エドワードⅠ世


A History of the English-Speaking Peoples, Vol. 1


The Birth of Britain

BOOK II – THE MAKING OF THE NATION

Chapter 18. KING EDWARD I

WINSTON S. CHURCHILL

 

 

英語を話す人々の歴史

第一巻 ブリテンの誕生

第二部 国家の形成

第十八章 エドワードⅠ世

ウィンストン・S・チャーチル


訳者より:第二次世界大戦後に出版された歴史書です。訳者が興味を持った章から訳していく予定です。
原文:https://erenow.org/postclassical/the-birth-of-britain-vol-1/15.php

 

 父の死によって33歳で王位に就いたときのエドワード1世ほど、統治術について徹底的な教育を受けていた王子はほとんどいなかった。彼は経験豊富な指導者であって、高い技量を持つ将軍だった。彼は父を肩に担ぎ/シモン・ド・モンフォールと戦い、彼と多くの意見を共有しながらも、彼を滅ぼした。彼は敗北を味わいながら戦争の技術を学んだ。ヘンリー3世の晩年、彼はいつでも主導権を握ることができたにもかかわらず、親を立て、憲法に即した忍耐を選んだ。秩序と改革を愛した彼自身と、父の怠惰と無能、そして王国の全体的な失政と対比するなら、そのことはいっそう際立つ。

 体格には気品があり、普通の男性より頭と肩の分だけ背が高く、髪はいつも豊かで、幼少期は黄色、青年期は黒、老年期は雪のように白く変化し、彼の人生の歩みを物語っていた。彼の誇らしげな眉と均整のとれた顔立ちの欠点は、父譲りの左まぶたの下垂だけだった。吃音ではあったが、雄弁だった。彼の手足についてはよく語られる。筋張った筋肉質の腕は剣士のものであり/長い脚は鞍を制御するのに便利で、”長脛王”というあだ名がついた。こうした特徴を記録しているドミニコ会の年代記者ニコラス・トリヴェットは、王は戦争とトーナメントを好み、特に鷹狩と狩猟を楽しんだと述べている。牡鹿を追いかけるとき、彼は獲物を猟犬に任せず、狩猟用の槍さえ使わなかった/彼は危険なほどの速さで走って、不幸な獣を地面に切り伏せたのである。

 これらはすべて彼の治世の特徴だった。彼は、ヘンリー2世の行政能力と獅子心王その人の武勇と雅量が混在した資質を私たちに示した。自ら選んだ格言にこれほど忠実に生きたイングランド王はいなかった:「人はそれぞれ」である。彼は自分が理解する正義と法、そして共同体の中のあらゆる集団の権利への情熱に燃えていた。侮辱や敵意には、最期まで情熱的に抵抗した。しかし服従や厚意は多くの場合、迅速な応答を受けて将来の友情の基礎になった。

 父が崩御したときエドワードはシチリア島にいたが、ヘンリー3世の亡骸が墓に入る前に、王国の全ての有力者はエドワードを王にすることに同意していた。ヘンリー3世が戴冠式のためにイングランドに戻ったのは二年後のことだった。彼の即位は世襲と選挙の原理のいずれにも適っており、どちらが優位かを問われることはなかった。シモン・ド・モンフォールや直臣団との対立は、王政が国民的な基盤に立つ必要性を彼に教えた。苦境に陥ったシモンが、王室や傲慢な直臣団に対抗するために中間の階級に助けを求めたとするなら、新王は自らの自由意志で、最初からこの力を適切な場で使おうとしたのである。彼の最も偉大な時代の基調は調和である。彼は高慢で乱暴な直臣団と強欲な教会の中に、王権を牽制するものを見出した/しかし同時に、それらが臣民大衆を抑圧していることも認識した/中間の階級の利益と国民全体の必要をそれまで以上に考慮することによって、彼は活動的な君主制が全体的な利益のために機能しうる、広範で整然とした基盤を作り出すことに成功したのである。これを原動力として、彼は国民の王になること、ブリテン諸島全域への支配権の拡大、ヨーロッパの会議における影響力の獲得を目指した。

 イングランドにおける彼の行政改革は、強く対立している勢力のいずれかを満足させるものというよりも、むしろ全体に正義をもたらすものであった。国王は、もし勅許状が祖父に課した束縛に憤慨し、もし教会の増大する富と主張を抑えたいと望んだとしても、奪還した権限を自ら引き受けることはせずに、より広い基盤の上にそれを置いた。教会と直臣団が獲得した特権を取り上げる際にも、彼は常に地域社会全体の利益のために行動した。彼のすべての立法には、その問題がいかに多様であったとしても、共通の目的があった:「私たちは私たちのものであって、私たちにふさわしいものを見つけなければならない。そして他の者たちは彼らのものであって、彼らにふさわしいものを見つけなければならない。」

 これは秩序を整える時代だった。この治世が記憶に残るのは、偉大な新しいランドマークが建てられたからではなく、それ以前の三つの治世の有益な傾向が誤りや混乱から救い出され、恒久的な構造として組織され統合されたからである。これまで幾度も揺れ動きながら形作られてきた国家の枠組みと政策は黒死病、フランスとの百年戦争、薔薇戦争といった悲劇を乗り越え、中世の残りの期間を耐え抜き、そのいくらかはさらに長く継続したのである。この時代には純粋な封建制に代わって、騎士的でブルジョア的な社会段階が次第に形成されていった。政府機関、土地所有権、軍事と財政の制度、教会と国家の関係がすべて明確になって、それはチューダー朝まで続いた。

