イングランド史 第一章

 


THE HISTORY OF ENGLAND

FROM THE ACCESSION OF JAMES II,

by Thomas Babington Macaulay.


CHAPTER I.

 

イングランド史
ジェームズⅡ世の即位から―

トーマス・バビントン・マコーリー著


第一章

 

 

 

 原文:https://www.gutenberg.org/files/1468/1468-h/1468-h.htm#link2HCH0001

訳者より

イギリス人の歴史観に大きな影響を与えたといわれるマコーリーの1848年に発表された著作です。イングランド史と題されていますが、大半はいわゆる名誉革命についての記事です。全24章中9章までを1948年に中村経一氏が和訳されていますが、現在入手困難です。
第一章には古代ローマ帝国の支配から清教徒革命を経て王政復古に至るまでが描かれています。
日本が手本とするイギリス憲政の起源を知る上でとても興味深い文献と思います。

 

第一章 内容

序章
ローマ人支配下のイングランド
サクソン人支配下のイングランド
サクソン人のキリスト教への改宗
デーン人の侵入;ノルマン人
ノルマン・コンクエスト
イングランドとノルマンジーの分離
民族の融合
大陸におけるイングランドの征服
薔薇戦争
農奴の消滅
ローマ・カトリック宗教の有益な運用
初期のイングランドの政治はしばしば誤って伝えられているが、その理由は?
中世の限定君主制の性質
初期イングランド王の大権
大権の制限
中世の専制政治に対する通常の抑止機能としての抵抗力
イングランド貴族の特異な性格
チューダー朝の政府
中世の限定君主制は一般に絶対君主制に変化した
イングランド王政は特異な例外であった
宗教改革とその影響
イングランド国教会のはじまり
その特異な性格
イングランド国王との関係
ピューリタン
彼らの共和的精神
エリザベス政権に対する議会の組織的な抵抗はなかった
専売権の問題
スコットランドとアイルランドがイングランドと同じ帝国の一部となる
ジェームズⅠ世の即位後、イングランドは重みを失った
神聖な権利の教義(*王権神授説)
国教会とピューリタンとの離反が進む
チャールズⅠ世の即位と性格
庶民院での反対派の戦術
権利の請願
侵された権利の請願、ウェントワースの性格と意図
ラウドの性格
星室裁判所と高等宗務裁判所
船代
スコットランドにおける典礼への抵抗
議会の召集と解散
長期議会
イングランドの二大政党の初登場
諫状の提出
五人の議員の弾劾
チャールズのロンドンからの出発
内戦の開始
王党派の成功
独立派の台頭
オリバー・クロムウェル
議員と軍事司令官の兼任禁止法、議会の勝利
軍の支配力と性格
軍政に反対する蜂起が抑止される
国王に対する訴訟
国王の処刑
アイルランドとスコットランドの制圧
長期議会の追放
オリバー・クロムウェルに護られた国
リチャードがオリバーを引き継ぐ
リチャードの転落と長期議会の復活
長期議会の二回目の追放
スコットランド軍がイングランドに進軍
モンクが自由議会の開催を宣言
1660年の総選挙
王政復古

 

第一章

私はジェームズⅡ世の即位から今生きている人々の記憶の中にある時代までのイングランドの歴史を書くことを目的としている。私はわずか数ヶ月の間に忠実な郷紳と聖職者をスチュアート家から遠ざけた過ちを再現するであろう。私は国王とその議会との間の長い争いに終止符を打ち、国民の権利と君主の権利を結びつけた革命の経過を辿るであろう。私はこの新しい決定が長い困難な年月の間いかにして外敵や国内の敵から守られたかを;またこの決定の下でいかに法の権威と財産の安全がこれまで知られていなかった議論や個人の行動の自由と両立することがわかったかを;いかに秩序と自由の見事な融合から人類の歴史に例を見ないような繁栄が生まれたかを;いかにわが国が屈辱的な属国の状態から急速にヨーロッパの大国の間で審判者の地位にまで上り詰めたかを;いかにその富裕と勇武の栄光が共に成長したかを;いかに賢明で毅然とした誠意によって前時代の政治家には信じられないような驚異である公的な信用が徐々に確立されていったかを;いかに巨大な通商によって古今東西のあらゆる海洋国家を取るに足りないものとしてしまうような海洋大国が誕生したかを;いかにスコットランドが長きにわたって敵対した後、単に法的な結びつきだけでなく利害と愛情の不可分の絆によってついにイングランドと結びついたかを;いかにアメリカではイギリスの植民地が急速にコルテスやピサロがカールⅤ世の領地に加えた領域よりもはるかに強大で富裕なものになったかを;いかにアジアではイギリスの冒険家たちがアレキサンダーの帝国に劣らず壮麗で永続的な帝国を築いたかを物語るであろう。

また勝利に混在する大きな失敗を、いかなる大失敗よりもはるかに屈辱的な巨大な国家的犯罪や愚行を忠実に記録することも私の義務であろう。我々が当然のこととして最高の祝福とみなしているものにさえ不純物がなかったわけではないことを読者は知るであろう。我々の自由を王権による侵害から効果的に保護する制度が、絶対君主制では起こらないような新たな種類の不正行為を生み出したことを知るであろう。富の増大と貿易の拡大は賢明でない干渉と賢明でない怠慢の結果として、莫大な利益とともに、貧しく粗野な社会では起こらないいくつかの悪を生み出したことを知るであろう。いかに王国の二つの重要な従属国において過ちの後に正当な報復が行われたかを;いかに軽率さと頑固さが北米植民地を母国に結びつけていた絆を断ち切ったかを;いかに民族による民族の支配と宗教による宗教の支配に呪われたアイルランドが確かに帝国の一員であり続けながら、弱った、歪んだ一員であり、国家にとっては何の力にもならず、イングランドの偉大さを恐れたり羨んだりするすべての人々に後ろ指を指されていたかを知るであろう。

しかし私が自分自身を大きく欺くことがなければ、この波瀾万丈の物語の一般的な効果はすべての良き心に感謝の念を呼び起こし、すべての愛国者の胸に希望を抱かせるものとなるであろう。なぜなら過去百六十年間の我が国の歴史は物理的、道徳的、知的な向上の歴史だからである。自分の置かれた時代を想像の中にしか存在しない黄金時代と比較する人物は退化や衰退を口にするかもしれない;しかし過去について正しく知っている人物なら現在に腹を立てたり失望したりはしないであろう。

もし私が単に戦闘や包囲、政権の盛衰、宮廷での陰謀、議会での議論などを扱うだけであれば、私が着手した仕事は非常に不完全なものとなるであろう。私は政府の歴史だけでなく、人々の歴史を伝え、実用的あるいは装飾的な技術の進歩を辿り、宗教的な派閥の勃興や文学的趣味の変化を描写し、歴代の世代の風俗を描き、服装、家具、食事、公共の娯楽に起こった革命をも無視して通り過ぎないように努める。もし私が19世紀のイングランド人に彼らの祖先の生活の真の姿を示すことに成功したのであれば、私は歴史の威厳を損なったという非難を喜んで受けよう。

私が伝えようとしている出来事は時代を超えて展開する大規模で波乱に満ちたドラマの一幕に過ぎず、前の幕の筋書きをよく知らなければ非常に不完全にしか理解できない。そこで私はこの物語の冒頭でわが国の歴史を最古の時代から少しずつ紹介する。私は何世紀にもわたって非常に速く通過するが、ジェームズⅡ世の政権が決定的な危機をもたらした、この争いの経過についてはある程度長く触れることとする。#1

ブリテンの初期においてそれが到達する運命にあった偉大さを暗示するものは何もなかった。ブリテン島の住民はティレ(*フェニキアの港)人の船乗りに初めて知られたとき、サンドウィッチ諸島(*ハワイ)の住民と大した違いはなかった。ブリテンはローマの武力によって征服されたが、ローマの技術と知識から受けた影響はごくわずかであった。カエサルに従った西方の諸州の中で、ブリテンは最後に征服され最初に捨てられたのである。ブリテンにはラテンの柱廊や水道橋の壮大な遺跡は見当たらない。ラテン語の詩や弁論の名手の中にブリテン生まれの文人はいない。またどの時期においても島民がイタリアの支配者の言葉に全体的に親しんでいたとは思えない。大西洋からライン川付近まで何世紀にもわたって支配的だったのはラテン語である。ラテン語はケルト人を駆逐し;チュートン人にも駆逐されず;今日ではフランス語、スペイン語、ポルトガル語の基礎となっている。我々の島ではラテン語は決して古いゲール語(*ケルト語派)に取って代わることはなく、ゲルマン語に対抗して地歩を守ることはできなかった。

ブリトン人が南方の支配者から得た僅かばかりの皮相な文明は5世紀の災難(*アイルランド人とサクソン人の攻撃によるローマ帝国の撤退)によって消え去った。ローマ帝国が解体されてできた大陸の王国では征服者は被征服者から多くを学んだ。ブリテンでは征服者は被征服民族と同様に野蛮になった。

ローマ帝国の大陸地方にチュートン王朝を築いたアラリック、テオドリック、クローヴィス、アルボインなどの首長はいずれも熱心なキリスト教徒であった。一方、アイダ(*北方を治めたアングル人王)やセルディック(*ウェセックスを治めたサクソン人王)の信奉者たちはエルベ川流域の迷信をブリテンの入植地に持ち込んだ。パリ、トレド、アルル、ラヴェンナを統治していたゲルマンの君主たちが司教の指示に敬虔に耳を傾け、殉教者の聖遺物を崇拝し、ニカイア神学に関する論争に熱心に参加していた一方で、ウェセックスやメルキア(*中央ブリテン)の支配者たちはトールやウォーデン(*北欧の神)の神殿で野蛮な儀式を行っていた。

西帝国の廃墟の上に立ち上がった大陸の王国は、東側の州と何らかの交流を続けていた。そこでは悪政の影響で徐々に失われつつあったとはいえ、いまだに古代文明が野蛮人たちを驚かせ、指導することができたであろう。ディオクレティアヌスやコンスタンティヌスの宮廷はいまだ壮麗であったし、公共の建物はポリクレトスの彫刻やアペレスの絵画で飾られていたし、ぎこちない衒学者(*学問をひけらかす人物)たちは自らが趣味、感覚、精神に欠けていたとしてもソフォクレス、デモステネス、プラトンの傑作を読み、解釈することができたのである。ブリテンはこの交流から切り離されていた。その海岸はボスポラス海峡に住む洗練された民族にとってはホメロスの時代のイオニア人にとってはスキュラ海峡やライストリューゴーンの人食い巨人の都市のような神秘的な恐怖の対象であった。プロコピウスが言うところによると、この島には地面が蛇で覆われ、人がその空気を呼吸して生きられないような地域があった。真夜中に亡き人の魂がフランク族の国からこの荒涼とした地域へと運ばれて来るのである。奇妙な種族の漁師がこの恐ろしい仕事をしていた。死者の言葉は船頭にはっきりと聞こえ、その重みで船体は深く沈んでいた;しかしその姿は人間の目には見えないのであった。豊かで優雅なコンスタンティノープルでは、ベリサリウス、シンプリシウス、トリボニアンと同時代の有能な歴史家がこのようにコンスタンティノープルの創建者が皇帝の紫衣を身にまとった国(*コンスタンティヌスⅠ世はブリタニア遠征中に皇帝に推戴された)について重々しく語っている。西帝国の他のすべての州については継続的な情報が得られる。神話の時代が二つの真実の時代を完全に隔てているのはブリテンだけである。オドアセルとトティラ、エウリックとトラシムント、クローヴィス、フレデガンダ、ブルネシルドは歴史上の人物である。しかしヘンギストとホルサ(*ブリタニア列王史に出てくる)、ヴォーティガンとロウェナ(*同)、アーサーとモードレッドは神話上の人物であり、その存在自体が疑問視され、その冒険はヘラクレスやロムルスの冒険と同列に扱われなければならない。

やがて暗闇は明け始めた;そしてブリテンとして視界から消えていた国がイングランドとして再び姿を現すのである。サクソン人入植者のキリスト教への改宗は長い一連の有益な革命の最初のものであった。確かに教会は迷信と哲学の両方によって深く堕落させられ、長くそれらと戦ってきたが、ついに勝利したのであった。教会は古代の学派から借りてきた教義や古代の神殿から借りてきた儀式を安易に受け入れすぎていたのである。ローマの政策とゴートの無知、ギリシャの独創性とシリアの禁欲主義がそれを堕落させた。しかし教会は多くの知性を高め、多くの心を清めるために、初期の頃の気高い神学と情け深い道徳観を十分に残していた。また後の時代にはその最大の欠点とみなされたいくつかの事柄が7世紀には、そしてその後もずっとその最大の長所となっていたのである。聖職者階級が行政官の職分を侵害することは現代においては大きな悪である。しかし善良な政府の時代には悪であるものが邪悪な政府の時代には祝福となることもある。人が司祭政治に支配されるよりもよく管理された賢明な法律と賢明な世論に支配される方がよい;しかし人が獣のような暴力に支配されるよりも司祭政治に支配される方がよい、ダンスタン(*10世紀に国王の顧問となった聖職者)のような司祭に支配される方がペンダ(*7世紀の非キリスト教徒の勇猛なアングロサクソン王)のような戦士に支配されるよりもよい。無知に沈み、単なる物理的な力に支配されている社会には知的で道徳的な影響力を持つ階級が台頭してくることを喜ぶべき大きな理由がある。そうした階級は間違いなくその力を乱用する:しかし精神的な力はたとえそれが乱用されたとしても、肉体的な強さだけで構成された力よりもより高貴で優れた力である。サクソン人の年代記には暴君が偉業を成し遂げたときに自責の念に駆られ、罪を犯して手に入れた快楽や尊厳を嫌悪し、王位を退き、苛酷な苦行と絶え間ない祈りで罪を償おうとした話が出てくる。これらの物語は寛大さを誇りながらも実際には暗黒時代の修道士のように心が狭く、18世紀のパリ社交界の基準を世界の歴史上のすべての出来事に適用することを習慣としている一部の文筆家から痛烈な侮蔑の言葉を浴びせられた。しかし迷信によって形骸化したとはいえ、それまで筋力の強さと精神の大胆さだけで統治されていた共同体に強い道徳的拘束力を導入した制度、神の御前においては自分も最も卑しい奴隷と同等の存在であることを最も凶暴で強大な支配者に教えた制度は、哲学者や慈善家からもっと敬意を込めて言及されてもよさそうなものである。

前世紀に中世の巡礼、聖域、十字軍、修道院などを語る際に流行した軽蔑に対してもこれと同じことが言えるであろう。人が自由な好奇心や利益追求のために旅をすることがほとんどなかった時代には北方の粗野な住民が巡礼者としてイタリアや東方を訪れることは自分が生まれたむさ苦しい小屋や未開の森以外を見ないよりも良いことであった。生命や女性の名誉が日々暴君や略奪者の危険にさらされていた時代に残虐や放恣からの避難場所がないよりも、聖堂の構内に不合理な畏怖の念が抱かれているほうがよかった。政治家が大規模な政治的連合を形成できない時代にはキリスト教諸国が聖墳墓奪還のために立ち上がって団結する方がマホメットの軍勢に次々と圧倒されるよりもよかった。修道会の怠惰と贅沢に対する後世のいかなる非難が正当であったとしても、無知と暴力の時代に静かな回廊と庭園が存在することは確かに良いことであった、そこでは平和のための技芸が安全に育まれ、穏やかで思索的な性質の人々が庇護を受けられ、ある修道士がウェルギリウスのアエネーイスを書き写し、別の修道士がアリストテレスの分析論を静思し、芸術の才能がある者は殉教史に光彩を添えたり受難像を彫ったりし、自然哲学の才能がある者は植物や鉱物の特性について実験を行うことができるような場所である。このような隠れ家が哀れな農民のあばら屋や残忍な貴族の城の間のあちこちに点在していなかったら、ヨーロッパの社会は単に重荷を背負う獣と獲物を狙う獣だけで構成されていたことであろう。教会は神学者によって何度も創世記に出てくる箱舟に例えられてきた:しかしその類似性がより完璧なものとなったのは、古代の全ての力と知恵の偉大な仕事を飲み込んでしまった大洪水の中に、暗闇と嵐の中に、第二のより輝かしい文明を生み出すための弱々しい芽を内に秘めた教会だけが浮かんでいた、あの邪悪な時代のことではないであろうか。

ローマ教皇が誇る宗教的支配権も暗黒時代には悪よりも善を生み出すことの方がはるかに多かった。その効果は西ヨーロッパの国々を一つの大きな共同体に統合することであった。トレビゾン(*黒海沿岸)からマルセイユまでのすべてのギリシャの都市にオリンピアの戦車道(*オリンピック競技会)とデルフォイの神託があったように、カラブリア(*イタリア半島南端)からヘブリディーズ諸島(*ブリテン諸島北西端)までのラテン教団のすべてのキリスト教徒にはローマとその司教があった。このようにして拡大された博愛の感情が育っていった。海や山で隔てられた民族同士が友愛の絆と共通の公法の規定を認め合った。戦争においても征服者の残酷さは征服者とその敗れた敵がすべて一つの大きな連合体のメンバーであることを思い出すことによって軽減されることが少なくなかった。

我々のサクソン人の祖先も今やこの連合体の一員と認められた。我々の海岸と古代の力と賢明さの痕跡をまだ残していたヨーロッパの一部との間に定期の交通が開かれた。今では破壊されたり破壊されたりした多くの高貴な記念物はまだ元のままの壮麗さを保っていた;リヴィやサールスト(*ともに紀元前1世紀生まの歴史家)が理解できない旅行者でもローマ時代の水道橋や神殿からローマ時代の歴史をかすかに知ることができたであろう。いまだブロンズ像で輝いているアグリッパのドーム(*パンテオン)、いまだ柱や彫像を奪われていないハドリアヌスの霊廟、いまだ採石場になっていないフラヴィア円形劇場などが粗野なイングランド人巡礼者たちに過ぎ去った偉大な文明世界の物語の一部を語ってくれた。島民たちは半分開いた心に深い畏敬の念を焼きつけて帰り、ロンドンやヨークの掘っ立て小屋に住む不思議そうな顔を住人たちに、今は消滅した強大な民族が聖ペテロの墓の近くに裁きの日が来るまで決して崩れることがないであろう建造物を積み重ねていたことを話した。キリスト教の後に学問が続いた。メルシャンやノーザンブリアの修道院ではアウグストゥス時代の詩や雄弁術がせっせと学ばれた。ベーダ(*ヴェネラビリス)とアルクィン(*ヨークの)の名前はヨーロッパ中で正当に称賛された。9世紀に北の蛮族の最後の大移動が始まったとき、この国はそのような状態であった。

デンマークとスカンジナビアでは何年にもわたって無数の海賊が発生していた。イングランドほどこれらの侵略者から大きな被害を受けた国はない。イングランドの海岸は海賊が出航する港の近くにあり;攻撃を受けないように海から遠く離れていた州はなかった。サクソン人がケルト人に勝利したときに行われたのと同じ残虐行為が時を経て、今度はデーン人の手でサクソン人に行われたのである。勃興し始めた文明はこの一撃を加えられて再び沈んでいった。バルト海から来た冒険者たちの大規模なコロニーはこの島の東海岸に定着し徐々に西へと広がり、海の向こうからの絶え間ない援軍に支えられて全領域の支配を目指していた。二つの獰猛なチュートン種族の争いは六世代に渡って続いた。それぞれが交互に最高位に就いた。残酷な虐殺とそれに続く残酷な報復、やせ衰えた地方、略奪された修道院、破壊された都市などがこの邪悪な時代の歴史の大部分を占めている。やがて北方民族が絶え間なく新しい略奪者を送り出すことがなくなり、その時から民族間の相互の嫌悪感が和らぎ始めた。頻繁に結婚が行われるようになった。デーン人はサクソン人の宗教を学び、致命的な敵意の原因の一つが取り除かれたのである。どちらも広く普及している同一言語の方言であるデーン語とサクソン語は混じり合った。しかしある出来事が起こって二つの民族がともに奴隷となり、地位を落として第三の民族の足元にひれ伏すことになったときでさえ、この二つの民族の区別は消えなかった。

当時ノルマン人はキリスト教世界で第一の民族であった。その勇気と獰猛さはスカンジナビアが西ヨーロッパを荒廃させるために送り出した海賊の中でも際立っていた。彼らの帆は長い間、海峡の両岸の恐怖となっていた。彼らは何度もカロリング帝国の中心部へと兵を送り、マストリヒトやパリの城壁の下で勝利を収めた。ついにシャルルマーニュの弱々しい後継者の一人が美しい川が流れ、彼らが好む海に隣接した肥沃な州をこの外来者に譲り渡した。彼らはその州に強大な国家を建設しその影響力は近隣のブルターニュとメインの諸侯にも徐々に拡大していった。ノルマン人はエルベ川からピレネー山脈までのあらゆる土地を恐怖に陥れてきたあの不屈の勇気を捨てることなく、移住した国で得られるすべての、そしてそれ以上の知識と洗練を急速に身につけていった。彼らの勇気はその領土を外国の侵略から守った。彼らはフランク帝国では長い間知られていなかった国内の秩序を確立した。彼らはキリスト教を受け入れ、キリスト教によって聖職者が教えなければならないことの大部分を学んだ。彼らは母国語を捨て、ラテン語を基調とするフランス語を採用した。彼らはその新しい言語がそれまで持ったことのなかった尊厳と地位の重要性を急速に引き上げた。彼らはそれが野蛮な混合言語であることに気づき;その筆記法を定め;法律、詩、ロマンスに使用したのである。彼らは巨大なゲルマン民族の他のすべての部族が過度に傾斜していた粗野な放縦を放棄していた。ノルマン人の上品な奢侈はサクソン人やデーン人の下品な貪欲さや酩酊感とは対照的であった。彼らは自分の豪勢さを誇示するのが好きだったが、それは山のような食べ物や大量の酒ではなく、大きくて荘厳な建物、豪華な鎧、勇ましい馬、選りすぐりの鷹、秩序だったトーナメント、饒多ではなく優雅な宴会、そして酩酊させる力よりも絶妙な味わいを持つワインであったという。ヨーロッパ諸国の政治、道徳、風俗に強い影響を与えてきた騎士道精神はノルマン人貴族の間で最高に高められていた。これらの貴族は優美な身なりと巧みな話術で際立っていた。彼らはまた交渉術に長けており、天性の雄弁を熱心に育てたことでも知られていた。彼らの歴史家の一人はノルマン人紳士たちは揺りかごの中から弁舌家であったと自慢している。しかし彼らの最大の名声はその軍事的功績に由来するものであった。大西洋から死海までのすべての国が彼らの規律と勇気の神業を目撃した。一人のノルマン人騎士が一握りの戦士を率いてコンノート(*アイルランド北西部)のケルト人を散らした。もう一人は二つのシチリア王国を確立し、東西の皇帝が彼の軍勢の前から逃げ去るのを見た。第三の人物は第一回十字軍のユリシーズであり、仲間の兵士は彼にアンティオキアの主権を与えた。第四の人物はタッソの偉大な詩にその名を残すタンクレッドであり、聖墳墓を救い出した最も勇敢で寛大な人物としてキリスト教国中で称賛された。

このような優れた民族が近くにいたことはイングランドの一般市民の心にも影響を与え始めた。ノルマン・コンクエスト以前、イングランドの王子たちはノルマンディーで教育を受けていた。ノルマン人にイングランドの司教管区や地所が与えられていた。ノルマンディーのフランス語はウェストミンスター宮殿でもよく使われていた。エドワード懺悔王の宮廷にとってのルーアン(*ノルマンジーの首府)の宮廷は、後のチャールズⅡ世の宮廷にとってのヴェルサイユの宮廷のようなものであったようである。

ヘイスティングスの戦いとそれに続く出来事はノルマンディー公爵をイングランドの王座に就かせただけでなく、イングランドの全住民をノルマン人の専制政治に委ねた。一民族による一民族への服従がこれほどまでに完全なものであったことはアジアにおいても稀である。国は侵略者の指揮官たちに分割された。強力な軍事組織は財産制度と密接に結びついており、外国人征服者がその土地の子供たちを抑圧することを可能とした。残酷に施行された残酷な刑法は外国人圧制者たちの特権、さらには娯楽をも保護していた。被支配民族は打ちのめされ、足下に踏みつけられても一矢を報いた。昔のバラッドに出てくるヒーローのような大胆な男たちは森に身を隠し、夜間外出禁止令や森林法に背いて抑圧者に捕食的戦争を仕掛けた。暗殺は日常茶飯事であった。多くのノルマン人が突然、跡形もなく姿を消した。多くの人々の死体には暴力の痕跡が残っていた。犯人に対して拷問による死が宣告され厳重な捜索が行われたが、全体的には無駄であった;国民全員が彼らを庇う陰謀を企てていたためである。ついにフランス人の血を引く者が殺害されているのを発見された村には重い罰金を科す必要があると考えられるようになり;この規則に続いて、殺されているのを発見された人物がサクソン人であると証明されない限りすべてフランス人であるとみなす、という別の規則がつくられた。

コンクエストの後の1世紀半の間、厳密に言えばイングランドの歴史は存在しない。イングランドのフランス王は確かに近隣のすべての国が驚き、恐れるほどの高みに上り詰めた。彼らはアイルランドを征服した。スコットランドからも敬意を表された。その武勇、政策、幸運な婚姻関係によって彼らは大陸でその領主であるフランス王よりもはるかに人気を博したのである。ヨーロッパだけでなくアジアも我々の暴君の力と栄光に目を奪われた。アラブの年代記作家たちはアクレの陥落、ヨッパの防衛、アスカロンへの凱旋などを嫌というほど記録し;アラブの母親たちは獅子奮迅のプランタジネットの名を口にして子供たちを黙らせていた。メロリング朝とカロリング朝の系譜が終わったように、一時はヒュー・カペの系譜も終わろうとしており、単一の偉大な王政がオークニーからピレネーまで広がるのではないかと思われていた。ほとんどの人々の心で君主の偉大さとその君主が支配する国の偉大さは非常に強く結びついているため、イングランドの歴史家のほとんど全員が外国人の支配者の権力と栄華について歓喜の感情をもって説明し、その権力と栄華の衰退を我が国の災いとして嘆いてきたのである。これは実のところ現代のハイチの黒人がルイ14世の偉大さを国の誇りとして語り、ブレンハイム(*スペイン継承戦争)ドやラミリー(*西インド諸島での戦闘)を愛国的な悔しさや残念さとともに語るのと同じくらい不合理なことである。征服者とその四代目までの子孫はイングランド人ではなく;そのほとんどがフランスで生まれ;人生の大部分をフランスで過ごし;普段の会話はフランス語で;ほとんどすべての高官位をフランス人に授け;大陸で何か獲得するたびに彼らと我々の島の人々との距離が毎回必ずどんどん離れていった。彼らの中で最も優秀な者の一人はイングランド人の王女と結婚することでイングランド人の心を掴もうとした。しかし多くの彼の直臣たちはこの結婚を現在のバージニア州での白人入植者と黒人の血が四分の一入っている少女との結婚と同じように考えていた。歴史上彼はボークレール(*ヘンリーⅠ世、意味は“立派な学者”)という誉れある異名で知られているが;その生前、母国の人々は彼のサクソン人とのつながりを軽蔑してサクソン人というあだ名で呼んだ。

もしプランタジネット家が一時はその可能性があったようにフランス全土をその支配下に統合することに成功していたら、イングランドが独立して存在することはなかったと思われる。イングランドの君主、領主、聖職者は職人や農夫とは民族も言語も異なる人々であったであろう。大地主の収入はセーヌ川のほとりでの祝祭や娯楽に費やされていたであろう。ミルトンやバークが使った高貴な言葉は田舎の国訛りに留まり、固定された文法も、固定された正書法もない、素朴な方言のままであり、軽蔑とともに捨て去られ、野蛮人だけが使うものとなっていたであろう。イングランド出身者が高位に上るには言葉や習慣においてフランス人にならなければならなかったであろう。

イングランドがこのような災難から逃れられたのは歴史家たちが一般に悲惨と表現してきたある出来事のおかげである。イングランドの利益は支配者の利益と真っ向から対立していたため支配者の過ちや不運以外の希望はなかった。最初の六人のフランス人王の手腕や美徳さえも国にとっては呪いであった。七人目のフランス人王の愚行と悪癖がその救いであった。もしジョンが父やヘンリー・ボークレール、あるいは征服者の偉大な資質を受け継いでいたら、いやスティーブンやリチャードのような武勇を備えていたら、そして同時にフランス王がヒュー・カペの他の後継者たちと同じように無能であったならプランタジネット家はヨーロッパで無類の栄華を誇っていたに違いない。しかしちょうどこの時期フランスはシャルルマーニュの死後初めて非常に堅固で有能な君主によって統治されることになったのである。一方ヘイスティングスの戦い以来、ほぼ賢明な政治家と常に勇敢な兵士によって支配されてきたイングランドは軽薄で臆病な者の支配下に置かれることになった。その瞬間から展望が明るくなったのである。ジョンはノルマンディーから追い出された。ノルマンディーの貴族たちは島と大陸のどちらかを選ぶことを余儀なくされた。海によって閉じ込められ、それまで抑圧し軽蔑していた人々と一緒に過ごすうち、彼らは次第にイングランドを自分たちの国、イングランド人を自分たちの同胞と考えるようになった。長い間敵対していた二つの民族はすぐに共通の利益があり、共通の敵がいることに気がついた。悪い王(*ジョン)の専制に苦しめられているのはどちらも同じであった。また宮廷がポワトゥーやアキテーヌ出身の人々を優遇していることにも双方が憤慨していた。ウィリアムの下で戦った者の曾孫とハロルド(*ウイリアムに敗れたイングランド王)の下で戦った者の曾孫は友情をもってお互いに近づき始めた。そして、彼らの和解の最初の誓いは彼らの共同の努力によって獲得され、彼らの共通の利益のために作られた大憲章であった。

ここにイングランドの歴史が始まった。これまでの歴史は様々な部族が犯した過ちの歴史であり、その過ちは確かにすべてイングランドの地に住んでおり、物理的な障壁で隔てられた共同体の間にはほとんど存在しないような嫌悪感とともにお互いを見ていた部族たちによるものである。互いに戦争をしている国同士の互いに対する反感でさえ、事実上分離しているのに地域的に混ざり合っている民族同士の反感に比べれば気だるいものである。イングランドほど民族の間に敵意が浸透していた国はない。また、その敵意がこれほど完全に消え去った国もない。敵対する要素が溶けて一つの均質な塊になった過程の段階は我々には正確にはわからない。しかしジョン王が即位したときにはサクソン人とノルマン人の区別がはっきりしていて、孫の治世の終わりまでにはそれがほとんどなくなっていたことは確かである。リチャードⅠ世の時代にはノルマン人の紳士は「私がイングランド人になれますように!」と普通に祈っていた。また「私をイングランド人扱いするのか?」と憤慨して否定するのが普通だった紳士の百年後の子孫はイングランド人という名前を誇りに思っていた。

大地に豊穣をもたらし、豊かな荷を積んだ船団を海に運ぶ最も堂々たる川の源は荒涼とした不毛の山地にあるが、地図には記載されておらず旅行者が探索することはほとんどない。13世紀の我が国の歴史をこのような地域に擬えることは不適切ではないであろう。我が国の年代記の中のそうした部分は不毛で不明瞭であるが、我々はそこに我々の自由、繁栄、そして栄光の起源を求めなければならない。そのとき、偉大なイングランド人が形づくられ、国民性がそれ以来維持されてきた特徴を示し始め、我々の祖先が単なる地理的位置のみならず政治、感覚、振る舞いにおいて断固として島民となったのである。そしてそれ以来あらゆる変化の中でその同一性を維持してきたconstitution(*以下、憲法あるいは政体と訳す)が初めてはっきりと現れ;世界中の他のすべての自由憲法はこの憲法のコピーであり、それはいくつかの欠陥があるにもかかわらず、これまでの長い歴史において偉大な社会が持っていたものの中で最も優れた憲法であるという評価に値する。旧世界でも新世界でも現在開かれているすべての代議員議会の原型である庶民院が最初の会議を開いたのはこのときであった。そしてコモン・ローが科学の尊厳を持つようになり、急速に帝国の法学の対抗馬としてふさわしくなくないものになっていったのである。五大港の粗末な埠頭から乗り込んだ船員たちの勇気がイングランドの国旗を初めて海上で恐るべきものとしたのである。そして国の偉大な学問の場に現在も存在する最も古いカレッジが設立されたのである。この言語は確かに南方の言語に比べて音楽的ではないが力強さ、豊かさ、詩人、哲学者、雄弁家の最高の目的のための適性においてギリシャの言語に勝るとも劣らないものであった。この時イングランドの数多くの栄光の中でも最も壮麗で、最も永続性のある、高貴な文学の最初のかすかな夜明けが現われたのである。

14世紀初頭、民族の融合はほぼ完了しており、偉大なチュートン家の三つの分家が互いに、そして土着のブリトン人と混ざり合うことによって、世界に存在するどの民族にも劣らない民族が形成されたことが、すぐに間違いのない兆候によって明らかになった。実際ジョン王がフィリップ(*Ⅱ世)・アウグストに追われて行ったイングランドとエドワードⅢ世の軍隊がフランスを征服しに行ったイングランドとの間にはほとんど共通点がなかった。

