ルーデンドルフの「オール・オア・ナッシング」




LUDENDORFF’S ‘ALL— OR NOTHING’

(from THOUGHTS AND ADVENTURES)

BY

WINSTON S. CHURCHILL



ルーデンドルフの「オール・オア・ナッシング」

(THOUGHTS AND ADVENTURESより)

ウインストン・S・チャーチル著

 

 

訳者より:1932年に出版されたエッセイ集、THOUGHTS AND ADVENTURESの一章です。同書は1956年に中野忠雄氏の翻訳で「わが思想・わが冒険」として出版されましたが、この章は紙幅の関係で割愛されたとのことです。

 著作権はチャーチルの死後50年を経た2015年に切れています。
 文中の*は訳者注です。

原文:https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.209945/mode/2up

 

 

ルーデンドルフの「オール・オア・ナッシング」

戦争が始まった後、ドイツが和平を結ぶ唯一のチャンスは1917年の冬であった。それは良いチャンスだった。ロシアは陥落し、ブレスト・リトフスク条約が調印された。強力な「スチームローラー(*ロシア帝国陸軍)」は、溝の中で鉄くずの塊と化していた。中央同盟国は初めて東部戦線に不安を抱かなくなった。ルーデンドルフは100万人の兵士と数千の大砲を西側に移動させることができた。1914年の戦争開始以来、ドイツ軍は初めてイギリス軍とフランス軍を数で上回ることになった。

 米国が参戦してきた。新しい、ほとんど無限の人的資源が連合国側に加わったのである。しかし、アメリカ軍は遠く離れた場所で組織され、訓練され、ぽつぽつと大西洋を渡って一度に数千人ずつ移動しているだけだった。巨大な新戦闘員が戦場に姿を現すまでには間違いなく何カ月もが必要であった。ロシアの奮闘が崩壊してからアメリカの力が最初に効果的に現れるまでの間には、長く致命的な間隙が出来てしまう。この間隙こそが危機なのである。

 米国が参戦してきた。新しい、ほとんど無限の人的資源が連合国側に加わったのである。しかし、アメリカ軍は遠く離れた場所で組織され、訓練され、ぽつぽつと大西洋を渡って一度に数千人ずつ移動しているだけだった。巨大な新戦闘員が戦場に姿を現すまでには間違いなく何カ月もが必要であった。ロシアの奮闘が崩壊してからアメリカの力が最初に効果的に現れるまでの間には、長く致命的な間隙が出来てしまう。この間隙こそが危機なのである。

 1917年4月のニヴェル将軍の攻勢が大損害を出し、続いてフランス軍に反乱が起こったため、その年いっぱいフランスは最も厳しい守勢に立たされていた。英国軍が主な責任を負わなければならなかった。イギリス軍に入代わり立代り必死にドイツ軍の要塞線を攻撃させたものは、フランスの訴えと差し迫ったフランス崩壊の危険に駆り立てられ、さらに海軍本部の黒い悲観主義に駆り立てられたイギリス軍最高司令部の固定観念であった。

 英国本部は、間違って自分たちがドイツ軍の前線を突破できると信じていた、そしてその確信はフランスの一時的な弱体化によって良く補強されていたのである。「我々は突破できることを確信している/しかし、たとえ突破できなくても、現在の状態のフランスの重荷を取り除くために攻撃を続け義務がある。」その結果、4月のアラス、6月のメシネス、秋のパッシェンデールにおいて、よく計画された、果敢で頑強な攻勢が繰り広げられた。これらの攻勢は人命の損失に関係なく続けられ、ついにパッシェンデールの冬の戦いにおいて、フランドルの泥とドイツ軍の機関銃の火力によって、イギリスのフランス派遣軍の精神はほとんど鎮火されてしまった。ドイツの公式発表によれば、「雨は終始ドイツの味方であった。」パッシェンデールの言語に絶するクレーターと沼地の迷宮を越えて最後の絶望的な攻撃が行われたとき、英国軍は「真っ白に染まった(*bled white:搾り取られる)」のである。死傷者は300,000人近かった。戦いが荒れ狂い、破裂弾に攪拌された広大な湿地からいまだに遺体が還って来ない何千人もの兵士たちの名前がメニン記念碑には刻まれている。

