ウイリアム・ピット

 

WILLIAM PITT, EARL OF CHATHAM

from
CRITICAL AND HISTORICAL ESSAYS,
VOLUME ONE

By Thomas Babbington Macaulay

 


ウィリアム・ピット、チャタム伯爵

評論的、歴史的エッセイ
第1巻より

トーマス・バビントン・マコーリー著

 

 


訳者より:学生時代、劣等性だったW・チャーチルは無味乾燥な英国史の教科書に興味が持てず、有名な政治家であった父に叱られたそうです。父の死後、彼が初めて興味を持って英国の歴史と政治を学んだのはマコーリーの著作からでした。ここではそのエッセイからチャーチルと同じく戦時の首相として名を馳せた大ピットを取り上げます。
原文:https://www.gutenberg.org/files/2332/2332-h/2332-h.htm


(1834年1月) チャタム伯爵ウィリアム・ピットの歴史。議会での演説、国務大臣時代のフランス、スペイン、アメリカに関する書簡のかなりの部分が含まれており、これまでに出版されたことはない。また、彼の人生、感情、行政に関連した当時の主要な出来事と人物の説明も含まれている。フランシス・サッカレー・A・M著 全2巻、4折版。ロンドン:1827年

この作品が出版されてから数年が経過しているにもかかわらず、読者の多くはまだ新しい出版物であると考えている。このことに我々は驚かない。この本は大冊であり、文体も重厚である。サッカレー氏が国立公文書館から得た情報は新しいものであるが、その多くは非常に興味をそそるものではない。彼の物語の残りの部分はギフォードやトムラインの2代目ピットの伝記よりも良いところはなく、議会史や年次記録、その他同様の一般的著作物で語られていないことはほとんど何も語られていない。

 ほとんどすべての機械的な仕事は職人の身体のどこかここかを傷つける傾向があると言われている。カトラリー磨きは過労で死に;織工は成長を妨げられ;鍛冶屋は目がかすんでしまう。それと同じようにほとんどすべての知的職業は何らかの知的疾患を引き起こす傾向がある。伝記作家、翻訳家、編集者その他諸々、他人の人生や著作を紹介する仕事をしている人は特にボズウェル病(*ジェイムス・ボズウェル、サミュエル・ジョンソンの伝記を書いた)、つまり「称賛の病」にかかりやすい。しかしサッカレー氏ほどひどくこの病気にかかってしまった患者を見た覚えはない。彼はピットが偉大な弁舌家であり、精力的な大臣であり、高潔で不屈の精神を持つ紳士であったことを我々に認めさせるだけでは満足しない。彼はすべての美徳とすべての業績が自分の英雄の中で出会うことを意図している。神々、人、コラムが何と言おうとも、ピットは詩人であり、第一級の英雄的な詩を生み出すことができる詩人であることは間違いがなく;そして以下のような詩に我々が多くの魅力を見出すことを保証する:

「戦いに明け暮れる地球のすべての混乱の真ん中を、
私の軽装備の帆船がたまたま静かに滑ってゆくであろう;
疾風は穏やかになり、理性的な思考が元気を取り戻し、
小さな貨物船は不安なく静かに滑ってゆく。」

[これはサッカレー氏の忠実な引用である。多分ピットは4行目にguide(*glide―静かに滑ってゆく、ではなくguide―先導する)と書いたのであろう。]

 ピットは平時に数ヶ月間軍隊にいた。サッカレー氏はもしこの若き騎兵旗手が軍隊に残っていたなら史上最も有能な指揮官の一人になっていたであろう、ということを我々に認めさせようと頑張っている。しかしこれだけではない。ピットはただ実際にそうであったように偉大な詩人であり、そうなっていたかもしれない偉大な将軍であったというだけでなく、完成された道徳の実例であり、完全なる正義の人であったと主張しているのである。ウォルポールの首を取るために審問を設け、偽証に報奨金を与えようとしたのは正しかった。ウォルポールを優れた大臣であったと宣言したのも正しかった。野党時代にスペインが捜索権を正式に放棄するまでは、スペインとの和平を締結すべきではないと主張したのは正しかった。政府に入った後、スペインが捜索権を放棄しない条約を黙認したときも彼は正しかった。ニューカッスル公と別れた時も、ニューカッスル公と一緒になった時も、助成金に反対の声を上げた時も、助成金を例えようもなく大量に与えた時も、ハノーヴァー家のコネクションを非難した時も、ハノーヴァーはハンプシャーと同じように我々にとって大切なものであるべきだと宣言した時も、彼は常に高潔で賢明な政治家として語っていたというのである。

 実際のところ、ピットほどこの種の賞賛に値しない人物はいなかっただろう。彼が偉大な人物であることは間違いない。しかし、彼の偉大さは完全で均整のとれた偉大さではなかった。ハンプデンやソマーズの公的生活は全体として批評できる全くの芝居に似ており、各場面は本筋と関連づけて見ることができる。一方、ピットの公的生活は粗野ではあるが印象的な作品であり、不調和に満ちた作品であり、計画の統一性のない作品であるが、いくつかの高貴な箇所によって救済されており、先行したり後続したりする無気力や放縦がその効果を高めていたのである。彼の意見は定まっていなかった。人生の最も重要な局面における彼の行動は、明らかに誇りと憤りによって決定されていた。彼には一つの欠点、人間のあらゆる欠点の中で真の偉人が持っていることが希な欠点があった。彼は非常に気まぐれであった。彼は真の天才であり、勇敢で高貴で威厳のある精神の持ち主でありながら性格が単純ではないという、ほとんど唯一の例である。彼は謁見室の中で役者、議会で役者、国会で役者であり、私生活でも芝居がかった口調や態度を止めることができなかった。演じるための準備がすべて整い、衣装や持ち物がすべて正しく配置され、輝かしい演者の頭にレンブラントのような効果的な光が当てられ、ギリシャのドレープのごとくフランネルが整えられ、ベリサリウス(*ビザンチン帝国の将軍)やリア王のように松葉杖が優雅に置かれるまでチャタム卿の部屋に入ることができない、と彼の著名な信奉者の一人が嘆いていたことを我々は知っている。

 しかし、ピットはその欠点や気取ったところを含めて、偉大な人物の要素の多くを非常によく備えていた。天才的な才能を持ち、強い情熱を持ち、素早い感性を持ち、壮大なものや美しいものに対する熱狂的な情熱を持っていた。彼には革命そのものを高邁なものにする何かがあった。彼はしばしば間違った、非常に間違ったことをした。しかしワーズワースの言葉を引用するならば

「彼はまだ持っていた。

 あれほどの失墜のただ中にあって、彼が

 自然から受けたもの、熱烈な光り輝く精神を持っていた。」

 低俗で汚い堕落の時代、ドディントン(*ジョージ・バブ)やサンディズ(*サミュエル)の時代に何らかの強い刺激があったならば国を破滅させてしまおうという誘惑に駆られていた可能性もあるが、国からの盗みには決して手を染めず、その過ちは汚い利得の欲望からのものではなく、権力、栄光、復讐のための激しい熱情から生じたものであった人物がいたというのは意味のあることではないだろうか。公金を直接横領しない限り、公人としてフェアであると考えられていた時代に、彼は最も厳正に私心を排除していたということを歴史は証明しなければならない;当時の政治家の誰もが汚職の力なしではできないと考えていたことを世論の力を借りて実現したこと;政府は最も卑劣で不道徳な技巧によってのみ維持されると一般的に考えられていた時代に、彼は人間性のより良い、より高貴な部分に訴えたこと;彼が支持を求めたのは、ペラム派のような強い貴族のコネクションでもなく、ビュート派のような君主の個人的な好意でもなく;英国の中産階級であったこと;そしてその中産階級に自分の清廉さと能力に対する確固たる信頼を抱かせたこと;そして彼が権力を求めていたのは利益や後援(*patronage)を得るためではなく、国家に対する優れた功績によって自分自身の偉大で長きにわたる名声を確立したい、という願いからであったということをはっきりと証明するような方法でその権力を行使したのである。

 ピットの家系は裕福で立派なものであった。祖父はマドラスの総督を務め、摂政オルレアンがサン・シモンの助言によって200万リーブル以上で購入して今でもフランス王室の宝物の中で最も貴重なものとされている有名なダイヤモンドをインドから持ち帰った。ピット総督は地所(*estate)や腐敗選挙区(*rotten borough、投票者人口が極端に少なくなったため地主が議席を支配する事が可能になった選挙区)を購入し、オールド・サルムの代表として庶民院に座っていた。ピット総督の息子ロバートはオールド・サルムとオークハンプトンの議員を兼任していた。ロバートには2人の息子がおり、長男のトーマスは父の財産と議会での活動を受け継いだ。2番目の息子が有名なウィリアム・ピットである。

 彼は1708年11月に生まれた。彼の人生の初期についてはイートン校で教育を受けたこと、17歳でオックスフォードのトリニティ・カレッジに入学したこと以外、ほとんど知られていない。トリニティ・カレッジに入学して2年目にジョージ1世が崩御し;当時の同世代人に倣ってオックスフォードの人々は数多くの二級品の詩の中でこの出来事を祝った。この時ピットはいくつかのラテン語の短詩を発表したが、これをサッカレーが記録している。これはこの若い学生が自分の技術の機械的な部分についてさえ、非常に限られた知識しか持っていなかったことを証明するものである。真のイートン校出身者は自分たちの輝かしい同窓生がlabenti(*とどまる)の最初の音節を短くする過ちを犯していると聞いて懸念するであろう。[サッカレー氏はこの詩をそう印刷した。しかし寛大な気持ちでピットは labanti(*よろめく) と書いたのだろうと思っていいのかもしれない。] この詩の内容はその前にも後にも大学で書かれた習作と同じくらい価値のないものである。もちろん、(*ミュゼ:詩神の恵みは受けなかったが)マルス(*軍神)、テミス(*正義の女神)、ネプチューン(*海神)、コキュートス(*裏切者が永遠に氷漬けとなる地獄の川)については大変なものである。ミュゼたちはシーザーの骨壺の上で嘆き悲しむことを懇願される;詩人が言うところによると、シーザーはミュゼたちを愛していたためである;実際にはシーザーはポープ(*アレキサンダー)を一行も読んだことはなく、愛していたのはパンチと太った女性だけであった。

 ピットは学生時代から痛風に悩まされていたため、健康のために旅をすることを勧められた。そこで彼は学位を取らずにオックスフォードを去り、フランスとイタリアを訪れた。しかし彼は周遊旅行からあまり恩恵を受けずに帰国し、体質的な病気に生涯大変苦しみ続けた。

 彼の父はすでに亡くなっており、長子以外の子供たちにはほとんど何も残していなかった。ウィリアムは職業を選ばなければならなかった。彼は陸軍に進むことを決め、近衛騎兵隊で旗手の職務を得た。

 彼の財産は少なかったが、家族には彼の役に立つ力と気持ちがあった。1734年の総選挙で兄のトーマスがオールド・サルムとオークハンプトンの両方で選ばれた。1735年に議会が開かれるとトーマスはオークハンプトンの代表となり、ウィリアムはオールド・サルムを代表することになったのである。