その後百年以上の期間が経過したがその間、イングランド人の主な目的は武力によって大陸に大帝国を建設することであった。ヴァロワ家に占有されていた相続遺産に対するエドワード王の主張についてその臣民はほとんど関心がなかったように思われる。しかし征服への情熱は君主から民衆へと急速に広がっていった。この戦争は12世紀にプランタジネット家がヒュー・カペの子孫に対して行った戦争とは大きく異なっていた。ヘンリーⅡ世やリチャードⅠ世が成功していたならイングランドはフランスの属国になっていたであろう。エドワードⅢ世とヘンリーⅤ世の成功はフランスを一時的にイングランドの属国にしてしまった。12世紀の大陸からの征服者が島民を眺めたときの軽蔑は、今や島民から大陸の人々へと返って来た。ケント州からノーサンバーランド州まですべての自由民(*yeoman)は自分を勝利と支配のために生まれた民族の一員と位置づけ、自らの祖先たちを震え上がらせた国を軽蔑して見下していたのである。黒太子の下で勇敢に戦ったガスコーニュやギエンヌ(*ともにボルドー南方の旧イングランド領アキテーヌの地名)の騎士たちもイングランド人からは劣った血筋の人間とみなされ、侮蔑的に名誉と実益がある任務から排除されていた。我々の祖先が当初の争いの原因を完全に見失ったのは束の間であった。彼らはフランスの王位をイングランドの王位の単なる付属物と考えるようになった;そして通常の継承法に違反してイングランドの王位をランカスター家に移すとリチャードⅡ世のフランス王位の請求権(*リチャードⅡ世の祖父エドワードⅢ世の母がシャルルⅣ世の妹だったため)は当然ランカスター家に移ると考えていたようである。彼らが示した熱意と活力はこの戦いにはるかに深い利害関係があったフランス人の無気力とは明らかに対照的である。中世の歴史に記録されている最も素晴らしい勝利はこの時期にイングランド軍が圧倒的な不利を覆して勝ち取ったものである。これらの勝利は国家が正当に誇り得るものであったが;それは勝利者の精神的優位に起因するものであり、その優位は最も低い階級において最も顕著であった。イングランドの騎士たちはフランスの騎士たちに価値あるライバルを見出した。シャンドス(*ジョン)はデュ・ゲスクリン(*ベルトラン)という同等の敵に出会った。しかしフランスにはイングランドの弓とビル(*農具を起源とする長い鎌状武器)に立ち向かう勇気のある歩兵がいなかった。フランスの王はロンドンに捕らえられた。イングランドの王はパリで戴冠した。セント・ジョージの旗はピレネーやアルプスを越えて運ばれた。エブロ川の南側ではイングランド人が大きな戦いに勝利し、一時的にレオンとカスティーリャ(*いずれもイベリア半島北部)の運命を決定づけた。またイングランドの中隊はイタリアの君主や連邦に雇われていた戦士の集団の中では恐ろしいまでに傑出していた。

この激動の時代に我々の祖先は平和のための技術を軽視していたわけではない。フランスが戦争で消耗し、ついに荒廃して侵略者に対する防衛が貧弱なことに気づいたとき、イングランド人は安心して収穫を刈り入れ、都市を飾り、弁論し、取引し、研究していた。我々の最も崇高な建築物の多くはこの時代のものである。ニュー・カレッジとセント・ジョージの美しい礼拝堂、ウィンチェスターの身廊とヨークの聖歌隊席、ソールズベリーの尖塔とリンカーンの荘厳な塔などが生まれた。ゲルマン語の中にフランス語が混じってできた豊富で明瞭な言語は今や貴族と民衆の共通の財産となっていた。天才がこの素晴らしい装置を価値ある目的に応用し始めるまでには時間はかからなかった。イングランドの戦士たちが荒廃したフランスの地方を後にしてバリャドリッドに凱旋し、フィレンツェの門に恐怖を与える一方でイングランドの詩人たちは人間の多種多様な風俗や運命を鮮やかな色彩で描き出し、イングランドの思想家たちはそれまで頑迷な人々が不思議に思ったり信じたりすることで満足していたところを知ろうとしたり、あえて疑ったりするようになった。黒太子やダービー、チャンドス、ホークウッドを生んだ同じ時代にジェフリー・チョーサーやジョン・ウィクリフも生まれたのである。

このように華麗で堂々たる方法でイングランド人という呼び名にふさわしい人々が初めて世界の国々の仲間入りをしたのである。しかし我々は祖先が示した高貴で威厳ある資質を喜んで眺める一方、彼らが追求した目的は人道的にも政策の賢明さにおいても非難されるべきものであり、長く血なまぐさい闘争の末に偉大な大陸帝国を築くという希望を捨てざるを得なかった敗北は、実際には大失敗を装った祝福であったことを認めざるを得ない。ついにフランス人の精神が立ち上がり;外国人の征服者に対して国を挙げて抵抗するようになった;それ以来イングランド人指揮官の技量とイングランド人兵士の勇気は人類にとって幸運なことに、ただ虚しく発揮されることになった。幾多の絶望的な戦いの後、そして幾多の苦い後悔の後、我々の祖先はこの戦いを諦めたのである。この時代以降、ブリテンの政府が大陸での大征服を真剣かつ着実に追求することはなかった。しかし国民はクレシー、ポワティエ、アジンコートの思い出を誇らしく心に抱いていた。長い年月が経った後でもフランス征服のための遠征を約束することで彼らの血を燃やし、助成金を引き出すことは容易であった。しかし幸いなことに我が国のエネルギーはより良い目的に向けられ;人類の歴史の中で昔のローマ共和国と同様の覇権を、かつてはそれが不適当ではなかったのであるが、剣によって獲得した場合よりもはるかに輝かしい地位を我々は占めるようになったのである。

再び島の中に閉じ込められた戦争好きの人々はヨーロッパに恐怖を与えた武器を内戦に使用した。長い間イングランドの直臣たちは大量の消費をするためにフランスの領地から搾取していた。その収入の道は途絶えた:しかし繁栄が生んだ派手で贅沢な習慣はまだ残っており;フランスからの略奪で趣味を満足できなくなった大領主たちはお互いに略奪し合うことに躍起になっていた。当時最も賢明な観察者であったコミーヌの言葉を借りるなら、彼らが今閉じ込められている王国は彼ら全員にとって十分なものではなかった。王家の二つの分家を中心とした二つの貴族の派閥が長く激しい覇権争いを繰り広げた。これらの派閥の反感は実際には後継者問題から生じたものではなかったので、後継者問題が解決した後も長く続いた。赤薔薇党はヘンリーⅣ世由来の権利を主張した最後の君主(*エドワードⅣ世)の時代を生き抜いた。白薔薇党はリッチモンド(*チューダー、ヘンリーⅦ世)とエリザベス(*オブ・ヨーク、エドワードⅣ世の娘)の結婚を生き延びた。正当な権利を持つ長がいないため、ランカスター家の支持者は庶子の家系に集まり、ヨーク家の支持者は偽の家系を次々と立ち上げた。多くの野心的な貴族が戦場や刑場で死に、多くの名家が歴史から永遠に姿を消し、残った名家も災難に見舞われて疲弊したとき、争われていたすべてのプランタジネット家の主張がチューダー家の下に集約されたことは衆目の一致するところであった。

一方で領土の獲得や喪失、王朝の盛衰よりもはるかに重大な変化が進行していた。奴隷制度と奴隷制度に付随するあらゆる悪が急速に消滅しつつあったのである。

イングランドで起こった二つの偉大で最も有益な社会革命、13世紀に国民に対する国家の専制政治に終止符を打った革命とその数世代後に人間の人間に対する所有権に終止符を打った革命が静かに気づかれずに行われたことは注目に値する。これらは現代の観察者に何の驚きも与えず、歴史家からもほとんど注目されていなかった。それらは法律による規制や物理的な力によってもたらされたものではない。心的な原因によって、まずノルマン人とサクソン人の区別が、次に主人と奴隷の区別が、音もなく消えていったのである。どちらの区別もなくなった正確な瞬間をあえて特定することはできない。おそらく14世紀後半には古来のノルマン人の感情の微かな痕跡が残っていたことであろう。スチュアート朝の時代になっても好奇心旺盛な人々によって農奴制の微かな痕跡が発見されていた;しかし今日に至るまでこの制度が法律によって廃止されたことはない。

この二つの大きな救いの主役が宗教であったことを認めないのは、最も不当なことではないであろうか;そしておそらくより純粋な宗教であればより効率的な手段を見つけられたのではないかと疑われることであろう。そしてキリスト教道徳の慈悲深い精神は間違いなくカーストの区別に反対することであろう。またローマ教会にとってはこのような区別は特に嫌悪すべきものであった;なぜならそれはローマ教会の制度に不可欠な他の区別と両立しないからである。ローマ教会はすべての司祭に神秘的な尊厳を与え、それによってすべての平信徒の尊敬を受ける資格を与えている;それはいかなる人物にも国や家柄の故に聖職者になる資格がないとは考えない。聖職者の性格に関するその教義は、それが誤ったものであったとしても社会を苦しめる最悪の悪を何度も軽減してきた。民族に対する民族の専制政治に呪われた地域で民族とは全く無関係の貴族を生み出し、抑圧者と被抑圧者の関係を逆転させ、世襲の主人を世襲の奴隷の精神的法廷に跪かせるような迷信は純粋に有害であるとは言えない。今日に至るまで黒人奴隷制度が存在するいくつかの国においてカトリックはキリスト教の他の宗派とは対照的に有利な立場にある。ヨーロッパ人種とアフリカ人種の間の反感がリオ・ジャネリオではワシントンほど強くないことはよく知られている。我々の国ではローマ・カトリック制度のこの特殊性は中世の間、多くの有益な効果をもたらした。確かにヘイスティングスの戦いの直後、サクソン人の前任者や修道院長が乱暴に追放され、大陸から来た聖職の野心家たちが何百人も利益のある聖職禄にあずかったことは事実である。しかしノルマン人の血を引く敬虔な神父たちはこのような教会の政体違反に反対する声を上げ、ウィリアムの手からミトレを受け取ることを拒否し、命の危険を冒してでも、敗北した島民が同じキリスト教徒であることを忘れてはならないと彼に訴えた。イングランド人が支配的カーストの中で最初に見つけた保護者はアンセルム大司教だった。イングランド人の名が恥とされ、王国のすべての市民的・軍事的位階は征服者の同胞だけのものと考えられていた頃、蔑視されていた民族は自分たちのうちの一人であるニコラス・ブレークスピアがローマ教皇の地位に登り、ノルマンディーの最も高貴な家系の大使にキスされるために足を差し出したことを知って喜びに恍惚となった。敵の敵とみなされたベケット(*カンタベリー司教、ヘンリーⅡ世と対立して1162年暗殺された。)の廟に大勢の人々を引き寄せたのは、宗教的な感情だけではなく、国民的な感情だった。彼がノルマン人だったのかサクソン人だったのかは疑問であるが、ノルマン人の手で殺されたこと、サクソン人が彼の記憶を特別な優しさと尊敬を込めて大切にしたこと、大衆詩の中で彼を自分たちの民族の一人と表現したことは疑いの余地がない。ベケットの後継者の一人はノルマン人の直臣とサクソン人の自由民の両方の特権を確保するための憲章を手に入れた御し難い大物たちの中の筆頭であった。ローマ・カトリック教会が農奴制の廃止にどれほど大きな役割を果たしたかはエリザベスの最も優れたプロテスタントの顧問の一人であるトーマス・スミス卿の素晴らしい証言から知ることができる。瀕死の奴隷所有者が最後の秘跡を求めたとき、その宗教的従者はいつも、彼が自分の魂を愛しているのであれば、その者のためにもキリストが死んだのである信者仲間を解放するよう懇願した。教会はその強力な仕組みをうまく使って宗教改革が行われる前に王国内のほとんどすべての奴隷を解放していたが、教会の奴隷は別であって、その正義を成すために非常に親切に扱われていたようである。

この二つの大きな革命が行われたとき、我々の祖先はヨーロッパで最も優れた統治を受けていたことは間違いない。三百年の間、社会制度は絶え間なく改善されてきた。最初のプランタジネット家の下には君主にさえ反抗できるほどの直臣たちや、自ら世話をする豚や牛と同じレベルにまで堕ちた農民たちがいた。しかし直臣の強大な権力は次第に弱まっていった。農民の地位は徐々に向上していった。貴族と労働者の間には農業と商業を営む中産階級が生まれていた:しかし法による制約を全く受けていなかった者はおらず:法による保護を全く受けていなかった者もいなかった。

この初期の段階でイングランドの政治制度がイングランド人には誇りと愛情をもって、近隣諸国の最も賢明な人々には賞賛と羨望をもって評価されていたことは最も明確な証拠によって証明されている。しかしこれらの制度の性質については不誠実でとげとげしい論議が多かった。

イングランドの歴史研究はイングランドの繁栄に少なからず貢献してきた事情によって、実に悲惨な目に遭わされてきた。過去6世紀の間にイングランドの政治が経験した大きな変化は解体や再構築ではなく、漸進的発展の結果である。五百年前に繁栄した政体は我が国の現在の政体を木とするなら苗木に、人とするなら少年に相当する。大きな改変があった。しかしそれにおいて存在したものの主要部分が古来のものではなかったことはなかった。このようにして形成された国家組織は必ず多くの例外を持つ。しかし単なる例外から生じる弊害に対しては十分な補償がなされている。より均整の取れた成文憲法を持つ社会が他にある。しかし革命と慣習、進歩と安定、若いエネルギーと遠い昔の威厳を結びつけることに成功した社会は、まだ他にはない。

しかしこの大きな恵みには欠点もある:その欠点の一つは我々の初期の歴史に関するあらゆる情報源が党派精神に毒されていることである。これほど政治家が過去の影響を強く受けてきた国が他にないように、歴史家が現在の影響を強く受けてきた国も他にない。この二つの間には実に自然なつながりがある。歴史を単に生活や風俗を描いたもの、あるいは市民の学識に一般的な金言を与えるであろう試みの集成と考えている場合、文筆家は古い時代の報告を偽造する強い誘惑に駆られることはない。しかし歴史が政府や国家の権利を左右する権利証書の保管場所とみなされるなら、改竄の動機に抵抗するのはほとんど不可能なこととなる。現在フランス人はヴァロワ家の王の権力を過大評価したり過小評価したりすることに強い関心を持っていない。三部会、ブルターニュ公国、ブルゴーニュ公国の特権はユダヤ人のサンヘドリン(*ローマ支配下に存在したユダヤの自治組織)や隣保同盟(*古代ギリシャの都市国家の同盟)会議と同じく、彼らにとって事実上の重要性を持たない問題である。大革命の広く深い溝は新旧の制度を完全に分離している。しかしイングランド国家の存在を真っ二つに分けるような溝はない。わが国の法律や慣習が全般的かつ修復不可能な破滅に陥ったことはない。我々の場合中世の判例は今でも有効な判例であり、今でも重大な場面において最も優れた政治家たちに引用されている。例えば国王ジョージⅢ世が王としての役目を果たせなくなるような病気にかかったとき、このような状況下でどのような方法を取るべきかについて最も優れた法律家や政治家が大きく意見を異にしたとき、議会はわが国の年鑑に見られる最も古い先例がすべて収集され整理されるまで摂政の計画の議論を進めることはなかった。委員会が任命され王国の古い記録を調査した。最初に報告されたのは1217年の事例であり、1326年、1377年、1422年の事例が重要視されたが最も重要であると考えられたのは1455年の事例であった。このようにわが国では当事者の最大の関心事が古物収集家の研究成果にあることが多い。必然的な結果として古物収集家は党派精神で研究を行ったのである。

したがってイングランドの古い政治体制における大権と自由特権の限界について書いた人々が一般的に裁判官ではなく、怒りに満ちた、公平とは言えない唱道者の性質を見せてきたのは驚くべきことではない。というのも彼らが論じていたのは思索的な問題ではなく、当時の最も重要でエキサイティングな論争に直接かつ実際的に関連する問題だったからである。議会とスチュアート家との間の長い争いが始まってからスチュアート家の主張が恐れるに足りないものになった時まで、スチュアート家の統治が王国の古来の憲法に従ったものであったかどうか、という問題以上に実質的に重要な問題はほとんどなかった。この問題は過去の統治の記録を参照することでしか解決できない。ブラクトン(*ヘンリー、13世紀の法律家)とフレタ(*13世紀のコモン・ローに関する論文)、“The Mirror of Justice”(*1642年にアングロ・ノルマン語で書かれた法律教科書)、イングランド議会の公式記録が一方では星室庁、他方では高等宗務裁判所の行き過ぎた行為の口実を見つけるためにかき集められた。長い年月の間すべてのホィッグ派の歴史家は古のイングランド政府が共和制に近いものであったことを証明しようとし、すべてのトーリー派の歴史家は専制に近いものであったことを証明しようとしていた。

そのような感覚で両党が中世の年代記を調べた。両者とも探していたものをすぐに見つけ;探していたもの以外は頑として見ようとしなかった。スチュアート家の支持者は臣民に対して行われた抑圧の事例を容易に指摘することができた。円頂派(*ピューリタン革命における議会派の蔑称)の擁護者は国王に対して行われた断固とした抵抗が成功した例を簡単に挙げることができた。トーリー派は古の文献からメインウェアリング(*ロジャー、国教会の主教)の説教壇から聞かされたのとほぼ同じような盲従的な表現を引用した。一方ホィッグ派はブラッドショー(*ウイリアム、ピューリタン)の説教壇から聞こえてくるのと同じくらい大胆で厳しい表現を発見した。一組の文人たちは王が議会の許可を得ずに金を奪い取った数多くの事例を紹介した。別の文人たちは議会が王を罰する権限を自らに与えた例を挙げた。証拠の半分だけを見た人はプランタジネット家はトルコのスルタンのように絶対的な存在であったと結論づけ:もう半分だけを見た人はプランタジネット家はヴェネツィアのドージェのように実権を持っていなかったと結論づけ;いずれの結論も等しく真実からかけ離れたものになったことであろう。

古のイングランド政府は中世に西ヨーロッパで誕生した限定君主制のうちの一種であり、それらは多くの違いにもかかわらず、互いに強い家族的類似性を持っていた。これらの君主制が生まれた国々は同じ偉大な文明帝国の属州であり、ほぼ同時期に同じ粗野で戦争好きな民族によって蹂躙され征服されたため、こうした類似性があったことは不思議なことではない。彼らはイスラム教に対抗する大連合の同じ一員であった。彼らは同じように卓越した野心的な教会の宗派に属していた。彼らの政治は自然と同じ形をとっていた。帝国ローマ、教皇庁ローマ、古のゲルマンの制度を一部取り入れていた。すべての国に王がおり、王の地位は次第に厳格に世襲されるようになった。すべての国に元々は軍人としての階級であった爵位を持つ貴族たちがいた。騎士の位階と紋章の規則はすべての国に共通していた。すべての国には豊かな資金で運営されている教会組織、大きな権利を持つ都市自治体、何らかの公法を有効にするためにその同意を必要とする上級議会(*senate)があった。

これらの類似した政体の中でイングランドは早い時期から最も優れた政体であると正当に評価されていた。国王の大権は間違いなく広範囲に及んでいた。キリスト教精神と騎士道精神が一体となってその尊厳を高めていた。その頭には聖なる油が注がれていた。最も勇敢で高貴な騎士たちにとってその足元に跪くことは決して侮辱ではなかった。その身体は不可侵である。彼だけが王国の三階級(*Estate、聖職者、貴族、庶民)の代表を招集する権利を持っていた:彼はその意向で彼らを解任することができ;彼らのすべての立法行為にその同意が必要であった。彼は行政の最高責任者であり、外国勢力と連絡する唯一の機関であり、国家の陸軍・海軍力の指揮官であり、正義と慈悲と名誉の源泉であった。彼は貿易の規制に大きな権限を持っていた。貨幣が鋳造し、度量衡を定め、市場や港が設置したのも彼であった。その聖職者任命権は限りないものだった。彼の世襲の収入は無駄なく管理されており、政府の通常の費用をまかなうのに十分であった。彼自身の領地は広大なものであった。彼はまた王国のすべての土地の封建的最高権者であり、その資格によって多くの有益な権利と多くの恐るべき権利を有していた。それによって彼の邪魔をする者を苦しめたり悩ませたりすることができ、また彼が好意を持ったものを自分自身の負担なしに富ませたり儲けさせたりすることができた。

しかし彼の権力は潤沢であったにもかかわらず、三つの偉大な憲法上の原則によって制限されていた。これらの原則はいつ頃からか分からないほど古くから存在しており、その自然な発展が何世代にもわたって継続された結果、現在我々が暮らしているような秩序が生み出されてきたのである。

第一に、国王は議会の同意なしに立法することはできない。第二に、国王は議会の同意なしに税を課すことはできない。第三に、国王は国の法律に従って行政を行う義務があり、その法律に違反した場合は国王の助言者や代理人が責任を負うことになる。

これらの原則が五百年前には基本的なルールとしての権威を獲得していたことを率直なトーリーは否定しないであろう。一方でこれらのルールが後の時代まですべての曖昧さを排し、ずっと守られて来たと断言する率直なホィッグはいないであろう。中世の憲法は18世紀や19世紀の憲法のようにすべてを一つの法律として作られておらず、すべてが一つの文書に記載されていたわけではない。国家組織が初めて体系的に構築されるのは洗練された観念的な時代になってからのことである。未開の社会における政府の進歩は言語や詩の進歩に似ている:系統立った文法はなく、名詞や動詞の定義もなく、変化形、叙法、時制、有声音の名前もない。未開な社会には詩があり、しばしば非常に力強く甘美な詩がある:しかし彼らには韻律の基準がない。耳だけで調えた曲目で聴衆を楽しませる吟遊詩人も、自分の行がいくつのdactyl(*強弱弱格)やtrochee(*強弱格)からなるかを言うことはできないであろう。構文の前に雄弁があり、韻律の前に歌があるように立法権、行政権、司法権の限界が正確に示されるずっと前から政府は高いレベルで存在することができるのである。

我々の国でもそうであった。国王の大権の境界線は大体において十分明確に引かれていたが、どこでも正確かつ明確に引かれていたわけではなかった。そのため境界線の近くには議論の余地のある場所があり、争いの時代を経てようやく明確で永続性を持つ境界標が設けられるまで、そこへの侵入と報復が続いていた。古の国王が国民の自由を守るための三つの大原則にどのような形で、どの程度まで違反していたかを知ることは有益なことであろう。

イングランドの王が全体的な立法権を主張したことはない。最も暴力的で威圧的なプランタジネット家ですらその大評議会の同意なしに陪審員を十二人ではなく十人で構成したり、未亡人の財産を三分の一ではなく四分の一としたり、偽証を重罪としたり、ヨークシャーへのガベルキンド(*遺産をすべての相続人に平等に分割して相続させるケルトの法)の習慣の導入などを制定したりする権限があるとは考えなかった。#2 しかし国王は違反者を赦免する権限を持っていた;そして赦免の権限と立法の権限がお互いの中へと消えてしまうように見える点があり、少なくとも単純な時代には容易に困惑させられてしまう可能性があった。罰則付きの法律はその法律が課す罰則が発生するたび、決まって免除されるのであれば事実上無効である。国王は間違いなく罰則を無制限に免除する権限を持っていた。したがって国王は事実上刑罰法規を無効にすることができる。事実上行うことができることを公式に行うことに重大な異議は唱えられないと思われる。このようにして巧妙で追従的な法律家の助けを借りて、行政機能と立法機能を隔てる疑わしい境界線上に調停権として知られる大きな例外が生まれたのである。

国王は議会の同意なしに税金を課すことはできない、というのが有史以前からイングランドの基本法であったということが認められている。これはジョン王が直臣から記名調印を迫られた条項の一つであった。エドワードⅠ世はこの規則を破ろうとした:しかし彼は有能で強力で人気があったが、反対勢力に遭遇して譲歩が望ましいと考えたのである。エドワードⅠ世は自分とその相続人は王国の三身分の同意と好意を得ずして二度といかなる徴用も徴収も行わないことを明確な言葉で誓った。強大な力を持ち、勝利を収めた孫(*エドワードⅢ世、クーデターによって母とその愛人の傀儡から脱した)はこの厳粛な約束を破ろうとした:しかしこの試みは激しい抵抗を受けた。ついにプランタジネット家は絶望してこの論点を諦めた:しかし彼らは公然と法を犯すことはなくなったものの、法を回避して一時的な目的のための臨時の物資の調達を企むことがあった。彼らは課税を禁じられていたが;物乞いや借金をする権利を主張した。そこで時には命令と変わらない口調で物乞いをし、時には返済を考えずに借金をした。しかし彼らが自分たちが無理やり取り立てたものを慈悲や融資の名の下に隠す必要があると考えたことは偉大な憲法のルールの権威が普遍的に認識されていたことを十分に証明している。

イングランド王は法律に従って行政を行う義務があり、法律に反することをした場合にはその助言者や代理人が責任を負うという原則は非常に早い時期に確立されていたことは多くの国王の寵臣に対して宣告され執行された厳しい判決によって十分に証明されている。しかしプランタジネット家によって個人の権利がしばしば侵害され、被害を受けた者が救済を受けられないことが多かったことは確かである。法律によれば君主の権限だけでイングランド人を逮捕したり監禁したりすることはできなかった。実際には政府に不都合な人物は国王の権限以外の何の権限にもよらず投獄されることがよくあった。法律ではローマ法の恥辱である拷問はいかなる状況であってもイングランド人に加えられてはならない、とされていた。とはいえ15世紀の混乱期には塔に拷問台が導入され政治的必要性を理由に時折使用されていた。しかしこのような不正行為からイングランドの君主が理論的にも実践的にも絶対的な存在であったと推察するのは大きな誤りである。我々は高度に文明化された社会に住んでおり、報道や郵便によって情報が急速に広まり、島のどこかで行われた重大な抑圧行為は数時間後には何百万人もの人々によって議論されている。もし今、君主が人身保護令に反して臣民を拘束したり陰謀者を拷問にかけたりするなら全国民が即座にそのニュースに興奮するであろう。中世では社会の状況は大きく異なっていた。個人の悪事が世間に知られることは稀であり非常に困難であった。ある人物がカーライルやノリッチの城に何ヶ月も不法に監禁されていてもそのことがロンドンに伝わることはなかった。国民の大多数がこの拷問台が使われていたことを少しも疑わないうちにこの拷問台は何年も使われていた可能性が高い。また我々の祖先は我々ほど大きな一般的ルールを維持することの重要性に気づいていなかった。我々は長い経験からいかなる憲法違反も気づかれずに見逃されるのは危険であることを知った。したがって必要以上に権限を拡大した政府は議会から厳しい非難を受けるべきであり、また大きな緊急事態の圧力の下で純粋な意図によって権限を拡大した政府は遅滞なく議会に補償の法案を提出すべきであると現在では誰もが考えている。しかし14世紀から15世紀にかけてのイングランド人の感覚はこのようなものではなかった。彼らは原則を単にそれが原則であるがために主張したり、不満を感じない不法行為に対して声を上げたりすることはほとんどなかった。行政の一般的な精神が穏やかで人気のあるものである限り、彼らは国王にある程度の範囲の自由を認めることを厭わなかった。逆に一般に善と認められる目的のために王が法律を超えた力を行使した場合、彼らは彼を許すだけでなく賞賛し、彼らが彼の支配下で安全と繁栄を享受している間は、その不興を買った者がそれに値するのは当然と信じ込んでいた。しかし、この寛容さにも限界があった;またイングランド国民の寛容さを過度に期待した王は賢明ではなかった。国民はときに王が憲法上の一線を越えるのを許すこともあっただろうが、王の侵害が彼らの警戒心を煽るほど深刻な場合には自らその一線を越える特権をも主張していた。彼が時折個人を抑圧することに満足せず、大衆を抑圧しようとした場合、その臣民は即座に法律に訴え、その訴えが失敗した場合には、同様に速やかに戦いの神に訴えた。

我々の祖先は確かに王の多少の行き過ぎを許容していたかもしないが;最も獰猛で高慢な王をすぐに理性的にさせる牽制手段、すなわち物理的な力による牽制手段を用意していたのである。19世紀のイングランド人には四百年前にこの歯止めが用いられたときの容易さと迅速さを想像することは難しい。人々が武器の使い方を忘れてから長くなる。戦争の技術はかつての時代にはなかったほど完全なものになっており;その技術の知識を持つのは特定の階級だけである。よく訓練され、よく指揮された十万人の兵士は一千万人の農夫や職人を鎮めることができる。数個の近衛連隊は大きな首都のすべての不満分子を威圧するのに十分である。一方で富の絶え間ない増加の結果、思考力のある人にとって反乱は悪政よりもはるかに恐ろしいものとなった。反乱が起きれば数時間で消滅してしまうような事業に莫大な金額が費やされている。ロンドンの店や倉庫の大量の動産だけでもプランタジネット朝時代の島全体の資産の五百倍を超えている;そしてもし政府が物理的な力で破壊された場合、このすべての動産が略奪や破壊の危険にさらされることになる。さらに何千もの家庭の生活が直接依存しており、全商業世界の信用と不可分の関係にある公的信用に対するリスクはさらに大きくなるであろう。現在ではイングランドにおける一週間の内戦は黄河からミズーリまで影響が及ぶような大惨事となり、その痕跡は百年先まで残ると言っても過言ではない。このような社会の状態では抵抗は国家を苦しめるほとんどすべての病弊よりも有害な捨て鉢の治療法であるとみなされなければならない。逆に中世では抵抗は政治的混乱に対する普通の治療法であって常に手近にある治療法であり、その時には疑いようもなく痛烈なものであったとしても、深く永続的な悪影響を及ぼすことはなかったのである。人気のある頭目が民衆のために旗を掲げれば、非正規軍が一日で集結することができた。正規軍は存在しなかった。すべての者が少々の兵士としての素養を持ち、それ以上の素養を持つ者はほとんどいなかった。国富は主に羊と牛、その年の収穫物、そして人々が住む簡素な建物であった。国中のすべての家具、商店の在庫、機械設備は現在のいくつかの小教区の財産ほどの価値もなかった。製造業は未発達で、預金というものはほとんど知られていなかった。そのため実際の紛争が終わるとすぐに社会はその衝撃から回復した。内戦の惨禍は戦野での殺戮と、その後のわずかな処刑や没収に限られていた。一週間後には農民は馬に鋤を引かせ、従者はタウントンやボスワースの野原で鷹を飛ばしていた、まるで常でないことが人々の通常の生活を中断したことなどなかったかのようであった。

イングランド人が力ずくで政府を破壊(*1649年、チャールズⅠ世処刑)してから百六十年以上が経過した。薔薇の連合(*1485、チューダー朝発足)が成立する前の百六十年間(*1307年エドワードⅡ世即位~)にイングランドを九人の王が統治していた。この九人の王のうち六人は退位させられた。(*ヘンリーⅥ世とエドワードIV世は復位)五人の王は死ぬまで王位にあった。したがって抵抗と抵抗への恐れがプランタジネット家(*1154~1377年)に常に果たしていた抑制効果を大幅に考慮しないで我々の古今の政治を比較するなら、非常に誤った結論に至ることは明らかである。我々の祖先が暴君に対して我々が必要とする最も重要な保障を持っていたように、彼らは我々が正当に最も重要視するいくつかの保障を安全に省くことができた。現代においては想像するのも恐ろしいような危険を冒さずに物理的な力を悪政の抑制に用いることはできないため、悪政に対する憲法上のすべての抑制手段を最高の効率とともに維持し、警戒心を持って侵害の最初の始まりを見守り、たとえそれ自体は無害なものであっても前例の力を獲得することのないよう、不法行為を決して放置しないことが我々の知恵であることは明らかである。四百年前にはこのような細心の警戒は必要ないと思われていたかもしれない。屈強な弓兵や槍兵の国は、統治がおおよそうまくいっていて、王座を常備軍の一個中隊にすら守られていない君主の多少の違法行為をその自由を危険に晒すことなく黙認していたのかもしれない。

この制度は過去七十年間に実を結んだ精巧な憲法と比較すると野蛮に見えるかもしれないが、その下でイングランド人は長い間大規模な自由と幸福を享受していた。ヘンリーⅥ世の弱々しい治世の間に最初は派閥によって、後には内戦によって国が引き裂かれたとはいえ;エドワードⅣ世は放埓で威圧的な性格の君主であり;リチャードⅢ世は一般的に堕落の怪物と表現されているとは言え;ヘンリーⅦ世の重税が大きな不満を引き起こしたとは言え;これらの王の下での我々の祖先の統治は善良と呼ばれるフィリップ(*Ⅲ世)の下でのベルギー人や、国民の父と称されるルイ(*Ⅻ世)の下でのフランス人のものよりもはるかに優れていたことは確かである。薔薇戦争が勃発していた時代にあっても我が国は近隣の王国のまったく平和な時代よりも幸福な状態にあったと思われる。コミンズは当時、最も賢明な政治家の一人であった。彼は大陸の最も豊かで高度な文明を持つ地域をすべて見てきた。彼は15世紀のマンチェスターやリバプールとも言うべきフランドル地方の絢爛たる町に住んでいた。彼はロレンツォの壮麗な装飾が施されたばかりのフィレンツェや、カンブレイの連合軍にまだ負けていないヴェネツィアを訪れた。この高名な人物は自分が知る限りではイングランドが最もよく統治されている国であると断言している。その憲法は国民を保護すると同時に、それを尊重する君主の手を実際に強化する正義で神聖なものであると強調した。これほど効果的に人々を悪から守ることができた国は他にない。内乱がもたらした災難は貴族や戦闘員に限られており、自分が他の国では見慣れているような痕跡、廃墟となった居住地も人口が減った都市も残っていない、と彼は見ていた。