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治世の最初の18年間は、何世紀にもわたって他に例を見ないような立法活動の爆発が見られた。ほぼ毎年、重要な法令が制定された。独創的なものはほとんどなく、ほとんどが保守的なものだったが、その累積効果は革命的だった。エドワードは、バース・アンド・ウェルズ司教ロバート・バーネルを大臣(*Chancellor)として頼りにした。彼は賤しい生まれだったが王室の大臣職と司教区の運営で名を挙げた。バーネルの全生涯は王室への奉仕に費やされ、彼の政策はすべて、封建的特権と影響力を犠牲にして王室の権力を増大させることに費やされた。エドワードが1274年にイングランドに帰還した後、彼が大臣に就任して三週間も経たないうちに、地方行政に関する調査が開始された。四十の質問リストを携えた調査委員が各地に派遣され、王の権利と所有物は何か、それに対してどのような侵害があったか、どの役人が怠慢だったか、腐敗していたか、どの役人が「嘆願、買収、便宜ゆえに」重罪を隠し、職務を怠り、過酷だったか、賄賂を贈られたかを尋ねた。似たような審問は以前にも行われていたが、これほど徹底的で実り多いものはなかった。「巧みで、しかし専制的ではない」国王の方針は、あらゆる権利を尊重し、あらゆる横領を禁じることだった。

 1275年の議会におけるウェストミンスター第一法は、調査委員が摘発した行政の職権乱用に対処した。1278年に制定されたグロスター法では、領地内で独自の裁判所や役人によって法を執行する封建的有力者の権利について、Quo Warrantoの令状で調査するよう司法官に指示した。そしてそれらの権利を厳しく限定するよう命じた。この調査の主な目的は偉大な封建主義者たちに権利と同時に存在する義務を思い出させることだった。1279年、モートメイン法De Religiosisは、教会への土地の贈与を禁じたが、この慣習は勅許の下で継続することが許されていた。1285年、ウィンチェスター法は地方の無秩序を攻撃し、同年、ウェストミンスター第二法De Donis Conditionalibusが公布された。ウェストミンスター第三法Quia Emptoresは条件付きではない、単純所有の土地を扱った。このような条件で所有されていた土地は自由に譲渡することができた。しかし買い手は将来にわたって売り手ではなく、売り手の領主に従ってそれを所有するのであって、土地には売却前に付随していたものと同じ封建的な役務や慣習が伴うと規定された。これにより転封の増加に歯止めがかかり、今や直接の借地人が増加した大領主としての王室には大きな利点になった。

 この有名な一連の法律の目的は本質的に保守的なものであって、しばらくの間その施行は効率的なものだった。しかし経済的な圧力はイングランドの資産生活に大きな変化をもたらし、その深さは政治的な領域で起こった変化に劣らなかった。土地は次第に、国家社会と国防の基礎となる道徳的拘束力ではなくなった。土地は原則として羊毛や羊肉のように売買可能な商品になった。それは一定の制限のもとで贈与や遺言によって新しい所有者に譲渡された。また将来の新しい支配階級の基礎になることは必然でさえあった。

 もちろん、イングランドの国土の比較的小さな割合しか、未開ではあってもこの活発な市場に参入していなかった/しかしそれまで固かった要素が十分に流動化し、深い波紋を呼んでいた。最も偉大な王侯たちが哀れなほど現金に飢えていた当時、イングランドにはすでに、弱々しく湧き出る信用貸しの泉が一つあった。ユダヤ人はその激しい時代の社会構造の中に、人知れず、音もなく紛れ込んでいた。彼らはそこにいて、そこにいなかった/そして時折、緊急に資金を必要としている高貴な人物に最も役立つことがあった/議会にうったえることを望まなかった国王にとっては、これ以上ないことだった。まれにではあったが、金さえあれば誰でも確実に土地を手に入れることができるという光景は、イギリスのユダヤ人を衝撃的な軽率さに導いた。土地は、直接売却されるか、抵当に入れられることが多くなって、イスラエルの手に渡るようになった。どちらの方法をも有利にするだけの土地が市場に出回るようになった。数十年のうちに、かつての封建領主たちは無視できない広さのイングランドの土地の一部を、はかない利益のために永久に手放してしまったことに気づくようになった。

 しばらく前から、怒りに満ちた反動が高まっていた。抵当権に圧迫されている小地主たちや、悪い取引をした浪費家の貴族たちは一致団結して不満を訴えていた。イタリア人の金貸しもこの国に入ってきていて、彼らはユダヤ人と同様、国王が困ったときに役に立つことができた。エドワードは反ユダヤ主義という単純でよく行われてきた方法によって、有力者たちの歓心を買い、厄介な借金から逃れることができると考えた。儀式における殺人の宣伝やその他の暗い話は、私たちの啓蒙された時代にも常套句だが、すぐに一般大衆の絶賛を浴びた。ユダヤ人は普遍的な憎悪の対象とされ、略奪され、虐待され、ついには王国から追放された。しかし、その技量なしでは重要人物に十分な注意が払えない特定の医師たちについては例外が設けられた。悲しみに暮れ、流浪する民族は、身ぐるみ剥がされて再び亡命し、再出発しなければならなかった。スペインか北アフリカへ、今やすっかりおなじみになった哀愁のキャラバン隊は移動しなければならない。オリバー・クロムウェルが金満のイスラエル人と密約を交わしてイングランドの海岸をユダヤ民族の事業に再び開放したのは4世紀後のことだった。カトリックの王の禁止令の撤廃は、カルヴァン派の独裁者に任されたのである。ユダヤ人に代わって、今度はフィレンツェとシエナの銀行家が、エドワード1世の孫の時代にキリスト教国の財産を手に入れようとした。

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国王はその治世における大規模な法令上の業績と並行して、絶え間ない行政改革を進めた。彼は自ら疲れ知らずの視察を行った。絶えず領内を巡って、すべての中心地であらゆる種類の乱用を厳しく査問し、地方の有力者の行き過ぎを鋭いペンと強力な手腕で正した。しばしば学者ぶった解釈に押し流される合法性も、彼がいつでも使える武器だった。彼はたゆまぬ忍耐によってあらゆる方面で王国の内政を浄化し、自分自身のみならず国民の領域から私利私欲を追い出したのである。