 ウォルポールはこの14年間、政治の先頭に立っていた。ウォルポールが権力を握ったのは最も有利な条件下のことであった。革命の原理に特別な愛着を持ち、王室の信頼を独占的に得ていたホィッグ派の全派閥が彼の政権を支持していたのである。幸いなことにサウス・シー法が可決されたとき彼は退任しており;彼はこの法案の結果をすべて予測していたわけではないようだがサザーランド政権のあらゆる良い法案にも悪い法案にも反対していたため、この法案にも激しく反対していたのである。サウス・シー社が50パーセントの配当を議決していたとき、同社の株式100ポンドが1100ポンドで売られていたとき、スレッドニードル・ストリートが公爵や高位聖職者の馬車で毎日混雑していたとき、神学者や哲学者がギャンブラーになったとき、ペリウィグ社、スパニッシュ・ジャッカス社、クイックシルバー・フィクセーション社など、1000種類もの同種の泡が毎日のように吹き込んでいたとき、ウォルポールの冷静な良識は彼を世間一般の熱狂から守った。彼は公の場では世間に蔓延する狂気を非難し、私的にはそれを利用してかなりの額を稼いでいたのである。バブルが崩壊して一日に1万世帯が物乞いになったとき、民衆は策略を弄した下っ端だけでなく、ハノーヴァー家の寵臣や英国の大臣、国王自身に対しても逆上して怒りと絶望を騒ぎ立てた。国会が開かれ、押収と血の制裁が熱望されたとき、庶民院議員たちが管理者を古代ローマの親殺しのように扱い、袋に入れてテムズ川に投げ込むべきだと提案していたとき、すべての党派が目を向けたのがウォルポールだった。ウォルポールは4年前にサンダーランド(*第三代伯爵、チャールズ・スペンサー)とスタンホープの陰謀によって権力の座を追われ;庶民院の主導権はクラッグスとアイスラビーに託されていた。スタンホープはもういない。(*脳卒中で死去)エイスラビーはサウス・シー計画に関する不名誉な行為のために議会から追放された。クラッグスは時宜を得た死(*天然痘)によって同じような不名誉な目に遭わずに済んだのかもしれない。庶民院では少数派の議員がサンダーランドを厳しく問責することに賛成したが、世間の風潮に耐えられないと判断したサンダーランドは職を退き、わずかな期間で引退してしまった。ホィッグ党の分裂は完全に治まった。ウォルポールにはトーリー派以外に対抗馬がいなかったが、トーリー派は当然ながら国王から強い疑念と嫌悪感を抱かれていた。(*トーリーは名誉革命で追放されたスチュワート家を支持していた。)

 しばらくの間、仕事はチューダー朝の時代以来のスムーズさと迅速さで進行した。例えば1724年の議会では、私的法案を除いてほとんど審議が行われなかった。後にペラムがとったような方法、ホィッグ派の新進の才能と野心をすべて政府に認め、ブランズウィック家に非友好的ではないトーリー派をあちこちに入れておけば、ウォルポールが政権の末期に経験し、ついには打ち負かされた途方もない対立を避けることができた可能性もなかったわけではない。ウォルポールを倒した反対勢力は彼自身の政策と、その飽くなき権力欲が生み出したものであった。

 彼が自分の内閣をつくるという行為自体が、彼の支持者の中で最も優秀で最も愛着を持っていた人物を致命的な敵に変えてしまったのである。プルテニーは新体制の中で高い地位に就くことを公的、私的に強く要求していた。彼の財産は莫大であった。個人的には立派な人格を持っていた。すでに著名な演説者であった。彼要なポストで公的な経験を積んでいた。運命が変わっても、彼は一貫してホィッグ派であった。ホィッグ党が2つに分裂したとき、プルテニーは価値ある地位を捨て、ウォルポールと運命を共にした。しかしウォルポールが政権に復帰したとき、プルテニーは政権に招かれなかった。友人たちの間で怒りに満ちた議論が交わされた。内閣は叙爵を申し出た。この申し出を受けたプルテニーはその意図するところが分からなかった。彼は憤慨して受け取りを拒否した。しばらくの間彼は自分の間違いについてじっと考え込み、復讐の機会を伺い続けていた。そして好機が訪れるとすぐに少数派に加わり、庶民院が経験したことのないような強力な反対派のリーダーとなった。

 カータレット(*ジョン、第2代グランヴィル伯爵、ピットの義兄グレンヴィル兄弟と間違いやすい)は内閣のメンバーの中で最も雄弁で完成した人物であった。議論の才能は第一級で;外交に関する知識は現役のどの政治家よりも優れており;プロテスタントの後継者への愛着は疑いの余地がなかった。しかし一つの政府に彼とウォルポールが入る余地はなかった。カータレットは辞職(*1724)したが、その時からかつての同僚にとって最も辛抱強く手強い敵の一人となった。

 ウォルポールが権力を分割することに同意できる人物といえば、タウンゼント卿(*二代目子爵、チャールズ)である。二人は生まれながら遠い親戚であり、婚姻により近い親戚であった。二人は幼馴染であった。イートン校では同級生であった。ノーフォークの田舎では隣人同士だった。ゴドルフィン(*シドニー)の下で一緒に仕事をしたこともある。ハーレー(*ロバート)が権力を握ったときには一緒に野党に回った。彼らは同じ庶民院から迫害を受けていた。アンの死後、彼らは一緒に公職に呼び戻された。サンダーランドによって再び追い出された後、サンダーランドの影響力が弱まると再び一緒になったのである。公共の場での二人の意見はほとんど一致していた。二人とも率直で、寛大で、思いやりのある性格の持ち主だった。二人の関係は長年にわたって愛情と親しみに満ちていた。しかし血、婚姻、友情、相互の奉仕の記憶、共通の勝利と共通の災難の記憶の絆はウォルポールの美徳と悪徳のすべてを凌駕する野心を抑制するには不十分だった。彼は彼自身の比喩を用いるなら、この家族商会はタウンゼント&ウォルポールではなく、ウォルポール&タウンゼントでなければならないと決意していたのである。ついにこのライバルたちは大勢の人々がいる前で直接悪口を言い合い、お互いの襟首を掴み、剣を握った。女性たちは金切り声を上げた。男たちは争う二人を引き離した。好意的な介入によって従兄弟、義理の兄弟、旧友、旧同僚の間の決闘というスキャンダルは防がれた。しかし紛争当事者たちが長く行動を共にすることはできなかった。タウンゼントは引退し(*1730年)、稀に見る節度と公共心をもって政治に関わることを拒否した。彼は自分の気性を信じることができない、と言った。彼は自分の個人的な過ちを思い出すにつけ、プルテニーのように自分が大体において国のためになると考える政策に反対するようになってしまうことを恐れていた。そのため辞任後はロンドンを訪れることなく、レーナムの木々や絵に囲まれて威厳と安らぎの中で人生の晩年を過ごした。

 次にチェスターフィールド(*第4代伯爵、フィリップ・スタンホープ)が登場した。彼もまたホィッグ派であり、プロテスタントの継承者の友人であった。彼は演説家であり、宮廷人であり、才人であり、文人であった。彼は多数派のトップに立つためには鈍くて傲慢であるだけでは不十分だった時代に、多数派のトップに立っていた。彼がウォルポールの日の出の勢いに焦っていたことは明らかである。彼は物品税法案に反対票を投じた。彼の兄弟は庶民院で反対票を投じた。大臣は独特の慎重さと独特の行動力によって行動した;公務の遂行には慎重さで、自分の覇権に対する懸念には行動力で。彼は法案を撤回し、敵対する、あるいは揺らぐ同僚をすべて追い出した。チェスターフィールドはセントジェームズの大階段で呼び止められ、宮廷執事卿として持っていた杖を差し出すように求められた。(*1733年)モントローズ公爵、ボルトン公爵、バーリントン公爵、ステア公爵、コブハム公爵、マーチモント公爵、クリントン公爵など、多くの高貴で強力な官僚たちが同時に王室への役務を解かれたのである。

 この出来事から間もなくして反対派はアーガイル公爵(*第二代ジョン・キャンベル)によって補強された。アーガイル公爵はうぬぼれ屋で気まぐれだが、勇敢で雄弁な人気者であった。アンの死後すぐにイングランドで和解法が平和的に施行されたのも、翌年スコットランドで勃発したジャコバイトの反乱が鎮圧されたのも彼の努力の賜物である。彼はまた自分の偉大な名前、手腕、そして母国での最高の影響力を少数派に持ち越した。

 これらのケースを個別に考えるなら、ウォルポールを巧みに擁護する人物は彼に分があるケースを見つけることができるかもしれない。しかし長い年月の間にすべての足音が同じ方向を向き、大臣の大体の政治的見解に賛同した最も著名な公人たちが次々と心を痛めて彼のもとを去っていくのを見ると、この現象を正しく説明しているのは彼の息子の言葉「ロバート・ウォルポール卿は権力を愛するあまり、ライバルがいることに耐えられなかった。」であると信じないわけにはいかないだろう。ヒューム(*ディヴィッド)はこの有名な大臣を「権力の行使には穏健だが、権力の独占には無欲ではない」という短い一文で見事に説明した。ウォルポールは心優しく、陽気で、寛容な人物であったが、高い自負を持ち、高い精神を持つ人物とは長く行動を共にすることができない人物であった。そのためウォルポールは時代を代表する完成された政治家たちを擁する反対派に立ち向かわなければならず、弟のホレスやヘンリー・ペラムのように勤勉で平凡なために嫉妬されることのない人物や、その立場や性格がその才能が触発される危険性を減じている賢い冒険家たちから受ける以上の支援を受けることができなかったのである。この最後のクラスには公職に就かなければ生活できないほど貧乏だったフォックス(*ヘンリー);ウォルポール自身が「このような性質の人はこれより高い役職に引き上げることができず、これより低い役職に引き下げることができない。」と語ったウィリアム・ヨンジ卿、そしてそれが正当なものであったにせよ不当なものであったにせよ、私生活のモラルが最悪の評価を受けているウィニングトンが含まれていたのである。

 不満を抱くホィッグ派は数の上ではともかく、能力、経験、重みにおいて反対派の中で圧倒的に重要な役割を果たしていた。トーリー派はスタッフォードシャーやデボンシャーのエールで太った扱いにくい狐狩りの列にすぎず、水の上で王に乾杯し(*ジャコバイトの習慣)、公債保有者はすべてユダヤ人であると信じている男たちや、宗教上の理由で異教徒を嫌っており、政治研究の結果、スクワイア・ウエスタン(*トム・ジョーンズのコミック小説の登場人物)のように自分の土地がハノーヴァーに送られて減債基金に入れられるのではないかと恐れている男たちであった。この熱心な大地主や、かつての強力なオクトーバー・クラブの残党の雄弁が心のこもった「賛成」や「反対」以上のものであることはほとんどなかった。この党のメンバーの中には、議会で目立った者やいかなる状況下でも高い役職に就くことができた者はほとんどいなかった;そしてサー・ウィリアム・ウィンダムのように新しい仲間と一緒に寛容と政治的自由の原則を学んだその少数の人々は厳密にはホィッグと呼ばれるのが妥当であろう。

 この時期に公的生活に入った英国の若者の中で最も優秀な者たちが身を置いたのは愛国者と呼ばれたホィッグ内の反対党派だった。この経験の浅い政治家たちは自由の名が若くて熱心な心に自然に呼び起こす熱気をいっぱいに感じていた。彼らはトーリー野党の理論とウォルポール政府の実践はともに自由の原理と相容れないと考えていた。そこで彼らはプルテニーが設定した基準に立ち返った。彼らはホィッグ派の大臣に反対する一方で、ホィッギズムの最も純粋な原則を固く守っていることを公言していた。プルテニーは分裂主義者であった;彼らは真に普遍的であり、特異な人々であり、ハンプデンとラッセルの正統な信念の保持者であり、時の流れと長い間の権力の掌握によって生じた腐敗の中で汚れない革命の原理を維持してきた唯一の宗派であった。この反対派に属していた青年たちの中で最も傑出していたのがリットルトン(*第5代男爵、ジョージ)とピットである。

 ピットが議会に入ったとき、政界全体がある出来事の進行に注目していた。この出来事はすぐに野党に大きな力を与え、特にかの若い政治家が加入した野党の一部に大きな力を与えた。皇太子(*フレデリック・ルイス)は父や父の大臣たちとは次第に疎遠になり、愛国者たちとますます親しくなっていった。

 合法的な反対勢力が存在する王政において、王位継承者がその反対勢力の先頭に立つほど自然なことはない。彼は野心や虚栄心に属するあらゆる感情に駆り立てられてそのような道を歩むのである。党内の評価においては2番手以下となる。党外からは筆頭メンバーと目されることは間違いない。現政権が彼に期待する最高の好意は彼が自分たちを捨てないということである。しかし、もし彼が野党に加わっているならば、その仲間は皆彼が自分たちを昇進させてくれることを期待している;そして人々がそこから自分たちが持っていない大きな利益を得ることを期待できる人に対して抱く感情は、せいぜい自分たちが既に持っているものをそのままにしておけるだけと見なした人に対して抱く感情よりはるかに暖かいものである。したがって達者なお世辞と深い尊敬から得られるすべての喜びを最高の完成度で享受したいと願う相続人は常に自らを権力の座に押し上げようと奮闘している人々に加わることになる。これがグランヴィル卿が有名なブランズウィック家(ハノーヴァー家のこと)の生来の特殊性に起因するとしたある事実についての正しい説明であると我々は考える。「この家系は」と日々の半ガロンのブルゴーニュを飲んだ後と思われるが、会議の席で彼は言った「代々、常に喧嘩をしてきたし、これからも喧嘩をするだろう」彼はこの問題について何か知っていたはずである。というのも彼は歴代の王室の寵臣であったからである。彼の説明は全く受け入れるわけにはいかないが;事実は紛れもないものである。ジョージ1世の即位以来、4人のプリンス・オブ・ウェールズが誕生したが彼らはほとんど常に反対派にいた。

