イングランドのコモン・ロー

 

A History of the English-Speaking Peoples, Vol. 1

The Birth of Britain

BOOK II – THE MAKING OF THE NATION

Chapter 13. THE ENGLISH COMMON LAW

WINSTON S. CHURCHILL

 

 

英語を話す人々の歴史

第一巻 ブリテンの誕生

第二部 国家の形成

第十三章 イングランドのコモン・ロー

ウィンストン・S・チャーチル

 

訳者より:第二次世界大戦後に出版された歴史書です。訳者が興味を持った章から訳していく予定です。
原文:https://erenow.org/postclassical/the-birth-of-britain-vol-1/15.php

 

プランタジネット家は荒々しい支配者だった。そして時代の風潮は乱暴なものだった。しかし、それは活力の乱暴さであって、退廃のそれではなかった。イングランドにはヘンリー2世よりも偉大な軍人王や緻密な外交官がいた。しかしわが国の法律や制度にこれほど深い足跡を残した人物はいない。彼の熱狂的エネルギーの不思議なまでの爆発は、政治、戦争、狩猟に終わらなかった。ノルマン人の先祖やその息子たちのように、ヘンリー2世は政治と法の問題に対する直感を持っていた。彼の戦いの名は土煙とともに消え去ったが、彼の名声はイングランド憲法とイングランドのコモン・ローとともに生き続けるだろう。

この偉大な王に与えられた機会は幸運なものだった。ウィリアム1世とヘンリー1世は、彼らの後継者が活動するための手段をすべてイングランドに持ち込んだか、保持していた。彼ら自身は、ゆっくりと慎重にしか動くことができなかった。この土地は新しい支配と支配者に慣れなければならなかった。しかし1154年、無政府状態が二十年近く続いたために中央の強い権力を求めていたこの国に、アンジュー伯ヘンリーがやって来た。ヘンリー自身もフランス人であって、フランスの半分以上を統治していたため、その仕事には先見の明と幅広い経験、そして狡猾さをも厭わない強さが生かされることになった。ステファンの治世の大失敗は、ヘンリーに直臣領の独立の抑制と、前任者が失った地歩の回復のみならず、さらにその先に進むことを決意させた。数多くの領主裁判所では、地域の有力者たちが近隣の慣習や気質によって質も性格も異なる裁判を行っていた。彼はその代わりとして、イングランド全土とすべての人に共通の法を執行する王室裁判所の制度を計画したのである。

この政策に危険がなかったわけではない。王は直接的な攻撃を仕掛けるほど愚かではなかった。ウィリアム1世同様、神聖な慣習的権利に指一本でも触れたなら災いを招くことを知っていたのである。この障壁に直面したヘンリーは、慣習には慣習で対抗し、革新には保守主義という敬意を払われるべき衣を着せた。彼は注意深く既存の形式を尊重した。彼の計画は、古い原理を引き伸ばして新しい意味を持たせることだった。不文憲法において国王の伝統的な権利の限界は曖昧に定義されていた。このことが抜け目ない前進のきっかけになった。ノルマン・コンクエスト以前の何世紀もの間、教会と王は諸侯たちによる無政府状態の敵だった。しかし、王室の裁判権の迅速な拡大に疑問が差し挟まれることはなかった。ヘンリーは王の平和という融通の利くサクソン人の概念を利用して、すべての刑事事件を自分の法廷に引き入れた。すべての人間には自分の平和があり、それを破ることは犯罪であるとされていた。そして重要な人物のものであればあるほどその侵害は重大事だった。王の平和はその中でも最も重要なものであって、それを破った者は王の法廷で裁かれることがあった。しかし王の平和は限定的なものだった。そして多くの場合、王の面前で、または王の街道や土地で行われた犯罪だけを対象にしていた。王が亡くなると、同時に王の平和は消え、人々は好きなように行動していた。ヘンリーは慎重かつ静かに、王の平和はイングランド全土に及ぶこと、そしてそれがどこで破られようとも犯罪者は王の法廷で裁かれなければならないと主張し始めた。彼は民事事件を、裁判が拒否された場合にその訴えを聞く、また土地を所有している人々を守る、という王立裁判所の古来の権利、別の原理を拡大して引き入れた。彼はそのことを誇示しなかった/彼がもたらした変化は法制化されることなく徐々に導入されたため、当初ほとんど認識されなかった。どのような改革がいつ行われたかを明言することは難しい/しかし賢明な人物は王の死後、ヘンリー2世がイングランドの王座にあった三十五年の間に、どれほどの変化が起こったかを振り返ったことだろう。