 中世の王の中でも、エドワード1世は自ら行政と良い政府の仕事と見なしたものに真剣に取り組んでいたことで注目される。それゆえ、エドワード1世が「自らの威厳の重みによろめく偉大な封建主義者たちの素人的な助手」と呼ばれるのが適当なものよりも、専門家による専門的な助力に信頼を置いたのは当然のことだった。13世紀末には、すでに三つの専門行政部門が機能していた。ひとつはウェストミンスターに設置された大蔵省(*Exchequer)で、ここが歳入の大半を受け取り、会計を管理していた。二つ目は公文書保管丁(*Chancery)で、無数の勅許状、令状、書簡の作成と起草を担当する一般事務局だった。三つ目は衣裳室(*Wardrobe)で、独立した事務局である王璽尚書があって、常に動き回る王室について行き、大陸戦争の資金調達から王室の料理人のための1ペニー分の胡椒の購入までの財務と秘書の機能を兼ね備えていた。バーネルは典型的な初期の文官だった。彼の死後、その座は大蔵官僚のウォルター・ラングトンに引き継がれたが、彼はバーネルと同様、リッチフィールドでの(*司教としての)職務を霊的な役職ではなく、巧みな職務に対する報酬と見なしていた。(*当時、読み書きができたのは聖職者くらいだったので、官僚に取り立てられることが多かった。)

 エドワード1世は最も正統的な教会信者だったが、教会との対立を免れることはできなかった。エドワード1世は神への捧げものに熱心だったが、カエサル(*世俗権力の象徴)への捧げものに対する感覚は父よりも遥かに旺盛であって、異議を申し立てざるを得なかったことは一度や二度ではなかった。教会派のリーダーは1279年から1292年までカンタベリー大司教を務めたフランシスコ会修道士ジョン・ペチャムだった。ペチャムは偉大な勇気と手腕によって、王室に対して教会の正当な権利と考えるものとその独立性を擁護した。1279年にレディングで開かれた地方教会会議で、彼は国王を怒らせるような宣言をいくつ出した。その一つは聖職者の職の兼任に反対する公文書で、増大する文官に報いるための王室の主要な手段を攻撃するものだった。もう一つはエドワードが守ることを誓った憲章の写しを、すべての大聖堂と協同(*collegiate)教会に公然と掲示するよう命じたことだった。教会裁判所での裁判を止めるために勅書を出した者や、(*永遠にイングランドの教会が自由であり、そのすべての権利が縮小されず、その自由特権が損なわれないことを神に誓う、と書かれた)マグナ・カルタに違反した者はすべて破門の憂き目に合うべきだった。

 ペチャムはエドワードの怒りに屈し、時を待った。1281年、別の地方教会会議がランベスに召集されたとき、国王は悪影響を疑って、その参加者たちに「わが王冠に関わる問題、われ個人、わが国家、わが議会の状態に関わる問題について助言を行うこと」を禁じる令状を出した。ペチャムは躊躇しなかった。彼はレディング教会会議の主要法案をほぼそのまま復活させ、その前置きとして教会の自由を明確に主張した。「いかなる人間的な憲法も、誓約も、神の権威の下に間違いなく存在する法律を無視することはできない。」感心しながらそれを大司教の記録に書写した書記官は、欄外に「素晴らしい手紙だ。」というコメントを残した。

 ペチャムの行動はベケットとヘンリー2世の争いに匹敵する危機を引き起こしていたかもしれない。しかし、エドワードはこの挑戦を静かに無視したようである。勅令による禁止令は出され続けた。しかし節度は守られた。1286年、エドワードは賢明にも有名な令状によって、巡回する司法官たちに教会の裁判権に関する問題については慎重に行動するよう命じた。そして教会の法廷に任せるべき事件の種類を列挙した。こうして延期された論争は、大司教と国王の両者より長生きすることになった。

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治世の初め、イングランドとフランスの関係は直臣団が1259年に締結したパリ条約に支配されていた。両国の間には30年以上も平和だったが、しばしば敵意の底流があった。条約の履行をめぐる紛争や、英仏海峡でのイングランド人、ガスコーニュ(*フランス南西部)人、フランス人の船乗り同士のいさかいは、1293年のサン・マヘ沖での大海戦で頂点に達したが、イングランド人が南フランス(*ガスコーニュ)に存在することがフランス人のプライドに対する挑戦であり、国家の完全性に対する障害でなかったなら、戦争の再燃につながることはなかっただろう。フランスの端麗王フィリップが挑発の機会をうかがい始めたときでさえ、エドワードは妥協点を見出そうと長い間忍耐強く努力した。しかし、ついにパリ高等法院はガスコーニュ公国の没収を宣言した。フィリップは領主としての法的権限を認めるとして、ガスコーニュの主要な要塞の形だけの明け渡しを求めた。エドワードはこれに応じた。しかし、フィリップは一旦それを手にすると、再び手放すことを拒んだ。今やエドワードは、戦わなければフランス領を失うことになると悟った。

 1294年には偉大な王は、活力に満ちていた若い頃とはずいぶん変わっていた。父を支えた長い波乱万丈の年月の後、彼はほぼ四半世紀にわたって自ら君臨していた。その間に彼の周囲の世界は変わってしまっていた/最愛の妻カスティーリャのエレノア、母プロヴァンスのエレノア、そして長男と次男を失ったのである。バーネルも死んだ。ウェールズとスコットランドには重大な問題があった。孤立し、困惑し、老いていく王は、果てしなく続く困難に直面しなければならなかった。

 1294年6月、彼はロンドンで、すでにそう呼ばれていた有力者たちの「議会」でフランスとの争いの理由を説明した。より定期的に開催される議会でよくあるように、戦争に踏み切るという彼の決定は賛成をもって受け入れられた。

