議会の母体

 

A History of the English-Speaking Peoples, Vol. 1

The Birth of Britain

BOOK II – THE MAKING OF THE NATION

Chapter 17. THE MOTHER OF PARLIAMENTS

WINSTON S. CHURCHILL

 

 

英語を話す人々の歴史

第一巻 ブリテンの誕生

第二部 国家の形成

第十七章 議会の母体

ウィンストン・S・チャーチル

 

訳者より:第二次世界大戦後に出版された歴史書です。訳者が興味を持った章から訳していく予定です。
原文:https://erenow.org/postclassical/the-birth-of-britain-vol-1/15.php

 

ヘンリー3世の波乱に満ちた治世の後半は、イングランドの諸制度の成長に大きな影響を与えた。この時期はわが国の議会制度の種まき期と呼べるかもしれない。しかし種まきに参加した者の中に、最終的に達成されることになる結果を予見できた者はほとんどいなかっただろう。改革委員会は真剣に取り組み、1258年にその提案はオックスフォード条項で具体化され、1259年にはウェストミンスター条項によって補足、拡張された。この直臣たちの行動は、外国人顧問官に対する嫌悪以上の深いものを表していた。というのも、この二つの条項はマグナ・カルタの立場から見ると、かなりの関心の転換を意味するからである。大憲章は主に法律の様々な点を定義しようとしていたのに対し、オックスフォード条項は、誰の助言によって、どのような役人を通して王室政治が行われるべきかという至上命題を扱っていたのである。またウェストミンスター条項の個条の多くは、王室よりもむしろ直臣たちの権限を制限するものだった。ヘンリー2世の仕事の成果が今や目に見える形になって現れた/国民はより強くなり、より自覚を持ち、自信を深めた。全国で司法活動が顕著に増加し、裁判官や役人が頻繁に訪れるようになり―そのすべてが地元の協力に依存するようになったことで―田舎の騎士たちは政治的責任と統治について学んだのである。

直臣たちの要求の要点は、今後国王は十五人評議会によって統治を行なうべきであって、その評議会は直臣団の二名、王室の二名の計四名によって選出されるというものだった。この取り決めを受け入れるというイングランド語とフランス語による王の宣言が、ウィリアム征服王の時代以降初めての、両言語で出された公文書になったのは重要なことである。しばらくの間、シモン・ド・モンフォールによって動かされ、監督されたこの評議会がこの国を統治した。彼らは互いに適切な牽制を行い、より大きな行政官職は自分たちの間で分担した。そして実際の行政は当時広く望ましいと考えられていた通り「より小さな人々」に任せた。いったん自分たちの階級的利益が守られ、自分たちの権利(ある程度までは国民の権利でもあった)が確保されると、有力者たちは自分たちのうちの一人か二人の手に権力の舵を握らせることを望まなかった。貴族から選ばれた政治家たちと、その下で働く政治的地位のない高度に訓練された官僚たちからなる内閣というこの考え方は、長い生命力を持ち、何度も復活した。

パルレモン(*フランス語:Parlement)―議会(*英語:Parliament)―という言葉が使われ始めたのもこの頃である。1086年、ウィリアム征服王はドゥームズデイ調査を開始する前に賢人たちと「深い話し合い」をした。これはラテン語でコロキウム(colloquium)と呼ばれた/そして12世紀には王と有力者たちとの協議は一般的に「コロクィ」と呼ばれた。この時点で「王国の重大事に関する」時折のコロクィは、議会と呼ぶことができる。しかし、この言葉がより頻繁に意味するのはウェストミンスターに常設され、請願を受理し、苦情を処理し、全体的な法の道筋を調整する役人や裁判官の評議会である。議会は13世紀までには二つのまったく異なる、しかし一体の制度の名称として確立する。

