Uボート戦争

 

THE U-BOAT WAR

(from THOUGHTS AND ADVENTURES)

BY

WINSTON S. CHURCHILL

 

 

Uボート戦争

(THOUGHTS AND ADVENTURESより)

ウインストン・S・チャーチル著

 

訳者より:1932年に出版されたエッセイ集、THOUGHTS AND ADVENTURESの一章です。同書は1956年に中野忠雄氏の翻訳で「わが思想・わが冒険」として出版されましたが、この章は紙幅の関係で割愛されたとのことです。

 著作権はチャーチルの死後50年を経た2015年に切れています。
 文中の*は訳者注です。

原文:https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.209945/mode/2up

 

 

Uボート戦争


大戦中の海軍の作戦記録の最終巻となる第五巻がまもなく出版される。この巻は戦争末期の二年間における海軍の全ての仕事を網羅している。ついに―海軍が行ったすべてのことが書かれるのである。しかし、その中で叙事詩は凍りついている。この本は感動を呼ぶ本ではない。専門的な細目が大量にあるというだけではなく、さまざまな人々の手による複合的な仕事であるという事実がそれを拒むのである。有能な歴史家は、明らかに自分の章を当局や省に提出しなければならなかった/そして物語の中の重要人物は、その重宝な切り取りナイフやインク消しを躊躇うことなく使用した。その結果、それは公式の混合物の一種となってしまい、平明で大胆不敵な物語とも、大きな論争についての公正で綿密な分析的検討とも言えないようなものになってしまった。とはいえ、その豊富な資料はあまりに厳然とした、驚くべきものであり、そのページを動かす戦争の巨大なエンジンはあまりに巨大でコストが高く、争点はあまりに致命的であるため、この注意深く寄せ集められた事件と細目の集合体は、海軍の戦争の最も巨大な最後の二年間に関する情報の真の宝庫となっている。

 この最終巻の主要な論点を理解するためには、戦争の初期段階を念頭に置く必要がある。1914年と1915年は海軍本部の戦略の正しさが立証された年であった。艦隊が遂行していた目に見えない任務の広大さは、ストレスと緊張の日々には十分に理解されていなかった。敵の貿易はすべて外洋から一掃され、食料と援軍の大通りはすべて連合国軍のためだけに確保されていたのである。1915年4月、イギリスは海上でネルソンの時代にも見られなかったような覇権を握っていた。安全保障はほとんど顧みられることもないほどに完全であった。ドイツが全海域に残していたのは、ティエラ・デル・フエゴの氷河の下にひっそりと潜むドレスデン号と、南アフリカのラグーンの蒸気の奥に無力に幽閉されているケーニヒスベルク号の二隻だけであった。連合国にとって海が安全であることは当然のことであり、戦時中にあらゆる港からあらゆる方向に無防備に出航する商船をカバーするには、1%未満の保険で十分であった。

 この驚くべき特権を保証していたのは、遠く北のスキャパ・フローの港にほとんど動かずに浮かんでいる大艦隊であった。それは我々の歴史上かつてないほどに海を支配していた。戦争の全容は究極的に、この静かで、周到に守られ、めったに目にすることのできない軸を中心に回っていたのである。大艦隊なかりせば、ドイツは直ちに連合軍の海上連絡線をすべて攻撃して遮断し、フランスの海岸をあらゆる地点で脅かしていたであろう。大艦隊なかりせば、ドイツの巡洋艦やその他の戦艦が大西洋やイギリス海峡を意のままに航行し、数週間でわが国の海上交通を完全に停止させ、後にそれを目指してドイツのUボートが二年間も苦闘し、無駄に終わった容赦ない封鎖をたちまち強行したことであろう。最初の段階での大艦隊の活躍がなければ、救援軍の戦争構造全体が崩壊していたに違いない。フランスが自らを守るための「確かな盾」となり、開戦から終戦までに二千二百万人の兵士を連合軍の戦線に運び、あるいは戦線から運び出したのは海上の大艦隊であった。

 宣戦布告前に大艦隊をスキャパ・フローに配置した戦略的効果は、完全かつ即座のものであった。1914年8月末、イギリス海軍の威信がヘリゴランド湾への鮮やかで幸運な突撃によって証明されたとき―まさにその戦争の観艦地で巡洋艦が沈没したことによって劣勢を確認した―カイザーは海上におけるイギリス海軍の覇権を受け入れたのであった。

