伸長は、人生のすべての憂鬱な場面に起こる訳ではないし、苦痛に特有なことでもない。ほとんど完全に単調で、しばしば大変な無気力を伴う病人の生活は、通常大変速く過ぎ去る。また旅行や、習慣や仕事の大きな変化の最初の一週間は多くの場合、強烈な楽しみを伴うにもかかわらず、不釣り合いに長く感じられることはほとんどの人が経験しているはずである。ルーティンは時間を短くし、変化は時間を長くする。それゆえ、人は何かをすることでそのペースを調整できる。数多くのランドマークのある人生、数多くの細目に分かれているが、それぞれ同じ種類のものではない人生、新しく多様な興味、印象、仕事が迅速かつ別個に連続する人生は、最も長く感じられる。また印象に対する感受性が鋭敏な青春期は、無感動な老年期よりもはるかにゆっくりと進んで行くように感じられる。幼い子供が誕生日から誕生日までをいかに限りなく長く感じていることだろうか!学童が休暇と休暇の間をいかに長く感じていることだろうか!人生が進むにつれて、繰り返される毎年の恐ろしいリズムがいかに速くなっていくことだろうか!目新しいことが稀になって、物事への関心が薄れたなら、時間はますます迅速に過ぎていく。キャンベル(*トーマス、1777―1844、詩人)は人生で最も楽しみが少なく、最も病が多い時期に、時の流れが最も速く感じられるのは自然の恩恵であることを正しく指摘している。

 

歳を取れば取るほど、

時が経つのが速く感じられる、

子供にとって一日は一年のように思える、

そして、一年は一時代のように過ぎ去る。

  • * * * *

喜びが輝きと活力を失い、

生命そのものが生気を失ったとき、

死の滝が近づいたとき

なぜ流れが速くなったように私たちは感じるのだろうか?

  • * * * *

神は私たちの衰弱の日々に

それを補う速さを与えられたのである。

そして若かりし日々の見かけ上の長さは

その甘美さに釣り合っていた。

 

人生の短さは文筆の常套句の一つである。私たちよりもはるかに長い人生に心身ともに適応する能力を持った存在は容易に想像できるとはいえ、早世しない限り、人生は十分に長いことは、現在の私たちの力を以てすれば通常理解できる。公務に大きな役割を果たした人物の最高の仕事は、ほとんどが高齢になる前に成し遂げられている。元老院とはその語源からして老人の会議を意味しているにもかかわらず、そして最も偉大なローマの元老院において議員は終身制であったにもかかわらず、60歳を過ぎた議員は召集しないという特別法があったのは驚くべき事実である。[76]過去数世紀において、七十歳代の現役の政治家は非常に稀だった。そして議会にはほとんど存在しなかった。私たちの世紀には輝かしい例外があった。しかしほとんどの場合、これらの政治家たちの真の栄光は、彼らが高齢になる前に成し遂げたことにあって、時に彼らの現役生活が過度に長引いたことは、彼ら自身の評判のみならず、彼らが影響を与えた国民たちにとっても重大な不幸になったことが分かるだろう。実際、優れた人々でさえ、能力が衰える一方で自信が過剰になることがよくある。以前は抑制されていた精神的、知的な欠点が根を下ろし、広がっていく。そして、彼らに短い時間しか残されていないことは小さな恵みではない。偉大な立場にある人物の場合、加齢による愚行は、おそらく若さゆえの愚行よりも恐るべきものである。人々が大きな名声を築き、大きな権威を手に入れ、国民の追従を受け、少しの苦労や考えや研究で世間の注目を集めることができるようになると、新たな誘惑が始まる。彼らの頭脳は変化してしまいがちである。責任感が弱くなる。かつてのような判断力、注意深さ、慎重さ、自制心、小心が消える。頑固さや偏見が強まると同時に、理性的な意志の力が弱まる。時に部分的に知的な、しかし部分的に精神的なものでもある欠点ゆえに、新しい状況、発見、必要を理解、認識する力をほとんど完全に失ってしまう。彼らは新しい名声や若い人々の台頭に嫉妬の目を向ける。そして年老いた人物が十分に勝ち得た権威は、進歩を妨げる最も手ごわい障害になる。政治の分野でも、科学の分野でも、軍事組織の分野でも、これらの真理は十分に例証できるだろう。偉大だが有害な天才の場合、短命は何物にも代えがたい恵みである。人類にとって、ナポレオンが何世紀にも渡って生きていることほど大きな呪いは想像できないだろう。