 こうして、その年は幕を閉じた。フランス軍はまだ復活しておらず、英国軍は水浸しで、米国軍は孤立していた。一方、ロシアの陥落はドイツ軍最高司令部に西部戦線への巨大な援軍を提供する一方、ドイツ政府が交渉に入ることをとてつもなく容易にした。ヨーロッパ・ロシアはすべてドイツの勢力圏内、あるいは手の届く範囲にあった。ボルシェビキは連合国とのすべての絆を断ち切り/連合国の自国に対する神聖な義務を含む、すべての義務を否認した。今や、誰がロシアのことなど気にかけるだろうか。皇帝は殺人者の手にあり/忠実な将校と軍隊は散り散りになって破壊され/自由主義的で知的な人々は、無駄であったとしてもその義務を果たそうとしたが、虐殺され、逃亡してしまった。ロシアと西側連合国との間のあらゆる結びつきは断ち切られたのである。ドイツ軍は戦場で国を救った/今こそドイツの政治が恐るべき破局に陥った帝国を救い出す番であった。

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(*戦況地図)

 パッシェンデールの砲音が絶え、イギリスの気迫が冬の静けさに凍りついたとき、両陣営のすべての政府は自らの鼓動を数える余裕を持ったのである。毅然としたイギリスでさえも、鼓動が途切れがちだった。戦闘が停止したことで、人々に自分たちの傷を実感する時間ができた―実に深く、ぞっとするような傷を!1918年1月か2月の時点でさえ、ドイツがベルギーの完全返還、ロシアからのドイツの獲得物の提案と結びつけてアルザス・ロレーヌについてのフランスとの和解案を示したなら、十分に交渉の基礎を築くことができたであろう。

しかし、ドイツ参謀本部の第一主計総監ルーデンドルフは、軍事面だけでなく政治面をも支配していた、そしてルーデンドルフには別の考えを持っていた。戦争の現実は皇帝を戦時の単なる職務の一つに引き下げていた。ドイツの政治体制はイギリスやフランスで国家の舵取りをしたような大胆で逞しい人物を議会から輩出するようなものではなかった。ドイツではすべてのものが軍事的見解の犠牲になっていた。あらゆる場面で参謀本部は思うがままに動いていた、そして今、ドイツ帝国の強さであると同時に破滅でもある、この激しくも強大な組織は現実の出来事を導くため、自らを事実上ルーデンドルフの独裁体制に集中させていた。

そして、ここで私たちはこの非凡な人物の本質的特徴を知ることになる。彼は祖国を愛していたが、それ以上に自分の仕事を愛していた。彼の仕事は何としても勝利を得ることであって/もし敗北が確実になったなら、使い果たされていない資源も、試みられていない機会も、燃やされていない背後の救命ボートも残っていないのを確かめることであった。そして、それでもまだどのようなチャンスが残っていたのだろうか。
*****

天秤の西側に投入された百万人の追加兵力、三千門の追加砲が/1917年をまるごと費やして彼とヒンデンブルクが作り上げた大砲の打撃部隊/新しく考案された突撃隊と浸透による攻撃計画。これらに機会が与えられてはならなかったのだろうか。ドイツは最後の一枚、それもおそらくは最高の一枚を出すことなくゲームを放棄したと記録されるべきなのだろうか。いや参謀本部の責任はあらゆる機会を使い果たし、あらゆる戦力を消耗したことを文民政府に報告したときに初めて終わるのである。「他国民の心を冷やすような思想はドイツ人を興奮させる」とはよく言ったものである。カイザーシュラハトという偉大な計画―これまでにない規模と強度の、これまでにない方法と技術による攻撃―はゆっくりと閉じてゆく大惨事のあごから勝利を救い出すことができるかもしれないのである。そして計画それ自体も、それがもたらす出来事も、稀に見る質の高い心的命題ではないだろうか。このような計画を立てること、このような力と重大事の連続を動かすこと、このような賭けのためにプレーすること―それ自体が良いことではないだろうか?