その機能を現代風に言うなら、第一の議会は政策を扱い、第二の議会は立法と行政を扱うということになる。会期冒頭の演説に対する討論はまさにコロクィに似ていて、「議会」の議事は法案が委員会で審議される段階に似ている。ヘンリー3世の時代、そしてエドワード1世の時代でさえ、二つの議会が統合されることは決して分かりきった結論ではなかった。むしろイングランドの政体がフランスの政体のように発展し、国王の評議会が実質的な政府になり、有力者たちは単なる貴族に格下げされ、「パルレモン」は法律事務の決済機関に過ぎなくなるかのように思われた。わが国の歴史はこのような経過をたどらなかった。第一に、その後一世紀の間、有力者たちは議会を支配し、自分たちと議会の利益を一体化することに成功した。第二に、イングランドの諸郡は独自の活力を持ち、彼らの代表はウェストミンスターにおける影響力を増していった。しかし、シモン・ド・モンフォールの強い推進力がなければ、これらの力が結集して永続的な立法議会を形成することはなかったかもしれない。

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 国王、廷臣団、そして彼らに関わる莫大な海外の利権は、いつまでも規定条項の束縛に服従するつもりはなかった。失地回復のためのあらゆる準備がなされた。1259年、国王はフランスとの和平条約調印のために訪れていたパリから帰国した。その胸には外国からの援助の期待があった。息子エドワードはすでに、強力な王政を望む人々の期待の星になっていた。この大義の支持者は、ロンドンや町々の貧しく乱暴な人々の間にも現れた。紛れもない―革命の熱狂は直臣団の勝利に満足しなかった。容易に眠らせることのできないアイデアが進行中だった。シモン・ド・モンフォールの美点は、直臣たちの王権に対する勝利に満足しなかったことである。彼はすぐに直臣たち自身に矛先を向けた。国王が拘束されるのならば、彼らもまた自らの領域で全体の利益を尊重しなければならない。このような問題に関して、直臣団の覇権獲得に大きな役割を果たした中間の階級の主張を無視することはできなかった。郷紳の要望の代弁者と見なしても良いだろう「見習い」すなわち独身騎士たちは、「イングランド独身者共同体」と名付けた独自の活力ある団体を結成した。シモン・ド・モンフォールは彼らの擁護者になった。彼はたちまち大領主たちの特権乱用を叱責し始めた。彼はすでに王室の運営で行われている改革を直臣領にも拡大することを望んだ。彼は南西部と南ウェールズに広大な領地を所有していたグロスター伯爵リチャードに辛辣な言葉を掛けた。彼は大領主が王権の下にあることを明確にする法令を評議会から手に入れた。そしてこの王権もまた―彼は強調しなかったが―評議会の下にあった。これは新しい形の独裁だった。それは公共の福祉の独裁だった。しかし、このような大胆なアイデアでよくあるように、それは必然的に一人の人物、そして指導者を通じて表現された。こうした動きは直臣団を端から端まで分裂させた/そして国王とその勇敢な息子エドワードは分裂した敵対勢力に総力を挙げて襲いかかり、事態を打開できるのではないかと感じた。

 1261年の復活祭、ローマ教皇によってオックスフォードとウェストミンスターの条項を受諾するという誓約から解放されたヘンリーは、直臣団が任命した官吏と大臣を辞任させた。今やその資格を争う二つの政府が存在し、それぞれが他方の政府を妨害していた。直臣団は各州の代表をセント・オールバンズ(*ロンドンの約18マイル北)に招集し/国王は彼らをウィンザー(*ロンドンの約18マイル西)に招集した。両派は人々の支持を競い合った。直臣団は国内でより大きな支持を集めた。そして彼らの鋭い行動を阻んでいたものはド・モンフォールに対するグロスターの敵対だけだった。1262年7月のグロスターの死後、男直臣団はド・モンフォールの激烈な政策に結集した。内戦が勃発した。そしてシモンと全員が精力的な活躍をしたその息子たち、直臣たちの半数、台頭していた中間の階級、ウェールズの強力な同盟者たちが、ともに王室に戦いを挑む恐るべき隊列に並んだ。

