DEMOCRACY AND LIBERTY
BY
WILLIAM EDWARD HARTPOLE LECKEY
VOLUME I
NEW YORK
LONGMANS,GREEN,AND CO,
LONDON AND BOMBAY
1896
All rights reserved
民主と自由
ウィリアム・エドワード・ハートポール・レッキー著
第1巻
ニューヨーク
ロングマンズ、グリーン、アンドカンパニー
ロンドンとボンベイ
1896
無断転載を禁じます
訳者より:この本の意義については、以下の1981年に再版されたときのウィリアム・マーチソン氏の序文をご覧ください。
https://oll.libertyfund.org/titles/lecky-democracy-and-liberty-vol-1-lf-ed
原文:https://archive.org/details/democracyliberty0001will/page/n6/mode/1up
https://oll.libertyfund.org/titles/lecky-democracy-and-liberty-vol-1-lf-ed
縦書きPDF 1-3章
目次
序文
何年も前、私が18世紀イングランドの歴史に没頭していたとき、古くからの畏友ウィリアム・ラスボーン・グレッグ(*1809―1881、エッセイスト)氏が、身の回りに数多くの熱く、心奪われる問題が浮上しているときに、人生の最良の時期を、消え去った過去の研究に捧げられる人の心境が理解できない、と言ったことを覚えている。私の当時の行いに、弁解の余地がないとは思わない。過去の歴史は、現在の政治を解明する上で役に立たないわけではない。政治家や改革者があふれている時代や国において、少数者が頑固に舞台の外にとどまっているのは望ましいことではない。しかし、私が取り組んでいたような近年の歴史の研究が、政治的重要性を失う傾向が見られないことは確かである。そして著述家が、現代の問題の議論に役立つかもしれない知識や推論方法を、それがもたらすかもしれないと信じるのは許されることだろう。本書はこうした問題、その一部がまさに党派的論争の中心にある問題の非常に多くを扱っている。私はこうしたテーマが、実際の政治とはまったく関わりのない論者によって時々取り上げられることの利点を少しばかり指摘する序文を書こうと思っていた。そういう人物はこうしたテーマに、現役の政治家よりも容易に、より独立的な判断力とより司法的な気質を持ち込めるだろうからである。しかし、この序文は、今となっては書けなくなってしまった。私の本の大部分がすでに印刷所の手に渡っていたとき、ありがたくも丁重にも断ることのできない、思いがけない依頼が、私を議会の輪に引き入れたのである。ただし、私自身の立場は変わったとはいえ、このことがこの本の性格を変えることを私は許さなかった。多くの党派的論争の的になっている問題に強い意見を表明する一方、私は、それなしではこの種の作品が永続的な価値を持つに至らない、完全な独立した判断力によってそれらを扱うよう努めた。また私は大学の代表権全般、特にダブリン大学の代表権を擁護する文章を削除する必要があるとも思っていない。この文章は、私自身の立場を擁護するためのものとみなされる可能性があるなどと考えもしなかったときに書いたものである。
数多くの異なる国の政界の現在の様相や傾向を扱う本の主な難しさは、扱うテーマが絶えず変化することである。著者の仕事は、常に形を変える雲を描く画家の仕事によく似ている。世界の大きな傾向はゆっくりと変化するが、議会や憲法における力のバランスは常に変化する。そして現代の立法の絶え間ない活動の下で、非常に多くのテーマは常に形を変えている。私はつい最近までのこれらの変化を追跡しようと努めてきたが、外国を扱う場合には、これは時に少なからず困難な問題である。そこで、もし私が常に完全に成功していなかったとしても、読者諸兄にはご容赦いただきたいと思っている。
第1章
19世紀後半の政治の最も顕著な特徴は、間違いなく、自由な政府において権力の中心が完全に置き換えられたこと、それに伴って議会政治の基礎であるべき原則の一般的な理論が変化したことである。それは文明世界の大部分に広がって、すべての深遠かつ広範囲な革命をもたらしたが、最も顕著な例のいくつかは、暴力行為や政府の外枠の変更なしに達成されたのである。私は別の著作で、18世紀のイングランド議会政府が主に基礎としていた指導原理を詳細に述べようとしたが、それはバークの著作に最もよく表現され、擁護されている。当時、ほぼ普遍的に、選挙権は自然権ではなく、便宜的な理由で、言い換えれば国家の利益のために、法律が付与した権利であると考えられていた。1688年の革命以来、庶民院は憲法の最も強力な要素であったため、憲法の中でこの組織の効率以上に重要なものはなく、議会改革の措置は、まさにこの目的に貢献したかどうかによって良し悪しが判断された。達成すべき目的は非常に様々であって、代表者の多彩さと多様さによって最もよく達成されるものだった。十分な知性と知識を持ち、国家における大きな権力を賢明に行使できる人々を結集する必要があった。国内に存在するさまざまな形や傾向の政治的意見が適切な比率で代表される必要があった。各階級の困窮に耳を傾け、各階級の不満を聞いて是正できるように、さまざまな、しばしば対立する階級の利益が、同様の完全さと比率で代表される必要があった。また、国の財産が特別かつ強力に代表されることが最も必要だった。議会は本質的に課税機関である。したがって、税金を納める者が決定的な発言力を持ち、税金を納める者が主に制御することが正義だった。課税と代表権の切っても切れない関係は、イングランド人の自由の概念の原動力そのものだった。本人の同意なしに課税されるべきではないというのが、アメリカ独立戦争の根底にあった原則だった。それは議会政治のすべての拡張の主な要因だった。また、最大の納税者である階級に最高権力を集中させる財産資格と選挙特権の真の防衛力でもあった。議会政治が―ある階級が別の階級が支払わなければならない税金について投票するという―隠された没収制度に堕落することほど大きな危険はないと考えられていた。
主たる政治権力は土地所有者にあるべきであるというのが、古来の代議制の根本的原則だった。土地を所有する人々がその土地を統治すべきであるという理論は、イングランドのトーリー党の多数派のみならず、ベンジャミン・フランクリンやアメリカ植民地の大勢の人々にも支持されていた。自由土地保有者は国内で、貿易や商業の流動的でしばしば一時的な利益とは大きく異なる、固定的で永続的で譲渡不可能な利益を持っていること、彼らの財産は国家の財産と何よりも不可分に融合していること、彼らが国家の幸福にとって最も不可欠な習慣と政策の健全な継続性を最大限に代表していることが主張されてきた。しかし、バークが指摘した通り、自治区(*borough)代表制の導入は、イングランド議会が自由土地保有者だけの律法機関になるつもりがなかったことを示していた。商業と貿易の利益も議会に座を占めており、(*名誉)革命後、その地位は非常に大きくなった。革命政府は、商業や貿易で大金を得た人々の手中にあった小規模で腐敗した自治区によって強化されていた。革命政府の政策は全体として、他のどの政策よりも決定的に商業的観点に導かれていた。そして、18世紀前半にハノーヴァー家を王位に留めたのは、間違いなく小規模自治区だった。
憲法の中で貴族の影響力は常に非常に大きかったが、絶対的なものではなかった。革命後の庶民院は貴族院よりも強力な機関だった。18世紀の最も強力な大臣(*大ピット)は平民だった。国内の大きな民衆運動は、後の時代ほど迅速かつ断固とした行動をとらなかったものの、立法府に影響を与えなかったことはなかった。一方、庶民院議員のかなりの割合が貴族院議員によって選出され、ほぼすべての大家が庶民院に少なくとも1人の代表者を擁していた。貴族は、地方の小ジェントリと貿易および産業の事業者の間の結びつきを作った。後者と同じく、前者とは違って、彼らは通常、革命によって確立された政治体制、ホイッグ党の利益、およびハノーヴァー朝の支持者だった。彼らは多くの場合、莫大な金銭的財産を有し、一般の田舎の紳士よりも幅広い興味とより国際的な嗜好を持っていた。そして彼らは商業階級とともに自治区内での権力を握っていた。彼らのうちの少数は商業階級から昇進した者や、婚姻によって商業階級と結びついた者だった。一方、彼らは主要な地主であり、地主階級の生来の指導者でもあった。
この制度は二つの立法府の調和を保証し、貴族の優位性は他の多くの利点をもたらしたと主張された。土地の所有は、他のいかなる財産よりも公務の遂行と結びついていて、大地主は自分の領地で、立法者に特に必要とされる種類の知識と能力を得るのに適した統治および管理を絶えず行っていた。この階級の人々は多くの欠点を持っているかもしれないが、少なくとも公務の管理において無謀で無責任な冒険家や不誠実な受託者ではないだろう。こんなことを言っても大したことを言ったことにならないかもしれないが、公務を誠実に、そして然るべき責任感とともに運営することに成功した国は、多くの国の繁栄を破壊した害悪を免れることができるだろう。何よりも、議会における貴族の地位は、少なくともイングランドの本物の事実と状況を反映するという利点がある、と主張された。通常、郡部の最も重要な人物は大貴族である。彼らは住民の生活と幸福に最も大きな影響を与え、地域的運動の主導的な役割を担い、一般の同意によって近隣住民に一種の監督権と優先権を行使している。したがって、彼らの階級が議会でそれに見合った影響力を発揮することは、代議制政治の原則に完全に合致していた。
これらのさまざまな目的を達成するための庶民院の選挙には、統一性と対称性が最も完全に欠けていた。選挙区の規模と資格の両方に大きなばらつきがあった。多くの場所で、議員は一人の人物、あるいはしばしば買収されやすい自由民の小集団によって選出されていた。他の選挙区には強い民衆的要素があった。場所によっては、スコット・アンド・ロット(*義務と権利)の選挙権がほとんど普通選挙に近いものになっていた。国のさまざまな地域で個々の有権者に与えられた政治的権力の差は非常に大きく、庶民院でさえ、ごく部分的にしか代表機関として機能していなかった。「庶民院の議席の約半分は、民衆の選挙によって獲得され、残りの半分は大地主の個人的購入、あるいは指名によって獲得される。」とペイリー(*ウィリアム、1743―1805)は書いている。1
1 「道徳哲学」2巻218頁。
後者の二つのクラスの議員が代表機関で大きな部分を占めていることは、多くの議論によって擁護された。小自治区は、議会を飾る並外れた才能を持つ人々の圧倒的多数を、通常は若い年齢で議会に送り込んできた、と言われてきたことは真実である。また、一級ではなくとも、窮乏、あるいは自身の性格の変化、あるいは人気のない宗教的信念、あるいは人生の大半を公務の無名の、あるいは辺鄙な分野で過ごしたという事実ゆえに、人気を要する選挙区では決して受け入れられないであろう、有用で経験豊かな多くの人々も送り込んできた。自治区の議席は閣僚たちにとって非常に価値があった。それは多忙な大臣に、あらゆる地方の要求や複雑さから解放された、安全で独立した議席を与え、彼が国の行政に全力を注ぐことを可能にし、選挙で失敗して、おそらく一時的な不人気に悩まされている同僚や貴重な支持者を議会に招き入れることを容易にした。18世紀の最高の思想家たちも、国会議員が単なる代表者に成り下がらないことを最も重要視していた。政策の大まかな方針と原則については、議員は有権者の感情を反映すべきであると理解されていた。しかし、バークや他の18世紀の政治家の意見によれば、議員が独自の判断を放棄して、政策の詳細について外部の指示に従い、庶民院外のデマゴーグや団体の単なる操り人形の立場を受け入れることが求められるなら、議会政治のシステム全体が堕落してしまう。大衆の支持に負う立場ではない大勢の人々が議会に存在することは、庶民院に独立的な要素を確保し、議会全体のトーンに影響を与えた。また、小自治区制度は権力を少数者の手に集中させ、内閣を大いに強化した。これによって、安定的で計算可能な力がもたらされ、多くの場合、特に外交政策において、計り知れないほどの価値を持つことがしばしばあった。権力の変動は、その後よりも頻度が少なく、激しくなく、気まぐれではなかった。閣僚たちは、波瀾万丈の運命と大きな闘争の絶えず変化する様相の中で、遠い将来にしか見返りが期待できない一連の政策について、議会の持続的な支持をより自信を持って期待できたのである。
この代表制は、ある政治的感覚のトーンによって支えられ、強化されていた。それはかつてそれが持っていた力を理解するのが今では少々難しいほどに完全に消え去ってしまった感覚―行政改革とは区別される、根本的な変化に対する強い嫌悪感であって、あらゆる政党の最高の政治家が絶えず説き続けていたものである。彼らは通常、実際的な弊害が生じた場合にはそれに対処する用意があったが、最も切実な必要性がない限り、立法機関自体に手を加えようとするいかなる試みには常に反対を唱えた。彼らは、憲法制度は国民の要求に応じていつの間にか成長してきたものであると信じていた。それは高度に複雑で繊細な制度であって、多くの異なる目的を果たし、多くの不明瞭で幅広い方法で機能しており、何らかの理論や思想のためにそれをバラバラにしようとしたなら、それは必然的に議会政治の崩壊につながると信じていた。その美徳の大部分は、それを取り巻く伝統的な敬意、その行動を統制する暗黙のルールと制約にあった。参照できる明確な成文憲法は存在しなかったが、暗黙の了解、伝統的な慣習、非論理的だが実用的な妥協がこれほど大きな役割を果たした政体は他になかった。
この政府に欠点や異常があったとしても、それは間違いなくうまく機能していたと主張されている。ここでペイリーの言葉をもう一度引用しよう。「何かもっと多くのものを得ようとする前に、すでに持っているものをよく考えてみよう。庶民院は548名の議員で構成され、その中には王国の有力な地主や商人、陸軍、海軍、法曹界の長、国内の要職に就く人々、そして知識、雄弁、活動力において名高い数多くの個人が含まれている。もし国がこのような人々の手に任せられないなら、誰に国益を託すことができるだろうか。もしこのような人々の多くが腐敗の誘惑を受けるなら、どのような人々の集まりが同じ危険からより安全だろうか。いかなる新たな代表制度が、より多くの知恵を集め、より堅固な誠実さを生み出すことを約束するだろうか?」1
1 「道徳哲学」2巻220、221頁。
18世紀のイングランド憲法の価値は、他の試金石でも明らかにされるだろう。この憲法の下でイングランドが大陸のどの大国よりも長い間、大きな繁栄、はるかに大きな安定した自由、はるかに公平な税制を享受していたことは疑いようがない。この政体の下で、イングランドは、長く争われた王位継承という危険な国内危機をうまく乗り越え、ルイ14世からナポレオンの時代まで、国外の第一級の危険にうまく対処したのである。その歴史は、決して過ちや災難に見舞われなかったわけではない。しかし、この政治体制の下でイングランドは広大なインド帝国を築き上げ、植民地を大幅に拡大し、組織化したのである。
世界に存在したもう一つの偉大な自由政府はアメリカ共和国である。そして、1787年と1788年の記念すべき憲法を起草した人々の目的と道徳的規範が、18世紀のイングランドの政治家のものとどれほど酷似していたかを観察するのは興味深いことである。採用された枠組みが非常に異なっていたことは事実である。真のバークの精神によって、アメリカの政治家は、歴史的すなわち伝統的な基盤を持たない国でイングランドのすべての制度を再現するのがいかに無益なことかをはっきりと理解していた。米国には立憲君主制や強力な貴族制を創設するための材料がなく、イングランドの議会政治を制限し統制していた伝統的な習慣や慣習の大部分が、新しい国で同じ力で機能することは到底不可能だった。他の手段を用いる必要があったが、目指したものはほとんど同じだった。権力を分割して制限すること、財産を保護すること、根本的な変化への欲求を抑制すること。個人の自由を大衆の専制から、また個人や階級の専制から守ること、アメリカの政界に継続性と冷静で穏健な自由の精神を吹き込むこと、これらがアメリカの偉大な政治家たちが掲げた目標であって、彼らはそれを大いに達成した。彼らは選出された大統領に、その短い在任期間中に、全体としてジョージ3世に劣らない権力を与えた。彼らは上院に貴族院よりはるかに大きな権限を与えた。彼らは明確に定義され成文化された憲法によって代議院の権力を制限し、とりわけ財産の保障、契約の神聖性、個人的および宗教的自由の主な形を、単なる議会の多数派が侵害する権限の及ばないところに置いた。彼らは、憲法を権威を持って解釈し、その権限を超える議会の法律を無効と宣言する権利を持つ最高裁判所を設立した。彼らは、憲法に二段階選挙の原則を大々的に導入することによって、一般選挙の激しい動揺を抑制し、あるいは抑制しようとした。そして彼らは、いかなる根本的な変化の導入にも非常に大きな多数派を必要とすることとしたため、圧倒的な世論の賛成がある場合を除いて、そうした変化は不可能になった。
参政権の問題を扱うとき、彼らは同じ精神で行動した。ストーリー首席判事(*ジョセフ、1779―1845)は、政治学に関するこれまでで最も価値のある本の一つでこの問題を扱っている。彼は、「選挙権は、他の多くの権利と同様に、自然法に確固たる根拠があるかどうかにかかわらず、国家の慣習において常に厳密に市民的権利として扱われ、各社会においてその状況と利益に従って派生し、統制されてきたものである」と論じている。自然権を根拠にするなら、女性の選挙権の排除や、男性が成人になる年齢の国ごとの恣意的かつ異なる定義を正当化することは不可能だろう。「ある社会が、自らの政策、便宜、正義に関する独自の見解に従って、投票者の年齢や性別を決定する権限を委ねられているのなら、同じ理由で投票者の権利、資格、義務を決定する権限がないと言えるだろうか?」このテーマに関する真実は「すべての時代とすべての国に当てはまる確実な規則はあり得ない」ということである。選挙権は、その国の独自の状況と特徴に応じて、ほぼ無限に変化するであろう。1
1 ストーリー(*ジョセフ、1779―1845)「アメリカ合衆国憲法に関する注釈」2巻55―58頁。
アメリカ議会はこの原理に基づいて行動した。植民地時代には「選挙権に関する統一規則は存在しなかった。植民地の中には…自由土地保有者だけに選挙権を与えるものもあれば、成人男性に与えてほぼ普通選挙を行ったもの、あるいはその間をとって納税と選挙権を関係させたり、選挙権をいくらかの地所の個人保有、あるいは自由人であること、あるいは町や自治体の自由土地保有者の長男であること、といった特権と結びつけたりしたものもあった。」革命で植民地が母国から切り離されてからも、同じ多様性が存続した。「ある州では、選挙権は一定期間の居住と納税に依存している。他の州では、市民権と居住にのみ依存している。他の州では、自由保有地、あるいは特定の価値の資産の保有、納税、民兵や幹線道路での勤務などの公務の遂行に依存している。これらの州憲法のどの二つをとっても、同じ統一的基準で投票資格を定めているものは見当たらない。」共通の原則に基づいた統一的投票システムを確立する提案が、1787―88年の憲法を作成した憲法制定会議に提出された。しかし、十分な議論の末、既存の相違点はそのまま残し、各州に選挙権システムを自由に統制する権限を与えることが決議された。そこで定められたのは、各州の下院議員の選挙人は、州議会の最大会派が選挙人に不可欠と定めた資格を持っていなければならないということだけだった。実際のところ、長年にわたってほとんどの州で選挙人には財産資格が必要とされており、選挙システムの多様性は小さく、あったとしてもイングランドよりも少なかった。連邦議会と違って、いくつかの州議会では、議員に財産資格が要求されていた。また連邦議会の議席数は直接税の比率に従って配分されていた。1
1 ストーリー、2巻59―66、95、96、106頁。
さて、二つの大きな英語圏のコミュニティからフランスに移るなら、そこにはルソー(*ジャン=ジャック、1712―1778、哲学者)に最も強い影響を受けた別の思想があることに気がつく。ここでルソーの政治理論や、その理論が示す多くの矛盾点について一般的な検討に入る必要はない。彼の教えの中で最も影響力があって、今や私たちが特別な関心を寄せるのは、選挙権に関する部分である。彼は絶対的な政治的平等こそが政治的自由の必須条件であって、憲法は権力の多様性や、階級や利益の代表の存在を許すべきではないと主張した。すべての人が選挙権を持つべきであって、その投票の価値は同じでなければならない。議員は選挙区の絶対的な管理下にある使節にすぎず、コミュニティ全体から直接承認されていない法律は拘束力を持たない。彼のシステム全体は、自然権と譲渡不可能な権利という概念に基づいていた。
こうした見解は、フランスの法律にすぐには反映されなかった。1789年に開かれた三部会では貴族と聖職者は身分ごとに、それぞれ直接投票して彼らの代表者を選出した。第三身分については二段階選挙制度が採用された。選挙人自身が、定住していて直接税を納めている25人の男性という、非常に広い選挙区から選出されたのである。1791年の憲法でも二段階選挙は維持された。初期議会の選挙権は何より、少なくとも労働価値3日分の直接の寄付をした「活動的な市民」に限定された。一方、彼らによって選出される、代議員の選挙人の男性は相当の財産資格を求められた。これは選挙区の規模と財産の性質に応じて、労働価値500日分から100日分までさまざまだった。しかし1792年に立法議会は、二段階選挙制度という条件付きではあったものの、男子参政権をほぼ確立した。選挙権は財産および納税と無関係になった。県内に1年間居住している、家内労働者以外の21歳以上のフランス人男性はすべて、初期議会に投票することができた。選挙人にも代議員にも、25歳に達していること以外の資格は必要なかった。この制度の下で―歴史上最も血なまぐさい専制的な議会である―国民公会が選出されたのである。(*その後)1793年6月の憲法は、民主的平等の仕事を完成した。国民公会は「すべての市民は、法律の制定および代議員あるいは代理人の指名に同意するための平等な権利を有する」と定めた。「主権者は一般のフランス国民である」そして「国民は自らの代表者を直接指名する」と規定した。人口が国民の代表権の唯一の基準とされた。選挙区内に6か月間居住した21歳以上の全国民が選挙権を持ち、選挙民4万人ごとに1人の議員を選出する権利があった。この憲法自体が、直接普通選挙に付託され、批准された。
この憲法が制定された年は、フランス史上最も悲劇的な年の一つだった。それは、古来の王政が打倒され、国王と王妃が処刑台に連行され、フランス国民の華がギロチンで斬首され、あるいは亡命者としてヨーロッパ中に散らばり、イングランドとの戦争が始まった年であって、それは一度の短い中断を挟んで20年以上も続いたのである。
1793年の憲法は結局発効しなかった。それは戦後まで延期されることになったが、そのずっと前にフランスの状況は完全に変わってしまっていた。1794年のジャコバン派の没落はすぐに選挙権の制限と旧二段階選挙の復活につながった。そして革命の恐怖に対する強い反動でフランスは着実にナポレオン(*ボナパルト、1769―1821)の絶対的専制に移行していった。国会議員の直接選挙制度は1817年までフランスでは確立されず、1793年の国民公会で定められた普通選挙は1848年まで復活しなかった。しかし、憲法のそれぞれの変更は直接国民投票によって承認されるべきであるという理論がより活発になった。歴代の政府はすぐに、国民投票が強力な行政機関によっていかに容易に確保され、指示されるか、そしてそれが権力の簒奪を隠蔽あるいは正当化するためにいかに有用であるかを知るようになった。総裁(*5人、任期は5年)の権限を創設した1795年の憲法、10年の任期で選出される3人の執政官に行政権を委ねた1799年の憲法、ボナパルトを終身執政官とし、選挙制度を再度改革した1802年の憲法、1804年に樹立された帝国、および1815年にナポレオンによって公布された憲法の追加法はすべて、直接国民投票にかけられたものだった。1
1 ジュール・クレル(*1850―1934、ジャーナリスト)「普通選挙の歴史」12―30、33頁、ラフェリエール(#)「1789年以降のフランス憲法」を参照。
1830年のフランス(*7月)革命と1832年のイングランドの(*選挙法)改革法案によって、政治権力の大きな転換がもたらされた。トクヴィルは最近出版された本の中で、1830年のフランス革命の真の意義が中流階級、つまりフランス語で言うところのブルジョア階級の完全な台頭であったことを非常に明確に示している。その後18年間、すべての政治権力、選挙権、特権がこの階級に集中し、その善と悪がフランス政治のあらゆる分野に浸透してそれを支配した。そして、幸運な偶然であるが、国王の精神と性格は、国民の代表者たちと完全に一致していた。1 立憲政治はこれらの年月の間、忠実に、ある点では見事に遂行された。しかし、それは数多くの腐敗に汚染され、25万人をはるかに下回る有権者に依存していたのである。
1 「トクヴィル回顧録」5―7頁。
イングランドでは、1832年の改革法案によって同様の、しかしそれほど決定的ではない影響力が確立された。この措置には数多くの原因が寄与していたが、その中に他のすべてより優勢だったものが二つあった。一つは産業的および地理的要因、もう一つは政治的要因である。18世紀の偉大な製造業の創出によって地方都市に膨大な数の代表権を持たない世論が生まれ、人口の重心が島の南部から北部に移ったために、部分的に古い権力の中心が衰退し、部分的に新しい権力の中心が誕生したために、イングランドの代表制度の不平等性と異常性は著しく高まった。一方、フランス革命後にイングランドに広がったトーリー主義の大波によって、支配階級はあらゆる変化、特に議会改革のあらゆる措置を非常に嫌悪するようになった。新しい人口の中心にウェストミンスターに議員を派遣するよう勧告することは王室の特権だったが、ずっと前に完全に廃れていた。ピットは1783年と1785年に、代表権の不平等の拡大に対処し、腐敗選挙区を徐々に縮小する計画を立てたが、その計画は失敗に終わり、ピット自身も改革の方針を放棄した。
フランス革命の惨禍の後、反改革派がイングランド国民の真の感情を忠実に代表していたことは疑いようがなく、戦争が続いている間、議会改革に抵抗した閣僚たちにはいかなる非難も向けるべきではない。しかし、その時期が終わってからの数年間、国内政治は不適切に運営されて、改革派は着実に勢力を伸ばした。フランスの恐怖政治がもたらした反動は、その力を使い果たしていた。物価の急落、戦時税の莫大な負担、工場システムの拡大、そしてそれに伴う産業の広範かつ苦痛に満ちた変革によって生じたさまざまな悲惨と不満は、政治的意見に多大な影響を及ぼした。ジョン・ラッセル卿(*1792―1878、首相、ホイッグ党)は議会改革を、普通選挙、選挙区改革、投票による採決という急進的な計画から切り離し、ひどい汚職で有罪とされた小自治区の選挙権を剥奪し、その議席をリーズ、バーミンガム、マンチェスターを始めとする代表権を持たない大都市に移すという賢明な政策を繰り返し提案した。このような政策が、適切な時期に採用され、着実に実行されていたなら、大きな包括的な変化は長きにわたって避けられたかもしれない。しかし、それは頑固に抵抗された。数多くの失敗、そしておそらく和平の確立によって、トーリー党が戦争の遂行によって正当に得た評判は薄れてしまった。一方、戦争初期に党員の大部分が極めて非愛国的な行動をとったためにホイッグ党が被った、同様に正当な不名誉は消え去った。新しい指導者のほとんどは、こうした過ちに加担せず、フランスへの共感や革命の理論に染まらず、自分たちの反対者たちと同じくらい国民感情を忠実に反映した人々だった。
カトリック解放(*1829年カトリック教徒救済法)の勝利は、変化を大いに加速させた。カトリック問題は長年、主に世論が集中していた問題だった。経験によれば、イングランドにおいて大きな根本的変化を起こすために必要な世論の力は、二つのまったく異なる問題について、決して同時に喚起できない。実際、カトリック解放自体にはまったく関心のなかった非常に鋭い評者の中には、いったんそれが実行されたなら、国の熱意が改革の方向に流れ込むと見て取ったため、一貫してそれに抵抗した者もいた。1
1 ラッセル卿は、これがロンズデール卿(*ウィリアム・ローザー、1841―1845、庶民院議員、トーリー党)がカトリック解放に反対する理由として常に個人的に挙げていたことである、とよく話していた。彼はこの措置には関心がないが、もしそれが実行されたなら、改革を求める声に抵抗するのは不可能なことが分かっている、と言っていた。
カトリック問題の解決後、ホイッグ党はもはや反カトリックの偏見と戦う必要がなくなり、その民主的傾向が自然に与える人気をすべて獲得し、プロテスタントの完全な支持を得た。ホイッグ党の大義は勝利した。そして、それはトーリー党政権の法令によって勝利したのである。この闘争は明らかに組織化された大衆扇動が議会に及ぼす強制力を示していた。トーリー党は敗北し、分裂し、信用を失い、意気消沈した。そして新しいアイルランドの改革派が議会に招き入れられた。改革を求める声はますます大きくなり、フランスにおけるこの大義(*7月革命、1830年)の勝利はそれを大いに後押しした。
こうしたすべての影響の下で、議会改革を支持する世論の運動が生まれたが、それは自発性と力強さにおいて、おそらくイングランドでかつて類のなかったものだった。国は一時、革命の瀬戸際にあったように見えたが、その措置はついに実行された。同時代の多くの人々にとって、腐敗選挙区の消滅と貴族階級の庶民院に対する支配力の消滅は、イングランドの議会制度の破滅のように思われた。しかし、この大改革を主導した人々は真の愛国者であって、イングランドの最良の政治哲学に深く染まり、フランスの自由の使徒たちへの共感からは可能な限り距離を置いていた。議会政治が揺籃期にあった当時でさえ、秩序ある永続的な自由のためには政治権力の不均等な分配が必要であるというイングランド人の感情がどれほど深く根付いていたかに注目するのは興味深いことである。この気持ちを、ユリシーズの口に託された高貴な言葉で、シェイクスピア以上にうまく表現した人物はいない。
秩序が覆い隠されている時、
最も価値のないものは、仮面をつけて美しく見える。
天空そのもの、惑星、そしてこの大地は、
秩序、優位、地位を観察している。
・・・・・・・・・・・・・
ああ!すべての高い計画への梯子である、
秩序が揺らぐとき、
大きな事業は病む。社会、
大学の学位、都市の兄弟愛、
海を挟んだ平和な貿易、
長子相続権、出生による権利、
年齢による特権、王冠、王笏、月桂樹は、
秩序なくして、確かな場所に立てるのだろうか?
秩序を取り去って、弦の調律を外してみよ、
そして、聞け!どのような不協和音が聞こえるかを!それぞれが
ただ反発してぶつかり合うばかりである:かつて境界を知っていた海は
その水面を岸より高く上げ/
そして、この固い世界のすべてをぐしゃぐしゃにしてしまうだろう。
強さは愚かさを支配し、
そして頑健な息子は父親を殴り殺し/
力は善いものとされるだろう。あるいは善悪は
(それらの果てしない争いの間に正義が存在するのだが)
それらの名前を失うだろう、そして正義もそうなるだろう。
すると、すべては力に飲み込まれ、
力は意志に、意志は欲望に飲み込まれる。
そして欲望、万人の胸に潜む狼は、
意志と力によって二重に支えられて、
否応なしに万物を餌食にせずにおかず、
そして最後には自らを食い尽くしてしまう!