 戦争自体に重要な特徴はなかった。ガスコーニュ地方での作戦、海峡での沿岸略奪、イングランド軍によるボルドー包囲が長期にわたった。当初の熱狂は必然的な増税によって急速に冷めていった。イングランドの輸出貿易の主力品目だった羊毛と皮革はすべて押収され、1275年に議会が定めた半マルク(6シリング8ペンス)の代わりに、一袋当たり40シリングの関税を支払わなければ買い戻せなかった。(*1ポンド=20シリング=240ペンス)9月、収入の二分の一を拠出するよう命じられた聖職者たちは大いに憤慨した。セント・ポールの首席司祭は、国王の恐ろしい面前で抗議の声を上げようとしたが、感情の激発で倒れ、死亡した。11月、議会はすべての動産に重税を課した。徴収が進むにつれ、あらゆる階級の間に苦くむっつりした不満が広がった。1294年の冬、ウェールズ人が反乱を起こし、それを鎮圧した国王が戻ってみると、スコットランドはフランスと同盟を結んでいた。1296年以降、スコットランドとの戦争はくすぶっているか、燃え上がるかのどちらかだった。

 1297年10月以降、フランスとの戦争は1303年まで休戦になった。このような状況下において、実際の戦闘にほとんど費用がかからなかった。この数年間は国内外、特にスコットランドとの間で厳しい緊張が続いた。国王は躊躇なく議会をウェストミンスターに召集し、すべての状況を説明したが、必要な支持は得られなかった。議会は新たな税金の徴収に難色を示した。

 聖職者の立場は1296年に教皇の許可なしに臨時の税金を支払うことを禁じた教皇勅書Clericis Laicosが発行されたことによって、より困難なものになった。ベリー・セント・エドマンズで開かれた秋の議会で聖職者たちは、新大司教ロバート・ウィンチェルシーの指導の下、逡巡の末、いかなる献金もできないと決定した。怒りに燃えたエドワードは、聖職者たちを法の保護の外に置き、彼らの世俗封土の没収を宣言した。大司教は教皇の勅令に従わない者は破門すると脅して報復した。一時は激情が高まったが、やがて穏やかなムードが広がった。翌年の夏には争いは収まり、教皇は新たな勅令Etsi de Statuによって極端な主張を撤回した。

 別の方面ですでに反対運動が勃発していたため、エドワードは教会と折り合いをつける用意ができていた。エドワードはソールズベリーの直臣たちに、自分がフランドル地方で作戦を展開する間、彼らの何人かをガスコーニュ地方に派遣することを提案した。これは不評だった。ヘレフォード伯爵でイングランド保安武官長だったハンフリー・ド・ボーンは、ノーフォーク伯爵のロジャー・ビゴッド元帥とともに、世襲の役職は王のもとでしか行使できないと宣言した。このような言い訳に騙される者はいなかった。両伯爵は国王に個人的な恨みを抱いていた。さらにもっと重要だったのは、過去20年間、王室の権威が自分たちの不利益になるのを着実に見てきた多くの直臣たちが感じていた恨みを代弁したことだった。エドワードの父に反抗した一世代前の直臣団の反対運動が復活する機は熟していた。

 しばらくの間、国王はこの挑戦を無視した。国王は戦争の準備を押し進め、ヘレフォードとノーフォークの代理の者を任命し、8月にフランドルに向けて出航した。反対派は国王の不在に待望の機会を見出した。彼らはマグナ・カルタとその拡張版である森林憲章という二つの文書の確認を要求した。これらはジョンに強要した条件の最終版であって、六つの追加条項も含まれていた。これらの条項が定めていたのは、今後は領民の同意がない限り、租税や奉仕を課してはならないこと、穀物や羊毛などを所有者の意思に反して押収してはならないこと、領内の聖職者と信徒は古くからの自由を回復しなければならないこと、二人の伯爵とその支持者はガスコーニュ地方での兵役を拒否しても罰せられないこと、司教たちは大聖堂で憲章を朗読し、これを無視する者はすべて破門することだった。秋になると両伯爵は武装した軍隊に後押しを受けてロンドンに現れ、これらの提案を受け入れるよう要求した。摂政は抵抗できず、これを受け入れた。11月、ゲントで国王は王室の財政的権利を留保したまま、この協定を批准した。

 これらは大規模かつ驚くべき譲歩だった。国王も反対勢力もこの譲歩を非常に重視した。そして国王は、おそらく正当な理由によって、自分がした約束を撤回しようとするのではないかと疑われた。直臣団はこの約束を何度か議会で取り上げた。そして1301年2月、リンカーンで開かれた議会における脅しと議論によって、ついに王は荘厳な形式で両憲章の新たな確認と追加条項の承認をするに至った。

 この危機とその解決方法によって、二つの原則が確立され、そこから重要な結果がもたらされた。一つは、国王はどこへも封建軍を派遣する権利を持たないということだった。この制限は封建的徴兵に終止符を打ち、翌世紀には不可避的に有給で兵役に就く年季奉公軍の台頭を導いた。現在認められている原則の二つ目は、国王は同意なしの課税を行う理由として「緊急の必要」を訴えられないということだった。17世紀には、他のイングランド君主もこのような試みを行うようになっていた。しかし、エドワードの失敗が先例になっていた。王室は議会の交付金に依存するという方向に、大股の一歩が進められたのである。

 エドワードは前任者の誰よりも、国益のために、また憲法の形式にある程度配慮して政治を行う用意があることを示していた。そのため、国王にとっては皮肉なことであり、自分が強調してきた原則が自分自身に対して適用されていることに苛立ちを覚えた。直臣団は戦争に訴えたのではなく、国王自身が苦心して作り上げた憲法上の機構を通して行動したのである。彼らはもはや封建的支配階級の代表としてではなく、国民的野党の指導者として発言したのである。王室は再びマグナ・カルタの原則を厳粛かつ公然と約束することになった。この譲歩は、最近の国王の大権の実際の乱用に対する救済策が元の憲章に加えられていたため、より価値あるものになった。ここに憲法の真の進歩があった。

