南アフリカの調停

 

THE CONCILIATION OF SOUTH AFRICA

House of Commons, April 5, 1906

WINSTON SPENCER CHURCHILL

 

南アフリカの調停

1906年4月5日、庶民院

ウインストン・スペンサー・チャーチル

 

 

訳者より:1909年に出版されたチャーチルの演説集”LIBERALISM AND THE SOCIAL PROBLEM”の中の一編です。
原文:
https://www.gutenberg.org/files/18419/18419-h/18419-h.htm#THE_CONCILIATION

 著作権はチャーチルの死後50年を経た2015年に切れています。
 文中の*は訳者注です。

 

 南アフリカの調停(*植民地省政務次官としての発言)

 当議会が開始されてから、トランスバール憲法とオレンジ・リバー植民地憲法の議論において、我々は長い道のりを歩んできました。政権交代が行われたとき、我々の前にあったのはリッテルトン氏(*南アフリカ高等弁務官チャールズ・リッテルトン、第8代コバム子爵)の憲法でした。この憲法は代理(*暫定的)政府を定めていましたが、責任政府(*responsible government)を定めていませんでした。もし本国政府が変わらなければ、この憲法の下で今年の3月に選挙が行われ、6月に議会が開催されているはずでした。(*1905年12月5日、保守党・自由統一党政権が自由党政権に交代した)ちょうど12月に政府が変わったとき、二つの問題が生じました―駐留英軍の兵士に投票権を与えるべきかどうかという問題と/三十選挙区ではなく六十選挙区にしたほうがいいのではないかという問題です/そしてこの二つの問題は勅許状の変更を必要とするため、政権交代の結果とは関係なく、両植民地に与えられる政府の形全体を再検討し見直す機が熟したのです。

 リッテルトン氏の憲法を検討する際に最も簡単に思いつく反論は、この憲法は実行不可能であるということでしょう。この憲法では三十五名、その後六十名の被選挙議員に増員される予定であった議会に六名から九名の指名を受けた閣僚が置かれることになっていました。閣僚の立場はかなり困難なものとなります。閣僚はしばしば、かなり厄介な案件を弁護しなければなりません。有利な事実がない場合には、機転を利かせなければならず、それができない場合には、支持者の忠誠心に頼らざるを得ません。しかし、どのような閣僚も任官された軍隊か、組織された党の多数派のいずれかが背後になければ、自らの道筋を全うし、成功を収めることはできません。リッテルトン氏の閣僚たちにはそのどちらもありませんでした。代理政府ではなく責任政府を公然と支持する議員が大半を占める議会で、彼らは孤立し、絶望的な劣勢に立たされたことでしょう。この閣僚たちは一人の例外を除いて議会での経験がなく、議会での能力は確認されていませんでした。彼らは反対派が大多数を占める議会で法案や概算書を通すことを余儀なくされたことでしょう。このとき、我々がこの重大な義務を閣僚たちに負わせたために、この国で彼らの権限の下で行われたすべてのことについて、我々自身が全責任を負わなければならなかったのです/そして彼らの権限は、現状では彼らがコントロールできない議会を通じてのみ行使することができるのです。

 当委員会の皆さんは、先住民の問題、シナ人条例の運営の問題、そして現在南アフリカで我々が関わっている数々の複雑な問題に関して、これらの閣僚にダウニング街や庶民院から送られた電報や質問を容易に想像することができるでしょう。味方がほとんどいない敵対的な議会でこうした窮地に立たされた閣僚たちの立場はどのようなものだったでしょうか―そうした議会で彼らが生き残るどのような見込みがあったのでしょうか。そのような緊張にさらされては、彼らが打ちのめされ、議会が激高し、考え得るあらゆる問題で互いに違う意見を持つ政党、民族や宗教や言語によって互いに異なる政党が、共に外部からの干渉と官僚政府を憎むことで団結していたことは確実ではないでしょうか。その場合、我々はすぐに丘のふもとにたどり着いていたはずです。迅速な移行が行われていたはずです。立法議会は自らを憲法制定議会へと転換し、現在政府が好意と名誉と権威をもって譲歩しているものを、すべて力ずくで手に入れたことでしょう。こうした理由から陛下の政府は代理政府の段階を完全に省き、責任政府の段階に直接進むのが正しいという結論に達したのです。

 政治と戦争は同じであります。一つの峰線を離れたら、次の峰線に行く必要があります。その間の谷で中途半端に立ち止まるなら、迅速かつ確実な破滅を招くことになります。英国王直轄植民政府、あるいは適切に指名された多数派の政府という安全な立場を放棄した瞬間、責任ある立法議会とそれに従う行政府にたどり着くまで、立ち止まって足の裏を休ませることができる場所はどこにもないのです。こうした議論を経て陛下の政府は1905年3月31日に発行された勅許状を破棄し、リッテルトン憲法を終わらせる必要があると確信いたしました。この憲法は数多くの著名人に絶縁されたり、流産されたりした政治的結末のために用意された、一種の冷たいリンボー(*忘却の彼方、辺獄)のような、「ネバーネバーランド(*おとぎの国)」へと消えていくことになるのであります。