イングランドが他の国々と比べて優れているのは国王の大権に課せられた制限が効率的であることだけではなかったのである。同じく重要な特徴としてあまり注目されていないが貴族と平民の関係があった。強力な世襲貴族制度が存在した;しかし世襲貴族制度の中では最も横柄ではなく排他的ではないものであった。それはカーストのような悪意のある性質を持っていなかった。常に民衆からメンバーを受け入れ、また民衆と交わるためにメンバーを送り出していたのである。紳士なら誰でも貴族になれる可能性がある。長子以外の貴族の息子は紳士に過ぎない。貴族の孫は新しく騎士になる優先権を持つ。騎士の位階は、勤勉さと倹約によって良い財産を築くことができたり、戦いや包囲で勇敢さを発揮して注目を集めたりすることができる人物であれば、誰にでも手が届くものであった。公爵の娘、特に王族の公爵の娘でさえ、優れた平民と結婚することは屈辱ではないと考えられていた。そのため、ジョン・ハワード卿はノーフォーク公爵トーマス・モーブレーの娘と結婚した。リチャード・ポール卿はクラレンス公ジョージの娘、ソールズベリー伯爵夫人と結婚した。良き血統は確かに高く評価されるものであった:しかしわが国にとって最も幸運なことに良き血統と貴族の特権の間のつながりは必然ではなかった。貴族院の外にも貴族院の中にも同じくらい長い血統と同じくらい古い家名(*紋章入りの盾)が存在していた。最高位の称号を持つ新しい人物もいた。ヘイスティングスでサクソン人の隊列を崩したり、エルサレムの城壁をよじ登ったりした騎士の子孫であることがよく知られている一般人もいた。ボーン、モウブレイ、デヴェール、つまりプランタジネット家の近親者であっても、“殿”以上の称号はなく、農民や商店主が享受している以上の市民権もなかった。そのため他の国で貴族と平民を分ける線引きのようなものはなかった。自由民は自分の子供が上るかもしれない位階に不満を抱くことはなかった。貴顕は自分の子供が下るべき階級を侮辱するつもりはなかった。

ヨークとランカスターの戦いの後、貴族と平民をつなぐ絆はかつてないほど緊密になり、その数も増えていった。旧来の貴族制度がどれほど破壊されたかは一つの状況から推測することができる。1451年ヘンリーⅥ世は五十三人の時の領主を議会に召喚した。1485年にヘンリーⅦ世が議会に召集した時の領主は二十九人に過ぎず、そのうちの数人は最近貴族に昇格したばかりだった。次の世紀には貴族の階級は主に郷紳の中から採用されるようになった。また庶民院の構成は階級の混合を促進するものであった。州(*shire)の騎士は直臣(*baron)と商店主の間をつなぐ役割を果たしていた。商業都市から議会に戻された金細工師、服屋、食料店主が座っていた同じベンチに他の国であれば貴族と呼ばれていたであろう、宮廷を持ち、鎧を着る権利を持ち、何世代にもわたって名誉ある家系を辿ることができる世襲の荘園領主であるメンバーが座っていた。彼らの中には領主の弟や長子ではない息子もいた。中には王族の血を引く者もいた。あるベッドフォード伯爵の長男は父親の爵位の二代目と呼ばれていたが、ついに庶民院議員の候補者に名乗りを上げ、他の候補者もこれに続いた。庶民院に座った偉大な貴族の後継者たちは彼らに混じっていた謙虚な議員たちと同様に、庶民院の権利に熱心に取り組むようになったのである。このようにして、わが国の民主主義は早くから世界で最も貴族的であり、わが国の貴族は世界で最も民主的であった;この特徴は今日まで続き、多くの重要な道徳的・政治的効果をもたらしている。

ヘンリーⅦ世(*チューダー朝)、その息子、そして孫たちの政府は全体的にプランタジネット家の政府よりも恣意的であったと言える。この違いは個人の性格によってある程度説明できるかもしれない。チューダー家の男女には勇気と意志の強さが共通していたからである。彼らは百二十年の間、常に精力的に、時には暴力的に、時には残酷に権力を行使した。彼らは先代の王朝を真似て時には臣民の権利を侵害し、時には借金や贈与の名目で税金を徴収し、時には刑罰法規を廃止した:また彼らは自らの権限で恒久的な法律を制定することはなかったが、議会が開かれていない時に一時的な緊急事態において一時的な勅令で対処することもあった。しかしチューダー家の人々が一定の範囲を超えて圧迫を行うことは不可能であった。そして彼らは武装した人々に囲まれていた。彼らの宮殿を守っていたのは一つの州やロンドンの一つの区の陣立てで容易に打ち負かすことができる数人の僕婢だけであった。このようにこの高慢な君主たちは単なる法律が課すことのできない強力な拘束を受けていた。この拘束は確かに彼らが個人を恣意的に、あるいは野蛮に扱うことを妨げるものではないが、全体的かつ長期的な抑圧に対して国民を効果的に保護するものであった。彼らは宮廷の中では安全に暴君となることができた;しかし常に国民の気質を注意深く見守る必要があった。例えばヘンリーⅧ世がバッキンガムとサリー、アン・ブーリンとソールズベリー夫人を断頭台に送ろうとしたとき彼は何の反対も受けなかった。しかし議会の同意を得ずに国民に財産の六分の一に相当する拠出金を要求したときはすぐに撤回が必要であると気づいた。何十万人もの人々が自分たちはフランス人ではなくイングランド人であり、奴隷ではなく自由人であると叫んだ。ケント州では王に任命された長官が命からがら逃げ出した。サフォークには武装した四千人が現れた。同州の王の統監は軍を起こそうとしたが無駄だった。反乱に参加しなかった者はこのような争いで同胞と戦うことはないと宣言した。ヘンリーはプライドが高く自分の意志を持っていたが、国民の奮起した精神と衝突することに尻込みしたのは理由のないことではなかった。彼の目の前にはバークレーやポンフレットで命を落とした先人たちの運命があったのである。彼は違法な依頼を取り消しただけでなく、造反者すべてに全面的な赦免を与えただけでなく、法に違反したことを公にかつ厳粛に謝罪した。

この時の彼の行動は彼の王朝の政策全体をよく表している。この血統の君主たちの気質は熱く、精神は高かった、しかし彼らは自分たちが統治する国民の性格を理解しており、先代や後代の王朝で何度かあったように強情さを致命的なところまで高めることはなかった。このようにチューダー家は思慮深かったため、しばしば抵抗されたものの、その権力が覆されることはなかった。彼らの治世はいずれも手ごわい不平分子によって乱されたが;政府は常に不平分子をなだめるか、征服して罰することができた。時には時機を得た譲歩によって国内の敵意を回避することに成功したが;一般的には毅然とした態度を取り、国民に助けを求めたのである。国民はその呼びかけに応じ、国王の周りに集まって彼が少数派の不満を鎮圧することを可能にした。

このようにヘンリーⅢ世の時代からエリザベスの時代までイングランドは現在の制度の萌芽を含む政治体制の下で成長し、繁栄してきた。この政治体制はあまり正確に定義されておらず、あまり正確に観察されてもいないが、統治者が被統治者の精神と力を畏怖することで専制主義に陥ることを効果的に防いでいた。

しかし、このような政治体制は社会の進歩における特定の段階にのみ適している。平和的な技術の分野で分業を生み出しているのと同じ原因がやがて戦争を別個の術、別個の職業にしないわけにはいかない。武器の使用が独立した階級の全関心を占めるようになる時が来る。農民や町民がどんなに勇敢であっても、生活すべてが戦いのための準備であり、長い間危険に慣れ親しんで神経が鍛えられており、時計のように正確に動くベテラン兵士に歯が立たないことはすぐにわかる。四十日間の遠征のために耕地や織機から連れ出された戦士たちに国家の防衛を安心して任せられないということが気づかれた。どこかの国が大規模な常備軍を編成すれば、隣接する国はその例を真似るか、あるいは外国のくびきに服従しなければならない。しかし大規模な常備軍が存在するところでは中世のような限定的君主制はもはや存在し得ないのである。国王はそれまで大権を抑制していたものから一気に解放され;すべての人が時折兵士となり恒久的に兵士とならない社会に十二分に存在するあの抑制を受けない限り、不可避的に絶対的な存在となるのである。

危険に伴い回避する手段も生まれた。中世の君主制では武力は君主に属していたが;資力は国民に属していた;文明の進歩は君主の武力を国民にとってますます恐ろしいものとしたが、国民の資力を君主にとってますます必要なものとしていた。君主の世襲収入ではもはや文民政府の費用を賄うことさえできなかった。系統立った広範囲の税制なしに訓練された大規模な軍隊の不変の能力を維持することは全く不可能であった。ヨーロッパの議会が採用すべき方針は金銭を与えるかどうかを決める憲法上の権利を堅持し、専制政治に対抗できるという十分な保証が得られるまで軍隊を支援するための資金提供を断固として拒否することであった。

この賢明な政策を行ったのは我が国だけであった。近隣の王国では大規模な軍事組織が設;されたが;公の自由のための新たな保護手段は工夫されなかった。その結果、古来の議会制度がいたるところで消滅した。フランスではずっと弱々しかった議会がさらに弱り、ついに単なる衰弱のために死んでしまった。ヨーロッパのどの地域よりも強力であったスペインの議会は生存のために激しく奮闘したが、奮闘するには遅すぎた。トレドやバジャドリッドの職工(*織工)たちはカスティーリャ・コルテス(*身分制議会)の特権をシャルルⅤ世のベテラン大隊から守ろうとしたが無駄であった。次の世代でサラゴサの市民がアラゴンの旧憲法を守るためにフィリップⅡ世に立ち向かったときのように無駄に終わってしまったのである。かつてウェストミンスターで開かれていた会議に勝るとも劣らない誇りと力を持っていた大陸君主国の偉大な国民会議が次々と無意味なものになっていった。会議が開かれたとしても現在我が国で開かれるコンヴォケイト(*大主教区会議)と同じように由緒ある形式を踏襲するだけであった。

イングランドでは事態は異なる方向に進んだ。この特異な幸運は主にそれが島国であることに起因していた。15世紀が終了する前には大規模な軍事組織なしにフランスとカスティーリャの君主たちの尊厳や、安全すら守ることができなくなった。この二つの大国のいずれかが武装解除すればすぐに他方の独断に従わざるを得なかったであろう。しかしイングランドは海によって侵略から守られていて大陸で戦闘行為をすることはほとんどなかったため、さしあたり常備軍を雇用する必要性はなかった。16世紀、17世紀になってもイングランドには常備軍が存在しなかった。17世紀の初めには政治学はかなり進歩していた。スペインの身分制議会やフランスの三部会の運命は我が国の議会に厳粛な警告を与えていた;我が国の議会はその危険性の本質と大きさを十分に認識しており三世代まで長引いた論争の後、戦術の体系を適切に採用し、そして成功を収めたのである。

この論争を扱ったほとんどすべての著述家は古来の政体を変更せずに維持しようと闘っていたのは自分の党派であることを示そうとしている。しかし実際には古来の政体を変更せずに維持することは不可能であった。人間の英知を超えた法則は14世紀と15世紀にヨーロッパ全土に広く存在した特異な種類の政府の存在をもはや許さなかった。したがって問題は我々の政治形態が変化するべきかどうかではなく、その変化の性質がどのようなものであるべきかということであった。新たな強大な(*武)力の導入は古からの均衡をかき乱し、限定的君主制は次々と絶対的君主制へと変わっていった。他の国で起こったことは国王から議会への権力の大幅な移譲によって均衡を取り戻さない限り間違いなくわが国でも起こっていたであろう。わが国の君主たちはプランタジネット家やチューダー家がかつて持っていなかったような強制手段を手に入れようとしていた。プランタジネットやチューダーが経験したことのないような拘束を同時に受けていなかったなら、彼らは必然的に専制君主になっていたはずである。

したがって政治的な要因以外のものが作用していなかったなら17世紀は国王と議会との間の激しい対立なしには終われなかったであろうと思われる。しかし、それ以上に強力な別の要因が同じ効果をもたらした。チューダー家の政府が最高の活力を発揮していたとき、すべてのキリスト教国の運命を左右し、特にイングランドの運命を左右した出来事が起こった。中世の間にヨーロッパの人々はローマの支配に対抗して二度蜂起した。最初の反乱は南フランスで起こった。イノケンティウスⅢ世のエネルギー、フランシスコとドミニクの若い修道会の熱意、そして聖職者たちが非武装の人々に放った十字軍の獰猛さがアルビゲン教会(*カタリ派)を粉砕した。二度目の改革はイングランドで始まりボヘミアに広がった。コンスタンツ公会議(*ウィクリフ、フスを断罪)はキリスト教に不名誉を与えていた教会の混乱を取り除き、ヨーロッパの諸侯は異端者に対して火と剣を惜しみなく使ってこの運動を阻止し後退させることに成功した。また、このことはあまり嘆かわしいことではない。確かにプロテスタントがアルビゲン派(*一度目)やロラード派(*二度目)に同情するのは当然である。しかし賢明で節度あるプロテスタントはたとえアルビゲン派かロラード派のどちらが勝利していたとしても、全体として人類の幸福と美徳が促進されていたかどうかを疑わずにはいられないであろう。ローマ教会が腐敗していたとしても12世紀、あるいは14世紀にローマ教会が倒されていたならば空いた場所にはさらに腐敗した組織が置かれていたであろうと信じるべき理由がある。当時ヨーロッパの大部分にはほとんど知識が普及しておらず;その僅かな知識さえ聖職者に限られていた。詩篇を一字一字辿ってやっと読むことができる者は五百人に一人もいなかった。本は少なく、高価であった。印刷の技術は知られていなかった。現在すべての貧しい農夫の意のままになるものに比べて美しさも鮮明さも劣る聖書のコピーが多くの聖職者には手が出ないような値段で売られていたのである。信者が自分で聖書を調べることは明らかに不可能であった。したがって彼らは一つの霊的なくびきを外したとたんに別のくびきを付けたことであろうし近頃までローマ教会の聖職者によって行使されていた権力ははるかに悪い部類の教師に移っていたであろうことは間違いない。16世紀は比較的、光の時代であった。しかし16世紀になっても旧教を離れた人々の中には最初に現れた自信満々のまことしやかな指導者に従った人がかなりいて、すぐに自分が捨て去ったものよりもはるかに深刻な誤りに導かれてしまった。このようにして欲望、強盗、殺人の使徒であるマティアスとクニペルドリング(*ともにミュンスターの反乱を起こしたアナバプティスト)は一時的に大きな都市を支配することができた。もっと暗い時代にはこのような偽預言者が帝国を築いていたかもしれない;そしてキリスト教はカトリックのみならずイスラム教よりも有害な、残酷で放埓な迷信へと歪められていたかもしれない。

コンスタンツ公会議の開催から約百年後、力強く宗教改革と呼称される大変革が始まった。今や時は満ちていた。聖職者たちはもはや知識の唯一の、あるいは主要な保管者ではなくなった。印刷の発明は教会を攻撃する者たちにその先人たちが持っていなかった強力な武器を与えた。古代の著述家の研究、近代言語の力の急速な発展、文芸のあらゆる分野において発揮された前例のない活発さ、ヨーロッパの政治状況、ローマ教皇庁の悪徳、ローマの使徒庁(*教皇軍の資金を集める機関)の強奪、平民が聖職者の富と特権を当然と考えていることへの猜疑、アルプスのこちら側で生まれた人々がイタリア人の優位を当然と考えていることへの猜疑、これらすべては新しい神学の教師たちに有利なものであり、彼らはその利用方法を完全に理解していた。

暗黒時代におけるローマ教会の影響が全体として人類にとって有益なものであったとする人々は、完全な一貫性を保ったままで宗教改革を計り知れない祝福とみなすことができる。幼子を保護し、支える手引き紐は、成長した人間には邪魔になる。そして人間の心がその進歩のある段階では支えられ、推進されているまさにその手段が別の段階では単なる妨げになることがある。個人や社会の発達段階において後には当然ながら隷属と軽信と呼ばれる、従順と信仰が有用な資質となる時期があるものである。年長者の指示に疑いを抱かず、意欲的に耳を傾ける子供は急速に成長する可能性がある。しかし自分よりも賢くない他人の発した主張や教義を子供のように従順に受け取るような人間は軽蔑されるべきであろう。それは共同体でも同じである。ヨーロッパ諸国は幼少期を聖職者の指導の下で過した。聖職者階級の支配権は自然かつ適切な知的優位性に属する長期間の支配権であった。聖職者は欠点があったとしても、社会の中で最も賢明な存在であった。したがって全体として彼らを敬い従うことは良いことであった。国家権力が自分の出した認可や布告を読むこともできない野蛮な首長の手にある間、歴史、哲学、公法を学んだ唯一の階級が教会権を握っている間は、教会権力が国家権力の領域を侵食しても不幸よりも幸福の方がはるかに多かったのである。しかし変化が起こった。平民の間にも知識が徐々に浸透していったのである。16世紀初頭には彼らの多くがあらゆる知的能力において最も賢明な宗教指導者と同等の能力を備えていた。それ以来、暗黒時代には多くの悪弊にもかかわらず正当で有益な後見役であったその支配は不正で有害な専制政治とされたのである。

蛮族が西帝国を蹂躙した時代から文芸復興の時代までローマ教会は科学、文明、善政に好ましい影響を与えていた。しかし過去三世紀の間、教会の最大の目的は人間の心の成長を阻害することであった。キリスト教圏全体で知識、自由、富、生活の技術における進歩はその存在にも関わらず、どこでも教会の力に反比例して起こったのである。ヨーロッパで最も美しく最も肥沃な地方は教会の支配下では貧困と政治的隷属と知性の枯渇に陥っており、一方、かつては不毛と野蛮で有名であったプロテスタント諸国は技術と精励によって肥沃な農耕地帯に変えられ、英雄や政治家、哲学者や詩人の長いリストを誇ることができる。イタリアとスコットランドの本来の姿と、その四百年前の実際の姿を知った上で今、ローマの周辺地域とエジンバラの周辺地域を比較する人物は教皇の支配の傾向について何らかの判断を下すことができるであろう。かつて君主制国家の頂点にあったスペインが最も深い凋落に陥ったことと、オランダが数多くの自然条件の不利にもかかわらず、これほど小さな連邦が到達したことのないような地位にまで上り詰めたことは同じ教訓を与える。ドイツでローマ・カトリックの公国からプロテスタントの公国へ、スイスでローマ・カトリックからプロテスタントの州へ、アイルランドでローマ・カトリックの郡からプロテスタントの郡へと移動した人物は誰でも文明の低い段階から高い段階へと移ったことに気がつく。同じ法則は大西洋の向こう岸でも成立している。アメリカのプロテスタントはメキシコ、ペルー、ブラジルのローマ・カトリックをはるかに置き去りにしている。ローワー・カナダ(*セント・ローレンス川下流~セント・ローレンス湾岸)のローマ・カトリック教徒は不活発なままであるが、彼らの周りの大陸全体はプロテスタントの活動と冒険心で沸き返っている。フランス人がエネルギーと知性を発揮してきたことは間違いない、その方向性が間違っていたとしても偉大な人々と呼ばれるのは当然のことである。しかし調べてみると、この明らかな例外もまた法則を裏付けるものであることがわかる;なぜなら数世代にわたってローマ・カトリックと呼ばれる国の中でフランスほどローマ・カトリック教会が権威を持たなかった国はかったからである。フランス文学が世界中で高く評価されているのは当然である。しかし、その文学から別々の理由で教皇の支配に反抗してきた4つの党派、プロテスタント、ガリア人の自由の主張者、ジャンセニスト(*17~18世紀にフランスでカトリックからの脱却を目指した一派)、哲学者に属するものをすべて差し引いたならどれだけのものが残るであろうか。

イングランドがローマ・カトリックと宗教改革のどちらに負うところが大きいかを判断するのは難しい。民族の融合や奴隷制の廃止については、主に中世に神父が信徒に及ぼした影響に負っている。政治的・知的な自由、そして政治的・知的な自由がもたらしたすべての恩恵は主に神権に対する信徒の大きな反抗に負うところが大きいのである。

わが国における新旧神学の闘争は長く、その成り行きが危ぶまれることもあった。二つの極端な党派があり、一方は暴力で行動しようとし、他方は片意地な決心を守ろうとしていた。彼らの間にはかなり長い間、中間派が横たわっていた。この中間派は非常に非論理的であったが、決して不自然ではなく、幼少時に学んだ教訓と現代の伝道者の説教を融合させ、あらゆる儀式に好意的に執着しながらも、それらの儀式と密接に関係している悪事を嫌っていたのである。このような精神構造の人々は自分自身で判断する手間を省き、騒がしい論争に際してしっかりした威厳のある声を上げて、どのように礼拝し、何を信じるべきかを教えてくれる有能な支配者の指示にほとんど感謝とも言える気持ちを抱き、進んで従っていた。したがってチューダー家が教会に大きな影響力を行使できたことは不思議なことではなく;またその影響力がほとんどの場合、自分たちの利益のために行使されたことも不思議ではない。

ヘンリーⅧ世は支配権という点においてローマ・カトリック教会とは異なるイングランド国教会を設立しようとし、また異なるのはこの点だけであった。この試みは並外れた大成功を収めた。彼の性格の強さ、外国勢力に対して特異に有利な立場にあったこと、大修道院の破壊によって得られた莫大な富、そして二つの意見の間で踏みとどまっている層の支持によって、彼は両極端な党派に対峙し、改革派の教義を主張する者を異端者として焼き殺し、教皇の認可を受けた者を裏切り者として吊るすことができたのだ。しかしヘンリーのシステムは彼の死とともに死んだ。ヘンリーの命が長く続いていたとしても、新旧の意見に熱心な人々から同じような怒りをもって攻撃される立場を維持していくのは困難だったことであろう。彼の幼い息子(*エドワードⅥ世は九歳で即位し、十五歳で崩御した)のために国王の権限を預かっている大臣たちは、このような危険な政策を続けることはできず;エリザベスもこの政策に戻ることはできなかった。選択する必要があった。政府はローマに服従するか、プロテスタントの支援を得るかのどちらかを選ばなければならない。政府とプロテスタントの共通点はただ一つ、教皇庁の権力を憎むことであった。イングランドの改革派は大陸の改革派に負けないくらいの勢いであった。彼らはヘンリーが頑なに守り続け、エリザベスがしぶしぶ放棄した数多くの教義や実践を反キリスト教的なものとして満場一致で非難した。神秘主義的なバビロン(*華美と悪徳の都)の政治や儀式の一部をなしている些細なものにさえ多くの人が強い嫌悪感を抱いていた。そこで自分の宗教のためにグロスターで壮絶な死を遂げたフーパー司教は長い間、司教の法衣を着ることを拒否していた。さらに有名な殉教者であるリドリー司教は自分の教区の古い祭壇を取り壊し、教皇たちが不謹慎にもオイスターボードと呼んだ教会の真ん中のテーブルで聖体拝領を執り行うよう命じた。ジュエル司教は聖職者の服装を舞台衣装、愚者のコート、アモリ人(*カナン人の一民族)の遺風と断定し、このような下劣な不条理を根絶するためにいかなる努力も惜しまないと約束した。グリンダル大司教は聖別式の虚礼と考えたものを嫌って、長い間ミトレを受け取ることをためらっていた。パークハースト主教はイングランド教会がチューリッヒ教会をキリスト教共同体の絶対的な模範とすることを熱烈に祈っていた。ポネット司教はビショップ(*司教)という言葉を教皇派に譲るべきであり、浄化された教会の最高責任者をスーパーインテンダント(*最高監督者)と呼ぶべきだと考えていた。これらの高位聖職者はいずれもプロテスタント派の極端な派閥に属していなかったことを考えると、もしプロテスタント派の一般的な感覚に従っていたならば、イングランドでもスコットランドと同様に改革の仕事が仮借なく行われていたであろうことは疑う余地がない。

しかし政府がプロテスタントの支持を必要としていたようにプロテスタントも政府の保護を必要としていた。そのため双方ともに多くのことを放棄し、統合が行われ、その結果イングランド国教会が誕生した。

宗教改革以降、わが国で起こった最も重要な出来事の多くはこの偉大な制度の特殊性と、それが敵味方双方の心に呼び起こした強い情熱に起因している。またイングランドの世俗的な歴史はその教会政治の歴史と常に関連づけて研究しなければまったく理解できない。

イングランド国教会を生み出した同盟の条件を決めるのに最も大きな役割を果たしたのはクランマー大司教(*トーマス)である。彼は当時、互いの助けを必要としていた両派の代表者であった。彼は聖職者であると同時に廷臣でもあった。聖職者としての彼はスイスやスコットランドの改革派と同様に、変革の道を歩む準備ができていた。廷臣としての彼は何世紀にもわたってローマ側の司教たちの目的を見事に果たしてきた組織を維持することを望まれていたが、今ではイングランドの王やその大臣たちの目的も同様に果たすことが期待されたのであった。彼の気質と理解力は調停者として行動するのに非常に適していた。職業は聖人、取引において無節操、何事にも不熱心、思索は大胆、行動は臆病で日和見的、宥めやすい敵と生ぬるい友人、彼はあらゆる面で教皇の宗教的敵と世俗的敵の連合条件を調整する資格があった。

今日に至るまで国教会の組織、教義、礼拝にはそれが生まれたときの妥協の跡がはっきりと残っている。この教会はローマ教会とジュネーヴ教会の中間的な位置を占めている。プロテスタントが作成した教義の告白や講話では、カルヴァンやノックスならばほとんど反対する言葉がないであろう神学の原則が述べられている。祈りや感謝の言葉は古代の典礼書に由来するもので、フィッシャー枢機卿やポール枢機卿が心を込めて唱和したであろうものが多くある。国教会の信条や説教にアルミニウス主義(*カルヴァン傍流)的な意味を持たせる論客は、国教会の典礼の中に洗礼による再生の教義が見出されることを否定する論客と同じくらい理不尽である、と率直な人々は宣告するであろう。

ローマ教会は司教職は神が定めたものであり、ガリラヤの山で任命を受けた十一人からトレント(*1500年代の公会議)で会合した司教たちに至るまで、五十世代にわたって手を置くことによって、ある種の超自然的な高貴な恵みが伝えられてきたとしてきた。一方プロテスタントの多くの人々は高位聖職者の制度を明らかに違法であると考え、聖書に規定された教会の統治形態とは全く異なるものであると信じていた。イングランド国教会の創設者たちはその中間の道を歩んだ。彼らは監督制度(*主教制度、カトリックで言う司教制度)を保持したが;それがキリスト教社会の幸福や聖奠(*カトリックで言う秘跡)の効能に不可欠な制度であるとは宣言しなかった。クランマーはある重要な機会に原始教会には司教と司祭の区別はなく、手を置くことは全く不要であったという確信をはっきりと表明したのである。

長老派(*カルヴァン派)の人々の間では公的な礼拝の実施はほとんどが牧師に委ねられている。そのため彼らの祈りは同じ日の二つの集会でも、同じ集会の二つの日でも、まったく同じではない。ある教区では熱烈で雄弁で、意味の深い祈りをする。別の教区では気だるく、滑稽なものであることがある。一方ローマ・カトリック教会の司祭たちは何世代にもわたって、インドでもリトアニアでもアイルランドでもペルーでも同じ古来の信仰告白、祈り、謝恩を毎日唱えてきた。礼拝は死語(*ラテン語)を使って行われるため、学のある者にしか理解できず;大多数の信徒は聴衆としてではなく観客として協力していたと言えるであろう。ここでもイングランド国教会は中間的な方法を取った。ローマ・カトリックの祈りの形式をコピーはしたが、それを一般的な言葉に翻訳し、読み書きのできない大衆に牧師と一緒に声を合わせるよう呼びかけたのである。

国教会のシステムのすべての部分に、同じ方針が見られるかもしれない。全質変化(*聖餐のパンとぶどう酒をキリストの肉と血とに変化させること)の教義を完全に否定し、聖餐式のパンとワインに捧げられるすべての崇拝を偶像崇拝として非難しつつ、しかし信徒たちに神の愛の記念物を跪いておとなしく受け取るように要求したため国教会はピューリタンに嫌われた。国教会は古来の信仰の祭壇を囲んでいた多くの豪華な法衣を捨てたが、弱い心を恐れるように、キリストの神秘的な伴侶としての自らにふさわしい純粋さの象徴である白い麻の衣を纏っていた。ローマ・カトリックの礼拝では分かりやすい言葉の代わりに多くのパントマイム的なジェスチャーが用いられるが、国教会は洗礼盤で軽く指先を濡らして幼児に十字を切ることで、多くの厳格なプロテスタントに衝撃を与えた。ローマ・カトリック教徒は多くの聖人に祈りを捧げるが、その中には疑わしい人物や憎むべき人物も多く含まれていた。ピューリタンは非ユダヤ人の使徒やイエスが愛した弟子を聖人に加えることさえも拒んだ。イングランド国教会は創造主に執り成しの祈りをしていたが、信仰のために偉大なことをしたり耐えたりした人々を記念する日を設けていた。また堅信礼や聖職按手式を啓発的な儀式として残していたが、聖奠のランクからは落としていた。国教会のシステムには、洗礼は含まれていなかった。しかし死にかけている悔悛者に神への罪の告白を優しく勧め、その牧師にまさに旧教の精神を吹き込んだ赦免によって、去りゆく魂を癒す権限を与えた。全体的にはローマ教会よりも理解力に訴え、感覚や想像力には訴えない、またスコットランド、フランス、スイスのプロテスタント教会よりも理解力に訴えず、感覚や想像力に訴えていたと言えるであろう。

しかしイングランド国教会が他の教会と強く異なるのは王政との関係である。国王は教会の頭であった。国王が持つ権限の境界線はそれ自体引かれておらず、実際、未だかつて正確に引かれたことはない。教会において王が最高権威であることを宣言する法律はぞんざいに大まかな用語で書かれていた。これらの法律の意味を確かめるためにイングランド国教会を設立した人々の書物や生涯を調べるなら我々の当惑はさらに大きくなるであろう。というのもイングランド国教会の創設者たちは激しい知的興奮の時代、絶え間ない行動と反応の時代に執筆し行動していたからである。そのため彼らはしばしばお互いに矛盾し、時には自分自身にも矛盾していた。国王がキリストの下で教会の唯一の支配者であるというのは彼ら全員が声をそろえて断言した教義であったが、その言葉は口によって、また同じ口でも時と場合によって非常に異なる意味を持っていた。時にはヒルデブランド(*宗教と現世においてカトリックの覇権を確立するために戦った教皇)さえも満足させるような権威を君主が持つとされ:そしてそれはローマ教会の宗派に常に属していた多くの古代イングランドの君主が主張していたような権威にまで徐々に縮小された。一時ヘンリーと彼の相談役の寵臣たちが言っていた支配権とは確かに天国の鍵(*教皇が聖ペテロから引き継いだとされる)そのものに他ならなかった。国王は王国の教皇であり、神の代理人であり、カトリックの真理を説く者であり、聖奠の恵みの窓口であるとされた。王は何が正統な教義で何が異端であるかを独断で決定し、信仰告白を作成してこれを課し、国民に宗教上の指導を行う権利を自らに与えたのである。また宗教的なものも現世的なものも、すべての司法権は自分だけに由来すると宣言し、主教の権限を与えることも取り上げることも自分の権限であるとした。実際に彼は自分が望む間、自分の代理の役目を果たす主教の委任状に自印を押すことを命じた。クランマーが説明したこの制度によれば国王は宗教的にも現世的にも国の最高責任者であった。どちらの役割においても殿下は副官を持たなければならない。国王は印章を保管し、税を徴収し、国王の名のもとに裁判を行うために文官を任命したように福音を伝え、聖奠を執り行う様々な階級の聖職者を任命した。手を置くことは必要なかった。国王は―クランマーの意見を平易な言葉で言うなら―神が与えた権威によって司祭を任命することができ;任命された司祭にはいかなる聖職按手式も必要がない、ということである。大主教は宮廷的ではない聖職者たちの反対にもかかわらず、この意見をあらゆる理論と結びつけた。大主教は自分の宗教的な職務は大蔵大臣や財務大臣の世俗的な職務と同様に国王の崩御によって直ちに終了すると考えていた。そのためヘンリーが亡くなると大主教と属主教たちは新たな委任状を持ち出し、新しい君主が別の命令を出すのが適切だと考えられるまで教会を叙任し統治する権限を与えられたのである。主が使徒たちに与えたのは現世的な権力とは全く別の禁止と許可の力であると反論されたとき、この学派の神学者たちは禁止と許可の力は聖職者ではなく、キリスト教徒全体に与えられたものであり、社会を代表するものとして(*司法と行政の)最高責任者が行使すべきであると答えた。また聖パウロは聖霊によって信仰者の監理者や羊飼いとされた人々について語っていると反論されると、ヘンリー王こそが聖霊によって任命された監理者であって羊飼いであり、聖パウロの言葉に当てはまると答えた。#3