 フレデリック皇太子が政府に反対する党派に参加した動機が何であれ、彼の支持は党派の多くのメンバーに彼らが大いに必要としていた勇気とエネルギーを与えた。これまで不満を抱えていたホィッグ派は亡命王家と常に連絡を取っていることが知られている妥協しないジャコバイトや、ソマーズ(*初代男爵、ジョン)を弾劾したトーリー派、ハーレーやセント・ジョン(*ヘンリー、初代ボーリンググローブ子爵)が教会や土地の利益をあまりにも軽視しているとつぶやいていたトーリー派の人々や、王家を攻撃する気はなくとも王家の導入はせいぜい2つの大きな悪のうちの小さい方の悪に過ぎず、教皇に対抗するために必要な痛みを伴う屈辱的な防腐剤であると考えていた人々と毎晩のように仲間割れをしていることに不安を感じないわけにいかなかった。大臣はもっともらしく、プルテニーとカータレットは自分の職権欲と復讐心を満たすためにプロテスタントの後継者に敵対する党派の目的に奉仕することを躊躇しなかった、と言うであろう。愛国者たちの先頭にフレデリックが現れたことでこの非難は鳴りを潜めた。反対派のリーダーたちは自分たちの行動が和解法の維持に国王自身と同じくらい深い関心を持つ人物によって承認されたこと、そしてトーリー派の目的を果たすのではなく、トーリー派をホィッギズムの側に引き入れたことを自慢できるようになったのである。確かに父親は無情、息子は無礼、と国王と皇太子の振る舞いはそれぞれの名誉に相応しくないものであり、そして二人とも子供じみていたが、最も際立った二人のメンバーの不和によって王室が弱体化するどころかむしろ強化されたということは認めざるを得ない。自分たちは公職からの永遠の排除を宣告されたと考えた大勢の政治家たちは、絶望のあまり自分たちが置かれている追放令を取り除く唯一の方法として反革命に参加しようとしていたが、今では目の前に権力を得るためのより簡単で安全な道が開かれていることに喜びを感じ、スチュアート家のために蜂起して自分たちの土地や首を危険にさらすよりも、自然の流れで王冠がブランズウィック家の相続人に降りて来るまで待つ方がはるかに良いと考えたのである。王室の状況は何があっても財産が没収されないように反乱の際に父と息子が反対側についたスコットランドの家族の状況に似ていた。

 1736年4月フレデリックはザクセン・ゴータの王女と結婚し、その後父がキャロライン王妃と暮らした時と同じような関係で暮らした。皇太子は妻を熱愛しており、心も体も全女性の中で最も魅力的だと考えていた。しかし彼は婚姻の貞節は王侯の徳ではないと考えていて;ヘンリー4世や摂政オルレアンのようになるためセンスのない放蕩に走り、たった一人の愛した女性の元を去って醜く不愉快な愛人に会いに行くこともしばしばだった。

 皇太子の結婚に際して庶民院から国王への挨拶を動議したのは大臣ではなく反対派ホィッグのリーダーであるプルテニー(*初代バース伯爵、ウイリアム)であった。この動議において議席を得てからずっと沈黙を守っていたピットが初めて議場で演説を行ったのである。「同時代の歴史家は」とサッカレー氏は言う。「ピット氏の初演説は古代の雄弁術の手本よりも優れていたと述べている。」ティンダルによればそれはデモステネスの演説よりも装飾的で、キケロの演説よりも散漫ではなかった。この意味不明なフレーズは100回も引用されている。笑うため以外に引用されることがあったのは不思議である。この言葉の流行は、多くの人がいかに考えることに無精なままで満足しているかを示すのに役立つであろう。この言葉を最初に使ったティンダルや、それを借りたコックス大助祭(*ウイリアム)やサッカレー氏はその生涯において、同じ褒め言葉に値しない話し方を聞いたことがあったのだろうか?彼らはデモステネスの話よりも装飾的でなく、キケロの話よりも散漫な話を聞いたことがあったのだろうか?ブルーム卿(*初代、ヘンリー)からハント氏(*ヘンリー)に至るまで、同じ賛辞を受ける資格のない現役(*1843年当時)の弁士はいないだろう。容姿についてポーランドの伯爵(*身長99cmの宮廷小人、以下の3人と同様に見世物に出演)よりも背が高く、ジャイアント・オブライエン(*アイルランドの巨人231cm)よりも背が低く、生きた骸骨(*とても痩せた人物)よりも太っていて、ダニエル・ランバート(*体重200Kg)よりも痩せているというのは、到底喜ばれるお世辞ではないだろう。

 ジェントルマンズ・マガジンに掲載されているピットのスピーチは確かにティンダルの褒め言葉には値するが、それ以上のものではない。このような場合の処女演説によくあるものと同じく、空虚で言葉足らずなものである。しかしこの若い演説者の流暢さと個人的な長所は即座に聴衆の耳目を捉えた。彼は最初に登場した日から常に注目され;修練によって彼が持っている大きな力がたちまち発揮されることになった。

 現代では国会議員の聴衆は国民である。スピーチをしている間、その場にいる300-400人は演説者の声や動作を喜んだり、嫌悪したりするであろう;しかし翌日何十万人もの人々に読まれる記事においては最も気品ある姿と最も見苦しい姿の違い、最も豊かな声と最も甲高い声の違い、最も優雅な身振りと最も野暮な身振りの違いはことごとく消えてしまうのである。100年前には庶民院の壁の中で起こったことが記事になって広く伝えられたことはほとんどなかった。そのため当時は演説者が実際に聞いた人に与える印象がすべてであった。屋外での彼の名声は屋内にいた人々の報告に完全に依存していたのである。そのため当時の議会では古代の共和国と同様、演説の即効性を高める能力は演説者にとって現在よりもはるかに重要な要素であった。ピットはこの資質を最高度に備えていた。舞台の上では彼はこれまでに見られた中で最も優れたブルータスやコリオレイナス(*ともにシェイクスピアの悲劇コリオレイナスの登場人物)であったことであろう。彼の衰えを目の当たりにした人々は彼の健康が損なわれ、彼の心に落ち着きがなくなったとき、彼がその気性を熟知し、無限の影響力を持っていた嵐のような集会から小さく、無気力で、友好的ではない聴衆のもとに移されたとき、彼の話はほとんどの場合低く単調なつぶやきであって近くに座っている人にしか聞こえず、激しく興奮すると数分間は声を張り上げることがあったが再び聞き取りにくいつぶやきになってしまった、と言っている。チャタム伯爵はそのようであったが、ウィリアム・ピットはそうではなかった。初めて議会に登場したときの彼の姿は驚くほど優雅で威厳があり、顔立ちは高貴で気品があり、目には炎が燃えていた。彼の声はたとえささやき声になっても一番遠くのベンチまで聞こえており;そして彼が声を最大限に張り上げると、その音は大聖堂のオルガンのうねりのように高まり、その響きで議場を揺るがし、ロビーや階段を通って、裁判所やウェストミンスター・ホールの構内まで聞こえてきたのである。(*当時庶民院はウエストミンスター・ホールと裁判所に隣り合う聖ステファン礼拝堂で開催されていた)彼はこのすべての優れた長所を最も熱心に育て上げた。彼の所作を非常に悪意に満ちた観察者はギャリック(*シェイクスピア俳優)に匹敵すると評している。彼の表情の動きは素晴らしく;憤怒や軽蔑の一瞥で敵対する演説者をしばしば狼狽させた。情熱的な叫びからスリリングな余談まで、あらゆるトーンを完璧に操っていた。彼の個人的な長所を伸ばすための苦労がいくつかの点で不利に働き、すでに述べたようにその性格の中の最も顕著な欠点の一つである演劇的効果への情熱を育む傾向があった、ということは有りうることである。

 しかしピットが30年近くにわたって庶民院に大きな影響力を行使できたのは単に、あるいは主に外面的な芸才だけのおかげではなかった。彼が偉大な演説家であったことは間違いなく;今も残っている同時代の人々による記述や彼の演説の断片からその演説力の性質と大きさを知ることは難しくない。

 彼は型通りの演説をする人物ではなかった。彼が準備をした数少ない演説は完全な失敗に終わった。ウルフ将軍に捧げた手の込んだ賞賛の演説は、彼が行った中で最もひどいものだったとされている。「これほどまでに」と彼の話をよく聞いていたある評論家は言っている。「自分が何を言おうとしているのかを知らない人物はいない。」実際、彼の器用さは悪徳と言っても過言ではなかった。彼は自分の言葉の主人ではなく、奴隷だったのである。彼はひとたび衝動に駆られると自制が効かないため、頭の中が重要な国家機密でいっぱいの時には討論に参加したくなかった。「私は座っていなければならない」とそのような時に彼はシェルバーン卿に言ったことがある。「一旦立ち上がると、頭の中にあるものがすべて外に出てしまうからだ。」

 しかし彼は優れた討論者ではなかった。彼が初めて庶民院に入ったときにそうでなかったとしても不思議ではない。長い修練と多くの失敗を経ずにそうなった人はほとんどいない。バークが言ったようにチャールズ・フォックスはゆっくりと時間をかけて、史上最も輝かしく強力な討論者になったのである。チャールズ・フォックス自身はその成功は、良かれ悪かれ毎晩少なくとも一回は話す、というとても若い頃に決意したおかげだと考えている。「5回の会期の間」と彼はよく言っていた「一晩を除いて毎晩発言したが、その夜も発言しなかったことを唯一残念に思っている。」実際、議会防衛の術について熟知することが本能にも似ているスタンリー氏を例外として、聴衆を犠牲にしてその技術の達人にならなかった著名な討論者を挙げるのは難しいであろう。

 しかしこの技術はどんなに優秀な人物でも長く修練しなければほとんど身につかないものであると同時に、立派な能力を持つ人物が努力と不屈の精神で修練すれば身につかないことは稀なものである。このような技術において偉大な資質、偉大な能弁、偉大な大胆さを持ち、生涯を議会闘争に費やし、数年間にわたって庶民院で王室任命の筆頭大臣を務めたピットが高い水準に達することができなかったのは不思議なことである。彼は準備することなく発言したが;その発言は彼自身の考えの流れに沿ったものであり、それまでの議論の流れに沿ったものではなかった。確かに彼は相手の言い回しを切り取って記憶に留め、それを効果的な嘲笑や厳粛な非難のテキストにすることができた。彼の最も有名な雄弁の爆発のいくつかは迂闊な言葉、笑い声、または歓声によって呼び起こされたものであった。しかし彼が得意としていた応酬はこの種のものだけであったようである。彼はおそらくイギリスの偉大な雄弁家の中で唯一、決め台詞を持つことを良しとしなかった人物であり、大体において最も手強い敵の前ではいくつかの中から選択していた。彼の長所はほとんどが修辞的なものであった。彼は説明や反論においては成功を収めなかったが;彼の演説には生き生きとした例証、印象的なアポフテグラム(*短い教育的格言)、巧みに語られる逸話、楽しい引喩、情熱的な訴えがあふれていた。彼の毒舌や皮肉は凄まじかった。おそらくこれほどまでに恐れられた英国の弁士は他にいなかったであろう。

 しかし彼の演説を最も効果的にしていたのは、彼のすべての発言に備わった誠実さ、熱烈な感情、道徳的な高揚感であった。彼のスタイルは必ずしも純粋に趣味が良いものではなかった。同時代の評論家の中にはけばけばしいと評する人もいた。ウォルポールはピットの最も偉大な演説の一つに贈った熱狂的な賛辞の中でいくつかの比喩があまりにも強引であったことを認めている。ピットの引用や古典的な話の中には、賢い児童生徒には陳腐すぎるものもある。しかし、これらは聴衆がほとんど気にしない些細なことであって;彼の熱意と高貴な態度は最も寒々しい思い上がりに火をつけ、最もたわいない引喩に尊厳を与えたのであった。