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イングランド王たちはフランスでの領有権に気を取られ、グレートブリテン島内の支配権を拡大することを怠っていた。ウェールズとスコットランドの両地域で一時的な干渉はあったものの、辺境の安全を守る仕事は主に地元のマーチャー領主の肩にかかっていた。パリ条約が締結されて、大陸での冒険を一世代休むと、すぐに国内の安全保障という緊急の問題に目を向けることができるようになった。エドワード1世は王室の総力を挙げて西部と北部の国家拡張に取り組んだ最初のイングランド王であって、ウェールズの独立地域を征服し、西部辺境を安全にしたのはエドワード1世の功績である。彼は島の統一に向けた大きな第一歩を踏み出した。彼はローマ人、サクソン人、ノルマン人のすべてが失敗したところを征服しようとした。ウェールズの山の砦は、前の治世にイングランドの政治に再び大きな打撃を与えた、頑強で征服されにくい民族を育てていた。彼らは今や大ルウェリンの孫に従っていた。エドワードは父の副官として、ウェールズ人を経験していた。彼は戦争で彼らに遭遇し、疑わしい成功を収めた。同時に彼はウェールズ・マーチの直臣たち、モーティマー家、ボーフン家、そして南部ではグロスター侯爵領を持つクラレス家が、ウェールズとイングランドの人々の利益に反して、自分たちの軍事的特権を悪用する横暴ぶりを不愉快に思っていた。ウェールズの独立を主張することはエドワードにとって煩わしいことだったが、それにもまして不愉快だったのは、王室の権威に何度も挑戦しようとした強盗的な直臣たちの連合体によるイングランド辺境の警備体制だった。エドワードは正義と進歩の名の下に、古代から野蛮な自由が息づいていた小君主たちや野生の山地民族の未征服の避難所を征服し、同時にマーチャー諸侯の特権を抑制することを決意した。

 エドワード1世はウェールズ・マーチの直臣たちが何世代にもわたる長い抗争の中で培ってきた地域的資源をすべて活用して、陸海を問わず、冷徹かつ周到に考案された数年にわたる粘り強い戦いでウェールズを征服した。エドワードが投入した兵力は、主にウェールズ人傭兵であって、ガスコーニュ地方からの正規軍と封建的傭兵の最後の一兵団によって補強されていた/しかし何よりも勇敢な古代ブリトン人の力を打ち砕いたのは、冬の陣の恐怖だった。エドワードのウェールズ法によって、独立公国は終焉を迎えた。ルウェリンのウェールズの土地は完全に王の領土に移され、アングルシー、カーナーヴォン、メリオネス、カーディガン、カマーテンの州に編成された。カーナーヴォンで生まれた王の息子エドワードは、イングランド初のプリンス・オブ・ウェールズと宣言された。

 エドワードのウェールズ戦争は、イングランドの軍事システムが長年にわたるサクソン的、封建的な臨時兵役から、有給の職業的軍隊に変化していく過程を明らかにしている。アルフレッド大王が「フィルド(*fyrd、アングロサクソンの義務的な地方民兵組織)」を召集できる期間の満了によって何度も苦しめられたことは見てきた。それから400年が経過したが、ノルマン封建主義は依然としてこの基本原則に則っていた。しかし、このような方法でどのように冬も夏も15カ月も作戦できるのだろうか?大陸遠征がどのように開始され、遂行されるだろうか?従っていくつかの治世において俸給制の原則は、兵役を望まない直臣たちにとっても、金銭を払ってフルタイムの兵士を雇うことを好む君主にとっても好都合だった。ウェールズ戦争では両方の制度が同時に機能していたことが認められるが、旧来の制度は衰退しつつあった。政府は家臣の従軍に代わって信頼できる傭兵を必要とするようになり、そのために金銭が使われるようになった。

 同時に戦争の天秤における反革命も進行中だった。5世紀以来、隊列を組んだ軍団を凌駕してきた装甲騎兵隊は、その長い日を終えようとしていた。庶民からなる新しいタイプの歩兵が、その圧倒的な資質を証明し始めたのである。この歩兵は棍棒や剣や槍ではなく、手で投げる武器でもなく、長い間ヨーロッパから隠されつつ進歩を遂げていたアーチェリーを用いた。それは間もなく軍事シーンに驚くべき形で登場し、大陸の戦場で劇的な優位に立つことになる。これは征服者が被征服者から奪った戦利品だった。ロング・ボウはサウス・ウェールズですでに驚くべき能力を獲得していたことを、マーチャー領主の一人が記録に残している。彼の騎士の一人が矢に射抜かれて、その矢は鎖帷子のシャツのすそだけでなく、鎖帷子に覆われた臀部、太もも、鞍の木部を貫き、最後には馬の脇腹に深く突き刺さっていたのである。このことは戦争史における新しい事実であって、文明史の一部でもあり、石器に対する青銅の勝利、青銅に対する鉄の勝利とともに語られるに値する。歩兵は初めてガシャンガシャンという鎧を貫くことができるようになった。それは射程距離と発射速度において、それ以前に使われたいかなる手段よりも、後に近代的なライフルが登場するまでに使われたいかなる手段よりも優れていた。陸軍省にはナポレオン戦争で長い経験を積んだ将校がワーテルロー後の講和中に書いた論説が残っている。曰く、その優れた精度、迅速な発射、有効な射程距離ゆえに、マスケット銃をロング・ボウに交換するべきである。

 こうしてウェールズ戦争は二つの異なる始点から、封建制の物理的基盤を破壊したのである。それは精神的な面において、すでに行政の拡張と洗練に追い抜かれ、完敗していた。征服が完了しても征服地域を押さえつけるためには、必要とされた手段は封建的直臣たちの手に余るものだった。様々な工夫が凝らされた石造りの城は、確かに甲冑の時代には長い間、目覚ましい役割を果たしていた。しかし今では、より多くの守備隊を収容するためだけでなく、最近大幅に改良されたトレビュシェットやマンゴネル(*いずれも投石器)のような巨大な攻城器に耐え、攻撃者が城の足部に近づくのを妨げるために、高くそびえる城壁の範囲を拡大しなければならない。さらに今や、鋼鉄をまとった戦士団が無差別に恐怖をまき散らしながら田園地帯に騎行するのみならず、長距離行動という新たな力を持った歩兵の規律ある集団が、中央の司令部が制定した計画に基づいて、正規の指揮官たちに率いられるようになるのである。

