第9章 砂漠の鉄道

 

THE RIVER WAR

CHAPTER IX

THE DESERT RAILWAY

BY

WINSRON SPENCER CHURCHILL

 

 

河畔の戦争

第九章

砂漠の鉄道

 

ウインストン・スペンサー・チャーチル 著

 

 

 

訳者より:イギリス軍がナイル川を遡上してスーダンを征服したマフディー戦争の記録です。1899年に「河畔の戦争」として出版されました。
原文:https://archive.org/details/1899RiverWarVol1/page/n307/mode/1up?view=theater&q=but

この砂漠の鉄道は現在も使用されています。グーグルマップ上で駅とルートが確認できます。
https://www.google.com/maps/search/station/@20.7792348,31.9324178,377428m/data=!3m1!1e3?entry=ttu

 

第9章

 

砂漠の鉄道

 

花の茎―水路―ドンゴラ作戦―ドンゴラ鉄道―路線の大隊―教育―洪水―ケルマへの延長―進撃路線―戦争の戦略―アブ・ハメッド経由―砂漠の鉄道―疑問―水―荒野へ―線路先端の街―毎日の列車―毎日の仕事―特殊な危険―ついにアブ・ハメッド―費用―水の井戸―記録更新―バベル―業界の問題―イギリスとアメリカ―さらなる延長―国土―供給事業―食料供給基地―アカシャの段階―ドンゴラ―アブ・ハメッド―ベルベルまでの困難―鉄道の到着―下士官たちの勝利。

 

 

成功した公共事業において、国民の喝采と君主の褒美が、その職務が華々しく、その義務が劇的なものだった人々に贈られるのはよくあることである。しかし、それに劣らず困難で、責任重大で、成功に不可欠な労働をした他の人々は注目されない。これが人間について言えることなら、物事についても言えることである。戦争の物語では、読者の心は戦いで満たされる。戦闘は、その鮮烈な場面、感動的な事件、明白で途方もない結果とともに、想像力をかき立て、注意を引く。視線は、煙の中を移動する戦闘旅団に注がれ、群がる敵の姿に注がれ、参謀本部の中央に陣取る冷静で決然とした将軍に注がれる。長く続く通信線はその目には入らない。赤い勝利の銃剣に映し出される激しい栄光は、観察者の目を眩ませる。また、鉄道、道路、河川など1,000マイルに及ぶ輸送隊が途切れることなく前線に這い従っている後方を見ようともしない。勝利は美しく色鮮やかな花である。輸送は、それなしにその花が咲くことなかった茎である。しかし、軍事学者でさえ、実際の紛争における魅力的な連携を極めることに熱中するあまり、補給に関するはるかに複雑な問題をしばしば忘れてしまう。

 

 あらゆる軍事作戦のクライマックスである戦闘は、戦略や組織ではどうにもならない出来事であることは否定できない。作戦は良く計画され、部隊の糧食は十分で、弾薬は豊富で、敵はこんがらがり、飢え、あるいは数的に劣っているかもしれない。しかし、戦場では栄光ある不確実要素がすべてを覆すことがある。経験、確率、論理に反抗する人間の要素が―まったく合理的でない結果を出し、飢えに苦しみ、劣勢に立たされた軍隊が、その勇敢さによって食糧、安全、名誉を勝ち取ることもある。しかし、このような考察は両軍の装備や規律が同等である戦争について、より強く当てはまるものである。平坦な国における野蛮な戦いにおいて、生身の人間は近代的な機械の力には到底及ばず、戦闘におけるチャンスは最小限にまで減少する。ダルビッシュとの戦いは主に輸送の問題だった。カリフを征服したのは鉄道だったのである。

駄獣

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 これまでは、作戦の進行とともに、鉄道が敷設された、あるいは各地に延伸された、という大まかな表現で連絡線の方向を示すだけにしてきた。ここからは読者の皆さんに、もっと近くから見ていただくことになる。この章は、船、鉄道、駄獣、特に鉄道に関するものである。細部は重要である。大きな出来事がそれに左右されるからである。そしてラドヤード・キプリングのペンが、ロマンスの要素を虚しく探すこともないはずである。

 

 1896年のドンゴラ作戦を通して、ナイル川は遠征軍とエジプトの基地を結ぶ主要な連絡路だった。すべての物資は可能な限り水運で前線に運ばれた。ナイル川が航行可能な場所であればどこでも利用された。鉄道や駄獣など、他の輸送手段は不可欠ではあったが、補助的なものにすぎなかった。船は他のどの輸送手段よりも輸送量が多く、コストも低い。運行の中断の心配があまりなく、設備は簡単な修理で済み、水路は既にある。しかし、ナイル川は常に利用できるわけではない。何マイルにも渡る急流がその進路を妨げている。他の多くの場所はナイル川が増水しているときしか航行できない。航行可能な区間を繋いで、通信の連続性を維持するためには、鉄道とキャラバンの複雑なシステムが必要だった。*

 *地図「鉄道と河川」

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 ドンゴラ遠征では、アスワンからワディ・ハイファまでと、ケルマからメラウィまでのナイル川の航行可能な二つの区間を結ぶ鉄道が求められた。しかし、ドンゴラ攻略の前に、増水中のナイル川は第三急流からケルマまでの間が航行可能であることが判明したため、この距離は短縮された。その結果、まずはワディ・ハイファからコシェまでの108マイルを建設するだけで良いことになった。ワディ・ハイファがエジプト軍の最南端の駐屯地であった時代には、サラスに強力な駐屯地があった。1885年のナイル遠征では、ハイファからサラスを経由してアカシャまでの86マイルに及ぶ鉄道が完成していた。スーダンが放棄された後、ダルビッシュはサラス以北の鉄道を破壊した。古い盛土はまだ残っていたが、枕木は焼かれ、レールは引き裂かれ、多くの場合、曲がったりねじれたりしていた。1896年当時の状況をまとめると、次のようになる:ワディ・ハイファからサラスまでの33マイルの区間は、すぐに利用でき、使える状態だった。サラスからアカシャまでの53マイルの区間は、部分的な改築が必要だった。アカシャからコシェまでの32マイルの区間は、1885年に完成した10マイルの盛土を除いて、すぐに新しく作らなければならない。そして最後にコシェからケルマまでの区間はナイルの増水が収まる前に完成させなければならない。