そして11月11日(*1817年)―運命の日、終局のちょうど一年前―ルーデンドルフはモンスで会議を開いた―運命の地、世界大戦でイギリス軍が最初に発砲し最後に発砲した場所である!これは実際の作戦担当者の秘密会議であった。皇帝、王や王子たち、軍隊の司令官や軍隊のグループ、帝国首相、外務大臣、帝国議会の有力者―これらはすべて追い払われていた。

ここで取り扱うビジネスは―正確で、冷たく、厳しく、巨大なものである。参謀本部の上級グループだけ/自分たちが何を話しているかを知っている男たちだけ/同じ専門的言語を話す男たちだけ/他のすべての考慮事項を排除して戦争用語で戦争の計画を考えている男たちだけ!彼らは自らの仕事に集中し、自らの領域においては最高の知識を持っているが、他の領域やもっと大きな領域が存在することにほとんど気がつかない、目隠し革(*神経質な競走馬につける道具)をつけられた有能な専門家のかなり小さな集団で、固く限定された少数の人々である。

ルプレヒトの軍団の参謀長であるクール/皇太子の部下で彼の軍団の管理者であるシュレンベルク/ルーデンドルフの上級計画立案者であるウェッツェル、そしてルーデンドルフ自身である。大前提はこうだった:「我々はついに西方への攻勢を再開するのに十分な火砲、軍需品、兵力の強さを取り戻した。我々はアメリカ軍が来る前に、フランス軍とイギリス軍の生命をテーブルの塩のように振り出すことができる。六ヶ月間は大丈夫である。」。

その結果として生じる問い:どのようにするべきだろうか?ルーデンドルフは宣言した。「我々は英国を打ち負かさなければならない。」(wir mussen die Englander schlagen)

疑問:彼らはフランドルのアーズブルック、南方のサンカンタン方面のどちらを攻めるだろうか?北方攻撃を支持する多くの意見がある。しかし一つだけ反対意見がある、そしてそれは決定的なものである。

攻撃を3月早々に開始することはできない、天候が悪く、地面が湿っているからである。4月や5月を待っている余裕はない、時間は我々の敵である。アメリカ軍がやってくる、そして我々は連合軍にマスタードガスの作り方を教えてしまった。だからできるだけ早く、天候を味方にするために必要なだけ、イギリス軍の前線のずっと南側を攻撃しなければならない。そこでルーデンドルフはソンムの戦線を獲得して保持し、その後主攻撃を北西に転じてイギリスの前線を巻き込み、「海に放り込む」べきであるという提案した。(*サンカンタンから西へ進軍する)

クールはフランドル攻略を提唱した、そして必要なら一ヶ月長く待つこともいとわなかった。ウェッツェルはヴェルダン攻撃の再開を支持した。11月2日の会議の後、六週間にわたる議論を通して彼は「戦略的に自由」であるフランスと決着をつけるために、ベルダン攻略が最良の結果をもたらすことを主張した。彼によるとフランドル攻撃は戦術的、戦略的に有望である、しかしそれが適切なのは偉大な総攻撃の最終局面だけである。3月にイギリスがフランドルで攻撃を受けたら、フランスは南側から救援の攻撃をかけることができる/しかしヴェルダンが攻撃されたなら、3月の地盤の状態はイギリスの救援を妨げる。彼はサンカンタン攻撃を強く批判した。「静かな前線であり、準備が敵に気づかれてしまうため」奇襲は困難である。イギリスとフランスはいずれもその地を支援することができる。ドイツ軍の進撃はソンムの戦場(*1916年に激しい塹壕戦があった)の荒廃した地域を横切り、ドイツ軍と同盟国軍の古い防衛線の多くにぶつかることになる。ヴェッツェルは間違いなく自らの上官と見解を異にし、自分自身が進めてきた主張を無視し、奇妙な矛盾を抱えながら、最終的にイギリスに対する二つの攻撃を立案した、まず3月の第三週にサンカンタンで攻撃(結社の秘密の隠語「ミカエルとマルス」として知られている)をかけ、二週間後にアーゼブルックに向けて二度目の攻撃(同じく「セントジョージ」)をかけるというものである。