 こうして挫折したドイツ軍提督たちの思いは、必然的に潜水艦に向けられた。ここに素晴らしく恐ろしい新兵器があり、その威力と持久力は戦争が始まるまでどの国でも試されたことがなかった。しかしドイツがこの兵器を通商に対して使用することを決意したのは1915年2月のことであり、フォン・ポールはドイツ初のイギリス諸島の封鎖を宣言することを許されたのである。これは大きな決断であった。しかし、乗客や乗組員の安全を考えずに商船を沈めることに、世界中が恐怖と憤りを感じていたにもかかわらず、イギリス海軍本部は深刻な警戒心を抱いていなかった。ドイツ軍のUボートは二十五隻ほどしかなく、一度に徘徊できるのはその三分の一にも満たないとわかっていたからである。数十の港を毎週出入りする数百隻の船に対して、この一握りの襲撃者が深刻な影響を与えることはないであろう。まるで何百羽ものウサギが乗馬道の上を横切り、二、三人の片目の密猟者がそれを撃つようなものだ。ウサギは毎回ほとんど全部渡ってしまい、密猟者自身は猟場の番人に懲らしめられるのである。私たちは1915年に毎週すべての航行と沈没を公表すると発表した、そして結果はたちまち海軍本部の自信を正当化した。ドイツの最初の潜水艦作戦によって、英国の商業に実質的な、あるいは顕著な損害がもたらされることはなかった。その一方で、ドイツ政府には重大な困難が立ちはだかった。中立国の船を沈めた魚雷は中立国の好意を破壊した。ついにルシタニア号の沈没は怒りの嵐を巻き起こし、アメリカからの通達によってイギリス海域での作戦は一服した。

 最初のUボート攻撃は1915年6月に停止し、その後一年以上にわたって―つまり宣戦布告から合計二年近く―イギリスの制海権は絶対的で揺るぎないものであった。バルト海と黒海という陸地に囲まれた海域以外では、敵対する船舶は一隻も海上に出てこなかった。もし戦争が1915年か1916年に終わっていたなら―ユトランド半島での艦隊の衝突があったにせよ―イギリス海軍の支配は揺るがなかった、と歴史は記録したことであろう。海軍にはこの穏やかな時代に、陸と海の両方で戦争を終わらせることができる、たった一つの大きなチャンスがあった。そのチャンスは1915年4月、海軍がダーダネルス海峡の通過を強行しようとするすべての試みを最終的に中止したときに、永遠に失われてしまった。しかし、1915年の連合国軍のすべての不幸の後にも、海軍の平穏は続き、1916年にイギリス、フランス、ロシア軍の決定的な勝利があったならば、疑いない、そして表面上疑うことのできないイギリスの海軍力とともに平和をもたらしていたはずであった。

 この間、ドイツはUボートを建造しており、ドイツ海軍本部のスタッフはその使用を許可するよう絶え間なく騒ぎ立てていた。アメリカや他の中立国を敵に回すことを恐れる文民と、自分たちに祖国とその依存者をイギリスの封鎖の束縛から解放する力があると確信していたドイツ提督たちとの間の対立は、長く、冷たく、激しいドラマであった。1916年、ヴェルダンでの失敗、ソンムの緊張、ブルシロフの攻撃の驚き、そして最後にルーマニアの敵対的な参戦が、ドイツの戦争に第二の危機をもたらした。緊急の決断をする人たちが最高司令部に召集された。ヒンデンブルグとルーデンドルフが指揮を執ることになった。彼らは完全に提督たちの側に回った。新たな強い舵取りは首相と外務大臣を圧倒した。米国は必ず敵対勢力に引き込まれるという彼らの警告は、国家の存続のために戦う冷酷で暴力的な男たちの耳に届かなかった。