こうした高飛車な態度はプロテスタントと同様にカトリックからも反感を買った;メアリー(*Ⅰ世)がローマ教皇に返上していた主権がエリザベスの即位によって再び王冠に併合されるとこの反感はさらに大きくなった。使徒がそこで声を出すことさえ禁じていた女性が教会の大主教になるなどとんでもない、と思われた。そのため女王は父親が務めていた聖職者としての性格、クランマーによれば神の命令によって王権の作用と不可分に結びついていた聖職者としての性格を明確に否定する必要があると考えた。彼女の治世にイングランド国教会の信仰告白が改訂された際には支配権についてヘンリーの宮廷で流行した方法とは多少異なる方法で説明がなされた。クランマーは神はキリスト教徒の君主に直接そのすべての臣民の救済を委ねたと強調して宣言した、それは魂の救済のための神の言葉の執行に関しても、政治的なことの執行に関しても同様であると。#4 エリザベス政権下で作成された宗教に関する第三十七条においては神の言葉を伝えることは君主がすることではない、と同様に強調された言葉で宣言されている。しかし女王は依然として教会に対して広範囲かつ定義されていない賓客としての力を持っていた。女王は議会から異端やあらゆる教会の悪用を抑制し、処罰する権限を委ねられており、その権限を委員に委ねることも許されていた。主教たちは彼女の相棒に過ぎなかった。11世紀のローマ教会は国家の最高権力(*the civil magistrate)に教会牧師を指名する絶対的な権限を与えまいとして全ヨーロッパを火の海にした。現代のスコットランド教会の牧師たちは国家の最高権力に教会牧師を指名する絶対的な権限を与えまいとして数百人単位で聖職を辞している。イングランド国教会にはそうした躊躇いはなかった。国王の権限だけで前任者が任命された。国王の権限だけで大主教区会議が召集され、統制され、停会され、解散された。国王の認可がなければ教会法は効力を持たない。国王の同意がなければいかなる教会評議会も合法的に集まることはできない、というのがその信仰の一つの約款であった。ある意見が異端とされるべきかどうか、あるいは聖奠の執行が有効であるかどうかが問題となっている場合でも、教会のすべての裁判は最終的には主権者に上訴される。また教会はこのような広範な権限を我々の君主たちに与えることを惜しまなかった。彼らによって教会は誕生し、弱々しかった幼少期から育てられ、一方では教皇派から、他方ではピューリタンから守られ、善意のない議会から守られ、応酬が困難な文筆による攻撃者に復讐してきたのである。このようにして感謝、希望、恐怖、共通の愛着、共通の敵意が国教会を王位に結びつけたのである。そのすべての伝統、すべての嗜好は君主的であった。その聖職者の間では忠誠心は職業上の名誉となり、カルヴァン派や教皇派と区別する独特のバッジとなった。カルヴァン派と教皇派は他の点では大きく異なっていたが、ともに宗教的な力の領域に現世的な力が侵食することに非常に強い警戒心を持っていた。カルヴァン派も教皇派も神に背く支配者に対して臣民が剣を振るうのは正当なことである、と主張していた。フランスではカルヴァン派はシャルルⅨ世に抵抗し:教皇派はアンリⅣ世に抵抗した:両派はアンリⅢ世に抵抗した。スコットランドではカルヴァン派がメアリー(*女王)を捕虜にした。トレント河(*イングランドとミッドランドの境界)の北側では教皇派がイングランドの王位に反抗して武器を取った。イングランド国教会はカルヴァン派と教皇派の両方を非難し、国教会で絶えず最も熱心に教え込んでいる義務は君主への服従である、と豪語した。

国教会との緊密な提携によって国王が得た利点は大きかったが、重大な欠点がなかったわけではない。プロテスタントの多くの人々は当初からクランマーが打ち出した妥協案は主の崇拝とバアルの崇拝を統合しようとするものであり、二人の主に仕える計画であるとみなしていた。エドワードⅥ世の時代にはこのようなプロテスタントの主張が政府の運営に大きな支障をきたしていた。エリザベスが王位に就くとその困難はさらに増した。暴力は当然暴力を生む。そのためプロテスタントの精神はメアリー(*Ⅰ世、カトリックに復帰し、プロテスタントを迫害した)の残虐行為の後ではそれ以前よりもはるかに激しく、不寛容になっていた。新しい見解に熱狂的な支持を寄せていた多くの人々はこの悪しき時代にスイスやドイツに避難していた。彼らは信仰を同じくする仲間たちに温かく迎えられ、ストラスブール、チューリッヒ、ジュネーブ(*カルヴァンが神権政治を行った)の偉大な博士たちの足元に座り、何年かの間、イングランドではまだ見たことのないようなシンプルな礼拝と民主的な教会統治方式に慣れ親しんでいた。これらの人々はエドワード王(*Ⅵ世)の下で行われた改革は、純粋な宗教の利益が必要とするよりも、はるかに不徹底で狭い範囲に限られていたことを確信して帰国した。しかし彼らがエリザベスから譲歩を得ようとしたことは無駄だった。実際エリザベスの制度に兄の制度と違う部分があったとしても、彼らにとっては悪い方に違っているように思われた。彼らは信仰の問題については人間の権威に従うことをあまり好まなかった。彼らは最近聖書の独自の解釈に基づいて古代からの歴史と普遍的な合意に基づいて強固な教会に立ち向かうようになった。彼らにあの華麗で尊大な迷信のくびきを外させたものは並みの水準で発揮された知的エネルギーではなく;そしてそのような解放の直後に彼らが新たな宗教的専制政治に辛抱強く従うことを期待するのは無駄なことであった。司祭が聖餐式のパンを持ち上げると神の御前であるかのように顔を地面に向けてひれ伏すことに長年慣れていた彼らはミサを偶像崇拝的な虚礼として扱うようになった。教皇を使徒の長の後継者であり、地と天の鍵を持つ者と見なすことに慣れていた彼らは教皇を獣、反キリスト、罪人と見なすことを覚えた。彼らがバチカンから取り下げた忠誠心を直ちに新興の権威へと移すこと;個人的な判断だけで設立された教会の権威に個人的な判断を委ねること;最近まで西欧キリスト教の普遍的な信仰であったものに自ら異を唱えた教師(*国教会)に異を唱えることを恐れること、などは予想できなかった。自分たちよりも何年も若い組織が自分たちの目の前で、宮廷の情熱と利益から徐々にその姿を変えていった組織がローマの高慢なスタイルを真似し始めたとき、新たに手に入れた自由を誇る、大胆で探究心に富む人々が感じたであろう憤りは容易に想像がつく。

この人々は納得しなかったので、迫害しなければならない、という判断がなされた。迫害は彼らに当然の効果をもたらした。彼らは分派を創立し:一つの党派になった。教会への憎しみに今や国王への憎しみが加わった。この二つの感情は混ざり合って;それぞれが他方を悪化させていた。支配者と被支配者の関係に関するピューリタンの見解は説教集(*カトリックのミサでの聖典の朗読の後の解説)で教えられているものとは大きく異なっていた。その人気の聖職者たちは訓示と模範の両方によって暴君や迫害者への抵抗を奨励していた。フランス、オランダ、スコットランドのカルヴァン派の仲間たちは偶像崇拝の残酷な君主に背いて武装していた。国家の統治についての考え方も教会統治についての考え方と似ていた。主教職に対して一般的に投げかけられていた皮肉のいくつかはさほど困難なく王族に対しても向けられるであろうし;また宗教的な権力は教会会議に置くのが一番だということを証明するために使われた議論の多くは、現世的な権力は議会に置くのが一番だという結論につながるように思われた。

このようにして国教会の司祭が利害関係、原理、情熱によって国王の大権に熱心であったようにピューリタンは利害関係、原理、情熱によって国王に敵対していたのである。不満を持つ宗派の力は大きかった。彼らはあらゆる階層に存在したが;町では商人階級、田舎では小地主の間で最も強かった。エリザベス女王の治世の初期には彼らは庶民院の過半数を占めるようになっていた。もし我々の祖先が当時、自由に国内の問題に関心を向けることができていたなら国王と議会の間で即座に争いが始まっていたことは間違いない。しかし、それは内輪もめをしていてよい時期ではなかった。確かに国家のすべての階級が最も強固に団結しても彼ら全員が脅かされている共通の危険を回避できるかどうかはとても疑わしかった。ローマ・カトリックのヨーロッパと改革派のヨーロッパは生死を争っていた。フランスは分裂し、一時的にキリスト教世界での存在意義を失っていた。イングランド政府はプロテスタントの利益の先頭に立ち、国内の長老派を迫害する一方で海外の長老派教会に強力な保護を与えていた。反対党派の頭はその時代最強の君主であり、スペイン、ポルトガル、イタリア、東インド諸島、西インド諸島を支配し、その軍隊は何度もパリに進軍し、デボンシャーとサセックスの海岸はその艦隊を警戒していた。イングランド人は自分たちの宗教と独立のためにイングランドの地で必死で戦わなければならないであろう、と長い間考えられていた。また国内で大きな反逆が起こることに対する不安がなかったことは片時もなかった。その時代、自らの宗教のために母国を犠牲にすることを惜しまない多くの人々にとってそれは良心と名誉の問題となっていたからである。ローマ・カトリック教徒が女王の命と国の存続に対して次々と暗い陰謀を企てていたため、社会は常に警戒していた。エリザベスにいかなる欠点があろうとも、人治のおよぶ限り王国と改革派教会全体の運命が彼女の身の安全と行政の成功にかかっていることは明らかだった。したがって彼女の手を強化することは愛国者とプロテスタントの第一の義務であり;その義務は十分に果たされた。ピューリタンたちは彼女が送り込んだ牢獄の底からでさえ、彼女が暗殺者の短剣から守られ、反乱が彼女の足元で鎮圧され、彼女の軍勢が海でも陸でも勝利を収めることができるようにと偽りではない情熱を持って祈っていた。最も頑固な一派の最も頑固な一人は激しい情熱に駆られて犯した罪で手を切り落とされた直後、残された手で帽子を振りながら、"神よ女王を守り給え!"と叫んだ。これらの人々が女王に抱いていた感情は彼らの子孫にも受け継がれている。非国教徒たちは女王に厳しく扱われていたが、組織として常に女王の記憶を敬慕してきた。#5

そのため彼女の治世の大部分において、庶民院のピューリタンは時に反乱を起こすことはあっても政府に対して組織的に反発する気はなかった。しかし無敵艦隊の敗北、連合州のスペインへの抵抗の成功、アンリⅣ世(*ナントの勅令でユグノー戦争を終結させた)のフランス王位の確立、フィリぺⅡ世(*スペイン王)の死によって国と教会が海外からのあらゆる危険から守られるようになると、国内では数世代にわたって続くことを運命づけられた頑強な闘争が即座に始まったのである。

四十年間静かに力を集め、節約してきた反対派が最初の大きな戦いを行い、最初の勝利を収めたのは1601年の議会であった。地盤はよく選ばれていた。イングランド王は常に商業監督の最高指揮を任されていた。貨幣、重量、尺度を規制し、定期市、市場、港を設立することは紛れもなく彼らの大権であった。しかし貿易に関する彼らの権限の境界線はいつものように緩くしか引かれていなかった。そのため彼らはいつものように本来立法府に帰属する領域を侵害した。この侵害はいつものように、深刻になるまで辛抱強く耐えられていた。しかしついに女王は二十もの専売権の特許を自らに与えることにした。王国内にはこの職権乱用が当然引き起こす圧迫と強奪に不満を感じない家族はとんどいなかった。鉄、油、酢、石炭、硝石、鉛、でんぷん、糸、皮、革、ガラスなどが法外な値段でしか買えなくなっていた。怒りと決意に満ちた雰囲気の中で庶民院の議会が開かれた。阿る少数派が女王殿下の法に異議が唱えられている、と議長を非難したのは無駄だった。不満分子の言葉は高らかで威嚇的であり、国民全体の声によって繰り返された。国王の首席大臣が乗った馬車の周りには憤慨した民衆が集まり、専売を罵倒し、大権がイングランドの古い自由に触れることがあってはならないと叫んでいた。長く栄光に満ちたエリザベスの治世が恥ずべき悲惨な結末を迎えるのではないかと、一瞬危惧された。しかし彼女は見事な判断力と気質をもって争いを望まないことを表明し、自ら改革派の先頭に立ち、不満を解消し、感動的で威厳のある言葉で一般の利益を大切にしてくれた庶民院議員に感謝し、人々の心を取り戻し、大衆の動きに抵抗できる手段がない場合に統治者に求められる対処法の記念すべき模範を後継者たちに残した。

1603年に偉大な女王が崩御した。この年は誰が見ても我々の歴史の中で最も重要なエポックの一つである。スコットランドとアイルランドがイングランドと同じ帝国の一部になったのはその時であった。スコットランドとアイルランドは確かにプランタジネット家に服従していたが;どちらの国もその支配下で我慢していたわけではなかった。スコットランドは勇猛果敢に独立を守り、ロバート・ブルースの時代から独立した王国であったが、今では国の誇りを傷つけるどころか満足させる形で島の南部に併合されている。アイルランドはヘンリーⅡ世の時代以降、外国の侵略者を追い出すことはできなかったが、長く激しい戦いを繰り広げてきた。14世紀から15世紀にかけてアイルランドにおけるイングランドの力は衰退の一途をたどり、ヘンリーⅦ世の時代には最も低い水準にまで落ち込んでいた。ヘンリーが支配していたアイルランドはダブリン郡とルース郡、ミース郡とキルデア郡の一部、そして海岸沿いに点在するいくつかの港だけであった。ラインスター州の大部分もまだ郡に分割されていなかった。ミュンスター、アルスター、コンノートは、一部はケルト人、一部は自分たちの起源を忘れてケルトの言語と風習を取り入れて変質したノルマン人の小君主たちによって統治されていた。しかし16世紀になるとイングランドの権力は大きく発展した。埒外に君臨していた半未開の族長たちは次々とチューダー家の統監に服従していった。そしてエリザベスの死の数週間前に四百年以上前にストロングボウが始めた征服がマウントジョイによって完了したのである。ジェームズⅠ世がイングランドの王座につくかつかないかの時に、独立した君主の地位にあった最後のオドネルとオニールがホワイトホールで彼の手にキスをした。それ以来ジェームズⅠ世の命令はアイルランドのあらゆる場所で実行され、ジェームズⅠ世の判事たちは検閲を行い、イングランドの法律が土着民族の間に広まっていた慣習に取って代わったのである。

スコットランドとアイルランドの面積は互いにほぼ同等で、合わせてイングランドとほぼ同等であったが、イングランドに比べて人口がはるかに少なく、富と文明の面ではイングランドに大きく遅れをとっていた。スコットランドはその土壌の不毛さに阻まれ;アイルランドは光の中にあってもその上にまだ中世の厚い闇があった。

スコットランドの人々はヘブリディーズ諸島や北部の山岳地帯に薄く散在していたケルト民族を除いてイングランドの人々と同じ血を引いており、話す言葉はサマセットシャーとランカシャーの方言が互いに異なる以上に最も純粋な英語と異なるものではなかった。一方、アイルランドでは海岸近くの小さなイングランド人植民地を除いて住民はケルト人であり、まだケルトの話し言葉や風習を守っていた。

現在イングランドと結びついている両国民は生来の勇気と知性において上位に位置づけられていた。忍耐力、自制心、思慮深さなど、人生の成功につながるあらゆる美徳においてスコットランド人は人後に落ちなかった。一方アイルランド人の性質は人を富裕にするというよりも、興味深い存在にする傾向があった。彼らは熱烈で衝動的な民族であり、簡単に涙を流したり笑ったり、激怒したり愛したりすることができる。北欧諸国の中では唯一、地中海沿岸に固有の感受性、快活さ、演技やレトリックへの天賦の才を持っていた。また精神的な面ではスコットランドは明らかに優れていた。当時スコットランドはキリスト教国の中で最も貧しかったが、学問のあらゆる分野においてすでに最も恵まれた国々と肩を並べていたのである。スコットランド人は住居も食事も現代のアイスランド人と同じくらい悲惨だったにもかかわらず、ヴィダ(*マルコ・ジローラモ)より繊細にラテン語の詩を書き、ガリレオの名声をさらに高めるような科学上の発見をしていたのである。アイルランドにはブキャナン(*ジョージ、ラテン語作家)もネイピア(*ジョン、対数の発見者)もいない。アイルランドの土着の住民に大いに賦与されていた天才は彼ら同様の荒々しく無骨なバラッドの中にしかその姿を現していなかったが、スペンサーの鑑識眼には詩の純金のかけらを含んでいるように見えていた。

スコットランドはブリテンの君主制の一部となることでその尊厳を保った。何世代にもわたってイングランドの武力に勇敢に耐えてきたスコットランドは今や最も名誉ある条件で強大な隣国と結ばれたのである。国王を迎える代わりに国王を与えたのである。独自の政体と法律は維持された。スコットランドの法廷や議会はウェストミンスターにある法廷や議会から完全に独立していた。スコットランドの行政はスコットランド人の手に委ねられていた。イングランド人には北方に移住して、あらゆる民族の中で最も抜け目なく、最も粘り強い人々とあらゆる国の中で最も貧しい国庫の中からかき集められるものを巡って争う動機がなかったからである。とはいえスコットランドはより大きな資源を持つ他国と結びついてはいるが組み込まれてはいないすべての国に定められた運命を免れることはできなかった。名目上は独立した王国であったが、実際には多くの点で一世紀以上の間、属州として扱われていた。

アイルランドは明らかに剣で勝ち取られた従属国として統治されていた。アイルランドの粗野な国家制度は消滅していた。イングランドの植民者たちはその支持なしに自分たちが存在することができない母国の指示に従い、自らその間に定住することにした人々を踏みにじることで自分たちに補償をしていた。ダブリンで開催された議会はイングランド枢密院の事前承認を得ていない法律を通すことはできなかった。イングランドの立法府の権限はアイルランドにまで及んでいたのである。行政権はイングランドまたはイングランド領の出身者に委ねられていたが、いずれの場合もケルト人からは外国人、さらには敵とみなされていた。

しかしアイルランドがスコットランドと異なる点として、他のどの点よりも注目すべき点がある。スコットランドはプロテスタントであった。ヨーロッパのどこにもローマ・カトリック教会に対抗する民衆の心の動きがこれほど急速で激しい地域はなかった。改革派は偶像崇拝の君主を打ち負かし、退位させ、投獄した。彼らはイングランドで成立したような妥協にも耐えられなかった。彼らはカルヴァン派の教義、規律、礼拝を確立し、教皇派と高位聖職者、ミサの祈祷と国教会祈祷書をほとんど区別しなかった。スコットランドにとって不幸だったのは、スコットランドがよりフェアに相続財産を統治するために(*イングランドに)派遣した君主(*ジェームズⅥ世/Ⅰ世)が、スコットランドの神学者たちが教会会議や説教壇の特権をとてもしつこく主張したことに苛立って、スコットランドでは深い愛着を持たれていた教会政治を彼の女々しい性格の憎み方で憎むようになり、イングランドの王座につくやいなや、イングランド教会の統治や儀式に対して不寛容な熱意を示し始めたことであった。

アイルランド人は北ヨーロッパで唯一、旧教に忠実な民族であった。これはアイルランド人の知識が隣国に比べて数世紀遅れていたことにも起因している。しかし他の原因も重なっていた。宗教改革は道徳的反乱であると同時に、国民的反乱でもあった。それは聖職者に対する信徒の反乱であるだけでなく、異質な支配に対する偉大なゲルマン民族の全部門の反乱でもあった。チュートン語を話さない大きな社会がプロテスタントに転向したことはなく、また古代ローマの言語から派生した言語が話されているところでは今日まで近代ローマの宗教が支配的であるというのは非常に重要な事実である。アイルランド人の愛国心は独特の方向性を持っていた。その敵意の対象はローマではなくイングランドであり;特に大きな分派の頭目であったヘンリーⅧ世とエリザベスというイングランドの君主を嫌う理由が彼らにはあった。二世代にわたってミレー族の君主たちがチューダー朝との間で繰り広げた虚しい戦いの間、被征服民族の心の中では宗教的な熱狂と国民的な熱狂が不可分に混ぜ合わされた。プロテスタントとカトリックの新しい争いがサクソン人とケルト人の古い争いを煽ったのである。一方イングランドの征服者たちは改宗のためのあらゆる正当な手段を講じることを怠っていた。征服した国民に自分たちを理解させるための指導者を送るという配慮はなされなかった。アイルランド語に翻訳された聖書もなかった。政府はプロテスタントの大主教、主教、牧師の大きな聖職階級制度を設置することに甘んじていた。彼らは何もせず、何もしないにもかかわらず、国民の大多数から愛され慕われていた教会からの略奪品を報酬としていた。

スコットランドとアイルランドの両方の状況には先見の明のある政治家を不安にするようなことがたくさんあった。しかしまだ平穏な様相を呈していた。ブリテンのすべての島々が初めて一つの笏の下に平和的に統合されたのである。

この時代からヨーロッパ諸国の間においてイングランドの地位は大きく向上していたと考えられる。新国王が統治する領土はエリザベスが継承した領土のほぼ二倍であった。世界中でも彼の帝国はそれ自体が最も完全で攻撃に対して最も安全なものであったといえる。プランタジネット家とチューダー家は大陸での戦争に従事している間、何度もスコットランドから身を守る必要に迫られていた。またアイルランドでの長期にわたる紛争は彼らの資源を絶え間なく枯渇させるものであった。しかしこのような不利がありながらもこれらの君主はキリスト教世界で高く評価されていた。したがってイングランド、スコットランド、アイルランドが一つになったなら当時存在していたどの国にも劣らない国家が形成されることが期待されても無理はないであろう。

しかし不思議なことにその期待は裏切られた。ジェームズⅠ世が即位したその日(*1603年)にイングランドはそれまでの地位を失い、二番手の勢力とすら見なされなくなったのである。スチュアート家の四人の歴代の君主の下での長い年月、グレート・ブリテンの王国は以前の小さなスコットランド王国よりも重要なヨーロッパの体制の構成員とすら言えなかった。しかしこれはあまり気にするべきことではない。ジョンと同様、ジェームズⅠ世についても彼の政権が有能で立派なものであったならおそらくわが国にとって致命的なことであったと言えるであろう、そして我々ははるかに優れた君主たちの知恵や勇気よりも、彼の弱さや卑しさに負うところが大きいのである。彼が即位したのは決定的な時期であった。国王が絶対的な存在にならなければならない、あるいは議会が行政全体を支配しなければならない時が間近に迫っていたのである。もしジェームズがヘンリーⅣ世のように、モーリス・オブ・ナッソー(*16-17世紀のオランダ君主)のように、あるいはグスタフス・アドルフス(*同、スウェーデン君主)のように勇敢で積極的で政治的な支配者であったなら、ヨーロッパのプロテスタントの先頭に立ち、ティリー(*三十年戦争のカトリック側の司令官)やスピノラ(*同)に大勝し、バイエルンの修道院やフランドルの大聖堂の戦利品でウェストミンスターを飾っていたであろう。もし彼がセントポール寺院にオーストリアとカスティーリャの旗を掲げていたなら、そして大きな成果を上げた後に、勇敢でよく訓練され、彼に献身的に仕える五万人の軍隊の先頭に立っていたなら、イングランド議会はすぐに名前だけの存在になっていたであろう。幸い彼はそのような役割を果たす人物ではなかった。彼はイングランドとスペインの間で長年続いていた戦争を終結させることで政権を開始した;そしてそれ以降は隣国の侮辱や臣下の騒動に相対した時に証明された注意深さによって敵対行為を避けていたのである。息子、寵臣、議会、民衆などの力は彼にその人生の最後の年まで家族や宗教を守るための微弱な一撃すら加えさせることはできなかった。彼がこの問題で彼らの意向を無視したことは統治される側にとって好都合なことであった。彼の平和的な政策の結果、その時代には常備軍は必要とされず、フランス、スペイン、イタリア、ベルギー、ドイツが傭兵で溢れかえっている中でこの島の防衛は依然として民兵に委ねられていたのである。

国王は常備軍を持たず、結成しようともしなかったので国民との争いを避けるのは賢明なことであったであろう。しかし彼が軽率だったのは、唯一彼を本当に絶対的な存在にすることができる手段を完全に無視したまま、最も攻撃的な形で、彼の前任者の誰もが夢にも思わなかった主張を常に唱えたことである。フィルマー(*ロバート)が後に体系化し、最も暴力的な部類のトーリーや高教会派の象徴となった奇妙な理論(*王権神授説)が初めて注目を集めたのはこの頃である。至高の存在は他の政治形態より世襲の君主制に特別な好意を抱いていること;長男子相続の規則はキリスト教よりもモーゼの律法よりも古い神の制度であること;いかなる人間の力も立法府全体の力も、十世紀にも及ぶ所有権取得の時効も、正当な君主の権利を奪うことはできないこと、そのような君主の権威は必然的に常に専制的であること、イングランドでも他の国でも、法律によって大権が制限されているのは国王が自由に行った譲歩であり、自らの意思で回復できるものに過ぎない;そして王が国民と締結するいかなる条約も王の現在の意図を宣言したものに過ぎず、履行を要求できる契約ではないこと、などが重々しく主張された。この理論は政府の基盤を強化することを目的としているが、その基盤を完全に揺るがすものであることは明らかである。神聖な不変の長男子相続の法は女性を認めるのか、それとも排除するのか。いずれの仮定においてもヨーロッパの君主の半分は神の法に背いて君臨する簒奪者であり、正当な相続者にそれを返すべきである。王政は天からの特別な恩恵を受けているという教義は旧約聖書には見当たらない;旧約聖書には選ばれた人々(*ユダヤ人)が王を望んだために非難され、罰せられたこと、そしてその後、王への忠誠を撤回するように命じられた(*初代王サウル)ことが書かれている。彼らの全歴史は嫡出順の継承が神の定めたものであるという考えを支持するものではなく、むしろ弟たちが天の特別な庇護の下にあることを示しているように思われる。イサクはアブラハムの長男ではなく(*妾腹のイスマイルが先)、ヤコブはイサクの長男ではなく、ユダ(*ユダヤ人の祖)はヤコブの長男ではなく、ダビデはジェシーの長男ではなく、ソロモンはダビデの長男ではなかった。またフィルマーの制度はこの世の政府を神の布告と記述している新約聖書の節からも支持されない:その筆者の上にいたのは世襲制の君主ではなかった。ローマ皇帝は元老院によって任命された共和制の統治者であった。彼らは皆生得の権利によって統治しようとした訳ではなく、;実際キリストが納税を命じたティベリウス(*カエサル)も、パウロが従うことを指示したローマ人ネロも、家父長制の統治論によれば簒奪者ということになる。中世の時代に不可侵の世襲権という教義は異端とみなされていたであろう:なぜならば、それはローマ教会の高貴な僭称と全く相容れないものだったからである。それはイングランド国教会の創設者たちには未知の教義であった。気儘な反抗に関する説教(*Homily on Wilful Rebellion)では権力者への服従を強く、そしてあまりにも強く説いていたが、世襲制と選挙制の君主や、君主制と共和制を区別してはいなかった。実際ジェームズの前任者たちのほとんどは個人的な動機から家父長制の統治論を嫌悪していた。ウィリアム(*Ⅱ世)・ルーファス、ヘンリーⅠ世、スティーブン、ジョン、ヘンリーⅣ世、ヘンリーⅤ世、ヘンリーⅥ世、リチャードⅢ世、ヘンリーⅦ世はいずれも厳格な世襲の規則を無視して統治していたのである。メアリーとエリザベスの正統性には重大な疑問があった。アラゴン家のキャサリンとアン・ブーリンの二人がヘンリーⅧ世と合法的に結婚していたとすることは不可能であった;そして二人ともそうではなかった、と王国の最高権威が断言していた。チューダー家の人々は相続法を神が定めた不変の制度と考えるどころか、常にそれに手を加えていた。ヘンリーⅧ世は自分に遺言で王位を譲る権限を与える議会法を獲得し、実際にスコットランドの王族を不利にする遺言を行った。エドワードⅥ世は議会の許可を得ずに、最も優れた改革派の全面的な支持を得て同様の権限を行使した。エリザベスは自らの王位に重大な異議があることを自覚し、ライバルであり敵でもあるスコットランド女王の復帰権すら認めたくなかったため、君臨する王が王国の諸侯の同意を得て継承権を変更する権限があることを否定する者は裏切り者として死刑に処する、という法律を制定するよう議会を誘導した:しかしジェームズの立場はエリザベスと大きく異なっていた。力や人気ではエリザベスに遠く及ばず、イングランド人からは異国人とみなされ、ヘンリーⅧ世の遺言によって王位から除外されていたが、スコットランド王は征服王ウィリアムとエグバート(*9世紀に初めてイングランドを統一した王)の紛れもない後継者だった。そのため生まれが法律以前の権利を与え、それを法律で変えることはできない、という迷信を植え付けることに彼は明らかに興味を持っていた。またこの考え方は彼の知性と気質によく合っていた。この考え方はすぐに彼の寵愛を受けようとする人々の間で多くの賛同者を得、国教会の聖職者たちの間でも急速に広まっていった。

このように議会や国内で共和主義の精神が強く表れ始めたまさにその時、君主の主張は以前王位に就いていた人々の中で最も高慢で最も恣意的な人々にさえも嫌気を起こさせるような怪物的な形をとったのである。

ジェームズは自分が帝王学と呼ぶものに長けていることを常に自慢していたが、彼がとった方法ほど帝王学のあらゆる規則に真っ向から反した方法は想像すらできない。賢明な支配者の政策は常に強力な行為を大衆的な形で隠すことであった。アウグストゥスやナポレオンはそのようにして絶対的な君主制を確立したのであり、大衆は彼らを一時的な行政官職を与えられた高名な市民としか見ていなかったのである。ジェームズの政策は彼らのそれとは正反対であった。ジェームズは議会に対して彼らの特権は自分がそれを望んでいる間だけのものであり、神の御業が合法的かどうかを彼らが問えないように、自分がすることが合法的かどうかを彼らが問うことはできない、としきりに言って議会を激怒させ、警戒させた。それにもかかわらず彼は彼らの前に屈し、大臣を次々と彼らの復讐に委ね、彼がその強い意志とは正反対の行動をとるよう彼らにうるさく言われることになった。このようにして彼の主張が引き起こした憤りと、彼の譲歩が引き起こした軽蔑は共に大きくなっていった。無価値な手下に自分が注いだ愛情に対して、そして彼らの暴虐と強欲を承認することに対して、彼は常に不満を募らせていた。その臆病さ、子供っぽさ、学者ぶること、見苦しい風采、田舎訛りで彼は嘲笑を浴びた。彼の美徳や業績の中にも明らかに王らしくないものがあった。彼の治世の全期間を通じて、長い間群衆を囲いに入れていた由緒ある組織は徐々にその力を失っていった。この二百年間にイングランドを支配した君主はヘンリーⅥ世(*精神疾患があった)を除いていずれも心が強く、意気揚々としていて、勇気があり、君主らしい風格を持っていた。ほとんどの人物が普通以上の能力を持っていた。王と議会の決定的な戦いの直前に王がどもり、よだれを垂らし、男らしくない涙を流し、抜かれた剣に震え、代わる代わる道化師と教師のように話す姿を世界に晒すというのは決して軽いことではなかった。

一方でエドワードⅥ世の時代(*1471~1483年)からプロテスタントの集団を混乱させていた宗教上の不和はかつてないほど手ごわいものとなっていた。第一世代のピューリタンがクランマーとジュエル(*ジョン)から離れた距離は第三世代のピューリタンがラウド(*ウイリアム)とハモンド(*ヘンリー)から離れた距離に比べれば実に小さいものであった。メアリーの残虐行為の記憶がまだ新しく、ローマ・カトリック党の勢力がまだ不安を煽り、スペインがまだ覇権を握って全世界を支配しようとしていた頃、改革派のすべての宗派は自分たちには強い共通の利益と致命的な共通の敵がいることを知っていた。彼らがお互いに感じていた敵意は彼ら全員がローマに対して感じていた敵意に比べればなまぬるいものであった。国教徒と非国教徒は教皇派に対して非常に厳しい刑罰法規を制定することに心血を注いでいた。しかし半世紀以上に渡って守られてきた国教会に信頼が寄せられ、国民の十分の九が心底プロテスタントになったとき、イングランドが世界各国と和平したとき、外国の武器によって教皇制が国民に押し付けられる恐れがなくなったとき、ボナー(*エドモンド、国教会の創設に尽力した)の前に立っていた最後の告解者たちが亡くなったとき、イングランド国教会の聖職者たちの気持ちに変化が生じた。ローマ・カトリックの教義や規律に対する彼らの敵意はかなり和らいでいた。一方、ピューリタンに対する嫌悪感は日増しに強まっていった。当初からプロテスタントを二分していた論争は和解することが絶望的なものになっていた;そして以前からあった論争にさらに重要な新しい論争が加わった。

イングランド国教会の創設者たちは主教制度を古来の寛大で便利な教会運営法として維持していたが、そのような教会政治の形を神聖なものであるとは宣言していなかった。クランマーが主教職をどれほど低く評価していたかはすでに見たとおりである。エリザベス女王の時代にはジュエル、クーパー、ウィットギフトなどの著名な博士たちが高位聖職者制は無害で有用なものであり、国家が合法的に設置できるものであり、国家によって設置された場合にはすべての市民の尊敬を受ける資格があると擁護した。しかし彼らは主教のいないキリスト教共同体が純粋な教会である可能性を否定しなかった。#6 それどころか彼らは大陸のプロテスタントたちを自分たちと同じ信仰の家族とみなしていた。確かにイングランドのイングランド人には、州務長官や検視官の権威を認める義務があるように、主教の権威を認める義務があった:しかしその義務は純粋に地域的なものであった。イングランドの国教信者はもちろんのこと、イングランドの高位聖職者たちでさえもオランダに行けばオランダの国教を何のためらいもなく遵奉することができた。エリザベスとジェームズの大使は海外ではエリザベスとジェームズがまさに国内で迫害していた礼拝に出席し、立場の弱いイングランド国教徒が反感を買わないように私的礼拝堂をイングランド国教会式に装飾することを慎重に控えていた。(*スコットランドでは1560年にカルヴァン主義の宗教改革が起こったが、ジェームズⅥ世はカルヴァン主義の教義を支持しながらも長老制ではなく監督制を維持しようとした)1582年に全イングランドの大主教たちがイースト・ロージアン(*エジンバラ周辺)の教会会議において、スコットランド教会の称賛すべき形式に従って叙任されたスコットランド人聖職者にカンタベリー地方のどの地域でも説教して聖奠を執り行うことを許可したという文書が残っている。#7 1603年、大主教区会議は当時、監督派の支配や監督派の聖職叙任が知られていなかったスコットランド教会を神聖で普遍的なキリスト教会の支部として厳粛に承認した。#8 長老派の聖職者は公会議で発言する権利があるとさえされた。オランダ連合州の連邦議会がドルトレヒトで聖職者として叙任されていない博士たちの宗教会議を招集したとき、イングランド国教会の長に任命されたイングランド人主教とイングランド人首席司祭がこれらの博士たちと一緒に座り、彼らに説教し、神学の最も重大な問題について彼らとともに票決したのである。#9 それどころか大陸のカルヴァン主義的な形式で聖職に就いた聖職者たちが多くのイングランドの聖職禄つきの任地を持っていた;また主教による再叙任はこのような場合は不必要であると当時は考えられていたし、このことは合法的でさえあった。#10