ルーデンドルフはその間、二人の参謀長と前線全体を視察し、参加する可能性のある五人の軍司令官と攻撃について話し合ったが、1月21日にヴェルダンへの攻撃とアーゼブルックへの攻撃に反対し、あらゆる反論にもかかわらずサンカンタン地区を選択した。その選択をしたのは彼で、彼だけであった。
*****

以下が英国軍を拷問する任務を帯びた砲兵隊である:野戦砲兵隊375個、重砲兵隊297個、超重砲兵隊28個、また砲の数で表すなら次のようになる。第十八軍2,500門。第二軍1,800門。第十七軍1,900門、合計6,200門。

そして、これが拷問の方法である:
午前4時40分開始―二時間:我々の砲台、塹壕迫撃砲、司令部、電話交換所、貯蔵庫に対する50分間のガスの噴射/そして歩兵陣地に対する10分間の奇襲砲撃。この50分と10分の砲撃が繰り返される。
射程距離を確認するためにこの10分間の砲撃を三回行う。
歩兵陣地に対して効果を上げるために70分間砲撃。
さらに75分、ただし15分と10分の特別の期間を設けて集中砲火。
最後に五分間、歩兵突撃の準備をする。この怪物的な砲兵隊に援護されたドイツ軍66個師団は3月21日の夜明け、英国軍19個師団が保持する戦線に対して出撃する予定だった。
*****

戦争術がいかに低劣なものに陥ったかということに読者は気づかれたであろう。それはこの憂鬱で劣化した時代を最高に表現している、機械で人間を殺戮するための巨大な機関の集結にほかならない。それはシカゴの家畜小屋のようなビジネスにまで堕落している。全体としてこの攻撃は―ヘイグ・パッシェンデール型の超攻撃だが、はるかに大規模で―戦争史上のあらゆる戦闘の中で最も恐ろしく、最も人間離れした(完全に非人間的という意味において)攻撃である。しかし、この企ての規模と仕組みはルーデンドルフを魅了する特徴そのものであった。これらは、彼が人生をかけて行ってきた計算であった。これこそルーデンドルフが学び、作り上げたすべてものの真髄であった。ここには、強烈で、正確で、具体的な計画があった。時間があるうちに連合国と和平を結んだり、臆病なロシアを犠牲にして西側で両者の妥協を図ったりするという、より大きな議論はまったく重要でないものと見なされた。冬にドイツの有能な実業家たちが彼に宛てた、戦争を続けることの危険性に関する実際的な警告は一蹴された。彼にとってこれらすべては漠然とした、淡い、弱い霧に過ぎず、中心にあったのは自らの巨大な赤熱した砲弾であった。その弾丸を発射すること、バネを引いてボタンを押すこと、溜め込んだ強大なエネルギーを解放すること自体が目的に思えたのであろう。

さて、このような気分は、軍人としては非常に好ましいものであった。専門家たちが国民と乖離するのは正しいことである、そして将軍が自分の仕事について考えるべきことを考えたからと言って責めることはできない。これはルーデンドルフの問題だった。確かにドイツの問題ではなかった。ドイツは宣戦布告の時点から、いかに多くの敵を作ったかに怯え、その抑えがたい強さ、意志の強さ、畏怖すべき憤怒の高まりに驚かされ続け、それらすべてが穀物、肉、食料品の不足とあいまって、脱出方法を見つけることを切望していた/そして脱出方法はあったのである。
*****