 シモン・ド・モンフォールは将軍であると同時に政治家でもあった。彼の生い立ちや境遇には、彼を自然にあのような道を歩ませるものはなかっただろう。彼は自分の行動の究極的な意味についてまったく理解していなかったと主張するのは恩知らずなことである。確かに彼が作ったのは自ら知っていた以上に良いものだった。1263年9月までに、彼に対する反発が目に見えるようになった/エドワードは直臣たちの不満を利用し、彼らの封建的で利己的な関心に訴え、ド・モンフォールへの嫉妬を煽り、強力な王党派を作り上げた。決定はド・モンフォールに不利なものだった。君主としての地位に忠実なフランス王は、イングランド王の特権を擁護し、この条項は違法であると宣言した。ルイは生前から聖人と認められていたため、これは重大なことだった。しかし、すでに対立の当事者たちは武器を取っていた。その後の内戦で封建派は多かれ少なかれ国王を支持した。民衆、特に町々と教会改革派、特にフランシスコ会はド・モンフォールの下に結集した。地域の寡頭政治における王党派の共感を打ち負かすため、多くの町で新たな統制が間に合わせで行われた。1264年夏、ヘンリーとエドワードが五港(*ヘイスティングス、ニューロムニー、ヒース、ドーヴァー、サンドウィッチ、南東海岸線にある)にかけていた圧力を緩和するため、ド・モンフォールは再び南下した。

 国王とエドワード王子は優勢だったサセックスで彼に遭遇した。ルイスでは激しい戦いが繰り広げられた。ある意味でエッジヒルの先駆けともいえる戦いだった。エドワードは400年後のルパート(*ピューリタン革命における国王軍の指揮官)のように、目の前のすべてに打ち勝ち、自制心のない追撃を続け、戦場に戻るとすべてを失ったことに気づいただけだった。シモンは巧みな戦術と戦争経験を駆使して、特殊な地形に適した罠を仕掛けた。そして中央を貫かれると、装甲騎兵の両翼が国王軍の本隊に両側から襲いかかり、すべての抵抗を粉砕した。落馬のため、彼はこの頃、18世紀の将軍の馬車のような豪華で鮮やかな装飾を施した輿で軍とともに運ばれるのが常だった。この中には、彼らをより安全にするために二、三人の人質が乗せられていた。そして彼は自分の存在を示す多くの旗や紋章とともに、ウェールズ軍の中央に陣取った。エドワード王子は突撃してこの戦利品を捕獲し、そこにいた味方の不運な人質たちを殺害した。しかし、その間に国王とその廷臣たちおよび主要な支持者全員がド・モンフォールの捕虜になってしまった。そして勇敢な王子は彼らの誓いを果たすためだけに退却した。

 シモン・ド・モンフォールは今やあらゆる点でイングランドの支配者だった。もし彼が現代のヨーロッパのいくつかの国々で行われているような残忍なやり方で、自分の権力の下にある者すべてを無差別に殺戮していたなら、長くそうあり続けたられたかもしれない。しかし当時は個々の事件では残酷なこともあったとはいえ、何者も最後の極限まで追い詰められることはなかった。命がけで権力を争う男たちが持っていた力は、決して粗暴なものだけではなかった。軍隊は強力ではあっても、主権者ではなかった。シモンは捕虜になった国王と敗者側と約束を結んだ。そして理論的には王室の権利が尊重されたが、実際には国王とその息子は厳格な管理を受けることになった。王国全体のバランスは保たれた。そしてシモンの行動から明らかなように、彼は反対勢力の力を感じていたばかりではなく、その究極的な統合を目指していた。国王を手中に収めたシモンは、王室の権威を利用することによって直臣たちを支配し、より広範で優れた政治体制を構築できると考えたのである。こうして彼は、弱々しい国王と誇り高きエドワード王子を捕虜にして、この国を支配したのである。