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 エドワードの治世の大きな争いはスコットランドとの間のものだった。長い間、両王国は友好関係にあった。1286年、スコットランドのアレグサンダー3世が乗馬中に暗闇の中で崖から落ちて世を去り、後継者としてノルウェーの乙女として知られる孫娘マルグレーテ(*三歳、ノルウェーに在住)が残された。すでにスコットランドの有力者たちは、この14歳(*?)の王女を後継者と認めることに納得していた。そして今や、ノルウェーの乙女がスコットランドの王位を継承すると同時に、エドワード王子(*四歳、後のエドワード2世)と結婚するという輝かしい計画が持ち上がった。イングランドとスコットランドの対立を解消する王家の統合がこうして実現しようとしたのである。この計画が受け入れられたかどうかで、私たちはこの時代の賢明さを測ることができる。イングランドとスコットランドの支配勢力は実質的にすべてこの計画に同意していた。しかし、それは夢であって、夢に終わってしまった。ノルウェーの乙女は1290年に(*ノルウェーから)嵐の海に乗り出したが、陸に着くことなく死んでしまった。スコットランドにはイングランドの利害の大きな因子となる後継者問題が残された。スコットランド貴族たちはイングランド王家と多くの点で同盟を結んでいた。そして庶子を含む十二人の後継者候補の中で二人の男が目立っていた。ジョン・バリオールとロバート・ブルースである。ブルースは高齢の父親が王家との共通の先祖に近いことを主張し/バリオールはより遠い子孫だったため、長男子相続権を主張した。しかし、党派は均衡していた。

 ヘンリー2世の時代から、イングランド王室は断続的にスコットランドの領有権を主張していたが、これはスコットランドの王たちがサクソン人の大君主権を認めていたことに基づいていた。法的能力に定評のあったエドワード王は、すでにアラゴン(*現在の東スペイン)とアンジューの間で同様の調停を行っていた。そして今回、彼はスコットランドの後継者問題の仲裁者としてかなり受け入れられて、自ら押しかけた。選択肢はスコットランドが敵対的な王権に分裂するか、内戦で決着をつけるかしかなかったため、スコットランド人はエドワードの判断を仰ぐ気になった/常に厳格な合法性を重視していた彼は、スコットランドのある城の明け渡しによって自分の大君主権を再確認するという前提条件をつけただけで、この仕事を承諾した。イングランド王は仲裁者としての役割を極めて適切に果たした。スコットランドの直臣たちの陰謀による、スコットランドの完全性を破壊するという誘惑を拒否したのである。彼は1292年、ジョン・バリオールに有利な裁定を下した。後の世の評価も彼の判断の正しさをいささかも疑問視していない。しかし、スコットランドが深く分裂していて、ブルースの主張を支持する勢力が強かったがために、必然的にジョン・バリオールは単に彼の選択肢になるのみならず、彼の操り人形になる。エドワード1世はそう考え、正当な、そして同時に非常に有益な決定に酔いしれた。彼はスコットランドの支配権を確定したのである。彼は国王を指名したが、その国内での立場は危ういものだった。しかし、こうした法的確約の障壁の背後に、スコットランドの国民感情は鬱積していた。窮地に陥ったスコットランドの直臣たちはエドワード王の裁定を受け入れた。しかし同時に、彼を威圧し、スコットランドの権利を見守るための十二大領主からなる権威ある評議会を新王ジョンに設置させた。こうしてエドワード王は、一見順調に見えた成功の後に直面することになった、スコットランドの完全な国民性、従属的ではなく独立的な政府、服従的ではなく敵対的な国民を厭わしい目で見ることになった。

 まさにこの瞬間、エドワードは手強いフランス王フィリップ4世から、同じように大君主権を主張された。ここでエドワードは、封建的な利益を誇り高く守る家臣であって、法的には宗主国フランスが有利だった。さらにイングランドがスコットランドより強いならば、フランスは武力においてイングランドを上回っていた。この二重の対立はイングランド君主国の財政と軍事力に、到底耐えられない大きな負担を課した。エドワードの治世の残りの期間は北と南での二つの闘いに費やされ、そのため臣民には耐え難いほどの税が課されることになった。彼はフランドルとスコットランドの低地を精力的に行き来した。国の金を搾取した。他には何事も重要ではなかった/味方を増やすために彼が繰り返した譲歩によって未発達な議会制度は莫大な利益を得た。彼はジョンが約束した改革の大部分を承認した。大領主たちの一部の例外を除いて、国民は彼の対外的な努力のいずれにも協力した。しかし、何度も何度も彼の要求に従ったものの、途方もなく重い負担に満足はしていなかった。こうして賢明な立法者、イングランド財政の倹約家、行政改革者は領民に限界を越えさせ、その過程で反感を買って、彼の人生を暗くし、名声を曇らせてしまったのである。

 エドワードに対抗するため、スコットランド人はフランスと同盟を結んだ。(*1295年)エドワードは(*1293年から)フランスと戦争中だったたため、これを敵対行為とみなした。エドワードは自分に会いにバーウィック(*両国の国境近くの町)に来るようバリオールに命令した。スコットランドの貴族たちは王の出頭を拒否し、この瞬間から戦争が始まった。エドワードは無慈悲なまでに厳しい攻撃を加えた。彼はバーウィックに進攻した。当時、北方貿易の一大拠点だったこの都市は、100年の平和の後、攻撃に対抗する準備ができていなかった。急遽、矢来が築かれ、市民は手近な武器を手にした。イングランド軍はほとんど損害を出すこともなく、これらの即席の陣地を踏みにじった。そしてバーウィックはこの野蛮な時代にさえも衝撃を与えた略奪と虐殺にさらされた。数千人が殺された。最も断固とした抵抗を見せたのは三十人のフランドル商人だった。彼らはレッド・ホールと呼ばれた彼らの倉庫を焼き払われるまで守り続けた。バーウィックは数時間のうちにヨーロッパ商業の活発な中心地の一つから、今日のような小さな港へと沈んでしまった。