 1916年10月以降ドイツの潜水艦の活動は活発化し、沈没案件が急増し始めた。1917年1月9日プレース(*現ポーランド)でのカイザーとの会談において、文民たちは過激な措置に反対することをあきらめた。百隻の潜水艦が運命的な任務に就く準備を整えていた。提督たちは無制限のUボート攻撃によって毎月600,000トンを沈没させること、そしてこれを五ヶ月続ければ主敵であり敵対協力の中心であるイギリスが屈服することを、事実と数字を挙げて証明した。カイザーは臣下の決断を承認した。命令が出さと/宣言がなされた/2月1日に無制限作戦が始まり、アメリカは致命的な敵になった。プレースに集まった人々の中に数ヵ月後にロシアが崩壊し、陸上での新たな勝利の展望が開けることを知っていた者がいたならば、こうした途方もない賭けは決して行われなかっただろう。そこより遥かに危険の少ない安全な場所が判明する直前にそこに飛び込んでしまったのは、彼らの運命であった。

海戦の第一段階は、ドイツの外洋艦隊が英国の優れた戦力に暗黙のうちに服従することであった。そして1916年10月以降どんどん激しくなっていく第二段階、すなわちロイヤル・ネイビーとドイツのUボートとの生死をかけた戦いが展開されたのである。それは人類が夢にも見たことのなかったような戦争であり、これまで考えられたこともなかったような無慈悲で複雑な戦争であった。既知のあらゆる科学、役に立つ機械学、光学、音響学のあらゆる応用が注ぎ込まれた。それは海図と計算、ダイヤルとスイッチ、英雄でもある専門家、爆発と死によって遮られる緊張と忍耐の思考、深い水底で狩られ窒息する乗組員、救助も慈悲もなしに港から遠く離れて沈没する巨船などの戦争であった。そして、この陰惨な経過の仕事の上に、世界の歴史が回っていたのである。

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 1916年の11月から12月にかけて一時的に沈没が再発したが、国民はもちろん政府でさえも、わが国の通商の安全を確信していたので、深刻な不安を感じるようになるにはしばらくの時間を要した。この新しい攻撃は間違いなく迅速に対処されるであろう。成長中の宣伝術に携わる人々にとっては、中立国や米国の世論に影響を与えるため、喜ばしいことでさえあった。しかし攻撃は続いた。沈没は月ごとに増加した。1917年2月3日、ドイツの無制限作戦の宣言を受けて、アメリカ大使はベルリンを離れた。しかしアメリカが参戦したのは4月6日であった。これだけ大きな戦力が加われば、勝利は間違いないと思われた。すでに苦境に立たされていたドイツ帝国が1億2千万人の新たな敵の出現にどう耐えることができるだろうか。しかしアメリカ軍が大西洋を横断できなかったとしたら/それどころか―戦争の推進力であり―四千万人の食料を必要とし、しばしば三か月ほどの備蓄しか持たない島が戦争物資、石油、食糧の海上輸送を遮断されてしまったとしたら。

 それまでイギリスのシーパワーは、空気のようにその存在に気づかれないほど無敵の存在であった。ところが突然、その空気が恐ろしく希薄になり始めた。フランドルでは大砲の音が鳴り響いていたが、英国政府の広い範囲において新しいことが人々の心をとらえつつあった。潜水艦によるイギリス、連合国、中立国の商船の沈没が1916年10月と11月に1カ月あたり300,000トン近くまで増加したのである。1月も284,000トンだった。2月の無制限作戦の開始とともに、この数字は47万トン近くまで急増した。ドイツ海軍スタッフはイギリスが自国と同盟国の軍事需要を賄った後、自国民の補給のために約1,050万トンの船舶を保有していると計算していた。750万トンを下回るとイギリスはやっていけなくなる、見積り通り60万トンを毎月沈めることができれば、致命的な750万トンの限界に5ヶ月で到達することになる、そして数の論理で言えば、ドイツの最も手強い相手が降伏せざるを得ないのである。致命的な危険が間近に迫っていた。海上での決戦も、ダーダネルス海峡も、バルトへの上陸も、ヘリゴランドへの攻撃も、今は話題にもならない。心臓に打撃が加えられており、喉が締め上げられていた。成功するのか、それとも失敗するのか。これが、ホワイトホールの前に立ちはだかった問題であった。4月に入るとまたもや沈没数が急上昇し、運命の指は無情にも上に向かって動いていた。その指はイギリス連合国、中立国の沈没船83万7000トンを差し、そのうち51万6000トンはイギリスの沈没船であった。それでも私たちが知る通り、ドイツ海軍スタッフの見積もりの(*1050-750=300万トン)の五分の一にもならないのである!戦争の他のあらゆる側面はUボートの脅威の前に衰退し、薄く淡くなっていった。