しかしイングランド国教会にはすでに新しい神学者たちが誕生していた。彼らの考えによれば主教職はキリスト教社会の幸福と宗教の最も厳粛な儀式の効力に不可欠なものであった。この職には人間の力では与えることも奪うこともできない、ある種の高貴で神聖な特権が与えられていた。教会は三位一体の教義や受肉の教義がなければ使徒的使命を持たないのと同じことになりかねない。そしてあらゆる腐敗の中にありながらも使徒的使命を守っていたローマ教会は、神聖な模範に対抗して人間が発明した制度を軽率にも立ち上げた改革派の教会よりも原始の純粋さに近かったのである。

エドワードⅥ世やエリザベスの時代にはイングランド国教会の儀式を擁護する人々は、一般的に、儀式は罪なく用いることができるものであり、したがって行政側から用いることを命じられたときにそれを拒否する者は強情で不誠実な臣民以外ではありえない、と言うことで満足していた。しかし教会の政治に天上の起源を主張する新党派が教会の奉仕に新たな尊厳と重要性を与え始めた。国教会の礼拝に欠点があるとすれば、それは極めて簡素であるということであり、改革派はローマとの戦いの熱気の中で残すべきだった多くの古代の儀式を廃止してしまったことに気がついた。日にちや場所が再び神秘的な崇拝の対象となった。長い間廃れていた一般に迷信的なお祭り騒ぎとみなされていたいくつかの慣習が復活した。プロテスタントの第一世代の怒りを免れた絵画や彫刻は、多くの人には偶像崇拝のように見える、尊重の対象となった。

旧教の制度の中で独身主義に与えられている名誉ほど改革派に嫌われているものはなかった。彼らはこの問題に関するローマの教義は悪魔の教義であると使徒パウロによって予言的に非難されたと考え;この恐るべき告発の正当性を証明するような犯罪やスキャンダルについて多くを語った。ルターは修道女と結婚することで最も明確な方法で自分の意見を表明した。またメアリーⅠ世の時代に火刑に処された著名な司教や神父の中には妻や子供を残した者もいた。しかしイギリス国教会にはかつての修道院精神が復活した;上層部は既婚の司祭に対して偏見を持っていた;プロテスタントを自称する平信徒でさえ、ほとんど誓いにも等しい独身の決意をしていた;それどころか国教会の聖職者が尼僧院を設立し、神に捧げられた処女たちが真夜中に詩篇を詠唱しているという噂が流れ始めた。#11

これだけではない。イングランド国教会の創設者とピューリタンの第一世代がほとんど、あるいは全く意見を異にしていなかった一連の問題が激しい論争の材料となり始めたのである。初期のプロテスタントを分断していた論争はほとんどが教会の統治と儀式に関するものであった。対立する党派間に抽象的な神学上の問題についての深刻な争いはなかった。原罪、信仰、恩寵、運命予定説、神の選びについての聖職位階制度の長の教義は一般にカルヴァン主義と呼ばれているものであった。エリザベス女王の治世の終わり頃、彼女の寵を受けていたウィットギフト大主教はロンドン主教や他の神学者たちと協力してランベス条文という名で知られる有名な文書を作成した。この文書の中ではカルヴァン派の最も驚くべき教義が現代においてカルヴァン派と称される多くの人々に衝撃を与えるような明確さで断言されている。ある聖職者は反対の立場に立ってカルヴァンを酷評したがケンブリッジ大学からその軽率さを指摘され、神による拒否と究極の救いの教義を固く信じていることと、フランスの偉大な改革者についての考察で敬虔な人々に不快感を与えたことに対する後悔を表明して処罰を免れた。フッカー(*リチャード)が主宰していた神学派はクランマー派とラウド派の中間的な位置を占めており;現代ではアルミニウス派がフッカーの盟友であると主張している。しかしフッカーはカルヴァンをフランスが生んだどの神学者にも勝る知恵の持ち主であり、神の真理の知識について何千人もの人々が彼に恩義を受けているが、彼自身は神のみに恩義を受けている人物であると評していた。オランダでアルミニウス派の論争が起こったとき、イングランド政府とイングランド教会はカルヴァン派を強力に支持した。またイングランドの名はグロシウス(*フーゴー)の投獄と(*オルデン)バルネベルトの裁判による殺害によってカルヴァン派が残した汚点から完全に免れることはできない。

しかし、オランダの宗教会議が開催される前から聖公会の聖職者の一部はカルヴァン主義の教会政治とカルヴァン主義の礼拝に特別な敵意を持っており、カルヴァン主義の抽象論を嫌うようになっていた。そしてこの感情はドルトレヒトで流行した党派のひどい不正、横柄さ、残酷さによってごく自然に強められた。アルミニウス派の教義は初期の改革派の教義ほどの厳格な論理性を持たないが神の正義と慈悲に関する一般的な考え方に合致するものであり、急速に広く普及した。その影響はすぐに宮廷にも及んだ。ジェームズの即位の時には聖職者であってもその衣を脱がされる危険を冒さなければ公言することができなかった意見が今や昇進の最高の資格となっていた。当時のある聖職者は田舎の素朴な紳士にアルミニウス派が持っているもの(*教義)を聞かれ、ウィットに富んだ真実の答えとしてイングランドの最高の主教職と首席司祭職をすべて所有していると答えた。

イングランド国教会の聖職者の大多数が一方向、元々いた場所へと退いたのに対し、ピューリタンの大多数は彼らの先達の理念と実践から正反対の方向に退いた。分離主義者が受けた迫害は苛立たせるには十分厳しいものであったが、滅ぼすには十分厳しいものではなかった。彼らは服従させるために飼いならされたのではなく、野蛮さと頑なさへとおびきよせられたのであった。抑圧された宗派の常として彼らは自分たちの復讐心を信心の感情と勘違いし、読書や瞑想によって自分たちの悪事についてじっと考える性質を促進し、自分たちの敵への憎悪を燃え上がらせようとするとき、自分たちは神の敵を憎んでいるだけであると思い込んだ。新約聖書の中にはどんなに不誠実な説明によって曲解されようとも悪意のある情熱に身を任せることを容認するような記述はほとんどなかった。しかし旧約聖書には神に選ばれた民族がその唯一であることの証人となり、その復讐の使いとなり、その特別な命令でなかったなら残虐な犯罪となったであろう多くのことを行うよう、神に特別に命じられた歴史が記されている。このような歴史の中に獰猛で陰鬱な精神が自分たちの望みに合わせて歪められそうなものを多く見出すのは難しいことではなかった。そのため極端なピューリタンは旧約聖書を好むようになった。このことはおそらく彼ら自身さえはっきりとは自覚していなかった;しかし彼らの感情や性質のすべてに現れていた。彼らはイエスの講話やパウロの書簡が私たちに伝わっている言語(*ギリシャ語)には敬意を払わず、ヘブライ語に敬意を払った。彼らは子供たちにキリスト教の聖人ではなくヘブライ人の家長や戦士の洗礼名を授けた。ルターやカルヴァンの明確な宣言に反して、彼らは教会がその原始の頃から主の復活を記念してきた週に一度の祭りをユダヤ教の安息日に変えてしまった。彼らはモーセの律法に法学の原則を求め、士師記や列王記に日常の行動の指針となる先例を求めた。彼らの思考や論議は我々が見習うための模範として記録されたのではない多くの行為に及んでいた。捕虜となった王を切り刻んだ預言者、王妃の血を犬に与えた反乱側の将軍、誓った信仰や東洋のもてなしの法に反して、自分の食卓でもてなしたばかりの天幕の影に眠る味方の逃亡者の脳に釘を打ち込んだ夫人などが君主と主教の圧政に苦しむキリスト教徒の模範として推薦されたのである。道徳と作法はシナゴーグが最悪の状態にあったときのシナゴーグのそれに似たものに従わせられた。厳格な宗派の服装、振る舞い、言葉遣い、学問、娯楽は洗った手と立派な聖句箱を誇りにして、安息日を破る者、酒を飲む者と贖い主を嘲笑したパリサイ人と似ていないとは言えない原理で統制されていた。メイポールに花輪をかけること、友人の健康を祝うために酒を飲むこと、鷹を飛ばすこと、鹿を狩ること、チェスをすること、ラブ・ロック(*男性が編み込んだ長い髪を左胸に垂らす髪型)、(*大きな円い)襟に糊付けすること、ヴァージナル(*小型ハープシコード)を弾くこと、フェアリー・クイーン(*エドモンド・スペンサーの詩)を読むことは罪であった。ルターの自由で楽しい精神にとっては我慢ならないものと、ツヴィングリ(*フルドリッヒ、スイスの宗教改革者)の穏やかで哲学的な知性にとっては屈辱的なものと映ったであろうこのような規則はすべての生活に修道院以上の暗さをもたらした。彼らの成功に少なからず貢献していた偉大な改革者たちの卓越した学問と雄弁に新しいプロテスタントの一派は嫌悪感とまではいかないまでも疑いの目を向けていた。ラテン語の文法の中にマルス、バッカス、アポロの名前が出てくることを理由にそれを教えることをためらう四角四面な者もいた。芸術は禁止されたも同然であった。オルガンの荘厳な響きは迷信的であった。ベン・ジョンソンの仮面劇の軽快な音楽は放埓であった。イングランドの見事な絵画の半分は偶像崇拝的で、残りの半分は低俗なものであった。極端なピューリタンはその歩き方、服装、長く柔らかい髪、気難しく真面目くさった顔、白目をむいていること、鼻声で話すこと、そして何よりもその独特の用語によってすぐに他の人々と見分けがついた。彼らはあらゆる場面で聖書的イメージと文体を用いた。ヘブライ語を手荒に英語に取り入れたり、遠い時代や国の最も大胆な叙情詩から借りてきた比喩をイギリス人の生活に関わる一般的な事柄に当てはめたりするのがこの流行り言葉の最も顕著な特徴であり、それが監督制支持者や宗教的自由主義者の嘲笑を買ったのは理由がないことではない。

このようにして16世紀に始まった政治的・宗教的な分裂は、17世紀の第一四半期を通して常に拡大していった。ホワイトホール(*王宮、1698年焼失)ではトルコ専制主義に傾いた理論が流行していた。共和主義に傾いた理論は庶民院の大部分で支持されていた。各人とも大権に熱心な暴力的監督制支持者と各人とも議会特権に熱心な暴力的ピューリタンは、前の世代にカトリックとプロテスタントの間に存在したものよりも激しい敵意をお互いに対して持っていた。

人々の心がこのような状態にあるときに長年続いた平和が終わり、ついに国は奮闘的努力が必要とされる戦争(*三十年戦争、1618年~)に突入した。この戦争は政体の大きな危機の到来を早めることになった。国王が大規模な軍隊を持つことが必要であった。しかし資金がなければそのような軍隊を持つことはできない。国王は議会の同意なしに合法的に資金を調達することはできない。したがって王は庶民院の意向に従って政府を運営するか、数世紀にわたって犯されたことがなかったような国の基本法の違反を敢行しなければならないことになる。確かにプランタジネット家やチューダー家では収入の不足分を慈善名目や強制的な借金で補うことがあった:しかしこれらの手段は常に一時的なものであった。長期にわたる戦争のための経常的な費用を王国の三身分の同意を得ずに課される経常的な課税で賄うことなど、ヘンリーⅧ世ですら敢えて行わなかったであろう。それゆえ決定的な時が近づいており、イングランド議会はまもなく大陸の各議会と同じ運命をたどるか、あるいは国家の最高権力を得るかのいずれかである、と思われた。

ちょうどそのような時にジェームズ(*Ⅰ世)が崩御した。チャールズⅠ世が王位を継承した。チャールズⅠ世は父よりもはるかに優れた理解力、はるかに強い意志、そしてはるかに鋭敏で堅固な気質を自然から受けていた。彼は父の政治理論を受け継いでおり、それを実践することに父よりもはるかに熱心であった。彼は父と同様、熱心な監督教会派であった。さらに彼は父がかつてそうであったことがなかったほどの熱心なアルミニウス主義者であった、そしてカトリックではなかったがピューリタンよりもカトリックの方が好んでいた。チャールズがなんらかの優れた、あるいは偉大でさえある君主の資質を持っていたことを否定するのは不当であろう。彼は書いたり話したりする際に父親のように教授のごとき正確さを持ってはいなかったが、知的で十分な教育を受けた紳士の流儀に従っていた。文学や芸術の趣味は素晴らしく、振る舞いは優雅ではなかったが威厳があり、家庭生活には汚点がなかった。不実さは彼の惨事の最大の原因であり、彼の記憶における最大の汚点である。実際、彼は暗く曲がった道を好む不治の病に冒されていたのである。大事のない時には十分に敏感であった彼の良心がこの大きな悪徳を咎めることがなかったのは不思議に思えるかもしれない。しかし気質や習慣からだけではなく、根本原理においても彼は不実であったと信じるに足る理由がある。彼は自分が最も尊敬する神学者たちから自分と臣民の間には相互契約の性質を持つものは何もないこと;自分が望んだとしても専制的な権限を放棄することはできないこと;そして自分が行ったすべての約束には必要な場合にはその約束を破ることができるという暗黙の留保があり、その必要性について判断するのは自分唯一人であることを学んだようである。

そして今、イングランド国民の運命を賭けた危険なゲームが始まったのである。庶民院側は鋭敏さ、まったく見事なまでの器用さ、冷静さ、忍耐力をもってこのゲームをプレイした。自分たちのはるか後ろもはるか前も見渡すことのできる偉大な政治家たちがこの議会の先頭に立っていた。彼らは国王を議会の意向に沿って行政を行うか、憲法の最も神聖な原則に対して非道な攻撃を行うかのどちらかを選ばなければならないような状況に追い込むことを決意していた。そのため国王への軍資金の支給は非常に少なくされていた。彼は統治するためには庶民院と和合するか、すべての法律を無視するかのどちらかを選ばなければならないことに気づいた。選択はすぐになされた。彼は最初の議会を解散し、自分の権限で税金を徴収した。彼は二度目の議会を召集したが、それは最初の議会よりも手に負えないものであることに気づいた。彼は再び解散という手段に訴え、合法的な権利を示すことなく新たな税を課し、反対派の頭目を刑務所に入れた。その頃イングランド国民の独特の感情と習慣に耐え難い苦痛を与え、すべての見識のある人々を恐ろしいまでに怒らせた新たな苦情の種が世間一般の不満と警戒心を呼び起こしていた。兵士の一団が人々の間に配置され;そしていくつかの場所では戒厳令が王国の古来の法律に取って代わった。

国王は三度目の議会を召集したが、すぐに反対勢力がこれまで以上に強く激しくなっていることを認識した。そして戦術の変更を決意した。庶民院の要求に毅然とした抵抗で反対するのではなく、多くの激論と多くの言い逃れを経て、忠実に守っていれば一連の長い惨劇を避けることができたことであろう妥協案に合意したのである。国会は十分な軍資金の支給を認めた。国王は「権利の請願」の名で知られるイングランドの二番目の偉大な自由の憲章である有名な法律を最も厳粛な方法で批准した。この法律を批准することで王は二度と両院の同意なしに金銭を奪わないこと、二度と正当な法の手続きをとらずに人を投獄しないこと、そして二度と軍法会議で国民を裁かないことを約束した。

何度も延期された後、この偉大な法律に国王の承認が厳粛に与えられた日は喜びと希望の日であった。吏員が我が国の君主が何世紀にもわたって王国の三身分の願いに同意することを表明してきた古式に則った言葉を発するやいなや、貴族院の後ろに詰めかけた庶民議員たちは大きな喝采を上げた。その喝采は首都の声、国民の声となって響き渡った;しかし三週間も経たないうちにチャールズがその約束を守るつもりがないことが明らかになった。国民の代表が提供した資金は回収された。それを得るための約束が破られたからである。激しい争いが起こった。国王はあらゆる形で不快感を示しつつ議会を解散した。著名な議員の何人かは投獄され;そのうちの一人であるジョン・エリオット卿は何年も苦しんだ後、獄中で亡くなった。

しかしチャールズは戦争を行うのに十分な税金を自分の権限で徴収する危険を冒すことはできなかった。そのため彼は隣国との和平を急ぎ、それ以降はブリテンの政治に全力を注いだ。

ここに新しい時代が始まった。多くのイングランド王はときに違憲行為を行うことがあった:しかし一貫して自らを専制君主とし、議会を無効化することを試みた王はいなかった。それがチャールズのはっきりとした目的であった。1629年3月から1640年4月まで両院は招集されなかった。我々の歴史の中で議会と議会の間に十一年の間隔が空いたことは一度もなかった。ただ一度だけその半分の長さの間隔があっただけである。この事実だけでもチャールズがプランタジネット家やチューダー家の轍を踏んだだけであると言う人々に反論するには十分である。

王の最も熱心な支持者の供述ですら、王の治世のこの時期に権利の請願の条項が時折ではなく、絶えず、組織的に違反されていたこと;歳入の大部分が法的権限なしに徴収されていたこと;政府に不都合な人物が法廷での弁明を許されることなく何年も牢獄で苦しんでいたことを証明している。

こうした事態について歴史は国王自身に最大の責任があると認めざるを得ない。国王は三度目の議会の時から自分の第一大臣(*prime minister)であった。しかし彼の目的に適した気質と才能を持つ何人かの人物が行政のさまざまな部門のトップに就いていた。

トーマス・ウェントワースはウェントワース卿とストラフォード伯爵を歴任した人物で能力、弁舌、勇気に優れていたが冷酷で威圧的な性格の持ち主であり、政治・軍事面で最も信頼されていた相談役であった。彼はかつて反対派の最も優れたメンバーの一人であり、いつの時代でも変節者に特徴的な自分が見捨てた人々に対する独特の悪意を持っていた。彼は最近まで所属していた党派の感情、資源、政策を完全に理解しており、広く深く考え抜かれた計画を立て、庶民院を指揮していた政治家たちの有為な戦術さえもほとんど覆してしまっていた。彼は機密の手紙の中でこの計画に「Thorough」という意味深長な名前をつけていた。彼の目的はリシュリュー(*ルイXⅢ世の下で絶対王政の基礎を築いた宰相)がフランスで行っていたことのすべて、そしてそれ以上のことをイングランドで行うことであり;チャールズを大陸のどの国の君主よりも絶対的な君主とし;全国民の財産と個人の自由を国王の意のままにすることであり;通常の人と人との間の市民的権利の問題に関するものまでものすべての独立した権限を法廷から奪い;そして政府の行為に不平を言ったり、最もきちんとした合法的な方法をとっていたとしてもこれらの行為に対する救済を法廷に求めたりする者を容赦なく厳罰に処すことであった。#12

これが彼の目的であり;この目的を達成するための唯一の方法を明確に理解していた。実際、彼のすべての考えには明確さ、一貫性、正確さがあり、もし彼が自分の国や同胞にとって有害な目的を追求していなかったならば当然高い賞賛を受けていたであろう。彼は自分の広大で不敵な計画を実行に移すための手段が一つだけあると考えていた。その手段とは常備軍である。したがって彼はそのような軍隊の編成にその強い精神のエネルギーをすべて注いだ。彼が総督を務めていたアイルランドでは土着の人々だけでなく、イギリス人入植者に対しても軍事的専制を確立することに成功し、この島では国王は世界中のどの君主よりも絶対的な存在であると自負することができた。#13

一方、教会の運営は主にカンタベリー大主教のウィリアム・ラウドによって行われていた。イングランド国教会の聖職者の中でラウドは宗教改革の理念から最も離れ、ローマに最も接近していた。彼の神学はカルヴァン派の神学からオランダのアルミニウス派のそれよりも離れていた。彼の儀式への情熱、祝祭日や前日の徹夜の祈祷、聖地への敬意、聖職者の結婚に対する隠せない嫌悪感、聖職者が信徒の敬意を受ける権利を主張するための熱烈な、しかし完全に私心がないとは言えない熱意はたとえ彼が目的達成のために合法的で穏やかな手段しか使わなかったとしてもピューリタンにとっては嫌悪の対象となっていたであろう。しかし彼の理解力は狭く;世間との交渉も少なかった。彼は生来、軽率で、苛立ちがちで、自分の尊厳を気にするのが早く、他人の苦しみに共感するのが遅く、迷信的な人間にありがちな自分の気難しさや悪意に満ちた気分を敬虔な熱意の感情と勘違いしてしまう誤りを犯しがちであった。彼の指揮の下、王国は隅々まで常に細かく検閲されていた。分離主義者の小さな集会はすべて探し出され、解散させられた。個人の家庭での信心も、彼のスパイから逃れることはできなかった。彼の苛烈さが煽った恐怖心は、たいていの場合外見上の服従を示すことで偽装されていた教会への致命的な憎しみを無数の胸の中にわだかまらせた。彼自身と彼の教団にとって致命的な問題が発生する前夜、いくつかの大規模な教区の主教たちは、自分たちの管轄内に異端者は一人もいないと彼に報告することができた。#14

法廷は当時の聖俗における専制政治から臣民を保護するものではなかった。国王の意によってその地位を与えられたコモン・ローの判事たちはスキャンダラスなまでに卑屈であった。しかし彼らが卑屈であったとしても二世紀以上の時を経た今でも国民に深く忌み嫌われている、ある種の裁判所に比べれば恣意的な権力の手段として便利でも効率的でもなかった。これらの裁判所の中で権力と悪名の最たるものは星室裁判所と高等宗務裁判所であり、前者は政治的審問、後者は宗教的審問のための機関であった。どちらも古来のイングランドの憲法にはなかったものである。チューダー家は星室裁判所を作り変え、高等宗務裁判所を創設した。チャールズの即位以前にこれらの機関が持っていた権力は広大で恐るべきものであったが、現在彼らが横領している権力に比べれば実に小さなものであった。主に大主教の暴力的な精神に導かれ、議会の統制から解放された彼らはいかなる時代にも見られたことのなかった強欲さ、暴力性、有害なエネルギーを発揮した。政府は彼らの力を借りて罰金、投獄、鞭打ち、身体切断などを自由に行うことができた。ウェントワース議長の下ヨークで開かれた個々の会議は法律に反し、紛れもない大権の力で北部の州に対してほとんど無限の権力を持っていた。これらの法廷はすべてウェストミンスター・ホール(*庶民院)の権威を侮辱し、これに反抗し、最も著名な王党派にも激しく非難されるような越権行為を日々行っていた。クラレンドン(*初代伯爵、エドワード)によると王国には星室裁判所の厳しさと貪欲さを個人的に経験したことのない著名人はほとんどおらず、高等宗務裁判所は王国に味方がほとんどいなくなるほどの行動を取っており、ヨークの会議の暴政によってトレント川の北では大憲章は死文化していたとのことである。

イングランド政府は一つの点を除いて今やフランス政府と同様に専制的であった。しかし、その一点が重要であった。常備軍はまだなかった。したがって専制政治が一日で覆されないという保証はなく;そして軍隊を支援するために王の権限で税金を課せばたちまち抗しがたい爆発が起こる可能性があった。これ、ウェントワースを何よりも悩ませた問題であった。王璽尚書(*王の印璽を管理する役職)のフィンチ(*初代男爵、ジョン)は政府で働いていた他の法律家と協力してある方法を提案し、これは鋭意承認された。イングランドの古の君主たちはスコットランドに近い州の住民に国境防衛のための武装と集結を呼びかけたが、沿海の州にも沿岸防衛のために船の提供を呼びかけたことがあった。ときに船を提供する代わりに金銭を受け取ることもあった。長い時を経てこの古い慣習を復活させるだけでなく、今や拡張することが決定されたのである。かつて君主たちは戦時にのみ船代を徴収していたが;今やまったくの平時にも徴収するようになった。かつて君主たちは最も危険な戦争の時でさえ沿海部でのみ舟代を徴収していたが;今や内陸の州からも徴収している。かつて君主は国の海上防衛のためだけに舟代を徴収していた;今や王党派自身の承認によって取り立てられている。その目的は海軍力を維持することではなく、国王の裁量でいかようにも増額でき、いかなる目的のためにも使用できる資金を国王に提供することであった。

全国民が警戒し、激昂した。バッキンガムシャーの裕福な家柄の良い紳士で周囲からは高く評価されていたが、まだ王国ではほとんど知られていなかったジョン・ハンプデンは前に進み出て政府の全権力に立ち向かい、国王が主張する大権について論争するコストとリスクを自ら背負う勇気を持っていた。この訴訟は財務控訴裁判所の裁判官の前で争われた。王の主張を否定する論拠があまりにも強く、裁判官たちが依存的で主体性がなかったこともあり、ハンプデンに反対する多数派は可能な限り数を減らしていた。しかしまだ多数派として存在していた。法の解釈者(*裁判官)たちは王権によってその大規模で実り多い税を課すことができると宣言した。彼らの判決を正当化するためには、彼らがあえて言及しなかった帰結を直接導く道理がなければならない、とウェントワースは正しく観察していた。議会の同意を得ずに艦隊の支援のための資金を調達することが合法であるなら、議会の同意を得ずに陸軍の支援のための資金を調達することが合法であることを否定するのは容易なことではない。

裁判官の判決は人々の苛立ちを増幅した。一世紀前であればこれほど深刻ではない苛立ちでさえ全体的な蜂起を引き起こしていたことであろう。しかし昔のように不満はすぐに反乱という形をとることはなかった。国民は長い間、着実に富力と文明を前進させてきていた。北部の大伯爵たちがエリザベスに反旗を翻して(*1569年、メアリーⅠ世)から七十年が経過したがその間内戦は一度もなかった。これほど長い間、国内に敵対関係がなかったことはイングランドの歴史上一度もなかった。人々は平和的事業に励むことに慣れていたため、憤りを感じながらも剣を抜くことを長く躊躇していた。

国家の自由が最大の危険に晒された危機であった。政府に反対する人々は自国の運命に絶望し始め;多くの人々が市民的・宗教的自由を享受できる唯一の避難場所としてアメリカの荒野に目を向けた。そこでは自分たちの宗教のために、海の激しさも未開の生活の厳しさも、獰猛な野獣の牙も、より獰猛な人間のトマホークをも恐れない、毅然とした少数のピューリタンが原生林の中に村を作り、それが今や巨大で富裕な都市となっていた、しかしあらゆるものが変化したにもかかわらず創設者に由来する性格の痕跡は残っていた。政府はこの生まれたばかりの植民地を嫌悪し、移民の流れを乱暴に止めようとしたがオールド・イングランドのあらゆる地域から集められた豪胆で神を畏れる者たちによってニュー・イングランドの人口が増大するのを防ぐことはできなかった。そして今やウェントワースは「Thorough」が間近に迫っていることを喜んでいた。彼の大きな計画を遂行するには数年で十分であろう。緊縮財政を監視し、全ての外国との衝突を慎重に回避するならば国王の負債は解消され;大規模な軍隊を支援するための資金を得ることができ;その軍隊はすぐに国民の御し難い精神を打ち砕くことができるであろう。

この危機的状況下で馬鹿げた頑迷さが公務の全体像を一変させた。国王が賢明であったなら南部の支配を固めるまではスコットランドに対して慎重かつ穏健な政策をとっていたであろう。スコットランドは彼の支配下において火花が炎となり、炎が大火事になる危険性が最も高い王国だったからである。エジンバラではウェストミンスターで遭遇したような憲法に即した抵抗を恐れる必要はなかった。北の王国の議会はイングランドの同じ名前の議会とは全く異なるものであった。この議会は不完全に制定されており、よく考え抜かれていなかった;そして彼の前任者たちに重大な制約を与えたことがなかった。三身分が一つの議場に集まっていた。自治都市(*burgh、イングランドでいうborough)の長官は大貴族の家来としか見なされていなかった。いかなる法律も形式は違っても実質的には国王が指名した委員会である文書卿会(*the Lords of Articles)の承認を得なければ導入できなかった。スコットランド議会は従順であった、しかしスコットランドの人々には常に並外れた乱暴さと治めにくさがあった。彼らはジェームズⅠ世(*スコットランド王、イングランド王ジェームズⅠ世=スコットランド王ジェームズⅥ世)を寝室で虐殺し;繰り返し武器をとって集結してジェームズⅡ世に反抗し;ジェームズⅢ世を戦場で殺害し;その不服従でジェームズⅤ世の心を傷つけ;メアリーを退位させて投獄し;その息子を捕虜にした;そして彼らの気性はかつてと同じく手に負えないものであった。その習慣は未開で好戦的なものであった。南の国境に沿って、そして高地と低地の間の境界に沿って、絶え間ない略奪戦が繰り広げられていた。国のあらゆる場所で人々は強い手でその過ちを正すことに慣れていた。いかにスチュアート家に抱いていた忠誠心がどれほどのものであろうとも、それは長い不在の間に冷めてしまっていた。国民の心に対して最高の影響力をもっていたのは二つの階級の造反者、すなわち土地貴族と説教師であった。土地貴族は昔のダグラス家(*スコットランドの名家)がしばしば王家に逆らう際に駆り立てられたのと同じ精神に動かされており、説教師はノックス(*ジョン、スコットランド長老派教会の創設者)の共和主義的持論と不屈の精神を受け継いでいた。住民の民族的感情と宗教感情はともに傷ついていた。あらゆる階層の人々が自分たちの国、つまり最も有能で勇敢なプランタジネット家に対抗して栄光ある独立を守ってきた国が、自国の君主たちの手によって名目はともかく実質的にイングランドの属国になってしまったことに不満を抱いていた。ヨーロッパのどこにもカルヴァン主義の教義と規律が人々の心をこれほどまでに強く捉えていた地域はなかった。ローマ教会は国民の大多数から猛烈ともいえる憎しみをもって見られていた;そして日々ローマ教会に似てきているように見えるイングランド国教会はそれに劣らない嫌悪の対象となっていた。

政府はかねてからイングランド国教会の制度を島全体に広げることを望んでおり、この目的のために長老派の誰にとっても非常に不愉快ないくつかの変更をすでに行っていた。しかし最も危険な改革の一つはまだ試みられていなかった、庶民の感覚に直接作用するためである。教会での神への礼拝は依然として国民が受け入れることのできる方法で行われていた。しかし今やチャールズとラウドはスコットランド人にイングランドの典礼、あるいはむしろそれがイングランドのそれと異なっていようとも、すべての厳格なプロテスタントの判断においては悪い方に異なっている典礼を強要する決心をした。

我が国の自由は単なる節度のない暴政と、犯罪的なまでの無知、あるいはそれ以上に犯罪的なまでの国民感情の蔑視のもとに行われたこの措置に負うところが大きい。初めての外国の儀式の挙行は暴動を引き起こした。この暴動はたちまち革命となった。野心、愛国心、狂信が混じり合って一本の向こう見ずな流れとなった。全国民が武装していた。数年後に見られた通り、イングランドにはスコットランドを抑圧する力が十分にあった;しかしイングランド国民の大部分は反乱者の宗教的感情に共感していた;そして応答頌歌や膝を折ること、祭壇や短白衣に何の抵抗もなかった多くのイングランド人は宮廷の独断的な計画を混乱させ、議会の召集を必要とさせるであろう反乱の進行を喜んで見ていた。

このような結果をもたらした無分別な酔狂の責任はウェントワースにはない。#15 実際、彼の全ての計画は混乱の中へ投げ込まれてしまった。しかし彼の性格上、(*王に)降伏を勧めることはできなかった。剣による反乱の鎮圧が試みられた;しかしその仕事には国王の軍事的手段と軍事的才能は不十分であった。この状況下で法を無視してイングランドに新たな税を課すことは狂気の沙汰であった。議会以外の手段は残されていなかった;そして1640年の春に議会が召集された。

国民は立憲政治が復活し、不満が解消されるという見通しを得て機嫌を直していた。新しい庶民院はエリザベス女王の死後に存在したどの庶民院よりも節度があり、王位に対して敬意を払っていた。この議会の節度ある態度は最も著名な王党派の人々によって高く評価されており、反対派の長たちを少なからず苛立たせ、失望させたようである;しかしチャールズの一貫した悪習は、国民の要望が脅迫的なトーンで表現されるまではその要望に従うことを一切拒否する、という等しく愚かで狭量なものであった。国王は庶民院が十一年間にわたって国が被ってきた不満を論じる姿勢を見せるや否や、あらゆる形で不快感を示して議会を解散させた。

この短い議会が解散してから長期議会という名で知られる記念すべき議会が開催されるまでの数ヶ月間、国民にはかつてないほど厳しい圧迫が加えられたが、国民の精神はかつてないほど怒りに満ちてその圧迫に対抗した。庶民院議員は枢密院から議会活動について質問され、回答を拒否すると牢屋に入れられた。船代はさらに厳しく徴収された。ロンドン市長と州務長官は集金を怠ったなら投獄すると脅された。兵士は強制的に召集された。兵士を支援する資金は彼らの所属する郡から徴収された。常に違法であり、当時の盲従的な裁判官でさえもそのころ違法であると宣言していた拷問がイングランドで最後に行われたのは1610年5月のことであった。