 彼の力はすぐに政府を悩ませるようになり;ウォルポールはこの愛国的な騎兵旗手を見せしめにしようと決めた。その結果、ピットは軍を解雇された。サッカレー氏によれば大臣がこのような措置をとったのは、これほど公明正大で私心のない相手を買収しようとしても無駄であっただろうとはっきりと認識したからだとのことである。ピットが清廉であったことには我々も異論はないが;彼が軍隊から追い出されたときにそれをどのように証明したのかはわからないし;ウォルポールが何かを断る機会のなかった若い冒険家の公正さを確信しそうにないことは確かである。実際のところ、ウォルポールには敵を買収する習慣はなかった。バーク氏は「旧ウィッグ派へのアピール」の中でウォルポールが反対派を引き入れたことは稀だった、と真実を述べている。実際この偉大な大臣は自分の仕事をあまりにもよく知っていた。彼はある場所で一つの口を封じたなら、即座に他の50の口が開くことを知っていた。彼は自分の施策を支持するよりも、それを妨害することで得られるものが大きいと世間に理解させることは自分にとって非常に悪い方針であることを知っていた。この教訓はイギリスにおける議会の腐敗の起源と同じくらい古いものである。ペピスは自ら言っているように、これをチャールズ2世の顧問から学んだという。

 ピットは敗者ではなかった。彼はプリンス・オブ・ウェールズの寝室宮内官となり、衰えない猛烈さとますます高まる能力によって大臣たちを攻撃し続けた。当時スペインとイングランドの間で争われていた海洋権益の問題は彼のあらゆる能力を呼び覚ました。彼は理性や人道と両立させるのは容易ではないにしろ、サッカレー氏にとっては最高の称賛に値するほどの激しさで戦争を訴えた。我々は長い間すべての識者が同意していると思われる点について議論するのを差し控える。もし国際法に何らかの敬意が払われるのであれば、もし人間社会の権利というものが力の別名以外の何物でもないのであれば、もし我々がサッカレー氏の見解でもあるように見えるバッカニア人(*17‐18 世紀アメリカ大陸のスペイン領沿岸を荒らした海賊)の、条約は西経30度以内では何の意味も持たない、という見解を採用しないのであれば、スペインとの戦争(*スペイン領西インド諸島で国際法違反の疑いで拿捕され耳を切り落とされたという船長の訴えに世論が沸き立ち戦争になった:ジェンキンスの耳の戦争)は全く正当化できない。しかし実際にはこの戦争の推進者たちは歴史家が彼らを裁く手間を省いたのである。彼らは有罪を主張している。「私は」とバークは言っている「当時の重要な議事録に関する文書の原本を見て、注意して調べた。その結果、あの戦争が極めて不当であったこと、そしてウォルポールが自らの破滅を招いた誤った方針に導かれてあの政策に塗りつけることを黙認した虚偽の顔料について完全に納得がいった。それから数年後、私は幸運にもあの大臣に反発した主要な人物や、あの騒動を引き起こした主な人物の多くと話をすることができた。彼らの中には誰一人としてこの政策を擁護したり、自分たちの行動を正当化しようとする者はいなかった。彼らは自分と全くかかわりがない歴史上の出来事についてコメントするのと同じように進んで非難したのである。」ピットはその後も自分がこのような悔悟者の一人であることを十分に明らかにしている。しかし彼の行動は彼自身にとっては最も犯罪的なものであっても、彼の伝記作家にとっては賞賛に値するもののようである。

 1741年の選挙はウォルポールにとって思わしいものではなく;長く粘り強い戦いの末、彼は辞任せざるを得なくなった。ニューカッスル公爵とハードウィック卿は愛国者の有力者と交渉を開始しホィッグ派による政権の樹立を目指した。このような状況下でピットと彼に最も近い関係にあった者たちは自分たちの名誉に反する行動をとった。彼らはウォルポールと和解しようとし、ウォルポールが自分たちのために国王への影響力を行使するならば彼が起訴されないよう(*不正追及で起訴する動きがあった)にすると申し出た。さらにはプリンス・オブ・ウェールズの協力を得ようともした。しかし若い愛国者たちを「ボーイズ」と呼んでいたウォルポールはプルテニーとカータレットが難色を示した場合にはボーイズの支援は何の役にも立たず、反対派の主要な指導者を得ることができるのであれば余計なものであると考えていた。そのため彼はこの提案を断った。驚くべきことにピットの大学時代の下手な詩を保存することに価値があると考えているサッカレー氏はこの話に言及していない。この話は強力な証言に裏付けられており、コックスの『ウォルポールの生涯』のようなありふれた本にも載っている。

 この新たな決着に反対派のほとんどすべてのメンバーは失望したが、ピットほどではなかった。彼は公職をあてがわれなかったため;愛国者という昔からの業にしっかりとしがみつくことにした。彼がそうしたことは幸運だった。もし彼がこの時期に就任していたなら、おそらくプルテニー、サンディス、カータレットの不人気に大きく影響されていただろうと思われる。彼は今やウォルポールへの復讐を求める人々の中で最も獰猛で、最も容赦のない人物となっていた。彼は退陣した大臣の敵が考案した最も不当で暴力的な提案のために大変なエネルギーと能力を発揮して話をした。彼は庶民院に対して前第一大蔵卿の行為を調査する目的で秘密法廷を設置するよう求めた。これは実行された。審問官の大多数は告発された政治家に敵意を持っていることで有名だった。しかし彼らは彼に何の落ち度も見出せないことを認めざるを得なかった。そこで彼らは新たな権限を求め、証人への補償法案、つまりわかりやすく言えば、真実であろうと偽りであろうと、オルフォード伯爵(*1742年にウォルポールは叙爵された)に不利な証拠を提出した者に報酬を支払う法案を求めた。ピットはこの法案を支持したのである、オルフォード伯爵を公の裁判から保護することを申し出ていたピット自身がである。これは憂鬱な事実である。サッカレー氏はこの事実を省いたり、できる限り急いで通り過ぎているが;賛美が彼の仕事である以上そうするのは当然のことである。まったく、ピットの人生には思いを巡らせるのに適した部分がたくさんあるが、これほど有益なものはない。その時代の最も公共心があり汚れのない政治家とみなされ、実際にその通りであった若者がこれほどまでに不名誉な手段で公職に就こうとするとは、一般的な政治道徳はどうなっていたのであろうか!

 補償法案は貴族院で否決された。ウォルポールは公の場から静かに身を引いたが;彼の跡の広いスペースはすぐにカータレットに占領された。ピットはロバート卿に対して示していたのと同じ熱量でカータレットに対して雷を落とし始めた。独占的大臣、邪悪な大臣、憎むべき大臣、最悪の大臣など、彼の雄弁ではおなじみの耐え難い呼び名のほとんどはカータレットに移された。ピットの非難の最大のテーマはブランズウィック家のドイツ領に対する優遇措置であった。ピットはハノーヴァー家の軍隊にイギリスの予算で支払いをしていることを大変な猛烈さで、そしてそれによって議会の演説者の中で最も優秀なランクに位置づけられることになったその能力を発揮して攻撃した。庶民院は最近、最も優れた花形をいくつか失っていた。ウォルポールとプルテニーが貴族の地位を得て;サー・ウィリアム・ウィンダムが亡くなり;新進気鋭の議員の中には全体的に見てピットに匹敵する者はいなかった。

 1744年の休みの間に老マールボロ公爵夫人が亡くなった。彼女は当代随一の憎しみを持っている人物という評判を墓場まで持っていった。しかし彼女の愛は彼女の憎しみよりもはるかに大きな破壊力を持っていた。30年以上も前に彼女の気性は彼女が所属していた政党と彼女が崇拝していた夫を破滅させた。時間は彼女を賢くも優しくもしなかった。偉大で隆盛な人物は誰でもいつでも彼女の最も激しい嫌悪の対象となった。彼女はウォルポールを憎んでいたが;今はカータレットを憎んでいた。ポープは彼女が亡くなるずっと前にその莫大な財産の運命を予言していた。

「相続人のいない財産は開けっ放しの倉に降りてくる。あるいは天の導きによって貧しい人々のもとに迷い込む。」

 当時のピットは貧しく、天は傲慢な未亡人の財産の一部を彼に託した。彼女は「イングランドの法律を支え、国の破滅を防ぐために行った高貴な防御」の対価として彼に1万ポンドの遺産を与えた。

 遺言書は8月に作成され―公爵夫人は10月に亡くなった。11月、ピットは宮廷人となっていた。ペラム派は国王にグランヴィル伯爵となったカータレット卿とその意に反して別れることを強要した。この勝利の後、彼らは「幅広の底(*the broad bottom)」という隠語で呼ばれるこの基盤の上に政府をつくっていった。リットルトンとピットの別の数人の友人が財務省に席を占めた。しかしピット自身は今のところ約束だけで満足せざるを得なかった。国王はこの熱烈な弁士がハノーヴァー軍に関する議論で使ったいくつかの表現を非常に嫌っていた。しかしニューカッスル(*初代公爵、兄トマス・ペラム)とペラム(*弟ヘンリー)は時間の経過と自分たちの尽力によって王の不興が和らぐことに強い自信を示していた。

 ピットは自分が公職に就くことを容易にするための何ものをも疎かにしなかった。彼はフレデリック皇太子の宮内官を辞め、議会が開かれると政府を支持するために雄弁を行使したのである。ペラム派の人々は国王の心に根付いた強い偏見を取り除こうと真摯に取り組んだ。彼らはピットが簡単に騙されたり、怒らせてただで済んだりするような人物ではないことを知っていた。彼らは約束でいつまでも彼を遠ざけておくことはできないのではないかと恐怖していた。また彼を遠ざけておきたいわけでもなかった。彼と彼らの間には強い絆があった。彼は彼らの敵の敵だった。兄弟は雄弁で野心的で威圧的なグランヴィルを憎み、恐れていた。彼の陰謀が様々な方面に及んでいるのを知っていた。王室の意向に影響を与えていることも知っていた。好機が訪れたならすぐに彼が政府の責任者として呼び戻されることも知っていた。彼らは事態を危機に追い込もうと決意した;主君と争った問題はピットの政府参加を認めるか認めないかということであった。彼らは寛大さを捨てて巧みに時を選んだ。彼らが辞表を出したのは英国で実際に反乱が起きていた時であり、王位要求者が島の北端を支配していた時であった。国王は自分の一族を王位に就かせた党派の全勢力からたった一日で見捨てられたことに気付いた。グランヴィル卿は政府を樹立しようとしたが;すぐにペラム派が議会に持つ力には抗しがたく、国王のお気に入りの政治家が頼れるのは約30人の貴族員議員と80人の庶民院議員だけであることがわかった。この計画は断念された。グランヴィルは笑いながら帰っていった。閣僚たちはかつてないほどの勢いで戻ってきた;王はもはや彼らが要求することをまったく何一つ拒否することができなかった。グランヴィルはイングランド王がドイツで最も取るに足らない小君主の侍従にすらなれないニューカッスルに指図されるのは非常に辛いことだ、とつぶやくしかなかった。

 閣僚たちが快く譲歩してくれたことがある。ピットを国王と頻繁に面会する必要があるような状況に置かないようにすることに同意したのだ。そこで大臣たちは新たな同盟者であるピットを当初の目的である陸軍大臣にするのではなく、アイルランドの副財務大臣に任命し、数ヶ月後には軍の主計係に昇格させた。(*1746年)

 この役職は当時、政府の中でも最も報酬の多い役職の一つであった。給料はその地位から得られる報酬のほんの一部に過ぎなかった。彼は平時でも10万ポンドを下回ることのない大金を常に手元におくことが許されており、その利子を自分のために使うことができたのである。このような行為は秘密でもなければ、いかがわしいものとも思われていなかった。ピットの時代の前にも後にも間違いなく名誉ある人々が行っていたことだった。しかし彼は法律が彼の職務に定めた給与以上の金額をわずかでも受け取ることを拒否した。英国から資金を受けている外国の王は助成金のわずかな割合を軍の主計係に渡すのが普通であった。ピットはこのような不名誉なベールを断固として拒否した。