しかしヘンリーが法律の分野で保守派を装うためには、一貫性がなければならなかった。彼の計画において強制は役に立たなかった/彼の政策の第一原則はその法廷に事件を持ち込むことを強いるのではなく、むしろ引き寄せることでなければならなかった。訴訟を起こす人々を王宮に引き寄せるための餌が必要だった/王は彼らの領主よりも優れた裁判を提供しなければならなかった。それゆえヘンリーは王宮の法廷において驚くべき新しい手続きを開始した―陪審員裁判である。その時代の人々はこれを「Regale quoddam beneficium」―王の恩恵―と呼んだ/そしてこの表現は陪審の起源とコモン・ローの勝利において陪審が果たした役割の両方を明らかにするものである。ヘンリーは陪審を発明したのではなく/陪審を新たな目的のために利用したのである。陪審という考え方はフランク族のイングランドの法制度への偉大な貢献の一つである。それはコンクエスト以前にはこの国に存在しなかったが、その起源ははるか昔のカロリング朝の王たちの習慣にまで遡ることができる。元来、陪審は王室が行政の便宜を図るための手段だった/王は王の利害に関するあらゆる問題の真実について、宣誓の下に証人になる者を召喚する権利を持っていたのである。ウィリアム征服王は王がドゥームズデイ調査(*検地)を行う権利を持っていることをこの初期の陪審の形式によって決定している。ヘンリー2世の天才はこうした手続きに新たな可能性を見いだし、それまで行政的な目的にしか使用されていなかった手段を法廷の場で常用することにした。

陪審員を召喚する権利を持つのは王だけだった。そこでヘンリーは陪審を領主たちの法廷には認めず、王立裁判所に限定した。これは慧眼だった。この時までは民事事件も刑事事件も宣誓、試罪法、決闘で裁決されていた。法廷は訴訟当事者の一方に、自らの訴えが正しいことを誓う者を集めるよう命じ、彼らが偽りの誓いをした場合の神罰を期待する/すなわち司祭の監視の下で赤熱した鉄を持つか、一切れのパンを食べるか、水の池に放り込まれることを宣告する。もし鉄が火傷を起こさなかったり、パンが喉に詰まらなかったり、水が彼を沈めることを拒んだ場合、神意は明らかな無罪の印を犠牲者に与えたという判決が下された。決闘、つまり戦いによる裁判は、戦いの神が正しい者の腕を強くするという最新の理論に基づいたノルマン人の新機軸で、かつては土地に関する争いの裁決に好んで用いられた。しかし修道院や大地主たちは自分たちの財産と権利を守るため、プロの戦士を雇うことによって全能の神を助けるという予防策をとった。これらすべてにおいて法律による議論の余地はなかった。より理性的な時代になると、人々はそのようなふざけたやり方に不信感を抱き始めた。そして実際、マグナ・カルタが公布された同じ年に、ローマ教会は試罪法の承認を拒否した。(*1215年、ラテラノ公会議)こうして陪審員裁判は急速に支持されるようになった。しかし、旧来の裁判制度も長く続いた。被告が神明裁判を望めば、人間はそれを禁じることはできなかった。そのため試罪法は完全には廃止されなかった。それゆえ、後の時代には「peine forte et dure」の恐ろしさが知られることになる―被告人が陪審の前に出ることに同意するよう、死に至るまでじわじわと(*身体に載せた重りで)圧力をかけて強制することである。(*裁判を受けずに死ねば財産を相続人に残せる。裁判で死刑判決を受けたら財産は没収される。)時は流れた/ある訴訟当事者が決闘裁判を主張して判事を当惑させ(*アシュフォード対ソーントン事件)、議会にこの古来の手続きの廃止を強いたのは、ようやく1818年になってからのことだった。