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 すべての派閥の直臣たちは、シモンを利用して脱出したもの以上の脅威に直面していた。シモンの天才とエネルギーと、プランタジネット王家固有の権力と、すでに攻撃的だった中間階級の支持の結合は、ジョンの失政やヘンリー3世の外国からの枷よりもはるかに深く鋭い階級的特権への脅威になったのである。イングランドの直臣たちは、このような永続的な闘争の間、自分たちの私利私欲から逸脱することはなかった。ラニーミードで、彼らは自分たちの特権を守るためと思いながら、国家の自由のために奉仕した。今や彼らは、シモンがその敵であることを信じて疑わなかった。彼は確かに専制君主であって、財布の中には王がいて、背後には社会革命の勢力が控えていた。直臣たちは堅固な徒党を組んだ。そしてシモンの手中にない宮廷の全勢力とともに、シモンを打倒しようと日夜画策した。

 当面、ド・モンフォールは、支出を管理し役人を任命する九人の評議会が必要な措置が取ることで満足していた。長期的な決定は1265年に彼が召集する議会までお預けにできた。伯爵の独裁的な地位は人気がなかったが、国内はそれを正当化できるような混乱状態にあった。北部とウェールズ・マーチ(*国境)沿いでは反対勢力は依然として強く、向こう見ずだった/フランスでは王妃とヒュー・ビゴッド伯爵とワレンヌ伯爵が支援の策謀を巡らせていた/教皇庁は国王を支持していた。ド・モンフォールは五港に艦隊を集結させ、公然と私掠を奨励することで海峡の指揮権を維持した。しかし西方では、かつてのライバルだったリチャード・ド・クレアの息子でグロスター伯ギルバート・ド・クレアの支持を失った。クレアは公然と王党派に加担することなく王党派と共謀し、ド・モンフォールと父の争いを再燃させた。これらの非難にはいくらかの真実もあったが、クレアの異議の根幹は彼が戦利品を分配しなかったことだったようである。

 1265年1月、ロンドンで議会が開かれ、シモンが各州と主要都市から代表者を招集した。この議会の目的は革命の和解に合法的な体裁を与えることであって、ド・モンフォールの指導の下、それはその通りに進められた。しかしこの議会の重要性は、その仕事よりも代表議会としての性格にあった。それはかつてわが国の史上初の代表議会として憲法上の重みを持っていたが、現代ではいくらか軽視されている。ド・モンフォールが強力な大衆的要素を招いた現実的な理由は、自身の支持者によって議会に圧力をかけることだった/有力者たちの中で招集に応じたのは五人の伯爵と十八人の直臣たちだけだった。ド・モンフォールはまたもや、有力者たちの敵意や無関心に対抗して、郷紳や都市住民たちの支持を求めた。彼のメッセージと戦術はここにあった。

 議会はド・モンフォールの行動を従順に承認し、条項で具体化された彼の和解案を受け入れた。しかし、クレアの西への撤退は戦争の再開を意味するものでしかなかった。ヘンリー3世はシモンの管理下におとなしく留まり、常に人格に対する深い敬意とともに扱われていた。エドワード王子は自由を謳歌していたが、それは逃亡が許されない仮釈放でしかなかった。しかし直臣団の攻撃が集中し、シモン派に多くの分裂が生じ、政府のあらゆる困難が必然的に不人気を招いた。ある日、彼は数人の友人と狩りに出かけた。そして領地の境界内に帰るのを忘れてしまった。彼は森を駆け抜け、最初は雄鹿を追い、次にもっと大きな獲物を探したのである。彼がイングランド人の生活の最も強力な集団の組織のトップになると同時に、彼とその前代未聞の改革の打倒が全イングランド人の生活の最大の目標になった。エドワードは憲章を守り、不平を是正し、外国人を追放することを約束して、直臣団を結束させ、ド・モンフォールの足元を切り崩すことに成功した。伯爵は今や個人的な派閥の指導者に過ぎなくなった。そして彼はウェールズの君主の領土と独立の主張を認めてルウェリンと同盟(*1265年、ピプトン条約)したことで評判を落とした。彼は政治的にはエドワードに出し抜かれ、軍事的にも不利な立場に置かれた。エドワードといわゆるマーチャー・バロンズ(*ウェールズ国境の直臣たち)はモンフォールをセヴァーン渓谷に閉じ込めた。彼は東への退路を断たれ、南ウェールズに追いやられた。8月初め、ド・モンフォールは再びセヴァーン川を渡って息子シモンが南東から率いてきた軍と合流しようとした。彼はウースター近くの浅瀬を通過することに成功したが、息子の軍はケニルワース近くでエドワードの罠にかかって敗走した。この悲劇を知ることもなく、今度は伯爵がイーヴシャムで捕捉された/そして8月4日、ここで最後の戦いが行われた。

