ジョージ5世

 

KING GEORGE V

(from GREAT CONTEMPORARIES)

BY

WINSTON S. CHURCHILL

 

 

ジョージ5世

(GREAT CONTRMPORARIESより)

ウインストン・S・チャーチル著

 

 

訳者より:1937年の著作GREAT CONTRMPORARIESの中の一章です。これまで和訳されたことはないようです。ビクトリア女王の孫、エリザベス2世の祖父に当たる人物です。

 著作権はチャーチルの死後50年を経た2015年に切れています。
 文中の*は訳者注です。

原文:https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.523212/page/n3/mode/2up

 

 

 ジョージ5世

 ジョージ5世の治世は、イングランドと大英帝国の歴史の中で、最も重要で記憶に残るものの一つと考えられている。これほどまでに大きな変化が世界を覆い、制度、風俗、展望がこれほどまでに決定的に変化し、人類の知識、科学、富、力がこれほどまでに広大かつ急速に拡大した時代は他にないだろう。実際、社会の進化のスピードは他の一切のものと比べ物にならない。このような大きな衝撃と混乱は、ヨーロッパとアジアの帝国、君主制、政治組織のほとんどに致命的な打撃を与えた。ビクトリア朝時代には、法と静謐の穏やかな日差しの中にあった地球の大部分が、今では混乱の嵐に襲われている。19世紀に自由を獲得し、それを維持するために議会を設立することを望んだ強大な国々が、独裁的な支配に陥ったり、自らを明け渡したりしているのである。最も才能があり教育を受けた民族が住む広大な地域でも、野蛮な国と同じように、個人の自由の享受や国家に対する個人の権利の主張がまったく失われてしまった。民主主義は何世紀にもわたる闘争と犠牲によって得られた宝物を堪らずに投げ捨ててしまったのである。野蛮な叫び声とともに、古い封建制だけでなく、すべての自由主義的理想が一掃された。

 それでもなお、法が尊重され、自由が支配する一つの偉大な体制がある。そこでは、普通の市民が行政権力に対して恐れず自分の権利を主張し、その代理人と政策を好きなように批判することができるのである。大英帝国の中心には、最も古く由緒ある制度がある。この制度は荒廃したり衰退したりするどころか、出来事の激流を乗り越え、そのストレスから新たな活力さえ生み出している。地震に揺らぐことも、溶解力のある潮流に弱められることもなく、すべてがあてもなく漂っている中で英国の王室と帝国の君主制は堅持されている。これほどに顕著な業績、これほどに驚異的な事実、時代の全ての傾向に反する事実は、その仕事を終えた善良で賢明で真に高貴な国王の人格と切り離すことができない。

 国王の亡き父親は深刻な政治的動揺と憲法上の危機の瞬間に崩御したのであった。セントジェームズ宮殿でジョージ5世を王として承認し、歓呼した大評議会が目の当たりにしたのは、千年にわたる世襲の正当な継承が彼に課した責任を前にした謙虚な人物だった。このような不安な栄光の継承者に対し、同情と共感を覚えない者はほとんどいなかった。その中の―おそらく多くの―人々は将来に不安を抱いていた。しかし、その時点では誰も、ヨーロッパと全世界が突入しようとしていた恐ろしい破局を予見することはできなかった。国内の動きでさえも困難と軋轢に満ちていた。各政党は互いに激怒していた。すべての人々が貴族院の拒否権、アイルランドの自治、社会主義の台頭について熱狂していた。ハルマゲドンが自分たちに迫っているとは夢にも思っていなかった。