ヘンリー2世の陪審は私たちが知っているような陪審ではなかった。陪審にはさまざまな形式があった/しかしどの陪審にもある本質的な違いがあった。陪審員たちは事実の審判者であると同時に証人だった。善人や誠実な人々が選ばれたのは、彼らの公平性のためではなく、彼らが最も真実を知っていそうな人々だったからである。法廷に持ち込まれるまで事件について何も知らない現代の陪審員の登場は遅かった。その過程は不明瞭である。法廷に持ち込まれるまで事件について何も知らない現代の陪審員の登場は遅かった。その過程は不明瞭である。遠方からウェストミンスターに呼び出された陪審員は、来ることを渋るかも知れない。道は遠く、危険で、おそらく三、四人しか来ないだろう。法廷は待つことができなかった。休廷には費用がかかる。遅延と出費を避けるために、当事者たちはjury de circumstantibus、すなわち傍聴人陪審に頼ることに合意するかも知れない。事件の真実を知っている数少ない陪審員が傍聴人にその話をし、それから全体が評決を下すのである。やがて現場を知る人物は陪審員ではなく、証人になった。公開の法廷で傍聴人だけで構成された陪審員に証拠を提出するのである。このようなこと、あるいはこれに似たようなことが起こったと私たちは推測して良いだろう。証拠に関する法律が発達するにつれて、ごくゆっくりした変化が訪れた。そのような変化が15世紀まで進行していた/しかし、古い考え方はまだ残っていて、チューダー朝の時代でさえ、陪審員らが不正な評決を下した場合には偽証罪で裁かれることがあった。(*証人と陪審員ははっきり区別されていなかった)

陪審制度は私たちがイングランドの裁判と呼ぶものの象徴になった。十二人の誠実な男たちによって事件が精査される限り、被告も原告も同様に、法の恣意的な曲解から守られるからである。ローマ法に基づく大陸の法体系とイングランドの法廷の違いはこの点にある。このように中央集権化という大きな流れの中でも、法は民衆から生まれるという古い原則は守られ、今日まで存続している。土地は国王から与えられるものではない。

これらの方法は優れた裁判をもたらした。陪審員裁判は人気を集めた。地域的偏見を持たず、利害関係者や無知な領主やその執事よりも広い視野を持つプロの裁判官は、王の陪審召喚権で武装して、より迅速な判決とそれを執行する強力な権限を確保した。そこでヘンリーは、大量の新しい仕事に没頭できる完全な王立裁判所をほとんどゼロから構築しなければならなかった。ヘンリーが目をつけたのは、すでにあらゆる政務が正式に行われていた王室評議会だった。それは大法官府と大蔵省、議会、コモン・ロー法廷、そしてチューダー家とスチュアート家が頼りにした大権法廷の共通の母体になるものだった。それはヘンリー2世の治世の初期には、ほとんど無差別にあらゆる行政の業務を扱っていた。司法の面では王室の歳入に影響する事件を審理する財務裁判所が形を整え始めていた/しかし、この側面から見るなら、王室評議会は概ね他の領主たちと同様に家臣の間で裁判を行う王の封建裁判所に過ぎなかった。ヘンリー2世の時代になるとこうした状況は一変した。王の裁判官の職務はますます専門化した。ヘンリー2世の息子たちの治世に評議会は王座裁判所と民訴裁判所に分かれ始めた。両裁判所が完全に分離したのは、それから一世紀後のことである。その後、それらは財務裁判所とともに、19世紀までコモン・ロー体系のバックボーンになっていた。さらに移動裁判官―「巡回裁判の」裁判官―が時折任命されて、各州であらゆる審理を行った。こうして各州の法廷は王の裁判に引き入れられたのである。

