わたしたちは自滅してしまうのだろうか?

 


Shall we all Commit Suicide ?

(from THOUGHTS AND ADVENTURES)

……Published in 1925.

BY

WINSTON S. CHURCHILL

 

 

私たちは自滅してしまうのだろうか?

(THOUGHTS AND ADVENTURESより)

・・・・・・1925年発表

ウインストン・S・チャーチル著

 

 

訳者より:1932年に出版されたエッセイ集、THOUGHTS AND ADVENTURESの一章です。同書は1956年に中野忠雄氏の翻訳で「わが思想・わが冒険」として出版されましたが、この章は紙幅の関係で割愛されたとのことです。

 著作権はチャーチルの死後50年を経た2015年に切れています。
 文中の*は訳者注です。

原文:https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.209945/mode/2up

 

 

私たちは自滅してしまうのだろうか?


人類の歴史は戦争の歴史である。そして短く心もとない幕間を除いて、平和があったことはない:そして歴史が始まる前から流血の争いは普遍的であって、絶えることがなかった。しかし現在に至るまで、人間が手にした破壊の手段はその凶暴性に追いついていない。石器時代には相互的な皆殺しは不可能だった。棍棒などでは大したことはできない。そのうえ、人間はあまりに少なく、うまく隠れていたので、見つけることは困難であった。逃げ足も速く、捕まえるのは難しい。人間の足は一日に一定の距離しか走れない。自分の種を滅ぼそうとどんなに頑張ったとしても、各人の活動領域は非常に限られていた。この道筋において、いかなる効果的な進歩も不可能だった。その一方で、人は生きて、狩りをして、眠らなければならない。そうしてバランスをとりながら、生命の力は死の力に対して着実にリードを保ち、徐々に部族、村、政府が発展していった。

 そして破壊のための努力は新たな段階に入った。戦争は集団的な事業となった。大量の兵士の移動を容易にする道路が作られた。軍隊が組織された。殺戮のための道具に多くの改良が加えられた。特に金属、とりわけ鋼を人肉に突き刺し、切断するために使用するという有望な分野が開拓された。弓矢、投石器、戦車、馬、象が貴重な助けとなった。しかし、ここでもまた別の牽制が働き始めた。政府は十分に安全でなかった。軍隊は内部で激しく対立しがちであった。ひとたび大量の兵士が集中したならそれを養うことは極めて困難であり、その結果、破壊の実行の効率は不安定になり、組織の欠陥によって途方もなく妨げられた。こうして再び生命の帳簿の貸方においてバランスが保たれた。世界は前進し、人間社会はより大きく、より複雑な時代へと突入した。

 戦争が人類の潜在的な破壊者の領域に入り始めたのは、20世紀初頭のことである。人類が大きな国々と帝国へと組織され、国民が完全な集団意識を持つようになったことで、かつては想像もできなかった規模と粘り強さで、殺戮のための事業を計画し実行することができるようになったのである。個人の最も崇高な美徳はすべて、集団の破壊的能力を強化するために集められた。良好な財政、世界的な信用と貿易の資源、巨額の資本準備金の蓄積によって、かなりの期間、全人類のエネルギーを破壊の仕事に振り向けることが可能になった。民主的な制度は何百万もの人々の意志の力を表現するものであった;教育は紛争の経過をすべての人々に理解させただけでなく、一人一人がその目的のために高度に貢献することを可能にした。報道は団結と相互の激励の手段だった;宗教は根本的な問題における対立を慎重に回避し、すべての戦闘参加者にあらゆる形で公平に励ましと慰めを与えた。最後に、科学は人間の必死の要求に対してその宝と秘密を解き放ち、その性質上ほとんど決定的ともいえる力や装置を人間の手に委ねた。