冬になってパッシェンデールで大砲が鳴りを潜めた瞬間から、連合国側の国々では、さまざまな悲痛な、哀れな、交渉の声が聞こえるようになった。ここに希望はないのだろうか?ドイツの家が燃えている、とドイツ国民は思っていた。大邸宅が炎に包まれており/消防士が不屈の精神力と最高の消防車で炎と闘っている/しかし、火勢はますます強まり/火の勢いはとどまるところを知らない。今にも建物が倒壊し、そこにいる全員が財産すべてとともに死んでしまうかもしれない。さて、いまこの東側のドアの上に突然、はっきりと書かれて光り輝いている「非常口」という文字が現れた。しかし、彼らはそれを使うことは許されなかった。

ドイツ帝国の致命的な弱点は、自分の職業の詳細を知り尽くし、その外のことは何も知らない軍の指導者が、国家の全政策の決定者は自分たちだと考え、そうなってしまったことである。フランスでは戦争中、最も暗く、最も緊迫した時にあって、文民政府はその根底から震え上がっていたが、それでも最高権威であった。大統領、首相、陸軍大臣、議会、そして「パリ」と呼ばれる驚くべき複合体は、あらゆる軍人を打ち破り、片棒を担がせる力を持っていた。イギリスでは、議会はほとんど機能していなかった。マスコミは将軍たち、あるいは彼らが自称する「軍人たち」を褒めそやした。しかし、そこには強力な政治的カーストとヒエラルキーが存在し、政治生命を危険にさらすという選択をするなら「ブラスハット(*高級軍人)」と格闘することができたのである。米国では文民的要素が圧倒的に強かったため、必要性とされていたのは主に、未熟ではあっても優れた軍人を育て、大きくすることであった。ドイツには参謀本部に立ち向かい、参謀本部の意志と特殊な見解を国家の全体的な救済策と調和させることができる者は誰もいなかった。

戦場に赴く大きな軍艦を想像してみるとよい。艦橋では立派な軍服を着たでくのぼうが時計仕掛けのジェスチャーをし、蓄音機のような演説を口にしているだけである。この船を動かし、この船を通じて艦隊を動かしているのは機関士である。何が起こっているのかを彼は十分の一も見ていない。水線と装甲甲板のはるか下の機関室に閉じこもっていてどうして見ることができるだろう。彼は全てのボイラーを焚き上げ、全ての安全弁をねじ込んだ/彼は舵を真っすぐに固定した。彼が口にするのは「全速前進」という乱暴な命令だけである。

アレキサンダー、ハンニバル、シーザー、マールボロ、フリードリッヒ大王、ナポレオンはみな物語の全貌を理解していた。しかしルーデンドルフは一つの章だけしか学んでいなかった、そして彼の体内を満たしていたのはそれだけであった。勝利のためにすべてを賭けるという悲惨な気高さを軽んじてはならない。しかし、ハルマゲドンをくぐり抜けて国家を生き残らせるためには異なる資質も必要であった。このような資質はドイツ国家においては存在しないか、あるいは厳しく抑圧されていた。
*****