 政府および政府を支持する皆さんは南アフリカの政策におけるこの最初の最も重要な一歩を、非常に広く大きな合意、実際、ほとんど満場一致に等しい意見の一致をもって踏み出すことができたことを喜ぶかもしれません。南アフリカの両民族(*イギリスとオランダ)、すべての党派、すべての階級、すべての地区が、陛下の政府が採用した代理政府を放棄し、責任政府へと一挙に移行する方針に同意しています。これは今では非常に素晴らしいことでありますが、ずっとそうだったわけではありません。前議会に出席された皆さんは、かつてはそうではなかったことを覚えておられるでしょう。ミルナー卿(*ケープ植民地長官アルフレッド・ミルナー、初代ミルナー子爵)は責任政府の実現に全面的に反対されていたことを記憶しています。リッテルトン氏は昨年の青書で、責任政府がいかに無益で危険なものであるかを何ページにもわたって説明されました/また西バーミンガムの議員殿(*ジョセフ・チェンバレン:ネヴィル・チェンバレンの父)は、今議会の初日に当然のように政府の決定を受け入れられましたが、前議会における演説ではトランスバールに責任政府を与えるのは完全に時期尚早と考えている、と非常に厳粛かつ力強い言葉で述べておられました。しかし今や、すべてが捨て去られました。西バーミンガムの議員殿が、反対党派の名において、陛下の政府の方針を受け入れると発言されたのを私は聞きました。今日の午後、ブラックプールの議員殿(*ヘンリー・ウォースリー・テイラー)がトランスバールにできるだけ早く責任政府が置かれることを希望すると発言されたのを耳にしました。オレンジ・リバー植民地については私が知る限り、野党第一党はトランスバールと同時には与えず、遅らせるべきである、と考えておられるということは事実です/しかし西バーミンガムの議員殿の見解は違うようです。1905年7月27日、庶民院で紳士殿はこう発言されました。

 「現在トランスバールに与えられているものと同じ政府が、オレンジ・リバー植民地には与えられていないという異議も唱えられている。この実験はオレンジ・リバー植民地で行われた方がずっとよかったと私は思う。確かに、この植民地ではオランダ人またはボーア人の人口が圧倒的に多い。しかし長い経験によって彼らが最も有能で穏健な行政者であることが知られている―ブランド大統領の立派な統治下で、彼らは南アフリカ全体の模範となっているのである/そしてこの実験には危険が伴うと思うが、私自身はまずオレンジ・リバー植民地でリスクを取るのがよいと考えるようになった。」

 議員殿が代理政府について話をされていたということは事実です/しかし、征服された植民地の人々をその植民地の政府に参加させるという前進がなされるのであれば、まずオレンジ・リバー植民地においてなされるべきだと、議員殿が考えられていたということに異論はないでしょう。しかしいずれにせよ、トランスバールへの責任政府の付与に反対する党派が、我が国にもトランスバールにも存在しないことはいまや疑いのない事実であります。これは大きな前進であり、関係者全員の承認を得て第一歩を踏み出すことができたということであります。

 しかし、野党は責任政府の付与に対する抵抗を放棄した上で、いかなる理由があってもリッテルトン憲法の基本を外れてはならないと主張しています。私はこの議論に納得できません。政府は新しい目的を追求しなければならないのに、古い枠組みを守らなければならないのです。リッテルトン憲法の頭を切り落とし、古い幹を残して新しい頭を移植しようというのです。私にはいかなる政府も、リッテルトン憲法の枠組みや細目に縛られつつ、妥協のない、自由な新しい視点からこの問題に取り組むことができるとは思ません。この憲法には多くの優れた原則が含まれているかもしれません、しかし政府には最初から新たに、そして自由に物事を考え、自らの考えに従って計画を立て、その計画を議会の承認のために提示する権利があるのです。

 南バーミンガムの高貴な議員殿(チャールズ・ハワード、第10代カーライル伯爵、当時は庶民院、後に貴族院議員)は、リッテルトン憲法で具現化された「一票の価値の平等」の原則について述べられました。「一票の価値の平等」はそれ自体、民主主義のオーソドックスで揺るぎない原則であります。論理の、数の原則であります。もし、ある人を子沢山だから、田舎に住んでいるからという理由で他人と差別しようとするなら、別の人を頭がいいから、お金持ちだから、町に住んでいるから、その他、他人と区別できるあらゆる理由で差別するべきである、という議論ができるでしょう。(*オランダ系のボーア人は地方の農民の大家族が多かった。イギリス系住民は都市部に多く、男性の比率が高かった。以下この二者の利害関係が論じられている。)唯一の安全な原則は、選挙においてはすべての人が平等であり、投票権は可能な限りすべての人に均等に配分されるべきである、ということではないでしょうか。