1 トロイラスとクレシダ、1幕3場。ミルトンはこう言った―
「万人はたとえ平等でなくとも、自由である/階級や身分に応じて。自由と衝突せず、うまく調和せよ。」
「失楽園」5巻1章791節。
ミルトンはこれらの詩を悪魔の口を借りて書いているが、イングランドの宗教改革に関する論文では、非常に似たような感情を自らの口で表現している。「イングランド共和国(*1649―1660)ほど、神聖で、良く調和して、正義の手と天秤によって均衡が保たれた政体は、スパルタにもローマにも存在しなかった。…それは、断固とした純朴な主権者(*クロムウェル)のもと、最も高貴で、最も価値があり、最も賢明な人々が、人民の完全な承認と投票を得て、最も重大な事柄の最高かつ最終的な決定権を握っているからである」(2巻)。イングランドの詩人の(*ピューリタン的)政治的見解については、ヘンリー・テイラー卿の「批評的エッセイ」の興味深い序文を参照のこと(「作品集」5巻11―19章)。
改革法案がイングランドの政治権力の中心を変えたことは間違いないが、旧制度の主要な特徴は破壊されずに残された。選挙区は依然として規模と人口が大きく異なっていた。王国のさまざまな地域において選挙権は大きく異なっていた。すべての旧権力と影響力は保持されたが、その重みの割合は変化した。貴族院は依然として憲法の重要な要素だった。地主階級は郡部の選挙区で依然として強力だった。財産は特別かつ強力な代表権を持っていた。そして改革法案はこれまで代表されてこなかった大量の財産と大きな人口の中心を憲法の枠内に取り込んだ。今や政治制度の中で最も強力になった中流階級は、立派に統制力を任せられる階級だった。アリストテレスはずっと以前から、社会のこの層に政府の最高権力を与えるのが最も賢明かつ最も有益なことであると指摘していた。彼らは新しい考えに最も敏感な人々でもなければ、大事業に最も傾倒する人々でもないが、政治的独立性、用心深さ、確かな実践的知性、堅実な勤勉さ、道徳的平均値の高さにおいて、どの階級よりも際立っている。またその失政が無謀な冒険や浪費の形をとるにせよ、あるいは革命的な立法という、それほど危険ではない形をとるにせよ、おそらく他のどの階級よりもその影響をより早く、より痛烈に感じるのは彼らである。それは確立された産業を混乱させ、資本を他国に追いやり、商業システム全体が究極的にその上に成り立たねばならない国家の信用を損なうからである。
しかしイングランドでは、中産階級は1832年以降最も強力になったものの、フランスのような絶対的な権力を持っていなかった。実際の運営は主に上流の最も教養ある階級が担っていた。主な支配力は中産階級の大物にあって、主として彼らの願望と傾向に従っていた。同時に選挙権は、少なくとも熟練工―あらゆる秩序ある政治において紛れもない地位と利害関係を持つべき大いなる知的階級―の手が届くように整備されていた。
1832年の改革法案から1867年の改革法案までの間のイングランド憲法より優れた憲法は、世界にかつて存在しなかったと私は思う。これほどの多くの才能を擁し、大国のさまざまな利益や意見をこれほど忠実に代表し、数多くの困難な状況下で政治的純粋さと愛国心をより高く維持した議会政治はほとんどなかった。当時の選挙民は、世論とほぼ合致していた。事実を正直に直視する人物なら誰しも、国の世論は、それを構成するすべての個人による投票とはまったく異なるものであることを確信できる。どの国にも、世論にまったく貢献しない人々、公共の事柄について真剣に考えたことがない人々、公共の事柄に自発的に関与したいと思わない人々、そうするように促されたなら、別の階級の個人や組織の完全な指示に従う人々が大勢いる。地主、聖職者、非国教徒の牧師や司祭、地元の扇動者、あるいは酒場の経営者が彼らに投票を指示する。そして純粋な民主主義では、こうした票を勝ち取る技術が実際の政治の主要部分の一つになるだろう。
そのことのために、さまざまな動機が利用される。有権者は、直接買収されたり、直接脅迫されたりすることがある。金や酒のために、あるいは自分より力のある誰かの好意を得たり不興を招いたりしないために投票する。借地人は地主のことを考え、債務者は債権者のことを考え、店主は客のことを考える。貧しく苦労している人物が、自分がまったく関心も知識もない問題について投票するよう求められた場合、そのような要因に左右されたとしても、強く責められるべきではない。階級的貪欲に執拗に訴えたなら、さらに多くの票が獲得できるだろう。デマゴーグは、特定の政策路線に従うことによって、自らの階級のすべてのメンバーが何らかの利益を得られると有権者を説得しようとする。彼は自分のすべてのユートピアを奨励する。契約の破棄や、課税と課税権の移転や、政府の父権的機能の拡大によって、ある階級の財産の一部が他の階級に移るかもしれないという希望を提供する。彼はまた階級間の警戒心や反感に執拗に訴え、しばしば成功するだろう。階級同士の傾向や雇用者と被雇用者との関係から自然に生じるすべての分裂は、熱心に煽られるだろう。妬み、貪欲、偏見は、政治宣伝の大きな力になるだろう。あらゆる本物の不満は悪化するだろう。あらゆる是正された不満は復活するだろう。あらゆる想像上の不満は奨励されるだろう。最貧層、最多数、そして最も無知な階級に、より少数の階級を憎むように説得し、彼らに損害を与えるためにだけ投票させることができれば、党幹部は目的を達成したことになるだろう。多数を少数に対立させることが、選挙運動員の主な目的になる。教育が進歩するにつれて、この目的のためにだけ作られた新聞が生まれ、多くの場合、多数の有権者が読むほとんど唯一の新聞になる。
最も無知な階級が自分の意見を持っているとすれば、それは最も漠然とした、最も子供じみた性質のものだろう。個人的な覇権が終了しても、党派的色彩はしばしば生き残る。そして真の安定をもたらす数少ない要素の一つになる。人は、その色彩にどのような原理が関係しているかをあまり考えることなく、父親がそうだったように、青(*トーリー)か黄色(*ホイッグ)に投票するだろう。階級や信条のいくつかの強い偏向は、しばしば大きな活力を発揮する。また、大勢の人は当然ながら、いわゆる「回転木馬方式」で投票するだろう。これらの人々は、彼らの番は終わった、今度は他の人々の番だと言うだろう。この潮の満ち引きは、見解のあらゆる変遷とは別物で、政府の政策の良し悪しとはまったく関係ない。しかし近年、ほとんどの選挙区で顕著かつ重要な要素になって、選挙の結果に大きく関わっている。困難な時期には、潮の流れや逆流は大幅に強まる。政府が惑星の運行に及ぼせる以上の影響を及ぼせない不作や、その他の災害は、しばしば悩ましい投票を支配する不満を生み、ほぼ均衡した選挙で形勢を逆転させるかもしれない。すべての総選挙において、多数の議席がわずかな多数票によって失われたり獲得されたりするが、私が述べたような影響力によってそれが決定される可能性がある。
こうした動機から投票する人々は、しばしば社会の最も有用な一員である。彼らは、真面目で、正直で、勤勉な労働者であり、優れた父親であり、夫であり、必要とあれば立派な兵士になることができる。また、彼らは、自分の考え、環境、直接の利益という狭い範囲の中では、かなりの抜け目のない判断力を発揮する人々であることが多い。しかし、彼らは、外国、インド、アイルランド、植民地政策という大問題、憲法改正の複雑で広範囲にわたる影響、あるいは総選挙の要となる商業政策や金融政策に関する大問題に関しては、子供のように無知である。もし彼らがこれらの問題について投票するよう求められた場合、彼らの決定が確固とした信念や本当の知識を表していないことは間違いない。
もう一つの、まったく異なる階級があって、それは主に都市部に見られる。あらゆるジンショップのドアの周りを物憂げに徘徊しているタイプの人々―つまり、酩酊、怠惰、不誠実ゆえに人生の競争に敗れ、正直で継続的な仕事に対する嗜好をまったく持たないか、まったく失っており、犯罪者になる瀬戸際にだらしなくぶら下がっており、主にその中から犯罪者を排出する人々―である。彼らは本当の労働者ではないが、彼らの存在はすべての労働問題における主な困難と危険の一つになっている。そしてあらゆる革命と無政府状態の時期に彼らは突如として活動に駆り立てられる。投票資格が非常に低いとき、彼らは多くの選挙区で重要な要素になる。知識も人格もない彼らは本能的に、与えられた権力を略奪的かつ無政府的な目的のために使うだろう。社会を解体し、人生における良いものの再分配を受けることが、当然彼らの目的になるだろう。
これら二つの階級は、間違いなく昔から選挙民の一部だったが、その割合が小さかったため、憲法の仕組みを深刻に混乱させたり、候補者の手法に影響を与えたりすることはなかった。しかし、その数が非常に多くなれば、彼らは当然政治家の行動全体を変えるだろう。そして無知で影響力のある均質な有権者の大集団によってさまざまな真実の意見が埋もれたり圧倒されたりして、議会の代表性が深刻に損なわれる危険がある。真摯な観察者たちの間では、この種の兆候が1867年の改革法案以来イングランドの政治に現れ、増大しつつあるという確信がますます高まっていると私は信じる。イングランドの古来の健全な力は間違いなくまだ機能しており、重要な機会にはおそらく圧倒的な力を発揮するだろう。しかし、それは平時にはより弱々しく不確実に機能し、気まぐれな衝動や理不尽な変動に圧倒されやすい。現在の政治の悪の中の悪は、選挙民はもはや完全に信頼できないこと、彼らの権力がほぼ絶対的なものであること、彼らが帝国の安寧をほぼ完全にコントロールしていることである。
現代の政治における大きな分裂の一つは、最終的に世界を無知によって統治すべきか、それとも知性によって統治すべきか、ということになりつつある。一方の党派によれば、優越的権力は教育と財産のある人々に属するべきである。他方の党派によれば、究極の権力の源泉、要求と監督の至高の権利は、頭数で決められる国民の多数派—言い換えれば、必然的に最も数が多い、最も貧しく、最も無知で、最も無能な人々―に属するべきである。
これは人類の過去のすべての経験を確実に覆す理論である。人間の事業のあらゆる分野、人生のあらゆる競争において、自然の不可避の法則によって、少数の者が優位に立ち、多数の者は優位に立たたない。そして主に少数者の手に指導力と統制力を握らせることによってのみ、成功が得られるのである。すべての階級の利益が立法府で代表されるべきであること、知性のみならず数も政治において何かしらの発言権を持つべきであることは、まったくの真実である。しかし、人間を統治することが他のあらゆる人間の営みと本質的に異なるものでない限り、最も知性の低い階級の直接の統制下に置かれたなら、それは必然的に劣化する。近年、イングランドが大きくこの方向に動いたことには疑いの余地がない。しかし、選挙民の無知が増すにしたがって代表機関の統治能力は優れたものになる、世界を改善し、合理的な進歩を確保する最善の方法は、政府をますます最も無知な階級の支配下に置くことである、という考え方ほど非合理なものは古代の魔術にもなかったことは確かである。そのような理論が自由主義的で進歩的であると見なされたことが、人類の愚行の歴史の中でも最も奇妙な事実の一つとされる日がいつか来るだろう。ヘンリー・メイン卿(*1822―1888、法学者)の言葉を借りれば「適切な教育を受けた人なら誰でも、過去2世紀の科学的発明と社会変革の偉大な時代を思い起こし、普通選挙が確立されていたなら、それらに何が起こっていたかを考えてみるといい。今日、米国で自由貿易を排除している普通選挙は、間違いなくジェニー(*多軸)紡績機と動力織機を禁止していただろう。間違いなく脱穀機を禁止していただろう。グレゴリオ暦の採用を阻止し、ステュアート朝を復活させただろう。1780年にマンスフィールド卿の邸宅と図書館を焼き払った暴徒とともに、ローマカトリック教徒を追放していただろう。そして、1791年にプリーストリー博士の家と図書館を焼き払った暴徒たちとともに非国教徒を追放しただろう。」1
1 メイン著「民衆の政府」35―36頁、
イングランドにおいて、ルソーの「数の万能」と「政治的平等の至高の美徳」という理論が、かつてイングランドの自由の拠り所だったすべての古い格言に置き換わりつつあるのを観察するのは、奇妙で憂鬱なことである。私は、連合王国に存在した選挙資格の大きな不平等について述べた。それらは代表者の性格の健全な多様性を確保し、さまざまな政治的進歩の度合いに、大雑把ではあったが、全体として忠実なものだった。町には一つの選挙権、地方には別の選挙権があった―イングランドには一つの選挙権、アイルランドには別の選挙権があった。こうした多様性は今やすべて一掃された。アイルランドの例は特に重要である。アイルランドは帝国議会に大幅に過剰な議員を送り込んでいた。アイルランド代表は議会の病んだ部分、議会の健全な活動に最も敵対する不満分子、妨害分子だったというのは衆目の一致するところである。また、アイルランドの選挙資格の引き下げによってその弊害が甚だしくなり、帝国の利益と完全に相容れず、議会の品位と憲法の維持にまったく無関心な大勢の人々が議会に加わるのは、絶対に確実なことだった。アイルランドを知る者なら、それが司祭と扇動者の影響下にある、貧しく無知で不満を持った農民の手にさらに大きな権力を渡すこと、忠誠心、財産、知性が弱まり、実質的に多くの地域の参政権を奪うこと、階級の分断を深めること、穏健で誠実な自治政府の樹立を極めて困難にすることを誰も疑わなかった。実際、アイルランドはイングランドよりも高度な選挙によって政治の良い成分を集めなければならないというのは何よりも確かなことである。アイルランドに選挙資格の引き下げを導入し、実行した人々は、自分たちが何をしているかを完全に自覚していた。彼らは目を見開いて行動していた。彼らは社会契約論(*ルソー)の真の精神によって、政治的不平等が続くことを許さないという主張で自らを正当化し、おそらく党派のゲームで良いカードを切っていると信じていたのである。
今や非常によく似た例が、大学の代表権についての急進的党派の一般的な発言にも見出せる。代議政治に関するどれほど真っ当な理論にも、これほど賢明な代表権はない。ここでもう一度アイルランドを例にとってみよう。三つの州の忠誠心と知性の適切な代表権ほど、明らかにアイルランドの代表権に欠けているものはない。忠誠心と教養の高い人々は豊富に存在する。そして、ほとんどすべての産業、事業、慈善において、彼らは主要な地位を占めている。しかし、彼らは政治的代表権においてそれに一致した重みを持っていない。なぜなら、彼らは通常、無知で影響されやすい農民のために身動きがとれなくなっているからである。アイルランドの大部分が純粋に農業的な性格を持ち、その州政府の置かれた町のほとんどが着実に衰退しているため、アイルランドの自治区はその大部分が極めて小さく、取るに足りないものである。これらの自治区の中の主導的な地位は、一つの大学選挙区に与えられなければならない。この偉大な大学は、何世代にもわたってアイルランドの知性の華を教育してきた。この大学は、他のどのアイルランド選挙区よりも数多くの、際立った才能を持つ代表者を帝国議会に送り出してきた。この大学には4,300人以上の選挙民がいる。従って数の上でも、アイルランドの多くの自治区よりはるかに大きな存在である。また、その有権者は国土全体に散らばって、多くの職業や産業で指導的役割を果たし、まったく異例なほどに多様な利益、階級、意見と密に接している、高度な教育のある人々で構成されている。代表権の目的が、コミュニティの多様性と、その意見、利益、知性を適切な割合で忠実に反映することなら、どの選挙区が、より本質的かつより有益な代表者を選び得るだろうか。しかし現在、アイルランドの党派の相対的な強さを計算する際、大学の代表は「国民を代表していない」ため、差し引かなければならないと言われている。この尊厳はどうやら―5人に1人以上が投票用紙に書かれた名前すら読めないとされる―文盲の人々により真に属するようである。1 彼らは西部のどこかの辺鄙な地区や、どこかの衰退しつつある田舎町で、扇動者や聖職者によって羊のように投票所へと追い立てられているのである!
1 「1892年の総選挙(1893年2月)で投票した文盲の人々の数についての報告書」
大学の代表権に対するこうした攻撃の愚かさを誇張することは不可能である。そして、攻撃者たちが無知な正直者だったと言い訳できることは稀である。その大勢の、真の動機は単に自分たちの政策に反対する議員を選出する選挙区を消滅させたいということである。同時に、偉大な知性の中心を軽視することによって、より無知な有権者に媚びようとしているのである。政治の分野において、卑屈さやへつらいは、もはや王や貴族へのお世辞という形では現れないというのは、決して忘れてはならない真実である。権力の足元にひれ伏すという古来の本能に忠実に、政治は今、別の殿堂に敬意を表している。かつては皇帝や王子の寵愛を得て権力を獲得しようとビザンチン風の追従をしていた人々が、今では特権の不当性を演壇で演説し、大衆の比類ない知恵と高潔さを称賛し、組織的に彼らの情熱や嫉みをかき立て、賄賂や追従によって彼らを味方につけようとしている。イングランド政治における教育と知性の影響力を減らそうと全力を尽くしている人々の多くは、非常に高い教養を持つ人々で、今の彼らがあるのは大学教育のおかげなのだが、彼らは今—大抵は不器用に、無理な努力をして―俗悪なデマゴーグのわめき声を真似ている。彼らは公職の中で自分の方針を貫き、そのうちの何人かは目的を達成した。彼らの報酬の大部分を正直者としての尊敬が占めるとは思えない。
現代のイングランドにおいて、教育に対する極度の熱意と、より教養ある階級の意見に対する完全な無視がいかに頻繁に結びついているかを見るのは興味深いことである。財産の影響力に反対する運動は、少なくとも教育の影響力に反対する運動と同じくらい強い。現在、その主な運動の一つは、複数投票に対する抗議である。いくつかの郡や町に財産を持つ大地主が、財産を持つ選挙区ごとに投票権を持つことは、濫用であり不当であると非難されている。少なくとも私には、そのような取り決めは、最も自然で、適切で、公正であるように思われる。これらの各地域に、有権者は相当の物質的利益を持っている。それぞれの地域で、有権者は税金を支払い、それぞれの地域で公務を遂行し、それぞれの地域で地主あるいは労働者の雇用主として、地元での影響力を発揮しているだろう。有権者は各選挙区で、地元の慈善活動、地元の運動、地元のビジネスに参加し、それぞれにおいて明確に認識された、しばしば非常に大きな勢力を代表している。各選挙区において彼が政治的代表権についての発言力を持つべきであるという以上に合理的なことがあるだろうか。一つの選挙区を除くすべての選挙区で、最貧の日雇い労働者に与えられているわずかな政治的権力すら、彼には拒否されるという以上に不合理なことがあるだろうか。ミル(*ジョン・スチュアート、1806―1873)と他の普通選挙の支持者たちは、すべての人が投票権を持つべきだが、複数投票権を大幅に拡大し、特別な資格を持つ者に特別な特権を与えるべきであると主張してきた。民主主義が優勢な状況では、そのような特権を制定することは困難であって、おそらく維持することはさらに困難だろう。しかし、財産と関連した複数投票権は、国に長く定着している習慣に根ざしたものであり、その影響力はそれほど大きくないが、立法府を国内勢力の真の姿とその反映とし、単純な数の専制を緩和するためにいくらか役立つだろう。
別の種類の例をもう一つ挙げてみよう。読者には想像の中でギルドホールやセントポール大聖堂に身体を置いて、この中心地から1平方マイル以内にあるすべてのものについてしばらく考えていただきたい。おそらく地球上でこれほど多くの形と要素を持つ権力が集まっている場所は他にないだろう。その狭い空間に集中しているすべての富、すべての種類の知識、すべての種類の影響力と活動に想いを馳せていただきたい。帝国の最も遠い地域では、進取の気性と独創性を持つ人々がロンドンのシティに助けを求める。ロンドンの繁栄の高下は文明世界の最も遠い場所でも感じ取られる。ロンドンに何らかの恩恵を受けていない政府はほとんどなく、その作用は文明をはるかに超えて、未開の部族や未開の砂漠にまで広がっている。ロンドンは帝国の偉大な心臓部であり、帝国のすべての部分と緊密で絶え間ない活発な通信を続けている。しかし民主主義の理論によれば、シティの1平方マイルは、政治システムにおいて、ステップニーやシャドウェル(*ともにロンドン郊外の地域)の1平方マイルとまったく同じ重みしか持たないということである。物事の現実とこれほど明白かつグロテスクに矛盾する代表権の理論が、実際に存続する見込みがあるなどと、誰が考えられるだろうか?
あらゆる課税を単なる数の多数派の意志に完全に従わせるという目標は、まだ完全には達成されていないが、明らかにその方向に進んでいる。数年ごとに、投票資格の低下、(*貧困者の投票を管理する)職権上の貧困者後見人の廃止、複数投票の廃止、財産資格の廃止あるいは弱体化など、これに向けた何事かが行われている。必然的な結果は、ある階級に、そのほとんど全てを他の階級が支払う税金についての投票権を与えることである。そして主な納税者は完全に身動きが取れなくなって、すべての現実的な目的についての選挙権を完全に奪われてしまう。すでに述べたように、以前の世代ではブリテンの自由の最も基本的な原則と見なされていた課税と投票に関する原則の、これ以上露骨な放棄を考えることは難しい。この目的のために着実に努力している人々が、18世紀の貴族がアメリカにその同意なしに課税しようとした不正義を非難しているのを見るのは奇妙なことである。民主主義が最大限に推し進められると、国全体の財産が最貧困層の手に渡り、彼らに自らを助ける無制限の力を与えることになる。同時に、その影響によって、政治的行為の俯瞰的考察の効果は着実に減弱している。当然のことながら、このような制度の下ではあらゆる経済的拘束が弱まって、政府の活動と支出の範囲は急速に拡大する。しかし、特別な天然資源を持たず、そのほとんど独特な経済的地位を主に動産の膨大な蓄積と、安定した富だけがもたらす国家の信用に負っている国には、単なる浪費や不公平な課税よりもはるかに深刻な弊害が差し迫っている。
偉大なドイツの歴史家ジイベル(*ハインリッヒ・フォン、1817―1895)は「結果として、普通選挙の実現は、常にすべての議会制度の終焉の始まりだった。」と述べている。政界の最も真剣かつ冷静な観察者の大多数は、着実に同じ結論に達しつつあると私は信じている。主に教養ある資産家階級によって運営される議会政治と、純粋な民主主義的基盤の上に立つ議会政治は本質的に異なる。この政体が目覚ましい成功を収めたすべての例において、代表機関は制限選挙で選出されていた。これは明らかに過去のブリテン議会に当てはまる。1859年の戦争後およびカヴール(*カミッロ、1810―1861、政治家)の死後、非常に優れた知恵と忍耐力を示したイタリア議会、オーストリアを反動的な専制国家からヨーロッパで最も統治の行き届いた国の一つに変貌させた、並外れて賢明で穏健な立法を行ったオーストリア議会、激しい宗教的敵意にもかかわらず、フランス語圏の住民による憲政を樹立し、根本的な変化なしに60年間存続し、より優れた近隣諸国もまったく敵わなかったベルギー議会、自治が地球上のどの地域よりも長い間完全に達成されている国を代表するオランダ議会は、すべて非常に高い投票資格の下に選出されたものである。これらの国はすべて、ここ数年の間に民主主義の実験を始めたか、今まさにその瀬戸際にいる。その結果はすでに非常に明白である。実験が最も長く試みられたイタリアでは、すでに公人の大きく明白な劣化を招いている。ベルギーでは、その最初の影響は議会をグループに分裂させ、穏健自由党の力を粉砕することだった。
いくつかの国において純粋な民主主義は、政府の極度の不安定さ、税と負債の急激な増加、信用の失墜、絶え間ない軍事暴動、無政府状態と専制政治の絶え間ない交代に結び付いてきた。メキシコでは、1821年から1853年までの32年間に、48以上の異なる政府が次々と交代したと数えられている。スペインでは、最も強調された形の民主主義が繰り返し採用されてきた。1812年に制定された極めて民主的な憲法は1814年に廃止され、1820年に再制定され、1823年に再び破棄された。数え上げるまでもないほどの一連の反乱と憲法の変遷の後、1868年の共和革命によって普通選挙が確立された。この普通選挙は、数回の政権交代にもかかわらず1877年まで存続したが、この間、膨大な負債の増加によって国の信用は回復不能なほどに損なわれた。1877年、高額の資産の保有という投票資格が確立された。それは1887年に多少修正された。1890年に、主に2年間の居住を資格とする普通選挙が再制定された。2 普通選挙が存在しても、政権がそれを管理し、教育して、無意味なものにしてしまうケースは数多かった。政権側の候補者の多数票を確保するため、兵士たちを連隊ごと投票所まで行進させた例もあったと言われている。この制度は恐らく、代議院の権限が著しく制限されているドイツや米国、あるいは入植者がまばらに居住し、繁栄し、自立している、破壊すべき古い制度がない新しい遠方の国で最も危険性が低いだろう。しかし、こうした場合でも、この制度に乱用と危険性は非常に明白である。
1 バーク(*ウリック・ラルフ、1845―1895、歴史家)の「フアレス(*ベニート、1806―1872、メキシコ大統領)の生涯」3頁を参照。
2 ダレステ(*デ・ラ・シャバンヌ、1820―1882、歴史家)「現代の憲法」1巻617、619、626頁。
フランスは、他のどの国よりもこの政体の父性を主張しており、特別に注目する価値がある。一つの重要な点において、フランスには特にこの政体が適していたように思われる。土地所有の大規模な分割により、強力な保守的基盤が確保され、社会主義的革新に対する最も強力な障壁が築かれたからである。また、人口がほぼ一定であったため、政治的混乱の主因の一つである生活の糧に対する人口の圧力にさらされることが、他のヨーロッパ諸国よりもはるかに少なかった。1848年の革命では、フランスは約225,000人の有権者による選挙から一気に男子普通選挙へと移行した。1 数か月間、新しい選挙民は圧倒的な熱意とともにラマルティーヌ(*アルフォンス・ド、1790―1869)に傾倒した。フランスに特に偉人が多い時代だったが、彼はその時代で傑出した素晴らしい人物であり、大衆を魅了するのに最も適した資質をほぼすべて備えていた。しかし残念ながら、物事を賢明に導くために最も必要な資質を備えていなかった。詩人として、彼は誰もが認めるフランスが生んだ最も偉大な詩人の一人であって、フランス文学全体の中で、フランス散文という高貴な道具をこれほど完璧な才能と技量で操った人物はほとんどいない。彼の「ジロンド派の歴史」は、真実ではなく、不正確で、誤解を招くものだが、おそらく、これまでに書かれた他のどの歴史書よりも当面の政治に大きな影響を与え、それが呼び起こした熱狂は革命に大きく貢献した。彼はまた、それ以前にも後にも誰も成し遂げなかったように、詩と散文の最も素晴らしい文学的才能と、その言葉で聴衆を魅了する力とを併せ持ち、興奮した大勢の人々の情熱を揺さぶり、抑制した。大きな危機のとき、彼は勇敢で、正直で、人道的で、善意を持っていることを証明し、大きな社会問題を賢明かつ穏健に判断することができた。しかし、彼には人々を統治するために必要な真の強さも実践的な才能もなく、子供じみた抑えきれない虚栄心ゆえに道を踏み外しがちだった。
1 クレア(*ジュール、1850―1934、ジャーナリスト)「普通選挙の歴史」59頁。
彼の人気は一時非常に高く、彼から何の要請もなかったにもかかわらず、10県200万人以上の有権者が同時に彼を国民議会の議員に選出した。しかし、彼の人気はすぐに消え去った。パリでは社会主義による財産への攻撃が支配的になり、この攻撃の恐怖ゆえに、有権者の大多数が社会の救世主に目を向け始めた。1848年12月、ルイ・ナポレオン(*ボナパルト、1808―1873)が圧倒的多数票を集めて大統領に選出されたことは、明らかに将来を予兆していた。そしてパリ選挙が持っていた極めて脅威的な性格は、1850年の選挙権を大幅に制限する法律につながった。この法律は、選挙民になるために選挙区での3年間の居住を必要とし、居住を確認するための正確で厳格な規則を定めていた。急進派の猛烈な反対にもかかわらず、この法律は433対240で可決され、有権者の約3分の1にあたる300万人以上の選挙人の投票権を剥奪したと言われている。1
1 クレア、92―96頁。
普通選挙はわずか2年しか続かなかったが、立法議会と大統領との間に続いた対立によって、大統領はそれが最良の武器になることをはっきりと理解した。真の政治的洞察力を発揮した彼は、1851年11月に力強い大統領メッセージを送り、議会に1850年の法律を廃止し、300万人の選挙人の投票権を回復するよう求めた。議会はこのメッセージをいくらか動揺しながら受け取り、激しい議論の末、7票差で現行法の維持を決議した。それから1か月も経たないうちに12月2日のクーデターが起こった。フランスの政治家や将軍たちはベッドの中で逮捕され、暗い冬の朝に監獄に連行された。議会は強制的に解散させられた。従うことを拒んだ議員たちは、兵士たちによって兵舎へと連行され、そして刑務所に収監された。武力、戒厳令、大量追放によって抵抗が鎮圧されたとき、ルイ・ナポレオンが最初にとった行動の一つは、議会の解散宣言の中での、1850年の選挙法の無効化と普通選挙再開の発表だった。クーデターの2日後、それは軍の直接投票で承認され、それから3週間以内の、フランスの大部分がまだ厳しい戒厳令下にあったときに、大統領の行為は普通選挙で批准された。ほぼ800万人の選挙民が彼に賛成票を投じたと言われている。
12月2日のクーデター以降、フランスでは普通選挙が正式に導入された。1852年11月に行われた別の国民投票によってプリンス大統領は皇帝になった。1870年の悲惨な戦争勃発のわずか数週間前に行われた4回目の国民投票でさえ、皇帝の統治は圧倒的賛成多数で再び承認された。この統治の全期間を通じて立法議会は普通選挙で選出されていた。しかし、その期間の大半において布かれていたのは、ほぼ絶対的な専制政治だった。普通選挙は教育され、訓練されて、最も従順な召使になっていた。最高位から最低位までの、すべての役人が選挙運動の運動員になった。選挙区の境界は、政府側の候補の勝利を確実にするために恣意的に拡大、変更、あるいは縮小された。行政のすべての権力が、投票を誘導するために組織的かつ公然と利用された。各選挙区が、道路、橋、港、その他の地域的利益を獲得できるかどうかは政府への支持にかかっている、そして公認候補は、当選の暁には彼は政府の無数の小さな役職、特権、栄誉を支持者たちに分配する権限を持つことになる、と教えられた。立法議会の権限は極めて制限されていた。議会は政府が提出した法律を承認する権利と、厳しい制限の下で税金について投票する権利しか持っていなかった。1860年までは議会の議論が完全に報告されることさえなく、数年間、野党側には5人のメンバーしかいなかった。
1867年と1868年に突然、制度全体が変更された。皇帝は旧野党議員の一人を権力の座に就かせ、大規模かつリベラルな手法で帝国の性格を変えようとする大胆な試みを行った。議会には質問権が認められた。報道の自由はほぼ最大限に、集会の自由も大幅に認められ、約17年間抑圧されていた激しい政治活動が、爆発的に噴出した。帝国末期のフランスを知る人物なら、当時ほど暴力的で、危険で、革命的な報道機関はかつてなかったという私の意見に同意するだろう。活動中の政治家が過去のことは過去のこととして、リベラルな帝国の妥協案を受け入れるだろうという期待はすぐに薄れた。社会の主要な支柱に対する猛烈な攻撃が大きな人気を博し、帝国の基盤そのものが執拗に攻撃された。クーデターに関するテノ(*ウジェーヌ、1839―1890、ジャーナリスト)氏の著作が大きな影響力を発揮したのはこの時期だった。1851年12月にバリケードで銃殺されたボーダン(*ジャン=バティスト、1811―1851、共和派議員)の墓前でのデモは、同じ精神を現していた。そして、これらのデモに関連して暴動の容疑をかけられた人々を弁護したガンベッタ(*レオン、1838―1882、弁護士、政治家)の挑戦的な雄弁は、この演説台で初めて世間の注目を集めた。1869年に開催された議会選挙において、皇帝は当然のことながら公務の指導体制の全ての放棄を拒否した。そして普通選挙で再び圧倒的な支持を得た。しかし、パリの代表はすべて野党が獲得し、その大部分を獲得したのは野党の最も暴力的で非妥協的な派閥だった。一方、議会全体では、議員の3分の1近くが、そして有能な議員の大半が政府と対立していた。
最も優れた観察者の多くは、このような事態が決して長続きしないだろうと感じていた。皇帝は議会を開き、破壊的かつ無政府主義的な感情の高まりを嘆きながらも、自らが選んだ道を貫く決意を表明し、選挙民への働きかけを放棄することを拒み、閣僚たちからは独立して常に国民に訴える権利を自らに明確に留保しながらも、議会の権限を大幅に拡大した。議会は皇帝とともに法律を発議する権利を獲得し、法律を改正する完全な権限を獲得し、閣僚たちは議会に対して責任を負うようになった。憲法は急進派によって無価値な茶番と非難されたが、1870年の国民投票で承認された。政府に賛成する票は約735万票で、反対票を150万票上回った。
政府を悲惨な独仏戦争に駆り立てた大きな要因は、あおられた危険な情熱と、国内に生じた深刻な危機だったことは疑いようがない。同じ原因が惨禍を大いに悪化させたことも疑いようがない。なぜなら、最初の敗北後、皇帝のパリへの撤退を妨げたのは、革命への恐怖だったからである。セダンの知らせが届き、パリの人々が皇帝とその全軍がプロイセン軍の捕虜になったことを知ると、共和派は自分たちの時代が来たことを悟った。彼らは皇后のもとに結集する代わりに、自らの権限で、つい最近まで普通選挙で何度も承認されていた政府を直ちに破壊し、摂政を亡命に追いやった。フランスの歴史上、セダンの不幸が知れ渡った次の日の夜、パリの街路が明るく照らされた(*祝賀ムードに包まれた)ことほど悲しく意義深い出来事はほとんどない。このとき支配的だった党派にとって、共和制の勝利は、この国に降りかかった最悪の惨事を補って余りあるものだった。パリの目抜き通りの一つには、今でもこの革命が達成された9月4日の名前がついている。どうやら一部のフランス人は、今でもこれを誇ることができる日と考えているようである。
それは、そのときフランスに最も緊急に必要とされていた安定的な政府を奪った。その最も確かな結果の一つは、絶望的な戦争の無益な延長だった。もし帝国がセダンの後も存在していたなら、すぐに和平が成立し、ストラスブールは取り返しのつかないほど失われたにしても、メスは救われたであろうことは疑いようがなく、戦争賠償金ははるかに少額で済み、戦争の後半の数ヶ月に起こった膨大な生命財産の損失と民衆の苦しみは起こらず、フランスは―勝利した侵略軍の目前で共産主義者がフランス政府に対して蜂起する(*1871年3月28日パリ・コミューン)という―最も醜く恥ずべき邪悪な反乱を免れることができたかもしれない。
幸運にもフランスは、この運命の暗い危機の中で、知的能力において、同時代の人々の中に巨人のようにそびえ立つ、真に偉大な人物を見出した。そして、それが普通選挙の黄金時代が国に到来する前のルイ・フィリップの議会の紛争の中で育ち、生き残った数少ない政治家の一人(*ルイ・アドルフ・ティエール、1797―1877、フランス大統領))だったことは、奇妙に意味深長な事実である。
フランスに現在も存続しているその後の政府について論じるのは、いくらか無謀なことだろう。フランス政治の目まぐるしく変化する万華鏡の中で、それはたちまち新しい形を取るかもしれない。また、今の私の評価とはいくらか異なる様相をそれに呈させる何かが容易に起こるかもしれない。それでも私がこの文章を書いている今では、1870年から23年が経過しており、この時間はいくつかの大まかな結論を出すには十分なものである。フランス共和国はその形のみならず、実際に、ほとんど統制を受けない普通選挙の政府である。その民主的な性格を緩和するのは、主に上院の立場である。上院は、別の章で検討する特別な力を持っている。大統領の立場は、しばらくの間、あまり明確に定められていなかった。ティエールの解釈によれば、大統領は大きな統治権を持っていた。実際、ティエールは本質的に自らが首相だった。彼は議会に自らの政策を実行することを要求した。外国大使と直接連絡を取り合った。彼は外交政策の糸口を独占的に握っており、領土からの(*プロイセン軍の)撤兵問題において大臣の手を借りずに自分ですべてを完全に管理していたため、外務省ではそれに関する文書は何も見つからなかったと言われている。1 しかし、彼の支配権は主に彼の偉大な人格と名声ゆえのものだった。そして彼の辞任後、特に1875年憲法制定以後、フランス大統領の地位は立憲君主とほとんど変わらないものになってしまった。アメリカ大統領やフランス皇帝とは違って、大統領は直接的かつ独立的な普通選挙によってその地位を獲得するのではない。上院と下院の共同投票によって選出されるのである。彼のすべての行為には大臣の副署が必要である。大臣は議会の投票によって罷免される。大統領は上院の同意なしに下院を解散することさえできない。したがって、政府には偉大なアメリカ共和国の最も際立った特徴の一つである強力な行政官が完全に欠けている。
1 ショードルディ(*ジャン=バティスト・アレクサンドル・ダマーズ・ド、1826―1899)著「1889年のフランス」191頁。
この政府について他に何が言われようとも、それが輝かしい政府ではなかったことは確かである。これほど優れた才能を輩出したり引き入れたりしなかったフランス政府はほとんどない。またこれほどまでに、そのほとんどが公職以外ではほとんど知られておらず、国内でほとんど影響力を持たず、これまで世界の想像力にほとんど訴えかけてこなかった人々によって運営されてきたフランス政府もほとんどない。私が見るところ、私たちの時代の特徴の一つは、強い熱狂をかき立てる政治的理想が存在しないことである。政治的不穏や政治的革新はふんだんに見られるが、18世紀末に民主主義の到来が呼び起こした熱烈な献身や限りない希望に似たものは何もない。民主主義は―アメリカとフランスにおいて―二つの形で完全に勝利し、それが完全に働いているところを私たちは目の前に見ている。人々はそれを好んだり嫌ったりするかもしれない。しかし、どちらの共和国政府にも真の熱狂の対象を見出すことができるのは、極めて稀な、非常に特異な精神を持った人々だけだろう。フランス革命は、その初期の頃には、狂気に近いほどの熱狂をかき立て、1830年(*七月革命)と1848年(*二月革命)には、フランスの政治は周辺諸国にほとんど抗いがたい魅力を振りまいた。この狂信を打ち砕いたことは、現在の共和国の功績の一つである。アメリカとフランスの民主主義をより深く理解するなら、この政体は人を引きつける力を失ったように見える。一般大衆が想像する理想とユートピアは、別の種類のものである。それはむしろ、社会と産業の大きな変化、富の再分配、現在の社会構造の解体なのである。
これがまったくの悪なのかどうかは分からない。人の心には常に政府に過大な期待を抱く傾向がある。そして、こうした領域における輝やかしさは、しばしば暴力的な憲法改正や軍事的冒険によって追い求められる。同時に、国家の政府が熱意や関心さえも喚起できない場合、愛国心がいくらか衰え、人間の本性に深く根付いており、フランス人の本性に確実に豊富に存在する刺激への渇望が、ある日非常に危険な形で爆発する危険性は大いにある。大独裁政権における軍事的冒険の人気の理由の一つは、普通の公職に何の利益も与えないことである、とよく言われる。フランスの現状を考えると、ラマルティーヌ、クレミュー(*アドルフ、1796―1880、弁護士、政治家)、そして1848年の革命で主要な役割を果たした他の人物の演説を読むことは非常に興味深い。彼らがルイ・フィリップ政府に対して行った告発は、政府が何らかの明らかな過失を犯したというよりは、フランスが当然得るべきヨーロッパでの栄誉と名声を得なかったということだった。彼らは、フランスは諸国の集まりの中で、みすぼらしくて身なりの悪い人物のように見えたと主張した。しかし、当時のフランスの公職に、現在とは比べものにならないほどの大量の優れた才能があったことを誰が疑うだろうか?