すべては国王のスコットランド人に対する軍事作戦の行方にかかっていた。職業軍人を国民大衆から引き離して指導者に結びつけるような感情は国王の軍隊にはほとんどなかった。彼の軍隊の大部分はそこから彼らが乱暴に連れ去られた耕地を残念がっている、当時国中で流行していた宗教的・政治的感情を吹き込まれた新兵で構成されており、敵よりも彼自身にとって恐るべき存在であった。スコットランド人はイングランドの反対派の頭目に励まされ、イングランド軍の弱い抵抗を受けながらツイード川とタイン川を越えて行軍し、ヨークシャーの境界に陣取った。そして不満の呟きは喧噪へと膨れ上がり、一人を除いた全員の精神を圧倒した。

しかし、ストラフォード(*初代伯爵、トマス・ウェントワース)の方針は依然としてThoroughであった;そしてこの極限状態の中ですら、彼は部下の槍兵に八つ裂きにされそうになるほど残忍で専制的な性質を示した。

しかし国王が自負していた通り、再び庶民院と対決する惨めさから逃れることができる最後の手段があった。貴族院は王にあまり反発していなかった。主教たちは王を慕っており;世俗貴族たちは概して王の統治に不満を持っていたが、彼らは階級として秩序の維持と古い制度の安定に強い関心を持っていたため大規模な改革を求めることはなかった。彼は何世紀にもわたって続けられてきた慣習を離れて貴族(*と主教)だけで構成される大会議(*貴族院)を招集した。しかし彼らは彼が授けようとした憲法違反の職務を引き受けるにはあまりにも慎重であった。金がなく、信望がなく、自らの陣営においてさえ権威がなかったため、彼は必要に迫られて屈服した。議会が召集された;そして選挙において春以降、政府に対する不信と憎悪が恐ろしいまでに進行していることが証明された。

1640年11月、数多くの失敗や不幸にもかかわらず、世界のあらゆる地域で立憲政治の恩恵を受けるすべての人々の敬意と感謝を集めることになる、あの有名な議会が開かれた。

その後の一年間、両院の間にはさほど重要な意見の相違はなかった。十二年近くにわたって聖俗の統治があまりにも抑圧的で違憲状態であったため、概して秩序や権威を重んじる傾向のあった階級でさえ人気のある改革を促進し、専制政治の手先を裁きにかけることを切望していたのである。議会と議会の間に三年以上の間隔を空けてはならず、適切な時期に大印が押された書状が発行されない場合にはそのような書状がなくても選挙管理官が代表者選出のために代議員選出団体を招集することが制定された。星室裁判所、高等宗務裁判、ヨーク会議は一掃された。残忍に手足を切断されて人里離れた地下牢に閉じ込められていた人々は自由を取り戻した。人々は国王の首席大臣たちに容赦なく復讐した。王璽尚書、大主教、統監が弾劾された。フィンチは逃げて助かった。ラウドは塔に投獄された。ストラフォードは私権剥奪法により処刑された。この法律が可決された日、国王はこの法律に同意し、議会の同意なしに現議会を延期させたり、途中終了(*prologue)させたり、解散させたりしないことを進んで自らに課した。

十ヶ月間の熱心な取り組みの後、1641年9月に両院は短い休暇のために休会し;国王はスコットランドを訪問した。国王は教会改革の計画を放棄するだけでなく、監督制度が神の言葉に反していることを宣言する法律を非常に渋々ながら通過させることに同意し、やっとのことでスコットランドを宥めた。

イングランド議会の休会は六週間続いた。議会が再び開かれた日は我々の歴史の中で最も注目すべきエポックの一つである。この日にそれ以来この国を交互に統治してきた二つの大きな政党の組織的な存在が始まったのである。ある意味では実際にこのとき明らかになった区別は常に存在していたはずのものであり、また常に存在するはずのものでもある。なぜならこの区別は気質、理解力、利益の違いに由来するものであり、すべての社会に見られるものであり、人間の心が習慣の力と新しさの力によって相反する方向に引き込まれなくなるまでは見られるであろうものだからである。政治だけでなく文学、芸術、科学、外科学、機械学、航海、農業、それどころか数学にさえも我々はこの区別を発見する。何でも古くからあるものには愛着を持ち、圧倒的な根拠によって革新が有益であることに納得させられたとしても、多くの不安と悪い予感を抱えながらそれに同意する部類の人々がどこにでも存在する。一方、楽観的希望を持ち、大胆に推測し、常に前進を続け、既存のものの不完全さを見極めるのが早く、改良に伴うリスクや不便さを軽く考え、あらゆる変化を改良と賞賛する傾向のある別の部類の人々もまたどこにでも見られる。この二つの部類の人々の感情には是認すべきものがある。しかしその両方の最良の標本が見つかるのは社会一般の辺境に近い場所あろう。一方の極端な層は偏屈な耄碌爺から;他方の極端な層は浅薄で無頼な経験主義者から成っている。

我々の最も初期の議会に旧守を求める議員と改革を求める議員がいたことは間違いない。しかし議会の会期が短い間はこれらの組織が明確かつ恒久的な形をとったことはなく、はっきりとしたリーダーの下に隊列を組んだり、名前、バッジ、標語によって区別したりはしたことはなかった。長年にわたる無法な抑圧によって沸き起こった憤りが非常に強く全般的なものであったため、長期議会の最初の数ヶ月間、庶民院は一体となって行動していた。罵倒に次ぐ罵倒は反駁されることもなく消えていった。代表者たちの中に星室裁判所や高等宗務裁判所の存続を望む少数派がいたとしても、彼らは改革派の熱狂と数的優位に圧倒され、成功を見込んで公然と擁護することができない制度を密かに惜しんでいるしかなかった。後日王党派は自分たちと反対派との分離を前倒しにして、国王が議会を解散または途中終了することを制限する法律、三年法、大臣の弾劾、ストラフォードの処刑を後に国王に戦争を仕掛けた党派の仕業とするのが好都合だと考えた。しかしこれほど不誠実な策略はなかった。これらの強力な手段はいずれも後に騎士党(*王党派)の先頭に立っていた者たちが積極的に推進したものであった。共和主義者の中にコレペッパー(*トーマス、王党派)ほどチャールズの長期にわたる失政を厳しく批判した者はいなかった。三年法を支持する最も目覚ましい演説を行ったのはディグビー(*二代目ブリストル伯爵、ジョージ)である。王璽尚書の弾劾を動議したのはフォークランド(*二代目子爵、ルーシャス・ケアリー)である。貴族院の後ろの手摺から統監を厳重に監禁すべきであると要求したのはハイド(*後のクラレンドン伯爵、エドワード)であった。深刻な不和の兆候が見えてきたのはストラフォードの私権を剥奪する法律が提案されてからである。極限の必要性がある場合以外には正当化できないこの法律に対しても庶民院議員のうち反対投票をしたのは六十人程度であった。ハイドが少数派ではなかったこと、フォークランドが多数派に投票しただけでなく、法案に強く賛成したことは確かである。遡及法によって死刑を宣告ことに躊躇する少数の議員でさえ、ストラフォードの性格と行政に対して最大限の嫌悪感を表明する必要があると考えたのであった。

しかし、このような見かけ上の調和の下に大きな分裂が潜んでいた;1641年10月、議会が短い休会期間を経て再び召集されたとき、本質的にはそれ以来名前を変えて公務の指針を巡って争っており、現在も争っている二つの敵対的党派が互いに対峙していることが明らかになった。数年の間、彼らは騎士党と円頂党(*髪型から)と呼ばれていた。後に彼らはトーリーとホィッグと呼ばれるようになった;またこれらの呼び名がそのうち廃れるとも思えない。

これらの有名な派閥のいずれかについて風刺や賛辞を綴ることは難しくないであろう。判断力と素直さに全く欠けていない人であれば自分が属する政党の名声に多くの深い汚点があることを否定しないであろうし、自分が敵対する政党が多くの輝かしい名士、多くの英雄的な行動、国家に対する数多くの偉大な功績を誇るのが正当であることを否定しないであろう。二つの政党はしばしば重大な過ちを犯してきたが、どちらもイングランドにとってかけがえのないものであった、というのが真実である。イングランドの制度において自由と秩序、革新から生じる利点と古来の慣習から生じる利点が他国には類を見ないほどに良く組み合わされているとすれば、この幸福な特徴は権威と古さに熱心な連合体と、自由と進歩に熱心な連合体という、対立する二つの政治家の連合体の激しい闘争と交互の勝利によるものであると考えられる。

イングランドの政治家の二つの大きな派閥の間の相違は、常に原則よりもむしろ程度の違いであったことを覚えておく必要がある。右翼にも左翼にも一定の限界があり、それを超えることはほとんどなかった。一方の少数の熱狂的な人々は我々の法律と参政権のすべてを王の足元に置こうとしていた。一方の少数の熱狂的な人々は終わりのない国内の紛争によって自分たちの愛する共和国の幻影を追い求めることに執着していた。しかし王のために戦った人々の大多数は専制主義を嫌っていた;そして民衆の権利の擁護者の大多数は無政府状態を嫌っていた。17世紀の間に二度、この二つの政党は対立を中断し、共通の大儀のために力を結集した。その最初の連合は世襲君主制を回復した。その二度目の連合は憲法上の自由を回復させた。

また、この二つの政党が国民全体を代表していたことはなく、これらを合わせて国民の過半数を代表したことがないことにも注意が必要である。この二つの政党の間には常に大きな集団があってどちらかに固執することなく、時に不活発な中立を保ち、時にあちらこちらへと振れることがあった。その集団が数年のうちに一方の極みから他方の極みへと移り、また戻ってきたことは一度や二度ではない。時には同じ人間を支持することに飽きたため、時には自らの行き過ぎた行為に失望したため、時には不可能と思われたため、そして失望したために態度を変えてきた。しかしどちらかの方向に全重量が傾いたとき、その重量は常に当分の間、抗しがたいものであった。

対立する二政党が初めてはっきりとした形で現れたとき、両者は拮抗しているように見えた。政府側には貴族や、名称以外は貴族にも劣らない富裕で血筋の良い紳士たちが大多数を占めていた。これらの人々は彼らが支援を命ずることができる臣僕とともに国内において小さな力ではなかった。同じ側に聖職者の大集団、二大学、監督制教会政治と国教会の儀礼に強いこだわりを持つ一般市民がいた。その中の立派な階級の人々は自分たちよりもはるかに気品のない同盟者たちと一緒にいることに気がついた。ピューリタンの禁欲主義は快楽を仕事にしている者、胆力や服装の豪華さ、高等な芸術の趣味を好む者を王の派閥に追いやった。画家や滑稽詩人から、綱渡り芸人や道化師に至るまで、他人の余暇を楽しませることで生活している人々もこうした人々と一緒になった。これらの芸術家たちは、豪華絢爛な専制君主制の下では成功するであろうが、喧し屋(*清教徒)たちの厳格な支配の下では飢えなければならないことをよく知っていた。ローマ・カトリック教徒はある人物に同様の利害関係を持っていた。フランス生まれである王妃は母国の信仰を受け継いでいた。彼女の夫は彼女を強く愛し、少なからず畏敬の念を抱いていたことが知られている。プロテスタントとしての信念を持っていたことは間違いないが、彼が旧教の信仰告白者たちに悪意を持っておらず、そして長老派に渋々与えたよりもはるかに大きな宗教的自由を喜んで与えていたことであろう。もし反対派が優位に立てばエリザベス女王の時代に教皇派に対して制定された血なまぐさい法律が厳しく執行される可能性があった。そのため、ローマ・カトリック教徒には宮廷の主張を支持する最も強い動機があった。彼らは一般的に、臆病で生ぬるいと非難されるほど慎重に行動していた;しかし大変な遠慮深さを守りながらも、彼らが国王の利益はもちろん自分たちの利益をも考慮していたというのは有り得べきことと思われる。彼らが王の味方の中で目を引く存在になったのは王に奉仕するためではなかった。

どちらの政党も自分たちが取りたいと思っている進路に対する強力な論拠を求めていなかった。王党派の最も賢明な人々の意見は次のように要約される:―「大変な乱用があったことは事実である;しかしすでに正された。貴重な権利が侵害されてきたことは事実である;それは事実だが弁明され、新たな保証が巡らされている。すべての前例と憲法の精神を無視して王国の三身分の会議が十一年間中断されていた;しかし今後三年間以上に渡って議会が開かれないことはない、と規定された。星室裁判所、高等宗務裁判所、ヨーク会議は我々を圧迫し、略奪した;しかしこれらの憎むべき法廷は今や存在しない。統監は軍事専制を確立することを目的としていた;しかし彼はその裏切りの報いとして首を取られた。大主教は我々の礼拝を教皇派の儀式で汚し、我々の疑念を教皇派の残酷さで罰した;しかし彼は塔の中で仲間たちの裁きを待っている。王璽尚書はイングランドのすべての人の財産を国王のなすがままにする計画を承認した;しかし彼は罷免され、破滅させられ、外国に避難せざるを得なくなった。専制政治の大臣たちはその罪を償った。暴政の犠牲者はその苦痛を償われた。したがって我々が長い間隔を置いた後で最初に会ったとき、行政全体が乱用の塊であることを発見したとき、正当かつ必要であったその過程を今後さらに継続することは最も賢明ではないであろう。今こそ専制政治への勝利を追求するあまり無政府状態に陥らないよう注意しなければならない。政府の基盤を突き崩すような衝撃を与えずに、最近わが国を苦しめていた悪しき制度を覆すことは我々の力ではできなかった。このような制度が崩壊した今、我々は最近それを打ち壊すことが義務であった体系に急いで突っかい棒をしなければならない。今後は革新の計画に警戒の目を向け、法が公共の利益のために国王に与えたすべての大権を侵害から守ることが我々の知恵となるであろう。

優れたフォークランドをリーダーとする人々はこのような見解を持っていた。他方ではそれに劣らない能力と美徳を備えた人々がイングランド国民の自由が享受している安全は本物ではなく見せかけのものであり、庶民院が警戒を緩めたなら宮廷の恣意的な計画がすぐに再開されるであろう、とそれに劣らない強さで主張していた。真実は―ピム(*ジョン)、ホリス(*初代男爵、デンジル)、ハムデン(*ジョン)の言うように多くの良い法律が可決された:しかしもし良い法律が王を抑制するのに十分であれば、その臣民が統治に不満を抱く理由はほとんどなかったであろう。最近の法律は大憲章や権利の請願よりも権威がないことは確かである。しかし4世紀にわたる崇拝によって神聖化された大憲章も、熟慮の上チャールズ自身が価値ある検討を行って承認した権利の請願も国民の保護には効果がないことがわかった。ひとたび恐怖の抑制手段が取り除かれ、ひとたび抵抗の精神が眠ってしまえばイングランドの自由を守るためのすべての手段はただ一つのもの、国王の言葉に集約されてしまう;そして国王の言葉が信用できないことは長く厳しい経験によって証明されていた。

両派が警戒心を持って敵対し、まだその力を測りかねていた頃、両者の感情を煽り、その意見を固めさせるようなニュースが届いた。ジェームズが即位した頃、長い闘争の末に王権に服従していたアルスターの族長たちは従属の屈辱を長くは我慢できなかった。彼らはイングランド政府に対して陰謀を企て、反逆罪で私権を剥奪されていた。彼らの広大な領地は王室に没収され、すぐに何千人ものイングランド人やスコットランド人の移民が住むようになった。新しい入植者たちは文化や知性の面で先住民よりもはるかに優れており、時にその優位性を悪用することもあった。民族の違いからくる反感は宗教の違いによってさらに大きくなった。しかしウェントワースの鉄の支配下ではそうした不平はほとんど聞かれなかった;しかしその強い圧力が消え去り、スコットランドが抵抗の成功例を示し、イングランドが内輪もめに気を取られているときにアイルランド人の抑え込まれていた怒りは恐ろしい暴力行為にまで発展した。土着の住民が突然入植者に襲いかかってきたのである。民族的、神学的な憎しみが特有の残忍さを生んだ戦争はアルスター(*北アイルランド北部)を荒廃させ、近隣の州にも広がっていった。ダブリン城はほとんど安全とは思えなかった。どの郵便も誇張された暴行の記事をロンドンへ伝えてきたが、誇張されていなくとも同情と恐怖を引き起こすに十分であった。これらの悪い知らせはウェストミンスターに居並んでいた偉大な両党の熱意を最高潮に高めた。王党派はこのような危機に際してはすべての善良なイングランド人およびプロテスタントの第一の義務は国王に加勢することであると主張した。反対派にとっては君主を阻止し、抑制する根拠がこれまで以上に強くなっているように思われた。連邦が危険にさらされているということは信頼するに足る統治者に大きな権限を与える正当な理由であることは間違いない;しかし心底では公共の敵である統治者から権限を奪うための正当な理由でもある。大規模な軍隊を創設することは常に国王の第一の目的であった。今こそ大規模な軍隊を創設しなければならない。何か新しい保証が考え出されない限り、アイルランドの成敗のために徴集された軍がイングランドの自由に対して使われることが懸念されていた。これが全てではない。多くの人の心に確かに不当ではあるが、全く不自然ではない恐ろしい疑念が生じていた。王妃はローマ・カトリックを公言しており、国王は容赦なく迫害してきたピューリタンから本当のプロテスタントとは見なされていなかった;また国王の二枚舌はあまりにも有名で、その臣民が何らかの根拠を示して彼にはできるはずがないと信じる裏切り行為などなかった。アルスターのローマ・カトリック教徒の反乱はホワイトホールで計画された広大な闇の仕事の一部であると囁かれたのは間もなくのことであった。

数週間の前置きを経て1641年11月22日、それ以来現在も国政を巡って争っている両党の間で議会における最初の大きな衝突が起こった。反対派が動議したのは、即位時からのその失政を列挙し、その政策に国民が依然として不信感を持っていることを表明する諫状を庶民院から国王に提出することであった。数ヶ月前には全会一致で悪弊の改善を求めていた議会が今やほぼ同じ勢力の二つの激しく熱心な党派に分かれていた。何時間もの熱い議論の末、諌状はわずか十一票差で可決された。

この闘争の結果は保守派にとって非常に有利なものであった。何らかの大きな無分別がない限り間もなく彼らが庶民院で優位に立つことは疑う余地がなかった。貴族院はすでに彼らのものであった。彼らの成功のために足りないのは国王がすべての振る舞いにおいて法の尊重と臣民への実直な誠意を示すことだけであった。

王の最初の方策はうまくいった。彼はついに制度の全面的な変更が必要であることを悟ったと見えて、賢明にももはや避けられないものについて心を決めていた。彼は庶民院と協調して統治を行う決意を表明し、そのために庶民院が信頼できるであろう才能と人格を持つ人物を自らの諮問会に招集したのである。この人選は間違っていなかった。乱用の是正や悪質な大臣の処罰に貢献したことで知られているフォークランド、ハイド、コールペッパーの三人が国王の秘密の顧問に招かれ、チャールズは下院に影響を与えるいかなる措置をも彼らに諮らずに執らないことを厳粛に約束した。

もしチャールズがこの約束を守っていたなら、すでに進行中であった反発は最もまともな王党派が望んでいたようにすぐに萎んでいたことは間違いない。すでに反対派の暴力的なメンバーは党の運命に絶望し、身の危険を感じ、財産を売ってアメリカに移住しようと話し始めていた。国王の前に開け始めていた明るい展望が突然曇り、彼の人生が暗転し、ついには暴力によって終わらされたのは彼自身の不実と法の軽視のためである。

彼は庶民院が分裂してできた両党を嫌っていたというのが真実のようである;しかしこれは不思議なことではない;両党の中には比率は異なるが自由を愛する心と秩序を愛する心が混ざり合っていたからである。必要に迫られて彼の周りに集められた助言者たちは決して彼自身の心に沿ったものではなかった。彼らは、彼の専制政治を非難し、彼の権力を制限し、彼の手先を罰することに加わっていた。実際のところ彼らは今、厳密に合法的な方法で彼の厳密に合法的な大権を守る準備をしていたが、ウェントワースのThorough計画を復活させるという考えからは恐ろしくて尻込みしたことであろう。したがって国王の見解において彼らはピムやハムデンとは単に扇動的な悪意の度合いが異なるだけの裏切り者であった。

そこで国王は立憲君主派の長たちに彼らの知らないところで重要な措置を執らないと約束した数日後に生涯で最も重大な決意を固め、その決意を彼らに注意深く隠し、彼らが不面目と狼狽に打ちひしがれるような方法で実行したのである。ピム、ホリス、ハムデン、その他の庶民院議員を貴族院の法廷で大逆罪で弾劾するために法務長官を派遣したのである。彼は大憲章と何世紀にもわたって継続されてきた慣習への紛れもない冒涜に飽き足りず、自ら武装した者たちを伴って、議会の壁の中へと反対派のリーダーたちを捕らえに行った。

この試みは失敗に終わった。告発された議員たちはチャールズが議場に入る少し前に議場を出ていた。議会と国の両方で突然の激しい反発感情が巻き起こった。この時の国王の行動についての最も好意的な見方はその最も偏った代弁者たちの、国王は妻や廷臣たちの悪知恵によって甚だしく軽率な行動に走ってしまった、というものである。しかし一般的には大きな声が彼をはるかに重い罪で告発していた。彼の悪政によって長い間疎遠になっていた国民が信頼と愛情を抱いて彼のもとに戻ってきたまさにその瞬間に、彼は国民の最も大切な権利、議会の特権、陪審員による裁判の原理そのものに致命的な一撃を加えたのであった。彼は自分の恣意的な計画への反対は血によってのみ償なければならない犯罪であると考えていることを明らかにした。彼は大評議会(*マグナム・コンシリウム、両議会の前身のことを指すが15世紀の終わりから開かれていなかった、チャールズは1640年に一度この名前の会合を開いている)や国民だけでなく、自分自身の支持者からの信頼をも失っていた。予期せぬ出来事がなければ、おそらく議長の椅子の周りで血みどろの争いが起こっていたであろうことを彼はやってしまったのである。下院で主に揺れ動いていた人々は自分の権力や人気だけでなく、自分の土地や首までもがこの争いの行方にかかっていると感じていた宮廷に逆らう側の熱意は一瞬にして復活した。この暴挙に続く一夜のうちに全ロンドンは武装した。数時間後には首都に通じる道路は、議会派のバッジを帽子につけ、ウェストミンスターへと激しく馬に拍車をかける大勢の自由民で埋め尽くされていた。庶民院では反対派は一気に抵抗不能なものとなり、二倍以上の差をつけて前代未聞の暴力的な決議案を可決した。民兵の強力な部隊が定期的に補充されながらウェストミンスター・ホールを見張っていた。王宮の門は毎日のように怒り狂った群衆に包囲されており、その嘲りと呪いの声は謁見の間までも聞こえ、王室の使用人は彼らが王宮に入って来るのを止めることができなかった。もしチャールズがこの嵐の首都に長く留まっていたなら庶民院議員たちは外見上の敬意を払った上で、彼を国事犯とする口実を見つけていたというのはありそうことである。

彼はロンドンを離れ、恐ろしくも忘れがたい決着の日が来るまで、二度と戻ることはなかった。何ヶ月もかかった交渉が始まった。争う党派の間で告発と逆非難の言葉が行き交った。すべての和解が不可能となった。常習的な背信行為に待っている確かな罰がついに王を捕らえたのである。彼が今、王の言葉であることを担保として自分の誓いが真実であることを天が見るよう祈ったのは無駄なことであった。彼の敵が彼に抱いている不信感は誓いや約束で取り除けるものではなかった。彼が完全に無力であるときにのみ自分たちは安全でいられる、と彼らは確信していた。そこで彼らが求めたのは古来の法律や近年の約束に反したために奪われた大権だけでなく、イングランド王が常に持ちっており、現在まで持ち続けていたその他の大権も放棄することであった。両院の同意なしに大臣を任命したり、貴族を創設したりしてはならない。とりわけ王は記録が残っていないほどの昔から王権に属していた軍事の最高権限を放棄しなければならない。

チャールズが抵抗する手段を持っていたならこのような要求に応じることは考えられなかった。しかし両院がこれ以下の要求をしたなら安全であったとも言い難いであろう。彼らは実に厄介な立場に置かれていた。国民の大多数は世襲の君主制に愛着を持っていた。共和主義的な意見を持つ者はまだ少なく、あえて発言することもなかった。したがって王政を廃止することは不可能であった。しかし国王にいかなる信頼も置けないことは明らかであった。国王が自分たちを滅ぼそうと決意していることを最近の証拠で知った人々にとって国王に新たな権利の請願を提出し、これまで繰り返し受けては破られてきたのと同じような新たな保証を国王から受け取ることで満足するのは不合理であったであろう。彼が王国の古来の憲法を完全に転覆することを防いだものは軍事力の不足に他ならなかった。アイルランドを征服するためには大規模な正規軍を編成する必要があった;そのため彼の祖先が持っていた完全な軍事的権限を彼に残しておくことは単なる狂気の沙汰だったのである。

ある国が当時のイングランドのような状況にあって、王位が愛と尊敬をもって迎えられているのにその地位に就いている人物が嫌われ、不信感を抱かれている場合、取るべき道は明らかであろう。王位の尊厳は守られるである:その人物は廃位されるべきである。我々の祖先は1399年と1689年にこのように行動した。もし1642年にリチャードⅡ世の退位時にランカスター家のヘンリーが、またジェームズⅡ世の退位時にオレンジ家のウィリアムが占めていたような地位を占める人物がいたとしたら、両議会は王朝を変えたかもしれないが、憲法に正式な変更を加えることはなかったであろうと思われる。彼らの選択によって王位に就き、彼らの支持に依存する新しい王は彼らの希望と意見に沿って統治する必要性に迫られたであろう。しかし議会派には王家の血を引く王子はおらず;また議会派には多くの地位の高い人物や優れた能力を持つ人物がいたが、王位の候補者として推薦できるほど抜群に際立った人物はいなかったのである。王が必要であり、新しい王が見つからない以上、チャールズを王位につけておく必要があった。したがって残された道はただ一つ;王位と国王大権を切り離すことであった。

両院がわが国の制度に加えようとしていた変更はそれが法外なものであるように見えたとしても、明確に提示されて降伏条項として理解するなら、実際には次の世代において革命の結果としてもたらされた変更以上のものではなかった。革命によって国王が法律によって大臣を指名する権限を奪われなかったのは事実ある:しかし革命以降、庶民院の意向に反して六ヶ月間政権を維持できた大臣がいなかったのも同様に事実である。国王が依然として貴族をつくる権限と、より重要な剣の権限を持っていることは事実である:しかし革命以来、これらの権限の行使において国王は国民の代表者の信頼を得ている助言者に指導されてきたことも同様に事実である。実際、1642年の円頂党の指導者たちと、その約半世紀後に革命を実現した政治家たちはまったく同じ目的を視野に入れていた。その目的とは国王と議会の間の争いを終結させ、議会が行政の最高権力を握ることであった。革命の政治家たちは、王朝を変えることで間接的にこれを実現した。1642年の円頂党は王朝を変えることができなかったため、その目的のために直接的な方法を取らざるを得なかったのである。

しかし、これまで国王に属していた権限を議会に完全かつ正式に移譲するという反対党の要求が、憲法上の権威の尊重と暴力的な革新への恐れを特徴とする大政党に衝撃を与えたことは不思議ではない。その党は最近、平和的な手段で庶民院の主導権を握ることを期待していた;しかしそのような希望はすべて打ち砕かれた。チャールズの二枚舌は彼の昔からの敵を和解不可能とし、まさにそのとき彼の側につこうとしていた穏健派の人々を離反した人々の中へと追いやり、親友たちをあまりにも残酷に傷つけたため、彼らはしばらく静かな恥辱と鬱憤の内に距離をおいていた。しかし今では立憲王党派は二つの危険のどちらかを選ぶことを余儀なくされていた;そして彼らは王室の地位が低下し、王国の政治が全面的に改造されることを黙認することよりも、自分たちがその過去の行動を非難し、その言葉に信用を置けない君主のもとに集結することの方を自分たちの義務であると考えていた。このような感情によってその美徳と能力に対していつも敬意を払われてきた多くの人々が王の側につくことになった。

1642年8月、ついに剣が抜かれ;そしてすぐに王国のほとんどすべての州で敵対する二つの党派が互いに武装して対峙した。当初戦う両党派のどちらがより恐るべきものであったかを言う事は容易ではない。両議会はロンドンとロンドン周辺の郡、艦隊、テムズ川の航行、そしてほとんどの大きな町と港を支配していた。彼らは王国のほぼすべての軍需物資を自由に利用でき、外国からの輸入品と国内の重要な工業製品の両方に対して関税をかけることができた。国王には大砲や弾薬の供給が不足していた。国王が軍隊の駐屯する地方に課した税金の合計は議会がロンドン市内だけから徴収した金額よりもはるかに少ないものだったと思われる。実際、彼の資金援助は主に裕福な支持者の気前の良さに頼っていた。彼らの多くは彼を助けるために土地を抵当に入れ、宝石を質に入れ、銀の装身具や洗礼の鉢を壊した。しかし個人の自発的な気前の良さはいかに興奮している時でも、否が応でも等しく圧迫を加える厳しく系統的な課税に比べれば乏しい財源であることは、経験によって十分に証明されている。

しかしチャールズにはうまく利用すれば物資や資金の不足を補って余りある利点があり、そのおかげで彼の誤った管理にもかかわらず何ヶ月かの間、戦争で優位に立つことができた。彼の軍隊は当初、議会の軍隊よりもはるかによく戦っていた。確かに両軍とも、ほとんどが戦場を経験したことのない者たちで構成されていた。しかし、その差は大きかった。議会派の隊列は貧窮と怠惰の故に入隊した傭兵で埋め尽くされていた。ハムデンの連隊は最高の連隊の一つとされていた;しかしクロムウェルはハムデンの連隊でさえ、単なる有象無象のバーテンと場違いな給仕どもと評したのである。一方、国王の軍隊は大部分が紳士で構成されていた。気骨があり、熱烈で、死よりも不名誉を恐れることに慣れており、フェンシングや火器の使用、大胆な乗馬、そして戦争の比喩とも呼ばれる男らしい危険なスポーツに慣れていたのである。このような紳士たちはお気に入りの馬に乗り、自らの弟たちや馬丁、猟場番人、漁師などからなる小隊を指揮し、戦場に出た最初の日から小戦闘で自分の役割を立派に果たす資格を持っていた。この勇敢な志願兵たちは正規の兵士の特徴である着実性、迅速な服従、機械のような正確な動きには決して到達していなかった。しかし彼らが最初に直面したのは自分たちと同じように規律のない敵であり、活動性、運動能力、大胆さにおいてはるかに劣っていた。そのためしばらく騎士党はほとんどすべての会戦で成功を収めていた。

議会側は将軍の選択においても不運であった。エセックス伯爵はその地位と財産のゆえに議会派の最も重要なメンバーの一人となっていた。エセックス伯爵は大陸で立派に兵役についたことがあり、開戦時には国内の誰よりも高い軍事的声望を得ていた。しかしすぐに彼が最高司令官の地位には不向きであることが判明した。彼にはエネルギーがなく、創意もなかった。彼がプファルツ戦争(*三十年戦争の方)で学んだ戦術はルパート王子(*ジェームズⅠ世の娘エリザベスとプファルツ選帝侯の息子)のような冒険的な遊撃兵以上の名声を持たない指揮官に奇襲をかけられ当惑させられるという不名誉から彼を救うことはできなかった。

また、エセックスの下で主な任務を担っていた士官たちは、彼に欠けているものを補う力はなかった。この点については議会側が非難されるべきではないであろう。生存する最高齢の人物の記憶の中で陸地で大規模な戦争を行ったことのない国に技量と勇気に信頼が置ける将軍が見つかるはずはなかったのである。そのため、まずは経験のない人物を信頼する必要があった;そして地位や議会で発揮した能力によって優れた人物が優先されるのは当然のことである。しかし、この選択が幸運をもたらした例はほとんどなかった。貴顕や雄弁家が優れた軍人であるとは限らなかった。イングランドで最も偉大な貴族の一人であるスタンフォード伯爵はストラットンで王党派に対して総崩れになった。ナサニエル・ファインズは国事の才能において同時代の誰にも引けをとらなかったが、ブリストルでの臆病な降伏で恥をかいた。実際この情勢において軍の上位の指揮権を引き受けた政治家の中で、政治において彼を高名にした優れた能力と精神の強さを陣中に持ち込んだのはハムデンだけだったようである。

戦争が始まって一年が経過した時点で王党派が明らかに有利になっていた。彼らは西部と北部の両方の郡で勝利していた。王国の第二の都市であるブリストルを議会から奪い取った。いくつもの戦いに勝利し、深刻あるいは屈辱的な敗北は一度もなかった。円頂党の間では逆境が不和と不満を生み始めていた。議会では陰謀や暴動に対する不安が続いていた。国王の軍隊に備えてロンドンを要塞化し、離反した市民を自宅の前で絞首刑にすることが必要であると考えられた。これまでウェストミンスターに留まっていた著名な貴族の何人かは、オックスフォードの宮廷に逃げ込んだ;もしこの時期に騎士党の軍事作戦が賢明で強力な精神によって指揮されていたならばチャールズは間もなくホワイトホールに凱旋していたであろうことは疑う余地もない。