3月21日(*1918年)の途方もない戦いについてここでは書かない。いかにイギリス第五軍の戦線が150,000人の兵士と1,000門の砲を失って後方へと屈曲したか/いかにドイツ軍がアミアンへの進軍においてますます膨れ上がる突出部へ押し進んだか/いかにペタン将軍がイギリス軍との連絡を断ち、フランス軍全体をパリ防衛のために確保することを決意したか/それにもかかわらず、細い戦線が決して破られなかったか/いかにイギリス軍の右翼とフランスの左翼がくたくたの四年間を共に戦い、勝利を得るまで切り離すことのできない運命にあったかは、誰もが知っていることである。ここで私の関心を引くのはむしろ、より広い範囲の反応である。
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ルーデンドルフの攻勢によって始まった危機と危険は、連合国と米国をたちまち見事に活性化させた。ドイツ軍の要塞化された戦線に対する心の痛む長い攻撃は終わりを告げた。代わって容赦のない生命を賭けた戦いが始まったのである。マルヌの会戦以来、連合国は勝利を当然のことと受け止めていた。勝利はずいぶん遅れるかもしれないし、ひどい犠牲を払うことになるかもしれないが、勝利は確実であり、完全なものになることを信じて疑わなかった。戦争に勝つためではなく(戦争にはすでに勝ったように見えたため)、和平を望む敵に最も厳しい条件を課すための無益な攻勢による虐殺は、毅然して争いに参加した人々の間にさえ意見の相違を広げていたのである。1917年の秋には、ランズダウン卿の手紙(*ドイツとの和平を提案)が『デイリー・テレグラフ』に掲載され、社会主義者のストックホルム会議(*和平を批判しロシア革命を支持)が開催された。シクテ・ド・ブルボン公(*オーストリア皇帝の義理の兄)の交渉や、スイスでのスマッツ将軍(*南アフリカ)とメンスドルフ伯爵(*オーストリア)の会談もあった。

今やすべての疑念は投げ捨てられた。もはや敵に厳しい条件を課すための戦いではなくなった。連合国の目前に実際の敗北が迫っているように思われた/アメリカ合衆国という錘が天秤に載せられる以前の敗北である。この大惨事は重いものであったが、英仏の士気を高め、軍事力を再び活性化させた。それは米国の最も奮闘的な努力を呼び起こした。誰も和平や和平交渉について考えなくなった。ドイツに敵対する偉大な連合体の戦意がこれほど激しく、強かったことはなかった。イギリス全土の軍需工場、鉱山、作業場の必死の「人員削減」、徴兵年齢の55歳への引き上げ、19歳の少年の前線への派遣によって、二十五万人近い兵士に迅速に海峡を渡らせることが可能になった。千門の大砲は一か月以内に交換された、そしてイギリス軍はドイツの集団からの襲撃に次ぐ襲撃を受け続けた。「マルスとミカエル」の猛威が収まった後、アーゼブルックの手前で「セント・ジョージ」が我が軍を急襲した。それでも、防衛は失敗しなかった。

3月21日(*1918年)まで、米国は念入りで整然とした方法で軍隊を準備していた、そして必然的に時間がかかっていた。巨大な共和国は一年以上前から戦争に参加していたが、フランスには六個師団しかなく、前線には二個師団しかなかった。ごく自然なことであるが、アメリカ軍司令部はできれば軍団や軍隊を少なくとも師団単位で戦場に配置し、最終的にすべてのアメリカの部隊を一つの大きなアメリカ軍として集結させることを目的としていた。訓練と準備は大西洋の両側で絶え間なく進められていた、しかしその間、連合国はドイツの打撃による崩壊の重大な危険にさらされていた。ロイド・ジョージとクレマンソーは、アメリカ軍のヨーロッパへの移動を加速させ、歩兵の大軍を師団編成を待たずに先に送り、前線でイギリスとフランスの旅団に、あるいは大隊にさえも組み込むべきである、と最も熱烈に訴えた。

敗北の翌日、パーシング将軍は武官や文官ととともに、フランス政府に、フランスにいるアメリカの部隊は訓練が終わっていても、途中であっても、役に立てるところならどこででも戦列に加わる、と通告した。何十万人ものアメリカ歩兵の派遣と、まだ部分的にしか訓練されていないアメリカ師団の大西洋を越えた膨大な輸送、というイギリスの要求を受けたウィルソン大統領のリーディング卿への返事は、イギリス国民にとって彼の記憶と切っても切り離せない言葉となった:「大使、最善を尽くします!(*Ambassador, I’ll do my damnedest!)」