しかし、政府の特徴的な機能はビジネスであって、安定した知恵、寛容、そして正直さによって物事を管理する政府は、人間の性質のより詩的な側面に訴えかけなくても許されるだろう。しかし、ほとんどの公平な評者は、現代のフランス民主主義がこれらの要件を満たしているかどうかを大いに疑うのではないかと私は思っている。その最も顕著な特徴の一つは、極端な、驚くべき内閣の不安定性である。1870年から私がこの文章を書いている1893年の終わりまでの間に、フランスには32もの内閣があった。そのような不安定さをもたらす政体が持続できるかどうか、そしてそれが国家の偉大さの最も重要な要素の一つである政策の継続性と両立するかどうかは、疑問である。ロシアが世界でこれほどまでに強力な力を持っている理由の一つは、その外交政策の着実な持続性である。ピョートル大帝に由来する構想は着実に進められ、1816年から1895年までの全期間を通じて、帝国の外交政策を指揮した大臣は、ネッセルローデ(*カール・ロベルト、1780―1862、)、ゴルチャコフ(*アレクサンドル、1798―1883)、ジエール(*ニコライ・カルロヴィッチ、1820―1895)の3人だけだった。フランス外交政策の主要路線は、アンリ4世(*在位1589―1610)、リシュリュー(*1585―1642)とマザラン(*1602―1661)、ルイ14世(*在位1643―1715)、フルーリー枢機卿(*1653―1743)によって、エネルギーと成功の度合いはそれぞれ異なるものの、揺るぎない粘り強さで進められた。おそらくフランスでは、ほとんどの民主主義国と同様に、普通選挙で選ばれた人材の平均よりはるかに優れた人材が常勤職員に含まれており、この職員の中に古い行政の伝統が保存され、良い政府の主な要素が見出されるのである。名目上の統治者がまったく信頼できない国では、良い常勤職員がしばしば国を救ってきた。フランスにはこれまでこうした優れた職員がいたし、現在でも多くの部門に大勢いると私は信じている。しかし、リーダーが絶え間なく変わることによって、それが大きな影響を受けなかったはずはない。最も厳格な共和主義の理論に従わない官僚をすべて排除したいという願望と、歴代の内閣の追随者を作りたいという避けがたい願望によって、フランスの官界にはアメリカ政治を堕落させたのと同じような変化のシステムが生まれた。1 確かに、同じ極限にまで至ったわけではない。しかし、それは安定した継続性が最も重要な分野に多くの不安定さをもたらした。
1 フランスの公務員制度について、ルロワ・ボーリュー(*ポール、1843―1916、経済学者)氏は次のように述べている。「社会が純粋な民主体制に近づくにつれ、この不安定さが強調されるようになった。…この点に関してフランスはアメリカ的になってきている。非常に重要な小さな事実を一つだけ挙げるなら、1887年に財務省の高官の葬儀で、実際はよく知られる人物だった同僚の一人は、省の局長のことを上席と呼んでスピーチをした。この上席は45歳か46歳、あるいはそれ以下だった。この若さで上席になるには、何人の辞任や早期退職が必要だったことだろう!」(「国家とその機能」65―66頁)また、シーラー(*エドモン・アンリ・アドルフ、1815―1889、神学者、政治家)「民主主義とフランス」26―32頁も参照。
それは経験不足という弊害のみならず、トーンの低下というさらに大きな弊害も生み出す。フランス政治を注意深く研究する人なら誰でも、共和国の成立以来、外交官やその他の官僚が、政府の機密職で得た秘密を世界に公表することで職業上の名誉のきわめて重要な条項を破った数多くの事例に衝撃を受けずにはいられない。官界の劣化を示す、これほど確実で不吉な兆候はない。その原因を見抜くのは難しくない。それは革命が頻繁なこと、ある王朝の官僚が新しい政府が樹立されたなら守秘義務から解放される、と考えたことによるところが大きいのである。また共和国の性格によるところも大きい。4年間警視総監を務めたフランスの著名な政治家は、退任直後に2巻の「回想録」を出版したが、そこには、イングランドでは公務員への信頼に対する恥ずべき裏切りとされるであろう逸話が満載されている。次の重要な文章はその政治家自身の弁護である。「以前の体制を打倒するにはあらゆる手段が有効であることに気づいて、現在権力を握っている人々は、自らの権威を強化するために、破壊した君主制の伝統をすべて自分のものにしようとしている。君主制の下では、私生活に戻った役人は、自分が従っていた、そしてこれからも従い続ける王朝に対して、感謝と忠誠の義務を負っている。しかし今の政府に、何らかの名前で私にそのような義務を課すことができる、永続的な要素があるだろうか?私は現内閣に何か借りがあるだろうか?それは私の敵対者で構成されていないだろうか?それは私が大切にしているすべての考えに敵対していないだろうか?それはより良い未来の希望への道を妨げていないだろうか?それは私の嫌悪する政策を私の国に押し付けているのではないか?」1
1 アンドリュー(*ルイ、1840―1931)「警視総監の回顧録」2巻53―54頁。
私たちはフランスの民主主義を他の基準でも評価できる。それはフランスの自由を過去よりも高い水準に引き上げただろうか?話し言葉や書き言葉、演劇表現の自由度は、間違いなく極めて大きい。しかし、宗教政策や教育政策において、国民の大多数に彼らが嫌悪する教育制度を押し付けたり、彼らが最も大切にしていた宗教的慰めを奪ったりするために、これほど断固とした努力をしてきた近代のフランス政府はほとんどない。ジュール・フェリー(*1832―1893、第三共和政の首相、教育省長官)の宗教政策やポール・バート(*1893―1886、第三共和政教育省長官)の教育政策がフランス人の大多数に賛成されていたかどうかは非常に疑わしい。おそらく、これらは断固とした組織力のある少数派が、大部分が無気力で、分裂し、組織化されていない多数派に政策を押し付けた数多くの例の一つだろう。宗教や教育の問題では当然そうあるべきであるが、男性のみならず女性の意見も考慮に入れるなら、政府の政策が取るに足りない少数派のものであったことは疑いようがない。真の自由の本質的な特徴は、その庇護のもとで、多種多様な生活や性格、意見や信念が干渉されず、邪魔されずに展開できることである。フランス共和国は他の政府よりもこの自由をより高度に体現していると言えるだろうか?フランス共和国は労働者階級の政府と呼ばれてきたが、この点において私たちの尊敬に値する何らかの特別な主張があるだろうか。労働者階級に関するほぼすべての問題において、フランスは進歩の道をブリテンの立法に先んじて歩いてきた。現在、フランス人労働者の労働時間は、一般にイングランド人労働者よりもずっと長い。そして、近年の大陸の立法を非常に注意深く吟味してきたイングランドの労働者は概ね、共和国の産業的習慣や立法に羨むべきものは何もない、という結論に達していると私は信じている。
少なくとも、フランスはフランスの資源を特別な知恵で管理したのだろうか。19世紀のフランス財政の歴史は非常に興味深いものである。そして、それを簡単に振り返ってみることは、民主主義の傾向について数多くの実際的で教訓的な光を当てることになるため、私の現在の目的と関係なくはないだろう。フランス大戦争が終結した1814年から始めよう。当時、グレート・ブリテンと、それが征服した敵国の財政状況には驚くべきコントラストがあった。グレート・ブリテンは莫大な負債にほとんど押しつぶされんばかりだったが、フランスの負債はまったく無視できるものだった。ナポレオンは、征服した国々に惜しみなく課税し、またフランスの資源を非常に巧みに管理することで、大戦争をほぼ自給自足で行っていた。征服、あるいは併合された国の負債を除けば、1800年から1814年の間にフランスが負った負債の総額は、名目資本1億4千万フラン、すなわち600万ポンド未満(*1ポンド=25フラン=現在の2万円)であったのに対して、年間利子支払い700万フランに過ぎなかった。1
1 ルロワ・ボーリュー「金融の科学」(1892年版)2巻556頁。
百日天下、ワーテルローの戦いの後に連合国が戦争費用として要求した戦争賠償金、占領軍の費用、略奪された「亡命者」1への補償として承認された巨額の金銭、王政復古後の信用の毀損と減価が、負債を大きく増加させた。しかし当時のフランス財政の最高の権威者によれば、王政復古政府はこの部門において、フランスがこれまでに経験した中で最も巧妙で、高潔で、経済的な政府の一つだった。国の信用は1830年ほど高くはなく、負債は増加したものの、フランスの資源と比較すれば、依然としてごくわずかなものだった。ルイ18世が即位したときには(*1814年王政復古)、年間6300万フラン以上の利息の支払いが必要だった。1830年にはこの支払いは16億4300万フランにまで増加した。こうして年間の利息は400万ポンド以上も増加したのである。2
1 2500万フラン以上。ルロワ・ボーリュー「金融の科学」(1892年版)495頁。
2 ルロワ・ボーリュー「金融の科学」(1892年刊)2巻556―63頁。
ルイ・フィリップの治世(*1830―1848)もほぼ同じ方針で運営され、負債は増え続けたものの、その伸び率は国の歳入よりもはるかに低かった。ルイ・フィリップの治世の18年間で、年間利息は約1250万フラン、つまり50万ポンド増加した。1848年に彼の政権が倒れたとき、フランスの負債はヨーロッパで2番目だったが、それでもグレート・ブリテンの4分の1に過ぎず、もしフランス王政がイングランドと同じくらい安定していたら、フランスの信用がイングランドのレベルに達していたことは疑いようがない。1
1 ルロワ・ボーリュー「金融の科学」(1892年版)2巻563―64頁。
その後、1848年に民主共和国が誕生した。この共和国は3年間続いたが、この3年間でフランスの負債は1823年から1848年までの25年間よりも増加した。帝政が始まった1852年には、負債額は約2億3100万フランだった。フランスの負債は、イングランドの3分の1弱になった。1
1 ルロワ・ボーリュー「金融の科学」(1892年版)2巻564頁。
第二帝政の長い年月の間に、フランスの富はおそらく歴史上のどの時期よりも急速に増大した。この繁栄の多くは、カリフォルニアとオーストラリアの金が当時のあらゆる生産に与えた驚くべき刺激によるものであることは疑いないが、政府が物質的発展を支援した賢明なエネルギーによるところも大きかった。ルイ・フィリップの治世において十分に開発されていなかった鉄道システムは、今や非常に完成度が高まった。賢明な自由貿易政策は産業を大いに刺激し、ほとんどあらゆる種類の事業が政府の支援を受けた。公共事業には莫大な資金が、通常は並外れた知恵とともに費やされた。1852年の憲法は、皇帝に、そのような事業を簡単な命令で認可する権利と、ある部門のために投票された予算を別の部門に移転する権利を留保した。しかし、皇帝は統治期間を通じて、税金を低く抑えて変更せず、増大する支出を不断の借入で賄うことで政府の人気を確保するという政策をとった。クリミア戦争、イタリア戦争、メキシコ遠征の費用のほぼ全額、そして平時の政府の通常の支出の膨大な部分は、このようにして調達された。このシステムの浪費は、通常1年に複数の予算案が提出されるフランスの財政の複雑さと、非常に大きな一時借入金の仕組みによって部分的に隠されていた。帝国下でとられた最も重要な措置の一つは、新しい起債システムの導入だった。皇帝は少数の大資本家に代わって、国民全体が直接購入できるように国債を開放した。そしてほとんどすべての階級が購入できるように、それを非常に小さく分割した。この計画の経済的利点については非常に様々な意見がある。しかし、それが非常に人気だったことは間違いない。少額の国債は熱心に引き受けられ、税金が不人気だったのと同じくらい、公債が人気になった。また、膨大な数の国民の関心を国債の安全性に向けさせることで、この新しい制度が国家の信用を大きく向上させ、フランスの保守派の勢力を強化したことに疑いの余地はない。1830年、フランスで国債の一部を保有していたのはせいぜい125,000人程度だったと計算されている。1869年にはその数はおそらく700,000人から800,000人にまで増加し、1881年には4,000,000人以上になったと考えられている。このようにして、あるいは土地所有者として、フランスの大多数の世帯主は国家の繁栄に直接の利害関係を持っていた。1
1 ルロワ・ボーリュー「金融の科学」2巻564―70頁。
第二帝政下の政治体制、特にその最初の10年から12年は、独仏戦争の惨劇を目の当たりにした世代に受けるであろうよりも、もっと慎重で公平な検証を受けるに値する。それは憲法上の自由、出版の自由、集会の自由のない政府だった。それは大きな腐敗を隠蔽し、あるいは生み出し、恣意的、専制的な暴力で政敵を抑圧した。それは知識階級や、政治的自由を真剣に望んでいた少数の国民から嫌われ、パリの公共事業に莫大な資金が費やされたにもかかわらず、決してパリの労働者の愛情を勝ち取ることはできなかった。一方、徹底した民主精神で実行された父権政治の理論が、おそらくそれと同等のエネルギーと知性をもって実行されたことはかつてなかった。皇帝は、国民の中の無口な大衆に常に支持を求めていた。彼らの当面の物質的幸福を促進することが彼の政策の第一の目的だった。これほどまでに、あらゆる産業を刺激し、潜在的資源を開発し、安定した高収入の雇用を提供した政府はこれまでになかった。彼は長年にわたって目覚ましい成果を上げた。そして彼の統治を承認した最後の国民投票が、大多数のフランス人の本当の感情を反映していたことは、ほとんど疑いようがない。もし、ウォルトの戦場にフランス兵があと10万人いて、フランス軍の司令官がたまたま天才だったなら、帝国が今日まで存続していた可能性は大いにある。
1 帝国の最初の10年間の産業と金融の歴史に関する詳細は、1862年に出版された「怠け者A Flaneur(*仮名)」著「フランスにおける帝国主義の10年間」という非常に優れた本に記載されている。著者は明らかに最良の情報源にアクセスしていた。
ルロワ・ボーリューは―戦争のあった―1870年初頭の統合債務の利子は約1億2900万フラン、つまり皇帝が即位した1852年より約516万ポンド多かったと計算している。利息総額は3億6000万フランだった。これは名目上の元金が120億フラン弱、つまり4億8000万ポンドだったことを示している。さらに、1870年初頭には最近3200万ポンド弱にまで減った一時借入金があった。1
1 ルロワ・ボーリュー「金融の科学」2巻570頁、ショードルディ「1889年のフランス」52―53頁。
しかし、帝国はその後の共和国に恐ろしい遺産を残した。フランスはドイツに2億ポンドの賠償金を支払わざるを得ず、フランス自身の戦争費用はその金額よりほんの数百万ポンド少ないだけだった。この莫大な金額のほぼ全額は1870年から1874年の間に借り入れによって調達され、永遠の負債に加算された。
フランスの負債は、今やイングランドの負債を大きく上回っていた。共和制の初期、特にティエール氏の台頭期には、フランスの財政は倹約と手腕をもって運営されていたようである。しかし1878年には、第二帝政をはるかに超える新たな浪費のシステムがはじまり、現在まで続いているようである。読者の皆さんに状況を説明するために、いくつかのわかりやすい数字を挙げよう。1892年の予算によると、フランスの負債の名目上の価値は約320億フラン、つまり12億8000万ポンドだった。年間の負債額は約12億5000万フラン(*原文では1,000,250,000 francesと書かれているが誤り)、つまり5000万ポンド―これは現在のグレート・ブリテンの負債の利子の約2倍である。そして、1881年から1892年までの12年間の完全な平和の間に、フランスの負債は50億フラン、つまり2億ポンド以上増加した。これは、1870年の戦争後にフランスがドイツに支払わなければならなかった戦争賠償金の全額に等しい金額である。1 そして、この負債は、コミューンや自治体の巨額かつ急速に増加している負債とは無関係である。
1 ルロワ・ボーリュー「金融の科学」2巻578―81頁。また、マルタン著「政治家年鑑」1893年(フランス)も参照。
その大部分は、間違いなく軍事目的に支出された。壮大な軍隊の創設、ストラスブールとメスの喪失によって非常に脆弱になった地域の要塞化、そしておそらくイタリアを威嚇し地中海でイングランドの力を圧倒することを意図した、巨大で費用のかかる海軍の編成が、その大きな理由である。また、フランス共和国が多大な精力を傾けて推進した国民教育事業によるところも大きかった。そして、教会の学校が十分に供給されている場所に新しい学校を建設することを主張し、教会が自発的に設立した大規模な機関を一切利用しないという反教会的精神ゆえにこの事業の費用は大幅に増加した。しかし、これらに加えて、フランスの最高の経済学者たちが偽りのない警戒心を表明している、もう一つの大きな出費があった。それは、ほとんどの場合、利益の上がらない公共事業への莫大で無駄な支出である。これは雇用の提供によって労働者階級を懐柔することを意図したもので、政府を支持する見返りとして、あらゆる部門、ほとんどあらゆるコミューンに及んでいる。この種の公共事業の多くは―特にパリでは―第二帝政下で行われたが、共和政下でされたように膨大に拡張されたり、浪費されたりはしなかった。この公共事業の大きな発展には、フレシネ(*シャルル・ド、1828―1923、第三共和政の首相)氏の名が特に結び付けられているが、予想通り、その発案者が当初想定した規模をはるかに超える規模にまで拡大した。彼の最初の考えは鉄道だけに40億フラン、つまり1億6千万ポンドを費やすというものだった。非常に当然のことながら、このような人工的な雇用システムが一旦始まったなら、中止は不可能なことが判明した。当然のことながら、すべての地域が政府の恩恵の分け前を欲しがった。数え切れないほどの大金が、純粋な政府の仕事、3倍、あるいは4倍に増額された地方の補助金、かつては有償だった公共サービスの無償提供、政府のポストの過度の増設などに浪費された。その結果、厳しい節約が切実に求められていた時期に、共和国は1870年の戦争の費用とほとんど変らないくらいの金額を負債に加えた。1
1 このテーマについては、シーラー「民主主義とフランス」29―33頁、ルロワ・ボーリュー「国家と機能」187―174頁、ルロワ・ボーリュー「金融の科学」2巻277―78頁、ショードルディ「1889年のフランス」54―62頁を参照。
普通選挙が国家の最高の資質をまったく表していないという真実を、これほど印象的に例証するものは他にほとんどない。フランス人ほど、民間人としてビジネスの才能、賢明な勤勉さと倹約の組み合わせ、困難な時期に支出を削減する勇気において傑出した国民はいない。しかし、フランスの普通選挙から生まれた政府ほど、贅沢で犯罪的な浪費をした政府はほとんどない。
純粋な民主主義に発生している腐敗は、一般的に、他の時代に存在していたものよりも国家の繁栄にとってはるかに有害なものである。閑職、腐敗した年金、宮廷の恩恵、小さな汚職、議会の議席の買収などは、すべて国家の歳入に深刻な負担をかけることなく、非常にうまく実行できる。大富豪はシリングやペンスを無謀に浪費するかもしれないが、支出の主な方向が賢明に管理されている限り、年度末に大きな違いは見られないだろう。確かに、個人、あるいは宮廷の浪費が国家を破滅させた例が時々ある。現代の最も驚くべき例はイスマイル・パシャ(*1830―1895、オスマン帝国のエジプト総督)の例である。彼は1863年から1876年までの13年間で、エジプトの負債を300万ポンド強から8,900万ポンドにまで増やし、主に個人的な浪費と無謀なギャンブルによって、600万人の貧しく苦しむ国民に年700万ポンドもの利子を支払わせた。1 しかし、幸いなことに、このような途方もない利己主義の驚異は稀である。そして、もし世界において統治者と臣民の両方が、政治犯罪の重大さについて完全に誤った尺度を作り上げていなかったならば、それらは単なる失脚とはまったく異なる結果になったことだろう。(*誤った尺度ゆえに単なる失脚に終わった)
1 ミルナー(*アルフレッド、1854―1925)著「エジプト」216頁。
腐敗した政府は、全体として必ずしも浪費的というわけではない。ルイ・フィリップの統治下にあったフランス政府に間違いなく蔓延していた大きな腐敗は、その後の経験に照らせば賞賛に値するとしか考えられないような節約によって政府がフランス財政を管理することを妨げなかった。18世紀のアイルランド議会の汚職、閑職、年金は非常に悪名高かった。しかし、大フランス戦争が勃発するまでアイルランドは最も税金の安い国の一つであって、その政府はヨーロッパで最も安上がりな政府の一つだったとアイルランドの政治家が言ったことは真実である。この種の腐敗は、政府の品位を低下させ、それを支えるべき公共精神と熱意を政府から大いに遠ざけるが、非常に小さく貧しい国以外では、深刻な経済的害悪になることは稀である。戦争、過剰な軍備、信用を揺るがし大衆を略奪する政策、産業を阻害する法律、多額の公共支出や盛大で偏った不当な課税によって有権者や階級を買収する腐敗—これらこそが国家の財政を実際に破滅させるものなのである。特にこれらほとんどの悪弊に陥りやすいのは、制限を受けない民主主義国家である。
現代の急進主義は、君主に財産を与えたり、宮廷の華やかな儀式を支援したりするための国の負担を大げさに語る傾向がある。繰り返されるごく最近の経験が明瞭に示す教訓があるとすれば、それは国家の最高権力を不安定にし、国家の信用を下落させ、大量の資本を国外に追い出し、産業と貿易を混乱させ、財政に誤った浪費をもたらす革命の費用と比較したとき、そのような支出はまったく取るに足りないということである。ブラジルとスペインは貧しい国だが、少数の無節操な冒険家の利己的な野望による革命によって両国が失った巨費は、ヨーロッパのすべての宮廷の浪費をすべて賄うには十分すぎるほどである。
フランスは、疑いなく、他のほとんどの国よりも、その莫大な負債の重みに耐えることができる。その元来の優位、その蓄積された莫大な富、その国民の素晴らしい産業的資質、その国民への土地と国債の持分の広範な分配、そしてこの国債が主に国内で保有されているという事実は、フランスが現在も享受している高い信用力に貢献している。現在の負債は大きいが、それがフランスの富に占める割合は、1815年の講和時にイングランドの負債がその収入に占めた割合や、イタリアとロシアの負債が現在も国家の資産に占める割合よりもはるかに小さい。今後半世紀にわたってフランスで厳格な節約と安定した平和政策が追求されたなら、フランスの財政が再び非常に健全になることを誰も疑わない。その国債の一部は、有期年金で構成されている。国債がフランス人の間に広く拡散していることによる良好な信用力は、利子減額の転換政策を可能にする。そして1950年にはフランスの鉄道は国有財産になる予定である。1894年に4.5%ついていた2億8000万ポンドの国債の利子を難なく3.5%に切り下げられた国は、決して絶望的な財政状況にあるわけではない。そして通貨が安くて豊富なことは、借金の誘惑を増大させる一方で、負債の負担を軽減する。
しかしそれでも、真面目なフランスの経済学者は、近年の同国の負債と課税の急激な増加に恐怖を覚えずにいられない。そのような人々は、これほど秘かに進行し、阻止が難しく、最終的に悲惨な結果を生む国民病はほとんどないことをよく知っている。新規融資によって雇用に与えられる即時の刺激は、その最終的かつ永続的な影響を覆い隠す。そして、税金からは利子だけが支払われる場合、負債の増加は当初ほとんど感じられない。フランスの平和が長く続くとは誰も思っていない。また内政が深刻に緊縮される見込みはほとんどない。公共事業への支出を大幅に削減し、同時に課税を大幅に拡大する政策は、現在フランス政府のすべてがその投票に依存している無知な大衆に決して受け入れられないだろう。それをあえて企てる政府はほとんどなく、ましてや1870年以来フランスに存在してきたような弱々しく、儚く、不安定な政府ならなおさらである。そのような政府は必然的に短期的な見解をとり、当面の支持を熱心に求める。想像力に訴え、教育のない人々による民主主義の支持を得るために最も適した政策はすべて、支出の増加を伴うものであり、ヨーロッパの民主主義の傾向は、国家の職務と負担を拡大する向方向にある。国民の大部分が習慣的に政府に支援を求めるようになった場合、その支援を撤回することは不可能になり、制限することは極めて困難になる。政治的動機ゆえに着手され、民間企業が手を付けようとしない公共事業は、ほとんど利益を生まない。一方、過度の課税の害悪は、納税者から直接徴収される金額だけで測られるものではない、というのは最も確かなことである。その間接的で遠隔的な結果は、直接的な結果よりはるかに深刻なものである。その負担が重すぎる産業はもはや、税負担がより軽い国の産業と競争することができない。そして産業と資本は、どちらも税負担が少なく、より生産性の高い地域に移転する。市場の財務は数年先までしか見通さないため、株式市場における国の信用は欺瞞的なテストである。偽りの安心感が大きくなって、ついに衰徴の道に取り返しのつかないほど入り込んでいることに、国はゆっくりと気づく。
私が述べた状況において、公職のトーンが非常に高まることはほとんど期待できない。パナマのスキャンダル(*1892年、パナマ運河を巡るフランス政界の収賄事件)に続く暴露は、最も驚くべきものだったが、この問題に不吉な光を当てた唯一の兆候ではなかった。シーラー(*エドモン・アンリ・アドルフ、1815―1889)は見事な著作で、現在の制度がフランスの政界に及ぼす影響を詳述している。彼によれば、ほぼすべての議員は個人に対する多くの約束を背負って議会に入る。そして彼の政策の主な目的は通常、4年後の再選を確実にすることであって、これを実現する方法はよく知られている。地域のために鉄道の支線を引かなければならず、公共の場所に噴水を設置する必要があり、おそらく教区教会の修復までしなければならないだろう。しかし、地元に何らかの影響力を持つすべての公職が彼の支持者の手に渡ることも、同様に重要である。したがって、彼はすぐに政府に圧力をかけ、政府は通常、彼が望む公職に任命することによって彼の支持を買う。小規模な地方の公職は絶えず入れ替わっている。共和国時代ほどこれらの役職の解任や変更が多かったことはなかったと言われている。そして、それは主に議員が支持者やその子供たちにその役職を与えようとしたからだった。投票は、個人的な報酬を求める権利を確立する個人的な好意である、という考え方が急速に広まった。同時に、公共事業、特に自分の選挙区の公共事業に賛成票を投じたり、政府職員の数を増やすような組織再編を行なったりすれば、議員の人気は高まる。社会主義精神の形は国によって異なるが、フランスでは特にこの形をとっているようである。代議院は優れた浪費の抑制者であり、公金の注意深い監視者であるいう古い考え方は、民主主義国ではほとんど消え去ったようである。しかしフランスほど完全に消え去った国はない。レオン・セイの言葉を借りれば、議員の大部分は何よりも「支出をそそのかす代理人」であり、できるだけ多くの有権者の税金によって生計を立てようとしている。議員は選挙委員会、あるいは、いわゆる地方幹部会に支配されている。そして議員は、小規模な議会グループと、弱々しく絶えず変動する内閣という体制の下で、行政に対して過大な影響力を及ぼしている。1
1 シーラー「民主主義とフランス」22―38頁。
最後に、民主主義がフランスに、より高潔で寛大な外交政策をもたらしたかどうかを問うてもいいだろう。フランスの著述家は、フランスは他のどの国よりも「思想idea」によって統治されてきた、フランスは文明の主要な先駆者だった、フランス世論はコスモポリタンな自由主義の運動を支持し、普及させ、広めるために偏狭な愛国心の限界を超える卓越した能力を持っている、としばしば主張してきた。このコスモポリタン的な共感は、時にユートピア物語へと色褪せてゆき、理性的な愛国心の義務を怠ることにつながることは認めなければならない。そして、それはしばしば非常に利己的な軍事力強大化の計画を隠したり、それに奉仕したり、それを実行したりしてきた。それでも公平な研究者なら、フランスが長い間、ヨーロッパ文明の進歩的な要素を顕著に代表してきたこと、その偉大な影響力は常に天秤の、自由、啓蒙、寛容の皿に載せられてきたことを否定しないだろう。今やフランスはこの高貴な地位を主張できるだろうか。その近年の歴史における、怨恨と復讐の政策はその過去の高貴な本能に奇妙に反することを否定できるだろうか。読者にはアルフレッド・ミルナー卿の著作の中の、フランスが非常に卑劣な動機から、エジプトの農民の窮状を緩和するために明らかに必要だったすべての改革をいかに妨害したかについての記述を読んでいただきたい。あるいは、もっと顕著な例を取り上げるなら、今世紀の最も恐ろしい物語―ロシアによるユダヤ人迫害—について研究し、この迫害の翌日にフランス民主主義が無限の不適切な熱狂に駆られてロシアの側に立ち、すべての機関がフランスとロシアの政策は今や世界の中で行動をともにする、と宣言したことを思い出していただきたい。1893年にヨーロッパの主要な民主主義が、それを迫害する唯一の偉大な専制主義と熱狂的に結びついたこと(*露仏同盟)ほど悲しくも意義深い光景は、現代ではほとんど目撃されたことがない。フランスが反動勢力に同調し、ヨーロッパの自由主義におけるかつての優位性を他国に譲り渡したときの、あふれんばかりの、ほとんど子供じみた歓喜以上に、民主主義の傾向について雄弁な教訓があるだろうか。ジョルジュ・サンド(*1804―1876、作家)が1848年に、フランスの主導により人類の間に進歩と啓蒙の新時代がもたらされたとして民主主義の勝利を告げた時代から、何という変化だろう。ミシュレ(*ジュール、1798―1874、歴史家)がフランスを、北の蛮族から文明を守る武装したヨーロッパの番兵と描いてからの、何という変化だろう。ラマルティーヌ(*アルフォンス・マリー・ルイ・ド・プラ・ド、1790―1869)は絶妙な美しさを持つ短詩で、コスモポリタンな友愛を宣言したが、それはすぐに愛国心そのものを時代遅れの感情とし、蘇った人間愛にとってあまりに狭量で厳しいものにした。
国民!野蛮さを意味する尊大な言葉だ!
君たちの歩みが止まるところで、愛は止まるのか?