 この類の私心のなさは彼の時代には非常に珍しいものだった。彼の行動は政治家たちを驚かせ、楽しませた。民衆全体から最も温かい称賛の声が上がった。ピットが犯した矛盾にもかかわらず、反対派時代の激しさと公職に就いてからの穏やかさとの間に奇妙なコントラストがあったにもかかわらず、彼は依然として多くの国民の信頼を得ていた。政治家が人脈や一般的な行動様式を変えようとする動機は不明瞭なことが多いが、金銭的な問題で私心を持たないことは誰にでも理解できる。それ以来ピットはあらゆる誘惑に負けない男だと思われるようになった。彼が悪事を働いたとすればそれは判断の誤りからかもしれないし、恨みからかもしれないし、野心からかもしれない。しかし、彼は貧しいながらも貪欲さの疑念から自分を守っていた。

 その後静かな8年間が続いた。グランヴィル卿が失脚して以来弱体化していた少数派が、ほとんど目立たなくなるまで減少し続けた8年間であった。1748年にはフランス、スペインとの和平が成立。フレデリック皇太子は1751年に亡くなり;それに伴って反対派の面影すらも消え失せた。ウォルポールを支持していた党派と彼に反対していた党派の最も優れた生き残りが彼の後継者の下で一つになったのである。ピットの火のような激しい精神は一時的に休息していた。彼はまさに以前非難していた大陸政策のシステムを黙認していた。ハノーヴァーについて無礼な発言をしなくなった。彼はスペインとの条約に異議を唱えなかったが、その条約は彼がウォルポールの平和政策に反対して勇壮な演説をした時と全く同じ位置に我が国を置くものであった。時折かつての彼の姿を垣間見ることができたが、その数は少なく、一過性のものであった。ペラムは自分が誰と付き合っていかなければならないかを理解しており、自分を抑えることに慣れておらず、攻撃力の高い同盟者はたまに我が儘であってもよいと考えていた。

 精神の力ではピットにそれほど劣っていない二人の人物が彼と同じように政府に付属する職に就いていた。そのうちの一人、マレーは訴訟大臣と法務長官(*政府に重要法律問題で助言するのが仕事、法務大臣ではない、それに近いのはLord Chancellor)を歴任した。この傑出した人物は品の良さ、推論の力、知識の深さと多様性においてピットをはるかに凌駕していた。彼の議会での能弁は突然まぶしい輝きを放つことはなかったが;その澄んだ、穏やかな、まろやかな輝きは一瞬たりとも曇ることはなかった。知的な面で彼はピットと完全に互角であったと我々は信じている;しかしピットがその成功のほとんど全てを負っていた徳性には欠けていた。マレーは激動の時代に人を偉大にする、エネルギー、勇気、すべてを望みすべてを賭ける野心を持っていなかった。彼の心は少し冷たく、気質は臆病なまでに用心深く、態度は堅苦しいほどに礼儀正しいものであった。彼はそれが可能なときには自分の財産や名声をどんなリスクにもさらすことはなかった。一時は首相になる可能性すらあった。しかし彼の希望は司法の場であった。主席裁判官の地位は第一大蔵卿のそれほど輝かしいものではないかもしれないが;威厳があり;静かで;安全であり;したがってそれがマレーの望みの地位であった。

 平和、真実、自由のために尽力し、その名を不朽のものとした偉大な人物(*チャールズ・フォックス)の父親であるフォックスは戦時大臣であった。彼は国王、カンバーランド公爵、そして大ホィッグ・コネクションのお気に入りであった。彼の議会での手腕は最高レベルであった。しかし演説者としては、ほとんどの点でピットとは正反対であった。彼の姿は優雅ではなく;彼の顔はレイノルズ(*ジョシュア、肖像画家)やノールケンス(*ジョセフ、彫刻家)が残したものを見る限り強い理解力を物語っているが;顔立ちは粗く、全体的に暗く陰鬱であった。態度はぎこちなく;話し方はためらいがちで;言葉が足りずに立ち尽くすことも多かったが;討論者として政治問題の議論に適した鋭く、重く、男らしい論理の達人としては、おそらく息子を除いてこれを超える者はなかったであろう。返答において彼はピットよりも明らかに優れていたが、演説においてはピットより劣っていた。知的な面では2人のライバルはほぼ互角であった。しかし、ここでもピットの道徳的資質が勝負を決めたのである。フォックスには確かに多くの美点があった。手腕だけでなく生来の性格も有名な息子によく似ていた。彼は同じ優しい気質、同じ強い情熱、同じ率直さ、大胆さ、衝動性、同じ友人への真心、同じ敵への寛容さを持っていた。家族や仲間からこれほど温かく、正当に愛されている人物はいない。しかし不幸なことに彼は悪い政治学校で訓練を受けていた。その学校の教えは政治的美徳とは思わせぶりな政治的堕落に過ぎない、どんな愛国者も金で転ぶ、政府は腐敗という手段でしか維持できない、国家は政治家の餌である、というものであった。これらの格言はウォルポール派の下層部であまりにも流行り過ぎていたし、現代では世間でぺてんと呼ばれるものを軽蔑して;しばしば突飛に攻撃的に対極に走っていたウォルポール自身によって大いに奨励され過ぎていた。フォックスの緩んだ政治道徳はピットの人目を引く清廉さとは驚くべき対照をなしていた。国民は前者に不信感を抱き、後者に絶大な信頼を寄せていたのである。まったくこの時代のほとんどすべての政治家は国民の信頼は得るべき価値があるものであることをまだ学んでいなかった。物事が静かに進行している間、反対派がいない間、小さな支配会派の支持によってすべてが与えられている間、フォックスはピットに対して決定的に有利であった;しかし危険な時代が到来し、ヨーロッパが戦争に巻き込まれ、議会が派閥に分裂し、民衆の心が激しく動揺すると民衆のお気に入りの人物が最高の権力を獲得し、ライバルは無価値な存在へと沈んでしまった。

 1754年の初め、ヘンリー・ペラムが突然亡くなった。その知らせを聞いた老王は「これでもう私に平穏な日が来ることはないだろう」と叫んだ。彼は正しかった。ペラムは王国のあらゆる才能を集め、団結させることに成功していた。彼の死によって英国人が目指すことのできる最高のポストが空席となり;同時に手に負えない野心的な精神に頸木し、抑えていた力も失われたのである。

 ペラムの死後1週間以内にニューカッスル公爵(*ヘンリー・ペラムの兄)を財務省のトップに据えることが決定されたが;まだ完全な配置とは程遠かった。庶民院の筆頭王室大臣(*院内総務)は誰になるのか?卓越した手腕を持つ人物に任せるべきなのか?そのような人物がそうした地位でニューカッスルが譲歩できる以上の権力と後援を要求し、獲得することはないだろうか。単なる雑用係が雇われるのだろうか?そして有能で経験豊かな人物が大勢いる大規模な荒れた議会をただの雑用係が管理できる可能性はあるのだろうか?

 ポープは哀れな守銭奴、サー・ジョン・カトラー(*同時代の土地投機で成功した食料品商人)についてこう述べている。

「カトラーは大変な窮乏のため居住者が破産し家が倒れるのを見た;彼は塀を作ることすらしなかった。」

 ニューカッスルが権力を愛することはカトラーが金を愛することに似ていた。それは自らを欺く貪欲さであり、a penny-wise and pound-foolish(*小銭を稼いで大金を失う)のような愚かさであった。目先の出費は彼にとって苦痛であり、最も望ましい改善を行うことはできなかった。もし彼が自分の権限の一部を直ちに譲ることができれば、残った権限を継続できたかもしれない。しかし彼は堅固で耐久性のある材料に必要な代価を払うよりも小さな吐息でよろめき、嵐でたちまち倒れてしまうような弱くてもろい政府を建設した方がましだと考えた。彼は35年前にクラッグス大臣がサンダーランドの下で行動したのと同じような条件で庶民院の主導を喜んで引き受けてくれる人物を探したいと考えていた。クラッグスは大臣とは呼べない。彼は大臣の単なる代理人にすぎない。彼は国家の重要な機密を預かっていたわけではなく上司の指示に絶対的に従っていたのであり、ドディントンの表現を借りればサンダーランド卿の部下に過ぎなかったのである。しかし時代は変わった。庶民院の重要性はサンダーランド卿の時代よりますます高まっていた。長年にわたって庶民院で政府の仕事を指揮していたのはほとんどが首相であった。このような状況でこの立場に必要な手腕を持った人物がニューカッスルが提示したような条件に身を落として首相を引き受けるとは考えられなかった。

 ピットは病気を患ってバースにいたが;もし彼が元気でロンドンにいたとしても、国王もニューカッスルも彼に声をかける気にはならなかっただろう。冷静で用心深いマレーは専門的な目標に心を向けていた。フォックスとの交渉が始まった。ニューカッスルは自分らしく、つまり幼稚で下劣な振る舞いをした。彼が出した提案はフォックスは国務大臣になって庶民院を主導すること;諜報活動費の処理、つまりわかりやすく言えば議員買収の仕事は第一大蔵卿に任せること;ただしこの資金がどのように使われているかはフォックスに正確に知らせる、というものだった。

 フォックスはこの条件に同意した。しかし、翌日になるとすべてが混乱した。ニューカッスルの気が変わったのである。フォックスと公爵の間で交わされた会話は英国の歴史の中でも最も興味深いものの一つである。ニューカッスルは「私の弟が第一大蔵卿だったとき、諜報部の金をどう使ったか誰にも話さなかった。私もそうするつもりはない。」その答えは明らかだった。ペラムは第一大蔵卿であるだけでなく庶民院の運営者でもあったのだから;庶民院議員とのやりとりを他人に打ち明ける必要はなかったのだ。「ではどうやって」とフォックスは言った「そうした情報なしに庶民院を率いることができるでしょうか?紳士たちの中で誰が心付けを貰っていて、誰が貰っていないのか分からないのに、どうやって紳士たちと話をすることができるでしょうか。そして誰が」と続けた「地位を与えるのですか」と尋ねた―「私自身です」と公爵は答えた。「では、私はどうやって庶民院を運営すればいいのでしょうか」―「ああ、庶民院議員を私のところに来させて下さい。」続いてフォックスは間近に迫った総選挙に触れ、大臣が持っている自治区をどのように埋めるのかを尋ねた。「心配しなさんな。」とニューカッスルは言った;「全部決まっているのだから。」これは人間の性質が耐えられないことであった。フォックスはこのような条件で国務大臣を引き受けることを拒否し、公爵は庶民院の運営を現代ではほとんど忘れられてしまったトーマス・ロビンソン卿という鈍く無害な人物に委ねたのである。

 バースから戻ったピットは高慢な心が憤慨していたにもかかわらず、非常に穏健な態度をとっていた。彼は自分が飛ばされたことに不満を抱くことなく、自分の意見としてはフォックスこそが庶民院を率いるにふさわしいと率直に語った。ライバルたちは共通の利害と共通の敵意によって和解し、次の会期に向けて作戦を練った。「トーマス・ロビンソン卿が我々を導くだって!」とピットはフォックスに言った。「公爵は自分のジャック・ブーツ(*軍人や漁夫の長靴、強圧的な態度という意味もある)を送り込んできたようなものだ。」

 1754年の選挙は政権にとって好都合なものだった。しかし外交の面は荒れ模様だった。インドではエクス・ラ・シャペル(*アーヘン、1748年、オーストリア継承戦争について)の和平以来、イギリスとフランスが激しく対立していた。最近ではアメリカでも同じことになっていた。ニューカッスルやロビンソンとは全く異なる能力が必要とされる、激動の時代が目前に迫っていることが予見されていたかもしれない。