しかし、これらはすべて第一歩にすぎなかった。ヘンリーはまた、王室の裁判を熱望する訴訟当事者が裁判を自分の領主の法廷から王の法廷に持ち出すことができる手段を与えなければならなかった。ヘンリーが用いた手段は、王室令状だった。何があろうとも直臣たちの権利は公式に尊重されなければならなかった/しかし、王室の伝統的な権利を拡大することで、特定の種類の事件は王の管轄であると主張することが可能になった/そして何らかの擬制によって自分の事件を王の令状のうちの一つの文言に当てはめることができる者は誰でも、王の裁判を要求することができるようになった。令状の文言は融通の利かないものだったが、この時代にはまだ新しい形式の令状が与えられる可能性があった。約80年間、それは増え続け、新しい書式が生まれるたびに領主の裁判は新たな打撃を受けた。13世紀にド・モンフォールがヘンリー3世に対して反乱を起こし、ようやく令状の増加が抑制された。そしてその数は二百弱に固定された。そしてこの制度はその後600年間続いた。どんなに時代が変わっても、社会はその曲げられない枠組みに適応しなければならなかった。必然的にイングランドの法律は古語や法的擬制に偏って行った。裁判の全過程は、その裁判が開始された令状次第であって、どの令状にも特別な手続き、裁判の方法、最終的な救済方法があった。こうしてサクソン人の形式主義の精神が存続した。ヘンリー2世は法律に手続きを結び付けることによってのみ、初期の裁判の原始的な方法を打破できたのだった。手続きは確かに融通が利かないものになった。しかし煩雑であったとはいえ、令状制度はイングランド法に保守的な精神を与えた。そしてその継続性は守られ、保存されて、当時から連綿と続いている。

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法律に関する記憶は1189年のリチャード1世(*ヘンリー2世の子)の即位に始まる、というのはイングランド法の格言である。しかしこれより適切な時期を選ぶことはできないだろう。ヘンリー2世の治世の終わりとともに、私たちはイングランド法の歴史の新たな時代の入り口に立ったからである。国中で同じ裁判を行う王室裁判所の制度が確立されたことで、地方の法の古来の多様性は急速に崩れ去り、それに国全体とすべての人々の共通の法がすぐに取って代わった。国中で同じ裁判を行う王室裁判所の制度が確立されたことで、地方の法の古来の多様性は急速に崩れ去り、国全体とすべての人々の共通の法がすぐに取って代わった。現代の法律家がヘンリーの前任者の時代のイングランドに行けば、見知らぬ国に来たように感じるだろうが/ヘンリーが息子に遺した制度の下では大体寛げるだろう。それが偉大な王の功績の尺度である。ヘンリー王はイングランドのコモン・ローの基礎を築いた。次の世代はその上に築き上げることになる。その設計に変更は生じようとも、その大枠が変更されることはなかった。

この決定的な形成期に、英語を話す人々は法的紛争の解決法を考案し始め、それは実質的に今日まで残っているのである。人は法律で明確に定義され、周知されている民事犯罪または刑事犯罪によってのみ訴えられる。裁判官は審判員である。彼が裁くのは当事者たちが提出する証拠である。証人は公の場で宣誓して証言しなければならない。尋問や反対尋問は裁判官ではなく、訴訟当事者たち自身、あるいは私的に雇われた法的資格を持つ代理人によって行われる。彼らの証言の真偽を測るのは裁判官ではなく、十二人の善良で誠実な陪審員たちである。そして彼らが事実を認定したときに初めて、裁判官は法律に従って判決、処罰、刑罰を科す権限を与えられるのである。しかし、世界の大部分を今なお支配している別の制度を思い浮かべないなら、このようなことはごく当たり前のことであって、陳腐にさえ思えるかもしれない。ローマ法およびローマ法から派生した制度のもとでは、激動の数世紀、そして今日に至るまで、裁判はしばしば異端審問になる。裁判官は民事上の過ちや公的犯罪について独自の調査を行う。そして、その調査は大体において統制を受けない。容疑者は内々の取り調べを受ける可能性がある。彼はすべての質問に答えなければならない。法律顧問をつける権利は制限されている。本人に不利な証言者は、本人がいないところで秘密裏に証言することができる。こうして秘密の脅迫、自白の強要、拷問、強請による罪の告白が頻繁に生じるのである。こうした邪悪な危険は、6世紀以上前に、イングランドのコモン・ローから消滅した。ヘンリー2世の曾孫であるエドワード1世が亡くなる頃には、イングランドの刑事、民事手続きは、概して今日まで英語を話す人々を支配してきた型と伝統に落ち着いていた。中西部の放牧地、カリフォルニアの油田、オーストラリアの牧羊地や金鉱、マオリ族の領有権に関わるあらゆる請求権や紛争において、これらの規則は、少なくとも理論的には、イングランドのコモン・ローが発展させた手続きと裁判方式に従って行われてきた。