国旗を引き裂け、別の声が君たちに叫ぶ:
祖国を持っているのは利己心と憎しみだけである、
友愛はそれを持たない。1
1 「平和のラ・マルセイエーズ」
アメリカの民主主義の条件は、フランスの民主主義の条件とは本質的に異なっている。そして、この偉大な政治実験の影響は、すべての真剣な政治探究者にとって非常に興味深いものに違いない。その性質についてはすでに簡単に触れた。このような本で、アメリカ民主主義の仕組みを詳細に説明しようとするのは不可能であり、また、現代においてこのテーマについて書かれた素晴らしい著作の後に門外漢が書くのは僭越なことであるが、私の現在のテーマに多くの光を投げかけるいくつかの顕著な事実を集めることはできるだろう。
このテーマを扱う前世代のイングランドの政治評論家の主な誤りの一つは、アメリカの制度に関する彼らの非常に浅い知識から生じたもので、アメリカ政府はイングランド政府と概して同じ種類のものであって、主な違いは国民の多数派が常により迅速で、断固として、抑制されない効率で自分たちの意志を実行できるという点であると信じていた。イングランド国民は、この考えが根本的に間違っていることをようやく理解するようになったと期待して良いようである。イングランドでは、国王の同意があれば、議会の単純多数派が、どんなに革命的なものであろうと、あらゆる憲法の改正を実行できる。そして庶民院は、事実上、憲法の主要な権力をすべて吸収している。さまざまな政治的分派から偶然に形成された多数派が、さまざまな動機と目的を持って行動すれば、国の憲法を根本的に変えてしまう可能性がある。国王の拒否権は完全に時代遅れになっている。通常の状況下では、国王の権力は、庶民院の多数派によって成り立つ内閣の命令によって行使される。国王が時折、独立した政治的影響力を行使できるとしても、それはまれで例外的な状況、あるいは間接的で従属的な方法に限られる。貴族院は確かにより大きな権力を持っており、依然として保留拒否権によって、大きな改正を選挙で選挙民に直接承認されるまで遅らせることができる。しかし、そのような承認の後では、たとえいかにわずかな賛成多数であっても、その多数派を獲得した動機がいかに疑わしいものであっても、そのような改正に抵抗することはほとんど不可能である。
アメリカでは、代表制議会の立場は庶民院の立場とは大きく異なっている。下院は閣僚が所属する機関ではなく、内閣(*行政府)を組織したり廃止したりする権限を持っていない。またそれは単なる数の民主的基盤に立脚せず、貴族院よりもはるかに現実的な抑制力を行使できる上院と対峙している。またそれは、下院とは異なる方法で最終的に男子参政権によって選出され、現代のブリテン君主よりもはるかに大きな独立した権力を行使する大統領と対峙している。下院は何よりも、偉大な独立した法廷に保護された成文憲法に拘束されており、それが圧倒的多数の人々の明瞭で確固たる意思であるという十分な証拠がない限り、約束を破ったり、国民の基本的自由を侵害したり、憲法を改正したりはできない。連邦憲法の改正は、議会の両院の3分の2の賛成、あるいは3分の2の州議会からの申請がなければ、提案することもできない。連邦憲法の改正案は、4分の3以上の州において議会の両院、あるいはそのために召集される特別会議で批准されない限り法律にならない。実際には、連邦憲法の修正案はすべて州議会によって批准されており、特別会議に提出されたものはない。
各州の憲法の改正は、さまざまな方法で実施されるが、決して単一の議会の単純多数決では行われない。確かに少数の州では、そのような多数決でそのような改正案が提出されることがある。しかし、それは常に一般投票、あるいはその後の議会、あるいはその両方による批准を必要とする。ほとんどの州では、単なる憲法改正の提案には3分の2あるいは5分の3の多数派を必要とする。そしてほとんどの場合、批准には3分の2、4分の3、あるいは5分の3の多数派を必要とする。しかし通常、州憲法の改正や修正にはもう一つの方法が用意されている。それは変更を提案するために特別に招集される会議であって、その提案は後に一般投票で批准されなければならない。1
1 州憲法を変更する方法の詳細な説明は、1893年4月に貴族院に提出された「外国議会で憲法の変更に必要とされる多数に関する報告書」に記載されている。
実際、アメリカ憲法は、民主主義の危険性を最も強く認識していた人々によって起草された。ワシントン(*ジョージ、1732―1799、初代大統領)とジョン・アダムズ(*1735―1826、第二代大統領)、そしてさらに強くガバヌーア・モリス(*1752―1816、憲法のかなりの部分を書いた)とアレクサンダー・ハミルトン(*1755―1804、憲法の起草者)に代表されるアメリカの思想学派は、連邦主義者にインスピレーションを与え、連邦党に具体化されたが、ルソー、ペイン(*トーマス、1737―1809、革命思想家)、さらにはジェファーソン(*トーマス、1743―1826、第3代大統領、独立宣言の起草者)の学派と完全に対立し、今日までアメリカの政策を主に導いてきた。それはアメリカが民主主義になることを妨げなかったが、民主主義の権力を砕いて、分割して、はるかに狭い範囲に制限する政体を作り、ヨーロッパ諸国の大半よりもはるかに悲惨ではない結果をもたらした。おそらくアメリカが生んだ最も偉大な政治思想家であったハミルトンは、政治思想の本質においてバークと同じくらい保守的であり、君主制への好感を決して隠さなかった。民主主義的な政府は専制政治に終わらざるを得ず、その間に公衆道徳と私有財産の安全を破壊することになると彼は信じていた。1
1 ヴァン・ビューレン(*マーティン、1782―1862、第8代大統領)著「アメリカ合衆国の政党」80、83頁。
アメリカ民主主義の成功の多くは、1787年憲法の卓越した知恵によるものであるが、この偉大な実験が試みられた非常に有利な状況も大きく寄与している。主に優れたブリテン人の血統を継ぎ、ブリテン立憲政治の最良の習慣と伝統をすべて受け継いだ国民は、その広さと資源においてほぼ無限の領土を所有しており、ヨーロッパ諸国を脅かしている最も深刻な危険から解放されていた。地方自治の習慣、妥協と自立の精神、清教徒主義が必ず確立する強力な道徳的基盤がすべてそこにあった。そして、アメリカの歴史の大部分において移民には非常に多くの困難が伴ったため、アメリカに渡った中に平均以上のエネルギーと力量を持っていない人々は少なかった。同時に、広大な未開発の無人の国が、冒険、野心、そして稼げる労働に無限の道を開き、数多くの病的な気質を消散させ、他の国であれば政治に浸透して国家に深刻な問題を引き起こしたであろう多くの底抜けの火山のようなエネルギーを引きつけ、活用した。アメリカにおける産業主義の圧倒的な優位は、確かにその最も際立った特徴の一つであって、その政治への影響は決して完全に良いものではなかった。他の原因とともに、産業主義は政界を低いレベルに置き、国の最良のエネルギーを政治からそらすことに貢献した。しかし満たされない心と抑えられない野心に大きな安全弁を提供した。国はほぼ完全に自立できるような状況にあり、恐れるべき外国の危険はなかった。外交政策はほとんど不要だったかもしれない。大した陸軍や海軍は必要なかった。そして、恵まれない国では自衛のために必要とされる金額を、着実に優れた国民教育制度の維持に充てることができた。アメリカは深刻な商業危機と不況の時期を何度も経験したが、その幸福の全般的なレベルは異常に高かった。財産は最初から非常に広く行き渡っていた。アメリカにおける低所得層の快適さの水準は、ヨーロッパ諸国の最下層よりは中流層に近い。ヨーロッパの最も深刻な政治的、社会的危険の一つである大都市の失業者の大群は、現在に至るまでアメリカにほとんど存在したことがない。
政府が民主主義の方向に進んできた主なステップを簡単に述べておこう。憲法はほとんどの点で建国の父たちの期待を実現したが、大統領を党派精神の外側に置き、民主主義の命令から独立させようとする試みは、見事に失敗してしまった。憲法は、各州が連邦議会の代表者と同数の大統領選挙人を選出し、これらの人々に大統領選出の任務を委ねることを規定した。選挙に関するあらゆる事項の一般的方針に従って、憲法は各州に選挙方法と大統領選挙人の資格の決定を委ねた。ただし、連邦議会の議員および連邦の公職にある者にはその資格がないことを規定した。このようにして、党派政治に深く関わっていない、立派な市民の小集団の独立的な投票によって大統領が選出されることを期待したのである。しかし、党派精神が高まり、大政党組織が成熟するにつれて、この制度は完全に失敗した。大統領選挙人は現在でも選出されているが、特定の候補者に投票するという明確な誓約のもとで選出されている。当初、ほとんどの州において選挙人は州議会で党派的根拠によって選出されていたが、やがてこのプロセスは十分に民主的ではないと思われるようになった。そこで選挙人らは男子直接選挙によって選出されることになり、政党組織が選んだ候補者を指名することが彼らの唯一の任務になった。(*現在は大統領選挙人の選挙は行われていない。選挙民は州ごとに大統領候補者に投票し、最も得票の多かった候補者が州の選挙人と同数の票をすべて獲得する。)
連邦上院選挙では、二段階選挙の原則がこれよりもいくらか持続している。しかし、ここでもかなりの変化が起こっている。よく知られている通り、連邦上院は各州の州議会によって2名ずつ選出された、任期が6年の議員たちで構成されている。(*現在は直接選挙で選ばれる。任期は6年、各州2名は同じ)この点において最大の州と最小の州は対等である。長い間、選挙方法は大きく異なっていた。「ある州では上院議員は発声で選出され、他の州では投票で選出され、ある州では各院の個別の投票で、他の州では両院が一堂に会しての投票で選出された。」1 1866年の法律で選挙方法は統一された。連邦上院議員は各院の発声投票で指名され、この方法で決着がつかない場合は、両院が同席して投票することになった。ごく自然に、かつ完全に、これらは政党選挙になる。実に近年、連邦上院議員が―州議会の独立的な選択という―本来の目的通りの存在だったことはほとんどなかったように思われる。「マシン」すなわち、各州の対立派閥を代表する組織は、州議会議員を完全に選出するのみならず、連邦上院議席を争う対立候補たちまでも指名する。そして州議会議員たちは、指名された候補者に投票するという厳格な誓約のもとに選出されるのである。この隷属は、大統領選挙における隷属ほど絶対的でも普遍的なものでもない。しかし、それは連邦上院議員選挙を、アメリカ政治のあらゆる分野を支配し、普通選挙を指導、管理する黒幕たちの直接的な支配下に置くに至った。2 州の数が非常に少なかった初期の連邦上院は、秘密裏に審議する小さな機関で、貴族院というよりは枢密院や内閣に近かった。それが設立されてから最初の5年間で、この秘密制度は廃止された。人口の増加に伴って連邦上院議員の数は増え、連邦上院は現在では立法府としての主要な特徴を備えているが、ヨーロッパの同様の機関が持たない特定の追加的な権力をも有している。
1 フォード(*ワージントン・C、1858―1941、歴史家)著「アメリカ市民マニュアル」1巻13―14頁。
2 ブライス(*ジェームズ、1838―1922、イングランドの歴史家、政治家)著「アメリカ連邦」131―132頁を参照。
革命当時、連邦下院議員の選挙権に課されていた数多くの制限はほぼすべて廃止され、アメリカはほぼシンプルな男子参政権の段階に到達した。19世紀の最初の10年間、メリーランド州がその先駆けになり、その例はすぐに追随された。ほぼ各州の完全な権限の下に残された選挙権の管理、制限、拡大は、革命的な変化を容易に実現できる主要な分野になっている。連邦憲法は、この問題を扱う州の権限に二つの制限を課しているだけである。一つ目は、各州の選挙人は「州議会の最大会派が求める選挙人資格を持っていなければならない」というものである。二つ目は、南北戦争後に導入され、南部諸州が通常の政治権力をまだ奪われていた時代の憲法改正であって「人種、肌の色、あるいは以前の奴隷状態を理由に」誰も選挙権から排除されてはならないというものである。確かに、選挙権は絶対的に普遍的なものではない。女性、子供、犯罪者、精神異常者、および帰化していない移民の排除に加えて、通常は居住および登録に関する簡単な資格が要求されるが、財産資格はほぼ完全に消滅している。アメリカの選挙では、投票者が実際に財産を所有していることはもはや必要ではない。ロードアイランド州の一地方の市町村選挙は例外と言われている。2 1880年には6州で納税による資格があったが、その後4州で廃止された。3 しかし、一部の州では、読み書きができないほどの文盲者や、実際に州の援助を受けている貧困者には、いまだに投票権がない。これらのわずかで部分的な例外はあるものの、一般的には男子参政権が広く普及している。
1 トクヴィル著「アメリカの民主主義」1巻91頁。
2 ハート(*アルバート・ブッシュネル、1854―1943)著「アメリカ政府に関する実践的エッセイ、1893年」28頁。ただし、公職に就く者に財産資格が求められるケースはまだいくつかある。
3 同上
私の見るところ、それはアメリカでもヨーロッパでも、ほとんど同じ方法で実現されたようである。一般的に、それは自発的な要求の結果でも、憲法を改善する可能性があるという真の信念の結果でもない。それは、対立する派閥の権力と人気をめぐる競争から生じたものである。選挙権の拡大は当然のことながら国民の叫びであり、したがって各党のリーダーは喜んでそれを掲げ、ライバルがそれを独占しないように気を配る。それはまた、建設的な能力を必要とせず、非常に単純な政策であるため、最も俗悪で無知なデマゴーグにも十分に実行できる。政権外の、将来の見通しに疑問を抱いている政党は、当然ながら有権者の性格を変えたいと望んでいる。そしてそのリーダーは新しい有権者が、何はともあれ初回は、彼らに投票権を与えた政党に投票するだろうと計算している。イングランドでは、このような公務のやり方はよく知られており、この種の打算が最近の参政権の劣化の主たる原因であると言って過言ではないだろう。重要な点の一つとして、アメリカの連邦制度は民主主義運動を強化する傾向がある。各州は当然、連合内で可能な限りの権力を持つことを望んでいる。そして南部諸州の一時的な衰退中に強行された憲法改正では、一般原則として、連邦下院議会の代表者は各州の人口に応じて配分されるが、その数は「反乱への参加、およびその他の犯罪以外の理由で」選挙権を剥奪される市民の数に比例して縮小されると規定されている。(*南北戦争の南軍参加者は選挙権を剥奪されるが、代表権を配分するための人口には数えられる。)
一般選挙(*popular election)は、アメリカのほぼすべての分野に広がっている。おそらく、最も有害なものは司法職への適用である。連邦裁判官の独立性と尊厳は、確かに憲法で保護されている。彼らを任命できるのは、上院の同意を得た大統領だけである。彼らは正しく振舞っている限りその職に留まることができ、イングランドの裁判官に比べれば少ないが、その地位を維持するのに十分な給与を得ている。連邦最高裁判所はアメリカ憲法の最も重要な部分の一つである。そして、その判決でさえ常に党派的動機の疑惑を免れていたわけではなかった。(*現在では完全に党派に分かれている)しかし全体として、能力と性格において地球上の他のどの司法機関にも劣っていないだろう。しかし州には司法を劣化させ、汚染する別の制度が広まっている。ほんの1830年まで、各州の裁判官は知事、州議会、あるいはその両者によって任命されていた。1878年には(*38州中)24もの州で裁判官が一般投票で選出された。裁判官の在職期間はわずか数年で、再選が可能で、給与が極めて少ないことを考慮すれば、これらの州の大半の司法機関が、イングランドではすべての司法機関に与えられている道徳的尊厳を欠いていることに、何の不思議もないだろう。数世代にわたってイングランドの裁判官に存在しなかった意図的な個人的腐敗が、アメリカではいくつかのケースで証明され、多くのケースで疑われており、裁判官は法廷において多くのケースで単なる党派の一員として行動するだろうという確信はさらに広がっている。アメリカの高度な文明社会と奇妙に調和しないリンチの蔓延の大きな原因は、多くの州における司法への不信感である。これは一般選挙制度の直接的で明白な、よく知られた結果である。
1 フォード著「アメリカ市民マニュアル」1巻136頁。
実際、アメリカのさまざまな派閥でどのような層の人々が裏工作員として働いているかを知っている人は誰一人、裁判官に指名された人々に優れた公平さや誠実さを期待しないだろう。ペンシルバニア州のモリー・マグワイア事件は近代史における組織犯罪の最も異例なものの一つである。これは、1863年から1875年にかけて、同州の無煙炭鉱で短期間に渡って恐怖政治を展開したアイルランド人の陰謀である。彼らが犯して何の罰も受けなかった無数の殺人と、彼らの会議に潜入してついに彼らを裁きにかけることに成功したアイルランド人探偵の並外れた技能と大胆さは、最も劇的で興味深い物語である。しかし、彼らに関連する最も奇妙な事実の一つは、彼らが獲得した政治的影響力である。彼らはいくつかの地区の町を支配し、多額の公的資金を自分たちの目的のために利用し、郡の運営に大きな影響力を持ち、両政党に求愛された。そして、彼らのうちの一人を裁判官の席に就かせることに、わずか数百票差で失敗した。1 ここで私ができるのは、ブライス氏の言葉を引用することくらいである。彼はこの問題について十分な知識を持って執筆している。そして正直にではあるが、しぶしぶ語る事実の重要性をできるだけ小さく見せたいと考えていることは明らかである。
1 非常に興味深い本、デューウィーズ(*フランシス・パーシバル、1837―1898)著「モリー・マグワイアズ」(フィラデルフィア、1877年)33、92―98、109、221―229、296頁を参照。
彼は書いている「おそらく六つか七つの州で、過去20年以内に一人、あるいは複数人の上級判事に一回、あるいは複数回、疑惑がかけられたことがある。これらの疑惑は根拠のないものだったかもしれない。それが実証された事例を私は一つしか知らないが、いくつかの事例で不正が行われたことはほぼ間違いない。判事は賄賂を受け取っていなかったかもしれないが、彼に報酬を与えたり、彼に不当な影響力を行使したりした人物の命令によって司法をゆがめた。…私は、二人、あるいは三人以上の判事が同時に不信感を持たれた州を聞いたことがなかった。ある州、すなわちニューヨークでは、1869年から1871年にかけて、明らかに正義を売り渡し、否定した上級裁判所の判事三人が失踪するに至った甚だしいスキャンダルがあった。ツイード・リングは、市の公庫を略奪していたとき、自分たちの悪行の調査を阻止できる共犯者が裁判官の席に座っていれば都合が良いことに気づいた。非常に短い任期での一般選挙制度によってそれが可能になった。そして―酒場の浮浪者、破産した弁護士、困窮した投機家といった―むしろ被告席の方がふさわしいと思われるような人物がその席に就いた。彼らは名声を持たなかったため、パトロンに絶対的に依存していた。…彼らは社会的非難を気にしなかった。なぜなら、彼らはすでにまともな社会から排除されていたからである。州議会は市の行政機関同様と同じく彼らの主人の手中にあったため、弾劾も彼らにとって恐怖ではなかった。…彼らがどれほどの不名誉に堕ちたのか、あまりにも多くの矛盾した話や噂があるため、確かなことは言えない。しかし、彼らが最も明白な実践的ルールを無視した命令を下し、一読もしていない差し止め命令を酒場から出し、悪名高いやくざ者を貴重な財産の受取人に任命し、自分たちと同類の仲間のために重大事件をひっくり返し、彼が言う通りにいかなる判決も言い渡したことは疑いようがない。…依頼人からの強奪システムが生まれ、各裁判官は周囲の悪名高い弁護士集団を豊かにした。裁判官は事件を彼らに委託し、費用の名目で法外な手当を与えたり、かなりの割合で彼らを管財人にしたりした。代わりに彼らは裁判官と略奪品を分け合ったり、裁判官が審判を受けるべきときに自分たちが裁判官席に上がって同じことを引き受けたりした。また、党派に何らかの資格を持っている犯罪者が処罰を逃れることが多かったことも間違いない。…なぜなら、知事、裁判官、弁護士、役人、警察はすべて党派に指名されていたからである。…ヨーロッパで大騒ぎになったエリー鉄道訴訟の例では、賄賂を贈る必要はなかった。道筋をコントロールし、親木に「水をやっていた」盗賊団は、街を支配し、裁判官を指名した盗賊団と結託していた。そして、これらの訴訟における恐るべき判決が、タマニーの指導者たちが手下の裁判官たちに行使した影響力によって得られたものであることに誰も疑問を抱いていない。」1
1 ブライス著「アメリカ連邦」3巻394―99頁。
これは、西洋の偉大な民主主義の中心地で、文明の最前線を歩んでいて、将来の民主主義の最高のモデルを提供したと自ら主張する人々の間で数年前に大いに盛んだった状況である。ブライス氏はその見かけを穏やかなものにすることに全力を尽くしている。彼は腐敗した裁判官はいくつかの州の少数派に過ぎず、ニューヨークの裁判官でさえ、政治的利害が絡んでおらず、特定の人物の影響も及んでいない通常の商業事件では、不当な判決を下したり「当事者の一方から直接の金銭による賄賂を受け取ったり」した証拠はないと信じている。彼はまた、同様の悪行を指摘するために、ほぼ3000年にわたる長い歴史を振り返っている。ヘシオドス(*BC700頃)は、判決に影響を与える贈り物を受け取った王について不満を述べた。フェリクス(*ユダヤ総督)は、聖パウロの釈放のための金銭を期待していた。東洋の偉大な専制政治では、司法の腐敗は常に一般的なものだった。革命以来、イングランドの首相の収賄が発覚した例が1つあった。そしてヨーロッパのより後進的な国のいくつかでは、「おそらく最高裁判所の裁判官を除いて、裁判官は疑惑を免れることができないと一般に考えられている。」
こうした問題は、その本質的価値に基づいて議論するべきだろう。政府が果たすべき数多くの職務のうち、人間の幸福にとって最も大切なのは、人と人の間の平等な裁判を保証することである。いかなる政治家も、合衆国憲法を起草した偉大な人々ほどには、この真実を意識してはいなかった。そして彼らはおそらく、当時の状況下における人間の先見力によって可能な限り、この真実をほぼ完璧に実現したのである。アメリカ人が一般的に法を遵守する国民ではないと考えるのは、大変不当なことである。彼らは、イングランドの行政機関が真似てもいいような、揺るぎないエネルギーと真に慈悲深く厳しい迅速さで何度も国内の混乱を鎮圧してきた。そして、国内の大部分では、間違いなく誠実な裁判が執行されている。しかしアメリカの歴史を辿るなら、真の自由と進歩のこの第一条件が、民主主義の原理によっていかに頻繁に、そして深刻に損なわれてきたかということに誰しも気づかざるを得ない。ミルが、多数派の専制は専制的な法律にのみ現れるのではない、と言ったことは正しい。時にそれは、その時代の世論に反するすべての法律を施行させない力として表れる。時にそれは、既存の法律の腐敗した、汚れた、不完全な施行として表れる。裁判官、陪審員、行政官が揃って派閥や暴徒の道具になるときほど、暴政が忌まわしいものになることは稀である。
この大きな不正行為と密接に関係しているのは、連邦政府と州政府の両方において、すべての小さな役職や官職を党派への奉仕への報酬として扱い、政権交代ごとにその役職者を変更するシステムである。これが有名な「猟官制度」であって、アメリカの公職の根底まで浸透し、それを腐敗させてきた。共和国の初期にはこれは存在しなかった。ワシントン(*任期1789―1797)は、大統領在任期間の8年間でわずか9人の役人を解任しただけであって、そのすべてには明確な理由があった。ジョン・アダムズ(*任期1797―1801)も同じ数の変更を行った。ジェファーソン(*任期1801―1809)は39人の変更を行った。その後の3人の大統領は、20年間でわずか16人の変更しか行わなかった。この中の最後の大統領、ジョン・クィンシー・アダムズ(*任期1825―1829)は、この点で非常に公正だった。ゴールドウィン・スミス(*1823―1910、歴史家)氏は書いている「ジョン・アダムズは利用しやすさではなく、その価値ゆえに選ばれた最後の大統領だったため、党派ではなく公務を唯一の原則とした最後の大統領だった。彼は公務員制度の永続性と純粋性の原則を非常に厳格に守っていたため、自分に対して陰謀を企てている郵政長官を、それと知りながら解任することを拒んだ。」
差し迫った巨悪の大部分は、1820年の法律によって準備されていたものである。この法律は数多くの下級官僚の任期を4年に制限し、同時に彼らを任意に解任できるようにした。政府のすべての役職を、いかに政治と関係ないものでも、党への貢献に対する報酬にするという現代の制度は、1829年にアンドリュー・ジャクソン(*任期1829―1837)によって確立された。(*猟官制度は連邦レベルでは1915年頃には終息したとされる。)この大統領は、ジェファーソンが始めたアメリカ共和国を純粋な民主主義国家にする事業を完遂したと言える。ワシントンのホワイトハウスの前には、アメリカの偉人の一人として彼の像が立っている。近代史上、最も途方もない政治腐敗制度の創始者として記憶されるにふさわしい人物である。それは比較的小規模に始まった。約500人の郵便局長が、党派の人々のために一度に解雇され、50人から60人の主な新聞記者を含む、党派のより活動的な人々がそのポストに就いた。ウェブスター(*ダニエル、1782―1852、大物上院議員)によれば、政府の見解を新聞で拡散することが、今や「行政の主な仕事」になった。この大統領の下では短期間に約2,000人が解雇された。1
1 ゴールドウィン・スミス著「アメリカ合衆国」192―203頁、フォード「アメリカ市民マニュアル」1巻138―40頁。
これが、政界全体にハンセン病のように広がったシステムの始まりであって、歴史上これに匹敵するものはないと私は信じている。それがどの程度実施されてきたかについての正確な統計を得ることは容易ではない。高潔な人格のみならず、発言と調査の綿密な正確さでも知られ、自らも公務員制度改革の仕事に主要な役割を果たしてきた非常に著名なアメリカの論者は、数年前に「連邦政府職員の集団はおよそ125,000人近くと推定され、年間給与は約8,000万ドルに上ると推定された。」と述べている。彼は1887年の前の2年間で、大統領の郵便局として知られる2,359の郵便局のうち約2,000局が交代し、52,699人の下級郵便局員のうち約40,000が交代したことを指摘している。税関徴収官111人のうち100人、税関検査官全員、測量総監全員、郵便局検査官全員、造幣局長13人のうち11人、収税官85人のうち84人、地方検事70人のうち65人、蒸気船検査官11人のうち8人、年金管理官18人のうち16人、地方土地管理官224人のうち190人が2年のうちに交代した。しかもそれは公務員制度改革の支持者として就任した大統領の下で行われたことなのである。これらは、私が引用した論者の言葉を借りるなら「官職が政治的負債を返済し、政治的傭兵の奉仕を得るための通貨にされる」数多くの方法のうちのほんの一例に過ぎず、この大統領は「政治的目的のために約10万人の公務員を解雇した」と推定している。1
1 ヘンリー・C・リー(*1825―1909)著「クリーブランド氏と公務員制度改革に関する注目すべきエッセイ」を参照。1888年10月18日インディペンデント紙より転載。
私が知る限りアメリカ政府に関する最も優れた簡潔な解説を書いた、もう一人の非常に有能なアメリカ人の論者は「連邦政府だけでも、行政に発言力を持たない役職者が9万人近くいる。しかし、事務局長や事務官は業務を遂行するために必要であって、新しい領域が開拓されるにつれて、その数は絶えず増加している。」と述べている。これらの役職者は行政能力ではなく「指名、影響力、政府の好意によって」組織的に補充される。絶え間ない解任の慣行には、ジャクソンの時代以来「大小、全国、地域を問わず、すべての選挙においてすべての政党が従ってきた。」これらの任命権の大部分は、指名について大統領に助言する権利を主張する上院議員と下院議員の手に握られている。彼らは「自らの州や地区における連邦政府の任命権があたかも自分たちの私有財産であるかのように任命を指図」し、それを組織的に政治的影響力を高めるために利用し、政治的奉仕の報酬にするのである。
そしてこの制度は、政党政治から可能な限り離れた職務を担うべき無数の役人を熱心な政治家に変えてしまうのみならず、大きな政党組織のスタッフを供給し、役職を獲得し維持することをすべての党派抗争の主な動機にするのみならず―「完全に無責任な委員会によって行われ、党派の目的を推進するために利用される、あらゆる階級の役職者に対する政治献金制度」をも生み出している…名目上、そのような運動費の寄付は公職者によって「自発的に」行われているが、数多くの状況がその本質を明らかにしている。例えば、委員会は各人が支払うべき金額を決定する。1882年には年間給与の2%が義務付けられた。それは局長から政府海軍造船所の最下級労働者まで全員に課され、共和党員にも民主党員にも同様に課された。さらに、呼びかけに応じなかった場合、委員会の職員が各部署を回り、滞納者一人一人に直接働きかけた。事務員は経験によって、支払わなければ解雇されることを知っており、この事実は寄付の「自発的」な性質をさらに強く浮き彫りにしている。…委員会は、このように集められた資金を適切と判断した場合に支出することができるが、その支出については誰にも報告する必要はない。それは選挙に影響を与えるための「汚職資金」になっている、というのが真実である。そして、その支出方法は公務にとって、それを集める方法と同じくらい悪質で堕落している。この問題は立法のテーマにもなったが、何の対策も取られていない。」1
1 フォード著「アメリカ市民マニュアル」1巻130―41頁。リー氏は次のように書いている。「ペンドルトン法が公職者からの徴収を禁止していても、民主的な委員会からの回状がヴァロンブローザ(*フィレンツェ近郊の森)の葉のように厚く、ニューヨーク税関でマクギネス未亡人の豚の福引が(*キャンペーンに)非常に効果を上げ、ワシントンに派手に事務所が開設され、すべての事務員に寄付を受け付ける準備ができていることが個人的に通知されるなら、無駄である。」(「クリーブランド氏と公務員制度改革」4頁。)
3人目の有能なアメリカ人憲法学者は、南北戦争による負債と税の増加によって、1860年から1870年の間に米国の公職者の数が4倍に増えたこと、そして彼らの任命は、候補者の能力に関係なく、党派の思惑だけで組織的に行われていることを指摘している。「この制度は、米国の公職を無能で腐敗した高官で埋め尽くし、党のために働くという条件で公職に就くことを嫌悪する有能な人物を政(#官?)界から締め出すのみならず、これらの公職者の部下全員に適用される同じ制度を作り出した。…彼らは、運動のための政治資金として、かなりの額を定期的に徴収されていたし、現在もそうである。このようにして、繰り返される大統領選挙のたびに、さらには地方選挙にさえも、米国の公職者から何百万ドルもの資金が集められている。…こうした賦課金が支払われたのは、政権交代が起こって、反対派が統治するようになったなら、自分たちは公職から追放されることを知っていたからである。…米国の忌まわしい「猟官制度」の弊害は、職員の無能さ―アメリカ人は順応性が高いため、公職の日常業務を素早く習得できる―や公金の浪費(米国のように生産力が豊かなコミュニティでは、収奪されうる金額に耐えることは容易である)にあるのではない―主な弊害は、猟官制度が両党のモラルを低下させ、原理を追い求めるべき争いにおいて、主に略奪を追い求めさせることである。」この影響で、4年に一度の大統領選挙は「単なる公職争い」になってしまったと筆者は付け加えている。1
1 スターン(*サイモン、1839―1901)著「アメリカ合衆国憲法と歴史」227―31頁。
この制度は、民主主義の産物であることは明らかである。支持者らはこれを公職のローテーションと呼んでいる。それは短い在職期間と頻繁な解任によって、公職をできるだけ多くの人々に開放している、という理由で擁護されている。そして、ブライス氏の言葉を借りれば、「能力と昇進に関係があるとは誰も考えず、任命の口実を信じる者もいない」1 が、その民主的な性格と、大勢の人々の利己心に訴えることが、この制度を人気にしている。また、ブライス氏が指摘する通り、これは、アメリカで、より品行方正な階級を政界からうまく排除し、その運営全体を職業的政治家の手に委ねている「マシン」製の政治制度の主な要素でもある。ここで読者に紹介できるのは、ブライス氏が「マシン」の働きを説明した教訓的な章だけである。彼は、投票を集めて指図するための委員会や組織の極端な精緻化と増加、および政党の方針で実施され、政党の力を増減させる膨大な数の地方選挙は州の政治を非常に時間の取られる仕事にするため、それを人生の主な仕事にしない限り、誰も大きな影響力を持つことを期待できなくなってしまうと述べた。同時に、公職に就いている膨大な数の人々、そして公職を志望しているさらに数多くの人々が、それらの組織の無数の代理人になる、彼らは人々が生計を立てるために働くのと同じように彼らのために働く。役人への貢物は腐敗の十分な動機になる。「市、州、および国の政府のための予備選挙、大会、および選挙を管理するという、膨大で増え続ける政治活動…これは、民主的感情の発展と政党間の闘争の必要性によって1820年から1850年頃まで発展したもので、それに絶えず専念する人材が必要だった。公職ローテーション計画がこうした人材を提供した。自ら何も得るものがない人は、すぐに仕事に飽きてしまうだろう。…しかし、生計を自らの党に依存している人々には、党のために働き、新人を募集し、組織を管理し、選挙運動において並の党派心を怯ませるような策略を実行することが期待できる。つまり職業政治家は猟官制度―つまり公職を私的略奪品とするシステム―によって初めて生み出されたものである。…政治の仕組みを堕落させ、歪めたのは、これらの略奪者である。予備選挙に詰めかけ、大会を支配して、国民の選択の自由を破壊し、いくつかの州や都市の名誉を傷つける選挙詐欺、すなわち票の水増し、投票の妨害、不正な集計を企てて実行するのは彼らである。…アメリカでは公務員は職業ではない。またローテーション制度の下では職業になることもできない。職業は地位の獲得であって、役職は公的信託ではない。それは党派への奉仕に報いる手段であり、また、前述の賦課金によって、政党の選挙資金を調達する資金源でもある。2 ヨーロッパの同じ階級と比較したときの」アメリカの政治家の「特徴は、彼らの全ての時間を政治活動に費やす頻度が高いこと、彼らのほとんどが政治から収入を得ており、その他の人々もそれを望んでいることである。」3
1 「アメリカ連邦」2巻488頁。
2 ブライス、2巻485―89頁。
3 同上399頁。