 11月には議会が開かれ;新任の国務大臣はその月の終わりまでに軍隊の主計係と戦時大臣から容赦なく攻撃され、自分の立場にすっかり嫌気がさしていた。フォックスは彼を大変な力と辛辣さで攻撃した。ピットはトーマス卿に軽蔑的な優しさを持っており、主にニューカッスルを攻撃した。ある時、彼は雷のような声で議会は一人の強大すぎる臣民の命令を正式表明するためだけに存在しているのか、と問いかけた。公爵は恐怖で思考停止してしまった。彼は反対者たちを追放することも、昇進させることをも恐れていたが:絶対にどうにかしなければならなかった。反抗的な二人のうちプライドが高くなく、強情ではないフォックスが選ばれた。議会で大臣を効率的に支援することを条件に内閣の席が与えられた。フォックスは自分の名声と運命にとって最悪の時にこの申し出を受け入れピットとの関係を捨てたが、ピットはこのことを決して許さなかった。

 トーマス卿はフォックスの助けを借りて、その年の仕事を大した問題もなくこなすことができた。ピットはその時を待っていた。フランスとイギリスの間で行われていた交渉は日に日に不利な様相を呈していた。会期終了間際、国王は庶民院にメッセージを送り、戦争の準備をする必要があると判断したことを伝えた。庶民院は感謝の意を表し、信用投票を可決した。休会中、両国の旧来の反感は一連の悲惨な出来事によって燃え上がった。イギリス軍がアメリカで孤立させられ、フランス軍の船が西インド諸島の海で拿捕されたのである。武力行使の必要性が明らかになった。

 国王の第一の目的はハノーヴァーを確保することであり;ニューカッスルは主君を満足させようとした。当時の流儀に則ってイングランドが資金を出すのなら彼らも兵士を出すという条約をドイツの小国の君主たちと結び;また、フリードリッヒ2世が叔父(*彼の母はジョージ1世の娘であり、ジョージ2世は叔父に当たる)の選帝侯領に関心を持っているのではないかと疑われていたため、プロイセンを畏怖させるためにロシアの力を借りた。

 これらの条約の内容が知らされると王国中にざわめきが起こり、賢明な観察者は容易に嵐の到来を予感することができた。ニューカッスルはこれまで自分の道具と考えていた人々からも強い反発を受けた。財務大臣のレッジは条約の発効に必要な財務省令状への署名を拒否した。また若きプリンス・オブ・ウェールズ(*ジョージ3世、フレデリック・ルイスは1751年に死去)とその母親の信頼を得ていると思われていた人々は非常に威嚇的な発言をした。この難局においてニューカッスルはピットを呼び寄せ、彼を抱きしめ、肩を叩き、作り笑いをし、涙し、回らぬ舌で最高の賛辞と素晴らしい約束を口にした。それまで謁見の儀においてできうる限りむっつりした態度であった国王は彼に好意的に接し;彼を内閣に入れ;あらゆることを相談しようと言った;もし彼が庶民院でヘッセンへの助成金を支持してくれさえすれば。ピットは提案された内閣の席を冷たく断り、国王への最高の愛情と敬意を表明し、もし国王がヘッセン条約に強い個人的な関心を持っているならば自分が描いていた路線から大きく逸脱してでもその条約を支持する、と述べた。「そう、それにロシアの助成金も」とニューカッスルは言った。「いいえ」とピットは言った。「助成金システムはなしです。」公爵はハードウィック卿を呼んで助けを求めたが;ピットは折れなかった。マレーは何もしないだろう。ロビンソンも何もできない。仕方なくフォックスに頼ることになった。フォックスは庶民院のリーダーとしての全権を持って国務大臣に就任し、トーマス卿は年金をもらってアイルランドの官庁へと追い払われた。(*衣服長官に復帰した?Wiki)

 1755年11月、両院の会合が開かれた。国民の期待感は最高潮に達していた。10年間の静かな時期を経て王位継承者が支持し、時代を代表する素晴らしい演説者が率いる反対派が誕生することになったのである。この演説に対する討論は当時の議会における論争の一つとして長く記憶されている。討論は午後3時に始まり、翌朝5時まで続いた。この夜ジェラルド・ハミルトン(*処女演説を行いウォルポールに賞賛されたが、その後は成功したことがなかったのでシングル・スピーチというニックネームがついた)は彼のニックネームの由来となったたった一つのスピーチを行った。彼の雄弁はすべての弁士を影に追いやった、並外れたエネルギーと影響力とともに1時間半にわたって助成金に反対を唱えたピットを除いて。かつてウォルポールやカータレットを擁する多数派を恐怖に陥れた彼のあの力が、このようなショーに長い間親しんでいなかった聴衆の前で最高の完成度で披露されたのである。この有名な演説の一部分がかなり良い保存状態で残っている。それはフォックスとニューカッスルの連合とローヌ川とソーヌ川の合流の比較である。「リヨンで」とピットは言った。「私は2つの川の合流点を見に連れて行かれた、一方は穏やかで弱々しく、のどかであり、のどかでありながら深くはなく、他方は猛烈に荒れ狂う急流である;両者はまったく異なるがついには合流するのである。」反対派が提出した修正案は圧倒的多数によって否決され;ピット(*軍の主計係)とレッジは直ちに解任された。

 数ヶ月の間、庶民院での争いは非常に激しかった。見積りについて活発な議論が行われ、助成金条約についてはさらに活発な議論が行われた。政府はすべての採決で成功を収めたが、ピットの雄弁さと彼の高潔で断固とした人格の力の名声は会期中高まり続けた;そして停会の後に起こった出来事によって他の人物が議会や国を運営することは全く不可能になった。

 世界各地で始まった戦争はイングランドにとって悲惨な出来事であり、そして悲惨というよりも恥ずべき出来事であった。しかしこれらの出来事の中で最も屈辱的だったのはメノルカ島(*西地中海)の喪失だった。リシュリュー公爵(*ルイ・フランソワ・デュ・プレシス)は16歳から60歳までの間、麦わらほどにも気かけていない女性を誘惑することに人生を費やしてきた年老いた愚か者であるが、この島に上陸し、島を征服することに成功したのである。ビング提督はジブラルタルからマホン港に救援を送るために派遣されたが、フランス艦隊と交戦するのは適切ではないと考え、目的を果たすことなく航海を終えた。民衆は怒り狂った。嵐が突発し、物品税やサウス・シーの時代を覚えている人でさえ驚愕した。店頭には誹謗中傷や風刺画があふれ、壁はプラカードで埋め尽くされた。壁はプラカードで埋め尽くされた。ロンドンの街は復讐を求め、その声は王国の隅々まで響き渡った。ドーセットシャー、ハンティンドンシャー、ベッドフォードシャー、バッキンガムシャー、サマセットシャー、ランカシャー、サフォーク、シュロップシャー、サリーは玉座に向かって力強い奏上を行い、自分たちの代表者に最近の惨事の原因を厳密に調査することを票決するよう指示した。大都市にも郡部と同様に強い感情があった。いくつかの指示は歳出を停止することさえも言及していた。

 国民は歴史上ほとんど例を見ないほどの怒りとむっつりした落胆の状態にあった。いつの時代でも人々は先祖の古き良き時代と同時代の退廃について語る習慣がある。これは一般的には単なる御託に過ぎない。しかし1756年にはそれ以上のことが起こっていた。このとき世に出た本、ブラウン(*ジョン)の「エスティメート(*価値判断)」は今ではカウパー(*ウィリアム)の「テーブル・トーク」やバークの「国王殺しとの和平」に引用されることでのみ記憶されている。この本は遍く読まれ、賞賛され、信用された。著者は自分たちは臆病者と悪党の種族であり;誰も自分たちを救うことはできない;自分たちは敵の奴隷になろうとしている、そして自分たちはその運命に十分相応しいのである、と読者を完全に納得させた。イングランドがかつて経験したことのないような輝かしい戦争の発端においてこのような推測が今にも信用されようとしていたのである。

 ニューカッスルは自分の地位と自分の地位よりも大切なたった一つのもの、つまり自分の首の心配を始めた。民衆は甘く見られてただで済ませる気分ではなかった。彼らの叫びは血を求めていた。今回だけはビング提督の犠牲で満足するかもしれない。しかし、もしも新たな惨劇が起こったら?友好的でない君主が即位したら?敵対的な庶民院が選ばれたとしたら?

 そして10月、ついに決定的な危機が訪れた。新任の国務大臣は第一大蔵卿の不実さと気まぐれに長い間悩まされていたが、愚かに見えても危険回避には熟練している老陰謀家を救うために自分がスケープゴートにされることを恐れ始めていた。フォックスは職を投げ出し、ニューカッスルはマレーに頼ったが;マレーは今や彼の野心の本命に手が届くところまで来ていた。王座裁判所の主席判事の地位が空席になっており;法務長官はこの地位を手に入れるか、あるいは反対党派に転身することを完全に決意していた。ニューカッスルは終身ランカスター公爵領、財務省の出納係、年俸2,000ポンド、6,000ポンド、いくらでも、という条件を提示した。閣僚たちはマレーの心が決まっていることを知ると、1会期、1ヶ月、1週間、1日でも遅らせることを要求した。もう一度だけ庶民院に顔を出してくれないか?挨拶だけしてくれないか?彼は動かされることはなく、断固として言った、主席判事の地位を与えられても与えられなくても法務長官を辞職する、と。

 今やニューカッスルは国王の偏見を克服することをもくろみ、ハードウィック卿を介してピットに接触した。ピットは自分の力を知っており、それを自覚していることを明らかにした。新しい内閣からニューカッスルを完全に排除することを必須の条件として要求したのである。

 公爵は滑稽なほどの悲嘆に陥った。彼は走り回って、喋りながら泣きながらアドバイスを求めたが、誰の言うことにも耳を貸さなかった。そうこうしているうちに会期が近づいてきた。世間の興奮は収まっていなかった。庶民院でピットとフォックスに立ち向かうことができる者は誰もいなかった。ニューカッスルは心が折れてしまい、辞任を申し出た。

 国王はフォックスを呼び寄せ、ピットと協力して政権構想を練るよう指示した。しかしピットは昔の恨みを忘れておらず、フォックスと行動を共にすることを断固拒否した。

 そこで国王はデボンシャー公爵を用いることとし、この仲介者は組閣に成功したのである。デボンシャー公爵は第一大蔵卿を引き継ぐことを承諾した。ピットは国務大臣となり庶民院の院内総務を引き受けた。国璽が委任された。レッジは財務省に戻り;その妹が最近ピットと結婚したテンプル卿が海軍のトップに就いた。

 この政権が非常に短命に終わることは最初から明らかだった。その間、ピットとテンプル卿は国王から粗略な扱いを受け;庶民院では微弱な支持しか得られなかった。注目すべきは反対党が数人の新閣僚の再選を妨げたという事実である。ピットはペラム家の地盤である自治区の一つに議席を持っていたが印章を受け取った後、議席を確保するのに苦労した。それなしではいかなる政府も存続できないこの種の力が新政府には欠乏していたのである。改革法案に対して最も頻繁に主張された議論の一つは、代議制の下では公務の遂行のために庶民院への出席が必要とされる人々がしばしば議席を確保できない、というものであった。このような不都合が生じた場合、救済策を考案し適用することには少しも困難はない。まったくこのことの弊害を懸念した人々は旧制度の下で全国民の声によって重大な危機に際して権力側に呼び寄せられた偉大な人物が貴族の陰謀によって、その人物が最も輝かしい華であった庶民院から排除される危険性があったことを思い出すべきであった。