 この恐ろしい振る舞いは、スコットランドの支配階級の抵抗を鎮めた。パース、スターリング、エディンバラは王の進軍に屈した。エドワード1世がいかにマキャヴェッリの教えを先取りしていたかをここに見ることができる/バーウィックの恐怖の後は、あらゆる形の服従を歓迎し容易にする、最も寛大で寛容な精神に引き継がれたのである。バリオールは王位を明け渡し、スコットランドはイングランドの統治下に入った。ウェールズ同様、征服者は異国の支配のみならず法と秩序を導入したが、これらはすべて等しく不人気だった。スコットランドの支配階級は明らかに敗北し、エドワードはすべてが終わったと自惚れたかもしれない。しかし、それはまだ始まったばかりだった。ジャンヌ・ダルクは西欧世界の民族主義(*nationalism)の水準を高めたとよく言われる。しかし、彼女が現れる1世紀以上も前に、アウト・ローの騎士ウィリアム・ウォレスは避難場所になっていたスコットランド南西部の奥地から現れて、スコットランド民族を体現し、指揮し、勝利に導いた。エドワードは幸運と不運を味わいながらフランスで戦っていたが、これまで確実と思われていたスコットランドでの王の平和に対する絶え間ない侵入と襲撃の話を聞かざるを得なかった。ウォレスの背後には、いかなる人々にも劣らない、断固たる果敢な民族の精神があった。さらに彼は高い軍事的才能も備えていた。悲惨なまでに貧しく、運営が原始的なものだったにもかかわらず、勇敢に立ち上がった男たちの組織されていない集団を鍛えて、彼は頑強で不屈の軍隊を作り上げた。この軍隊の構造は興味深い。4人ごとに5人目がリーダー/9人ごとに10人目がリーダー/19人ごとに20人目がリーダーというように/1000人ごとにリーダーが置かれた/そしてどの部隊のリーダーに従わない場合でも、罰則は死とすることが合意されていた。こうして自由は征服されることなく、大地から立ち上がるのである。

 サリー伯爵ワーレンはエドワードの北部方面の指揮官だった。スコットランドの反乱軍による略奪に耐えられなくなった彼は、強力な軍隊を率いてスターリングに向かった。1297年9月、カンブスケネス修道院に近いスターリング橋で、彼はウォレスの軍勢を目の当たりにした。多くのスコットランド人がイングランド軍に属していた。そのうちの一人が、川にかかる細長い橋と土手道を越えて展開することの危険性を彼に警告した。この騎士は、現代の参謀将校にもふさわしい計算を訴えた。橋を渡って軍を移動させるには11時間かかる。もし、通過が完了する前に前衛が攻撃されたらどうなるだろうか、と彼は尋ねた。もっと上流には浅瀬があって、少なくとも側面部隊はそこを渡れるはずだと言った。しかし、ワーレン伯爵はそのようなことは考えもしなかった。ウォレスは橋を渡るイングランド軍の集結を見定め、適切なタイミングで全軍を彼らに浴びせかけ、橋頭を奪って5000人の前衛部隊を屠った。ワーレンはスコットランドの大部分から避難した。ワーレンの要塞は次々と陥落した。イングランド軍はツィード河畔を守るのがやっとだった。

 エドワード王にとって、フランスとの戦争とスコットランドとの恐ろしい闘争を同時に遂行することは不可能だった。彼は何としても自国に最も近い危機に集中しようとした。彼はフランス王との長い交渉に入った。何度も繰り返された休戦がそれを覆い隠した。そして1303年に最終的なパリ条約が結ばれた。正式な和平は何年か遅れたが、実際には1294年のエドワードとフィリップの妹であるマーガレット王女との結婚の取り決めと、またエドワードの息子で後継者のエドワード・オブ・カーナーヴォンとフィリップの娘イザベラの婚約によって和平は成立していた。この二重の血縁同盟によってフランス戦争は1297年に実質的に終結したが、教皇庁の複雑な事情ゆえに、和平も国王の結婚も1299年まで最終的かつ正式に確認されることはなかった。こうした外交的協定によって、1297年末以降、エドワードはスコットランドに力を集中できるようになった。

 ウォレスは今やスコットランドの支配者だった。そして戦争には休戦も慈悲もなかった。憎きイングランドの役人、収税吏が橋の戦いで倒れた。彼の皮膚は適当な大きさに切り取られ、将来のためにウォレスの剣の帯に巻かれた。フランスでの作戦を中断せざるを得なくなったエドワードは惨事の現場に急行した。そしてイングランドの封建徴収兵を総動員してスコットランド軍に戦いを挑んだ。彼が直接指揮を執った1298年のフォルカークの戦いはスターリング橋のそれとは対照的なものだった。ウォレスは今やより強い兵力を率いており、閉じ籠って防御的態勢で戦いを挑んだ。彼は騎兵も弓兵もほとんど持っていなかった/しかし実際の物理的破壊以外では打ち負かせない、槍兵の堅固な「シルトロン」(円陣)に信頼を置いていた。イングランド軍の前衛の装甲騎兵隊は、槍の穂先に酷い損害を被って後退した。しかし、エドワードはウェールズの弓兵を第二列の騎兵の間に配置し、スコットランドのシルトロンの特定の地点に矢の雨を集中させた。そしてその場所の敵兵の過半数が死傷した。イングランド騎士団はその隙間に侵入し、死骸を乗り越えて押し進んだ。スコットランドの隊列が崩れると、槍兵たちはたちまち虐殺された。虐殺がようやく終わりを告げたのは森の奥深くでのことだった。そしてウォレスとスコットランド軍は再び逃亡者になって、反逆者として追われ、飢えに苦しみ、人間として最悪の窮乏に見舞われた。しかし、それでも武器は手放さなかった。