一つの非常に自然な結果は、アメリカほど大政党間の争いが精力的に、粘り強く戦われている国は世界中どこにもないが、その争いの動機がこれほど純粋で、これほどひどく卑劣な国は世界中どこにもないということである。他国と同様に、アメリカでも政治家グループが偉大な利他的大義を主張していることは間違いない。しかし、それは通常党派の内部にあって、党派的分裂の真の原因ではない。他の国ではそうではない。利己的で腐敗した動機は間違いなくたくさんあるが、イングランドの自由党と保守党、統一派と急進派の争い、大陸の党派を分裂させる王朝間の大きな争い、君主制と共和主義、聖職者主義と反聖職者主義、労働者と資本家の間の争いには、常に何らかの真の原理、利他的な熱意という強力な要素が存在している。アメリカではそうではないようである。このことは部分的には疑いなく、他の国々との真剣な関係をほとんど持たず、教会と宗教の利益が国政からほぼ完全に分離されており、憲法が根本的な変化に対する克服できない障害になっているこの国には、大きな争点が存在しないことによるものである。しかし、それ以上に自己利益と、そのような利益に動かされる階級が政治において圧倒的に優勢であることによるのである。私はこの問題についてスターン氏の力強い言葉を引用した。ブライス氏の言葉も非常に似ている。彼は言う「政治は今や、弁護士、株式仲買人、乾物貿易、あるいは会社の設立のように儲かる職業になっている。人々は、第一に、自分が得ようとしている地位に付随する給与のために、第二に、それに付随する、時には不当な利益を得る機会のために、政治に携わるのである。」「共和党と民主党には、確かに鬨の声、組織、支持することによって得られる利益がある。しかし、それらの利益は主に、政府の役職を得る、あるいは維持するという利益である。信条や政策、政治原則の要点、政治的実践の要点はすべて消え去った。それらは捨てられたのではなく、時間と出来事の進行によって剥ぎ取られたのである。一部の政策は実現され、他の政策は消え去った。官職、あるいは官職への希望以外はすべて失われた。」1
1ブライス、2巻345、392頁。
アメリカの公職から腐敗を一掃しようとするためには、この猟官制度の廃止が絶対に必要であるというのは、アメリカの最も優れた人々が最も完全に同意するところである。残念ながら、この制度は数多くの利害や強い情熱にアピールするものであって、大政党の通常の活動に完全に組み込まれている。それゆえ、これと戦うことは非常に困難であって、現役の政治家たちはほとんど真剣に取り組んでこなかった。この方向への努力は頻繁に行われてきた。1839年には、政府職員の大規模な選挙介入を阻止しようとするカルフーン(*ジョン、1782―1850)の試みがあったが、失敗に終わった。1853年と1855年には、ワシントンの公務員の一部に試験を要求する法律が制定され、1871年には別の法律が制定された。しかし、それらはほとんど空文書に過ぎなかったようである。1この問題は議会で頻繁に取り上げられていたが、1883年に成立し、約125,000人の公務員のうち約15,000人に適用されたペンドルトン法と呼ばれる法律が施行されるまで、実際に有効な措置は講じられなかった。この法律では、一部の省庁に競争試験制度が導入され、任期が実質的に固定化され、ほとんど成功しなかったようだが、政治献金の賦課制度の阻止が試みられた。
1 フォード、1巻141―42頁、ブライス、2巻490頁。
それ以来、競争試験制度は多少拡大されてきた。アメリカ政治に関して最近の論者の一人は、米国のすべての公務を執行するために雇われている約180,000人のうち、約43,800人の政府職員は現在、猟官制度から外されていると述べている。しかし彼は、民主主義の世論が全体として、ローテーションと政治的任命制度の廃止に賛成しているかどうかを大いに疑問視している。1 しかし、この制度を廃止しようとする無視できない運動が始まっており、マグワンプ(*一匹狼)として知られる改革派が、いくらかの真の影響力を持つようになったと言われている。ギルマン(*ニコラス・ペイン、1849―1912、経済学者)氏の意見によれば「数多くの小さな公職の配分に関して大きな改革が達成されるまでは、いかなる州や国の公務員の増員にも、議論の余地なしに反対する」独立的集団は「幸いにも、ますます権力のバランスを握るようになっている。」「公立慈善団体、無料学校、公立図書館、公立公園、その他数多くの市町村行政の目玉を政治から切り離そうとする強力な傾向が成長しつつある。」と彼は付け加える。ギルマン氏は公職を「政治から切り離す」とは「それを腐敗から誠実の手に引き渡す」こと、そしてそれを「国民全体の利益のための公的信託」として扱うことを意味する、と非常に特徴的な説明をしている。2
1 ハート著「アメリカ政府に関するエッセイ」82、83、91―96頁。
2 ギルマン著「社会主義とアメリカ精神」(1893年)178頁。
下級公務員の増加は、猟官制度と、政府の職務を拡大するという現在の傾向の当然の結果であって、深刻な懸念を引き起こしている。最近の公務員委員会は、1891年の米国の郵便局の「従業員」数を112,800人、その他の「従業員」数を70,688人としている。委員会は「人口の増加と比較したとき、政府職員の数は非常に驚くべき増加を見せている。…政治目的に利用可能な部局の拡大は、共和制政府に対する、急速に増大しつつある脅威である。」と述べている。ギルマン氏は、すべての改革者の第一の目的は「政党の行政権をさらに制限すること」でなければならない、というカーティス氏の発言を引用している。この政治家はアメリカでは「王権神授説という迷信は国王から政党に引き継がれ」それが間違いを犯すことはないという信念が「大衆の実践的な信仰になった。」と述べている「それは、全ての公務員を訓練された規律ある軍隊にした。そしていかなる犠牲を払おうとも、それを制御している政党が選挙に勝つことに、彼らの生活はかかっているのである。」1
1 ギルマン著「社会主義とアメリカ精神」(1893年)310―11頁。
全体として、外部から見る限りでは、あまり顕著なものでも決定的なものでもないかもしれないが、この分野では改善の兆候が実際にあるように思われる。戦争の直後(*1865年)の時期は、腐敗の拡大に特に適していたことを忘れてはならない。突然の莫大な負債の増加、それに伴う公務員の増加、国の大部分における政治活動の麻痺、そして依然として蔓延していた社会的、産業的、政治的無政府状態の数多くの要素ゆえに、職業政治家の仕事は容易で実入りの良いものになった。米国中に急速に広まった大きな改善の一つは、無記名投票への変更である。私見では、政治が本当に健全で独立的な基盤の上に成り立っている国では、無記名投票は本質的に悪である。政治における権力は責任から切り離されるべきではない。そして、無記名投票の目的は選挙人が絶対的に責任を問われないことである。それは、両陣営に向けられた意見、知識、性格の本当の力を評価することを不可能にし、選挙の道徳的重要性を不明瞭にする。それは独立と誠実の精神を弱め、欺瞞と詐欺、金銭的、卑劣な、有害な動機の働き、そして聖職者の影響という政治的な巨悪に大いに便宜を与える。しかし、政治家の仕事は通常、最善の選択肢を選ぶことである。そして脅迫や腐敗が蔓延しているところでは、秘密投票によって生じる悪は、それが防ぐ悪ほど深刻なものではないだろう。
アメリカにおいて、無記名投票制度は実際には秘密を保護しておらず、選挙人の権利をすべて「マシン」の手に委ねることを特別に意図していたように見える。そしておそらく実際にそうだったのだろう。各組織の代理人は投票所に立ち、各党の候補者の名前を記した投票用紙を有権者に渡し、投票者がそれを投票箱に入れるまで監視の目を注いだ。もちろん投票者は用紙の名前を変えることはできた。しかし大多数のケースにおいて、有権者の投票先は政党代理人によって指示され、知られていた。1 しかし1890年と1891年に、この制度を変え、いわゆるオーストラリア式投票を導入しようという強力な運動が起こった。その主な特徴は、州が各党の投票用紙の製造と配布を禁じ、投票者の投票所における絶対的な秘密と干渉からの自由を守ることである。オーストラリア式投票用紙は5年間に35州で採用され、党員集会組織の力を弱め、選挙でよく見られたさまざまな不正行為を抑制する効果があったようである。2
1 ブライス、2巻492―95頁を参照。ただし、各州では制度に多少の違いがあった。(フォード「アメリカ市民マニュアル」1巻103―8頁)
2 ギルマン著「社会主義とアメリカ精神」169―170頁、「季刊政治学」(ニューヨーク)1891年、386頁。
アメリカ政治の堕落の大きな原因の一つは、公的な経験がなく、国の安泰に真の関心を持たない無知な移民に、極端に安易に投票権を与えたことである。より賢明なアメリカの観察者のほとんどは、公立学校と、そこで獲得される高度な知識と知性が、制度の健全な運営にとって最も重要な条件の一つであることに同意している。長い間、アメリカの選挙民は確かに世界で最も教育水準が高かった。しかし、無知な移民と黒人有権者の洪水がそこに流れ込んで以来、彼らはこの地位を主張することはできなくなった。
1798年、ヨーロッパには革命分子が蔓延していた。それが米国に入ってきて深刻な不安が発生したため、帰化法において必要な居住期間が5年から14年へと延長された。しかし、この法律は4年間しか有効ではなかった。1854年とその後の2年間、アメリカ政治に大きな役割を果たしたノウ・ナッシング党は1798年の政策を復活させようと努めた。この政策は、アイルランド飢饉に続く大量移民の悪影響が明らかになった時期に成長し、カトリックの聖職者が公立学校に敵意を示し始めたこと、一部の聖職者が公立学校から聖書の朗読を排除しようとした(*カトリックは信者が聖書に直接触れるのではなく、聖職者を介することを勧めている)ことによって強化された猛烈な反カトリック的狂信に後押しされた。彼らは少なからぬ不法行為を行い、1855年には9州の選挙で勝利し、1856年には大統領候補を指名したが、奴隷問題に関する分裂と、奴隷問題がアメリカ政治に持ち始めた超越的な重要性ゆえに、たちまち消滅した。ワシントンは、ある大きな危機の瞬間に「今夜は米国人以外の者の者に警備をさせるな」と命令したと言われている。そして、この言葉はノウ・ナッシング党のスローガンになった。彼らの基本的な目的は、外国人とカトリック教徒を国、州、郡、市の公職から排除すること、移民は21年間、あるいは少なくとも15年間は居住してからでないと市民権を得られないように帰化法を変更することだった。1
1 ノウ・ナッシング運動に関する多くの情報は、ローズ(*ジェームズ・フォード、1848―1927)氏の「1850年妥協からの米国の歴史」第2巻、および1894年7月のフォーラム誌に掲載されたマクマスター(*ジョン・バッハ、1852―1932)氏の記事に記載されている。
今では、アメリカ憲法に宗教的欠格条項を導入するという提案を擁護する人はほとんどいないだろう。しかし、ノウ・ナッシング党が帰化に必要な居住期間を延長することに成功していたなら、アメリカの政界に異なる性格を与え、その道徳的雰囲気を計り知れないほど高めていたかもしれない。彼らを弁護する最大の根拠は、彼らの敗北直後に起こったニューヨーク州政府の巨大なスキャンダルに見出される。特にある階級にとっては、帰化法の変更は計り知れないほどの恩恵だっただろう。ニューヨークに何万人も流入した、貧しく無知で無力で飢餓に苦しむ農民たちが、すぐに真っ当な産業に従事すること勧められ、国中の農場に散らばって、15―20年間アメリカ政治の腐敗した影響から守られていたなら、アメリカにおけるアイルランド的要素がどれほど違ったものになっていたかは分からない。しかし、抜け目のない党幹部たちはすぐに、これらの貧しい人々が彼らの(*カード)ゲームにおける最高のチップの一部であることに気づいた。彼らの大半は、慣れ親しんでいたものよりもはるかに高い賃金がたちまち得られる見込みがあったため、上陸した大都市に留まった。彼らには指導者がいなかった。彼らの見知らぬ土地での新しい状況への適応力は子供と変わらなかった。そして彼らの唯一の純粋な政治的感情は、ほとんどイングランドに対する憎悪だけだった。ドイツ系と同様に、彼らは最初から大都市に集まる傾向を顕著に示した。1890年の計算によると、アメリカのアイルランド系の3分の1は、依然として10大都市に居住しており、それらの都市の人口を合わせると、13人に1人がアイルランド系で、ニューヨークでは、人口120万人強のうち19万8千人がアイルランド系だった。1 連邦法では帰化に5年が必要とされていたが、一部の州法ではより短い居住期間でも投票権が与えられており、連邦法は簡単に、そして頻繁に破られた。アメリカの公的な問題にまったく無知で、公共の利益にまったく無関心な大勢の人々が、党組織の中で速やかに訓練された。彼らはすぐに教訓を学んだ。彼らは、マシンを操作し、不確かな選挙のバランスを覆し、大勢が規律正しく一斉に投票し、私欲のために政治権力を利用する稀有な才能を身につけた。アイルランド民族がアメリカ政治に与えた影響、そしてアメリカ政治がアイルランド民族に与えた影響ほど悲しい歴史は数少ない。
1 ハート著「アメリカ政府に関するエッセイ」192、204頁。
黒人の参政権によって、まったくの子供のように無能な、膨大な有権者集団が新たに加わった。それは主に移民投票の汚染を免れた地域に起こった。戦後しばらくの間、南部における財産と知性の影響力は完全に打ち砕かれていた。そして表面上黒人投票が最大の力をもっていた。その結果は予想通りだった。アメリカでカーペット・バッガー(*カーペット・バッグ:旅行鞄)として知られる、北部の放浪政治的冒険家の一団が南部諸州になだれ込み、卑劣な白人の残党とともに黒人投票の指揮を執った。その後には北軍の銃剣に保護された、政府のグロテスクなパロディ、無政府状態、暴力、とめどない腐敗、あからさまでこれ見よがしの侮辱的な強盗の醜悪な狂宴が続いた。それは世界にほとんど存在したことがないものだった。州の負債は膨れ上がり、法律は公然と売りに出された。「ボス」たちは栄華を極め、多額の報酬を得たが、一方、打ちのめされ、破産し、略奪された白人たちは自衛のために秘密結社を結成し、数え切れないほどの残忍な仕返しで抑圧者に報復した。一ついに北の一団は撤退し、状況は一変した。カーペット・バッガーたちの時代は終わった。そして彼らは南部の戦利品を背負って自らの州に戻った。農園主たちは、一部を暴力、一部を詐欺、しかし大部分を服従と命令という古い習慣の力によって、短期間のうちに支配権を取り戻した。時に、彼らは黒人の票を数えなかったこともあったと言われている。概して彼らは黒人の票を支配し、組織的な改ざんや脅迫によって南部の平穏とある程度の繁栄を回復させた。民主的な平等が、それに全くふさわしくない人々に与える影響を描いた、これほどまでに興味深い光景は過去にはなかった。北部が、黒人のための公教育のあらゆる機関を導入したことは事実である。しかし、そのようなものに対する欲求があったとしても、それはたちまち消え去った。南北戦争終結の約23年後にブライス氏は「大まかに言えば、成人の有色人種有権者の75%は文字を書けず、残りのほとんどは新聞を読む習慣がない」と書いている。2
1 ブライス、2巻520―21頁、ゴールドウィン・スミス、300頁を参照。M.モリナーリは、非常に興味深い著書「米国とカナダに関する手紙」の中で、カーペット・バッガーが権力を握っていた間に南部で存在した異常な恐怖政治と略奪を示す多くの事実を集めている(185―97,270―72頁を参照)。
2 ブライス、2巻92―93頁。
私が述べたシステムは、州や連邦の政治よりも市町村の政治においてさらに有害であることが明らかになった。無名の場所で無名の人物が選出される無数の選挙は、当然ながら一般の関心を喚起することはない。そして、必然的にそれらは少数の職業政治家の手に渡った。最も悪名高いニューヨークの腐敗は、もっぱらアイルランド人の投票のせいにされることが多い。しかし、アイルランドの影響がまったく感じられなかった19世紀の最初の四半期に、ニューヨーク州とニューヨーク市は「アルバニー・リージェンシー」と呼ばれる徒党の手に渡っていた。この徒党は後の徒党のほとんどの特徴を小規模に備えていたようである。「州知事や上院議員から州の最も辺鄙な地域の治安判事に至るまでの強力な役人の集団」が、腐敗した政治家の小さな集団の利益のためだけにニューヨークを統治していたと伝えられている。「司法機関」は「公職の売買の修羅場」だった。治安判事はみな党派の手先であり、ほぼ例外なく腐敗していた。1 1842年から1846年の間、アイルランドからの大規模な移民がまだ始まっていなかった頃、ニューヨークでは別の種類の悪が蔓延していた。公立の救貧院の入居者は選挙の日に施設から出て投票するのを許可されるのが慣例だった。あるアメリカ人の論者は、当時「救貧院はニューヨーク州の政治において重要な要素になっていた。なぜなら、貧民たちは政権与党によって投票に送り出され、指示通りに投票しなければ援助を打ち切ると脅されていたからである。そしてその数は、彼らが投票した選挙区の形勢を一変させるほどのものだった。」と断言している。2 この種の濫用が、アメリカ政治における近代最大の進歩の一つ―いくつかの州における絶対的貧困層の選挙権の剥奪―につながったのである。
1 著名な政治家ウィリアム・H・スワード(*1801―1872)の1824年10月5日の演説を参照:スワード著「ニューヨーク」1853年、3巻334―337頁。スワード氏の最初の政治的活動は、アルバニー・リングに抵抗することだった。
2 フォード著「アメリカ市民マニュアル」1巻88―89頁。
しかし、その腐敗が州とニューヨーク市の全権力がタマニー・リングに握られていた1863年から1871年の間に到達した規模に迫るようなものではなかったことは事実である。このとき、人口の9分の4は外国生まれだった。その大部分は最近の移民で構成されており、アイルランド系カトリック教徒の投票はリングを「固く」支持していたようである。州議会の大半、市長、知事、裁判官の何人かといった、支出を指図、割り当て、監督、管理する権限を持つ市当局のほとんどすべてがリングの手先だった。文明世界の他の主要都市で、平時にこれほど大規模で組織的かつ継続的な略奪のシステムが目撃されたことはなかった、と私は思っている。計算によれば、公共事業に費やされたとされる金額の65%は不正な上乗せだった。1860年から1871年の間にニューヨークの負債は5倍に膨れ上がり、リング政府の最後の2年半には年間550万ポンド以上のペースで増加した。1 著名な外交官でもあり、ヨーロッパの首都の状況に精通している著名なアメリカ人の論者は、次のような教訓的なコントラストについて述べている。「ベルリン市は、その規模と成長の速さにおいてニューヨークに匹敵する。120万人の住民を抱え、過去30年間で人口は3倍になった。…ベルリン市民の生活は威厳があって経済的なものである。道路はよく舗装され清潔であって、下水システムには最も費用がかけられていて、公共の建物は立派で、生命、自由、幸福を追求する権利はわが国の中心地よりもはるかによく守られている。しかし、市民はニューヨーク市の公債の利子よりほんの少し高いだけの費用で市政全体を運営しているのである。」
1 ブライス氏の第3巻にあるグッドナウ(*フランク・ジョンソン、1859―1939)氏の「ニューヨーク市のツイード・リング」についての章を参照。特に179、190、195頁。
同じ論者は述べている「私は謹んで検証が容易な事実を述べたい―他の文明国では、概して、自治体の行政は着実に改善され、概して誠実で役立つものとなっているのに対し、我が国の市町村の行政は概して世界最悪であり、日々着実に悪化しているという事実である。」1
1 「19世紀から20世紀へのメッセージ」アンドリュー・ディクソン・ホワイト(*1832―1918)著(ニューヘブン、1883年)14―15頁。また、同じ著者による「アメリカの都市の政府」(フォーラム誌、1890年12月号)に関する有益な記事も参照のこと。
実際、ニューヨークのケースは極端ではあったが、決して特異なものではなかった。「都市の行政は、合衆国の一つの顕著な失敗である」とブライス氏は言う。「州政府の欠点は、ほとんどの大都市の行政の特徴である浪費、腐敗、杜撰な管理に比べれば取るに足りないものである。なぜなら、これらの悪弊は一つや二つの都市に限ったものではないからである。…20万人の人口を持つ都市で、有毒な病原菌が活発に働いていない都市は一つもなく、人口7万人以下の小規模な都市において、その増殖の結果を見るために顕微鏡は必要ない。三級の都市でさえ、同様の現象が時折認められることがある。だが、誰かが言った通り、ニューヨークやサンフランシスコを漆黒とするなら、そこは他愛のない灰色に過ぎない。」1 この問題がアメリカ以上に重要な国は世界中どこにもないことを付け加えておくべきだろう。なぜなら、今世紀に都市がこれほど大きく、これほど急速に増加した国はないからである。その間に人口8,000人以上の町に住む人口の割合は、4%から23%以上に増加したと言われている。2
1 ブライス、2巻281頁。
2 ハート著「アメリカ政府に関するエッセイ」162―205頁に掲載されているアメリカの都市に関するエッセイ、およびスプリンガー氏の「都市の成長と政党政治」に関する論文、フォーラム誌1890年12月号を参照。
ブライス氏は、信頼できるアメリカの情報源から、この市町村による強奪の主な形を列挙している。公共の主要道路の独占的使用権の売却、契約における組織的な不正、公職任命権の甚だしい濫用、必要な公共事業に対する莫大な過剰請求などが存在する。都市は、所有者が売却を希望したために公園や敷地用の土地の購入を強いられたり、報酬として腐敗した工事契約を与えるために、住民のいない道路を整地、舗装して、下水道を通したり、価値のない不動産を法外な価格で購入したり、ある役職を廃止して同じ仕事をする別の役職を創設したり、公務員の報酬を再分配するためだけに役職の職務を変更したり、役職の借主が党の資金に多額の支払いをするように給与を不当に高くしたり、腐敗した、あるいは無能な人物の在職を保証するために役職の任期を延長したりすることを強いられた。増税が抵抗を呼び始めると、偽りの口実で、そしてしばしば偽造された会計を利用して公債が開始される。すべての主要都市で、自治体の公債は莫大な額に膨れ上がって、恐ろしいほどの速さで増加した。「1860年から1880年の20年間で、連邦の都市の負債は約1億ドルから6億8200万ドルに増加した」と、あるアメリカ人論者は述べている。1860年から1875年までに、11の都市の負債は270.9%増加し、税金は362.2%増加した。一方、課税評価額の増加率はわずか156.9%、人口の増加率はわずか70%だった。1 1876年のニューヨーク委員会は、米国の現在の都市債務の半分以上は意図的で腐敗した悪政の直接的な結果であると宣言したが、おそらく事実を過小に述べたのだろう。2
1 スターン著「アメリカ合衆国」267頁、またブライス、2巻280頁も参照。
2 ブライス、2巻278―87、469―74、521頁。
率直な人物なら、これを不思議に思うことはないだろう。これは、極端な民主主義的手法を市政に適用した場合の、明白で避けられない結果である。アメリカでもイングランドと同様に、市町村選挙は国政選挙ほどの関心や注目を集めることができない。小さな役職がすべて一般選挙で選ばれ、その選挙が絶えず繰り返されるなら、忙しい人物がその詳細を把握したり、目の前に現れる数多くの無名の候補者について判断を下したりすることは不可能である。民主的な人々は、財産資格をあまりにも貴族的なものと見なしている。かつては多くの憲章に見られたであろう、納税の義務を持たない者に、増税や税の支出に関する提案について投票させてはならないという古き良き条項は消えてしまった。「それは非民主的であると見なされる。実務的な人々はそれを一般投票にかけることは無用であると言う。」1 選挙は男子参政権によって行われる。適度な課税と経済の運営に関心を持つ有権者はごくわずかである。そして、通常はパワー・バランスを操るために十分な数の票が、最近移住してきた無知な移民の手に握られている。狡猾で不誠実な人々の目的に適う、これ以上の状況が考えられるだろうか?彼らの目的は私利私欲であって、その手段はコミュニティの危険で無知な要素を結集させて選挙を引っくり返し、税金を徴収し、行政官を任命することである。
1 ブライス、2巻291頁。
リングは非常に巧妙に構築されているため、敵対的であることが判明している市民をほぼ常に公職から排除できる。ただし「戦おうとせず、評判の良い看板になりそうな善良で穏やかな人物は、優れた投資の対象になる可能性がある。」1 時には間違いなく、ボス同士が仲違いして、その争いが誠実な政府の大義にいくらかの利益を与えることがある。しかし一般的に、政府が絶対的に耐えられないものでない限り、より勤勉で品行方正な階級は、市政の胸の悪くなるような空気からは距離を置き、支配的なリングとの戦いという長く困難で不確かな仕事を拒否する。ホワイト氏は言う「市の問題は事実上、いわゆる政治をビジネスにする少数の人々に委ねられている。かつて私の面前で、わが大都市の有力な実業家がこの問題の核心に触れたことがある。彼はこう言った『私たちはこの件についてよく考えたが、市政に気を配るよりも無視する方が得策であることがわかった。私たちが政治的義務を完全に果たすために必要な時間で、私たちが義務を果たさないがゆえに政治家が奪い取る金よりも多くの金を稼ぐことができるのだから。』」2
1 ブライス、2巻469頁。
2 ホワイト著「19世紀から20世紀へのメッセージ」15―16頁。
しかし多くの場合、悪弊は間違いなく耐え難いものになり、1871年にニューヨークで頂点に達した略奪のカーニバル(*プロテスタントとカトリックのアイルランド移民が衝突したオレンジ暴動、これを抑えられなかったタマニーは権力の座を追われることになった)は世論に衝撃を与えた。そして実際の改善をもたらしたように見える一連の法改正のきっかけになった。スターン氏は次のように述べている。「貧困層の増加に伴って、問題はどうすれば都市における財産権を非生産階級による没収から保護できるか、という非常に深刻なものになりつつある。選挙権が盾であると同時に槍でもあるという事実は、選挙権に関して多くの論者が見落としている事実である。選挙権は投票権保有者を攻撃から保護するのみならず、課税権によって他者の権利を侵害することも可能にするという事実は、人口が増加し選挙権が拡大するに従って、ますます重視されなければならない。」1 選挙の腐敗に対するより厳しい法律は、いくらかの良い効果を及ぼした。とはいえ、こうした法律にもかかわらず、ニューヨークの選挙における偽り、なりすまし、大規模な汚職は、ヨーロッパの最もひどい腐敗の中心地よりもはるかにひどいようである。2 しかし、ニューヨークの上級裁判所の裁判官の任期を14年に延長し、彼らに独立した給与を与えるという大きな改革が行われた。汚職の首謀者の普遍的な免責は、1894年にアメリカの主要なボスの一人で、莫大な富とアメリカ政治への多大な影響力を持つ男がついに裁判にかけられ、6年の懲役刑を宣告されたときに打ち破られた。3
1 スターン、271頁。
2 ニューヨーク州の選挙が現在でも行われている方法については、ゴフ氏が1894年にノース・アメリカン・レビュー誌の203―210頁で書いた印象的な記事を参照。
3 この人物の経歴に関する興味深い手紙「米国の政治ボスの失脚」が、1894年3月2日のタイムズ紙に掲載されている。
しかし、改革の方向で講じられた手段の中で最も成功したのは、腐敗した集団の権力を制限するものだった。アメリカ憲法の最も価値ある、最も独特な特徴の一つは、州憲法の改正を目的とした、州議会から独立した、選挙で選ばれた会議が持つ力である。この会議は、単一の明確な目的のために非常に短期間、特別に選出されるものであって、州議会に付与されている任命権や行政権を一切持たないため、普通選挙で選ばれるにもかかわらず、マシンの影響力をかなり免れており、コミュニティの正常で真実の希望を代表している。会議には改正を実行する権限はないが、改正を提案し、直接州民投票にかける権限がある。この手段によって、過去数年間に数多くの州憲法の改正が行われた。ニューヨーク州および他のいくつかの州では1874年以来、州議会の地方自治体の業務に関する立法は一般法だけが認められるようになった。そして、大いに非難されてきた特定の個人あるいは法人に有利な特別法を制定する権利は奪われた。しかし、これらの制限は容易に、かつ絶えず回避されていると言われている。1 多くの州では、宗教施設に関連する慈善団体への公的資金の分配や、慈善団体への課税免除を装って広く行われてきた腐敗行為に制限が課されている。少数の州では、少数派の代表権を確保するための何らかの規定が設けられている。また、多くの州では、借入権と課税権に制限が課されているが、これはしばしば巧妙に回避されている。2 アメリカの政治家の理論は、民主的なシステムで選出された人々は常に不正行為をする可能性があるが、憲法によって不正行為を安全な範囲内に制限することは可能であるというものらしい。近年、憲法上の制限を細かく増やして、詳細化する傾向が強くなっている。また、州議会の悪影響を制限するために、州議会を毎年ではなく2年に1度開催するという政策も広く採用されている。
1 スターン、258―59頁。
2 フォード、1巻113―15頁。
3 この件については、ブライス、2巻293―94頁を参照。よく使われる制限の一つは、郡、市、自治区、町、学区の負債は課税対象資産の評価額の7%を超えてはならないというものである。これを回避するため、ほとんどすべての地域で資産の評価額が大幅に引き上げられた。
アメリカを代表する存命の歴史家の一人が残した次の興味深い一節は、この新しい精神をよく表している。「知事、議会、裁判所の権力に制限を設け、これをするよう命令し、あれをすることを禁じることが流行になって、現代の州憲法は議会政治の道具というよりも、法典のようなものになってしまった。州民の奉仕者や代表者に対する不信感は至る所で明らかになっている。長く苦い経験から、ある一定の数字を超過することを明確に禁じない限り、立法者は州の負債を増やすだろうし、州憲法がそのようなことは許されないと明確に宣言しない限り、彼らは互いに並走する鉄道や、企業の合併や、運輸業者のえこひいきや、市議会が路面電車会社や電話会社に貴重な営業権を売却することを容認するだろう、と人々は確信している。この禁止システムは、多くの議会が私法や特別法を制定することが許されず、個人や法人を国家に対する義務から解放することも許されず、議員が自ら利害関係を持っている法案を可決することも、州の信用を貸し付けることも、会期の最後の数時間に財務法案を審議することも許されない、というところまで進められてきた。」ワシントンではさらに強力な措置が採られ、市政府全体が議会によって直接任命された委員会に委ねられている。
1 1893年12月号のフォーラム誌470頁に掲載されたマクマスター氏の記事を参照。
同時に、地方自治体の腐敗を阻止するために、別の非常に異なる、そしておそらくより効果的な方法が採用されており、ラブレ(*エミール・ルイ・ヴィクトール・ド、1822―1892、ベルギーの経済学者)はそれが民主主義の将来の傾向にとって極めて重要なものであることを正しく見抜いている。ヨーロッパではまだ完全には認識されていないが、アメリカの経験によって十分に証明された事実が二つある。一つ目は、あるアメリカ人の論者の言葉を借りるなら「公務員の腐敗と無能の最も大きな原因の一つが、公職の増加にあることに疑いの余地はない」ということである。2 二つ目は、この増加は、民衆によるコントロールを強化するどころか、大幅に弱めるということである。なぜなら、公職の増加は争点を混乱させ、責任を分割して不明瞭にし、各選挙の道徳的効果を弱め、さまざまな候補者の長所をほとんど、あるいはまったく知らない一般の有権者を当惑させ、必然的に、最高権力を数人の黒幕の手に渡してしまうからである。したがってアメリカでは、市長にほとんど独裁的な権限を与え、市の良き統治の責任を負わせる制度が発達した。市長自身は、1年から5年の任期で一般選挙によって選出される。職権を濫用した場合には弾劾される可能性がある。州議会(#市議会?)は予算を承認する、あるいは保留する権利を保持し、3分の2の多数票が必要ではあるが市長の拒否権を無効化できる。しかし、これらの制限にもかかわらず、最近の憲法改正によってこの役職に与えられた権力は非常に大きく、ヨーロッパの都市のそれよりもはるかに大きい。ごくわずかな制限があるが、市長は市のすべての部署の長を任命し、解任できる。すべての手続きに対して拒否権と監督権を行使する。市政のあらゆる部門の運営に責任を負う。彼は平和を維持し、民兵を召集し、法律を執行する。一言で言えば、市政府のすべての主要な路線の性格を決定する。このシステムは1882年にブルックリンで始まった。それは1884年にニューヨークに拡大され、明らかに素晴らしい成果を上げた。そして、同じ責任の高度な集中は他の州にも急速に広がっている。他のどの国よりもその反対のシステムと思われていたこの国で、この傾向が強まっているのは興味深いことである。そして、アメリカの優れた政治論者たちは、これを民主主義の欠点を正す唯一の真の手段とみなしている。これらの評論家の最近の一人の言葉によれば「米国では、行政権力を一人の人物の手に集中させ、その賢明で誠実な使用について責任を負わせる傾向が目に見えて強まっている。責任を多数の立法者に分散させるのは、公共の福祉を確保するためには当てにならない方法であることが証明されている。」3
1 フォード、1巻129頁。
2 ブライス、2巻.264―65、292、304―5頁、3巻.196頁、ラブレ「民主主義における政府」1巻97―109頁。
3 ギルマン「社会主義とアメリカ精神」82頁。
このシステムは最終的に、そして多大な費用を要する悲惨な実験の後に、無制限の民主主義が優越しているあらゆる場所で広く普及するだろうと私は考えている。非常に目立つ人物が選出され、非常に大きな特権が与えられた場合、大衆の関心は十分に喚起され、党員集会政治の厳格な枠組みを越える、ある程度の世論の波が生まれる。組織の力の増大は、民主主義への坂を滑り落ちつつあるすべての国において顕著な事実である。それは政党組織がますます独占的に国会議員候補者を指名するようになっているイングランドでふんだんに見られる。そして米国では、そのような組織の力はイングランドよりもはるかに大きい。ただしマシンの管理者は、無名で比較的重要でない役職の任命は通常、好きなようにできるが、より重要な選挙では平均的な非政治的な意見も考慮しなれなければならない。最良の候補者は非常に高名な人物や能力のある人物ではない。なぜなら、こうした人物は常に敵意や分裂を引き起こすからである。しかし、重大な道徳的非難を受けている人物ではないことも同様に重要である。二段階選挙制度もまた、大幅に弱体化しているとはいえ、まだ腐敗を削減する力をいくらか持っていると思われる。それは、生理学者が病的ウイルスを弱毒化するために用いる連続接種に似ている。全体として、米国における腐敗は政府の上層では下層ほどには目立たないことは確かである。ただし、上層でさえ、ほとんどのヨーロッパ諸国よりもはるかにひどいように私には思われる―もちろん、グレート・ブリテンよりもはるかにひどい。