 突然の嵐による雨と薄暗がりの中での戦いだった。ウェールズ軍はエドワードの重騎兵の前に敗走し、ド・モンフォールの周りの小グループは数の力で圧倒されるまで必死で戦うことになった。ド・モンフォールは戦場で英雄として死んだ。マーチャーズは多数の逃亡者や捕虜を虐殺し、死者の遺体を切り刻んだ。伯爵に連れられて放浪を続けていた哀れな老王は息子の追随者たちに傷を負わされ、「私を殺すな!私はウィンチェスターのヘンリー、あなた方の王である。」と叫んで死ぬことだけは免れた。

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 偉大な伯爵は死んだ。しかし彼の運動は国中に広く深く息づいていた。イーヴシャムの後、没収した土地が非情かつ出鱈目に分け与えられたことは、相続権剥奪された人々の激しい反発を招いた。ケニルワース、アクスホルム、イーリー(*いずれもロンドンの約100マイル北)といった孤立的な中心地では、ド・モンフォールの信奉者たちが抵抗を続け、むっつりと絶望して近郷を略奪した。政府は彼らを鎮圧するには弱すぎた。安全が保証できないため、外国の商人たちはイングランドに来ることを国王の名において禁じられた。封建的な独立への回帰とそれに伴う無政府状態が差し迫っているように見えた。ローマ教皇クレメンス4世とそのオットーボン公使は、このような事態に際して節度を守るよう命じた/そして6ヶ月間のケニルワースの包囲戦が失敗に終わった後、エドワードはこれが唯一の政策であることを悟った。没収によって利益を得た人々は強く反発した。グロスター伯爵はエドワードが改革の約束を反故にしたことにひどく幻滅していた。1267年の初め、彼は外国人の追放と「条項」の再制定を要求した。その要求を主張するため、彼は全体に受容されながらロンドンに入った。彼の行動と教皇特使の影響力によって「相続権を剥奪せず、買い直す」という妥協の原則のもと、相続権被剥奪者の赦免と彼らに有利な合意がなされた。この合意を公平に適用するため、1267年後半には司法官が全国に派遣された。記録はこの騒乱が広範囲に及んでいたこと、また地方では反乱が役人に向けられたものであったこと、少なくない修道院長や小修道院長を含む下級聖職者たちによって支持されていたこと、封建的なしがらみによって直臣側に縛られていなかった郷紳のかなりの数がド・モンフォールを支持していたことを物語っている。

 ド・モンフォールが死に、エドワードが十字軍に出かけていた晩年、老衰した王は比較的平和に過ごしていた。半世紀以上も前の9歳のとき、内戦のさなかに彼は父の困難な遺産を相続したのである。内戦の最中、ときに彼も死ぬのではないかと思われたこともあった。しかし、ついに嵐は去った/彼は政治的闘争よりもはるかに関心があった美の世界に戻ることができた。ゴシック建築の傑作であるウェストミンスター大修道院が新たに献堂された/その献堂式こそヘンリー3世の長年の念願だった。そして1272年の最後の数週間に彼はここに埋葬された。

 

Keyword:英語諸国民の歴史


2023.9.30