それは裁判の進め方に限ったことではなかった。このような数多くの問題に適用された法律は、馴染みのものもあれば斬新なものもあったが、実質的にはイングランドの慣習法だった。殺人、窃盗、土地の所有権、個人の自由特権に関する法律は、他の多くの法律とともにすべて新大陸に運ばれた。そして時代の状況や気質に合わせてしばしば修正されたとはいえ、12世紀のイングランド人の生活と運命を支配していた法律は連綿と受け継がれているのである。

そのほとんどが当時は不文律だった。そしてイングランドではその多くが今も不文律のままである。例えばイングランドの成文法には殺人罪の定義がない。なぜならそれは他の法律と同様に、住民たちが明言し、裁判官たちが解釈し、展開し、適用した、土地の明文化されない慣習に基づいていたからである。法律家たちは、古来の判決に関する報告や記録を研究することによってのみ、それを確認することができた。そのため、彼らはこの早い時期からすでに独自の手筈を整えていた。ヘンリーの死後1世紀を経て、彼らはロンドンの専門家集団である法学院に属し始めた。これは半ば協会、半ば法学校だったが、ローマ法やローマの教会法に明るい聖職者の存在は奨励されておらず、主として世俗的なものだった。彼らは自ら「イヤー・ブック」と呼ぶ法律の年次報告書を作り、その権威は裁判官たちに承認された。そしてそれは300年近く途切れることなく続いたのである。しかし、この間、イングランドのコモン・ローの一般的かつ包括的な記述を試みた人物は一人しかいなかった。1250年頃、ブラクトンのヘンリーという名の巡回裁判所の裁判官が「イングランドの法律と慣習に関する小冊子」という九百ページ近い本を著した。ただしブラクトンの方法はコモン・ローを明文化するというよりは、それを解説し、それについてコメントすることによって後の法律家や裁判官がそれを発展させ、拡充することを奨励し、手助けする手本になるものだった。そして、それはその後英語圏全体で踏襲されている。全知全能の国家が臣民に対してローマ式に押し付ける法典は、イングランドの精神や伝統とは異質なものだった。法律はすでにその土地の慣習の中にある。あとは以前の裁判の判決記録を良く研究し、比較することによってそれを発見し、法廷に持ち込まれた個々の紛争に適用すればよいだけだった。時が経つにつれてコモン・ローは変化した。ヘンリー2世の時代の法律家たちは10世紀の先人たちの文言から、その著者が意図しなかった意味や原則を読み取り、自分たちの時代の新たな状況や問題に適用した。だったら良いだろう。ここに前例があるのだから。もし裁判官に以前の似たケースで承認され、その取扱いの根拠になった習慣やそれに類するものを示すことができて、それが彼の正義感と現在の地域感情に合致するなら、目の前の紛争において、裁判官はより容易にそれに従うことが出来るだろう。一般に「判例法」として知られるものの、このゆっくりとした、しかし継続的な成長は、最終的に外国で人権宣言(*フランス革命)やアメリカの独立と市民権の憲法的保証の宣言の雄大で輝かしい条項といった法律文書の中で謳われているのとほぼ同じ、個人の自由と権利を達成することになった。実際、イングランドの司法は非常に慎重だった。マグナ・カルタの起草者たちでさえ、新しい法律を制定したり、広範な一般的原則を宣言したりはしなかった。なぜなら君主も臣民も実際にはコモン・ローに拘束されていたからである。そしてイングランド人の自由特権は、いかなる国の法律でもなく、自由人からなる陪審員たちが、公開の法廷においてケース・バイ・ケースで下してきた評決が宣言するところの、遠い昔からゆっくりと成長してきた慣習に基づいていたからである。

 

Keyword:英語諸国民の歴史


2023.9.30