 

文筆にも同じ法則が見られる。制作の習慣や欲求は続いていたとしても、論者の最良の思想は極度の高齢になるずっと前に表現されるのが普通である。繰り返しが多く、力が弱くなり、判断力が弱まる時―心が柔軟性を失って、新しい考えを吸収したり、別の世代の変化する流儀や傾向について行ったりできなくなる年齢―は肉体的生命がほとんど衰えていないうちに訪れることが多い。この場合、たしかに弊害はそれほど大きくないが、「時」は麦と殻をふるいにかけるだろう。そして一方を残さないかもしれないが、他方を捨て去ることは間違いないだろう。ヴィクトル・ユーゴー(*1802―1885、詩人、小説家)はいくらか誇張気味に、いくらか正しいことを言った「生きている限り、私には生み出す義務がある。私が生み出すものの中から、残す価値があるものを選ぶのは世界の義務である。世界はその義務を果たすだろう。私は私の義務を果たそう。」同時に私たちの世代は誰しも、老年期のニューマンの長い沈黙が彼の品位と名声をどれほど高めたかを知っている。またカーライル(*トーマス、1795―1881、歴史家、評論家)についても、彼が非常に高齢になってから書いたり口述したりした未校閲の原稿が、もし慈悲深い火事によって焼失していたなら、同じことが言えたかもしれない。

 

しかしここで私たちが扱っているのは、大きな仕事や、世界の争いの中で大きな地位を占めている人々である。このような場合、力を弱めてしまう能力や意志の衰退は、しばしば通常の仕事や人生を十分に楽しむために必要な力の衰退よりも、ずっと前に知覚される。しかし、子供たちが成熟して、若い世代が世界の政治を担い、その富、力、威厳、影響力とその行使の多くの手段を継承することが望ましくなるときが来る。そして、それは古い世代が眠りにつくまで完全には成し遂げられない。実際、重い病や大きな試練や窮乏に悩まされない老年期は、しばしば人生の中で最も栄誉ある、最も平穏な、おそらく最も幸福な時期である。闘争、情熱、野心の日々は過ぎ去った。時による円熟は、憎しみを和らげ、かつての性格の荒々しさを鎮め、より大きく寛容な判断力を与え、人生を最も苛立たせる病的な敏感さを癒してきた。老人の心には、充実した名誉ある人生の思い出が蓄えられている。今や長い休暇を得ることになった彼は、多忙な職業生活の中で中断せざるを得なかった計画を再開できる。(アダム・スミスが言った通り)人生の最大の楽しみの一つは、老いてから青春時代の学問に立ち返ることである。彼はしばしば、自分の周りにいる子供たちに共感して、第二の青春の感激に震える。それは、11月の短い一日を淡くも美しい輝きで照らすセント・マーチンの夏(*イングランドの晩秋の穏やかで温かい気候)である。しかし、人生のすべての選択肢が悲しいものになり、最も悲しくないのは苦痛のない速やかな最期になる時がくる。目が見えなくなり、耳が聞こえなくなり、精神が衰え、若い頃の友人がすべていなくなり、老人の人生が自分自身のみならず、周囲の人々にとっても重荷になったなら、その場から立ち去ったほうがずっといい。彼がこのことをはっきりと悟るのを、生への執着や死への恐れが妨げたとしても、少なくとも他のすべての人々は、それを十分に理解している。