 海軍史のこの最後の巻は、戦時内閣、海軍本部、海軍に与えた衝撃と、その危険に対処するために取られた措置について述べている。防衛の方法は三つに分類される。第一は機械的なものである。1915年の最初の潜水艦攻撃の失敗の際に海軍本部の委員会が行った準備と対策は、その後継者に無視されたりしなかった。大量の小型艦艇が建造され、また建造中であった。1915年の回避策と装置が念入りに作られ、数を増やされた。設定した深度で爆発させる深度充電器、潜水艦のわずかなエンジン音を探知する水中聴音器、船団捜索作戦、爆薬、水中曳航用機雷掃討器、警報ブイをつけた網、囮船、ジグザグ航法 - これらはすべてフル稼働状態であった。第二のカテゴリーは海軍スタッフの再編成と対潜部門の創設であった。しかし国家の運命を決定づけたのは第三の便法、護送船団戦術の採用だけであった。

 第一次世界大戦において、これほど注目すべき、また将来への指針に満ちた物語はない。それは、一方では民主的な議会制度によって問題の先頭に立たされた素人の政治家たちと、他方では有能で訓練された経験豊富な海軍本部の専門家たちとその偉大な士官たちとの間の長く、激しく、猛烈な闘いであった。驚くべき事実は政治家たちが正しく、海軍当局が間違っていたということである。政治家たちは表面上自分たちの領域外である技術的、専門的な問題について正しかったし、海軍当局は結局のところ、自分たちの固有の仕事の中心であり核心であるものについて間違っていた。

 第二の事実は、それに劣らず注目すべきものである。政治家たちは追い詰められた文民の力(*Civil Power)を代表して国家の生命を守るために戦い、海軍本部が海軍の最高権威を背景に掲げた偏見と虚偽の議論の山を乗り越え、突き崩したのである。他のいかなる国でも、このようなことは起こり得なかっただろう。たとえばドイツでは、皇帝とその閣僚は海軍専門家の事実、数字、意見を最終的なものとして受け入れなければならなかった。ホルツェンドルフ提督が無制限作戦によって一カ月に60,000トンの英国船舶を沈没させ、五カ月で英国の戦争遂行能力を喪失させると宣言したとき/彼がドイツ海軍スタッフの長としての名誉と良心に基づいてこれを提唱したとき、彼に異議を唱える手段はなかった。ヒンデンブルグとルーデンドルフは、海軍の同僚の意見を職業上の忠誠心によって支持した、そして文民たちは神秘に包まれた主張の前に沈黙した、もし専門的助言を採用しなければ、ドイツから勝利と命さえ奪うかもしれない臆病さ、弱さを非難されると考えたのである。自然に彼らは屈服し、すべてが大惨事へと向かっていった。

 しかし―申し訳ないことに―イギリスの政治家たちは自分の地位は誰かの好意によるものではない、と感じている強力な人々だった。彼らは、あらゆる種類の質問をした。彼らはいつも「No」と答えたわけではなかった。専門家が提示した事実や数字を必ずしも揺るぎないものとして受け止めなかった。専門家の権威が素人目に合理的でないように見えても、畏れを抱くことはなかった。彼らはこの問題に関係する海軍の下級将校の意見を密かに入手し、その意見によって海軍の上役たちを反対尋問し、論破することさえあった。政治家たちの警察犬は帝国国防委員会の委員長で戦時内閣の閣僚であったモーリス・ハンキー卿だった。彼は、海軍、軍、専門家、政治家などあらゆる陣営に合法的に足を踏み入れ、あらゆる形において表向き品行方正に振舞いつつ、冷徹に「出口」を探し求めていた。彼の上にはロイド・ジョージ氏が立ち、その傍らにはボナー・ロウ氏がいた。この二人は事実と数字に対して鋭く、徹底的な精神を持っていた。二人とも専門職のエチケットにはこだわらなかった。また勲章で飾り立てた名士にたじろがなかった。特にロイド・ジョージ氏は力と策謀の奇妙な組み合わせによって権力を手中に収めていた。彼はもし我々が戦争に勝てなければ自分は絞首刑になると確信しており、そのような条件で責任を引き受ける用意があったのである。