 

 それゆえ、工兵隊の士官が最初に行わなければならなかった任務は、サラスからアカシャまでの線路の再建だった。訓練を受けたスタッフも熟練工もいなかった。技術的な知識を持つ兵士の不足は、800人規模の鉄道大隊の入隊によって補われた。彼らは多くの部族や階級から集められた。彼らの唯一の資格は、仕事に対する能力と意欲だった。彼らは雑多な外見をしていた。ダルビッシュの囚人たちは、釈放されたとはいえ、まだジッバ(*マフムード信奉者の衣服)を着ていて、レールや枕木の荷降ろしをする頑健なエジプト人を手伝っていた。ディンカ族、シルク族、ジャアリン族、バラブラ族は盛土で一緒に満足そうにシャベルを振っていた。百人のスーダンの民間人―主に満期兵―も雇われていた。彼らは信頼でき、自分の仕事に特別な誇りを持っていたので、すぐにレールと枕木の釘打ち、協力してのレールのつり上げ、直線化などの技術を習得した。人種も言語もさまざまで、経験も浅いこの人々の労働を指揮・管理するため、下エジプトで民間人の線路工夫の親方たちが高給で雇われた。しかし、ごく少数の例外を除いて、彼らは満足のいくものではなかったため、徐々に、路線の進捗に合わせて仕事を学んだ「鉄道大隊」の知的な男たちに取って代わられた。全作業の計画、指揮、遂行は、その中ではエドゥアール・ジルアードが最もよく知られている、数名の工兵隊下士官に任された。1

1 E.P.C.ジルアード中尉、R.E.エジプト軍。

 

 サラス以南の工事は3月後半に開始された。当初は、経験豊富の将校の指導がほとんどなかったため、多くの未熟な労働者の努力は、重要な結果を生むどころか、ばかげたものでしかなかった。しかし徐々に、若い監督の知識とエネルギー、さらに若い部下の知性と献身が効果を発揮し始めた。建設のペースは上がった。そして経験と技術の工夫によって労苦は軽減された。

 

 線路が長くなると、エジプト軍の現役および予備役の現地人将校や下士官が駅長に任命された。聡明な下士官や兵士が、転轍作業員、警備員、転轍手に転用された。交通は電話で管理された。電話を操作するために、読み書きのできる者が探された―多くの場合、読み書きができるのは自分の名前だけで、それも難しいため印鑑を好むほどだった。彼らは単純な選抜プロセスによって事務員として採用された。彼らの教育を向上させ、鉄道事務のスタッフを養成するために、ハイファに2つの学校が設立された。2本のヤシの木の木陰に作られたこの学校では、20人の生徒が知識の初歩を学んだ。生徒たちの熱意が指導の簡素さを補った。そして、ヤシの木の下での学習は、おそらく文明国の立派な学校よりも早く成果を挙げた。

 

 ハルファ―サラス線の鉄道車両は良く揃っていて、量も十分だったが、8両の機関車は手入れが行き届いておらず、繰り返し何度も何度も手当てをしなければならなかった。通行の定期性が定期的な故障に妨げられて、スーダン軍用鉄道はドンゴラ遠征とその初期に芳しくない評判を得た。また、この企てを嘲笑し、技術者たちに考えなしの憤りをぶつけるために機知を働かせる人々も後を絶たなかった。それでも工事は絶え間なく続けられた。

 

 当初の困難は、予期せぬ災難によってさらに悪化した。8月26日、前章で少し触れた激しいサイクロンのような暴風雨がドンゴラ地方を襲った。

 

 戦争の初期段階に関してある論者は、なぜこのような深刻な結果になったのか、その理由を力説している。2

2 A.ヒリアード・アタリッジ、「ハルツームへ」A. Hillard Atteridge, Towards Khartoum

 

 「雨が日常的に降る国では、技術者は鉄道を谷底に敷設せず、どちらかの斜面の高い位置に敷設する。枝分かれした谷を横切る場合は、すべての盛土に大きな排水渠を設けて溢れた水を排除する。しかし、雨の降らないスーダンと思われていたこの地では、サラスから南に続く線路は、コル・アフルサの長い谷の底を何マイルも何マイルも走っていた。小さな窪地を横切る盛土に排水渠は設けられていなかったし、必要だとも考えられていなかった。そのため、増水が起こったとき、鉄道は急速な洪水によってあちこちが寸断されただけではなかった。鉄道は深く水に覆われ、砕石は押し流され、堤防の一部は破壊され、レールや枕木が大きな空間に宙ぶらりんになったところもあった」。

 

 14マイル近い線路が破壊された。建設部隊のキャンプは破壊され、浸水した。その後、3フィートの深さの砂地から―決して戦争状態がなくなったわけではなかったため―護衛のライフル銃の一部が回収された。盛土が部分的に洪水に耐えた場所では、数マイル四方の大きな湖が出現した。並外れた努力によって、被害は1週間で修復された。

 

 コシェまでの線路が完成すると、すぐにドンゴラへの進撃が始まった。ハフィルでの勝利の後、地域全体からダルビッシュが排除され、エジプト軍はメラウィまで前進した。ここで彼らは河川輸送に頼った。しかし、ナイル川の水量は急速に減少し、第三急流とケルマの間の河川交通が遮断されたため、軍はたちまち足止めを食らう危機に陥った。そのため、コシェからケルマへの線路延伸は極めて重要だった。すぐに測量が開始され、新たに獲得した未開拓地を通る適切なルートが選ばれた。延長された95マイルのうち、56マイルは砂漠を通るもので、建設者たちがここで得た経験は、後にワディ・ハイファとアットバラの間に大規模な砂漠鉄道を敷く際に大いに役立った。大隊が沿線に配置され、盛土に着手するよう命じられた。10月9日、コシェの南で軌道敷設が開始され、全作業は熱狂的なエネルギーで進められた。工事が進むにつれ、そして完成する前に、第三急流からケルマまでの河川は航行できなくなった。軍の存続は、一部完成した鉄道に依存することになった。鉄道の先端からは、精巧なラクダ輸送システムによって物資が運ばれた。毎週、線路は伸び、線路先端は前進し、荷役動物への負担は軽減された。しかし、鉄道建設に支障をきたすことなく野戦軍に食糧を供給するという問題は、非常に複雑で困難なものだった。鉄道の輸送能力は厳しく制限されていた。老朽化した蒸気機関車は頻繁に故障した。他の5台は、短い耐用年数を確保するための大修理中だった。軍を復旧させるために工事を中断せざるを得なかったことも3度あった。しかし、あらゆる困難を克服した。5月初めまでにケルマまでの線路は完成した。そして鉄道大隊の全隊員、下士官、監督は、より大きな事業に目を向けた。