 具体的な話に移らねばならない。貴族院は、庶民院で圧倒的多数を占める自由党が可決した予算を拒否したのである。金銭に関する法案の何世代にもわたってゆっくりと築き上げられた処方箋に彼らは挑戦したのである。この直接の争点について総選挙で有権者に訴えたところ、同じ政権が十分な多数で返り咲いた。再選挙で同じ政治勢力が政権についたのであれば、いわゆる民意を実現するため、四、五百人の貴族を叙爵する必要があると思われた。これが新たな治世の最初の問題だった。これらの問題がすべて解決し、生活から歴史へと過ぎ去った今、その痛切な性格を過小評価するのは簡単なことである。それから何年も経ったある日、私はあえて陛下に、どの時期が一番つらかったかと尋ねてみた。この憲法の危機でしたか、それとも第一次世界大戦でしたか?「私にとって」と陛下は答えて下さった「最も困難だったのは憲法の危機だった。戦争では私たちは皆、団結していた。一緒に沈むか泳ぐかしかなかったのだから。しかし、私の一年目は、国民の半分が一方へ行き、もう半分は逆へ行こうとしていたのである。」国王の個人的な友人、軍、そして国王が加わった社交界のほとんどが、何百人もの新しい貴族が生まれるという、とんでもない、しかし避けられないかもしれない事態に激しく憤慨したことは想像に難くない。アン女王の時代の先例はあったが、それは十数人の創設にすぎず、明確な政策を遂行するためのものでしかなかった。しかし今や、貴族制度全体にとって確実に致命的な規模で世襲貴族が大量生産されようとしているのである。それでも憲法は機能させなければならず、庶民院がもはや貴族による無制限の拒否権に服従しないのであれば、この嘆かわしい手段に直面しなければならない。

 1910年の終わり頃、アスキス首相は国王に―年内二度目の―解散を求め、さらに―三代目となる―新しい庶民院が拒否権の制限について同じ考えであったなら、多数の新しい貴族によって貴族院を水増しし、巨大な保守的多数派を押さえ込むことに対する同意を保証するよう要請した。国王が最も深い苦悩に陥ったことは間違いない。彼は首相が自分一人のところに来たのではなく、貴族院長であるクルー卿も連れてきたことに最も心を動かされた。疑いなく、クルー卿が国王の個人的な友人であって、苦しい話し合いがより楽になると考えたため、アスキス氏はそのようにしたのである。結局、国王は保証を与えた。

 もしそうしなかったら、内閣は総辞職していただろうし、その後の選挙で有権者の大多数が支持したであろうことは疑いない。もちろん、国王の同意は国王と首席大臣たちだけの秘密であった。

 その後、総選挙が行われた。新しい庶民院は150票差の賛成多数で議会法を可決した。貴族院は頑強に抵抗する構えを見せた、そして国王は適当な時に討論の中で超大量叙爵に同意している旨を述べることを許した。この通告によって貴族院は降参し、議会法は国王の裁可を得た。これは前兆であった、そしてアイルランド自治法案の前兆を意味していた。

 振り返ってみて、憲法の極限ともいえる問題に対する国王のこの断固たる行動は、賢明かつ正しかったと結論しなければならない。議会法は今でもこの国の法律である。今に至るまで歴代の安定多数の保守党政権も、この法律によって両院の間に確立された新しい憲法上の関係に手をつけることを拒んできた。アイルランドは最終的に、その時点で可能性があると思われていたよりもはるかに悲惨な道筋によって、自国の問題を適切不適切に管理する権限を獲得し、帝国の問題を適切不適切に管理する権限を失ったのである。

 私がこの歴史的事件を精確に扱ったのは、憲法解釈における君主の個人的裁量権の最も重要ではなかったとしても、重要な行使の一つと見なされなければならないからである/なぜならそれは君主の治世のまさに初めに課せられたものであり/その条文が完全な指針を示していなかったときに彼が英国憲法の精神を遵守した賢明さと誠実さを証明しているからである。私たちはその次に激しい政治的抗争の時代に突入した。アルスター(*アイルランド島北部、スコットランド移民とプロテスタントが多く、イングランド寄り)はダブリンの議会に自分たちを加盟させるという計画に対し、いかなる保護条項を設けたとしても、武力抵抗をすると脅迫した。アルスターの人々は「誓約」に署名し、海外から武器を調達し、北部で軍事組織を立ち上げた。