 その結果、多くの新しい特徴が現れた。単に要塞化された町を飢えさせる代わりに、国民全体に飢餓による計画的削減措置が行われたのである。全住民が何らかの形で戦争に参加し、全員が等しく攻撃の対象となった。航空機によって実際の戦線のはるか後方まで死と恐怖が運ばれることになった。女性、子供、老人、病人など、以前の戦いでは手つかずで放置されていた人々である。鉄道、蒸気船、自動車などの驚異的な組織は何千万人もの兵士を継続的に活動させ、維持することができる。彼らは優れて発達した治療法と手術によって何度も何度も屠殺場に戻された。荒廃(*waste)の過程に貢献するようなものは何一つ無駄に(*wasted)されなかった。死ぬ間際の足掻き(*last dying kick)すら軍事的に利用された。

 しかし、世界大戦の四年間に起こったことはすべて、五年目に準備されていたことの前触れに過ぎなかった。1919年の戦役は破壊の力の絶大な到達点を目撃することになったであろう。ドイツ軍がライン川への退却をやり遂げるだけの士気を保っていたなら、1919年の夏には、それまでとは比較にならないほど桁外れな戦力と手段で攻撃されていたことだろう。何千もの飛行機が都市を粉々に破壊したことだろう。何千もの大砲が彼らの前線を吹き飛ばしていたことであろう。二十五万人の兵士とそのすべての必要品を同時に、継続的に、機械式車両で毎日十から十五マイル前方へ運ぶ手配がされていたのである。秘密のマスク(ドイツ軍の入手は間に合わなかった)なしには防御不能な、信じられないような悪質な毒ガスが敵の前線を攻撃したなら、すべての抵抗を封じ込め、すべての生命を麻痺させていたことであろう。ドイツ軍にも計画があったことは間違いない。しかし、怒りの時は過ぎ去った。安堵の約束がなされた、1919年の惨事は偉大な敵対者の書庫に埋もれたままである。

 戦争は始まったときと同じように突然、そして全世界的に終結した。世界は頭を上げて破滅の光景を眺め、勝者も敗者も同様に息をのんだ。百の研究所、千の兵器庫、工場、事務局で人々はぐいと体を起こし、それまで没頭していた仕事から目を離した。そのプロジェクトは未完のまま実行されずに片づけられた/しかし、彼らの知識は保存され/データ、計算、発見は急いでまとめられ、各国の戦争省によって「将来の参考のために」記録された。1919年の作戦は実行されなかった/しかし、そのアイデアは着実に進行している。平和の水面下ですべての軍隊において、それらは研究され、精巧になり、洗練されている、そして世界に再び戦争が起こるとすれば、それは1919年に準備されていた兵器や力ではなく、それらをさらに発展させ拡張した、比べようもないほど恐ろしく致命的なものによって行われるであろう。

 このような状況の中で、私たちは平和と表現されてきた疲労困憊の時期に入ったのである。いずれにせよ、この時期は全体的な状況を検討する機会を与えてくれる。ある種の厳粛な事実が、漂う霧の中から山の形が浮かび上がってくるように、確かな、揺るぎないものとして浮かび上がってくる。それは今後、全住民が戦争に参加し、全員が全力を尽くし、全員が敵の猛威にさらされることが確定した、ということである。自分の命が危険にさらされていると考える国は、自分たちの存在を確保するためにどんな手段を使っても差し支えない、ということも確定した。今度彼らが使用できる破壊の力や手段の中にはおそらく―いや確実に―無差別で無制限の、そして一旦起動すれば制御不能がとなるものが含まれている。

 人類がいまだかつてこのような状況に陥ったことはない。明らかに徳性を向上させたわけでもなく、より賢明な指導を受けたわけでもないのに、初めて確実に自らを絶滅させることが可能な道具を手にしたのである。これこそ、人類がそのすべての栄光と労苦によってたどりついた、自らの運命の地点である。彼らは一度立ち止まって、その新しい責任について熟考するべきであろう。死神は待機していて、従順であり、期待に応え、奉仕する用意があり、民衆を一斉に刈り取る用意がある/命じられたなら文明が残したものを回復の望みもないほど粉砕する用意があるのである。彼はただ命令の言葉を待っている。か弱く、まごついた存在、長い間彼の犠牲者であったが、今や―たった一度だけ―彼の主人となった存在からの命令を待っているのである。