 

 12月の第1週に指揮官がイギリスから戻り、ハルツーム方面への進軍を継続する指示、すなわち許可を得た。一見すると、ナイル川に沿って航行し、航行可能な区間を鉄道で結ぶのが順当なコースと思えるかもしれない。しかし、メラウィからアブ・ハメッドまで、ナイル川は絶え間ない激流で分断されていた。また両岸の地面が荒れていたため、鉄道を敷設することは不可能に近かった。ナイル上流を目指したフランス遠征隊の動きは、スピードの重要性を示唆していた。エジプトの貧しさは節約を強いるものだった。ナイル川のルートは確実ではあったが、時間がかかり、費用もかさむ。近道を見つけなければならない。―(1)1884年に砂漠の隊列がたどったコルティからメテンマまでのルート、(2)スアキンからベルベルまでの悪名高いルート、(3)ヌビアの砂漠を横切ってコロスコまたはワディ・ハイファからアブ・ハメッドまでのルート。

 

 この問題は、戦争の戦略全体に関わるものだった。ハーバート・キッチナー卿がこれほど重要な決断を下したことはない。英国軍師団の要請、マフムードの防御柵への攻撃、その戦闘中のオムドゥルマン方面への左大車輪、マルシャン遠征隊(*フランスとの衝突)の扱いなどは、前進の連絡線の選択ほど重大な決定事項ではなかった。判明していたカリフの戦力から、彼の軍隊を壊滅させ、首都を占領するには強力な軍隊が必要なことは明らかだった。そのため、その先への水路が確保できるナイル川のどこかの地点までの、鉄道輸送が不可欠だった。ベルベルとメテンマが知られていた。そして、アブ・ハメッドはこの条件を満たすと考えられていた。しかし、ベルベルもメテンマも戦略上重要な地点だった。ダルビッシュが厳しい抵抗なしに、ハルツームとスーダンの鍵であるこれらの地域を明け渡すとは考えにくかった。実際、カリフが両町を強力に補強し、その領有を必死に争う可能性は高いと思われた。コルティとメテンマの間、スアキンとベルベルの間の砂漠には井戸が点在していたため、小さな襲撃隊が鉄道を遮断し、その先にいる軍隊を飢えさせるかもしれなかった。従って、ベルベルやメテンマ方面に鉄道を敷設するのは、それらが実際にわが軍の手に入るまでは危険すぎたのである。議論は堂々巡りだ。強力な軍隊なしには町を占領することはできず、強力な軍隊は鉄道が敷設されるまで前進することができず、鉄道は町を占領するまで敷設することができない。

 

 そのため、コルティ―メテンマ線とスアキン―ベルベル線の両方が却下された。スアキンの背後の丘陵地帯に鉄道を敷設するのは大変な労力がかかるという事実が、後者を除外する決意をさらに強めさせた。

 

 アブ・ハメッド経由のルートは、代替案を排除して選択された。しかし、このルートには明らかな利点があった。アブ・ハメッドはメラウィの軍隊の攻撃圏内にあった。ダルビッシュの守備に不可欠な地点ではない。そして、ベルベルやメテンマほど強固な守備が敷かれてはいない。そのため、川沿いに進軍する縦隊で攻略できるかもしれず、それはラクダによる輸送手段でこと足りるほど小規模なものかもしれない。アブ・ハメッドへの鉄道が通過する砂漠には井戸がほとんどないため、小さな襲撃隊が線路を遮断したり、建設部隊を攻撃したりすることは困難である。また、線路がアブ・ハメッドのダルビッシュ守備隊の力の及ぶ範囲に到達する前に、守備隊は追い払われ、その場所は占領されるだろう。

 

 計画は完璧で、論拠は決定的だった。しかし、問題は一つの点に移った。砂漠の鉄道など可能なのか?将軍はこの問題に直面した。彼は専門家の意見を求めた。イギリスの著名な鉄道技術者たちに相談した。彼らは異口同音に、状況を十分に考慮して、この仕事が遂行されなければならない戦争の状況を思うなら、そのような路線を建設することは不可能であると答えた。優れた軍人たちにもこの問題について尋ねた。彼らは、この計画は不可能であるだけでなく、馬鹿げていると答えた。相談を受けなかった他の多くの人々も、この計画全体が狂人の考えであるという意見を述べ、遠征隊の破滅と不幸を予言した。司令官はこうした助言を受け、それについて十分考慮した上で、これ以上遅滞なく鉄道を建設するよう命じた。3

3 しかし、公平を期すために1884年にイヴリン・ウッド卿が、エジプトからスーダンに向かう唯一のルートはアブ・ハメッド経由のものであるとの見解を記録していたことだけは述べておかなかればならない―編者

 

 アブ・ハメッドへの鉄道は、コロスコから出発すべきか、それともワディ・ハイファから出発すべきか。双方の言い分があった。コロスコ線を採用すれば、アスワンから川の上流への行程を48時間短縮できる。かつてのキャラバンルートは、コロスコからムラットの井戸を経てアブ・ハメッドに至るものだった。ゴードン将軍が最後の旅でハルツームに向かったのもこの道だった。一方、ワディ・ハイファには、すでに多くの作業場や建設器具があった。そこはドンゴラ鉄道の北の終着駅だった。これは大きな利点だった。両方のルートが偵察され、ワディ・ハイファからのルートが選ばれた。決定が下されると、すぐに事業が開始された。

 