 この二人の大臣は沈没が増え始めた1916年11月の時点で、海軍本部に商船に護衛艦を配備するよう提案していた。この提案に目新しさはなかった。護送船団はかつての戦争で常套手段であった。第一次世界大戦の初期に、ドイツ巡洋艦から兵員輸送船を守るために使われ、完全に成功していた。一隻の船も犠牲になることはなかった。大艦隊や戦艦の小艦隊は必ず駆逐艦で護送され、Uボートから守られていた。

 さて、この提案に対して海軍本部の委員会とその専門部署の責任者が積み上げた反対意見の山を見てみよう。海軍本部は護送船団は潜水艦の攻撃から身を守れないと主張した。まず第一に、それは現実的に不可能であった。商船隊は護送船団の中で自分の位置を守ることができない。また共にジグザグに航行することもできない。速度がバラバラなら、全体が最も遅いペースになる。時間は失われ、危険は増大し、積載量は浪費される。彼らは突然の攻撃でたちまち混乱に陥るだろう。護送船団の中に潜水艦が入ったなら、とてつもない大混乱をきたすであろう。我々は多すぎる卵を一つのカゴに入れようとしているのである。毎週2,500隻以上の商船がイギリスの港に出入りしている、と海軍本部は述べた。護衛の軍艦一隻に対して商船が三、四隻以上であれば、どんな護送船団も安全とは言えない。このような巨大な船団に対応する駆逐艦や小型船がどこにあるのだろうか。我々はそれを持っていない。戦闘艦隊の安全とドーバーその他の海峡の哨戒に供した後、残された駆逐艦は絶望的に不十分なものであった。

 このように、Uボートの無制限攻撃に再び対抗するために護送船団方式を採用することに対して、海軍本部が提起したのは記念碑的な論拠だった。かつて理論的にこれほど強力な主張が発表されたことはない、ということを認めざるを得ない。海で一生を過ごし、陸上生活者が必ずしも知らない困難や謎をすべて理解している、有能で経験豊富な船員たちの誠実で深く根を張った信念によってその論拠が裏付けられているとき、命令によってそれを無視し、実験によってそれを覆すことができる力が英国の国家組織の中に見出されたというのは驚くべきことである。しかし、それは起こった/そしてそれが起こらなければ、アメリカはヨーロッパから切り離され、イギリスは飢えのために降伏し、ドイツが戦争に勝利していたことであろう。

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 公式の戦史の中で、護送船団方式を採用する際の陸軍内閣と海軍本部の対立に関する記述ほど、慎重な姿勢で書かれたものはない。素人がこのページを注意深く読んでも、その激しさや実際に起こったことに全く気付かないかもしれない。すべての主要な本質的事実が述べられているが、それらは意図的に強調を欠き、またしばしば順序を逆にして述べられているため、それらが容赦なく指し示す結論は隠されている。年表の鍵で暗号を解読してこそ、真実が―多くの人々にとっては歓迎できない真実が―浮かび上がってくるのである。

 1916年11月2日、戦時内閣(アスキス氏はまだ首相だった)の議論において、ロイド・ジョージ氏は総司令官のジョン・ジェリコー卿に、わが国の通商路を狙うドイツの潜水艦に対する計画があるかと質問した。総司令官は計画がないことを認めた。ボナー・ロウは次に、なぜ護送船団方式を採用できないのかと尋ねた。すると海軍スタッフ長は、一度に護衛できるのは一隻の船だけである、と答えた。海軍第一卿のヘンリー・ジャクソン卿は、商船は数隻の駆逐艦で守れるほどにはまとまってはいられないと付け加えた。差しあたり反対に回った権威の重みは決定的なものだった。沈没による損失が継続的に増加するにつれて、不安は深まったが、増大する懸念によって海軍本部の見解が変わることはなかった。ジョン・ジェリコー卿が海軍第一卿に就任したことで、それが確認された。海軍本部スタッフは1月に自分たちの意見と典拠をすべてまとめ、念入りに整理された道理で護送船団方式を非難する覚書を作成した。この覚書が記録していることが間違いなく海軍本部の総意である、とされた。