 ヨーロッパで再び爆発が起こる危険性が去ったとは、一瞬たりとも思わないでおこう。当分の間、世界大戦後の茫然自失と崩壊が陰鬱な受動性を確実なものとし、戦争の恐怖、その殺戮と暴虐は、あらゆる民族のあらゆる階級の魂に染み込み、心を支配している。しかし、戦争の原因は決して取り除かれてはいない/実際、いわゆる平和条約とそれへの反応によって、ある面では悪化しているのである。ヨーロッパの家族の二つの強力な支族は、現在の状況に決して満足することはないだろう。バルト海沿岸諸国を奪われたロシアは年月が経つにつれ、ピョートル大帝の戦争についてしきりに思いを巡らせるようになるだろう。ドイツの端から端まで、フランスに対する激しい憎悪が全人民を結び付けている。年々軍人として成長していく膨大な数のドイツの若者たちは、最も激しい感情に鼓舞され、ドイツの魂は解放あるいは復讐の戦争の夢でくすぶっている。現在のところ、こうした思いは物理的な無力さによって抑制されているにすぎない。フランスは徹底的な武装をしている。ドイツはかなりの程度武装解除され、軍事体制も崩壊している。フランスは専門的な軍事機構、要塞の盾、黒人部隊、ヨーロッパのより小さい国との同盟体制によって、この状況を維持することを望んでおり/いずれにせよ現在のところ軍事力において圧倒的に優勢である。しかし、国際世論に支持されていない物理的な力だけでは、安全保障の永続的な基盤とはなりえない。ドイツはフランスよりもはるかに強力な存在であり、永久に服従させておくことはできない。

  「戦争は」と、何年か前にアメリカの著名人は私に言った。「鋼鉄で戦うものです。武器は変わるかもしれません/しかし鋼鉄が現代の戦争の中核であることに変わりはありません。フランスはヨーロッパの鋼鉄を手に入れ、ドイツはそれを失ったのです。いずれにせよ、ここに永続性のある要素があります。」「将来の戦争は鋼鉄で行われるという確信があるのですか。」と私は尋ねた。数週間後、私はあるドイツ人と話をした。「アルミニウムはどうでしょう。」と彼は答えた。「次の戦争は電気の戦いになると考えている人もいます。」そしてその先には自動車のエンジンを止めたり、飛行機を墜落させたり、あるいは人間の生命や視覚を破壊する可能性のある電気光線の展望がある。そして、爆発物。もう終わりなのだろうか?科学は爆発物に関する最後のページを開いたのだろうか?もしかしたら、これまでに発見されたものとは比べものにならないほど強力な爆発エネルギーを利用する方法があるのではないか?オレンジよりも小さな爆弾が、ビル群をまるごと破壊する秘密の力をもっていることが判明しないだろうか?―いや千トンのコルダイトの力を結集して町を一撃で吹き飛ばすことができないだろうか?現存するタイプの爆薬でさえ、無線や他の光線によって自動的に飛行機械に誘導され、人間の操縦者なしに、敵の都市、工廠、キャンプ、造船所に向かって絶え間ない行列を作ることができないだろうか?

 あらゆる形態の毒ガスや化学兵器については、恐ろしい書物の最初の章が書かれたに過ぎない。確かに、ライン川の両岸では人間に可能な限りのあらゆる科学と忍耐力をもって、こうした新しい破壊の道が一つ一つ研究されている。そして、どうしてこれらの力が向けられる先が無機化学に限定されると考えられるだろうか?病気の研究―つまり人間や獣に対して計画的に準備され意図的に仕掛けられる悪疫の研究―が、複数の大国の研究所で進められていることは確かである。農作物を荒らす胴枯れ病。馬や牛を殺す炭疽病。軍隊だけでなく、全地域を毒する伝染病―これらは軍事科学が容赦なく進めている路線である。