 スコットランド人は征服不可能な敵だった。ウォレスが捕らえられ、ウェストミンスター・ホールで仰々しく裁判にかけられ、タイバーンで絞首刑に処されたのは1305年のことだった。しかしスコットランドとの戦争は、ある年代記記者が書いたように「毎年の冬が、毎年の夏の仕事を元に戻した」戦争だった。ウォレスの後はロバート・ブルースに引き継がれた。

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晩年のエドワードは、孤独で怒りっぽい老人だったようである。エドワードの周りには新しい世代が育っていて、彼は彼らをよく知らず、共感することも少なかった。王妃マーガレットはエドワードの娘と言ってもいいほど若く、しばしば父に背く継子たちに味方した。年老いた国王に対抗する勇気のある者はいなかった。しかし国王は家族の中でほとんど愛されることも尊敬されることもなかった。

 1290年の王位請求者の(*同名の)孫であるロバート・ブルースが出生の権利のみならず、強硬手段で突き進んだがために、スコットランドの戦争は再び燃え上がった。国境の町ダンフリースの教会の荘厳な聖域で、彼はイングランドの利益を代表するスコットランド人の長と会った。二人の指導者は、共に中に閉じこもった。やがてブルースが一人で姿を現し、支持者たちにこう言った。「赤カミンを殺してしまったかも知れない。」そこで彼の支持者の長が「確かめて参りましょう(*スコットランド語:I’se mak’ siccar!、英語:I’ll make sure!)。」とつぶやきながら、神聖な建物に再び入っていった。こうして、この堂々たる北方民族の新たな擁護者が現れたのである。エドワード王は高齢だったが、その意志の力は衰えていなかった。ブルースがスクーン(*エジンバラの北33マイル)で戴冠したという知らせが宮廷のあったウィンチェスターに届いたとき、王の怒りは凄まじかった。彼は1306年の夏に作戦を開始したが、ブルースは敗北し、アントリム(*北アイルランド)沖のラスリン島への避難を余儀なくされた。ここでブルースは、歴史上最も有名な蜘蛛の執拗な努力(*彼が隠れていた洞窟に巣をかけようとした蜘蛛が、何度失敗を繰り返しても諦めなかったこと)に励まされたという。翌年の春、彼はスコットランドに戻った。エドワードは病身で、行軍も乗馬もままならない状態だった。千年前のセウェルス帝のように、彼は輿に乗せられてこの厳しい民衆に立ち向かった。彼が最後に気に掛けたのはスコットランドと聖地だった。彼は息子に、最終的にスコットランドを服従させる軍隊の先陣に自分の骨を運ばせ、聖なる都の回復を助ける百人の騎士団によって彼の心臓をパレスチナに送るように頼んだ。どちらの願いも、彼の無益で無価値な後継者によって叶えられることはなかった。

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エドワード1世はイングランド法の形成期における最後の偉人である。彼の制定した法律は公の秩序の問題を解決し、領主裁判所の権力に制限を与え、判例法の無秩序で度を越した成長するのを抑制するものであって、19世紀半ばまで財産法の基本になった原則を打ち立てたのである。これらの偉大な法令は必然的にコモン・ローの自由の境界線が定めたが、その基本原理は触れられることがなく、また過去と決別することなく、それに最終的な形が与えられたのである。

 エドワード1世の功績は、憲政の分野においても、これに劣らず永続的なものだった。エドワード1世は、旧来の重臣たちとの御前会議に代わって、議会―すなわち選ばれた特定の有力者たちと州や自治都市の代表者たち―を王室の提携者にしたのである。彼の治世の終わりには、この概念は確立されていた。当初、それには実体がなかった/それは徐々に血と肉を持つようになったのである。しかし、エドワードの治世の初めから終わりまでの間には、決定的な推進力が与えられた。初めには、エドワードの父の困難な時代の試みからは何かが生まれるか、あるいは何も生まれないかもしれなかった。終わりには、エドワードがほとんど理解しなかったであろう言葉を使うなら、「主権(*sovereignty)」は以後、王室のみにも、王室と直臣団の評議会にも存在せず、議会の中の王室に存在するということが、イングランドの習慣と伝統の中にかなり定着していた。

 その将来には憲法上の暗い問題が立ちはだかることになる。議会と王室の権力の境界線は、まだ非常に曖昧にしか引かれていなかった。法令とは、国王が議会で制定した法であって、議会自身の同意がなければ廃止できないことはすぐに理解された。しかし、議会はまだ未成熟だった。政府の主導権はまだ国王にあった。そして必然的に国王は多くの権限を保持していたが、その限界は確定していなかった。枢密院で国王の権限のみに基づいて発された勅令には、法律としての効力があるのだろうか。国王は特定の場合において、公の、あるいは王室の便宜を理由に法令を覆すことができるのだろうか?国王と議会の権力が衝突したとき、どちらが正しいと言えるのだろうか?議会が豊かに成長してくると、必然的にこのような疑問が投げかけられるようになる/しかし最終的な答えは、スチュアート朝の王がイングランドの王座に座るまで待たなければならなかった。

 とはいえ、連合王国のための強固な君主制と議会憲法の基礎は築かれた。その継続的な発展と成功は、国王の直接の後継者にかかっていた。怠惰な弱虫、夢想家、冒険好きな少年たちは、生まれようとしていた島の統一を崩壊させてしまった。長い年月にわたる内戦と、無政府状態の反動から来る専制政治が、この島の制度を傷つけ、発展を遅らせた。しかし旅人がウェストミンスターにある大理石の墓を見つめるとき、そこには「スコットランドの槌、エドワード1世ここに眠る。忠節を守るべし。」と刻まれている。ブリテン人の生活、性格、名誉の建設者がここに安息しているのである。


Keyword:英語諸国民の歴史

 

2023.10.7