 

また老いの極みを迎えて、この生への執着が大いに残っていることは稀である。若い人たちや壮年期の人たちが、今流行の言葉で言えば「時間をつぶす」手段を求めているのを見るほど悲しいことはない。しかし、仕事の力、読書の力、社交の楽しみがなくなる老いの極みを迎えると、この言葉は新たな重要性を持つようになる。スタール夫人(*1766―1817、小説家、批評家)が美しく言った通り「生命の王冠は花から花へと受け継がれる。」On dépose fleur à fleur la couronne de la vie.無気力があらゆる能力を支配し、そして休息―破られない休息―が最大の欲求になる。私はドイツの教会堂にあった感動的な墓碑銘を覚えている。「ああ、キリストよ、あなたがお呼びになる(*再臨の)とき、私は起き上がります。しかし、ああ!少し休ませてください。とても疲れているのです。」

 

これだけ言っても、ほとんどの人は「時間」を直視したがらない。一年の終わりや誕生日は、彼らにとって、憂鬱な考えから目を背けるために参加する単なるお祭り騒ぎなのである。自分たちは暗い奈落の底に向かって漂っているという、彼らにとって悲しむべき真実からしり込みするのである。多くの人々にとって人生の旅路のマイルストーンは墓石であって、彼らの記憶の中で、主に全ての節目と結びついているのは死である。ある人々にとって、過ぎ去った時間は何ものでもない―決して再び開かれることのない閉じた章なのである。

 

過去は何物でもない、そして結局、

未来は過去にしかならない。

(*ジョージ・ゴードン・バイロン、1788―1824、詩人、詩「パリシーナ」Parisinaより)

 

他の人々にとっては、過ぎ去った年月に成し遂げた仕事への思いが、最も真実の、変わることのない財産である。彼らはドライデン(*ジョン、1631―1700、詩人、劇作家)の気高い短詩(*「幸せな男」Happy the Man)の力を感じることができる:

 

神様でさえ過去を変える力はお持ちではない、

しかし、過ぎたことは過ぎ去ったのだ。そして私は自分の時間を持ったのだ。

 

幻想も恐れも抱くことなく、時間を直視しようとする者は、自分の性質の新たな進歩、果たした義務、行った仕事とともにそれぞれの年を思い出すだろう。落ち着いてそれが通り過ぎるのを見られるようになるための唯一の方法は、私たちに与えられた時間を行動と思考であふれんばかりに満たすことだけである。

 

 

脚注:

 

[74]モンテ・ナケン(*Léon Monté―Naken、1859―1950、詩人)

 

[75]ジョン・ビグロー著「眠りの神秘」参照See The Mystery of Sleep by John Bigelow

 

[76]セネカ著「人生の短さについて」Seneca, de Brevitate Vitæ、cap.XX.

 

 

第十七章   終わり

 

完全にではなくとも、少なくとも死から通常それを包んでいる憂鬱を大きく取り除くような状況、現実の生活と大差のない状況を想像するのは容易なことである。もし、人類の全員が二歳前か七十歳以降に死ぬとしたら、もし死が多くの場合のように、すべての場合に迅速で苦痛のないものだったなら、そしてもし老人が自分の名前と記憶と思いを永続させるために、常に子供たちを残していたなら、「死」は依然として悲しいものではあっても、現在しばしば生み出しているような感情を掻き立てることはないはずである。私たちに降りかかるあらゆる出来事の恐ろしさの大部分は、それ自体ではなく、その付属物や連想、そしてその周囲に集まる想像によるものである。ある偉大なストア派モラリストが言った通り「『死』は私たちに触れることのない唯一の悪である。私たちが存在するとき、死は存在しない。死が訪れるとき、私たちは存在しない。」