 すべてを任されたジルアード中尉は、必要な見積の作成を命じられた。ワディ・ハイファの小屋で、彼は包括的なリストを作成した。忘れ物は何もなかった。あらゆる必要なものが用意され、あらゆる困難が予見され、あらゆる必要品が記されていた。決定すべき問題は山積していた。どれだけの輸送力が必要か?車両の数は?蒸気機関車の数は?予備部品は?旋盤の数は?切断機は何台?打ち抜き機や剪断機は何台?どのような信号の配置が必要か?ランプの数は?ポイントはいくつ?トロリーは何台必要か?石炭はどれくらいの量を発注すべきか?水はどのくらい必要か。どのように運ぶべきか?その運搬はどの程度運搬力に影響し、これまでの計算に影響を及ぼすか?どれだけの鉄道プラントが必要か?レールは何マイル必要か?枕木は何千本必要か。枕木は何千本必要か?魚板は何枚必要か?どんな道具が必要か?どんな器具が必要か?機械は?どれだけの熟練労働者が必要なのか?どのような労働力がどのくらい必要か?労働者の食事と水はどうするか?彼らが欲しがる食料はどのくらいか?彼らとその護衛を養うために、1日に何本の列車を走らせなければならないか。プラントを運ぶために何本の列車を走らせなければならないか?これらの要件は、鉄道車両の見積もりにどのように影響したのだろうか?ジルアード中尉は、これらすべての質問に対する答えと、読者を悩ますことのない他の多くの質問に対する答えを、厚さ数インチの分厚い本にまとめた。

 

 どのような状況であれ、この仕事は膨大なものだっただろう。しかし、それは5つの重要な考慮事項によって複雑になった。沿線には水がなかった。不毛の砂漠で2,000人の線路工夫を養うこと自体が問題だった。冬が来る前に工事を完了させなければならなかった。そして最後に、投入された資金を超えてはならなかった。司令官は最後の条件に立ち向かった。

 

 ジルアードは工場と車両を購入するためにイギリスに派遣された。15両の新しい蒸気機関車と200両の貨車が発注された。ハイファでは、必要な新工房が建設された。経験豊富な整備士が指導に当たった。さらに1500人が鉄道大隊に入隊し、訓練を受けた。その後、水の問題が扱われた。偵察調査では、110マイル(アラブ人の証言によれば、残りの120マイル)の区間は確かに「良好かつ容易」であったが、一滴の水も見つからず、井戸のありそうな場所は2カ所しか記されていなかったと報告されていた。ラクダによる輸送はもちろん問題外だった。各蒸気機関車はまず、線路先端まで往復するのに十分な量の水と、事故に備えるための予備を運ばなければならない。どの機関車も、作業が進み距離が長くなるにつれて、必要な水の量は増え続け、最後には輸送力の3分の1が、自分たちが消費する水の輸送に吸収されてしまうことは明らかだった。必要な水の量は、路線の勾配に大きく左右される。平坦な砂漠が、ハイファまで一定の勾配で1,600フィート上っていることが判明し、計算はさらに複雑になった。しかし、この困難には立ち向かわなければならず、1,500ガロンのタンクが100個調達された。それらは貨車に積まれてホースで繋がれていた。そしてスーダンの軍用鉄道の列車の最大の特徴は、車輪のついた巨大な箱が長く連なっていることだった。蒸気機関車の動力と乗客の命はこの箱にかかっていたのである。

 

 砂漠鉄道の最初の一鋤の砂は1897年の初日に撒かれたが、5月にケルマまでの路線が完成するまで、大きな努力はなされず、敷設された線路はわずか40マイルに過ぎなかった。その間、新しい鉄道大隊の隊員たちは訓練を受け、設備は着実に蓄積され、蒸気機関車、車両、あらゆる種類の資材がイギリスから到着した。ワディ・ハイファの作業場からは、絶え間ないガチャガチャカンカンという金槌の音と、製造業の黒煙がアフリカの空に向かって上っていた。文明の悪臭を放つ香が、エジプトの神々を驚かせた。これらは全て準備に過ぎなかった。砂漠への軌道敷設が本格的に始まったのは、5月8日のことだった。建設部隊と鉄道スタッフ全員がケルマからワディ・ハイファに運ばれ、近代戦の大胆な開拓者たちは―歩兵、騎兵、大砲、砲艦が迅速かつ便利に利用できる安全で確実な鉄道を引きずりながら―荒野の長い行軍を開始した。

 

 連絡線とその建設者たちが突入した地域の野蛮な荒廃は言葉では到底表現できない。色鮮やかで滑らかな砂の海は、はるかな地平線まで広がっていた。熱帯の太陽は、素手ではほとんど触れることができないほどに、平らな地表を意味もなく執拗に照らし続け、薄膜のような空気は溶鉱炉の上のようにきらきらと輝いていた。まるで火の海に浮かぶ消炭の島のように、そこここに粉々になった岩の巨大な集団が立ち上がっていた。この広大な広がりの中にあったのは線路の先端だけだった―キャンバス地の町に住む2,500の住民、完備された駅、商店、郵便局、電信局、食堂は、人と思いが生きている世界とは、3フィート6インチ離れた2本の平行な鉄の筋だけでつながっていた。それは広大な景色の中で、蜃気楼によってねじれ、ぼやけ、果てしない距離の向こうに消えてしまうまで、かすんで狭くなっていた。

 

 毎朝、人里離れた何もない場所に、黒い点が現れ、次第に大きくなっていく。そして一日千秋の静寂の中に、汽笛と歓声が響き、自身用の水と2,500ヤードのレール、枕木、付属品を積んだ「資材」列車が到着する。正午になると、もう一つの小さな点がやってきて、同じように大きくなって補給列車になり、自身用の水、護衛の半個大隊と2,000人の工兵と線路工夫のための食料と水、英国人が不自由なく世界を征服するための手紙、新聞、ソーセージ、ジャム、ウイスキー、ソーダ、タバコを運んでくる。そして間もなく、空の列車は出発し、到着したときと逆に進む。そして最後には、非現実的世界との接線を通って宙に舞い上がるように、徐々に消えていく。

 