 このような状況下でこれまでと同じように戦争が行われるなら、世界を破滅させ人類の計り知れない減少をもたらすかもしれないこと、一方の側が何らかの圧倒的な科学的優位性を持つならば不注意な側は完全な奴隷にされることは明らかである。今、人間の手にある力は、諸国民の生命を破壊することができるだけではなく、初めて文明人の一群に敵対者を絶対的に無力化する機会を与えたのである。

 野蛮な時代にはこのような優位を確保するために、優れた勇武の美徳―すなわち体力、勇気、技術、規律―が必要であった/そして厳しい人類の発達の歴史において最善で最適の血統が頭角を現してきたのである。しかし今日、そのような救いとなる約束事は存在しない。卑しく、退廃的で、不道徳な人種が、たまたまある瞬間に何らかの新たな殺戮や恐怖政治の手段を持ち、その使用において無慈悲であったなら、自分たちよりはるかに高い資質を持つ敵を、その気まぐれや暴虐にひれ伏させようとしない理由はない。人間の自由は、もはやその生まれつきの資質によってではなく、ごまかしによって守られるべきものであり/優れた美徳と勇武は容易に最新の極悪非道で卑劣な手段の餌食となってしまうであろう。

 破壊のための科学の物憂い道程には、こうした致命的傾向の矯正が見込めるような新たな転機が一つあった。特定の波長の電磁波があらゆる種類の爆発物を遠距離から爆発させることができるかもしれない、という期待があったのである。そのような手段がやがて発見され、共通の財産となったならどうだろう。重要な個所において戦争は再び野蛮な時代の粗野だが健全な制限の中に戻るであろう。剣、槍、棍棒、そして何よりも戦う人間が、かつての支配権を一気に取り戻すだろう。しかし、これらの光線が分類されるカテゴリーは現在では十分に研究されており、あまり期待が持てないと分かってしまったのは気が滅入ることである。爆発物時代の恐るべき醜悪さは今後も続くであろう/そして科学の応用によってこれに毒や疫病のぞっとするような問題が加わることは間違いないであろう。

 このように、人類は自らを危険にさらしているのである。その効果において計り知れない破壊の手段、その性格において無差別でぞっとするようなもの、そしていかなる形の人間の美点とも無関係なもの/科学の進歩はこれまで以上に恐ろしい可能性を広げている/世界のいくつかの巨大な人間集団の心の奥底には、国家の誤りや国家の危機に対する最も深い感覚を燃料とし、絶え間ない憤激と終わりない恐怖によって煽られた憎悪の炎が燃え上がっているのである! 他方、「疲弊」という有難い休息がある。これは諸国民に自らの運命を制御し、全面的な破滅となるかもしれないものを回避するための最後のチャンスを提供するものである。もし人々の間に自己保存の感覚がまだあるとすれば、もし生きる意志が各個人や諸国民だけでなく人類全体にあるとすれば、最悪の破局を防ぐことはすべての努力の最も重要な目的であるはずである。

 国際連盟は、米国に見捨てられ、ソビエトロシアに軽蔑され、イタリアに疎まれ、フランスとドイツに等しく不信感を持たれているが、迫り来る、しかしまだ遠い大嵐に対して弱々しくも誠実に、正気と希望の旗印を掲げているのである。その構造は儚く、実体がなく、輝かしくもあまりにしばしば空想的である理想主義によって組み立てられており、現在の形では世界を危険から守り、人類をそれ自体から保護することはできない。しかし、安全と救済への道は国際連盟を通じてのみ見出されるのである。国際連盟を維持し援助することは、万人の義務である。我々が被った苦痛や災難とは比べ物にならないようなそれを子供たちが被らないことを願うすべての人々は、国際連盟を強化し、大国間、主要民族間の誠実な協定と理解によって、これを実際の国際政治と緊密かつ実際的に関連させることを第一の目標とするべきである。

 

2022.1.10