人が恐怖を感じることなく死を見つめられるようにするための慰めの論文の執筆は、アウグスト時代やその後の異教ローマ時代に、哲学者たちが好んで行ったことの一つだった。キケロ(*BC106―43、文筆家、政治家)がその老年論でこのテーマに割いた章は、高潔な異教徒の目に、それがどのように映っていたかを示す美しい例である。彼は地上で愛し、失った人々との交わりをもたらす未来の生を信じていた。しかし同時に彼はこれを確かなことではなく、ありそうなこととしか捉えていなかった。彼は言った「死は、魂の存在を消滅させるものならば、まったく無視するべきであり、魂をそれが永遠に存在し続けられるどこかへと運ぶものならば、大いに望ましいものである。魂が肉体から切り離されたなら、この二つの帰結のどちらかが必ず訪れるに違いない。他の可能性はない。もし死後に不幸にならないか、確実に幸福になるのならば、私は何を恐れることがあろうか。」

しかし、死者の亡霊が弱々しく喜びのない生活を送り、時々そこから戻ってきて生者の夢の中に出没する、ぼんやりした薄暗い影のような世界、という漠然とした観念は広く民衆の想像力に浸透していた。そしてルクレティウス(*BC99―55、哲学者)やプリニウス(*22―79、「博物誌」の著者)の学派が、万物は死によって終わるという信念を歓迎したのは、それがすべての迷信的な恐怖を消滅させるがゆえのことである―「死後は無であり、死は無であるPost mortem nihil est, ipsaque mors nihi」またプラトンの学派においてさえ、来世の思想が心や性格に大きく有効な影響を与えていたかどうかは決して定かではない。死は主に休息、宴の終わり、すべての生きとし生けるものに降りかかる自然の法則、しかしその大部分が人間よりも早い時期に遭遇するもの、と表現された。それはシンプルに、人生のすべての悲しみ、苦しみ、不安、労苦、憧れから最終的に解放される眠り―夢のない、妨げられることのない眠り―と考えられていた。

 

私たちは夢のような存在であって、
私たちのささやかな人生は
眠りに包まれる。[77]


最高の休息は眠りである、
そして,あなたはしばしばそれを望む、しかしひどく恐れている。
あなたの死はそれだけのものでしかない。[78]


死ぬというのは、大波が砕けず、大嵐も轟かない
静かな岸辺に上陸することである。[79]。

 

人々が精神的な卓越性のみならず、信仰の熱意によって、来世の教義に助けられることなしに、どれほどの高みに到達してきたかを観察するのは奇妙なことである。無数の世代のキリスト教徒たちが彼らの信仰的な感情の最大限の表現を見つけてきた詩篇や、おそらく異教的な敬虔さの最も純粋な産物であるマルクス・アウレリウスの「自省録」には、来世信仰のかすかな、それも最も疑わしい片鱗しか見出すことができない。

すでに述べた通り、本書において私は神学論争に関わる問題からは距離を置くように努めている。しかし、人類の発展のより早い段階にその多くの萌芽が見られるにしても、キリスト教の名の下にさまざまな形で発展してきた教えの中に、死の概念に大きな変化をもたらしたものがあることを指摘しないわけにはいかない。それは法則ではなく罰であって、墓の向こうには地上とは比べものにならないほどの苦しみが待ち受けており、私たちが生まれる前の時代に起こったと信じられている出来事や、私たちの誰もが逃れられないような小さな過失は、人をこの責め苦に堕すに十分であって、安全への唯一の道は、教会の儀式にあり、司祭の援助にあり、競合する神学的教義の中から正確に選択することにあるという見解が、死そのものを他と比較にならないほど恐ろしいものにした。同時にキリスト教圏で最大かつ最も強力な教会は、何世紀にもわたって、人の想像力の中で死を厭わしいイメージや恐ろしい環境と結びつけることによって、死に対する自然な恐怖を強めることに最大限の努力をしてきた。花の花輪が飾られ、明るく、若々しく、安らかなイメージのギリシャの墓と、カトリックの国でよく見られる、救われた魂が煉獄の炎の中でもがき苦しんでいる悲惨な絵が描かれ、彼らの運命を和らげる一つの手段を、その上の碑文と下の献金箱が指し示している霊安堂ほど大きなコントラストをなしているものは他にないだろう。