 この奇妙で孤独な町の生活は、機械のように規則正しいものだった。おそらく、それはこの生活に糧を与えていた鉄路が生み出したものだろう。毎朝3時に「キャンプ機関」は「土手集団」から始動した。夜明けとともに、「資材」列車が到着し、線路工夫の一団がハエのようにその上に群がって、線路の先端まで運ばれた。誰もが自分の仕事を知っており、それが終わればキャンプに戻り、終わるまでは決して戻れないことも知っていた。彼らは命令されるまでもなく、直ちに作業に取りかかった。100ヤードもの長さの資材が降ろされた。枕木は長い間隔で並べられた。レールが枕木の一本一本に打ち付けられた。そして80トンの大きな蒸気機関車が砕石の敷かれていない線路を、まるで象が頼りない橋に挑むように慎重に前進した。この作業は、燃え盛る日中を通して、絶え間なく繰り返された。列車の後方には線路工夫の一団が続き、釘打ちと砕石の工程を完了させた。そして太陽が西の地平線の砂の下に沈むと、蒸気機関車は空の貨車と疲れ果てた労働者を線路先端のキャンプまで押し戻し、完成した恒久的な線路の上に戻ってきた。まるで大洋に浮かぶ定期船の灯火のように、キャンプファイヤーが荒野の中で瞬いている間、士官と部下たちが夕飯を食べながら談笑している間、ここには束の間の休息があった。その後に砂漠の暗闇と静寂が続いて、朝が来ると、また灼熱の太陽と労苦の長い一日が始まる。

 

 毎週、毎週、仕事は続いた。数日ごとに、荒野へのさらなる前進が見られた。風景は変わったが、変わらなかった―「違っても、同じ。」ワディ・ハイファが遠くなり、アブ・ハメッドが近くなるにつれて、線路先端の住民たちが暮らす奇妙な状況に、危険な要素が加わった。もしダルビッシュに背後の連絡線を切断されたら?彼らには3日分の水があった。その後は、障害が取り除かれ、交通が回復しない限り、全員が砂の中で弱って死んでしまうに違いなく、彼らの骨と調理鍋だけが、その事業の愚かさを証明するだろう。

荒野へ

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 7月20日までに130マイルの行程が終了し、ダルビッシュ軍の掃討が完了するまで、これ以上前進することは危険になった。しかしラクダは速く、遠くまで移動する。前進は阻止されるかと思われたが、8月7日、ハンター将軍はメラウィから川岸に沿って進軍し、アブ・ハメッドを攻撃して占領した。この作戦については後述する。工事はすぐに新たなエネルギーで再開された。一日で5,300ヤードの線路が測量され、堤防が築かれ、敷設された。11月1日、アブ・ハメッドに到着した。砂漠を越えて戦ってきた兵士たちは、ナイル川のほとりで、川に沿って戦ってきた兵士たちと手を結んだ。

 

 しかし、この緊張と苦難が、建設者たちに影響を及ぼさないわけがなかった。ドンゴラ鉄道と砂漠鉄道の敷設に携わった8人の工兵隊下士官のうち2人が死亡した。4彼らの代わりは、他の者が熱心に務めた。建設隊の隊員については、ほとんど記録が残っていない。彼らは現地の状況に慣れており、太陽の熱で体力を消耗することはなかった。とはいえ、砂漠には多くの名もなき塚があり、線路先端の町の変遷を物語っている。そして、この世において、何らかの良いことは、その代価を支払う者なしに成し遂げられたことはない、ということを示している。

 4 R.ポルーヘレ中尉、R.E.およびエジプト軍。E.M.S.ケイター中尉、R.E.およびエジプト軍。

 

 幸運にも水が発見されたことで、路線の完成は1カ月近く早まった。7月初め、ハイファから77マイルの地点にある「第4駅」に井戸が掘られた。5週間の作業の後、深さ90フィートの地点で豊富な水が見つかった。蒸気ポンプが設置され、井戸からは絶え間なく水が供給された。10月には、さらに55マイル先の「第6駅」に2本目の井戸が掘られ、そこからさらに大量の水が得られた。これらの発見は、水の問題を解決するものではなかったが、変化をもたらした。この発見によって連絡線の輸送能力は大幅に向上した。この発見によって、建設作業員たちがさらされる危険が減少した。井戸の掘削は、友好的なアラブ人たちに嘲笑された仕事だったが、司令官の個人的な発案により、ゴリンジ中尉5によって始められた。しかし、この成功は計算のみならず、運によって勝ち取られたものだったことを、記録者は公平に述べておかなければならない。というのも、最初の2本の井戸が掘られて以来、さらに深い8本の井戸が掘られたが、一度も水を得ることができなかったからである。

 5 G.F.ゴリンジ中尉、E.E.およびエジプト軍。

 

 鉄道が敷設されると、もちろん電信線も敷設された。すべてのレールや枕木には、それに見合った電信柱、碍子、電線が付けられていた。アラブ人に対する軍事作戦のこの部分を管理していたもう一人の工兵下士官、マニホールド中尉6も、メラウィからアブ・ハメッドまで電線を敷設し、鉄道と河川の全周にわたって即時の通信が行われるようにした。

 6 M.G.E.マニホールド中尉、R.E.およびエジプト軍。

 

 11月3日、ハーバート・キッチナー卿は、彼の意見によって生み出され、彼の人格の力によって迅速に建設された路線を旅する満足感を味わった。彼は、それまで10日間かかっていた旅を16時間で成し遂げた。戦争末期、彼がファショダから帰還したとき、熱狂した下士官たちはこの記録をさらに上回って、彼の列車をアットバラ要塞からワディ・ハイファまで―384マイル―を13時間で無理なく走らせた。

 

 鉄道大隊とその将校たちの労苦は、アブ・ハメッドまでの路線の完成で終わらなかった。砂漠の鉄道は完成した。今度はそれを維持し、整備し、急速に拡張しなければならなかった。ハイファの終着駅は賑やかな町になった。泥の村はミニチュアのクルー(*イングランドの鉄道の街)に変貌した。線路とともに発展した大きな作業場には、多種多様の精巧な機械が設置された。カイロで購入された、あるいはイギリスから徴発されたあらゆる種類の設備が、イスマイルのスクラップ山から集められた端材とともに、発着場を驚くほど多様な貯蔵品で埋め尽くした。鋳造機、旋盤、ダイナモ、蒸気ハンマー、油圧プレス、キュポラ炉、ねじ切り機、ドリルなどが設置され、絶え間なく稼働していた。それらには常に注意を払う必要があった。