「通商防衛に特に関係の深い高官たちの議事録は、すべて同じ、あるいはほぼ同じ見解を示しているからである。」

 1917年2月1日、無制限Uボート作戦が始まり、たちまち驚くほどに沈没が増加した。このとき、モーリス・ハンキー卿は護送船団方式への主な反対意見すべてに挑戦する有名な覚書を書いた、そしてこれを武器にロイド・ジョージ氏(現首相)は2月13日、海軍当局とこの問題全体の再検討を開始したのである。この見事な文書と、それを海軍本部に突き付けた新しい政府首脳の辛辣な態度が、支配的であった海軍上級職の意見を変えることはなかった。もちろん、この論文の基礎となった事実と議論の多くをUボート問題を扱っていた海軍本部の下級スタッフが手掛けていたことは間違いないであろう。海軍では意見の統制が厳しく、帝国防衛委員会というチャンネル、あるいは安全弁がなかったなら、これらの意見は実を結ばず、明るみに出ることすらなかったかもしれない。提督(*Admiral)の意見は艦長(*Captain)の意見よりも正しく、艦長の意見は指揮官(*Commander)の意見よりも正しい、という強固に教え込まれた教義は、まったく新しい性格の問題において、長年の習慣にとらわれない鋭敏で大胆な頭脳を必要とする議論が行われる場合には通用しなかったのである。

 しかし、その議論は実際の経験によって補強された。フランスとの石炭貿易に従事する船舶は、1916年の終わりごろに大きな損失を被ったのである。フランスは直ちに護送船団を提案し、2月7日、海軍本部は彼らの希望に従った。石炭船は連れだって護衛つきでに送られることになった。この新システムはすぐに効果を発揮した。3月に往復した1200隻の石炭船のうち、喪失したのは三隻だけであった。海軍本部のスタッフは相変わらず頑固であった。しかし、その根拠となるデータを考えると、彼らの粘り強さは不思議なことではない。

 戦争初期、私たちがUボートによる損失と出入の数を比較して発表していたとき、一週間にイギリスの港に入港または出港する船の数は2500隻に達する、と言われていたのは誇大だったのである。この膨大な数の船舶の出入りに、せいぜい六十隻か七十隻の駆逐艦と武装トロール船、その他の小型船で対処することが物理的に可能だっただろうか。しかし、この2,500という致命的な数字は今では非難されている。対潜水艦部門所属の下級将校、R・G・ヘンダーソン中佐は海運省と緊密に連絡を取りながら、この怪物的な、長く甘受されてきた障害を打ち破った。2,500回の航海には300トン以上の沿岸貿易船や近海商船が繰り返し寄港する回数がすべて含まれていることが明らかにされた。しかし、これらの船は私たちの命がかかっている船ではない。致命的なのは世界各地と往来する外洋航路だけである。4月の初め、ヘンダーソン中佐はすべてがかかっている1,600トン以上の外洋船の最低発着回数が、週に120から140回を超えないことを証明した。2,500という全く不適切な土台がせん断され、論理的な議論の大建造物はすべて崩れ去った。

 4月には潜水艦作戦がひどく激化し、内閣の機密のグラフはあらゆる方面において中央の島の食糧供給、各戦域の自軍と連合軍の軍需に迫りつつあるタイムリミットを示していた。それでも海軍本部は破綻した以前の主張に留まり、護送船団に抵抗した。海軍の軍艦だけでなく、航行するすべての商船の安全に責任を持つことへの恐怖が、彼らの心に重くのしかかったのかもしれない。しかし、その理由はともかくとして、彼らは頑として譲らなかった。1917年4月10日、米国が参戦し、シムズ提督は海軍第一卿と会談した。潜水艦作戦の厳しい事実がアメリカ人船乗りに提示され、小型船による可能な限りの支援が力説された。同時に彼は、護送船団は不可能であるという海軍本部の見解に同意するよう促された。彼はこの意見を英国海軍学の最も権威ある言葉として自国政府に伝えた。事件と道理の累積的な圧力の上に、オークニー諸島のロングホープで数週間にわたって行われた、スカンジナビア貿易ルートの沈没問題に関する大艦隊の士官たちの委員会の結論が加わった。彼らは全会一致で護送船団を推奨した。しかし海軍第一卿はこの特定の航路での実験に同意しながらも、全体的な使用についてはまだ「検討中」であることを戦時内閣に報告するだけであった。