 アイルランド国民党(*独立派)では、対抗措置の準備が進められた。プロテスタントとカトリックの反感に憤激したオレンジ(*プロテスタント)とグリーン(*カトリック)の両派は互いに威嚇的な態度で対峙し/強力な保守党と英国国民の庶民、富裕層、指導者のほとんどの共感は天秤のアルスターの側に熱く注がれた。いや、彼らの援助さえも約束されていた。これまで書かれてきたように、英国正規軍の動きに関する誤解は、たちまち心を動かされた連隊の将校たちが揃ってその任を辞するという事態を招いた。これは反乱ではなく、良心的な受動的抵抗であったが、このエピソードは「カラの反乱」という名で私たちに伝わっている。陸軍の長である国王の悲しみは察するに余りある。

このような悲痛な出来事や国民生活の断絶に向かう流れと並行して、別の不安の表れが進行した。婦人参政権運動が激しく展開された。その風潮は好戦的だった。街頭や集会は我を忘れた女性たちの半狂乱の闘争の。牢屋では何百人もの女性が強制的に食事をさせられた。(*ハンガー・ストライキに対して)ある不幸な女性は、ダービーの日に馬の蹄の下に身を投げて死んだ。社会党の台頭の先触れとなり、それに同伴する労働運動の前進は止まることなく、ストライキや労働争議が国中で多発した。そして国外の危機と世界大戦の接近を告げる恐ろしい警告と呟きが、すべての頂点で鳴り響いたのである。

 このような時代に、王制と国王の人物に対して高まった尊敬の念が、激しい政治的抗争に引き裂かれ、時には内乱寸前とさえ思われた国家に、防衛と外交政策の面で統一を保たせたのである。

 このような国内の混乱と海外の危険の高まりの中で、国王は最も切実な不安と悲しみを経験した。長い治世の末に王室と国王自身が集めた圧倒的な影響力を、当時の国王は持っていなかった/しかし憲法には揺るぎなく忠実であった。彼は党派の怒りを和らげ、イギリス国民の壮大な共通の遺産をそのまま維持しようと努めた。彼は静かに忍耐強く自らを強化し、臣民のあらゆる階層からの尊敬と信頼を着実に高めていった。また、彼が青少年期を過ごし、その艦船を指揮し、その荒々しい面、裏面をよく知っており、そしてその将校や兵たちを知っている、当時疑いなく世界最強であった壮麗な海軍の力も着実に強化され、備えを整えていった。

 そのとき普通の人には夏空に見えるところから、突然、世界大戦の雷鳴が轟いてきたのである。

 ここでイギリスがより的確な宣言をしていればドイツの猛攻を先延ばしにできたかもしれない、という議論をするつもりはない。ジョージ国王がエドワード・グレイ卿の助言で、ポアンカレ大統領の熱烈な訴えに対する当たり障りのない返答に署名したのは、さぞかし心苦しいことであったろう。確かにジョージ国王は、大英帝国を一致団結して戦いに参加させることの重要性を、どの閣僚よりもよく理解していた。また、彼の治世全体に見られる平和への愛―ただし平和のためにどんな代価を払っても良いわけではない―が、世論に先んじてこのような恐ろしい事業に着手する恐るべき危険を回避させたことも確かである。英国の遠慮、さらには明らかな躊躇は自由な立憲民主主義国家であるために支払わなければならない代償の一部であった。しかし私たちは、国民と帝国の決断と毅然とした決意のうねりによって、十倍にして取り戻した、国民がいったん確信して闘争に突入したそれは、すべての敵対者の意志の力をすり減らし、五十二ヶ月にわたって消えなかった。