 

 それぞれを修理するためのあらゆる器具が必要だった。軍への補給と路線の拡張に必要なトン数を運搬するためには、最終的に40両近い蒸気機関車が必要になった。異なる時期に異なる国から購入されたこれらの蒸気機関車には、10の異なるパターンがあり、各パターンには特別な予備部品が必要だった。蒸気機関車の一部は古く、すでに消耗していた。これらは定期的に故障した。すべての摩擦部品は砂漠の砂の影響を受けるため、絶え間ない注意と修理が必要だった。作業場は週7日間、昼夜を問わず忙しかった。

 

 機械の複雑さに加えて、言語の混乱もあった。さまざまな人種の原住民が作業員として雇われた。工場長はヨーロッパから招聘された。店では7つ以上の言語が話されていた。ワディ・ハイファは第二のバベル(*神が人々の言葉をバラバラにした)になった。それでも事業は繁栄した。技術士官たちは機転と気性の良さを発揮した。彼らの責任者は冷静で不屈だった。司令官は全体を規則正しく管理していた。普段は無愛想で、せっかちなことは稀で、決して理不尽なことを言わない彼は、作業場や線路内を動き回り、すべてが経済的かつ迅速に進んでいることを確認した。普通の労働への共感ゆえに、彼は下士官たちに愛された。スーダンにおいて鉄道の上ほど、彼がよく知られていた場所は他になかった。彼がこれほど熱烈に信じられていた場所は他になかった。彼がその信頼に値したことは論を待たない。彼がその愛情に応えたかどうかは、もっと疑わしい。

 

 線路先端の軍隊が増えるにつれて、線路への負担は増大した。新しい蒸気機関車を発注しなければならなかった。監督は愛国心からイギリスに注文を出した。しかし、イギリスでは蒸気機関車業界のすべての工員は大規模ストライキに忙しく、機関車を製造する暇がなかった。しかし、スコットランドのニールソン社がブルワヨ鉄道のために製造した機関車が何台かあった。緊急の課題だった。通信手段の途絶を防ぐため、エジプト軍がこれらの機関車を2、3台購入できるよう、南アフリカ鉄道の社長に要請することにした。それに従って、その要請がなされた。社長は偶然にもセシル・ローズ氏だったが、即座に気持ちよく承諾してくれた。南アフリカの草原を横断していたかもしれない5両の機関車が、今ではナイルのほとりを走っている。それでも、いつかはケープタウンに到達するかもしれない。

 

 蒸気機関車業界の麻痺が続いたため、さらに3両の蒸気機関車を米国に発注する必要があった。英国の産業を潤すはずの資金が、アメリカの産業を刺激したのである。この注文は少額ではあったが、熱心に受け入れられ、迅速に実行された。新型機関車は滞りなく納入された。そして商業上の大ライバル同士の製品を比較するのは有益なことだろう。

 

 イギリスの蒸気機関車は貨物輸送用に設計され、アメリカの蒸気機関車は旅客輸送用に設計されたため、両者の相対的な速度と牽引力を調べることはできない。しかし、アメリカ製蒸気機関車の方が納入が早く、1,000ポンド安かったのは特筆すべきことである。故障はほとんどなかった。類似した部品はすべて交換可能だった。もし2両の蒸気機関車が故障しても、3両目から修理のための材料が供給できたかもしれない。アメリカ製機関車はかなり速かったため、すぐに評判が上がった。そして、前線に行く兵士は自分の名誉を守るため、自国の機関車を避けようとした。

 

 下士官たちは言った「これらは、英国の労働力よりも高いクラスの労働力の産物である。手間を要さず、性能が高い。見栄えがおろそかにされることはなかったが、目立たない部分に無駄な『仕上げ』が施されることはなかった。こうして経済性が高められ、効率性が保たれた。」こうした事実を記録するのは嬉しいことではない。残念ながら、それは新しいことですらない。鉄道と戦争に話を戻そう。

 

 ここで、事態の経過を先取りしなければならない。鉄道がアブ・ハメッドに到着するや否や、同地を押さえていたハンター将軍の部隊は、ラクダによるメラウィとの細々とした連絡を捨て、新しい鉄道でワディ・ハイファから直接補給を受けた。砂漠線が完成した後も、まだ17マイルの建設資材が残っていたため、鉄道はすぐにアブ・ハメッドの南16マイルのダヘシュまで延伸された。その間にベルベルが獲得され、軍事的な配慮から、この町を維持するために大規模な部隊を集中させざるを得なくなった。メラウィに残っていた4個大隊は下流のケルマまで船で下り、そこで列車に乗って、ハイファとアブ・ハメッド経由でダヘシュまで移動した―450マイルの旅だった。

 

 砂漠横断鉄道が敷設された当時、ナイル川はアブ・ハメッドより上流では常に航行可能だと信じられていた。かつての作戦時にナイル川は偵察されていて、水路は開けている、とされていた。しかし、ナイル川が減水すると、それが事実でないことが明らかになった。水位が下がるにつれて大急流が出現し、これを避けるためには、まず鉄道をバシュティナブまで、さらにアバディアまで、そして最終的にはアットバラまで延伸することが必要になった。そのためにはさらに資金を調達しなければならず、財政難はいつものことだった。しかし、最終的にこの問題は解決し、1日1マイルのペースで延長が始まった。アブ・ハメッドからアットバラ川までの間は、土地の特徴がかなり異なる。最初の60マイルはナイル川に沿った河岸地帯の縁を走っていた。右手は耕作可能だがほとんど耕作されていない細長い土地で、長い間放置されて、細かい砂が堆積して砂丘になり、その砂丘には、ごつごつしたドームヤシや棘だらけのミモザの茂みが散在していた。これらの黒ずんだ木々の枝の間には、涼しげで魅力的な川がきらめいていた。左手は砂漠であって、ここでは沢山の岩や乾いた水路で凸凹している。バシュティナブからアバディアまでは、ナイル河畔の非常に困難な地形を避けるため、さらに50マイルの砂漠区間が必要だった。アバディアからアットバラまでは、広い体積土砂を横切る最後の区間である。堆積土砂の表面には、秋の雨で水を得た、見た目は悪いが有難い木陰を作るプラタナスが生い茂っている。鉄道が雨の降らなくはない地域に差し掛かったことで、建設の労力は増大した。盛土が水に流されるのを防ぐために、10本の橋と60本の暗渠を作らなければならなかった。通常の設備に加えて1,000トン以上の資材を鉄道で運搬しなければならなかった。7