 救いのない、恐るべき数カ月が過ぎた。しかし問題はクライマックスに達した。4月23日、戦時内閣は海軍顧問団とこの問題全体について討議した。この議論の結果はまったく満足のいくものではなかった。そこで25日、戦時内閣は単独で断固とした行動をとることを決議した。首相が自ら海軍本部に赴き、「最近の調査で、対潜水艦戦に対する現在の取り組みに十分な協調性がないことが明らかになったので、現在使われているすべての手段を調査する」ことが合意されたのである。この措置は紛れもない脅迫を暗示していた。責任ある省や軍人にとって、これ以上のショックはないだろう。海軍当局は「行動か、去るか」であることを理解した。

 26日、対潜水艦部長はジェリコー提督に次のようなメモを渡した:「いつでも護送船団の包括的な計画を導入できるよう、準備しなければならない時期が来たことは明らかと思われます。」27 日、ジェリコー提督はこの方針を承認した。4月30日、閣議決定に従ってロイド・ジョージが海軍本部を訪れたとき、彼は文民たちの要求を全面的に受け入れた。彼は同僚に伝えた:

 「この問題に関する海軍本部の見解は現在、戦時内閣の見解と完全に一致している、また輸送船団はある航路で運用を開始したばかりで、他の航路では編成中である、これ以上のコメントは不要である. . .」

   *   *   *   *   *

 もちろん誰もが知っているように、海上での護送船団の採用はドイツのUボート攻撃を打ち破ったのである。1917年7月までに、それは正常に機能するようになった。無制限の潜水艦戦が五カ月も続いたが、英国は屈服しなかった。9月になると雲が晴れ出した。一カ月の沈没船は80万トンだったのが30万トンに減少していた。1918年2月、建造量の曲線が沈没量の曲線を超えた。1918年10月までに、1,782隻の大型船が海を越えて輸送されたが、損失はわずか167隻であった。連合国の戦争努力は決して緩むことはなかった。アメリカ軍は無事に海を渡り、数カ月の間にドイツの破滅は時間の問題になった。

 この驚くべき話には、二つの示唆に富む続きがあった。海軍本部が護送船団方式を採用するという有名な決定を下したとき、海軍第一卿はその代わりにサロニカ作戦を放棄し、連合軍をバルカン地域から撤退させて海軍の任務を軽減することを要求した。彼はこの削減によって40万トンの船舶が節約されることをはっきりと証明した。サロニカとバルカンの作戦はロイド・ジョージ氏の肝いりの計画であった。彼は護送船団方式の採用に対する海軍本部の同意を得るため、1917年4月30日それを犠牲にすることに同意した。フランスも同意せざるを得なかった。しかし、対外貿易部門の下級大臣であるレオ・キオッツァ・マネー卿が、連合軍の物資を世界各地からではなくアメリカ大陸から調達することによって、この40万トンの節約を実現できること/そして物資の調達が可能なことを示す、海運省のお墨付きの報告書を作成したのであった。この計画は採用され、サロニカ派遣軍は作戦を継続することが許可された。周知のように、チュートン帝国の最終的な崩壊をもたらしたのは、1918年10月のブルガリアの降伏であった。この降伏がなければ、ドイツ軍はムーズ川かライン川までの退却を成し遂げ、さらに二、三百万人の兵士が殺傷され、一千万から一千百万ドルの富が消費されて、世界に再び血塗られた年が訪れたかもしれないのである。

 二つ目の事件は、もっと小さなものである。1917年5月初め、護送船団を支持する戦時内閣の決定を受け入れた海軍本部はワシントンの海軍省に もこれを採用するよう要請した。しかしアメリカの海軍当局は、シムズ提督の報告書から、護送船団方式が政治的干渉によってイギリス人船乗りの反対にもかかわらず強要されたものであることを知っていた。そのため、彼らは素人の専門外の意見と知っているもののために自らの船を危険にさらすことを拒否した。護送船団の大成功が彼らの疑念を払拭するまでには数カ月を要した。

 連合国のすべての海軍の長の護送船団の採用に対する消極性に類似するものは、すべての軍隊の長の消極性の中にしか見られない。連合国も敵国も、戦車の重要性を理解することに消極的だったのである。どちらの場合も、こうした救済手段は外から、そして下から押しつけられたものであった。

2022.2.1