しかし、私にはブライス氏の結論を要約する以上のことはほとんどできない。その結論は私にとってとても印象深いものである。なぜなら彼がアメリカの腐敗について書いたやや奇妙な章の中で、正直に書ける限りにおいて、彼が腐敗の深刻さと意義を矮小化しようとしていることが明らかだからである。彼によれば、金銭的腐敗で重大な告発を受けた大統領はこれまでおらず、南北戦争直前の大統領の任期以来、閣僚が行政行為や公職への任命の対価として金銭による賄賂を直接受け取った例は知られていない。しかし最近の政権の主要閣僚数人は、鉄道関連の共謀や、所得に関する不正を疑われている。議会では上院議員にも下院議員にも「ふんだんな疑惑」や「ふんだんな告発」があるが、これらのほとんどが「徹底的に精査されたり、精査される可能性があったりしたわけではない。」「私利を追求する機会は大きいが、摘発される可能性は小さい。」確実に言えることは、立法権の行使における個人的な不誠実さは、私たちの国でよく知られている政治的な放蕩とはまったく別の種類のものであって、アメリカでは広く、そして疑いなく蔓延しているということである。これは、鉄道会社やその他の富裕な企業の利益に影響を及ぼす私的法案と呼べるものや、広範な製造業の利益を大きく左右する輸入関税の変更の法案で特に顕著である。「議会の扉は、商社や鉄道会社とその代理人の大群に包囲されている。彼らは一種の専門職になっているため、ロビイストと呼ばれている。多くの議員は個人的な利害関係を持っていて、公的な地位という有利な立場で同僚に自分のためのロビー活動を行っている。」
ロビイストの目的は「望まれている法案の可決、あるいは恐れられている法案の阻止に協力すること」である。方法はいくつかある。「丸太転がしlog―rolling」は、別々の私的法案に関心のある議員が、自分も同じ支援を受けるという条件で、お互いの法案を支持することである。「ストライク」は「議員が鉄道会社その他の大企業を標的とした法案を提出し、単に脅迫することを意味する。ある著名な鉄道会社の社長は、ある上院議員は数年間、この手口を常套手段にしていたと私に語った。」「議会が開催されている間、ワシントンの国会議事堂やホテルがそのような陰謀と策略の巣窟になっていることは広く知られている。」成功するための主な方法はシンプルな賄賂のようだが「議員の何人が汚職に手を染めているかは誰にもわからない。」金銭が議員に渡らず、議員を支配しているボスに渡ることもある。時にロビイストは誠実な議員を買収するための金銭を(*ボスから)受け取っていながら、議員が望み通りに投票することがわかると、それを自分のポケットに入れてしまう。議員は株式の一部を譲渡することによって鉄道会社を支援するよう買収されることも多い。同じ目的で、立法府の議員にフリーパスが大量に与えられたため、1887年にそれを禁止する法律が可決された。ブライス氏は、憲法上の権限を鉄道会社に有利に使うという約束で、自分の管轄区域を通る鉄道会社から融資を受けていた地方長官について言及している。また、下院議員たちは、下院で鉄道会社に提供できるサービスの謝礼として、鉄道会社の所有地を市場価格よりも安く購入したり、購入しようとしたりするのが常だった。過去20年間のあるケースでは、単一の鉄道会社が支出した4,818,000ドルの大部分が「立法に影響を与える」目的で使用されたことが明らかにされた。この鉄道の件を指揮した重役の手紙が公開された。そして彼は両院の議員が腐敗の力に完全に従順なのを知っていたことが明らかになった。この紳士は1878年に「世界の歴史上、これほどまでに手に負えないデマゴーグたちが議会の名の下に栄誉を受けていたことはかつてなかったと思う」と書いている。
もちろん、この種の取引がごく一部しか公開されないことは避けられない。これらの事例は単なるサンプルであって、おそらく他にも数多くの事例があるだろう。さらに大量の直接的な汚職は、国会議員の手に渡る膨大な公職任命権の分配と関係がある。連邦公務員のポストは約12万あり、各議員の重要な仕事は、そのポストを有権者に分配することである。このような任命権が、これまで述べてきたような人物によってどのように管理されるかは容易に想像できる。
しかし、ブライス氏は、アメリカの腐敗については誇張が横行しており、ヨーロッパ人がそれにショックを受けるのは非常に不当なことと考えている。これは、アメリカ人が「自国について軽々しく語り」、そして「幅広い影響」を好むせいでもある。また、一部はヨーロッパからの旅行者の悪意のせいである。「彼らは一般に富裕層に属し、一般に政治的に反動的」であり、したがって民主的な政府に好意的ではない。彼の考えによれば、イングランド人は非常に非哲学的である。彼らは「隣人の欠点について考えるとき、自分の欠点を忘れる便利なコツ」を持っている。「自国では習慣によって慣れ親しんだ形であって、些細なことと思われ、おそらくは笑い種になるような職務怠慢も、他国で別の形で現れるとショックを受ける。」「彼の頭の中では、それらは貪欲と混同され、国が腐敗し、政治家が浪費していることの証拠として引用される。」議会の議事録の中で、ブライス氏は「現場から聞こえてくるところでは、金銭が頻繁に渡されているとは思えない。あるいはむしろ、それを渡される人は少ないと言うべきだろう。しかし、何らかの配慮がなされることはよくある。」と述べている。言い換えるなら、実際の金銭ではなく、金銭に相当する価値、そして金銭を得られる仕事が通常利用されている。
上院議員はしばしば「上院の議席を買っている」と非難されるが、ブライス氏は上院議員が州議会議員に直接賄賂を渡して投票させているとは考えていない。上院議員は政党の選挙資金に多額の寄付をするだけであって、その中から選挙費用の大半がまかなわれるのである。1 「議会に賄賂は存在するが、メンバーのいくらか、いわば5%くらいに限られる。…金銭以外のもの、たとえば有利な契約の分け前や鉄道のパス、友人のために確保する『良いもの』などを考慮することは、議員の間ではやや大規模に行われている。…おおよそ連邦議会議員、あるいは平均的な州議会議員の15―20%が、この種の誘因に影響されるだろうと推測される。…さまざまな種類の不正行為、すなわち、個人の利益のために公職を悪用することは、かなり頻繁に行われている。それは、党に何らかの貢献をしたいという願望に偽装されることが多く、同じ口実が公金の不正流用にも時々見られる。公職の任命は通常、党派的動機の観点から、あるいは個人的な支持の獲得のために行われる。しかし、この意見はイングランドとフランスにも同様に当てはまる。主な違いは、任期が短く、移動が頻繁なため、米国では公職任命者の数が比較的多いということである。」
1 ここで、この問題に関して少なくともブライス氏に匹敵する権威を持つホワイト氏の言葉を引用したい。「私は、腐敗に関する世間の俗説をまったく受け入れるつもりはない。しかし、私たちが大学時代に、ウェブスター、カルフーン、クレイ、サムナー、スワード、エヴェレット(*以上、18世紀アメリカの政治家)の演説について熟考していたとき、上院議員の地位が事実上、任期ごとに最高入札者に競り落とされ、そのようにして合衆国の最高評議会の議席を得るのが自然で普通なことと見なされる巨大な連邦が誕生する、と誰かが言うところを想像してみて欲しい!」(「19世紀から20世紀へのメッセージ」14頁)。(*ホワイトは1832年生まれ、この著作は1883年のもの)
全体として、ブライス氏は「理想を脇に置いて、アメリカを実際的な基準で審査するなら、立法機関はイングランドやドイツ、おそらくフランスやイタリアでも維持されている純粋さのレベルを下回っているが、アメリカの連邦および州の行政は、不確実な身分保障から生じる弊害にもかかわらず、誠実さの点では、現時点ではヨーロッパ諸国の行政に比べて明らかに劣っているわけではない」と結論付けている。1
1 ブライス、2巻509―25頁。
この評価は、確かに厳しさに偏ったものではない。イングランドで、議会制度の熱心な崇拝者が、首相が金銭汚職で重大な告発を受けたことはなく、過去40年間に賄賂として金銭を受け取った閣僚は知られていないと自慢する一方で、両党の閣僚数人が鉄道不正や歳入詐欺に加担した疑いがあること、企業や製造業の利益に影響を及ぼす広大な立法部門の全体が組織的な汚職によって運営されているか、少なくとも影響を受けていること、両院の議員の約5%が金銭による直接の賄賂を習慣的に受け取っていること、議員の5人か6人に1人は確実に不正行為に手を染めており、それよりはるかに多くの議員が何らかの不正の疑いをかけられていることなどを付け加えざるを得ないとしたら、我が国の議会政治が成功しているとは到底考えられないだろう。
アメリカ政治の悪弊の原因の多くは民主主義に内在しているが、私が言及しなかった悪化の原因が二つある。議会のいずれかの院に選出される人物は、その州の居住者でなければならないという規則は、有能で有能な人物を選ぶ機会を著しく制限し、地方組織の力を大幅に強化する。一方、上院議員や下院議員の地位に付随する高給は―数多くの間接的な利点を別にしても―職業政治家にとって大きな野心の的になっている。各院の議員は、旅費その他の経費のための少額の手当とは別に、年間1,000ポンドの給与を受け取る。1873年、両院は多くの公務員の給与を引き上げ、自らの給与を3分の1増額する法案を可決した。そして奇妙な特徴を持つ条項によって、議員たちの給与が、そしてそれだけが遡及して適用されることになった。しかし、議会が自らに割り当てた約40,000ポンドの予算は大きな憤慨を招いたため、次の議会で廃止された。1
1 ブライス、1巻259―61頁。
下院議員の任期はわずか2年であって、これがおそらく迅速な利益獲得への欲求を助長している。同時に、連邦政府の汚職への染まり具合は州議会の大部分ほど深刻ではなく、ほとんどすべての主要都市の政府ほど深刻ではないことは確かと思われる。
腐敗よりも悪いものが一つある。それは腐敗の黙認である。政治における名高い詐欺や腐敗に対するアメリカ世論の、部分的には皮肉に、部分的には人の良さに由来する異常な無関心は、外国人に最も強烈な印象を与えるアメリカの特徴である。他のどの大国にも、このようなことは見られないと私は思っている。これは、中途半端に発展した国や腐敗した専制政治によくある政治的無気力とはまったく異なるものであって、フランス共和国に存在する感覚とも奇妙に異なる。1870年以来、フランスでは悪名高い腐敗の例が明らかにされてきたが、フランス世論は必ずすぐに憤慨し、それを罰する。アメリカでは、公職や公金の管理における悪名高い浪費は、軽蔑の笑みを浮かべられる程度のようである。それはごく自然なこと、つまり現存する政体の正常な結果として扱われている。
歴史家がするように、主に過去の例によって意見を組み立てる傾向がある人々のほとんどは、公職に腐敗が蔓延し、腐敗が容認されている国の将来を非常に悪しきものと評価するだろう。彼らの唇にはユグルタ(*BC111年にローマに反旗を翻した北アフリカの王)の言葉が上るだろう。「この都市は売りに出されている、買い手が見つかったならすぐに滅びるだろう!」彼らは、米国が国外からの大きな危険を逃れたとすれば、それは主にその並外れた有利な立場によるものである、そして国内的には国家の退廃の前兆となる道徳的崩壊の兆候が非常に顕著に現れていた、と結論するだろう。しかし、アメリカをよく知る最高の評者なら、そのような評価は間違っているという意見に同意するはずである。アメリカは、私がすでに述べた、そしてこの本の中で何度も繰り返されるであろう真実、すなわち純粋な民主主義による政治は最も代表性の低いものの一つであるという真実を、フランスよりもさらに明確に示している。国民の最良の生命とエネルギーが、常にこれほど政治から離れたところを流れている国は、他にほとんどない。主に政治家とその政治活動によって評価されるなら、これほどひどく誤解される国は他にほとんどないだろう。1 偉大な産業文明のほぼすべての分野において最前線に立ち、エネルギー、知性、資源にあふれ、多くの最も重要な分野でヨーロッパの国々がほとんど達成していないレベルの精神的卓越性を示している国が、私が述べたような方法で統治され、諸国民にそのように見られることに甘んじているというのは奇妙な逆説に思える。イタリアの政治家がかつて言ったように、電信と電話を生み出し、そのような驚くべき適応力と発明の力が一万通りの形で示された世紀に、より効果的に人類を統治する方法が発見されなかったというのはなんと不思議なことだろうか!しかしながら、事実は私が述べた通りであって、その原因以上に興味深い研究対象はほとんどない。
1 ギルマン氏の次の発言は、私には十分注目に値すると思われる。「米国にしばらく住み、米国の政治制度の実際の仕組みについて相当な経験をした者でなければ、『国民』と『政治家』の奇妙なコントラストの力を十分に理解できないだろう。政治家が国民の忠実な代表者であるというのは、単なる想像や理論上のことである。多忙で『精力的な』米国市民は、政治マシンを運営することを職業とする人々を監視する時間がないと感じがちである。彼の思考は、政府が通常ほとんど関与しない、自分の私的な仕事に費やされがちである。彼は政治マシンを打倒し、永久に追放しておくために必要な時間を自分の私的な時間から割くよりは、政治腐敗の直接の結果としての重い税金を選ぶことさえ珍しくない。」(「社会主義のアメリカ精神」178―179頁)私は、アメリカの歴史家の中で最も真剣で公平な人物の一人の評価を付け加えたいと思う。「今日のドイツ系国家で、米国ほど公的道徳水準と私的道徳水準の差が顕著な国はないことは確かである。一方は1860年より低く、もう一方は、一見矛盾しているようだが、高くなっている。」(ローズ著「1850年の妥協からの米国史」3巻113頁。)
ここまでの頁によって、少なくとも腐敗が生じた主な原因を示すことができたと思う。もう一度ブライス氏の言葉を引用すると「この組織のあらゆる特徴は明白な原因の結果である。公職選挙はあまりにも多いため、一般市民はそれを見ることも、誰が当選するかを気にすることもない。党大会はあまりにも頻繁に行われるため、忙しい人はその役職に就くことができない。小さな公職はあまりにも魅力がないため、有能な人は立候補しない。予備選挙の(*有権者)名簿は党員のほんの一部しか載らないように作られていて、この一部の人々の多くは怠惰、忙しすぎる、あるいは無関心ゆえに党大会に出席しない。有権者の大半は無知であって、候補者の個人的な長所について何も知らないため、リーダーに羊のように従う用意がある。より良心的な人々でさえ、いかに不平を言おうとも、党への忠誠という根深い習慣の力ゆえに、自分の党の悪い候補者を、(おそらく同じ程度の)他党の候補者よりも好む。不純な役人、費用のかかる市政、汚職ばかりの州議会、質の低い下院議員に我慢する方が、物事を正すために自分の仕事を犠牲にするよりも面倒が少ない。こうしてマシンは動き続け、それを管理する者たちに、地位、権力、そして不正な利益を得る機会を生み出すのである。」1
1 ブライス、2巻449頁。
しかし、これらのことは、強力で用心深い最高裁判所が称賛に値する成文憲法の執行によって悪政の可能性を小さな範囲に制限していなかったなら黙認されなかっただろう。人々が最も大切にするすべての権利は、多数派の専制の手の届かないところに置かれている。憲法は議会に、宗教的儀式の自由を禁じる法律、また言論や出版の自由、集会の権利、請願の権利を制限する法律の制定を禁じている。何者も正当な法的手続きなしに、生命、自由、財産を奪われることはない。ブリテンの政治家が必須の自由とする全ての主要な条項は保証されており、財産は憲法規定によって完全に守られているため、没収的な立法はほとんど不可能になっている。公的利用のために私有財産を取り上げることは、正当な補償なしにはできない。連邦憲法には、州に契約義務を損なう立法を禁じる価値ある規定がある。代議員と直接税は各州の人口に応じて配分され、人口調査に従わない人頭税その他の直接税は課されず、税、関税、物品税をすべて全国一律とする憲法の条項は、多数決が少数の人々に負担させる不公平な税や高度に累進的な税制の危険を少なからず防いできた。1894年に所得税を禁じた最高裁判所の判決は、これらの条項の効力と意味をはっきりと浮き彫りにした。連邦議会も州議会も、犯された時点において処罰の対象ではなかった行為を処罰する、いかなる私権剥奪法や事後法も可決することはできない。
同時に、連邦憲法に何らかの根本的な変化をもたらすために必要な多数派の数と規模は、非常に大きいため、そのような変化はほぼ不可能になる。実際、憲法制定当初から、重要な問題に関してそのような変化が起こったことは一度もない。ただし、南北戦争直後のまったく異常な時期、つまり一時的に南部諸州の政治的独立が失われていた時期は例外である。そのような根本的な変化に必要な各州の3分の2、後に4分の3の多数派の同意は、州数が増え人口が増えるにつれて、ますます得ることが難しくなっている。良い政府を保証するその他の要素は—何よりも懸念されるのは上院の性格であるが―時間と腐敗、そして増大するマシンの権力によって弱体化している。しかし少なくともこの要素は、ほぼ自動的に強化されている。
州憲法にも、同様の抑制システムが普及している。いくつかの憲法の文言によれば、すべての人は「自然で、本質的で、奪うことのできない権利」を有し、その中には「生命と自由を持ち、守り、財産を獲得、所有、保全する権利」が含まれる。アラバマ州憲法は「政府の唯一かつ唯一の正当な目的は、市民の生命、自由、財産の享受を保護することである。そして政府がそれ以外の職務を行うことは、権利の侵害と抑圧である」と述べ、アメリカの政治家精神の最高の形を見事に表現している。政治家は不正や悪政を行うかもしれないが、それは狭い領域に限られる。そして弊害が大きくなりすぎたなら、州議会に制限を課す会議が招集される。州議会は一定の限度を超えて借入や課税を行うこと、長いリストの中の特定の主題に触れること、2年に1回以上あるいは定められた日数以上会議を開くことを禁じられている。1 もし州議会が課された制限の中で多額の不正支出を積み上げることに成功した場合—間違いなくそうしているだろうが―より多くの人々は、州は非常に豊かでそれを支払う余裕があり、この不正を防ぐために私的な仕事から時間を割くよりも、この不正が続くのを許した方が良いと考える。奇妙な種類の楽観主義もまたアメリカに広く普及している。最も重要なものが確保されている限り、すべての人に好きなように投票させ、組織をつくらせた方が良い、最終的には適者生存が起こって、時間とともに、長く費用のかかる経験の後、腐敗の濁った要素は浄化され、その最悪の要素は滓のように底に沈むだろう、と信じられているのである。
1 例えば、フォードの著作の中のペンシルバニア州議会に課された制限の長く興味深いリストを参照。(1巻32―35頁)
アメリカ政治を導く影響力の中ではほとんど十分に認識されてこなかったと思われるもう一つの考慮事項は、教会と国家の完全な分離である。アメリカの論者たちがこれを自国政府の大きな成功の一つとするのはもっともなことだろう。かつてバージニアに存在した監督教会(*スコットランド聖公会系)や、ニューイングランド政府が長い間示してきた極めて神政的な性格にもかかわらず、教会と国家のつながりという考え方はアメリカに根付かなかった。そして教会内外の世論はこの分離を心から支持しているようである。しかし、その結果、国政への関心が大幅に低下した。イングランドを知る人は皆、政治に関心を持つ最も優れた人々の、どれほど多くの割合が主に教会の側面、つまり国教の設立や廃止に直接、間接に関係する問題に関心を持っているかを知っている。アメリカでは、この種の問題はすべて政治から切り離されている。
そこでは、誰も疑問を挟まないような大義のためならば、世論は強力に喚起される。今世紀、南北戦争ほど世論が高まり、勢いを得た場所はない。その長く恐ろしい戦いで、双方の市民軍が示した自己犠牲、全員の合意、目的への執念、不屈の勇気は、19世紀の歴史の最も輝かしい一ページになっている。両戦争を評価する優れた手段を持っていたローレンス・オリファント(*1829―1888、旅行家、外交官)が、普仏戦争でのいかなる戦闘も、アメリカですべての村や家が奪い合われた攻防の粘り強さとは比較にならないとよく言っていたことを私は覚えている。そして、戦いの間の恐るべき命の犠牲は、この評価を正当化するに十分なものである。アメリカ人の高潔な資質は、戦争の後も明瞭に発揮された。巨大な軍隊が民間人の中に溶け込み、軍事的嗜好や習慣を何の苦もなく捨て去り、平和な時代の広大な産業に身を投じた様子は、歴史上最も印象的な光景の一つである。そして、敗北した敵に示された高貴な人間性は、アメリカ世論の道徳的水準が高いことの決定的な証拠である。それは、リンカーン(*エイブラハム、1809―1865)暗殺後の非常に困難な時期に特に称賛に値するものだった。そしてそれは、革命の時代に彼らの先祖が王党派の同胞に対して示した極端な復讐心とは忘れがたい対照をなしている。アメリカはこの時、国家間の協調の中に新たな地位と尊厳を獲得した。ヨーロッパは長い間、アメリカを不定形の、まとまりのない産業人口以上のものと考えていなかった。今や、彼らは偉大な国家の真実の特質を認識するようになった。ローウェル(*ジェイムズ・ラッセル、1819―1891)の言葉には、誇張もあったが、少なくない真実があった。
地球最大の国は魂を手に入れた、
そして地球上で最も偉大な国家が誕生した。
戦争中、確かに不正行為や汚職や詐欺が蔓延していたが、国民の偉大さと真の愛国心ははるかに顕著だった。平時には、国民の公的機関や公共の目的を支持する寛大さがアメリカほど際立っていた国はかつてなかった。
莫大な負債に対するその対応もヨーロッパにとって大きな驚きだった。賢明な評者たちは一般的に、平和が訪れたなら国家は即座に破産するだろう、そして民主主義国家は当時世界最大のものだった国家負債の重荷に耐えられないだろうと予想していた。負債返済においてこの民主主義国家が比類のない粘り強さと成功によって、歴史上のすべての君主制国家を凌駕するとは、ほとんど誰も予想していなかったようである。負債返済の動機が純粋な愛国心や無私無欲からほど遠かったことは事実である。負債返済は厳しい保護貿易の導入と不可分の関係にあった。製造業者はそのような保護貿易によって莫大な富を築いた。アメリカの労働者階級の間では、保護貿易は製造する製品の価格を引き上げ、他国で製造される類似製品を排除することによって賃金を引き上げ、雇用を増やす効果があり、彼らの利益に非常に有益であるという意見が非常に一般的だったようである。北部諸州の多数のアメリカ人は、国債が大幅に価値を下げていた時に国債を購入し、平価で償還されたことによって莫大な利益を得た。負債返済政策が採用された当時、これらの国債を独占的に保有し、保護貿易が常に最も人気があり、製造業者が主に存在していた地域は、戦争を通じて完全に優位に立つようになった。これらのことは採用された方針を説明するには大いに役立つ。しかし、それはほとんどの国が耐えられないほどの犠牲を伴う方針であり、どの国も凌駕することができないほどの精力と忍耐力で実行されたのである。
アメリカの一般的な法律も非常に高い評価を得ている。ブリテンの法律の最悪の濫用の多くは、アメリカでは存在しなかったか、イングランドよりずっと早い時期に是正された。アメリカの刑法、教育法、土地の売買と譲渡に関する法律は、長い間グレート・ブリテンの法律よりはるかに優れていた。また、宗教による資格制限が認められなかったため、何世代にもわたってイングランドの改革者たちを大いに悩ませてきた闘争をアメリカは免れていた。現代において、共和国の法律が君主制国家よりも優れていたとか、君主制国家より共和国で改革の精神が活発だったとは思わない。しかし大西洋の両側の最も優れた観察者たちは、両国が相手から学ぶことは多いとはいえ、両制度は卓越性において実質的に同等の水準にあると認識していると私は信じる。アメリカ型の立法者は、非常に抜け目がなく、実務的で、偏見がなく、自らの個人的利益や党派的利益に悪影響を与えない限り、良い法律を作る用意が十分にある。世論はそれを要求しており、ここまで見てきた通り、それはアメリカ政界の大きな腐敗を軽減するために時折断続的な努力を行っている。
アメリカは19世紀最後の四半世紀に大きく変化した。それはディケンズ(*チャールズ、1812―1870、小説家、アメリカ旅行記を書いた)とトロロープ夫人(*フランシス・ミルトン、1779―1863、小説家、アメリカ移住経験あり)が描いた国とはまったく異なったものになっている。そしてトクヴィルの偉大な著作さえも、時折、非現実的な様相を呈するようになった。トクヴィルが訪れた後、合衆国の人口は4倍に増えており、多くの状況が変化し、いくつかの予測が誤りだったとしても不思議ではない。トクヴィルは連邦の永続性よりも、合衆国の共和制の永続性を大いに強く信じていた。彼は、連邦政府の権力は着実に衰えるだろうこと、各州の権力は増大して、各州が連邦制に真剣に抵抗すれば必ず成功するだろうこと、すべての州が合衆国に加わりたいと望み続ける限りにおいてのみ合衆国は存続するだろうと、非常に自信を持って予測した。1 南北戦争は、彼が間違っていたことを示し、数年にわたって強い中央集権の傾向を生み出した。
1 「アメリカの民主主義」2巻351―55頁、383―85頁。しかし、戦争や大きな内部の危機がこの傾向を阻止する可能性があると示唆している箇所もある(398頁)。
しかし多くの点において、彼はアメリカの政界の危険性と傾向の両方を並外れた正確さで評価していた。彼は、彼の時代にすでに始まっていた、裁判官を選挙で選ぶ慣習を嘆いた。彼は、代議員を命令的な指示に縛られた単なる代表者として扱う慣習が、代議制政治の本質を破壊するだろうと予言した。彼は、純粋な民主主義における大都市の増加の危険性、古い州の影を薄くしたりそれを引き継いだりする新しい準州の台頭による権力の漸進的な移動、奴隷制と黒人種の増加の道徳的および政治的影響、奴隷制と気候の複合的な影響、その結果としての性格と習慣の違いが北部州と南部州の間に引き起こしている深くて恐ろしい分断について、非常に明快に論じた。確かに、奴隷制度ゆえに南部州にとって連邦にしがみつくことは特別な利益になるだろう、と彼は想像していた。彼らには、黒人とともに取り残されたならどうなるかを恐れる十分な理由があったからである。しかし、この利益の絆が最終的に感情の対立と同じくらい強いものかどうかを彼は疑問視していた。彼はアメリカの政党制度を決して明確に理解していなかったようである。そして「マシン」の巨大な力と腐食力をまったく予見できなかった。
彼が描写したアメリカは、いくつかの点において、現代のアメリカと非常に異なっていた。彼は、独自の、風変わりな、あるいは異端的な見解の自由な表現をすべて妨げる思想の専制主義について、概念や純理的な発見に対するアメリカ人の嫌悪について、金持ちが中世のユダヤ人のように贅沢をひけらかすことを一切控えざるを得ない富への嫉妬について語っている。これらのことは完全に変わった。アメリカはもはや貧困や莫大な富のない国ではない。アメリカには世界でも最大級の富がある。アメリカの富は、決してひけらかしを嫌うものではない。むしろ危険で社会にとって有害なものになりがちである。一部の人々が、少数のイングランド人地主が所有する広大な土地を巨悪と呼ぶのを私たちはよく耳にする。しかし、土地を購入したい、あるいは長期リースしたい人々がそうすることに何の困難も感じない限り、どのような真の利益が深刻に損なわれているかを見極めることは容易ではない。大地主が持つ権力は間違いなく濫用される可能性があるが、大きな濫用は容易でも一般的なものでもない。一方、この階級の存在が国家に与える利益は非常に現実的で明白なものである。しかし、あらゆる大富豪の中で、国内の主要な交通路を自らの利己的な目的のために支配する鉄道王ほど、濫用の機会や誘惑が豊富な人々はない。アメリカほど彼らが目立つ国は他になく、彼らの権力がこれほどひどく濫用されている国も他にない。無謀なギャンブル、巨大な独占権の獲得、無数の家庭を破滅させた致命的で不道徳な競争、公益の私益への組織立った従属、政府および自治体の膨大な腐敗によって築き上げられた、莫大でけばけばしい財産の、これほどスキャンダラスな例は他のどこにも存在しない。リンカーン、エマーソン(*ラルフ・ウォルドー、1803―1882)、ローウェル(*いずれも奴隷解放論者)のような人物が、私たちの世代において、アメリカ特有の美しさを最高の完成度で体現したとすれば、ジェイ・グールド(*1836―1892、鉄道開発や投機で巨万の富を築き、典型的な悪徳資本家とされた)のようなキャリアもそれに劣らず、それ自体、真に特徴的なものだった。
大手企業や法人の経営における誠実さは、今日では、大西洋の両岸のアングロサクソンの特徴ではないことは確かである。しかし、アメリカではイングランドよりもさらに劣っていると私は思う。イングランドとアメリカの鉄道経営の違いは極めて顕著である。アメリカは現在、世界で最も豊かな国の一つであり、その国民にビジネスの才能で勝る者はいないことは確かである。しかし、信頼できる権威筋によれば、1875年から1890年までの15年間にアメリカでは合計5万525マイルの鉄道と関係する28億6500万ドルの株式と債券が競売にかけられた。つまり年間平均1億9100万ドルである。1890年には29の会社が競売の対象になった。1 1894年初めに、ある鉄道当局者は次のように述べた。「現在、アメリカの鉄道の4分の1は、路線と資本において裁判所の管理下にある。1893年だけでも3万マイルの路線、3億6000万ポンドの資本金を持つ鉄道会社74社が管財人の手に渡った。」2 景気の後退や変動、通貨問題などを十分に考慮したとしても、このような状況はいかに巨大で意図的な不正行為、そして悪質な賭博を象徴しているだろうか。トラストの名の下に生活必需品を独占し、その価格を吊り上げるというシステムは、近代産業の最も有害な形態の一つであり、特にアメリカ的なものであって、アメリカの最大の富の源泉になっている。
1 「ノース・アメリカン・レビュー」1891年、84頁。また、エリー(*リチャード・セオドア、1854―1943、アメリカの経済学者)教授の「社会主義」270―71頁も参照。
2 1894年4月30日、グランド・トランク鉄道会社の会議におけるヘンリー・タイラー卿の演説、4頁。
これらの悪は、政治状況と無関係ではない。階級がなく、政治的地位がほとんど、あるいはまったく品位につながらない国では、富への渇望は狂気の力を持つ。腐敗した政治組織は、大きな鉄道や製造業者と絶えず接触しており、それぞれが相手を大いに助けたり堕落させたりできる。これらの相互扶助とは別にしても、両者の間には類似点がある。会社を経営することはマシンを経営することと非常に似ており、世論が一方に認める低い道徳的基準は当然、他方にも適用される。
アメリカでは奴隷制度がなくなった。それとともに大きな汚点と危険が一つ消えた。しかし、黒人種はその将来が不確かなまま残されている。選挙民の質は黒人有権者によって著しく低下した。またリンチの異常な蔓延と残忍さは、奴隷制度が大いに助長した古い暴力的な習慣が決して消滅していないことを示している。しかし、戦争が終わって以来、アメリカの外交政策の質は間違いなく大きく改善された。かつてその政策の特徴だった数多くの暴力的で不道徳な行動は、明らかにほとんどすべてが南部の政治家の台頭に起因していた。それはいくらか彼らの性格によるところがあった。奴隷を使う労働は、平和的で産業的なタイプよりも、はるかに軍事的で冒険的なタイプを生み出したからである。しかし主な原因は、人口増加によって北部諸州がますます優位に立つようになり、それに対抗して連邦における自らの権力を確保するため、南部諸州には新たな奴隷準州(*奴隷を合法とする準州)を獲得するという緊急の必要性が生じたことだった。これがテキサス併合、ニューメキシコとカリフォルニアの征服、1851年のロペス将軍によるキューバに対するフィリバスター(*海賊的)遠征、1854年のキューバ占領の口実を求めてスペインに紛争を強いようとする悪質な試み、アメリカの閣僚たちがキューバを買収できないならば武力で獲得する決意を表明した恥知らずなオステンド宣言、1857年のウィリアム・ウォーカーによるニカラグアへのフィリバスター遠征、1858年と1859年のキューバ再獲得の試みに与えられた支持の原因だった。南部離脱問題が解決された後、この侵略的精神はアメリカの外交政策から完全に消え去ったようである。アメリカの政治家が、一部の有権者の支持を得るために、ヨーロッパのどの国もしないような国際交流における礼儀やエチケットの無視をしたこともあった。しかし、外交政策の大筋において、アメリカは近年、概して際立って高潔で非侵略的だった。人類のこの大きな部分が、将来の希望に満ち溢れ、ヨーロッパの大国を蝕んでいる軍国主義から完全に逃れ、その膨大なエネルギーを着実に平和の道に向けているのは、決して小さなことではない。
アメリカ文明の特徴としてヨーロッパの観察者に最も衝撃を与えたのは、その極端に偏った性質である。それは産業界に必要な資質、能力、発明を最高度に生み出し、その結果、快適さ、教育、自尊心を広く拡散した極めて偉大な産業文明である。しかし、ヨーロッパの文明に比べるとまだはるかに劣る側面もある。トクヴィルとその世代の人々はこれに大いに衝撃を受けた。トクヴィルは、アメリカはこれまでごく少数の傑出した論者を輩出しただけで、偉大な歴史家や詩人を輩出したことはない、そしてヨーロッパにはアメリカの24州の合計よりも数多くの著作を1年間に出版した三流の町があると述べた。1 ミルは1840年に執筆した記事で「アメリカには文学、哲学、美術における独創的な努力が著しく欠けている」と述べている。2 一方、カーライルは数年後、アメリカにはまだ戦わなければならない戦いがあると非常に大雑把に宣言した。綿花、ドル、産業、資源の量は言葉にできないほどであるが、崇拝したり心から賞賛したりできるような偉大な思想や高貴なものは未だ生み出しておらず、その歴史上の最大の偉業は「記録にないほどの速さで、1800万もの最多の退屈な人間を生み出した」ことである。3
1 「アメリカの民主主義」2巻233頁。
2 「論文集」2巻42頁。
3 「末日のパンフレット」『現在』
この最後の評価は、その公平さよりも、その力強さによって注目に値することは確かである。カーライルがこう書いた後、アメリカはいくつかの素晴らしい著作を生み出した。数人の著名な歴史家、優雅で当然の人気のある詩人、優れた批評家、小説家、道徳家、そしておそらく文筆の他のどの要素よりもアメリカ的なものであるユーモアの鉱脈を生み出した。特に、文筆の歴史全体の中で最も美しい文筆生活を生み出した―真実で、単純で、勤勉で愛情にあふれ、文筆家の伝記の多くのページを汚す嫉妬や放縦とは並外れて無縁で、ヨーロッパの同時代の文学に深く浸透した不純な堕落とは絶対的に無縁な生活である。しかし、これらすべてのことを述べた上で、19世紀のアメリカは思想、文筆、芸術の分野で本当に偉大なものを生み出しただろうか、同時期のドイツやフランスに匹敵するもの、豊かで、教育水準が高く、平和な国、現在では六千万人以上の人々が暮らし、ある意味で世界のどの国よりも恵まれた環境にある国に期待されるようなものを生み出しただろうかと問わない訳にはいかない。ルナン(*エルンスト、1823―1892)が四十年ほど前に書いたチャニング(*ウィリアム・エラリー、1780―1842、ユニテリアン神学者)に関するエッセイの興味深い一節は、当時のアメリカ文明が最も聡明なフランス人の一人の心に残した印象を描写している。「もし過去を持つイタリア、あるいは未来を持つアメリカが消滅しなければならないとしたら、どちらが人類の心により大きな空虚を残すことになるだろうか。全アメリカは―フィレンツェ、ピサ、シエナ、ペルージャのような―イタリア第二、第三の町でさえ纏っている無限の栄光の一筋にでも比肩する何かを生み出しただろうか。ニューヨークやボストンが人類の偉大さの尺度においてこれらの町に匹敵する地位に達するまで、あと何段の階段を上らなければならないのだろうか!」1