7 作業隊にレールや枕木などの資材を定期的に供給することは、事業全体の成功に不可欠な業務だった。すべての功績は、連絡線の別々の段階にいた3人の将校、ワディ・ハルファのJ.G.マックスウェル少佐(D.S.O.)、アスワンのO.H.ペドリー大尉(p.s.c.)、カイロのW.ステーブリー・ゴードン大尉のものである。―編者

 

ベルベルへの増援部隊の到着によって、前線の戦闘力は倍増した。補給の仕事も倍増した。拠点から1000マイルも離れた砂漠で、しかも一日の行軍の後に明白な生存の手段を持たない軍隊に食糧を供給するという仕事は、食糧を前線に運ぶ鉄道の建設に劣らず重要なものだが、絵になるものではない。補給と輸送はともに立ち上がり、ともに倒れる。歴史はその両方に左右される。河川戦争における兵站の側面を説明するために、私は再びこの説明を繰り返し、また先取りしなければならない。司令官は補給部門全体を直接、個人的に監督していたが、彼の行動はほとんど糧食の配給に限られていた。配給の蓄積と定期的な供給はロジャース大佐の仕事だった。この将校は3年間、正確な計算と不測の事態へのゆるぎない対応ゆえに、軍の補給担当者として取った高い評判に十分ふさわしかった。

 8 J.ロジャース中佐、A.S.C.およびエジプト軍。

 

 この戦争において軍事的に最も必要だったのは、すでに述べたように、エジプト軍の大部分をアカシャに配置することだった。通常の状況なら、これは深刻な兵站の問題にはならなかっただろう。辺境に備蓄されていた食糧は、そのような緊急事態にも対応できるよう計算されていた。しかし、1895年のエジプトの農作物は平年を大幅に下回っていた。1896年の初めには、穀物が非常に不足していた。進軍命令が出されたとき、辺境の穀物備蓄はほぼ枯渇していた。新穀は4月末まで収穫できなかった。世界はエジプトを広大な穀倉地帯と見なしていたが、その兵士たちはインドとロシアから4,000トンのモロコシと1,000トンの大麦を購入しなければならなかった。

 

 ほとんどの軍隊において、兵士の主食はパンである。わが国のいくつかの戦争ではパンが悪かったり、硬いビスケットで代用されることが多すぎたために、兵士の健康、ひいては効率が損なわれた。川の上流の軍隊では、1年以上にわたって毎日20トンの小麦粉を食べ、適切な品質を要求することが義務である兵站部将校と―しばしば利益のみを追求する「ならず者」という蔑称に値する―請負業者との戦いが、通常であればどれほど苛烈なものであるかは容易に想像がつく。しかし、管理の行き届いたエジプトでは、そのような困難は生じなかった。1892年、陸軍省はカイロ近郊にあったイスマイル・パシャの砲兵工廠のひとつを食料供給基地に改造した。ここには、小麦粉を挽くための自前の製粉所、毎日6万食分のビスケットを製造するための機械、さらには石鹸を作るための機械までが設置されていた。この賢明な手配には、3つの大きな利点があった。第一に、供給の品質が保証された。パンやビスケットに対する苦情はほとんどなくなり、石鹸は―請負業者が以前支給していた石くずと脂の混合物とは対照的に、兵士が実際にそれで体や衣服を洗うことができたため―非常に珍重された。第二に、請負業者が納期に間に合わないというリスクをすべて回避できた。最後に、この経済効果から生まれた資金は、150人のパン職人からなる有用な軍団の結成に活用された。こうして、外国産の穀物の購入が出費を増やしたとはいえ、戦争が始まると、エジプト軍の兵站部は徹底的に効率的な状態にあった。

 

 アスワンに膨大な備蓄が瞬く間に蓄積された。この貯蔵庫からは、司令官の直接の許可なしには、1オンスたりとも食糧が出されることはなかった。ワディ・ハイファに設置された補助倉庫でも、同じ規則が適用された。最高責任者がすべての責任を負ったのである。参謀長が各部門の責任者から絶え間ない砲撃を受けるような事態は、幸いにも避けられた。アカシャには前進を可能にする十分な物資が蓄積されており、ファーケットの戦闘が起った。(*ドンゴラ近郊、1896年)ファーケットの後、状況は困難になった。補給将校の課題は、食糧を運搬する鉄道の進行を遅らせず、部隊を生存させることだった。ハイファからコシェまでの河道を次々と塞ぐ大急流を、盗難や水害で平均50パーセントの損失を出しながら、少量の食料を苦しみながら引いて上った。線路先端から先はラクダ輸送隊が用いられた。しかし、この路線がコシェに到達するまでは、輸送の資源はひどく逼迫していて、一時は実際の飢餓を避けるために、騎兵部隊を北に送る必要さえあった。目的に対する手段の明らかな不十分さは、軍がドゥルゴから南下したときに最高潮に達した。ドンゴラまでの行軍と船旅には10日かかると見積もられていたが、これはラクダと蒸気輸送の最大限の能力だった。数隻分の穀物が手に入るかもしれないし、数握りのナツメヤシが収穫されるかもしれなかったが、現地では物資はほとんど入手できないと思われた。唯一の定期輸送手段だった帆船は、すべて逆風のために遅れた。幸運は決定的な瞬間に訪れた。運良く行軍初日に北風が吹き始め、ラクダや汽船で運ばれた物資を上回る12日分の物資が、部隊とともにドンゴラに到着したのである。鉄道がケルマに到達するまでの間、軍隊は手から口へという状態だったが、その後は深刻な補給難はなかった。