しかし、王は二度と戻って来ることのなかったこの幸運な瞬間を逃してしまった;そして1643年8月、王はグロスターの街の前に布陣した。住民と守備隊はこの都市を戦争が始まって以来、議会支持者たちが見せたことのないほどの決意を持って守っていた。ロンドンの競争心が掻き立てられた。シティの民兵たちは必要とされるところにはどこへでも出動することを志願した。大規模な軍隊がたちまち集められ、西に向かって移動を開始した。グロスターの包囲は解除された:王国のあらゆる地域の王党派は意気消沈し;議会派は息を吹き返し;最近ウェストミンスターからオックスフォードに逃げた変節の貴族たちはオックスフォードからウェストミンスターに急いで戻ってきた。

そして今、病の床にある政治に新しく憂慮すべき症状が現れ始めた。議会派の中には当初から大多数の議員が恐怖で身を縮めるような対象に心を向けている者がいた。これらの人々は宗教的には独立派であった。彼らはキリストのもとではすべてのキリスト教会衆は宗教的な事柄について最高の権限を持っていると考え;地方や国の宗教会議に訴えることは、アーチ裁判所(*カンタベリー管区の地方宗教裁判所)やバチカンに訴えることに劣らず、聖典に基づかないものであると考え、教皇派、高位聖職者制、長老派(*議会派の大勢を占めていた)は一つの大きな背教の三つの形態に過ぎないと考えていたのである。政治面では独立派は当時の言葉を借りれば“根と枝”であり、現代の同種の言葉を借りれば“急進派”であった。彼らは君主の権力を制限するだけでは飽き足らず、古来のイングランドの政治体制の廃墟に共和国を築くことを望んでいた。当初、彼らの数や重みは些細なものであった;しかし彼らは戦争が始まって二年もしないうちに実際のところ国内最大ではなかったが、最強の派閥となったのである。旧議会の指導者の数人は死去し;数人は国民の信頼を失っていた;ピムはプランタジネット家の墓(*ウエストミンスター寺院)の間に王侯のような栄誉と共に葬られた。ハムデンが自らの英雄的な手本によって部下たちにルパートの騎兵隊に立ち向かう勇気を与えようとして倒れてしまったのは、彼らしいことであった。ベッドフォードは大義に忠実ではなかった。ノーサンバーランドは生ぬるいことで知られていた。エセックスとその副官たちは軍事作戦の遂行において活力と能力に欠けていた。このような状況下で熱烈で毅然とした妥協のない独立党が戦陣と庶民院の両方で頭角を現し始めたのである。

その党派の中心人物はオリバー・クロムウェルであった。彼には軍事的な経験がなかったが四十歳を過ぎてから議会軍の任務を引き受けた。軍人になってまもなく、彼はエセックスやエセックスのような人々が経験を積んでも見抜けなかったことを天才的な鋭い一瞥で見抜いた。彼は王党派の力がどこにあるのか、そしてその力を打ち負かすことができるのはどのような手段だけであるかを正確に見抜いた。彼は議会軍を再建する必要があると考えた。彼はまたその目的のための豊富で優秀な人材がいることを知っていた。王の勇敢な戦隊を構成していた人材よりも実際、華やかではないが堅実な人材である。そのためには単なる傭兵ではなく、神を畏れ、公の自由に熱意を持っている、それなりの地位と謹厳な性格を備えた新兵を募集する必要があった。彼はそのような者たちで自分の連隊を埋め尽くし、イングランドではかつてなかったほど厳しい規律を課す一方で彼らの知的・道徳的性質に恐るべき効力を持つ刺激を与えた。

1644年の出来事は彼の能力の高さを十分に証明するものであった。エセックスが指揮を執っていた南部では議会軍は次々と恥ずべき大失敗を繰り返していた;しかし北部ではマーストン・ムーアの勝利が他の場所で失ったものを完全に補った。この勝利は王党派よりもそれまでウェストミンスターで優勢であった党派にとって深刻な打撃となった、長老派が不名誉にも失ったこの日を、クロムウェルのエネルギーと彼に鍛えられた戦士たちの揺るぎない勇気が取り戻したことで悪名高いからである。

こうした出来事が辞退条例(*議員と軍事司令官の兼任の禁止)とニューモデル軍を生み出した。礼儀に叶った口実の下に、あらゆる方法で敬意を示されつつ、エセックスと彼の下で高い地位にあった人々のほとんどが解任された;そして戦争の指揮はまったく異なる手に委ねられた。勇敢な軍人ではあったが理解力に欠け、優柔不断なフェアファックスが名目上の軍の総司令官であった;しかし本当のトップはクロムウェルであった。

クロムウェルは自分の連隊を組織したのと同じ原則に基づいて全軍の組織化を急いだ。この過程が完了するとたちまち戦争の行方が決まった。今や騎士党は彼らに引けを取らない天性の勇気、彼らより強い熱意、そして彼らには全く欠けていた規律に直面しなければならなかった。フェアファックスとクロムウェルの兵士たちはエセックスの兵士たちとは別種の人間であるということがすぐに定評になった。ナスビーで王党派と議会派のニューモデル軍との間の最初の大規模な会戦があった。円頂派の勝利は完全かつ決定的なものであった。矢継ぎ早の勝利がこれに続いた。数ヶ月後には議会は王国全体を完全に掌握していた。チャールズはスコットランド人のもとに逃れた、そして彼らはあまりその国民性が称揚されることにはならないような方法で彼をイングランド臣民に引き渡した。

戦争の行方がまだ定かでない間に議会は大主教を死刑にし、その権限の範囲内で典礼を禁止し、“厳粛な同盟と契約”という名の有名な文書に全ての人々が署名することを要求していた。いわゆる誓約は急速に進んだ。何十万人もの人々が名簿に名前を書き、両手を天に伸ばし、他人がどうあろうとも、教皇派と高位聖職者、異端と分裂を根絶するために努力すること、そして宗教の改革を妨げる者をすべて公開裁判にかけ、当然の処罰をすることを誓ったのである。戦争が終わると革新と復讐の仕事はさらなる熱意とともに押し進められた。王国の教会組織は改造された。旧来の聖職者のほとんどがその禄つき任地から追放された。王への多額の援助ですでに困窮していた王党派には、しばしば破滅的な額の罰金が科せられた。多くの地所が没収された。追放されたキャバリエの多くは莫大な費用をかけて勝利者側の著名なメンバーの保護下に入ることが得策であると考えた。国王、主教、教会に属する大規模な領地は差し押さえられ、授与されるか、競売にかけられた。このような略奪の結果、イングランドの土地の大部分が一気に売りに出された。金銭が乏しく、市場は潤沢で、権利が不確かで、強力な入札者に対する畏れが自由な競争を妨げていたため、しばしば価格は単なる名目的なものとなっていた。このようにして、多くの古くからの名家が姿を消し、その名が聞かれなくなった;そして多くの新しい人々が急速に豊かになっていった。

しかし、このように両院が権力を行使している間に、その権力は突然彼らの手から離れてしまった。制御できない力の存在を招いたためにそれが起こってしまったのである。1647年の夏、騎士党の最後の砦が議会に降伏してから約十二ヶ月後、議会は自陣の兵士たちに降伏せざるを得なくなった。

その後十三年間、イングランドは様々な名前や形の下で実際には剣によって統治されていた。それ以前もそれ以降も、わが国の国家権力が軍事的独裁に服従したことはなかった。

今や国家の最高権力者となった軍隊はそれ以降に我々が見てきたものとは全く異なる軍隊であった。現在、一般の兵士の給料はイングランドの最も低賃金の労働者を除いて転職を誘うようなものではない。士官との間にはほとんど越えられない壁がある。兵役で出世する者の大多数は相応の代償を払っている。イングランドの遠隔地には非常に多くの広大な属国があるため、軍に入隊する者は誰もが何年もの国外生活を送り、何年かをヨーロッパ人の健康と活力にとって好ましくない気候の中で過ごすことになる。長期議会の軍隊は国内勤務のために編成された。一兵卒の給料は一般庶民の給料よりもはるかに高かった;そして知性と勇気を発揮すれば高位司令官になれる可能性もあった。そのため兵士たちは地位や教育において一般の人々よりも優れた人々で構成されていた。これらの人々は冷静で、道徳的で、勤勉で、深く考えることに慣れていたが、貧窮の圧力によってではなく、目新しさや自由を愛することによってでもなく、将校募集の術策によってでもなく、出世や昇進の願望と混ざり合った宗教的・政治的な熱意によって武器を取ったのであった。兵士たちが誇りとしたのは彼らの厳粛な決意に書き留められているように、兵役に就くことを強制されたのでもなく、主に金銭のために入隊したのでもない、ということであった。彼らはイェニチェリ(*オスマントルコの奴隷からつくられた精鋭部隊)ではなく自由人として生まれたイングランド人であり、自らの意思でイングランドの自由と宗教のために命を危険に晒した者たちであり、彼らが救った国の幸福を見守ることが彼らの権利であり義務である、というものであった。

このように組織された部隊はその効率を損なうことなく、他の軍隊に認められたならばすべての規律を破壊することになるいくつかの自由を享受することができるであろう。一般的に兵士たちが自ら政治クラブを結成し、代議員を選出し、国家の重要な問題についての決議を行うならば、たちまちすべての束縛が外れ、軍隊が形成されなくなり、最悪で最も危険な暴徒となるであろう。また、我々の時代にいかなる連隊においても聖書に精通した伍長が倫理観のない大佐を献身に導き、道を踏み外した少佐を諭すような宗教的集会を容認するのは危険なことであろう。しかしクロムウェルが訓練した戦士たちの知性、重厚さ、自制心はその陣営において軍事組織を破壊することなく、政治組織と宗教組織を存在させることを可能としていた。非番の時には民衆扇動家や戦場説教師として名を馳せていた彼らも見張りや訓練、そして戦場では着実さ、秩序の精神、そして迅速な服従において際立っていた。

戦争ではこの奇妙な力は抗しがたいものであった。イングランド人特有の頑強な勇気はクロムウェルの制度によって統制と刺激を同時に受けていた。このように厳しい秩序を維持したリーダーは他にもいた。このように熱い情熱を部下たちに吹き込んだリーダーは他にもいた。しかし最も厳格な規律と最も激しい熱意が結合していたのはクロムウェルの陣営だけであった。彼の軍隊は機械のように正確に勝利に向かって進みながら、十字軍のように最も荒々しい狂信に燃えていた。ニューモデル軍ができてから解散するまでイギリスの島々でも大陸でも、その攻撃に耐えられた敵はいなかった。イングランド、スコットランド、アイルランド、フランドルにおいてピューリタンの戦士たちはしばしば困難に取り囲まれ、時に三倍の敵と戦いながらも打ち勝ってきただけではなく、相手がどのような軍勢であったとしても破壊し、粉砕することを怠らなかった。彼らはついに戦いの日を確実な勝利の日と考えるようになり、軽蔑的な自信とともにヨーロッパの最も有名な大隊に対峙するため行軍したのである。テュレンヌはイギリスの軍勢が戦闘に向けて進んでいくときの恐るべき歓喜の叫びに驚き、クロムウェルの槍兵たちは敵を目の前にして大いに喜ぶのが常であることを知って、これぞ真の兵士の喜びである、と表現した;そして追放された騎士党は数で敵に劣り、味方と分断された自国の旅団がスペインの最も優れた歩兵隊を目の前から一目散に潰走させ、フランスの最も有能な元帥が難攻不落と宣言したばかりの堀の外壁への道を切り開いたのを見て国民的誇りを感じた。

しかしクロムウェルの軍隊の他の軍隊と大きく異なっていた点は、全ての兵卒に浸透していた厳格な道徳観と神への畏れであった。最も熱心な王党派の人々でさえ、この特異な陣営では悪罵は聞かれず、飲酒や賭博も見られず、長い軍政の間、平和的市民の財産と女性の名誉が尊重されていたことを認めている。非道な行為が行われたとしても、それは勝利した軍隊が一般的に犯すような非道な行為とは全く異なる種類のものであった。召使いの少女はレッドコート(*ニューモデル軍の軍服)の粗野な慇懃さに不満を持たなかった。金細工師の店から一オンスの皿も奪われることはなかった。しかしピューリタンの隊列はペラギウス派の談義や聖母子像が描かれた窓に興奮し、それを鎮めるために将校たちは最大限の努力を要した。クロムウェルが最も苦労した点の一つはマスケット隊や竜騎兵隊が当時の言葉で言えば芳しくない説教をする聖職者たちの説教壇に力任せに侵入するのを抑えることであった;またわが国の大聖堂の中にはこれらの厳格な精神が教皇派の痕跡をすべて嫌悪した証左を残しているものがあまりにも多い。

その軍隊にとってもイングランド人を抑えるのは容易なことではなかった。軍隊の暴虐の最初の圧力を感じるやいなや、そうした隷属状態に耐えられない国民は猛烈な闘いを始めた。先の戦争で最も議会に従順であった郡でも反乱が起きた。実際のところ議会自身も昔の敵よりも昔の保護者を憎んでおり、軍を犠牲にしてでもチャールズとの和解を成立させようとしていた。同じ頃スコットランドでは王党派と独立派の教義を嫌悪する大部分の長老派との間で連合が形成されていた。そしてついに嵐が吹き荒れた。ノーフォーク、サフォーク、エセックス、ケント、ウェールズで暴動が起きた。テムズ川の艦隊が突然王家の旗を掲げて海に出て南岸を脅かしたのである。スコットランドの大軍が国境を越えてランカシャーに進軍した。これらの動きは貴族院と庶民院の大多数が密かに合意して企てたのではないかと疑われても仕方がない。

しかし軍隊のくびきはそう簡単には振るい落とせなかった。フェアファックスが首都近郊の暴動を鎮圧している間にオリバーはウェールズの反乱者を敗走させ、その城を廃墟にしてスコットランド軍に向かって進軍した。オリバーの軍勢は侵略者に比べて少なかったが;しかしオリバーには敵を数える習慣がほとんどなかった。スコットランド軍は完全に壊滅した。その後、スコットランドの政府が変わった。国王に敵対する政権がエジンバラで成立し;そしてクロムウェルはかつてなかったほどに兵士たちに愛されつつロンドンへと凱旋した。

そして今や内戦開始時には誰も敢えて言及できなかった、そしてイングランドの古来の法律ばかりか“厳粛な同盟と契約”にさえ矛盾するような計画がはっきりとした形を取り始めた。国を支配する厳格な戦士たちは数ヶ月間、捕らえた王への恐るべき復讐を考えていた。この計画がいつどのようにして始まったのか;将軍から兵士へ、あるいは兵士から将軍へと広がっていったのか;狂信を道具とした政策に起因するのか、それとも向こう見ずな衝動で政策を打ち負かした狂信に起因するのか、という疑問には今日でも完全な自信を持って答えることができない。しかし全体的に見るならリーダーと思われていた人物が実際には従うことを強いられ、この時も、数年後の別の大事件の時も自分の意見と自分の意向を軍の希望のために犠牲にした可能性が高いと思われる。彼が生み出した力は彼自身さえも常にコントロールできるわけではなく;そして通常彼が命令しようとするならば、時に彼の方が従わなければならなかったからである。彼は公に抗議した、自分はこの問題の動議者ではない、最初の一歩は自分の許可なく踏み出された、議会が手出しすることを自分は助言しない、しかし自分には神の御心の現れであると思われるこの大勢に自らの感情を従わせることにする、と。このような宣言は世間一般で言われている彼の偽善の一例とされてきた。しかし彼を偽善者とする人でも、あえて彼を愚か者とは呼ぶことはない。そうであるならば、彼が公然と推奨する危険を冒さなかったその方針を取るよう密かに軍を励ますことで、彼は何らかの目的を果たそうとしていたことを彼らは証明する義務がある。それ相応の敵からはみだりに残酷であるとか、執念深く復讐心が強いとか言われたことのない彼が、単なる悪意のために人生の最も重要な一歩を踏み出したと考えるのはおかしな話である。尊い血を流すことを承諾したとき、自分がやっていることは言い逃れのできない行為であり、王党派だけでなく議会側に立っていた人々の十分の九を悲嘆と恐怖に陥れることになることに気づかなかったとするには、彼はあまりにも賢明すぎる男であった。他の人々がどのような未来像に惑わされていたとしても、彼が夢見ていたのは古代型の共和国でもなければ、聖人たちによる千年王国でもないことは確かである。彼自身が新しい王朝の創始者になることをすでに望んでいたとしても、チャールズⅡ世がチャールズⅠ世よりも手ごわい競争相手であることは明らかだった。チャールズⅠ世が亡くなった時点ですべてのキャバリエの忠誠心は損なわれることなくシャルルⅡ世に移されることになる。チャールズⅠ世は囚われの身であった;しかし チャールズⅡ世は自由の身である。チャールズⅠ世は彼を殺すという考えに身震いする多くの人々にとって疑惑と嫌悪の対象であった:チャールズⅡ世は苦境にある若者や純真さが呼び起こすすべての関心を引くであろう。これほど明白で重要な考察がその時代の最も考え深い政治家の頭から抜け落ちていたというのは信じられないことである。事実はこうであった、クロムウェルは一時、国王と議会との間を取り持って王の名の下に剣の力で混乱した国家を再建しようとしていたのである。兵士たちの御し難い気質と王のどうしようもない二枚舌によって断念せざるを得なくなるまで彼はこの計画に固執していた。陣営の一派はアガグ(*古代ユダヤ王国が捕らえた敵国の王、彼を処刑しなかったため神はサウル王を廃位したとされる)と交渉していた裏切り者の首を取ろうと騒ぎ始めた。謀議が行われた。弾劾の恫喝が大声で叫ばれた。反乱が起きたが、オリバーの精神力と決意をもってしても、なかなか鎮めることができなかった。オリバーは厳しさと優しさを懸命に組み合わせて秩序を取り戻すことに成功したが、墜ちた暴君を自分たちの敵、そして自分たちの神の敵とみなしている戦士たちの怒りに対抗することは最高に困難で危険なことであると考えた。それと同時に国王がこれまで以上に信頼できなくなっていることが明らかになった。チャールズの悪癖はさらに悪化していたのである。実際、それは困難や苦難によって最も強い光が当てられる悪癖であった。狡猾さは弱者の自然な防御手段ある。であれば権力の頂点にあって常に人を欺いていた君主が悲痛や窮迫の中で正直になろうはずもない。チャールズは最も無節操であっただけではなく、最も不運な偽装者であった。これほど多くの不正や虚偽が紛れもない証拠によって明らかになった政治家はいなかった。彼はウェストミンスターの議会を合法的議会として公に認めていたが、同時に諮問会議において秘密の議事録を作成し、その承認が無効であることを宣言していた。彼は外国からの援助を呼び込んで自国民に対抗する考えを公に否定していた;しかし秘密裏にフランス、デンマーク、ロレーヌに援助を求めていた。彼は公に教皇派を雇ったことを否定した;しかし同時に従軍してくれる教皇派をすべて雇うようにという指示を将軍たちに内々に送っていた。彼はオックスフォードで聖奠を受け、教皇派を黙視さえしないことを誓った。彼は妻にイングランドでは教皇派を容認するつもりであることを内密に伝えていた;そしてグラモガン卿にアイルランドでの教皇制の確立を約束する権限を与えた。その後、責任を他人に押しつけて自分の無実を証明しようとした。グラモルガンは王の手による他人に読ませるための叱責や、自分だけが読むべき賛辞を受け取った。彼の最も献身的な味方たちがその詐欺的政策について苦い悲しみと恥ずかしさのため互いに不平を言い合わずにはいられないほど国王の全人格は不誠実に染まってしまっていた。その敗北はその陰謀よりも苦痛ではない、と彼らは言った。彼が捕虜になって以来、勝利した党派の中で彼の媚びや策略の対象にならなかった派閥はなかった;しかし彼が最も不運だったのはクロムウェルに甘言を弄するのと同時に足元を掬おうとした時であった。

クロムウェルは自分の党派における人気、軍隊における人気、自分の偉大さ、それどころか自分の命さえも危険にさらすかどうかを判断しなければならなかったが、いかなる約束をも守ろうとしない君主を救おうと試みても無駄なことだったであろう。多くの葛藤と疑念、そしておそらく多くの祈りを経ないこともなく、決断が下された。チャールズは自らの運命に委ねられた。(*クロムウェルは国王を救うことを諦めた)軍人聖者たち(*The military saints:ローマ皇帝への忠誠を誓う儀式に参加することを拒んで殉教し列聖されたローマ兵士たち)は王国の古来の法律や国民のほぼ全員の感情に反し、国王は自分の血で罪を償うべきである、という決議を行った。王は一時、不幸な先人であるエドワードⅡ世やリチャードⅡ世(*ともにクーデターに遭って獄死)のような死を覚悟していた。しかし彼にはそのような反逆を起こされる危険はなかった。彼に不満を持っていた者たちは真夜中に刺すようなことはしなかった。彼らがそれを行ったのはそれが天下の見世物となり、永遠に記憶に残るようにするためであった。彼らは自分たちが与える恥辱そのものを心底楽しんでいた。イングランドの古来の憲法と世論が王殺しに真っ向から反対していたため、政治的・社会的に完全な革命を起こすことを決意していた一団には王殺しが奇妙に魅力的に映ったのである。彼らの目的を達成するためには、まず政府の機構のあらゆる部分を粉々にする必要があった;そしてこの必要は彼らにとって苦痛ではなくむしろ好ましいものであった。庶民院は国王との和解に向けた決議を行った。兵士たちは力ずくで多数派を排除した。貴族院は国王を裁判にかけるという提案を満場一致で拒否した。この議会は即座に閉鎖された。法に基づくいかなる法廷も正義の泉(*the fountain of justice:王のこと)を裁く役割を担うことはできなかった。革命裁判所が設けられた。裁判所はチャールズを暴君、裏切り者、殺人者、公共の敵であると宣告した;そして彼の首は斬り落とされた、何千人もの観衆の前で、彼自身の宮殿の宴会館の前で。

やがて、この行為を行ったとされる政治的・宗教的な熱狂者たちが罪を犯しただけでなく、過ちを犯したことが明らかになった。彼らはこれまで主にその欠点によって国民に知られていた一人の君主に、人間の賞賛と愛を抗いがたく呼び起こす資質、すなわち勇敢な紳士の気高い精神、悔悛したキリスト教徒の忍耐と柔和さを、大劇場で、すべての国とすべての時代の人々の目の前で披露する機会を与えてしまったのである。それどころか人々はイングランドの自由を攻撃し続けてきた張本人が今やその自由のために殉死したかのように思い込んで復讐さえ企てたのである。この極限状態においても王者の威厳を保ち、不屈の勇気をもって死に立ち向かい、抑圧された民衆の気持ちを代弁し、法に基づかない法廷において弁明することを潔く拒否し、また軍事的暴力から憲法の原理に立ち返ること訴え、庶民院から最も尊敬すべき議員たちが一掃され、貴族院が立法機能を奪われたのはなぜかと問いかけ、すすり泣く聴衆に自分が守っていたものは自身の大義であっただけでなく彼らの大義でもあったのである、と語りかけた囚われの国王ほど民衆の心に強い印象を与えた扇動者はいなかったであろう。彼の長い失政や数え切れないほどの背信行為は忘れ去られた。大多数の臣民の心中で彼の記憶は彼が長年にわたって破壊しようとしていた自由と結びついた;なぜならこれらの自由は彼とともに消滅し、武力によって押さえつけられた共同体の哀しい沈黙の中で、彼の声によってのみ守られていたからである。その日から王政と亡命王家を支持する反動が始まった。この反動は王位がかつての威厳そのままに再び立ち上がるまで止むことはなかった。

しかし最初、国王を殺害した者たちは血の聖餐によって自分たちを密接に結びつけ、同胞の大部分から永遠に決別したことで新たなエネルギーを得たように見えた。イングランドは共和国になったことが宣言された。庶民院は議員を少数に減らされたが名目上は国の最高権力であった。実際には軍隊とその頭目がすべてを支配していた。オリバーは自分の選択をした。彼は兵士たちの心に沿い、ほとんどすべて他の階級の仲間の市民たちの心を傷つけたのである。陣地や要塞の外で彼は党派を持っているとは言えなかった。内戦が勃発したときには互いに対立していた騎士党、円頂党の大部分、イングランド国教会、長老派教会、ローマ・カトリック教会、イングランド、スコットランド、アイルランドなどの勢力がすべて結びついて彼に対抗していたのである;しかし彼の天才と決意は行く手を阻むすべてのものを圧倒して粉砕し、彼はかつてのいかなる正統な王よりも絶対的な国の支配者となり、彼の国は何世代にもわたっていかなる正統な王に支配されていたときよりも恐れられ、尊敬されるようになった。

イングランドではすでに闘争は終わっていた。しかしスチュアート家によって統治されていた他の二つの王国は新しい共和国に敵対していた。独立党はアイルランドのローマ・カトリック教徒とスコットランドの長老派から等しく嫌われていた。かつてチャールズⅠ世に反旗を翻したこれらの国は現在、チャールズⅡ世の王権を認めていた。

しかし、すべてがクロムウェルの活力と能力に屈した。最初のノルマン人入植者が上陸してからの虐殺の5世紀の間にも一度も征服されたことのなかったアイルランドを彼は数ヶ月で征服した。彼はイングランド人とプロテスタントの人口を圧倒的に優位にすることで長い間この島を混乱させていた民族や宗教の対立に終止符を打つことを決意した。この目的のために彼は信奉者たちがイスラエルがカナン人に対して行ったのと同様の戦争を行い、偶像崇拝者を剣の刃で打ち倒す激しい熱狂を欲しいままにさせた。大きな都市を無人とし、何千人もの人々をヨーロッパ大陸に追いやり、何千人もの人々を西インド諸島に送り出し、こうしてできた空白を補うためにサクソン人の血を引くカルヴァン派の多くの入植者を送り込むためである。奇妙なことにこの鉄の支配の下で征服された国は繁栄の様相を見せ始めた。最近まで最初の白人入植者がインディアンと戦っていたコネチカットのように荒れていた地域が数年後にはケント州やノーフォーク州のように姿を変えていた。新しい建物、道路、農園がいたるところに見られた。土地の賃貸料は急速に上昇し;やがてイングランドの地主たちはどの市場においてもアイルランドの産物と競合することに不満を抱き保護法を叫ぶようになった。

長く事実上の共和国大将軍であり、今や名前もその通りとなった勝利の首領はアイルランドからスコットランドへと向かった。そこには若き王(*チャールズⅡ世)がいた。彼は長老派であることを公言し、誓約に署名することを承諾していた;そしてこれらの譲歩の見返りとしてエジンバラを支配していた厳格なピューリタンたちは彼に王位と彼らの検閲と監督の下の厳粛で憂鬱な宮廷を開くことを許可した。この模擬王権は短期間で終わった。クロムウェルは二つの大きな戦いでスコットランドの軍事力を壊滅させた。チャールズは命からがら逃げ出し、辛うじてどうにか父と同じ運命を免れたのであった。古来のスチュアート家の王国は初めて心の底からの服従を強いられた。最強にして最強のプランタジネット家から断固として守られたその独立性の痕跡は何も残らなかった。イングランド議会はスコットランドの法律を作った。イングランドの裁判官がスコットランドで巡回裁判を行った。数多くの政府に対抗してきたあの頑強な教会でさえ、表立って不平のつぶやきを発することはなかった。

これまでのところアイルランドとスコットランドを征服した戦士たちとウェストミンスターの政治家たちの間には少なくとも外見上の和合が見られた:しかし危険が固めた同盟を勝利が解消した。議会は自分たちが軍隊の手先に過ぎないことを忘れていた。軍は以前よりも議会の指示に従おうとしなくなっていた。実際、軽蔑を込めて残部議会と呼ばれていたものを構成していた数人の議員たちに国民の代表者として軍の頭目たちよりも尊重される資格はなかった。この論争はすぐに決定的な問題となった。クロムウェルは庶民院を兵士で埋め尽くした。議長は椅子から引きずり降ろされ、職杖はテーブルから取り除かれ、部屋は片付けられ、ドアには鍵がかけられた。国民は争いの当事者のどちらをも愛しておらず、決して良い気はしなかったが将軍の能力と決意を尊重せざるを得ず、満足してとまでは言えないまでも忍耐強く見守っていた。

国王、貴族院、庶民院が順に打ち負かされ、破壊された;そしてクロムウェルは三者の権力の唯一の継承者と目されていた。しかしそのおかげで彼が絶大な権力を握ることになった軍隊そのものがまだ彼に確かな制限を課していた。この特異な軍隊は大部分が熱心な共和主義者で構成されていた。彼らは祖国を奴隷化する行動において自分たちは祖国を解放しているのである、という誤った信念を持っていた。彼らが崇拝する書物が提供した前例を彼らは頻繁に口にしていた。確かに無知で恩知らずな国民はその救助者に対して不満をつぶやいた。それと同じように別の選ばれた国民も束縛の家から苦しく退屈な道のりを経て、乳と蜜の流れる地へと導いてくれた指導者に対してつぶやいた。しかしそれにもかかわらず指導者はその同胞を救い;また差し出された自由を軽視し、エジプトの肉鍋、搾取者、偶像崇拝に思い焦がれる人々をひどい目に遭わせることを躊躇しなかった。クロムウェルを取り囲んでいた軍人聖者たちの目的は自由で敬虔な共和国の設立であった。その目的のためにはどんなに暴力的で無法な手段を採ることも躊躇わなかった。したがって彼らの援助によってかつてどの国王も布いたことのないような独裁体制を確立することは不可能ではなかった:しかし憲法上の厳格な制約の下ですら、王の名と尊厳を敢えて我が物とするような支配者に対しては彼らの援助は直ちに撤回されたことであろう。

クロムウェルの心情は大きく異なっていた。彼が以前の彼とは変わってしまった;あるいは彼の意見の変化を単なる利己的野心の結果と考えるのは正しくないであろう。長期議会に参加したとき彼は読書による知識や国事の経験をほとんど持たず、政府や聖職者の長い専制に対する怒りとともに田舎の隠れ家から出て来たのである。その後の十三年間、彼は並大抵のものではない政治教育を受けてきた。彼は次々と起こる革命の主役であった。彼は長い間一つの党派の中心人物であり、最後には長となった。彼は軍隊を指揮し、戦いに勝利し、約定を交渉し、王国を征服し、平和にし、統制した。畑と宗教に心を奪われ、彼の暮らしに変化をつける最大の出来事が牛の品評会やハンティンドンでの祈祷会がであった時代と彼の考え方が変わらなかったとしたら、それは実に奇妙なことである。彼はかつて熱心に取り組んでいた革新的な計画はそれ自体の善し悪しにかかわらず国の一般的な感覚に反しており、その計画に固執するなら行く手に待ち受けるのは常に剣を使って抑えなければならない絶え間ないトラブル以外の何物でもないと考えていた。そこで彼は国民の大多数が常に愛して来た、そして今では切望しているあの古来の憲法を本質的に回復させようと考えた。モンク(*アルベマール初代公爵、ジョージ)が後に取った方法(*チャールズⅡ世の戴冠)はクロムウェルには許されていなかった。一つの恐ろしい日の記憶がこの偉大な国王殺害者をスチュアート家から永遠に引き離してしまったのである。残された手段は彼がイングランド古来の王座につき、イングランド古来の政治に則って統治することであった。もし彼がこれを成し遂げることができたなら傷ついた国家の傷をすぐに癒すことが期待できたかも知れない。多くの誠実で目立たない人々がすぐに彼の周りに集まってきたであろう。人物よりも制度に、チャールズⅠ世やチャールズⅡ世よりも王制に愛着を持っていた王党派の人々はたちまちオリバー王の手にキスしたことであろう。今はむっつりと田舎の家に留まり、公務に参加することを拒否している貴族たちも国王の手による令状によって貴族院に召集されたなら喜んで昔の役目を再開したであろう。ノーサンバーランドやベッドフォード、マンチェスターやペンブロークは貴族社会の復活者の前で、王冠と拍車、王笏とオーブ(*十字架の下に置かれた地球を象徴する球体)を運ぶことを誇りに思ったであろう。忠誠心が徐々に人々を新しい王朝に結びつけ;そして王朝の創始者が崩御した場合には王位は一般的な同意を得てその子孫に引き継がれたことであろう。

最も優れた王党派の人々はこれらの見解は正しく、もしクロムウェルが自身の判断に従うことを許されていたならば追放された一族が復帰することはなかったであろうと考えていた。しかし彼の計画は彼があえて怒らせないようにしていた唯一の階級の感情に真っ向から対立するものであった。兵士たちは王の名を嫌っていた。彼らの中には行政が一人の人間の手に委ねられることを嫌がる者もいた。しかし大多数はその権力に抵抗するすべての党派に対抗して待期的に彼らの将軍を共和国の最高行政官(*first magistrate)として支持する気持ちを持っていた:しかし彼が王の称号を名乗ることや、彼の個人的な功績の正当な報酬である地位がその家系に継承されることには同意しなかった。彼に残された方法は軍隊が耐えられる範囲で旧王政の憲法に似た憲法を新しい共和国に与えることだけであった。自分が権力の座に就くことを単なる独りよがりの行動と思われないよう、彼は評議会を招集した。この評議会は一部を彼が頼りにできる人々、そして一部を彼がその反対を安全に無視できるであろう人々から構成されていた。この彼が議会と呼び、民衆が最も目立つメンバーの一人の名前から「ベアボーンズ(*Barebone、やせこけた骨)の議会」とあだ名をつけた会合は、短期間民衆の軽蔑を受けた後、将軍から与えられた権限を将軍に返上したため、彼は自由に統治計画を立てることができるようになった。

彼の計画は最初から古来のイングランド憲法にかなり類似したものであった:しかし数年後、彼はさらに前進した方が安全だと考え、古来の制度のほとんどすべての部分を新たな名前と形式で復元した。王の称号は復活しなかった;しかし王の大権は護国卿に委ねられた。主権者は陛下ではなく、殿下と呼ばれた。彼はウェストミンスター寺院で戴冠して油を注がれることはなく、ウェストミンスター・ホールで国剣を帯び、紫の衣をまとい、豪華な装丁の聖書を贈られて厳粛に即位した。その地位は世襲制ではなかった;しかし彼には後継者を指名することが許されていた;そして彼が息子を指名することを疑う者はいなかった。

庶民院は新しい政治体制に必要なものであった。この庶民院の設立に際して護国卿は同時代の人々に正当に評価されなかった知恵と公共心を示した。古来の代議制の悪弊はまだ後の時代ほど深刻ではなかったものの、先見の明のある人々にはすでに指摘されていた。クロムウェルは百三十年後に(*大)ピット氏が改革を試み、我々の時代になってようやく改革されたのと同じ原理に基づいてこの制度を改革した。小規模な自治区は1832年よりもさらに厳しく権利を剥奪された:そして郡選出議員は大幅に増加した。ごく少数の代表権を持たない町が重要性を増していた。それらの町の中で最も重要だったのはマンチェスター、リーズ、ハリファックスである。これら三つの町に代表者が置かれた。首都の議員数も追加された。その場所に自由保有の土地(*freefold estate永続的権利を持つ地所)があるかどうかにかかわらず、すべての資産家は自分が住んでいる郡において投票権を持つ、という基礎の上に選挙権が置かれた。スコットランド人の数人とアイルランドに移住したイングランド人入植者の数人がブリテン諸島のすべての地域の法律を制定するウェストミンスターの議会に召集された。

貴族院を創設するのはそれよりも容易なことではなかった。民主制は慣習(*prescription)の支えを必要としない。君主制はしばしばその支えなしに成立してきた。しかし貴族の秩序は時間が作ったものである。オリバーは富裕で、評価が高く、これまでの貴族たちと同様に平民に人気がある既存の貴族たちがいることを知っていた。彼がイングランド王として、王国の古い慣習に従って、彼に会いに議会に出頭するよう貴族たちに命じていたなら、間違いなく多くの貴族がその呼びかけに従ったであろう。しかし彼にはそれができなかった;そして彼が著名な一族の長たちに新しい上院の議席を与えようとしたのは空しいことであった。彼らは生得の権利を放棄し、秩序を裏切ることなしに新興の議会の指名を受入れることはできない、と考えたのである。そのため先の騒乱の時代に顕著な活躍をした人物で彼の上院の議席を埋めることが必要となった。これは彼の策略の中で最も不幸なものであり、すべての党派の機嫌を損ねた。平等主義者たちは彼が特権階級を創設したことに腹を立てた。幸運な馬方や靴職人が座っていて、由緒ある貴族たちはほとんど招かれず、招かれた由緒ある貴族たちもほとんど全員が軽蔑的に背を向けた貴族院を、国の歴史上の偉大な人物たちに敬意と好意を抱いていた大衆は遠慮なく嘲笑した。

しかしオリバーの議会がどのように構成されていたかは実際にはあまり重要ではなかった:オリバーは議会の支援なしに、また議会の反対を無視して行政を行う手段を持っていたからである。オリバーの願いは憲法に基づいた統治を行い、剣の支配を法の支配に置き換えることであったようである。しかし王党派と長老派の両方から憎まれていた彼は、絶対的存在にならなければ安全を確保できないことをすぐに悟った。彼の命令で国民が選出した一回目の庶民院は彼の権限に疑問を呈した、そして一本の法律も制定しないまま解散させられた。二回目の庶民院は彼を護国卿と認め、喜んで王にまでしようとしたが、新しい上院を認めることを頑なに拒んだ。彼に議会を解散する以外の道はなかった。「神が」と去り際に彼は声を上げた。「あなた方と私の間を裁かれますように!」(*サムエル記上24章12節May the Lord judge between you and me.)