 この短い政権の中で最も重要な出来事はビングの裁判であった。この件に関しては世論がまだ分かれている。我々は提督の処罰は全く不当であり、不条理であると考える。裏切り、臆病、法律家がcrassa ignorantia(*ラテン語、酷い無知)と呼ぶほどの無知は厳しい処罰の対象としてふさわしい。しかしビングに裏切り、臆病、自分の職業に対する重大な無知の罪は見られない。彼は最も忠実な臣民、最も勇敢な戦士、最も経験豊かな船員がすることをしたために死んだのである。彼はフリードリッヒ、ナポレオン、ウェリントンといった偉大な指揮官がしばしば犯し、しばしば自ら認めたような判断の誤りのために死んだのである。このような過ちに罰を与えることは適切ではない、なぜならこうした過ちを罰することは過ちを防ぐのではなく、過ちを生んでしまい勝ちだからである。不名誉な死を恐れることは怠惰な者に努力を促し、裏切り者を軍旗の下にとどめ、臆病者が逃げ出さないようにするかもしれないが、重大な緊急事態において迅速かつ賢明な判断を下すことができるような特性を引き出す傾向はない。最高の狙撃手でも標的となるリンゴが自分の子供の頭上に置かれたなら失敗することが予想される。上官の判断が自分と一致しなかった場合、あらゆる恥ずべき状況で処刑されるという知識ほど、将校が最も自制心を必要とする時にそれを失わせるものはないと考えられる。王妃は一般女性に比べて出産時のリスクがはるかに高いとよく言われるが、それは単に主治医が余計に心配するからである。マリー・ルイーズに付き添った外科医は感情に押しつぶされて怖じ気づいていた。(*大変な難産であった)「落ち着きなさい」とボナパルトは言い「フォーブル・サン・アントワーヌの貧しい少女を助けるような気持ちで」と言った。これはアラビアンナイトの演芸において東方の王様が娘を治せなかった医者は頭を切り落とす、と宣言したよりもはるかに賢明な方法であった。ボナパルトは人間をよく理解しており;この外科医に対して行ったように自分の将校に対しても行ったのである。単なる判断ミスをこれほどまでに甘受した君主はいなかったし;最高の指揮にふさわしい軍人をこれほどまでに多く抱えていた君主もいなかったことは確かである。

 ピットはこの時、勇敢で誠実な行動をとった。彼は自分の権力と人気の両方をあえて危険にさらし、議会でも王室でもビングを力強く擁護した。しかし国王は容赦しなかった。「庶民院は、サー」とピットは言った。「慈悲に傾きかけているようです。」「サー」と王は言った。「私に庶民院以外の場所にも国民の意見があることを教えてくれたのは貴下である。」この言葉は、ジョージ2世について記録されている他の多くの言葉よりも的を射ており、皮肉を込めたものではあるが、ピットに対する高く正当な賛辞を含んでいる。

 王はピットを嫌っていたが、テンプルを絶対的に憎んでいた。陛下によると、新しい国務長官はヴァッテルを読んだことがなく、退屈で尊大だが、尊敬に値する人物だった。第一提督は非常に不謹慎であった。ウォルポールは恐ろしくも事実であるとすれば面白過ぎる一つの話を残している、テンプルはミノルカ島でのビングの行動とウーデンアルド(*1708年、対仏戦争)での陛下の行動を念入りに並列し、すべて提督の側が有利であるとして陛下を楽しませたという。(*提督は結局銃殺刑になった)

 このような状況が続くはずはなかった。4月初旬ピットとその友人たちは追い出され、ニューカッスルはセントジェームズに召集された。しかし国民の不満は解消されていなかった。ピットが権力の座に就いた時には沈静化していたのである。しかし、それはまだ消し炭の下で光を放っており;たちまち燃える炎が立ち上った。国債価格が下落した。市民評議会(*The Common Council)が開かれた。ピットにFreedom of the City(*自治体が地域社会の重要なメンバーや来訪した著名人や高官に与える栄誉)を与えることが議決された。最も大きな自治都市がこの例に倣った。「数週間」とウォルポールは言っている。「黄金の雨が降った。」

 これがピットの人生の転機となった。これほど高慢で激情的な性格の男が宮廷からは冷遇され、民衆からは熱狂的に支持されているのだから、自分の力を示して恨みを晴らす最初の機会を活用するだろうという予測がされており;その機会は絶えることがなかった。多くの郡や大きな町の議員は前年の失策の原因をつくった状況の調査を議決するよう指示されていた。庶民院では調査動議が反対なしに可決され、ピットが解任されてから数日後に調査が開始された。ニューカッスルらは無罪票決を獲得したが少数派の意見があまりにも強かったため、当初意図していた承認票決を要求することはできなかった。また一部の鋭い観察者の間では、もしピットが自分の力を最大限に発揮していたならば(*ビングの)審理は弾劾まではいかず、問責に終わっていたのではないかと考えられていた。

 ピットはこの時、いつもの彼らしくない節度と自制心を示した。彼は経験上、一人ではやっていけないことを知っていた。彼の雄弁と人気は彼に多くのもの、非常に多くのものをもたらした。地位も財産も自治区の地盤もなく、国王からも貴族からも嫌われていたが、彼は国家の最重要人物であった。彼は組閣、すべてのライバル、ホィッグ党で最も有力な貴族、庶民院で最も優れた論客に排除を宣告することを余儀なくされていた。そして今、彼は自分が行き過ぎたことに気づいた。イギリス憲法には確かに大衆的要素がなかったわけではない。しかし一般的には他の要素が優勢であった。国民の信頼と称賛は反対派の先頭に立つ政治家を手強くするかもしれないし、額に入った艶やかな羊皮紙や金の箱を彼に積むかもしれないし、前年のような極めて特殊な状況下では一時的に彼を権力者に引き上げるかもしれない。しかし当時の議会の構成では国民のお気に入りが国民自身の議会の多数派を頼りにすることができなかった。ニューカッスル公爵は道徳でもマナーでも理解力でも劣っていたが、危険な敵であった。彼の地位、富、議会での無比の利益だけでも彼は重要な存在だった。しかしそれだけではなかった。ホィッグ派の貴族たちは彼を自分たちのリーダーとみなしていた。彼が長い間権力を持っていたため、今でも権力を持つことが一種の慣例的な権利となっていた。庶民院議員たちは彼がトップに立っているときに選出されており、大臣が持っている自治区の議員はすべて彼が指名した。官公庁には彼の手下があふれていた。

 ピットは権力を欲していたが、それは高潔で寛大な動機からであったと我々は確信している。彼は言葉の厳密な意味での愛国者であった。彼には当時のフランスの偉大な作家たちがヨーロッパのすべての国民に向けて説いたような博愛主義はなかった。彼はアテネ人が紫の王冠の都市を愛するように、ローマ人が七つの丘の都市を愛するように、イングランドを愛していた。彼は自分の国が辱められ、敗北しているのを見た。国民の精神が沈み込んでいくのを見た。しかし彼は帝国の資源を積極的に活用すれば何ができるかを知っていたし、自分こそがその資源を積極的に活用できる人物であると感じていた。「閣下」と彼はデボンシャー公爵に言った。「この国を救うことができるのは私だけであり、それは他の誰にもできないことを確信しています。」

 政権を取りたいと思い、また宮廷や貴族の意向に反して政権を維持するには自分の能力と国民の信頼だけでは不十分だと感じた彼は、ニューカッスルとの連立を考え始めた。

 ニューカッスルも同じように和解を望んでいた。彼にもまた、最近の経験から得たものがあった。宮廷や貴族が強力であってもそれが国家のすべてではないことを知った。寡頭制の強力なコネクション、大きな自治区の地盤、豊富な後援、そして諜報活動の資金は平時に大臣が必要とするすべてのものかもしれない;しかし戦時、不満、動揺のある時にはそのような支援を全面的に信頼することは危険である。庶民院の構造は完全に貴族的なものではなく;大きな審議会の構成がどうであれ、その精神は常にある程度大衆的なものである。自由な討論が行われているところでは雄弁は称賛者を持ち、道理は転向者を生むはずである。自由な報道が行われているところでは統治者は被統治者の意見に常に畏敬の念を抱いているはずである。

 このように性格が全く異なり、つい最近まで死闘を繰り広げていた2人の男はお互いを必要としていた。ニューカッスルが11月に倒れたのはピットが持っていた国民の信頼と、ピットが当時のどの人物よりもそれを受けるに相応しかった議会の支持を得られなかったためである。ピットが4月に倒れたのは、ニューカッスルが生涯をかけて獲得し、ため込んでき種類の力を失ったためである。二人とも自分を支えるだけの力を持っていなかった。それぞれが相手を打ち負かすだけの力を持っていた。この二人の結合は抗しがたいものになるであろう。国王も国内のどの派閥も彼らに対抗することはできないであろう。

 このような状況下でピットは公職において前任者に対抗して極端なことをする気はなかった。しかし一貫性を保つためには何かが必要であり;人気を維持するための何ものかが必要であった。彼はほとんど何もしなかったが;そのわずかな行動が大きな効果を生むようにしたのである。彼は痛風を見せびらかすかのごとく足にフランネルを巻き、釣り包帯で腕をぶら下げた状態で議会にやってきた。彼は痛みと倦怠感にもかかわらず、疲労した状態で何日も議席に座り続けた。彼はいくつかの鋭く激しい発言をしたが;議論の大部分の間、その言葉はいつになく穏やかであった。

 この調査(*ニューカッスルの)が無罪か弾劾かの投票を経ずに終了したとき、連立を阻む大きな障害が取り除かれた。しかし、まだ多くの障害が残っていた。国王は国民の声によって押し付けられた高慢で野心的な大臣から解放されたことをまだ喜んでいた。陛下の憤慨が最高潮に達したのは30年間にわたって王室の寵愛を一身に受け、厳粛な約束によってピットとは決して結託しないと誓ったニューカッスルが新たな背信行為を企てていることが露見したときだであった。この時代の政治家の中でフォックスは王室の寵愛を最も多く受けていた。国王はフォックスとニューカッスルの連立を望んでいた。しかし狡猾な公爵はそのような罠にはまらなかった。全体としてフォックスは議会での発言者としてライバルと同じくらい政権のために有用であったであろうが;イングランドで最も不人気な人物の一人であった。またニューカッスルはフォックスになにやら嫉妬心を抱いていたが、ことわざによるとこれは商売敵の間に広く存在するものである。公爵が自分だけのものにしたいと思っている仕事の部門にフォックスは必ず干渉してくる。一方、ピットは汚職の骨折り仕事は誰でも引き受けてくれる人物に任せようと考えていた。

 11週間の間、イングランドには内閣が存在せず;その間に議会が開かれ;戦争が勃発していた。国王の偏見、ピットの傲慢さ、ニューカッスルの嫉妬、愚かさ、裏切りなどが和解を遅らせた。ピットは公爵のことを知り過ぎていたため保障なしに信じることができなかった。公爵は権力を愛しすぎていたため、保障を提供する気になれなかった。二人が交渉している間、国王は二人の間に最終的な決別をもたらすか、二人抜きの政府を樹立しようと無駄な努力をしていた。ある時、王は誠実で良識のある人物であるが実務に疎いウォルデグレーブ卿に話を持ちかけた。ウォルデグレーブ卿は勇気を出して財務省を引き受けたが、彼が作った政権は1週間も持ちこたえられる可能性がないことがすぐにわかった。

 ついに国王の頑固さは緊急の必要に屈した。ニューカッスル公の従僕でいる間は自由について語ることを恥じるべきだ、とホィッグ派を大変苦々しく、そしていくらか正しく非難した後、国王は屈服したのである。レスター・ハウス(*フレデリック皇太子)の力がピットを説得して、彼の高い要求を少し、少しだけだったが抑えることができた;そしてしばらくの間党派が勃興し、衰退し、集合し、離散していた混乱の中から国内ではペラム(*ヘンリーの方と思われる)の政府のように強く、国外ではゴドルフィンの政府(*1707~1708年)のように成功した政府が一気に誕生したのである。(*1757年)

 ニューカッスルは財務省を担当した。ピットは国務大臣となって庶民院の院内総務を担当し、戦争と外交の最高の指揮を執ることになった。フォックスは新政府を大きく煩わせる可能性のある唯一の人物だったが戦争が続いている間、政府全体の中でおそらく最も儲かる地位である主計官の職に就き、沈黙を守った。彼は貧しく、この状況は魅力的だった;しかし政治の世界で最高の役割を果たし、その能力がその役割に遜色ないと認められ、内閣に入り、庶民院を指導し、国王から二度も組閣を任されたことがあり、ピットのライバルとみなされ、一時は彼に勝ちそうであると思われていた人物が報酬のために下位の地位に甘んじ、自分が参加していない政府の政策の審議に浮動票を投じることに同意したというのは異常と思わざるを得ない。