 私たちはハルマゲドンの前夜に、国王がアイルランド問題を解決してイギリスを運命の一時に団結させるために、これまでに集めることができたあらゆる影響力を行使するのを目の当たりにした。バッキンガム宮殿の会議は当事者間の交渉の始まりにすぎなかったかもしれないが、それを目指して双方の政治家が努力していた和解が成立していたかもしれない。しかし、戦争は当分の間、すべてを忘却の彼方へ吹き飛ばしてしまった。

 国王と献身的な王妃は、あらゆる形態の戦争作業に身を投じ、すべての人の模範となった。国王はたゆまぬ努力で増え続ける軍隊を視察、閲兵したが、悲しいかな何カ月もの間、帯剣していなかった。王は日々、大臣たちを励まし、さまざまな仕事を手伝った。長男が最低年齢に達するとすぐに戦場へ行くことを許可し、王子―後のエドワード8世―は近衛師団の下士官として塹壕の中で何度も砲弾やライフルの銃撃にさらされたのである。「父上には四人の息子がいるのに、どうして私が束縛されなければならないのか?」と彼は言った。しかし次男、現在の国王ジョージ6世もまた危険な目に遭っていたのである。彼は海上勤務で、海戦の中でも最大のものであるユトランドの海戦に参加していた。ジョージ国王自身も頻繁に戦地に赴いた、そして鋼鉄のヘルメットをかぶった写真を見るなら、何度も敵の砲火を浴びたり、その中に身を置いたりしたことがあるのがわかる。そのような視察の中で、不運な事故が起こった。軍隊の大歓声に驚いた彼の馬が立ち上がって後ろに倒れ、ぶつかって押しつぶされた王は重傷を負った。それから数ヵ月後、内閣を辞任する際に別れを告げに行ったとき、私は彼の打ちひしがれた姿と明らかな身体的衰弱にショックを受けたが、もちろんそれは世間には隠されていた。

戦争の苦しみは続いていた。政府も大臣もその緊張に疲れ果てていた。国王は国民と帝国の不屈の闘志を解き放ち、より自由に表現するための新たな共同体の形成に常に手を貸していた。すべては堅固に持ちこたえ、鎖の輪は一つとして壊れなかった/しかし英国の強さのすべての錨が打たれていた水底は、世襲の国王と、彼が深く理解していた君主制の機能であった。ついに勝利が訪れた。絶対的、最終的、疑いようのない勝利であり/武力による勝利の中で完全さにおいてこれを上回るものは稀であり、また大きさにおいてこれを上回るものは絶無であった。彼が戦ったすべての王と皇帝は逃亡するか、退位した。バッキンガム宮殿には、再び多くの人々が押し寄せた。それはもはや、1914年8月の忠実で熱烈で、しかし未熟な熱狂ではなかった。国民と帝国は、憔悴した喜び、言いようのない安堵感、深い感謝の念をもって、法と自由の上に築かれたその王座が、最も手強い攻撃と恐ろしい危険にも見事に耐えてきた君主を称賛したのであった。

 勝利の影は幻滅である。極端な努力の反動は衰弱である。戦争に勝っても、その余波は長く辛いものである。第一次世界大戦の後、激怒した民主主義が政治家に許した和平は激動と不況の数年間だった。大砲の音と国家的な努力の音に紛れて聞こえなかった金切声が今では最も大きな音になっていた。危険によって停止させられていた破壊的なプロセスが再び動き出した。イギリスの盾によって征服や侵略から守られていたか弱い人々が、勝利した保護者に対して、自ら育てた力、ため込んでいた力を行使したのである。しかし国王はバランス感覚を失っていなかった。ロイド・ジョージ氏が勝利の条約を携えてパリから戻ったとき、彼はそれに値する臣下を自らヴィクトリア駅に出迎え、自分の馬車でバッキンガム宮殿まで送るという前例のない方法を取ったのである。この行動の重要性を歴史が見過ごすことはないであろう。