旅行者の方は立ち止まって、この苦しみをご覧になって下さい。
私たちは貪欲な親戚に見捨てられたのです。
親愛なる友人たちよ、私たちを憐れんでください。
Fermati, O Passagiero, mira tormenti.
Siamo abbandonati dai nostri parenti.
Di noi abbiate pietà, o voi amici cari.
(*イタリア・モンテローザの麓の遭難者の墓地の碑文)

これはその一つの側面である。一方で、最も迷信的な信仰ですら、強い信念と印象的な儀式が、最期の時に多くの人々を慰め、力づけてきたことには疑いの余地がない。そして現在では、より純粋で、より啓発されたキリスト教において、死は中世のカトリシズムの教えや、宗教改革から派生したいくつかの宗派の教えにおいてそうだったものとは、全く違った様相を呈している。老いの衰弱と墓での腐敗に終わる人生は、常に屈辱的な尻すぼみに、しばしば憎むべき不正義に思えるだろう。良心の正当な優位性、人生における多くの過ちや不正義を正し、悪に対する善の究極的な勝利を確保する永遠の道徳律への信念、地上や地上のものは私たちの欲求や理想を満たせないこと、消滅という観念に対する人間の本能的な反抗、その強さゆえにこの世の限界を超越するように、死別の瞬間にさえ墓の向こう側にまで続く何かについての説得力や確信を持っているように見える人間の本性の愛情や愛着の力―キリスト教信仰にはこれら全てのものに対する是認と満足があった。それは人々がソクラテスやキケロ、あるいはありのままの理性が自然と傾きがちな、曖昧な汎神論の中に見出せなかったものだった。

しかし、死を純粋に人間的な側面から見るなら、遺族は長い闘病生活の中で、死にゆく人物に眠ってほしいと何度願ったことか、安らかな休息の時、患者が意識を失って、苦しみを感じなくなり、死にゆく日々の惨めさからしばらくの間解放された時間ごとにどれだけ心が慰められたかを思い出すべきである。このような無感覚の時間は、全体として、病期の中で―最も増えたり、長くなったりすることを望んだ―最も幸せな時間ではなかったか、と彼は自問するべきだろう。従って、死とは眠り―妨げられることのない眠り―人が決して痛みを感じることのない唯一の眠りである、と考えることに彼は慣れるべきである。

 

老人の死よりもはるかに深く痛ましい試練がある―その最良の時に奪われる若い命、夕暮れ前の日食である。過ぎ去った人生を全体として考えることに慣れるべきである。人はこの世に生を受け―十年、二十年、三十年と―生きてきた。それがあまりにも早く断ち切られるのは、運命の不公平の耐え難い例と思えるだろう。では、その人生の全体を見て、それが祝福だったか、逆だったかを自問してみよう。幸福だった年月を数え上げよう。病気や苦しみの数日、あるいは数週間を数え上げよう。この短い命が、その早い終末を見る前にこの世を去った人たちに与えた幸福を測ってみよう。この命が生きている間に、後に残された人々に与えた幸福と、その喪失が引き起こした激しい悲しみと痛みの期間を天秤にかけてみよう。例えば、二十五年間を健康で元気に生きた人物がいるとしよう。その人生は、深刻な不幸に見舞われることなく、その性質は、時折ささいな不安や心配事で曇ることはあっても、全体として明るく、陽気で、幸福だった。彼には生き生きと楽しむ力があり、それを得る機会もたくさんあった。全ての健康と友情と夢中の喜びのスリルを感じていた。そして変化が訪れ―一年か二年の翼を捥がれた生活が続いて―人生は惨めで哀れなものではなくとも全体として重荷になり、そして終わりを迎える。より良い運命は容易に想像できるし―それを切に願うこともできるだろう。しかし、ここまでの光と影を公平に評価してみよう。全体として幸福は悪を上回っていないだろうか?この人生が祝福ではなく呪いだった―何もないところから呼び出されなかった方が良かった―このドラマは演じられなかった方が良かった、と率直に言えるだろうか?今やそれは終わった。多くの人々に愛されていた彼を墓に横たえる時、単なる人間的な観点からでさえ、この二つの暗闇の合間が、彼や彼の周囲の人々にとって、全体として苦痛よりも幸福を生むものではなかっただろうか、と自問してみてほしい。