 新政権の最初の行動は判断力よりも活力に特徴があった。フランス沿岸のさまざまな場所に遠征軍が送られたが小さな成功しか得られなかった。小さなエクス島(*フランス西岸)が占領され、ロシュフォール(*同)が脅かされ、サン・マロエ港(*北西岸)では数隻の船が燃やされ、シェルブール(*北岸)の要塞からは数門の砲と迫撃砲が戦利品として持ち帰られた。しかし、すぐに全く別の種類の征服が王国を誇りと喜びで満たした。確かに輝かしい、そして不毛ではないと思われる一連の勝利は戦争の指揮を任されていた大臣の名声を最高潮に高めた。1758年7月、ルイブール(*カナダ東岸)が陥落した。ケープ・ブレトン島(*ルイブールが面しているセント・ローレンソ湾への進入路を守っていた)はすべて破壊された。ヴェルサイユ宮廷がフランス領アメリカの防衛を託した艦隊は壊滅したのである。捕獲された旗はケンジントン宮殿から市内へと凱旋し、太鼓やケトルドラム(*ティンパニー)の轟音と巨大な群衆の叫び声が響く中、セントポール教会に吊り下げられた。イングランドのすべての大都市から祝賀の挨拶が寄せられた。議会は謝意と記念碑建立を決議するためだけに開かれ、大同盟の戦争中(*1689~1697年の反フランス連合)に与えられた物資の2倍以上の物資を何の不満もなく捧げることができた。

 1759年はゴレ島(*セネガル・ダカール港外の島)の征服で幕を開けた。次にグアドループ(*西インド諸島)、ナイアガラの順に落ちていった。トゥーロン艦隊はラゴス岬(*ポルトガル南部)沖でボスコーエン(*エドワード)に完敗した。しかし、この年の最大の功績はアブラハムの丘でウォルフが成し遂げたことだった。彼の輝かしい死とケベック陥落のニュースは両院合同会議が開かれたまさにその週にロンドンに届いた。すべてが喜びと勝利に包まれた。羨望も党派心も全体の喝采に参加せざるを得なかった。ホィッグ派とトーリー派が互いに競ってピットの天才性とエネルギーを称賛した。彼の同僚たちは話題にもならず、気にも留められなかった。庶民院も、国民も、植民地も、同盟国も敵も、彼だけに注目していた。

 議会がウォルフの記念碑を決議して間もない頃、別の大きな出来事が新たな歓喜を呼び起こした。コンフラン(*伯爵、ヒューバート・ド・ブリエンヌ)の指揮するブレスト艦隊が出航し、それにホーク(*エドワード)率いるイギリス艦隊が追いついたのである。コンフランはフランスの海岸近くに避難しようとした。海岸は岩だらけで;夜は暗く;風は激しく;ビスケー湾の波は高くなっていた。しかしピットは軍の各部門に長い間知られていなかった精神を吹き込んでいた。英国の水平の中にはビングの側に立とうとする者はいなかった。水先案内人はホークに、この攻撃は最大の危険を伴うことになる、と言った。「あなたは諌めることでその義務を果たした。」とホークは答えた;「私はすべてに答えよう。この船をフランスの提督の船に横づけせよ。」2隻のフランス船が攻撃を受け、4隻が破壊された。残りの船はブルターニュの川に隠れてしまった。

 1760年になった;いまだ勝利に勝利が引き続いていた。モントリオールが占領され、カナダの全州が征服され;フランス艦隊はヨーロッパとアメリカの海で次々と惨劇に見舞われた。

 一方、東洋ではコルテスやピサロの征服に匹敵するスピードと規模の征服が成し遂げられていた。わずか3年の間にイギリス人は強大な帝国を築き上げた。フランス人はインドのあらゆる地域で敗北した。シャンダナゴール(*東インド、カルカッタ上流のフランス植民地)はクライヴ(*ロバート)に、ポンディシェリー(*南東インド)はクート(*エアー)に降伏した。ベンガル、バハール、オリッサ、カーナティックの各地で東インド会社の権威はアクバル(*過去のムガル帝国皇帝)やアウルンゼベ(*同)の権威よりも絶対的なものとなっていた。

 ヨーロッパ大陸ではイングランドに不利な状況が続いていた。重要な同盟者はプロイセン王だけであり;彼はフランスだけでなくロシアやオーストリアからも攻撃を受けていた。しかし大陸でもピットのエネルギーはあらゆる困難に打ち勝った。彼は外国の君主に助成金を出すことを激しく非難していたが、その行為をカータレット自身が思い切って行ったより以上に実践した。積極的で有能なプロイセンの君主は強大な敵と対等に戦い続けることができるだけの金銭的な援助を受けた。ピットはハノーヴァー家のコネクションの弊害についてこれまでいかなる問題についても振るったことのほどの雄弁と熱弁を振るった。(*ハノーヴァー家はプロイセンの侵略を恐れている)彼はここで英国の争いによって国王が選帝権を失うなどとは英国民にとってあるまじきことである、と大した理由も告げずに宣言した。彼はイギリス国民が負けることはないと断言し、ドイツに派兵することによってアメリカを征服すると言った。(*フランス軍をドイツに釘付けにして植民地を奪う)彼はこのようにして国王をなだめ、国民に対する彼の力の一部をも失うことはなかった。議会ではその雄弁、成功、高い地位、誇り、そして勇敢さによって獲得した優位性のため、議会においてそれまでに例がなく、以後決して真似られたことがない特権を握っていた。いかなる弁士も彼の矛盾をあえて非難することはできなかった。一人の不幸な男が試みたが、大臣の軽蔑的態度に非常に狼狽し、どもり、口ごもり、座ってしまった。ハノーヴァーの名を忌み嫌っていたトーリー派の年老いた郷紳でさえ助成金に次ぐ助成金に心からの賛意を示した。この驚くべき会話は現代の生き生きした風刺の中で、実際に繊細というよりもはるかに生き生きとした、不幸ではない形で描写されている;

 「もうヘッセンの馬や鞍のことで 騒ぐのはやめよう 大陸政策も英国の資源を無駄にすることもない。1,000万ポンドと信用投票(*予期せぬ事態において見積書は作成できないが申請により議会に要求される予算についての投票)、これは正しい。それを要求した者が間違っているはずがない」。

 ピットの大陸対策の成功はその活力から予想された通りのものであった。彼が政権を握ったときハノーヴァーは差し迫った危険にさらされており;彼が就任して3ヶ月も経たないうちに選帝侯領の全てがフランスの手に落ちていた。しかし事態はすぐに変化した。侵略者は追い出された。ブランズウィック公フェルディナントの指揮下にイギリス軍、ハノーヴァー軍、ドイツの小君主から提供された兵士を含む軍隊が編成された。フランス軍は1758年にクレヴェルトで敗北した。1759年にはミンデンでさらに完全な屈辱的な敗北を喫した。

 その間、国は富裕と繁栄の兆しを見せていた。ロンドンの商人たちがこれほど繁栄していたことはない。いくつかの大きな商業・製造業の町、特にグラスゴーが重要になったのはこの時期からのことである。ギルドホールにあるチャタム卿の記念碑に刻まれた素晴らしい碑文はチャタム卿の政権下で商業が「戦争と結びつき、戦争によって繁栄するようになった」というロンドン市民の一般的な意見を記録している。

 このような繁栄の兆しがある程度幻想的なものであったことは認めざるを得ない。我々のいくつかの征服は輝かしいものではあっても有益ではなかったことも認めなければならない。ピットは戦争にかかる費用を全く考慮していなかったということも認めなければならない。むしろ彼にとっては勝利に費用がかかった方がそれを眺める際の喜びが大きかったと言う方が正しいかもしれない。同じ境遇の他の人物とは異なり、彼は自分の指揮下で国が支出している金額を誇張するのが好きだった。彼は自分の雄弁と成功によって国民に支払わせた犠牲と努力を誇りに思っていた。彼が忠実な奉仕と完全な勝利を手に入れた代償は最も浪費家で無能な戦時の首相であった息子が裏切り、敗北、恥辱のために支払った代償に比べればはるかに小さいものであったが、国民には長く酷く応えていた。

 ピットは戦時の首相としてさえ同時代の人々が彼に惜しまなかった賛辞のすべてを受ける資格はないであろう。我々はおそらく無知ゆえに、彼の配置の中にいかなる深みをも巧みな取り合わせをも見出すことができない。彼のいくつかの遠征、特にフランス沿岸部への遠征は費用がかさむと同時に馬鹿げたものであった。インドの征服は彼が政権を握っていた時代の輝きをいや増すものではあるが彼が計画したものではない。彼は確かに指揮をとる際に大きなエネルギー、大きな決断力、大きな策を持っていた。彼の気質は冒険的であり;あのような立場にあったなら彼は自分の気質に従うだけでよかったのである。豊かな国民の富と勇敢な国民の武勇は彼のあらゆる試みを支援する準備ができていた。

 しかし、一つの点で彼はこれまでに受けたすべての称賛に値していた。おそらく我が軍の成功は彼の作戦計画の巧みさによりも国の資源や国民の精神によるものであった。しかし国民の精神が緊急事態に立ち向かい、国民の資源が他に例のないほど気持ちよく提供されたことは間違いなく彼の功績である。彼の魂の熱情が王国全体に火をつけたのであった。それがケベックの高台に大砲を引きずり上げたすべての兵士、ブルターニュの岩だらけの海でフランス船に乗り移って行ったすべての水兵を燃え上がらせたのであった。大臣は就任して間もない頃から自分が用いる指揮官たちに、自分自身の熱烈で、冒険的で、挑戦的な性格を分け与えていた。 彼らは彼のようにすべてを危険にさらし、二倍を賭けるか、最後に降り、まだ成し遂げられていないものが残っている間はすでに成し遂げたことには目もくれず、挑戦しないでいるよりもむしろ失敗しようとする傾向があった。跳ねっ返りの過ちには寛容であった。しかしジョージ・サックヴィル卿が犯したような過剰な警戒心による失敗(*ハノーヴァーにおける戦いで追撃の好機に命令があやふやであるとして前進せず、しばらく不遇をかこつことになった)には容赦はなかった。他の時代、他の敵に対してはこの戦法は失敗したかもしれない。しかしフランス政府とフランス国民の状況はピットにとって大変有利であった。ヴェルサイユの洒落者や陰謀家たちはピットの勢いに顔色をなくし、狼狽えた。社会のあらゆる階層でパニックが起こった。敵はすぐに自分たちは常に打ち負かされるのを決まり事と考えるようになり;こうして勝利が勝利を呼び;ついには両国の軍がどこで会っても一方には軽蔑的な自信を、他方には臆病な恐怖を感じさせるまでになった。

 ジョージ2世の治世の終わりのピットの立場は英国の歴史上、どの公人にとっても最も羨むべきものであった。彼は国王の好意を獲得し;庶民院を支配し;国民から慕われ;ヨーロッパ中から賞賛されていたのである。彼はその時代の第一のイギリス人であり、イギリスを世界で第一の国にしたのである。大平民と呼ばれていた彼は爵位や勲章を軽蔑していたかもしれない。国民は喜びと誇りに酔いしれていた。議会はペラム政権の時のように静かだった。旧来の党派的区別はほとんどなくなっていた;その代わりとなるさらに重要な種類の区別はまだ存在していなかった。スチュアート朝を知らない新しい世代の田舎の大地主や修道院長が生まれていた。非国教徒は大目に見られ、カトリック教徒が残酷に迫害されることもなかった。教会は眠たげで寛大であった。全ての人々が安らぐことによって宗教改革で始まった市民と宗教の大規模な対立は終結したようだった。ホィッグ派もトーリー派も、国教派もピューリタン派も、政体に対して同じように敬意を表し、大臣の手腕、美徳、勲功に対して同じように熱意を持って語っていた。

 事態の全体像が変わってしまうのにほんの数年しかかからなかった。派閥に翻弄される国民、激しい罵声を浴びせられる王座、国民に憎まれ軽蔑される庶民院、スコットランドと対立するイングランド、アメリカと対立する英国、大西洋を越えて存在する対立議会、英国の銃剣で流される英国人の血、降伏する我が国の軍隊、もぎ取られる我々の征服地、過去の屈辱に対する復讐を急ぐ敵、自国の海をほとんど守ることができないわが国の旗、ピットが目にしたのはこのような光景であった。しかしこの大変革の物語は現在我々に与えられている紙幅をはるかに超過してしまう。ひとまず我々は偉大な平民をその栄光の頂点に置いておくこととする。別の機会に彼の人生の哀愁漂う、しかし不名誉ではない終末までを辿ることは不可能ではないだろう。

 

2021.6.12