 トランスバールにおける「一票の価値の平等」の原則は、投票者という基準(*basis)の上にのみ成り立ちうるのであります。他の世界のほとんどの国では、人口は選挙母体と同じ、選挙母体は人口と同じ通常の分布をしております。どちらの基準でも、選挙民の分布は同じになります。たとえば我が国には他のどこよりも結婚率が高い地域、独身率が高い地域、多産な地域はありません。トランスバールという、二面性と奇妙な矛盾に悩まされ、すべてがねじれ、乱れ、変則的なこの国においてのみ、投票者数を基準とした議席配分と人口を基準とした議席配分との間に大きな不均衡があるのです。町では食料品が高価であるため都市部の人口増加は制限されており、大家族の暮らしにはのんびりした田舎の方が都合が良いようであります。(*大家族には女性や未成年者が多く有権者が少ない)トランスバールの憲法に「一票の価値の平等」の原則を適用しようとするならば、この原則は―それが本当に達成可能なものなのかどうか、私には確信がありませんが―投票者基準によって最も良く達成されるのであり、リッテルトン氏が制定した憲法がこの基準に基づいていることは、科学的かつ揺るぎない事実であります。

 しかし、リッテルトン氏の計画はそれだけに留まりませんでした。こうした投票者の基準の隣に年収100ポンドという不自然な財産要件があったのです。南アフリカにおいてこの資格基準を満たすことは我が国でそれを満たすよりもずっと容易なことであります、そして人口30万人のうち8万9000人を投票者としたのであり、これは新しい国の変則的な状況を考慮しても、我が国やアメリカやヨーロッパの国々よりはるかに豊富な選挙権であるため、不自然ではあっても、リッテルトン氏の提案したものを民主的ではない投票権とは呼べないと思います。(*当時イギリスでは成人男性の56%が選挙権を持っていた。半数が女性、15%が未成年とすると人口30万人あたりの投票者は7万1400人となる。)それゆえ私はリッテルトン氏が非民主的な選挙権を策定したという非難はいたしません、しかしこの二つの点―必然的に互いに作用し、反作用したであろう―基準となるものの分布の異常と明らかに不自然な選挙権―を取り上げるなら、そこには少なくとも人為的にバランスの片方を弱体化させ、反対側を有利にするための何らかのごまかしや企みの意図があったのではないか、と疑われる十分な理由があるのではないでしょうか。(*成人男性の比率が高く、所得が多い都市部の、すなわちイギリス系の投票者がより多くなり、議席の配分が多くなる。)

 国事を取り扱う上で、ごまかしほど致命的なものはありません。過ちは許され、苦しみや損失は許されるか忘れ去られ、戦いは兵士の武勇を思い起こさせるものとしてのみ記憶されるでありましょう/しかし言い抜けやごまかしのようなものは、決して消え去ることはありません。政府は南アフリカにおいて公正なことを行うだけでなく、南アフリカが公正と受け止めることを行うよう配慮しています。政府は単に民族を平等に扱うようにバランスを取るだけではなく、双方の民族が受け入れられるようなバランスを取ることに関心を寄せているのです。

―――――

 我々は不当な非難にも誠意をもって対応いたします。南アフリカにおける英国の主権の永続性と安全性は陛下の閣僚たちにとって些細な問題ではありません。我々がトランスバールの英国人から本来彼らに属するはずの数的優位を騙し取ろうとしているなどと思われている議員殿は決していらっしゃらないでしょう。我々は政治的に敵対している皆さんと同じく、南アフリカにおける英国の支配権(*supremacy)を維持することを望んでいます。しかし、我々はそれを別の方法で守りたいと思っているのです。この議場における南アフリカの政治に関する考え方の会派には、深い違いがあります。我々は南アフリカにおける英国の権力は二本の足で立つべきだと考えています。あなた方(*旧与党、保守党・自由統一党)は十年間一本足で立つよう努力されてきました。こちら側はイギリスの支配が南アフリカで続くためには、イギリス人だけでなくオランダ人の同意も必要であると考えています。南アフリカにおける王室の地位、そして南アフリカにおける王室の代理人や閣僚の地位は、我が国における王室の地位が政党政治の上にあるのと同様に、民族間の確執から離れたものであるべきと考えています。我々は争いから利益を得ようとして、ある民族と他の民族を対立させようとはしません。我々は(*新しい国を)民族間の対立の上にではなく、和解の上に築き上げることを望んでいます。我々はこの勇敢で強力な二つの民族が、平等の旗の庇護の下で平和と友好のうちに隣り合って暮らすことができるよう、事態を処理したいと望んでいるのです。

 

2022.3.4