 

 これでドンゴラ遠征終了までの兵站に関する記述は完結した。しかし、ここから先は鉄道建設と一緒に話を進めた方が好都合だろう。アブ・ハメッドの段階では、物資の供給は非常に統制されており、キャラバンルートを通ってムラットの井戸から移動する輸送隊は、戦いの翌日に到着した。アブ・ハメッドに続くベルベルの予期せぬ占領は、この戦争で最も困難な状況を生み出した。ベルベルに鉄道が敷かれるまでは、特別に不便な補給路を使わざるを得なかった。ラクダの隊列は荷の30%以上をばらまきながら、メラウィからアブ・ハメッドまでの、荒れた困難な土地を蛇行しながら進んでいった。この連絡線は、ムラートや近づきつつある線路先端からの他の輸送隊によって強化された。そして船とラクダの運搬組織が物資を目的地まで濾過した。

 

 鉄道がダヘシュに到着したときでさえ、緊張はほんの少ししか緩まなかった。線路の先端から108マイル離れたベルベルの大部隊に補給するためには、船とラクダによる巨大で複雑な輸送システムを維持する必要があったからである。もちろん、鉄道が進むにつれて、川や港の段階が次々と吸収され、困難は減っていった。しかし、1897年12月にカイロからベルベルまで運ばれたビスケット1箱の行程をたどれば、その困難の大きさがわかるだろう。ルートは以下の通りである:―カイロからナグ・ハマディ(340マイル)まで鉄道で、ナグ・ハマディからアスワン(205マイル)まで船で、アスワンからシェラル(6マイル)まで鉄道で、シェラルからハイファ(226マイル)まで船で、ハイファからダヘシュ(線路先端)まで―248マイル―軍用鉄道で;ダヘシュからシェレクまで(45マイル)船で、シェレクから急流を回避してラクダでバシュティナブへ(13マイル)、バシュティナブから船でオムシェヨへ(25マイル)、オムシェヨから通行不能の場所を回避してラクダでジェニネッティへ(11マイル)、そこから船でベルベルへ(22マイル)。このビスケットの箱が通る道を、1万人の兵士が必要とするすべての物資が通ったのである。軍の福利と戦争の成功には、長く多様なチェーンが途切れることなく機能することが不可欠だった。各セクションに十分な物資が供給されて、どのセクションも詰まったり飢えたりしていない状態でない限り、これを維持することはできない。

ギャッシャ:船

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 この問題は、船を遅らせる不確かな風、病気になったり死んだりするラクダ、何度も故障する蒸気機関車に関係なく、輸送担当官によって毎日正確に解決されなければならなかった。あらゆる困難に直面しながらも、定期的な供給は維持された。鉄道の建設が遅れることもなく、部隊の食糧が減らされることもなかった。

 

 路線は急成長を続け、成長するにつれて供給の困難は減少した。重量はラクダの背中や帆船の船底から、鉄路の貨車に移った。蒸気の力強い手が戦争の遂行に向けられ、列車の迅速さが、キャラバンのつらいとぼとぼ歩きに取って代わった。ベルベル方面へのダルビッシュ軍の進撃は、鉄道の前進を妨げた。軍事的な警戒が不可欠だった。建設は、カイロから前線に向かう第1イギリス旅団の通過と、それに伴う日々の物資の増加によって遅延した。しかし、3月10日にはバシュティナブまで完成した。5月5日にはアバディアに到達した。7月3日には、ワディ・ハイファからアットバラまでの鉄道全てが完成し、南側の終点は川の合流点にある大きな塹壕陣地に設けられた。(*1898年)

 

 補給の問題には、これできっぱりと決着がついた。1週間もしないうちに、3ヵ月分の物資が沿線に供給されて、兵站部将校の重労働は終わった。彼らの後継と功績は、鉄道局員のより大きな勝利に統合された。

 

 監督と下士官たちは長きに渡って苦心を重ねた。そして、その努力は完全な成功を収めた。全員が高い資質と創造性を発揮した。彼らの忍耐は見事なものだった。彼らのエネルギーは疲れを知らなかった。冒険とは無縁の苦難や、興奮とは無縁の危険にも耐えた。戦争の華やかさも環境もすべて、彼らの手を通り過ぎると重みが減った。彼らの功績を評価した者はほとんどいない。そのわずかな人たちの中に、彼らの事業を指揮し、鼓舞した指揮官がいることは喜ばしいことである。ジルアードはその後、エジプトの鉄道管理局のトップに据えられており、その重要な職責において、彼の持つ優れた資質をさらに十分に発揮することができるだろう。下士官たちは殊功勲章(*D.S.O.)を受章した―この勲章は、その功労というよりは階級にふさわしいものではあるが、それでもなお、新たな機会を得る助けになるであろう、兵士が望み得る最高の褒賞である。勲章に加え、休暇も与えられた。ハイファから南下する最後の列車と、アットバラの野営地から出発する最後の汽船が、鉄道局員を前線に運んだ。彼らは、さまざまな准将の副官として、命を落とす可能性も、それを成し遂げるために彼らが長く働き、よく働いた大きな出来事を目撃する可能性も、すべて与えられた。9

9 鉄道および補給スタッフの氏名については、付録 A、第 2 巻を参照のこと。

 

 最初の部隊列車がナイル川とアットバラ川の合流点にある要塞化されたキャンプに乗り入れたその日、ダーヴィッシュたちの運命は決まった。今や、季節や土地の資源に左右されることなく、便利かつ迅速にスーダンの中心部に大軍を送り込むみ。豊富な食糧と弾薬だけでなく、科学的な戦争に必要なあらゆる道具を彼らに供給し、川を支配し、岸辺を見渡すことができる強力な砲艦の船団によって陸上での行動を支援することが可能になった。いつでもハルツームを通過してセナー、ファッショダ、ソバットへまでも進むことができるようになった。戦いはまだ終わっていなかったが、勝利は勝ち取られた。カリフとその首都、そして彼の軍隊は、今や司令官の手の届くところにあった。あとは、最も都合の良い時期に、最も苦労なしに、最も少ない犠牲で、その果実を摘み取るだけだった。

 

2023.11.18