 戦後のわが国の国内政治の最大の特徴は、自由党が社会党に食い荒らされ、この強力であるが奇妙に調和した勢力が代替政権として提示されたことにある、彼らは溶解性の理論を掲げ、数世紀にわたる試行錯誤によって私たちが進化させることができた唯一の文明とは根本的に異なるそれを夢に描いていた。ジョージ5世とラムジー・マクドナルド氏および社会主義者たちとの関係はその帝王学の中の重要な一章となっている。ここでもまた憲法と議会政治の仕組みが彼の指針であり道具であった。彼は当初から主義や信条に関係なく、庶民院で多数を占めることができるすべての政党に対して、憲法上絶対的な公平性を示すことを決意していた。実際、もし天秤が左右に揺れ動くのであれば、新参者の方に味方しなければならなかった、そして王室は彼らを助け、引き立てなければならなかったのである。

 階級闘争や政党の争いの上に立つ国王は、わが国の社会においてユニークな視点をもっている。すべての国民の君主となることがその唯一の野心となり得る。王は国民の団結を促進するあらゆる気運を育てなければならない。すべての遵法精神に富む臣民は、憲法上の手続きによって、国王の下に最高の義務を果たす機会を与えられなければならない。庶民院で多数派を率いるすべての政治リーダーは、他党の分裂のおかげで勢力を維持できている政治リーダーでさえ、王室の最大の最も寛大な支持と援助の計らいに与る権利を持っている。国王の脳裏には「人民を信じよ」という古い諺が鳴り響いていたのかも知れない。国王は英国の民主主義を決して恐れず、恐れる必要もなかったのである。彼は労働党と社会主義という新しい勢力と、憲法と王政との間に折り合いをつけたのである。何百万人もの取り残された人々の代弁者を消化吸収し、結集させたこの巨大なプロセスは、未来の歴史家に熱心に研究されることになるであろう。外国や私たちのアメリカの同胞が驚いたのは、国王である皇帝が、既存のあらゆる制度を脅かすような理論を持つ政治家や、ゼネストを組織したばかりの指導者ときわめて気楽に、そして平然と友好的に仕事をしている光景であった。

 その結果、憲法を基礎とする国家の結束が実現し、これは世界の驚異となった。混乱の一世紀が必要となり、その過程で国民生活の連続性と伝統が破壊されてもおかしくなかったこのような進化を、ジョージ5世は自らの治世の間に達成したのである。その際、ジョージ5世は立憲君主制の理念を世界中に復活させた。多くの国がジョージ5世とその国に羨望のまなざしを浴びせた。彼は国家の精神を復活させ、世襲王政の評価を高め、真の国家の奉仕者として、種々様々の人々から忠誠だけでなく愛情も寄せられるような高みに上ったのである。

アイルランドもまた、閣僚たちの直接の責任に対する偏見を持たずに、国王の手腕を見届けることができる領域だった。国王は重大な危険を冒して、北アイルランドの最初の議会を開会することを引き受けた。この厳粛な機会に、国王はすべてのアイルランドの臣民に訴え、北部だけでなく南部にも訴えかけるような言葉を、自分の口から発することを大臣たちに希望した。この言葉の効果は絶大であった。良かれ悪しかれ―私は最終的に良くなるとまだ信じているが―アイルランドの和解は否応なくその結論に向かって進んでいった。条約が調印された翌朝、国王は関係閣僚をバッキンガム宮殿に呼び寄せ、彼らに囲まれて写真を撮り、最も目立つ公的な方法で、閣僚の行動に自らを関連付けた。この政策はすべて、いまだに論争の的となっており、条約に署名した人々の失望は深刻なものとなっている。