これがどのように実現されたかは、大西洋を横断したアメリカ師団の移動記録を見ればわかる。2月、3月、4月の間に到着したのは、わずか四個師団であった。しかし5月以降、大統領の決意は全国民の支持を得てその効力を発揮し始めた。各師団30,000人近い兵力が5月に八個師団、6月に八個師団、7月に四個師団、8月に六個師団、9月に五個師団と大西洋を渡ってきた。この四ヵ月間に百万人近い兵士が、潜水艦からイギリスの海軍に守られて、新世界から旧世界の救援のために航海してきたのである。数人のアメリカ人鉄道技師がイギリスの前線で戦っただけであり、ルーデンドルフの対英攻勢が決定的に打ち破られるまでに四個師団が戦線に入っただけだったが、それでも、活力ある男たちの巨大な軍勢がヨーロッパに絶えず上陸し、闘っている連合国に最後の勝利が確かなものであることを保証したのであった。
*****

しかし(*米軍が大量に上陸する前の)3月26日(*1918年)、英仏の反撃はデュランで極点と転機を迎えていた。フランスのクレマンソー、ポアンカレ、フォッシュ、ペタンと、イギリスのミルナー、ヘイグ、ウィルソンが会談した。こわばった雰囲気と暗い空気が漂っていた。軍人であれ政治家であれ、戦争によってすでに汚れ、無感覚になっていた彼らは、最も深刻な現実を目の当たりにしていたのである。フランスは味方が被った大敗北と、惜しみない犠牲を払って買い戻したばかりのフランスの息子が再び侵略者の手に落ちてしまったことを、沈痛な思いで見つめていた。軍人たちは味方の明らかな失敗を厳しく非難した。疲れ果て、眠れず、やつれ果てた第五軍の兵士たちは、ドイツの圧倒的な優勢の前に後退し、軍事的にほとんど無価値に見えたことであろう。回想録にも書いてあることだが、クレマンソーはある日私に言った、フランスの最高位の将軍にこう言われたと―ヘイグも証言している―「指揮官は二週間以内に降伏するか、広大な戦場で自軍の崩壊を見ることを余儀なくされるでしょう。」その将軍とはいったい誰だったのだろうか?

イギリス側は1917年の無援護攻撃での尽力と殺戮を/いかに穴だらけの不具の師団がフランスの圧力によってこの惨禍の前線に戦線を拡大させられたかを/ペタンが送った救援がいかに遅くてけちなものだったかを思い出していた。二日前に発表された、(*パリ防衛のために)彼らと連絡を絶って置き去りにする、「海に放り込まれる」なら放り込まれてしまえ、という彼の冷たい決断に彼らは愕然としていた。

非難している時ではなかった。少ない言葉の間に長い沈黙があった。ヘイグは、それによってフランス軍からより大きな努力を引き出すことができるのであれば、長い間保持してきた独立した指揮権を犠牲にする用意があった。クレマンソーはいかなる努力も不十分であってはならない、と決意していた。「どの師団をフランス戦線から節約できるかが問題なのではない、どれだけ早く現在の戦場に到達できるかが問題なのである。」と彼は言った。冷静沈着で完璧な訓練を受けた指揮官であるペタンは「虎」の目を見て、すでに自分の考えを再調整していた。彼は今、アミアンの防衛を最大限のものにしなければならないと宣言した。しかし、この時の必要を満たしたのはフォッシュの無尽蔵の闘志であった。あらゆる危険を顧みずに団結し、フランスとフランドルの全戦線で指揮の統一を確立するための決議がなされた。

進撃する大砲の音が絶え間なく耳元で鳴り響く、この打ちひしがれた戦いの危機の中で、フォッシュは崇高な使命を引き受け、それが見事に果たされるときまで、それを手放すことはなかったのである。


2022.5.18