1 「宗教史の研究」
こうした言葉には、間違いなく誇張がある。それが見逃している人間の真の偉大さというものがあるはずである。しかし、知的、美的側面においてアメリカはまだその役割を果たしておらず、またアメリカの最大の業績の甚だしく大きな割合は、人口と富が今の十分の一にも満たない時代に上げられたものであるということは感じざるを得ない。ワシントン、フランクリン、そしてハミルトン、1787年憲法、連邦主義者、ストーリー判事の注釈書はまだ輝きを失っていない。
アメリカが世界の大国に仲間入りした後もずっと続いたこの知的不毛の原因は数多く挙げられている。トクヴィルは、アメリカほど知的独立性や真の言論の自由のない国、あるいは不人気な意見の表明がこれほど激しい反発を受ける国はないと考えていた。そして彼は、アメリカに偉大な著述家がいないのは「文筆的才能は思想の自由なしには存在できず、アメリカには思想の自由がないからである。」と言った。1 ミルはトクヴィルの別の一節をさらに展開して、アメリカを「知的に言えば、イングランドの一州であり、住民の最大の職業は金儲けである。彼らには金儲けの特別な才能がある。従ってマンチェスターやバーミンガムのように、首都から高度な知識を既製品として受け取ることに概ね満足している」と描写した。2 メインは、国際著作権を長い間拒否してきた議会に大きな責任があるとした。このような著作権が存在しないことは、国内市場におけるアメリカ人著述家の地位を、ブリテン人著述家に支払いをせずに盗まれた作品との競争によって、事実上奪った。そして「アメリカ社会全体を思想史上前例のない文筆的隷属状態に陥れた。」3
1 「アメリカの民主主義」2巻149、152頁。
2 「論文集」2巻43頁。トクヴィル2巻58頁と比較。ミルの例えは、あまり良いものではないと思われる。イングランドのほとんどの本は、疑いなくロンドンで出版されているが、それらを生み出す知性は、王国のあらゆる地域から、そして非常に大きな部分は地方の大都市から来ている。
3 メイン著「民衆の政府」247頁。
これらすべてには多くの真実が含まれている。しかし、現代の民主主義はより高次の知性にとって有利ではないことも付け加えなければならないだろう。民主主義はレベルを上昇させるのとまったく同じだけ、レベルを下降させる。人間の平等への確信、畏敬の念の完全な欠如、平均的な判断力の神格化、熱狂と性急さ、アメリカが大量に生み出し、アメリカの新聞に鮮明に反映されている宣伝と扇情的な精神はすべて、美や思想における偉大な作品の創出、長い瞑想、落ち着いた趣味、真剣で途切れることのない研究には有利ではない。そのような作品はアメリカでも生み出されてきたが、数は少なく、不利な条件下でのことだった。また、アメリカに長く存在し、イングランドで急速に広まっている、著名人の私生活をあたかも公共の財産であるかのように扱い、あらゆるテーマに関する彼らの意見を新聞のインタビュー記事で絶えず公表し、その適性がない公的職務のために彼らが割く時間への要求を増やすという習慣は、この弊害をさらに大きくしている。貴族社会がイングランドに与えている利益の中で、大統領その他の公務に人材を輩出することによる、文筆界への貢献は小さなものではない。他の社会であれば、こうした仕事は主に文筆家に任されていただろう。文筆や芸術に傑出した才能を示したアメリカ人のいかに多くが、母国よりも居心地のよい空気をヨーロッパに見出してきたかに気づかない人はいないだろう。
いかなる障害があろうとも、間違いなく、いつの日かアメリカは世界の知的指導において現在よりもはるかに高い地位を得ることになるだろう。国際著作権において、アメリカの著述家が外国の著述家と同じ立場になったなら、その日は早くなるだろう。彼らの間に非常に真剣な学問と非常に優れた著作の様式が生まれつつある明らかな兆候がある。政治体制の数多くの邪悪な性質は、疑いなく、最終的には消滅するだろう。ヨーロッパの最も粗野で、最も無知で、最も無秩序な要素は、アメリカという巨大な蒸留器に注ぎ込まれ、徐々に新しいタイプに変化しつつある。ニューヨークその他の移民の中心地がアメリカの政治に及ぼしてきた巨大な腐食力は、アメリカ人が「回転州(*pibot States)」と呼ぶ、対立党派がバランスを保っている州でそれが収束し、権力の中心が西に移動したときに縮小するに違いない。活力と知性に極めて恵まれ、非常に強い道徳心や宗教心を持つ国民が、遅かれ早かれ自らの運命を高く名誉あるものに作り上げないはずはないだろう。
アメリカでは確かにヨーロッパよりも楽観主義が広く行き渡っている。そしてアメリカ人は自分たちの制度や将来についての最も良い評者である。しかし、彼らの地平線には深刻な暗雲が漂っているように思われる。離婚があまりにも容易なためにアメリカの一部で家庭が崩壊していること、大規模な金融不正の驚くべき蔓延、グレート・ブリテンにおける着実な減少とは対照的に、一般的な犯罪が奇妙かつ不吉に増加していること、1 政治や自治体に依然として蔓延している浪費と、その浪費についての無関心は、この憂慮に大きな根拠を与える。過去のすべての経験に反して、政治腐敗は国家の単なるイボのようなものであって、国民道徳の深い根源にはほとんど、あるいはまったく影響を与えていない。国土が肥大化し、国家の支出が増加し、政府の問題がより困難でデリケートになるにつれて、行政のあらゆる部門を信頼できる誠実な手に委ねる必要性がますます強くなるはずである。そしてアメリカの将来は、改革者がこの目的をどれだけ達成できるかに大きく左右されると思われる。すでに見たように、既にかなりのことがなされている。しかし、最悪の組織腐敗のいくつかは、新しい時代の始まりになるはずだったニューヨークのタマニー支配の崩壊後に起こったものである。1894年にニューヨーク州上院に提出された、この大都市の警察の巨大で組織的な腐敗を暴露する証拠だけでも、この希望がいかに実現されていないかを示すには十分である。2
1 この件については、1894年8月のフォーラム誌に掲載されたリー氏の注目すべき記事を参照。
2 これに関する詳細は、1894年8月のフォーラム誌に掲載されている。
アメリカにおける保護貿易政策は、内戦以来最高潮に達しているが、目新しいものではない。それは多少の変動はあったものの、アメリカの初期の歴史の大部分において存在していた。1 戦時中に課された高い関税は戦争を支える資金の必要性によって、平和になってからもそれが数年間継続されたことは、おそらく比類のない負債の迅速な削減の超絶的な重要性によって十分正当化できた。現在、世界に広まっている考え方からすると、困難や貧困の時代に、純粋な民主主義国家が、古い契約を履行するために莫大な負債税を課すほど危険なことはない。戦後の政治家たちは、少なくともアメリカをこの危険から救った。しかし1867年の毛織物法と1869年の銅法に始まり、マッキンリー関税で頂点に達した保護貿易の大幅な拡大は、主に他の動機によるものだった。もしアメリカの最高の権威者たちを信じるとすれば、それはヨーロッパの最も衰退した君主制国家に見られるのと同じくらい、不公平な利益(*class interests)を支持するために、腐敗した手段で施行される、純粋に不公平な法律(*class legislation)を含んでいた。
1 アメリカの保護貿易の初期の歴史については、タウシッグ(*フランク、経済学者、1859―1940)著「アメリカ合衆国の関税の歴史」(ニューヨーク、1888年)を参照。
高額の保護関税の結果、長年にわたって存在した莫大な剰余金はヨーロッパを驚かせたが、その使い道はさらに驚くべきものだった。世界の金融史の中で、アメリカの年金リストの歴史ほど驚くべきページはないと思われる。戦争の終結時に、戦傷者や、戦争中に結婚した兵士の未亡人には、当然ながら年金が支給された。他の国と同様に、アメリカでも時が経ち、戦争の当事者が亡くなるにつれて、戦争年金は当然減ると考えられていた。数年間、そうなる可能性は十分にあるように思われた。保護主義者(*国内の製造業者など)の利益が莫大な剰余金を維持し、使い切ることを必要としなかったなら、そうなっていたことは間違いない。その必要の結果、平和が長く続いた時期に、アメリカではその巨大さにおいて歴史上のいかなるものをもはるかに超える戦争年金リストが作成された。1812年の(*米英)戦争から57年後に、生き残った兵士とその未亡人に年金が支給されることが議決された。米墨戦争(*1846―1848)から39年後、その戦争の生き残りのために同様の措置が取られた。リストには戦争のずっと後にそれと無関係の原因で障害を負った兵士や、最後の銃声が鳴ったときには結婚しておらず、多くの場合まだ生まれてもいなかった未亡人も含まれていた。なりすましや、その他の冷笑的で極悪非道な詐欺は有名で一般的なものになったが、まったく罰せられることはなかった。多数の若い女性が年金受給資格を得るために、老人と実際の、あるいは偽りの婚姻関係を持った。公式文書によると、1892年の年金名簿には、1812年の戦争の生存者として年金を受給していた165名が載っており、その戦争の兵士の未亡人として年金を受給した女性は6,657名もいたようである。年金名簿は1880年から1884年の間に3倍になった。1893年には、ほぼ30年前に終結した戦争のために1日あたり50万ドルが支給されたと言われている。1893年には年金リストに96万人の名前が載り、議会は年金事業に1億6500万ドル、つまり3300万ポンドを支出した。
このような公的資金の管理が大きな財政的反発を招き、莫大な黒字期の後にほぼ同程度の莫大な赤字期が続いたのは驚くべきことではない。実際、他のいかなる国もこのような支出には耐えられなかっただろうし、他のいかなる国の世論もそれを容認しなかっただろう。1
1 アメリカの年金に関する多くの情報は、1893年5月と6月のフォーラム誌と、1893年4月と5月のノース・アメリカン・レビュー誌に掲載されている。また、1894年1月29日のタイムズ紙も参照。しかし、1894年6月30日までの1年間で、年金支出は27,960,892ポンドにまで減少したようである。(タイムズ紙1894年10月30日)
アメリカのように偉大で、繁栄し、平和な国の政府が成功していないと言うのは、おそらく矛盾したことだろう。しかし全体として、この実験が試みられた非常に好ましい状況と、我が国におけるその状況の再現が不可能であることを思うとき、アメリカの民主主義は少なくとも推奨と同じ程度の警告を与えているように思われる。しかし、民主主義を称賛するか嫌悪するかにかかわらず、アメリカのすべての優れた観察者が同意していると思われる点が一つある。それは、民主主義が安全に機能するためには、成文憲法が絶対に不可欠であり、財産と契約を保障し、根本的な変化に対する重大な障害を置き、多数派の権力を制限し、一時的な不満の爆発や単なる偶発的な連合が国家の主要な支柱を転覆するのを防ぐ必要があるということである。アメリカではそのような安全策が広範囲かつ巧みに提供されており、この事実ゆえにアメリカは概ね安定している。これらすべての安全策だけが民主的な政府を永続的に維持するものなのである。しかし、残念なことにイングランドでは国を民主主義に導くために最も尽力している人たちが同時に、こうした安全策の最も辛辣な敵なのである。
第2章
イングランドではそれぞれの議会に、国王の同意を得て憲法のいかなる部分をも変更できる単純多数決の権限が与えられている。しかし、これは自由国家において一般的なことではない。この点においてイタリアとハンガリーはイングランドと同じ立場を採っているようである。スペインには成文憲法があるが、その憲法自体の改正規定については特に触れられていない。憲法の本文が通常の議会のシンプルな立法措置によって変更できるのか、それともこの目的のために特別に召集される憲法議会に付託されなければならないのかは議論の余地がある。しかし、ほとんどの憲法では、憲法の根本的変更と通常の立法の間には明確な線引きがあって、前者を実施できる唯一の方法に慎重な規定を設けている。オーストリア帝国、ベルギー、バイエルンなどを例とする、多くの憲法では憲法改正には3分の2の多数派が必要である。いくつかの憲法では、それは連続した二会期の議会で承認を受ける必要がある。オランダでは、それは一方の議会の単純多数で要求できるが、議会は解散して、後継議会で3分の2以上の多数派に承認されなければならない。ドイツ帝国には、連邦議会で反対が14票あれば、この問題に対する絶対的な拒否権になるという規定がある。フランスでは、憲法改正は両院においてそれぞれ多数決で可決された後、両院がともに参加し投票する国民議会の多数決で承認されなければならない。スイスでは、憲法改正は立法院、あるいは投票権を持つ5万人の市民のいずれかによって提案できるが、直接国民投票という形の一般投票によって承認されるまでは法律にはならない。1
1 1893年4月に貴族院に提出された、外国議会において憲法改正に必要とされる多数派についての報告書。
おそらく、これらの規定はどれも、米国憲法の規定ほどには実際の効力を持っていない。ブリテン憲法にも、イングランドの支配下で成長しつつある大植民地民主主義国の憲法にも、そのような規定は存在しない。実際、米国の原則を英国植民地に導入しようとした注目すべき試みが、オーストラリアの偉大な政治家ウェントワース(*ウィリアム・チャールズ、1790―1872、探検家、牧畜家、両親は流刑囚)によってなされた。彼は1853年に、ニューサウスウェールズ憲法の構想に、憲法の改正は3分の2以上の多数派によってのみ可決できるという条項を持ち込んだ。残念ながら、この条項は最終的にイングランドでは支持を得られなかった。そして他の植民地と同様、この植民地でも抑制のきかない民主主義の力を制限するのは上院の権力と、母国との関係に由来するわずかな束縛手段だけである。1
1 ラズデン(*ジョージ・ウィリアム、1819―1903)著「オーストラリアの歴史」3巻71―137頁。
我が国の憲法史において、イングランドで単なる立法機関と、さまざまな制度のそれぞれの限界と権限を明確に定める憲法的な法律にほとんど重点が置かれてこなかったのは最も注目すべきことである。成文憲法の目的である抑制と反抑制のシステムはイングランドにおいて、選挙区に長く存在した大きな多様性、数多くの異なる、時に利害関係において対立する強力な組織、貴族院の大きな影響力と本質的に代議的な性格によって概ね維持されてきた。それは法律の文言に実質的あるいは十分な根拠を持たないが、長い間普遍的に受け入れられてきた慣習、伝統、妥協、理解のネットワークによって支えられてきたのである。憲法の最も重要な実用的要素の多く―内閣の性質、首相の職務、議長の尊厳と態度、財政問題における政府の主導権、貴族院が拒否権を行使できる範囲―は、基本的に慣習に基づいたものである。全体の仕組みが機能するためには、正直で信頼できる人々、重要な場面で国家の利益を個人および党派の利益に優先させる決意のある人々、真の妥協の精神にあふれ、憲法の一般的精神に心から同意している人々の手に委ねられることが絶対に不可欠である。そのような精神が議会で優勢であり、選挙区を支配している限り、ブリテン憲法は成功を収めるだろう。この精神が統治者、議会、選挙区に見られなくなくなったなら、これほど簡単に崩壊し、悪しき政府の乱行を抑制する手段を持たない憲法は他にない。
アダム・スミス(*1723―1790、倫理・経済学者)は書いた「あらゆる自由な政府の安定性と持続性は、指導者たち、すなわち各国の生まれながらの貴族たちの、自分たちのそれぞれの重みを維持、あるいは擁護する力にかかっている。」1 この真実は、イングランドでは常に強い共感を受けており、時には極端な帰結にまで押し進められてきた。例えば、穀物法(*穀物の輸入の制限)の廃止に関する議論では、この法律の最も有力な擁護者の一部は、単に経済的な側面からのみこの問題を論じることを拒んだ。彼らは、地主階級の優越は極めて重要な政治目的であると主張したのである。彼らは、地主階級はイングランドの永続的な繁栄と切り離せない利益を持つ支配階級を国にもたらしたのである、彼らはその階級の名誉の基準ゆえに個人的な腐敗を疑われることがなく、また領民の中に住み、その土地の政府を運営することによって、政界で最も必要とされる類の知識と能力を高度に獲得しているのである、と論じた。権力の笏が地主階級から中流階級に移ってからずっと後になっても、政府の運営は主に紳士たちに委ねられるべきであるという古い信念、あるいは偏見、あるいは迷信は優勢であって、あらゆる民主的な運動にもかかわらず、それは確かに消滅からは程遠い。
1 「国富論」4巻7章。
すでに述べたように、この信念は、現在ではしばしば非常に軽蔑的に扱われる他の多くの信念と同様に、決して擁護できないものではない。公人の立場は本質的に受託者であって、最も巨大で重要性な利益は主に彼の性格に懸かっている。確かに、物事の方向を正直で信頼できる有能な人々の手に委ねることは、それが唯一のものではないにしても、政治の最も重要な目的である。そして政治家が世界にもたらした災厄の大部分は、大きな政治的利益の管理が単なる腹黒い冒険家の手に渡ったがゆえのことである。正直と不正直はあらゆる階級とあらゆるレベルの財産を持つ人々に属する。しかし多くの人々を扱う際には、平均と確率、そして主に誘惑の強さと利益の圧力によって判断する必要がある。ベッキー・シャープ(*サッカレーの小説「虚栄の市」の登場人物)が言ったように「年5,000ポンドの収入があったなら、高潔でいるのはいかに簡単なことだろう!」莫大な金銭的利益を託された受託者自身が、困窮し、苦労し、困っている人物ではなく、十分な財産の所有者であるという事実は、残念ながら、決して十分ではないものの、彼が信託を不正に裏切らないことに一定の保証を与えると一般に認識されている。そして、彼の財産の性質が消えたり移動したりしにくく、永続的で固定的なものである場合、そして彼が主に世論に依存し、個人的な不正によって必然的に失われるであろう望ましい社会的地位にある場合、この推測は大いに力を持つことになる。
これは人々が私生活において常に用いている思考法であって、政治にも同様に適用できる。社会の慣習が紳士の概念に結び付けている名誉の規範は、確かにいくらか気まぐれなものであって、必ずしも道徳の法と同じものではない。それは、実際には非常に卑劣で不道徳な行為と共存する可能性があり、またしばしば共存する。人々は世間体を損なうことなく、単なる個人的な野心ゆえに国を戦争の恐怖に陥れ、恥ずべき政治的変節や恥ずべき階級闘争の扇動によって名誉や権力や党派的勝利を求め、不正な目的を持つ不正な人々と手を組んで多数派を獲得し、同盟者が目的を実行できるように政体を作ってきたのである。現代のいくつかの最悪の政治的取引の主体、あるいは従属的道具の中には旧家出身で十分な資産を持つ人々が見られる。これらはすべて深遠な真実である。また上流であれ下流であれ、いずれかの階級が制御されない、あるいは一層圧倒的な権力を獲得したなら、その政策が階級的偏向を示すことも真実である。同時に、特定のテーマや限定された領域において、紳士の名誉の規定はあらゆる抑制力の中で最も強力なものであって、一般の人々にとっての宗教よりも強力なものであることも同様に真実である。それが公職に浸透している場所ならどこででも、人々は公僕は収賄や汚職をしない、公金の不正な扱いをしない、彼らの言葉は信頼でき、彼らが不正あるいは陰謀的な手段を行動に移す可能性は低い、と認識するようになるだろう。世界におけるイングランドの信用は、この確信に大きく依存している。そしてその信用はイングランドの繁栄の小さくない要素だった。多くの国では絶えず高官に対する非難がなされ、それは容易に信じられ、時に証明されるが、イングランドでは直ちに信じ難いこととされる。少なくとも、すべての真剣な観察者にとって、非常に明白なことが一つある―イングランド政府がこれまでの指導者たちの完全に手を離れたなら、それはすぐに職業政治家の手に落ちるということである。そのような政治家の性格や傾向がどのようなものかは、米国の例が十分に示している。またそれは、彼らを安全に抑止できる唯一の憲法は現状といかに異なるものでなければならないかを示している。
公平な観察者にとって、近年の議会政治の効率と品位の低下以上に明白な事実はないと、私は考えている。この害悪は、もちろんイングランドに限ったことではない。ヨーロッパ全土で、加えておそらく米国ではより多くの、同様の不満が聞かれるだろう。代議員たちに対する不信と軽蔑の高まりは、19世紀末の最も固有の特徴の一つだった。すでに述べたように、一部の国では議会制度は、政権の絶え間ない交代、財政の破綻、頻繁な軍事的反乱、選挙民の組織的管理を意味する。ほとんどの国において、それが優秀な人材をまったく育てないことが明らかになった。それはますます、巧みな話術家や陰謀家、あるいは特定の利害関係者や小グループといった下等な人々に支配されるようになり、それへの国民の愛情や尊敬は目に見えて減少している。議会が閉会されると多くの国々で安堵のため息が漏れ、アメリカで多くの州議会が会期を2年に1回に制限したのは賢明だったとする感情が強くなっている、というラブレの記述は真実である。彼はイタリアの首都には特別な利点が一つあると、いくらか皮肉混じりに指摘している―それは、ローマのマラリアが議会の会期を効果的に短縮することである。
多くの国においておおよそ「議会主義」を手本とした代表機関の、この権威の大きな低下は民主主義の成長と同時に進行したものである。それは明らかに、少なくともかなりの程度まで、普通選挙が代表制の基礎とされるようになったことに起因している。必然的に最も貧しく最も無知な人々で構成される単なる多数者の手に最高権力を与える制度は、それが他に何をしたとしても、卓越した議会を生み出さないことが広く知られつつある。しかし、一つ注意しなければならないことがある。投票母体の無知は、必ずしも代表機関の無知を生まない。それが生む可能性がはるかに高いのは不正である。陰謀家やデマゴーグは、無知な人々や貧しい人々の情熱や軽信をうまく利用して、私たちの時代に特徴的な害悪と危険の一つを作り出しているのである。
イングランドで、いま生きている人々の記憶の中にある庶民院のトーンの変化に気づかない人はいない。何世代にもわたって庶民院の審議を首尾よく運営してきた古来の合意と伝統は大幅に消失し、新しく厳格な規制が必要とされるようになった。庶民院では、貴族院にほとんど例がない、粗野で残忍な侮辱、意図的な妨害、抑制されない暴力、そしてあるときは実際の殴打にまで至る場面が見られた。おそらく、最もよく似たシーンは、南北戦争前の激しい感情が渦巻いていたアメリカ議会で見られたことだろう。これらのシーンが、自らの目的を達成するまで議会組織を堕落させ、混乱させ、麻痺させることを公言した一政党(*アイルランド議会党Irish Parliamentary Party)に起因することは事実である。しかし、彼らの事例の伝染と、党派的動機ゆえの他の議員たちの黙認は非常に明白である。
一方、多数派に与えられた、議論を恣意的に打ち切る権限は酷く乱用されてきた。この権限は重大な問題に関する議論を短縮するのみならず、阻止するために利用されてきた。有能なブリテンの政治家の大多数が、帝国の分裂と没落の必然的な前兆になるだろうと考えたブリテン憲法の根幹にまで及ぶホームルール(*アイルランド自治法案)の数多くの条項は、帝国の繁栄への無関心を誇示する人々の票に依存する政党によって支持され、イングランド代表の大多数とグレート・ブリテン代表の相当数の大多数によって激しく拒否された。そして打ち切りの適用によって、ほんの僅かな議論もないまま庶民院を強行通過した。このような手段と僅差の多数票によって可決された最重要法案が法律になることを阻止したのは、貴族院の拒否権だけだった。
そして、この変化が庶民院の精神を無視している一方で、庶民院の権力と自負は絶えず拡大している。大臣に質問する習慣が大幅に広まって、行政の最もデリケートな職務に対する庶民院の介入が著しく増加した。庶民院は、措置と交渉はその発端のあらゆる段階において自らに持ち込まれるべきであると主張する。そして、無所属議員たちが出した決議が外交問題はともかく、少なくともインド政府に最も有害な影響を与えたことは一度や二度ではない。同時に、庶民院はあたかも国家の唯一の権力であるかのように扱われるべきであるという主張はますます声高になっている。君主(*ビクトリア女王)の拒否権はずっと前から停止されている。大臣あるいは議会の多数派が国民感情を真に代表しておらず、国民の利益に反する行動をしていると信じたときに議会を解散するという、彼女の憲法上の権利は時に極めて大きな価値を持つかもしれない。しかし、それが実行されることはまずないだろう。双方の資格がほとんど拮抗している稀なケースにおいて、政府を委ねる大臣を選ぶ、という彼女のわずかな権限と、公職任命権について彼女がまだ保持しているわずかな影響力は、極度に警戒されている。一方、庶民院の法案に対する貴族院のあらゆる干渉は、過去数年のかなりの期間において、(*権力の)横柄な濫用のシグナルとされてきた。拒否、変更、あるいは修正の権限を持たない第二院よりも不条理なものを想像することは難しいだろう。そして実際、庶民院の多数の議員と院外の支持者たちが貴族院を追い込もうとしているのはこういう立場なのである。
1894年の教区議会法案の審議ほど、この精神がグロテスクに示された例はほとんどないだろう。この法案は初めて議会に提出されたものだった。この法案について、有力な土地所有者が揃っている貴族院は卓越した知識と権威を持って発言することができた。一方、庶民院の多数派の大部分は土地とは何の関係もなく、党利党略のみで行動していることで悪名高かった。庶民院が提出した法案について、貴族院はその原理と主な概要を受け入れ、いくつかの細部を変更するに留まった。しかし自分たちが特別に扱う資格のあるテーマに関して、このように最も明確で議論の余地のない憲法上の権利を行使したがゆえに、貴族院はあたかも国民に暴行を働いたかのように非難されたのである。グラッドストン氏(*ウィリアム、1809―1898、四度首相を務める)の長い政治キャリアにおける最後の首相演説1 は、このことで彼らに対する大衆の反感をかき立てようとして、失敗した試みだった。
1 1894年3月1日
議会演説の急激かつ驚くべき発展は、公務を大いに妨げてきたが、その原因は数多い。第一に、庶民院議員670名は本来の目的に対して多すぎる。庶民院は世界中のいかなる立法機関よりも規模が大きく、19世紀には議員数と演説者数が大幅に増加した。19世紀初頭には、併合によってアイルランドの議員が加わって重要な増加分になった。小規模自治区の廃止と、議員に対する選挙区の支配力の増強によって、議員は有権者に大いに直接的に依存するようになり、平均出席者数が大幅に増加した。1867年と1885年の改革法案は、議員数をいくらか削減する機会をもたらした。しかし、常のごとく党益と人気が優先され、議員数は減少せず、むしろわずかに増加した。近年頻繁に見られる暴力、無秩序、意図的な妨害行為は、かつてほぼすべての新人議員に重くのしかかって、無駄な演説を有益に抑制していた、庶民院への尊敬、すなわち気難しい聴衆の前に出ることへの畏れを大きく毀損してしまった。同時に地方紙の発達によって、各議員が自分の選挙区で著名な演説家として十分に報道されるのが容易、かつ望ましいことになった。また、あらゆる町やほとんどすべての村で国会議員による街頭演説が大幅に増加して、すべての議員に致命的な腕前を与えた。また、長年にわたって庶民院が、簡潔さ以外のあらゆる形の雄弁術を備え、演説せずに質問に答えることが稀な、非常に優れた演説家によって率いられ、あるいは深く影響されてきたという事実にも何らかの原因がある。
こうした言葉の拡散と節制のなさは、世界史に最も大きな足跡を残した審議会の特徴ではなかった。ジェファーソンは「回顧録」の中で、「私は革命前、ワシントンとともにバージニア議会に勤め、革命中はフランクリン(*ベンジャミン、1706―1790)博士とともに連邦議会に勤めた。私は彼らが一度に10分以上話すのを一度も聞いたことがなく、問題の解決という主要点以外について話すのも聞いたことがない」と述べている。1 わが国の庶民院でも、古参議員はラッセル(*ジョン、1792―1878)、パーマストン(*ヘンリー・ジョン・テンプル、1784―1865)、ディズレーリ(*ベンジャミン、1804―1881、いずれも首相)の演説の簡潔で率直な性格を今でも覚えている。またイングランドの政治に大きな影響力を発揮した人物の多くは、言葉の力には著しく欠けていた。過去の世代では、オルソープ卿(*ジョン・チャールズ・スペンサー、1782―1845)、チャールズ・ウッド卿(*1800―1885)、ウェリントン公爵(*アーサー・ウェルズリー、1769―1852)、そして現代のウィリアム・ヘンリー・スミス(*1825―1891、新聞販売業者から大物政治家になった)といった名前が、たちまち読者の脳裏に浮かぶだろう。ウェストミンスターで何ヶ月もの間、ゆっくり長々と続く、無駄で、散漫で、不誠実な話の退屈な奔流は、庶民院の性質の向上にはまったく貢献していない。近年、議会の報道が大幅に減少し、かつて議会演説の最も詳細な報道を競っていた新聞が、今では要約や概要、さらには演説者のスケッチで満足していることはその重要な兆候である。
1 「ジェファーソンの生涯」1巻179頁。
しかし全体として、現在のブリテン憲法において、この散漫さが悪であるかどうかは疑問である。討論による政治の大きな利点の一つは、多くの議論は多くの行動を妨げるということであって、たとえそれが主題を明らかにするためにはほとんど役立たなかったとしても、少なくとも性急で革命的な立法の進行を大いに阻止することである、というバジョット(*ウォルター、1826―1877、ジャーナリスト)の主張には一定の説得力がある。会期を無駄にするよりも悪いことがある。また憲法の古来の抑制力とバランスがほとんど失われている時代には、饒舌の抑制力を軽視してはならない。
しかし、庶民院は期待されている目的のいくつかを達成するには、まったく非効率な道具になっている。法律の主要分野の改革や法典化といった、困難と意見の相違が山積していながら、同時に政党の枠内に収まらず、権力のバランスにも影響しない大きな問題もある。現在の庶民院のような機関で、この種の非常に複雑な法案を通すことはまったく不可能であり、これらの切望されている改革は、憲法が大きく改正されて委員会にさらに大きな権限が与えられるまで、決して達成されないだろう。
同時に、議会の独立性もほとんど失われている。国が民主主義に傾倒して以来、党員集会制度(*the caucus system)―これはアメリカのマシンの別名にすぎず、アメリカのマシンと同様に、主に少数の活動的な政治家によって運営されている―が、恐ろしいほど急速に成長してきた。それは選挙の候補者を指名し、彼らの政策を細部に至るまで指示する。それは指示し、抗議し、代理することによって職務のあらゆる段階に絶え間ない圧力をかける。それは、一般の国会議員を単なる代表者、あるいは操り人形の地位にまで引き下げる。しかし、同時に、他の多くの民主的制度と同様に、国民の支持を集め、党員集会制度を支配し、指揮するのに十分な力と知名度を持つ個人の権力を、非常に強める傾向を持つ。いわゆる「ワンマンパワー」は、民主主義の非常に自然な産物である。ブライト(*ジョン、1881―1889、国会議員)氏はかつて、現在の政府システムの最大の危険は奇襲である、つまり大胆で聡明な指導者が、自分の意志で党を、熟慮も承認もされていない新しい政策に従わせる力である、と述べた。自由党が今日行った最も重大な新しい方向転換―ホームルール政策の採用―は、同僚と相談せずに行動した一人の人物(*グラッドストン)によるものであったことはよく知られている。
同時に、政府と庶民院の関係に大きな変化が起こった。抑制されない議会から生じる危険を防ぐために、米国とイングランドでは正反対の方法が採用された。前者では、閣僚たちは代表議会の一部ではなく、議会の投票では彼らを倒すことができない。一方、イングランドでは、内閣は庶民院によってつくられたが、団結した内閣の組織力は、その議事進行に対する最も強力な抑止力である。かつての君主の権力の大部分は、まさに言われてきたように、今や内閣に移った。そして、その指導が党の台頭に不可欠な、多数派の強固な指導者集団は、議会の議事進行すべてに対して強い統制力を及ぼすことができる。しかし、議会が小グループに分かれたときには、状況は大きく変わる。世界中で、これは民主的議会の最も顕著で重大な傾向の一つであって、最終的には議会政治のシステムに大きな変化をもたらす可能性がある。フランス、ドイツ、イタリア、および多くの小国では、この分裂が最大限に表れている可能性がある。グレート・ブリテンでは、かなり進行している。数年前ベルギーは、議会がまだ二つの党派にしか分かれていない、ヨーロッパ唯一の国であると言われていた。1 ベルギーの選挙権が拡大されたことによる最初の結果の一つは、議会に新しい強力な社会主義グループが参入したことである。
1 ラブレ「民主主義における政府」2巻101頁。
この崩壊の結果は、非常に明白である。庶民院との関係において、政府は、その古来の指揮統制権を失う。内閣は、党の政策を指示する党員集会制度の発展によって、すでにその発議力をかなり失っていた。議会がいくつかのグループに分かれると、その力はさらに弱まる。連立政権はいつでも打倒できる。連立政権は、異なる動機に支配され、異なる目的を持ち、異なる政治的感情を代表する数多くの異なるグループの同意に依存している。政府は、これらの異なるセクションを個別に賄賂で和解させるか、彼らを結集させる掛け声、彼らの支持を確保し、彼らがそれぞれの目的を従属させるような積極的かつ攻撃的な政策を見つけなければならない。
この弊害は、政党の崩壊が小さな派閥の目標達成に非常に資するという最近の発見によって、大いに強調されている。国民のごく少数派の意見を代表し、目標を叶えようとする人々の集団は、大きな政党組織から離れ、他のすべての考慮事項を自らの目的に従属させて、政党が均衡し、数票で政府が生き残るか崩壊するかが決まるときには、それらの目的の達成をその支持の代償にすれば、決定的な影響力を獲得できるかもしれない。議会に強力に組織された二つの政党しかない場合、これらの小さな問題はその自然な地位を占める。しかし、多くの派閥に分かれた議会では、各派閥は、その数や国に対する実際の支配力にまったく不釣り合いな権力を行使することができる。議会制度における独立アイルランド・ホームルール党の行動は、この真実の最も顕著な例である。また他のグループも明らかに同様に組織化されており、同じ議会的手段で目標を叶えようとする可能性が高い。