 国王がとった政治的行動のうち最も議論の多かったのは、1931年の金融・経済危機のときのものだった。国王が、今やとても大きくなっていた自らの個人的影響力を使って、国を不必要な崩壊や不当な破産から救うために、国民的、すなわちいわゆる挙国一致政権を設立させたのは疑いないところである。しかし、彼の行動は決して王室の職分の枠を超えるものではなかった。道義的、実質的な全責任は首相であるラムジー・マクドナルド氏とボールドウィン氏が負った。これらの大臣は国王に助言を行い、その助言に対して責任を負ったのである。その助言は国王自身の意見や希望に沿ったものであったとはいえ、決して憲法上の立場を揺るがすものではなかった。挙国一致内閣の樹立と、それがわが国史上最大の有権者から受けた圧倒的な支持は、この波乱に満ちた困難な時期に、他のどの国にも見られなかった経済回復と政治的静穏の時期を開始させた。それがわが国の政治生活の活力と生命力、そしておそらくはわが国の政府の有効性という深刻な代償を払って獲得されたものであることは、議論の余地があるかもしれない。しかしその印象的な利益は国民の熱い理解を獲得し、四年後には再び、行われたことに対する決定的な承認が記録された。こうして王の治世の最後の局面において、彼の心からの願いが結実したのである。

 しかし、この四年間がその前の嵐のような四年間といかに対照的であったことだろう!国王は、自分の国が激しい党派闘争で揺れ動いていることに気づいた。彼はそれを平穏に、そして大方において団結させて去ったのである。彼はこれまで知られていた中で最大の戦争を乗り越えた。彼は恐るべき致命的な危険にさらされた数年間、大英帝国の運命に責任を負ったのである。彼はその広大な領土を一インチも減ずることなく、大英帝国が浮上するのを見届けたのである。彼は王室と君主の権力が計り知れないほど強化され、同時に帝国全体の忠誠心、そして臣民の権利と自由が、より広々とした土台の上に確立されるのを目の当たりにしたのである。彼は無知で無思慮な人々や前世紀の多くの知識人にとっては単なる象徴でしかなかった王室が、今や大英帝国全体あるいは英連邦全体がともに歩むために欠くことのできない唯一の近代的な絆であることに気づいたのである。実際、私たちの過去や現代の傾向と反対の動きによって、王室はすべての自治領と直接的な関係を持つようになり、その大臣たちは、憲法上の重要な問題については、個人的に君主と、君主だけと取引することを望んでいることがわかったのである。

 彼が見てきた私たちの気質、習慣、風潮の変化は多大なものだった。女性は完全な参政権を獲得し、巨大な政治的権力を行使している。自動車が馬とそれに伴うものすべてに取って代わった。すべての人々の富と幸福は、巨大なスケールで進化している。犯罪、残忍な暴力、酩酊、酒類の消費は減少している。私たちは、より穏やかで、より親切な国民になった。繁栄する自由な報道機関は、王室の忠実な守護者となった。放送によって、君主はすべての国民に語りかけることができるようになった。破滅と混沌の世界において、ジョージ5世は自らの使命である偉大な職責を輝かしく再生させたのである。

彼の治世は稀に見る完全性と調和によって威厳を保っている。即位二十五年祝典は世界各地の臣民からゆっくりと寄せられた、積りに積もった愛情が表現されたものだった。王室への敬意は栄誉と君主への愛情によって強化された。私たちはウェストミンスター・ホールで四人の息子を傍らに置いて、議会の祝辞を受ける国王の姿を目にした。私たちは彼の声が、その統治を受けるすべての国のすべての男女に、シンプルで心のこもった歓びのメッセージを伝えるのを聞いた。与えられた寿命が尽き、彼の治世のクライマックスが過ぎたとき、彼は私たちの中から素早く、そして静かに去っていった。彼は今わの際に、思うように動かない手で摂政評議会に必要な委任状にサインをしようとした/そして、人類の尊敬とすべての臣民の悲しみの中で、愛する者たちに囲まれて息を引き取った。彼は死ぬ間際まで働いて、人々の統治に携わるすべての人物の模範となるようなインスピレーションを残したのである。公私にわたる義務を忠実に、厳格に、たゆまず、気取らずに、成功裏に遂行したこと、そして壮大な事件の頂点に立ったときの穏やかで誇り高い謙虚さという特徴が、彼の名声を永遠に照らし続けることであろう。

 

2022.2.12