「神々の愛する者は若くして死ぬ」というのは古くからの言い伝えである。そして苦痛を伴わない速やかな死が最大の祝福であるとする伝説が、異教の古代からいくつも伝わっている。一方でティトヌスの伝説(*不死になったが不老にならなかったため、最終的にセミになった)のように、死によって解放されない場合の、老いと衰弱の悲惨さについてのスウィフト(*ガリバー旅行記、死なない人々の国)の力強い、しかし胸が悪くなるような描写を先取りしたものもある。この真実を体現しているアイルランドの古い伝説を私は別のところで紹介したことがある。「ミュンスター(*南西部)のある湖に二つの島があったと言う。一つの島には死が決して立ち入ることができなかったが、そこには老いと病、人生の倦怠、恐ろしい苦しみの発作がすべてあった。そしてこれらゆえに住民は不死に倦み、もう一つの島を安息の楽園として見るようになった。彼らは暗い水の上へ帆船で乗り出した。彼らは岸に辿りついた。そして安らいだ。」[80]

しかし早世が不幸であるかどうかは、誰も確信を持って言うことはできない。なぜなら、もし死んだ人物がもっと長生きしていたら、どのような災難に見舞われていたかは誰にも分からないからである。死んだ親の子供たちが、もし親が生きていたら心を痛めていただろうことをしたり、被ったりすることがいかに多いことだろうか!早期の、おそらくは苦痛を伴わない死がその進行の前に起こらなかったならば、言いようのない悲惨を生んでいたであろう痛々しい病が、体内にどれほど頻繁に潜んでいることだろう!過ちや不幸が人生の夕暮れを曇らせて高貴で美しい人生を台無しにしてしまうことが、あるいは青春期や青年期には気づかれなかった道徳的欠陥がその日が終わる前に噴出することがいかに多いことだろうか!それまでの人生を振り返って、人生がもっと早く終わっていたなら、どんなに幸せだっただろうとしばしば思ったことのない人物がいるだろうか。「時宜を得た死を与え給え」というのは、実のところ、人間にできる最良の祈りの一つである。闘うべき真の敵は死ではなく苦しみである。そして少なくともこの闘いにおいて、人間には多くのことができる。死より悪いことがどれほど多いか、死だけが解くことのできる結び目がどれほど多いかを知らずに長く生きてきた人物はほとんどいないだろう。

何より、墓の向こうに何があろうとも、墓そのものはあなたにとって何物でもないということを忘れてはならない。狭い牢獄、陰気な仰々しさ、腐敗の醜悪さを知っているのは、生者であって、生者だけである。あまりにも一般的な想像力の錯覚ゆえに、人は意識を保ったまま死んでいる自分を思い描く―腐敗のプロセスを経ていることを自覚し、その事実を知りながら最も恐ろしい地下牢に幽閉されているように。この幻想を心から追い払うよう、真剣に努力しなければならない。死への恐怖の根源にはこの幻想がある。そしてそれを強める傾向があることは、中世や現代の教育や芸術の最も悪しき側面の一つである。もし私たちがそれを本当に理解するならば、墓ほど真実ではないものはない。私たちは、捨てられた肉体のその後の運命に、理髪師が切り落とした髪の毛の運命ほどの関心も持ってはならない。それらは早く原始の要素に分解されたほうが良い。想像力は決してその腐敗に拘っていてはならない。