しかしこのような不和によって護国卿政権のエネルギーが減じることは全くなかった。彼が王の称号を得ることを望まなかった兵士たちは、彼がイングランド王がかつて試みたことのないほどの強力な権力の行使に踏み切ったとき彼を支持した。つまりこの政府は形式的には共和国であるが、実際には専制君主の知恵、節度、寛大さによってのみ調整を受けている専制政治であった。国は軍管区に分割されていた。軍管区は少将の指揮下に置かれていた。反乱的な動きはすぐに鎮圧され、罰せられた。こうした強く、安定的な、そして熟練した手による剣の力によって吹き込まれた恐怖が騎士党と平等主義者の両方の精神を鎮めていた。忠誠心の強い郷紳たちは少しでも成功の見込みがあるならば、古来の政府と古来の王朝のために命を賭ける覚悟がずっとできていると宣言した:しかし彼らの召使いや小作人の先頭に立って百回の戦闘と包囲戦に勝利した旅団の槍に向かって突進するなら罪のない尊い血の狂気じみた浪費になるであろう。王党派も共和派も表立った抵抗に期待が持てないため、闇の暗殺計画を巡らせ始めた:しかし護国卿の知性は高く、警戒は間断がなかった;彼が宮殿の塀の外へ移動するときはいつも信頼できるボディーガードたちの抜き身の剣と胸鎧が、彼を全方向から密に取り囲んでいた。

もし彼が残忍で放埓で強欲な君主であったならば国民は絶望の中に勇気を見出し、軍事的支配からの解放のために激しい努力をしていたかもしれない。しかし国内の不満は深刻なものではあっても、決して大勢の人々に強敵を向こうに回して自分の命や財産、家族の幸せを危険に晒させるようなものではなかった。税はスチュアート家の時代よりも重くなっていたが、近隣の国やイングランドの資源と比べて重いものではなかった。財産は安全であった。新たな秩序を乱そうとさえしなければ騎士党でさえ内乱が周縁に残したものをすべて平和に享受していた。法律が破られるのは護国卿の身と政府の安全に関わる場合に限られていた。民事裁判はこれまでになかったほどの精密さと清廉さで行われた。宗教改革以降のイングランド政府ではこれほどまでに宗教的な迫害が少なかったことはなかった。確かに不幸なローマ・カトリック教徒はキリスト教的博愛の埒外であった。しかし没落したイングランド国教会の聖職者たちは政治に関する説教を慎むことを条件に礼拝を行うことを許されていた。13世紀以来会堂での礼拝を禁止されていたユダヤ人も用心深い商人や狂信的な神学者の強い反対にもかかわらず、ロンドンにシナゴーグを建てることが許された。

また護国卿の対外政策には最も彼を忌み嫌っていた人々でさえも不愛想な称賛を送らずにはいられなかった。騎士党は国の名声をこれほどまでに高めた人物が正当な国王であってほしいと願わずにはいられなかった:そして共和主義者は他でもないこの暴君が国を悪くしたこと、国から自由を奪ったが、少なくともその代わりに栄光を与えことを認めなければならなかった。ヨーロッパの政治においてイングランドは半世紀の間ヴェネツィアやザクセン程度の地位しか占めていなかったが、一気に世界で最も恐るべき大国となり、連合州(*オランダ)に和平条件を提示し、全キリスト教徒への共通の侮辱に対してバルバリー(*アフリカ北岸)の海賊に復讐し、陸と海でスペイン人を打ち負かし、西インド諸島の最高の島の一つを占領し、カレー喪失で傷ついた国の誇りを回復させるフランドルの海岸の要塞を獲得した。イングランドは海の上で最高の地位にあった。プロテスタントの先頭に立っていた。ローマ・カトリックの王国に散在する改革派教会はすべてクロムウェルを後見人と思っていた。ラングドック(*フランス南部)のユグノーやアルプスの小村でアウグスブルク(*1555年の宗教和議)以前からプロテスタントを公言していた羊飼いたちは弾圧を免れた。ただ単に彼の偉大な名前の恐怖がローマ教皇に自ら教皇派の君主たちに人道と節度を説くことを強いたためである。神の民に好意が示されないようであればサンタンジェロ城(*法皇庁のすぐ目の前)でイングランドの銃声が聞かれることになるであろう、という脅し文句は無駄ではなかった。実際のところクロムウェルにとって自分や自民族のためにヨーロッパでの全体的宗教戦争ほど望ましいものはなかったのである。そのような戦争が起こっていたなら彼がプロテスタント軍の指導者になっていたに違いない。イングランドの心は彼と共にあったであろう。彼の勝利はイングランドでは不沈艦隊の撃破以来見られたことのなかったほどの一致した熱狂で歓迎されたことであろう。そして国民一般の声が非難した、その素晴らしい名声に一つの行為が残した汚点を消し去ることができたであろう。しかし彼にとって不運だったのはブリテン諸島の住民を相手にする以外、彼の素晴らしい軍事的才能を発揮する機会がなかったことである。

彼が生きている間その権力は揺るぎなく、その臣民にとって入り混じった嫌悪、賞賛、恐怖の対象であった。彼の政府を愛していた者はほとんどいなかった;しかし最も憎んでいた者ですら、それを憎んでいる以上に恐れていた。もっと悪い政府であったならおそらくそのすべての強さにも関わらず倒されていたことであろう。もしそれがより弱い政府であったならそのすべての美点にも関わらず、確実に倒されていたであろう。しかしそれは人を狂わせるような抑圧を慎むだけの節度を持っていた;そして抑圧によって狂わされた人以外があえて立ち向かうことのないような力とエネルギーを持っていた。

オリバーはその名声にとって幸運な時期に亡くなった、そしてもし彼の人生が長く続いていたならおそらく不名誉と不幸のうちに幕を閉じたであろうとよく断言されるが、根拠のないことである。彼が最後まで兵士たちからは尊敬され、ブリテン諸島の全住民の服従を受け、すべての外国勢力に恐れられていたこと、ロンドンがかつて見たことのないような華々しい葬儀によってイングランドの古来の王たちの間に埋葬されたこと、そして、プリンス・オブ・ウェールズが国王の後を継いできたのと同じ平穏さで息子のリチャードが彼の後を継いだことは確かである。(*1658年9月)

五ヶ月間、リチャード・クロムウェルの政権は非常に平穏かつ順調に推移したため、ヨーロッパ中は彼がしっかりと玉座に座っていると信じていた。実際のところ、彼の立場は父親よりもはるかに有利な面もあった。この若者は敵を作らなかった。彼の手は市民の血に染まっていなかった。騎士党は彼が正直で気の良い紳士であることを認めていた。数と資産に勝る長老派は先の護国卿との間に致命的確執があったが、現在の護国卿を好意的に受け止めていた。長老派は王国の古来の国家組織がより明確な定義と何らかのより強力な公的自由の保護措置とともに復活することを常に望んでいたが、名家の復活を恐れる多くの理由があった。リチャードはこのような政治家たちにとって格好の人物であった。彼の人間性、温厚さ、謙虚さ、能力の凡庸さ、そして自分よりも賢い人々の指導に従う従順さは制限君主制の元首としてふさわしいものであった。

しばらくの間は、父が試みて失敗したことを有能な助言者の指導のもとで彼が成し遂げる可能性が高いと思われた。議会が召集され、令状は昔のように発行された。最近権利を剥奪された小さな自治区は失った特権を取り戻した。マンチェスター、リーズ、ハリファックスは議員を出せなくなり、ヨーク郡は再び二人の騎士に制限された。議会改革の問題に狂的なまでに熱中していた世代にとっては、大きな州や町がこの変化に忍耐強く、あるいは満足して応じていたことが奇妙に思えるかもしれない:その時代の思索的な人々は古来の代議制の悪弊を見抜き、その悪弊が遅かれ早かれ重大な実際の害悪をもたらすであろうと予測していたかもしれないが、実際の害悪はまだ感じられていなかった。一方オリバーの代議制は健全な原則に基づいて構築されたものではあったが人気がなかった。それが生まれた経緯とそれがもたらした効果の両方が人々に偏見を与えていたのである。それは軍事的な暴力から生まれたものであった。紛争ばかりを生んできた。全国民は剣による政治に倦み、法による政治を切望していた。そのため法の厳密な適用によるものであり、剣によって破壊されていた例外や悪習の回復ですら一般には満足とともに受け止められた。

庶民院議員の中には公然の共和派と隠れ王党派からなる強力な反対派がいた:しかし安定多数は新しい王朝の下で国の古来の憲法を復活させる計画に賛成であった。リチャードは厳粛に最高行政官と承認された。庶民院はオリバーの上院とともに執務することに同意しただけでなく、最近の騒乱の中で公の自由の側に立った貴族たちに無条件に上院に参加する権利を認めることを決議した。

ここまで政治家たちの助言を受けてリチャードがとった行動は成功していた。政府のほとんどすべての部分が内戦開始時と同じように構成されていたのである。もしも護国卿と議会が邪魔を受けることなく続けていたなら、後にハノーファー家の下で確立されたのと同様の秩序がクロムウェル家の下でも確立されていたことは間違いない。しかしこの国には護国卿と議会が力を合わせてもかなわない勢力があった。リチャードは兵士たちに対して自分が受け継いだ偉大な名前に由来するもの以外、何の権威も持っていなかった。彼は兵士たちを勝利に導いたことがなかった。武器を持ったこともなかった。彼の経験や習慣はすべて平和的なものであった。また宗教に関する彼の意見や感情は軍人聖者たちの賛成を受けなかった。彼が善人であったことは(*祈りの)深いうめき声や長談義よりも、人間の偉大さの頂点にいるときの謙虚さともの柔らかさ、そして酷い不正や不運のもとでの朗らかな辞任よって十分証明されている:しかし彼は当時どの衛兵室でもよく聞かれた隠語に嫌悪感を覚え、それを常に隠しておく慎重さを持っていなかった。ロンドン近郊に駐留する部隊に大きな影響力を持っていた将校たちは彼の味方ではなかった。彼らは戦場での勇気と振る舞いによって際立っていたが、故人となった指導者に顕著に見られた知恵と市民的勇気を持ち合わせていなかった。彼らの中には正直ではあるが狂信的な独立派や共和派もいた。フリートウッド(*チャールズ)はこの部類の代表者であった。他の人々はオリバーのようになりたいと切望していた。彼の急激な立身、成功と栄光、ホールでの就任式、そしてアビーでの豪華な葬儀は彼らの想像力をかきたてた。彼と同じように生まれ、同じように教育を受けた彼らは、なぜ自分が紫の衣をまとい、国剣を振るうのにふさわしくないのか理解できなかった;そして彼のような忍耐力、警戒心、賢明さ、決断力によってではなく、高望みの凡人に特有の不穏さと優柔不断さによってその荒々しい野心の対象を追いかけていた。こうした偉大なオリジナルの劣化コピーの中で最も目立っていたのがランバート(*ジョン)である。

リチャードが即位したまさにその日に将校たちは新しい主人に対して陰謀を企て始めた。彼と議会との間に存在していた友好的な関係が危機を早めた。警戒と憤りが陣営に広がった。軍隊の宗教的感情と職業的感情の両方が深く傷ついた。独立派が長老派に服従し、剣の徒が口舌の徒に服従したように見えたのである。軍の不満分子と庶民院の少数派の共和主義者の間に連合が形成された。たとえリチャードが父の明晰な判断力と鉄の勇気を受け継いでいたとしてもこの連合に打ち勝つことができたかどうかは疑わしい。彼が持っていたような純朴さと柔和さがこのような状況で必要とされる資質ではなかったことは確かである。彼は無残にも、闘うことなく倒れた。彼は議会を解散させるための道具として軍に利用され、そして小ばかにしたように捨てられた。将校たちは残部議会の追放(*1653年)は違法であったと宣言し、議会にその機能を再開するよう促すことで共和派の同盟者たちを満足させた。以前の議長と以前の議員の定足数が一堂に会し、全国民の嘲笑と呪詛を抑えつけることもできないまま、共和国の最高権力であることを宣言した。同時に最高行政官と貴族院は存在しないことが明確に宣言された。(*1659年5月)

しかしこの状態は長くは続かなかった。長期議会(*1640~1653年、そのうち独立派が議席を独占した1648年以降が残部議会と呼ばれている)が復活したその日に軍との昔の争いも復活した。残部議会は再び自分たちの存在は兵士たちの意のままであることを忘れ、彼らを臣民として扱うようになった。またしても庶民院の扉は軍の暴力によって閉ざされた;そして将校たちが命名した臨時政府が事態の指揮を執ることになった。

一方で大きな危険を感じ、さらに大きな危険が間近に迫っているという強い不安感からついに騎士党と長老派の間に同盟が結ばれることになった。長老派の中にはチャールズⅠ世の死の前からそのような同盟を結ぶことを考えていた者もいたが、リチャード・クロムウェルの死後になって派閥全体が王家の復権を切望するようになったのである。新しい王朝の下で古来の憲法を復活させることができるという合理的な希望はもはやなかった。残された選択肢はただ一つ、スチュアート家か軍隊かであった。追放された一族は大きな過ちを犯した;しかしその過ちを心から償い、逆境の学校で長い間、期待してよいのであれば、有益な訓練を受けてきたのである。チャールズⅡ世はチャールズⅠ世の運命を教訓とするのではないかと思われた。しかしそれはともかく、この国を脅かす危険はそれを回避するためには、いくつかの意見をかなり妥協させ、いくつかのリスクを負わされることになるかもしれないものであった。イングランドは専制政治のあらゆる弊害と無政府主義のあらゆる弊害が一体となった政府の下に、あらゆる種類の政府の中でも最も不快で下劣な政府の下に置かれる可能性が非常に高いと思われた。何であれ、バルバリーの王のように短い間隔で繰り返される軍事革命で権力を握る無能で恥ずべき専制君主の支配の連続よりは好ましかった。ランバートはそれらの支配者の中で一番マシに見えた;しかし、一年以内にランバートはデスボローに、デスボローはハリソンに交代するかもしれない。弱々しい手から別の手へと警棒が移るたび、軍に新たな寄付をするために国民は略奪を受けることになるであろう。長老派が頑なに王党派から離れていれば国は失われる;そして長老派と王党派が力を合わせたとしても国を救えるかどうかは人々にとってとても疑わしかったであろう。その無敵の軍隊の恐怖が島のすべての住民を覆っていた;そして数が規律に対していかに無力であるかを百もの悲惨な戦場で教えられた騎士党は、円頂党よりも完全に屈服していた。

兵士たちが団結している間は不満分子の陰謀や蜂起はすべて無力であった。しかし残部議会の二度目の追放から数日後、王政や自由を愛するすべての人の心を喜ばせる知らせが届いた:長年にわたって一体となって行動し、その間は抵抗不能であると思われていた強大な力がついに分裂してしまったのである。スコットランドの軍隊は共和国に良く貢献し、最高の能力を誇っていた。それは近年の革命には関与しておらず、ドナウ川やユーフラテス川に駐留していたローマ軍団がプラエトリア(*親衛隊、カリグラを暗殺し、賄賂を受け取ってクラウディウスを皇帝に擁立した)が帝国を売りに出したと知ったときに感じたものに似た憤りを持って革命を見ていた。ある連隊がたまたまウェストミンスターの近くに駐屯しているというだけの理由で半年の間にいくつもの政府を作ったり潰したりするというのは耐え難いことであった。もし国家が兵士によって統制されるのが適切なことであるなら、ツイード川の北側でイングランドの優位を維持している兵士たちもロンドン塔を守っている兵士たちと同様の発言権を持っているはずである。スコットランド駐留軍には他の軍隊に比べて狂信者が少なかったようであり;そして将軍のジョージ・モンク自身も狂信者とは正反対の人物だったようである。彼は内戦開始時に国王のために武器を取り、円頂党の捕虜となった後、議会に依頼を受け、聖人を気取ることはほとんどなく、勇気と専門的な技術によって高位指揮官にまで昇進したのである。彼は護国卿にとっても役に立つ奉仕者であり、リチャードの追い落としや長期議会の追放にも同様に静かに同意しており、そしてもし臨時政府が彼に不快感や不安感を与えないようにしていたなら二回目の長期議会の排斥にも同じく静かに同意していたことであろう。というのも彼の性格は慎重で、やや緩慢なところがあり;もっとも素晴らしい成功の聖杯のためにでさえ、確かで程々の利益を危険にさらすことを全く好まなかった。彼を共和国の新しい支配者の攻撃へと駆り立てたのは、彼らを打倒すれば自分が偉大になることができるという期待よりも、彼らに服従したなら自分の身の安全すら確保できないのではないかという不安だったようである。動機が何であれ、彼は自らを抑圧された国家権力(*civil power)の擁護者であると宣言し、臨時政府が簒奪した権限を認めず、七千人の老練な軍人を率いてイングランドに進軍した。

この一歩が全体的な爆発の導火線となった。人々はどこでも税金の支払いを拒否した。シティの徒弟たちが何千人も集まり、自由な議会を求めて騒ぎ立てた。艦隊はテムズ川を遡上し軍の専制政治に反対であることを宣言した。兵士たちはもはや一人の指揮官の下にはなく、派閥に分かれた。各連隊は抑圧された国民の復讐の目印にされることを恐れて別々に和平を結ぶことを急いだ。スコットランド軍を迎え撃つために北上していたランバートは部隊に見捨てられて捕虜となった。十三年の間、国家権力はすべての争いにおいて軍事力に屈しなければならなかった。今や軍事力は国家権力の前に屈服したのである。一般的には嫌われ軽蔑されていたが、それでも国内で唯一の法的な権威を持つ組織である残部議会は二度にわたって不名誉にも追放された議場にまたもや戻ってきた。

その間にもモンクはロンドンに向かって進んでいた。彼が来るところには郷紳たちが集まり、混乱した国に平和と自由を取り戻すために自分の力を使ってほしいと懇願した。将軍は冷血で寡黙、どの党派にもどの宗教にも熱意を示さず、頑なに距離を置いていた。この時点での彼の計画が何だったのか、彼に計画があったのかどうかは疑わしい。彼の最大の目的はできるだけ長く、自分がいくつかの行動指針を自由に選択できるようにしておくことであったようである。実際、彼のように先を見通すことより慎重なことに抜きんでている人物の場合にはこのような方針が一般的である。彼が決心したのはおそらく首都に来て何日か経ってからのことであったであろう。全国民の声は自由議会を求めていた;そして本当に自由な議会であれば、亡命家族を即座に復位させることができるのは間違いない。残部議会と兵士たちは依然としてスチュアート家に敵意を持っていた。しかし残部議会はあまねく嫌われ、軽蔑されていた。兵士たちの力には確かにまだ恐るべきものがあったが、不和によって大幅に減じていた。彼らには頭目がいなかった。彼らは最近、国のあちこちで互いに対立し合っていた。モンクがロンドンに到着するまさにその前日、ストランド(*シティのすぐ西)で騎兵隊と歩兵隊の戦いがあった。長きに渡って団結した軍隊が分裂した国民を抑えつけてきたが、今や国民が団結し軍隊は分裂していたのである。

暫くの間、モンクの隠された本心や不決断にすべての党派は不安に胸を痛めていた。そして、ついに彼は沈黙を破り、自由議会を宣言した。

彼の宣言が知れ渡るやいなや、国中が歓喜に沸いた。彼が現れるたびに何千人もの人々が彼の周りに集まり、彼の名を叫び、祝福した。イングランド中の鐘が歓喜に満ちて鳴り響いた:側溝にエールが流れ(*1814年に工場の事故でロンドンにビールの洪水が起こったことがある);毎晩ロンドンの周囲五マイルの空が無数の焚き火で赤く染まったのである。何年も前に軍隊の手で追放された長老派の庶民院議員たちが席に戻り、ウェストミンスター・ホールやパレス・ヤードを埋め尽くした大群衆から拍手喝采を浴びた。独立派の指導者たちはもはや街頭に顔を出すこともできず、自分の家の中ですら安全とは言えなかった。施政のために仮の規定が作られた:総選挙の令状が発行された;そしてこの記念すべき議会はいろいろあったこの二十年の間に国王に勝利し、自らの使用人に奴隷にされて地位を失い、二度追放され、二度復権するという様々な運命を経験した後、厳粛に自らの解散を宣言したのである。

選挙の結果は国民の気質から予想されていた通りのものであった。新しい庶民院は数人の例外を除いて国王に友好的な人物で構成されていた。長老派が過半数を占めた。

これで王政復古が行われることはほぼ確実になったと思われた;しかしそれが平和的に行われるかどうかというのは心の痛む問いであった。兵士たちは陰鬱で殺伐とした雰囲気に包まれていた。彼らは王という称号を嫌っていた。スチュアートの名も嫌っていた。彼らは長老派を非常に嫌っていたが、高位聖職者はもっと嫌っていた。彼らは長い支配の終わりが近づいていること、そして彼らの目の前に不名誉な労苦と貧困の生活が待っていることを激しい憤りとともに見ていた。自分たちの不運を数人の将軍たちの弱さと他の将軍たちの反逆によるものだと考えていた。最愛のオリバーがいたならば失った栄光を一時間で取り戻してくれたかもしれない。裏切られ、バラバラになり、心を許せる長もいなかったが、彼らはまだ恐るべき存在であった。敵に背中を見せたことのない五万人の兵士の怒りと絶望に相対することは決して容易なことではなかった。モンクや彼と行動を共にした者たちはこの危機が最も危険なものであることをよく理解していた。彼らは不満を持つ戦士たちをなだめ、分断するためにあらゆる手段を講じた。それと同時に紛争に向けての準備も精力的に進められていた。ロンドンに駐留しているスコットランド軍は賄賂や賞賛、約束(*今後の見通し?)に上機嫌であった。裕福な市民はレッドコートに物惜しみせず、最高のワインを惜しみなく振舞ったため、ときに軍人聖者たちがその宗教的、軍事的性格からすると誉められたものではない状態で見かけられたこともあったという。モンクが解散を敢行した御し難い連隊もあった。その間、臨時政府は郷紳や行政官全員の熱心な協力を得て民兵の組織化に最大の尽力をしていた。すべての郡で民兵隊の行軍の準備ができていた;その数は十万二千人を下らなかったと推定される。ハイドパークでは二万人の市民が十分な武器を持って軍装で整列して閲兵を受け、いざというときには自分の店や家庭のために勇敢に戦うという気迫を示していた。艦隊は国民の心とともにあった。不安な、しかし希望のある激動の時代であった。イングランドは解放されるであろう、しかし死に物狂いの血なまぐさい闘争を経なければならない、これまでの長い間、剣によって支配してきた階級は剣によって滅びるであろう(*all they that take the sword shall perish with the sword、マタイの福音書26章52節)、というのが一般的な見解であった。

幸いなことに、衝突の危険は回避された。しかし一度だけ非常に危険な瞬間があった。ランバートが監禁場所を抜け出して仲間に武装を呼びかけたのである。内戦の炎は実際に再燃した;しかし迅速かつ精力的な活動によって燃え広がる間もなく踏み潰された。不運なクロムウェルの模倣者は再び捕虜となった。彼の企てが失敗したことで兵士たちの精神は萎え、彼らは自分たちの運命に静かに身を委ねたのである。

国王の令状なしに招集されたため正確には“大会”と表記される新議会がウェストミンスターで開催された。十一年以上に渡って力づくで排除されていたホールに貴族院議員たちが帰ってきた。両院は即座に国王に母国への帰還を要請した。国王の即位がかつてなかったほどの華やかさで宣言された。雄々しい艦隊がホランド(*オランダの州)からケント州の海岸まで王を護衛した。国王が上陸したとき、ドーバーの崖はそれを見つめる何千もの人々で埋め尽くされており、誰もが嬉し涙を流していた。ロンドンまでの道のりはずっと凱旋パレードであった。ロチェスターからの道のりは全体が屋台や天幕に囲まれ、まるで長々と果てしのないフェアのようであった。至る所に旗が翻り、鐘や音楽が鳴り響き、ワインやエールが川に流れ、平和と法と自由の復活を意味する彼の健康を祝っていた。しかし全体が歓喜する中、ひとつの場所は暗く険悪な様相を呈していた。ブラックヒース(*ロンドン南東約六マイル)には軍隊が君主を歓迎するために整列していた。彼は微笑み、お辞儀をして勿体なくも大佐たちや少佐たちに口づけさせるために手を差し伸べた。しかし、その丁重さはすべて無駄であった。兵士たちの表情は悲しげに沈んでいた;そして、もし彼らが自分の感情に身を任せていたなら、不本意ながら参加していた祝祭の盛大な儀式は悲惨で血なまぐさいものになっていたであろう。しかし彼らの間には協調がなかった。不和と離反によって彼らは自分たちの長やお互いに対する信頼を失っていた。シティ・オブ・ロンドンの陣立てはすべて武装を整えていた。忠実な貴族や郷紳の指揮の下、王を歓迎するために王国の様々な地域から数多くの民兵部隊が集まっていた。その偉大な日は平和裏に幕を閉じた;そして復帰した漂泊者は先祖代々の宮殿に安らかに眠りについた。

 

#1
[なぜなら、この章と次の章では典拠に言及することの必要性ほとんど感じないからである:これらの章では出来事を詳細に説明したり、難解な資料を使用したりしていない;そして私が言及している事実はほとんどの場合、英国史にかなり精通した人であれば、もし知らなかったとしても、少なくともどこでその証拠を探せばよいかがわかるようなものである。後続の章では私の情報源を注意深く示すこととする。]


#2 
[これはハラム氏の憲法史の第一章に見事に挿入されている。]


#3 
[ストライプがガーディナーの手によるものであると信じた非常に興味深い文書を参照。Ecclesiastical Memorials, Book 1., Chap. xvii.]


#4 
[これはクランマー自身の言葉である。Burnet's History of the Reformation,の補遺Part 1 .Book III. No.21. Question 9を参照。] 


#5 
[ピューリタンの歴史家ニールは彼が属する宗派を彼女が冷酷に扱ったことを非難した後、次のように結論づけている。「しかし、これらすべての傷にもかかわらず、エリザベス女王は賢明で政治的な君主として記録に残っている。即位時に巻き込まれた困難から王国を救い、海外では教皇、皇帝、スペイン王、国内ではスコットランド女王とその教皇派の臣民の強力な企てに対してプロテスタントの改革を維持した....。彼女は自身が生きた時代の栄光であり、後世の人々の称賛の的となるであろう。」―History of the Puritans, Part I. Chap. viii.]


#6 
[この問題に関してクーパー主教の言葉は非常に明確で力強い。彼は、1589年に印刷されたマーティン・マープレレートへの回答の中で、「教会の統治形態は神に定められたものではなく;様々な形でつくられたプロテスタントの共同体は自らのキリスト教的自由を正しく利用したに過ぎないこと;また、イギリスの政体が君主制であることから、監督制度はイギリスに特に適していること」を主張している。主教は言う「大きな暗闇の後、この時代に福音が初めて更新されたこれらすべての教会、そして彼らを指導するために神に遣わされた神学者たちが神の霊によって自由、すなわち賢明かつ神意に基づいてその国の状態や国民の気質に最も適していると考えられる現世の政府やその他の外的な秩序を選ぶ自由を回復するよう指示されたことを私は疑わない。それならば他の国が色彩を変えて使っているこの自由をなぜ我々から奪う必要があるのであろうか?したがってわが国の一部の者が、また彼ら自身がどのように考えていようとも最高の知恵と技量を持っているわけではない者が王国全体を支配し、君主と民衆の両方の良心の対価として現状を変更し、多くの賢明で信仰の厚い人々の判断において国の状態に最もふさわしくない、隣国の何者かが考案した計画に自らを縛り付けることは大変な思い上がりであり、大胆な行為であると考える。」]


#7 
[ Strype's Life of Grindal, 第2巻の補遺. No.xvii.] 


#8 
[Canon 55, of 1603.]


#9 
[ジョセフ・ホールは当時ウースターの主席司祭で後にノリッチの主教となったが、委員の一人であった。彼は自叙伝の中で「至らない私があの名誉ある,重厚な,そして尊敬すべき会議の助手の一人に任命された」と述べている。この謙虚さは高教会派の人々にとっては少なからず場違いなものと映るであろう。] 


#10
[聖職者として叙任されていない者が初めて聖職禄を受けることができなくなったのは王政復古後に制定された統一法によるものであった。クラレンドンほどこの法律を熱心に支持した人物はいない。しかし彼は次のように述べている:「これは新しいことである;魂の癒しやその他の教会的な昇進によって聖職禄を持つ者の中にはフランスやオランダ以外では一度も叙任を受けたことがない者が多く、現在も何人かいる;これらの者はローマ教会では常に違法とされてきた新しい叙任を受けなければならず、あるいは議会のこの法律によってローマ教会が最繁栄していた平和な時代に享受していた生活を奪われなければならないのである。」]


#11
[ Peckard's Life of Ferrar; ハンティンドンシャーのリトル・ギッディングのアルミニウス派女子修道院、あるいは先に建立されたアルミニウス派女子修道院と呼ばれる隠棲所、 1641年]


#12
[ウェントワースの書簡は私が本文で述べたことを完全に裏付けるものと思われる。私が到達した結論に導いたすべての文章を書き写すことは不可能であり、ハラム氏がすでに作成したものよりも良い選択をすることは容易ではないであろう。しかしウェントワースがプファルツの問題に関して作成した非常に優れた論文に読者の注意を喚起することはできる。日付は1637年3月31日である。]


#13 
[これはウェントワース自身の言葉である。1634年12月16日付のラウドへの手紙を参照。] 


#14 
[ 1639年のチャールズへの報告書を参照。]


#15
[ 1638年7月30日付のノーサンバーランド伯爵への手紙を参照。]

 

 

 

KEY WORDS:英国史、マコーレー

2021.8.7