死がしばしばこの上ない悪とみなされる一方で、死を軽んじるほど強力にならない人間の情熱は存在しない、というベーコンの指摘は正しい。人が野心や単なる興奮への愛ゆえに、恐れを知らず、喜び勇んでその危険に遭遇するのは、人生の衰退期ではなく、力の漲っている青春期である。逆上したとき、それが恐れられることは稀である。そして、海難その他の事故の無数の報告や、あらゆる戦争の数多くのエピソードは、死が避けられない事実として突如目の前に現れたとき、名誉や義務や規律は、特別な性格や徳や地位を持たない人々が、興奮に目が眩むことなく、いかに冷静にそれに立ち向かうことを可能にするかを決定的に示している。愛する人の死に対する自分の感情を分析してみるなら、幼いうちに人生を終えたり、多くの期待が空しくなったりした場合を除いて、死者に対する哀れみが顕著な要素であることが稀なのに気づくだろう。長い間、死にゆく人の苦しみだけに集中していた感情は、死の瞬間が訪れると新たな方向に進む。そのとき私たちに影響を及ぼすのは、突然の空白、親愛なる人物との別れ、長きにわたる愛と喜びの互恵関係の終了―つまり私たち自身が失ったもの―である。「幸せな解放」とは、おそらく死の床で最も頻繁に聞かれる言葉だろう。そして数年の歳月を経て振り返り、死をその前に到来した病からより明確に切り離せるようになるにつれて、死は本質的に平穏で自然なものであるという感覚が私たちに芽生えてくる。私たちにとって消え去った人生は、過ぎ去った一日のように感じられるが、その後には数多くの思い出が残されている。

私たちの世代の、死の兆候や予感をできるだけ追い払おうとする傾向は健全なものである、と私は思う。葬儀の豪華さや手の込み方、仰々しく作為的な悲しみの暗闇が私たちを包む長い服喪期間、何よりも自然に悲しみの最良の薬になるはずの活動的な習慣の長期的な中断は、少なくとも英語圏では明らかに衰退しつつある。私たちは亡くなった人々の病や衰弱のときではなく、一番元気だったときの姿を思い浮かべようとするべきである。真の悲しみに仰々しさは必要なく、死の暗さに作為的な強調は必要ない。善良な人物なら誰しも、死が確実なものであることと、その時が不確実であることを知っていて、自分が去った後に残される愛する人々のために備え、死別までの期間ができるだけくつろいだものになるように尽力することを、最も大切な義務の一つにするだろう。これは、隊列の間隔が詰められ、自分の居場所が奪われ、忘却の日々が訪れる前に、彼にできる最後の仕事である。死について考えることは、放蕩や悪徳に明け暮れる人物に健全な抑制効果を与えるかもしれない。しかし有用で多忙な、よく整えられた人生には、死はほとんど意味をなさないはずである。「死にあまりにも多くの費用をかけ、準備をすることによって死をより恐ろしいものにしてしまった」[81]のはストア派だけではない。スピノザが教えている通り「賢者にふさわしいテーマは、いかに死ぬかではなく、いかに生きるか」である。そして彼がこの務めを正しく果たしている限り、終わりはそれ自身に任せておけば良い。賢明な人生を導く偉大なランドマークは実に少なく、シンプルなものである。無用な悲しみは避けて―避けられないものには黙って従うことである。

 


脚注:

[77]「テンペスト」The Tempest.(*シェイクスピア)

[78]「尺には尺を」Measure for Measure.(*シェイクスピア)

[79]サミュエル・ガース(*1661―1719、医師、詩人)Samuel Garth.

[80]「ヨーロッパの道徳の歴史」History of European Morals,i.p.203.この伝説はウィリアム・カムデン(*1551―1623、歴史・地誌学者)William Camdenによって伝えられた。

[81]ベーコンBacon.(*エッセイ、「死について」OF DEATH)

 

 

 

2024.6.15