これらすべての結果は非常に広範囲に及ぶ。私の予測が間違っていなければ、中流階級の優位と強力な政党組織があった時代に築き上げられた庶民院の優位は失われるに違いない。また、しばしば国家の利益に非常に害をもたらす、行政権の弱体化と不安定化もそこから生じる。しかし全体として、保守党はライバル政党よりはるかに均質であるため、この弱みは保守党政権下よりも自由党政権下で大きくなると思われる。1895年の急進派政策(*グラッドストンのホームルール政策、海軍増強反対)に対する国民の大反乱によって、両院で圧倒的かつ実質的に均質な多数派を基盤とする、今世紀で最も強力な内閣が誕生した。しかし、議会政治が非常に不安定になりがちな現状において、そのような多数派が永続するなどとは誰も考えない。時代のあらゆる兆候は、他の国と同様に、イングランドでも数多くの内閣が、独立したグループや異質なグループで構成される不安定な多数派に頼る可能性があることを示している。議会制度の健全な機能にとってこれほど不利な状況、あるいは庶民院が制御不能になる危険性がこれほど明らかな状況はほとんどない。
議会の崩壊の結果、国民が本当に望んでいない政策が実行される可能性が大いに高まる。アメリカ人が「丸太転がし」と呼ぶプロセスが非常に容易になる。少数派の一つが、同様の支援を代わりに受け取るという条件で、他の少数派の目的を支持することに同意する。そして、国民の大多数が実際には望んでいないさまざまな目的を持つ少数派が、政治シンジケートを結成して相互に協力することによって、それぞれの目的を達成する可能性がある。ホームルールの問題でこの悪名高い駆け引きが行なわれたことは、このシステムの本質と危険性の両方を示している。ホームルール法案は断固として選挙民に非難されており、それを提案した政府は、その問題だけで好意的な評決を得られる可能性が低いことを明らかに理解していた。しかし、もしホームルール政府が、地方選択権(*地方自治体内でアルコール飲料など、特定の問題について住民投票を行う権利)、ウェールズ教会とスコットランド教会の廃止、貴族院における世襲制の廃止、労働時間の短縮に関する法律、その他の民主的な法案を望む有権者の支持を得ることができるなら、これらのさまざまな党派が多数派を構成し、国民の希望に反して内閣がホームルールを遂行できるようになるだろうという主張がなされたのである。
おそらくさらに危険なのは、代表議会制度の現状が確立した、一般的に憲法の何らかの根本的かつ破壊的な変更を意味する、世論の物色の必然性である。根本的な変化への欲求は、国家を蝕む最悪の病の一つである。すべての真の進歩、すべての健全な国家の発展は、博打的な変化よりも、むしろ慣習や前例、古い伝統への敬意に深い影響を受けた、実際的な悪の除去と実際的な利益の獲得を目指すことを習慣とする、安定した永続的な国民性から生まれなければならない。制度は木のようなものであって、根が絶えずいじられている限り、成熟することも、ふさわしい果実を実らせることもできない。米国憲法において、根本的変化の道を効果的に阻止し、そのような変化への欲求をほとんど失わせた規定ほど、私たちの憲法よりも優れていることに争いの余地がない点はない。イングランドの政治を注意深く観察する人物なら誰しも、政治家が政権を失い、政党が分裂したとき、支持者を結集するために真っ先にするのは、攻撃するべき古い制度の発見であることがいかに頻繁であるかに気かないはずはない。ここでは個人的な虚栄心が党派の利益と強力に一致している。なぜなら、実際の建設的能力をまったく欠いた人物が、既存の制度を攻撃できるからである。そして、派手な評判がこれほど簡単に得られる政策は他にない。近年、イングランドの政治家は、政府機関を国民全体の利益のために賢明に利用する代わりに、絶えずいじり回している。そして熱っぽい不安の精神がイングランドの政治に充満している。これは抑制されなければ、議会政治の永続性にとっての悪い前兆になる。
この点において、両党には多くの責任がある。弱い保守党政権は、敵を出し抜いて野党の不満分子の支持を得ようという誘惑に駆られることが多い。そして、これほど危険な急進主義はない。なぜなら、外部にそれを抑制する機関が存在せず、野党は立場上、それを悪化させざるを得ないからである。現代の政治史において、1867年の「保守」改革法案ほど信用できないページはない。一方、弱い自由党政権は支持を得るために数多くの半ば分離したグループの協力に依存しており、その中で過激な政治家がしばしば不相応な権力を行使している。ホームルールによる分裂は、自由党から抑制力と穏健さの大部分を奪って、危険を大いに増大させた。
また、イングランド政治において最も落胆させられるのは、イングランド急進主義の無知な保守主義とでも呼ぶべきものである。それは執拗に古い、使い古された轍の中を動いているのである。人生の競争においてより高い成功と教育水準に達した少数者からの支配権の奪取、ますます知性の低い層に向けての選挙資格の継続的な引き下げ、制度への次から次への攻撃、土地所有者に対する根本的な敵意、そして、その状況や性格にまったく関係なく、帝国のすべての地域にほぼ同じ代表制度を与えようとするのは、普通の急進主義者が自然に向かって行く方向である。これほど乏しい建設的能力や、新たに生じた悪や新たに必要になった解決策についての弱い理解力は、他のどの方面にも見られない。何らかの制度を破壊したり、何らかの階級を傷つけたりすることが、憲法政策におけるその最初で最後のアイデアであるというのはごく一般的なことである。
イングランド政治で明らかに強まっているもう一つの傾向は、階級への買収によって票を獲得しようとする傾向である。非常に大規模な民主的選挙区では、有権者の大部分が政党政治の主要な問題にまったく無関心であるため、必ず何らかの腐敗が発生する。確かに、改革前の議会においてイングランドに蔓延していた種類の買収は、消滅したか、大幅に減少した。選挙人の数、投票の秘密、および最近の腐敗防止法の厳格さは、この点において有益な効果をもたらした。アメリカで「猟官制度」の名の下に存在している巨大な腐敗はイングランドには根付いていない。しかし、政党の利益のために、郡の治安判事の任命の古来の方法を勝手に変更しようとする最近の試みや、国会議員が選挙区の公職任命権を要求するために行ったいくつかの主張は、この病原菌を喜んでイングランドに持ち込む政治家がいることを示している。しかし、幸いなことに、競争試験制度によって、政府官庁のほとんどの部門は政治家の手の届かないところにある。しかし、私たちの祖父世代が慣れていたものよりも、候補者にとってははるかに安価でありながら、国家にとってははるかに高価な賄賂が急速に広まっている。ヘンリー・メイン卿がまさに言った通り、民主主義において最も恐れられる賄賂は「ある階級の財産を法律で奪って、別の階級に与えること」である。1 集票を目的として導入される偏った不公平な課税は、民主主義社会において増大する可能性が高い悪である。
1 「民衆の政府」106頁。
穀物法の廃止後にイングランドで起こった大財政革命によって、それはより容易になった。価格の引き上げという形で支払われていた、広く普及していた間接税の多くが廃止され、課税はより集中的になり、その額と対象の両方を変更することが非常に容易になった。このプロセスが急速に進んでいた時期に、自由党の最も賢明な指導者の一人が警告と抗議の声を上げたことは注目に値する。サー・コーンウォール・ルイス(*1806―1863)は、1857年に大蔵大臣として行った記憶に残る予算演説で、アーサー・ヤング(*1741―1820、農学者)の印象的な一節を引用した。「一定の金額を調達するために、非常に数多くの税金を課すだけでも、国民負担の平等化に向けた大きな一歩になる。もし私が良い課税制度を定義するとすれば、それは無数の点について軽いものであって、いかなる点についても重くない制度でなければならない。言い換えるなら、税制の単純化は、税金に追加される最大の重圧であり、いかなる国も最も熱心に回避するべきものである。」コーンウォール・ルイス卿は言った。「これは、今日耳にする多くの意見とは相反するものだが、私には知恵に満ち、税制を整える上で最も有用な実践的指針であると思われる。」1
1 ノースコート(*スタッフォード・ヘンリー、1818―1887)著「財政政策の20年間」309―10頁。1831年1月19日、多様で穏当な課税を推奨するティエールの注目すべき演説が行われた。彼は、これがこれまでに考案された唯一の本当に公平な課税システムであると主張した。ある税金を免れた者は別の税金を課され、課税は支出にほとんど影響されずに調整されるからである。
コーンウォール・ルイス卿のこの発言は当時大いに非難されたが、この発言には多くの真実が含まれていること、そしてイングランドにおいて課税がごく少数の形式に集中しすぎていることに現代の優れた知識人の多くが同意するだろうと私は信じている。繁栄が急速に進行し、税が容易に負担できる時代には、悪影響はほとんど感じられないかもしれない。しかし、繁栄が後退している時代には、税負担がさまざまな形で広範囲に分散されていることは小さくない強みである。逆境の時代には新たな税を課すよりも既存の税を引き上げる方がはるかに容易であるように、繁栄の時代には、税を廃止するよりも引き下げる方が賢明な場合が多い。一般消費財に対する少額の税は、価格の若干の上昇という形で現れるが、ほとんど気づかれず、通常、直接税よりもはるかに小さな摩擦や不快感しか引き起こさない。それらは消費や享受するものに厳密に比例するため、非常に公平である。そして、この税制は納税者が資産の増加、あるいは減少に応じて消費を変えることによって税額を変えることを容易にし、同時に国民の負担のいくらかが広範囲に分散されることを保証する。この問題について優れた論者は、まさに次のように述べている。「税負担が公平に配分され、産業を束縛したり企業を抑圧したりしないように工夫されているならば、その課税方法は最良のものであって、不快感が最も少なく、最も感じられないものに違いない。」そして同じ論者は、間接税の徴収コストが直接税の徴収コストよりも大きいという一般的な考え方には、かなりの誇張、さらには明らかな誤りがあると信じるに十分な根拠を与えている。1 他の二つの考慮事項も忘れてはならない。一つは、直接税の免除は通常、影響を受ける納税者全体が最大限に感じられるが、間接税の免除から生じる利益のまったく不相応な部分が、ほとんどの場合、仲介業者によって横取りされるということである。もう一つは、直接税の免除は通常、純粋な利益をもたらすが、間接税の免除は競争を刺激することによって、特定の階級に深刻な苦しみをもたらすことが多いということである。一例を挙げると、スコットランドとアイルランドの最も不毛な海岸地帯の最も貧しい住民を主に支えているケルプ製造業(*海藻を燃やしてソーダ灰をつくる)は、長年にわたってその存続をスペインのソーダ灰に課せられた関税に完全に依存していた。
1 グレッグ著「政治問題」304頁。
私はこうした発言によって、イングランドが自由貿易法から得た莫大な利益に異議を唱えるものではない。この法律は生産と消費の両方を大いに刺激し、大勢の人の生活を楽にした。多くの場合、大蔵省は税金が高い時期よりも安い時期にはるかに大きな税収を得てきた。しかし、課税の基盤を狭めることの政治的弊害は現実のものであって、純粋に経済的な側面においてさえ、かつての財務制度の濫用に対する反動は行き過ぎているように思われる。1869年に穀物に対する登録関税(*小麦1クオーターにつき1シリング、現在の価値で291リットルにつき1000円)が廃止されたことで、パン1斤が安くなったとは考えにくい。ただし、ロー(*ロバート、大蔵大臣)氏によって廃止された当時、このわずかな関税は90万ポンド以上を国庫にもたらしていたが、今日ではおそらくその2倍の金額をもたらしているだろう。現世代で廃止された少額の石炭税の存在は、ロンドンの住民の100人に1人にも知られていなかった。石炭税は600年以上にわたって何らかの形で存在し、我が国の税金の中ではほぼ最古のものだった。石炭税は首都の改善を目的として、不平もなしに徴収され、年間50万ポンド以上の収入をもたらしていた。少数の裕福な炭鉱所有者と仲買人を除いて、石炭税の廃止で誰かが利益を得たとは思えない。1
1 これらの石炭税に関する事実は、ロンドン市の石炭・穀物・財政委員会が発行した「石炭税の廃止以来のロンドンの石炭価格の変動と変更の結果」という報告書に記載されている。
税制の変更が選挙活動に利用されるという顕著な例は―民主的な性格のものではなかったが―1874年の総選挙で所得税の廃止を選挙スローガンにしたグラッドストン氏の行動に見られる。この選挙の状況を簡単に述べよう。グラッドストン氏は田舎に行く必要はなかった。前年のアイルランド大学問題における敗北にもかかわらず、彼は依然として相当数の完全な多数派を有していた。ただし、補欠選挙での数回の敗北は、彼の力が衰えていること、特に所得税の納税者である上流階級と中流階級の彼に対する忠誠心が深く揺らいでいることを明らかに示していた。所得税納税者は、当時でも有権者の絶対多数ではなかったが、1885年の改革法案後よりもはるかに大きな割合を占めていた。その中には、他の有権者に影響を与える可能性のある有権者の大多数が含まれていた。彼らは非常に大きく、非常に強力な集団だったので、彼らの全体的な動きが選挙の命運を決定するだろうことに疑いはなかった。内閣の運命が、この悪名高い浮動票の離反を阻止できるか否かにかかっていることはほぼ確実だった。
このような状況下で、グラッドストン氏は突然議会を解散して、国民を大いに驚かせ、選挙民に綱領を出した。この綱領は、最も情報に通じているであろう人々の報告がまったくの誤りでないとすれば、国民のみならず同僚の大半にとっても驚きだった。時代は非常に好調で、大蔵省には多額の黒字が集まっていた。グラッドストン氏は、他のすべての政治的問題を後回しにして、この黒字を選挙に利用し、選挙民、特に忠誠心が揺らいでいることが知られている選挙民層への大規模で直接的な金銭的支援に賭けることを決意したのである。彼の選挙演説の一部は、税金や入港税(*assist rate)の引き下げという一般的で漠然とした約束で構成されていたが、その目立った斬新さと大胆さによって即座に、そして特に国民の注目を集めたのは、選挙に勝ったら所得税を廃止するという明確な誓約だった。この約束はすぐに選挙の目玉となった。百の自由党の綱領と百の自由党の新聞で、所得税の納税者が内閣を支持すべき大きな理由としてこの約束が強調された。この階級の有権者が投票所に行けば、政府の勝利が直接の個人的は金銭的利益になることをはっきり告げられた。
グラッドストン氏の公約が、選挙演説の次の曖昧な一節に限定されていたことは事実である。「私は、これらの大幅な減税と併せて、既存の税金の賢明な調整によって、どのような節度ある支持が獲得できるかを検討するよう、政府が議会に求めるのを妨げたことはない。」また後の演説で、新税を課さずに所得税を廃止することが不可能なことを詰問され、所得税の廃止と税率の引き下げについて考慮するなら「資産家は何らかの形で、相当かつ公平な程度に、公的負担にフェアな貢献をすべきである」と認めたのも事実である。しかし、この貢献の性質と規模、それがどのような形をとるか、そしてそれが配分される範囲は、選挙当日まで明らかにされなかった。それに関するすべては完全に曖昧で不明瞭なままだった。選挙民の前に、明確で鮮明で、紛れもない形で提示されたのは、ただ一つの点だけだった。それは、グラッドストン氏が勝利すれば所得税は廃止されるというものだった。課される同等の負担の明確な説明がないそのような約束は、その政府からの離反が解散の主な原因になった、大きな有権者層への直接的な賄賂としてしか機能しなかっただろう。グラッドストン氏が所得税の廃止を戦いの最前線に置いたとき、彼が所得税納税者を味方にしようとしていることを本気で疑う政治家はいなかったはずである。
以前の著書で敢えて私がこの件を批判したところ、憤慨したグラッドストン氏から二つの弁明が寄せられた。1 それらの巧妙でまことしやかな文章だけ見れば、票の獲得や、政治的離反の阻止や、政党の勝利といったようなことを彼は微塵も計算したことがなかった、と誰もが思うだろう。彼は国民に単に「税金を支払うか、あるいは支払わないかという主要かつ基本的な権利の行使について」「財政の再調整という大きな問題」について「相談」していただけである、と言った。「課税に関する国民の権利は、他のいかなる政府の問題よりも古く、高く、明確なものである。」と彼が言ったことは正しい。同時に彼は、批判者は「所得税の廃止の提案とともに相続税の再構築と拡大の提案がなされたことを当然知っていたはずであるし、そう明言すべきだった。貿易と産業にとって最も腹立たしい直接税は廃止されるべきであって―貿易と産業に不都合なすべての直接税は最小限度に…課されるべきである」と主張した。
1 「19世紀」1887年6月号と8月号。私自身の短い記事が7月号に掲載される。
この文章で自信たっぷりになされた主張は、単なる虚偽であって、あまりに急いで書いたために著者が時々犯した記憶喪失の奇妙な例である。この種の提案はなされていない。グラッドストン氏は、この点については記憶違いをしていたこと、批判者が正しかったことを、2番目の記事で告白せざるを得なかった。しかし、彼はすぐに立場を変え、もし彼が考えていた課税の「再調整」を選挙で明らかにしていたなら、公的な業務に非常に不利益を及ぼしたことだろう、なぜなら、そのようなことを開示すれば、納税者は(*相続税対策によって)将来の負担を回避できるだろうからである、と主張した。「計画の詳細の開示は、まったく前例のないことであって、公益にとって極めて有害だっただろう。」実際、この事実は、こうした問題を選挙公約に盛り込むべきではないという主張の決定的な論拠になることは明らかである。課税の調整について協議を受けるという国民の「古来の権利」は、協議の際に調整の性質が隠蔽されているなら、ほとんど価値がない。グラッドストン氏の提案は、有権者に完全に説明されていたなら、彼自身の言によれば、挫折していただろう。言われた通りのことを言うなら、それは特定の有権者層が政府に政権を維持させるなら、政府は彼らに鬱陶しい税金を課さないという、あからさまな約束にすぎない。
しかし、グラッドストン氏は単なる謝罪よりもずっと居丈高な立場を取って、この取引における彼の本当の動機は「厳粛な義務の遂行」であったと断言する。彼は所得税が不当で不平等でモラルを低下させるものと考えていた。彼は21年前に所得税を廃止すると約束した内閣の一員だった。この約束は長い眠りの後、選挙前夜に完全に息を吹き返し、彼は選挙民に「名誉の負債の支払い」を申し出たのである。
グラッドストン氏が、この理屈は正当なものである、と自らを納得させたことを私は疑わない。しかし、それに対する反論は非常に単純なものある。彼は所得税を廃止し、十分な説明と議論の後に、彼が望ましいと考えるその他の財政措置を実施する予算案を議会に提出することは完全に可能だった。もし普段通り、通常通りに行動していたなら、彼が非難や不信を買うことはなかっただろう。そして、おそらく真に国に貢献していただろう。しかし、総選挙において、選挙民に半ば非開示の断片的な予算案を提示し、シンプルな特定の税金の廃止を、その納税者の主な投票の動機にしようとするなら、話は全く変わってくる。政府の支持率が目に見えて低下しているのを見て、予算案を提出する前に議会を解散し、浮動票と目される大勢の有権者が支払う主な直接税を廃止することを選挙のスローガンにすることを決意した大臣は、「厳粛な義務を果たす」以外の目的に動かされたわけではないのかもしれない。しかし、普通の人にとって、そのような行為は別の動機を意味する。そして、そのような人は間違いなくグラッドストン氏の戦いに協力しただろう。そして、自分の目的を叶えるために彼の例に倣うだろう。これよりも悪い先例は存在せず、今回の選挙でグラッドストン氏を負けさせた選挙区は政治道徳に少なからぬ貢献をした、というのが私の意見である。
もう一つ、奇妙に独創的で特徴的な議論がある。私は、グラッドストン氏の演説の意味するところは、彼が勝利すれば所得税は廃止されるということだったと述べた。これは文字通りの、そして議論の余地がない真実である。しかし、グラッドストン氏は、選挙がまるで所得税の問題で争われたかのように言うことは完全な間違いであって、極度の無知の証拠である、と宣言することによって非常に巧みに反論した。これは、一方の党が廃止に賛成し、他方が反対した問題ではなかった。「この噂されている歴史的事実は、まったくの歴史的虚構である。」両党とも廃止を約束していた。すなわち両党の立場は同じだったのである。(*というのがグラッドストン氏の主張である)
少し説明した方が、この問題の真実が明らかになるだろう。グラッドストン氏が選挙演説を行ったとき、ディズレーリ氏は明らかに驚いていた。彼は、この斬新で前例のないやり方が支持の大波を生み出し、所得税納税者の大多数はライバルの網に捕らえられるのではないか、と大いに懸念した。そこで彼はすぐに、自分も所得税の廃止には賛成であって、常に所得税には反対してきたと応酬したのである。当時の多くの良識ある評者たちは、この言外の約束を極めて不適切なものと考えた。そして、私はこれを擁護する義務はまったくない。しかしディズレーリ氏が、黒字が十分に大きく、新たな税を課さずに廃止が可能である場合にのみ、廃止に賛成する、と述べたことを付け加えるのは公平なことである。1 しかし、ディズレーリ氏の行動はグラッドストン氏の当初の演説の性格に影響を与えるという主張は、単なる詭弁であることは確かである。グラッドストン氏の約束が獲得することを期待された、選挙民の中の大きな浮動票こそが、彼の支持者たちが最も確かに当てにしていた成功の要素だったことは、まったく周知の事実ではないだろうか?ディズレーリ氏の返答の後も、彼らは、グラッドストン氏がその問題を先導することで有権者に対して確立した特別な権利、また、その提案を実行する能力がライバルよりはるかに優れていることを、依然として(そして大いに理由をつけて)主張しなかっただろうか?グラッドストン氏の前例がこれほど迅速に追随されたという事実は、それが有害でなくはなく、伝染する可能性がなくはなかったことの証拠ではないだろうか?
1 「年次記録」」1874年9頁。
もっと深刻な議論は、さまざまな時期に一般的な同意を得て選挙区に提起された問題の中には、穀物法の廃止、地方税、経済改革といった、公益のみならず私的金銭的利益のためにも選挙民に提示されなければならなかった問題が数多くあったことである。(*選挙民の金銭的利益に関係する問題が選挙の争点になるのは珍しいことではない)このことはまったくの真実であって、私はその力を否定したり回避したりするつもりはない。公益と私益は、間違いなく政治においてしばしば非常に混ざり合っていて、完全に切り離すことは不可能である。主に私益という低次の動機によって左右される選挙と、主に公益という高次の動機によって左右される選挙には非常に大きな違いがあるが、それは本質的には程度と割合の違いである。言えるのは、どちらの動機が優勢な選挙を行うかは主に大臣が決める、ということだけである。疑わしいケースは、そのケース自体の価値と、そのケースの特殊状況に照らして社会の常識によって判断されなければならない。昔は選挙における(*有権者の)私的利益は、主に個々の有権者の買収によるものだった。現代では、賄賂はその性質を変え、個人よりも階級に贈られることがはるかに多くなったようである。税制の操作や、重大な時期に特定の有権者票を獲得するために巧みな改造を施されたその他の法案を提出することは、最も恐れるべき悪である。そして、1874年にグラッドストン氏が採った方針は、この種の悪の中でも依然として顕著な例であるように私には思われる。
他にも多くの例を挙げることができる。土地連盟(*Land League)運動の時期にアイルランドの政治を注意深く追ってきた人物なら、選挙民の強欲への訴えがこの運動全体の原動力だったことを疑わないだろう。他の動機や要素が指導者たちの計算に大きく関わっていたことも疑いようがない。彼らにとって、地主をその地所から追い出したいという願望そのものは目的ではなかった。それは政治的優位を獲得し、イングランドから離脱するための手段だった。しかし、彼らが農民階級の大部分の支持を得るために効果的だったのは、政治的手段を使えば契約を破棄し、地代を下げ、地所を没収できるという説得だったことはよく知られている。また、帝国議会の立法が彼らの先見の明の正当化に大いに役立ったことも否定できない。
1870年の土地法は、この告発には含めない。この法律は、すべてではないにしても、主要な点では、イングランドの政治に現れた最も困難で複雑な問題の一つに対処するための賢明で包括的な取り組みだったように私には思える。問題の要素は非常に多かった。土地所有階級と耕作階級の間の共感は不完全なものだったが、これはもともと歴史的な原因、つまり宗教、政治、そしてある程度は民族の違いから生じ、近代において飢饉と土地収用法(*Incumbered Estates Act、飢饉ゆえに債務を履行できなくなった地主の土地売却を容易化)によって強化された。この法律によって数多くの新たな地主が主に商業階級から生まれた。しかし、彼らは取得した地所の伝統や慣習を知らず、借金や商業投資によって購入することが多かった。アイルランドでは農地の改良もその大部分が借地人によって行われ、地主によって行われたのではなかった。地代は一般にイングランドに比べて安く、古い土地の多くでは、安い地代で長期間の借地権を保有することによって借地人の(*改良のための)支出は十分に補われていた。しかし、新しい所有者の出現、地代の急激な上昇、あるいは価値の低下によって、借地人による改良の価値が事実上没収されるケースが間違いなくあった。リース(*借地契約)は数年にわたって減少しており、任意の小作年期が一般的になっていた。借地権の慣習はアルスターでは一般的なものであって、他の州でも時折見られたが、法律による認可や保護はまったく受けずに存続していた。法律で認可されていない慣習はアイルランドの農業界で大きな役割を果たしていた、多くの地域で、好況や不況に応じて極端に不規則に地代が支払われるのを許し、長年の滞納金を請求も帳消しもせずに放置するという悪しき慣習があった。付け加えなければならないのは、製造業の少なさゆえに国民が不健全なほどに土地で生計を立てるしかなくなっていたこと、政治的な煽動がすでに階級間の敵意を煽り、その分裂を助長していたこと、そして双方に重大な欠点があったことである。お粗末な農業、あらゆる階級の非倹約的、浪費的で非実務的な習慣、企業精神と着実な勤勉さの大幅な欠如、義務の大いなる怠慢、そして頻繁ではなくとも時折起こる抑圧と強要、これらすべてが立法者の仕事を複雑化する原因になった。
立法者の目的は、将来のすべての改良への補償を借地人に保証すること、特別な誘導によって、明確な書面上の契約による土地制度を復活させること、借地権が一般的に認められているときにはそれに法的性格を与えること、そして政府の措置によって土地所有農民、あるいは政治的価値においてほとんど遜色のない、安い固定地代で永久に土地を保有する借地人階級の形成を支援することだったはずである、と私は考えている。
特に、借地人による農地の改良の問題は極めて重要なものだった。そして明確な警告にもかかわらず、議会が長い間この問題に対処しなかったことは、アイルランド人の最も現実的な不満の一つである。
飢饉(*1845―1849)の数年前、シャーマン・クロフォード(*ウィリアム、1780―1861、アイルランドの急進派国会議員)はこの問題に熱心に取り組み、この問題を効果的に解決する法案を何度も庶民院に提出していた。彼は、借地人が地代の増額につながるような改良を、既存のリース条件に含まれない形で行った場合、これらの改良は適正に評価されるべきであると提案した。借地人は、リース満了時に、地主に即時の金銭的補償、あるいは小作年期の延長を要求する権利を持つべきであり、新しい地代を決定する際には、未払いの改良の価値を考慮に入れ、次の小作年期中に借地人がそれらの費用を返済されるようにすべきであると提案した。1
1 「デヴォン委員会の証拠要約」第1部164―66頁を参照。
1843年末に開かれた委員会でデヴォン州の委員たちは、この問題について非常に多くの貴重な情報を収集し、極めて公正な精神でこの問題を扱った。彼らは、「リースやその他の保証なしの借地人の改良への投資から、地主が利益を得ていたことを示す事例は多くなかった」と認めた。また「土地の長期的かつ有利なリースを受けている借地人が、一般的に高度な改良を行ったとは言えない」ことも認めた。実際「非常に長期間、非常に安い地代で貸し出された土地は、他の土地よりも悪い状態にあり、その占有者は他の人々よりも困窮している」という証拠があった。一方、彼らは、借地人による改良の価値の没収の事例が発生しており、任意の小作年期の借地人や非常に短いリースの借地人は常にそうなりがちであること、「大きな地域で一件の事例が発生したなら、当然、計り知れないほどの努力が失われる」こと、現行法の下でそのような没収が可能で極めて容易なことは、借地人にとって甚だしい不公平であり、借地人階級と農業全般の両方にとって当然非常に利益のあった投資を最も強力に阻害し、直接的、あるいは間接的にアイルランドのほとんどの社会悪の大きな原因になっていることを主張した。彼らは、アイルランドにとって最も重要なこととして、今後は法律によって借地人に恒久的かつ生産的な改良に対する補償を与えることを勧告した。そして次の原則に基づいてそれを策定した。地主と借地人の間のそのような改良に関する合意は正式に登録されなければならない。そして、そのような合意に達することが不可能であることが判明した場合、借地人は地主に適切な改良を行う意図を通知しなければならない。相互に選出された仲裁人がそれらについて報告し、その報告と審査の後、法廷弁護士補佐は地代3年分以下の最大費用を保証しなければならない。借地人が立ち退かされたり、30年以内に地代が値上げされたりした場合、地主は、定められた最高額を超えない範囲で、その時点での改良の価値に応じた金額を支払わなければならない。改良は限られた時間内に完了しなければならない。また地主には自分で改良を行うという選択肢があり、その場合は借地人に支出額の5%を請求できることになっていた。1
1 「デヴォン委員会の証拠要約」第二部1124―1125頁。
この報告書に基づく政府の法案は、1845年にスタンレー卿の強力な演説によって、また1846年にはリンカーン卿によって提案された。最初のケースは、非常に強い反対に直面して放棄された。2番目のケースは、提案したロバート・ピール卿(*1788―1850、二度首相を務める)の政府が打倒されたため、失敗に終わった。その後数年間、同じ方向への試みがいくつか行われたが、最も注目すべきは、ダービー卿の政府のアイルランド法務長官、ネイピア氏が1852年に提出した法案であって、過去のすべての改良に遡及的に適用されるという性格を持っていた。しかし、これらの法案はどれも最終的に成立せず、デヴォン委員会の助言は無視された。
改良の問題のほかに、頻繁な立ち退きや立ち退きの恐れを防ぐために何らかの対策を講じる必要があることは明白に認識されていた。そして1860年の土地法はこの方向でいくらかの措置を講じた。自由党政権によって可決されたこの法律は、アイルランドにおける地主と借地人の関係は「当事者間の明示的、あるいは黙示的な契約のみに基づくものであって、(*封建的な)土地保有権(*tenure)や役務(*service)に基づくものではない」ことを最も明確な言葉で確認したが、同時に、借地契約に基づいた1年分の地代が滞納されるまで、地主は地代の未払いを理由に立ち退かせることはできないと規定した。そして立ち退きが行われ、地主が農場を占有した後でも、借地人は6か月以内に地代と費用を支払えば、裁判所に復権を申し立てることができると規定した。フランス民法1 から模倣されたと思われる条項では、借地人が最初に土地を受け取ったときの自由保有権(*freehold)を損なわない限り、借地人が「自分の費用で自由保有権内に設置したすべての動産、内燃機関、機械、および建物」を撤去することを認めていた。また別の条項では、明示的な反対の合意がない限り、借地人が小作年期中に未開拓の泥炭地で泥炭を採掘する権利を保証していた。さらに付け加えるなら、旧アイルランド議会の法令はずっと以前に、適切に登録されている限り、借地人が植えた木の所有権を借地人に与えていた。
1 リッチー(*アレクサンダー・ジョージ、1830―1883、アイルランドの法廷弁護士)著「アイルランドの土地法」50―51頁を参照。
1870年の非常に包括的で精緻な法律は、さらに踏み込んだ内容で、明らかにすべての当事者を公平に扱おうという意図から生まれたものだった。ただし、その数多い条項の中には、作成者が明確に予見していなかった危険をもたらしたものもいくつかあった。この法律の重要な部分の一つは、教会法(#?)で採用されていた、農民の土地所有権を創設しようとする政策を踏襲し、それを拡張したものである。この法律は、占有地の購入を希望する借地人に対して、購入金額の3分の2を超えず、35年間、5%の年利で返済可能な金額を貸し付けることを定めていた。別の部分は、最大限かつ完全な文言によって、借地人が改良に対して補償を受ける権利を認めていた。改良の定義は、土地の賃貸価値を高める、土地に適した、また農作物や未使用の肥料にも適した作業とされていた。この権利は、地代未払いによる立ち退きによって消失するものではなかった。これは、この法律の施行後に行われた改良に限定されなかった。明確に定義された特定の例外を除いて、これは借地人、あるいはその前任者が行ったすべての改良に適用される。恒久的な建物や廃地の埋め立てについての期限はない。その他の改良には20年の期限がある。特定の場合を除いて、異議が証明されない限り、改良は借地人、あるいはその前任者によって行われたものとみなされることが制定され、これにより、土地に加えられたものはすべて地主のものであるという古い法的推定が覆された。長期リースの場合に常に地主を縛ることになる改良を制限する条項や、退去する借地人が裁判所に承認された条件で新しい借地人に改良の権利を譲渡することを認める条項によって、永続的な書面による契約と借地人の権利が促進された。
アルスターの借地権―言い換えれば、借地人が自分の農場の権益を売却する権利は―法的効力を得て、アイルランド全土に拡大された。アルスターでは、既存の借地人が借地権を購入していたため、慣習によってすでに所有していたものに対する法的保証しか得られなかった。アイルランドの他の地域では、購入したものではない、売却可能な資産が借地人に与えられた。この結果、借地権を贈与物として受け取った最初の世代の借地人にとっての恩恵は、やがて借地権を購入する後継者にとっての恩恵よりもはるかに大きかった。おそらく予見されていなかったもう一つの結果は、借地人が新しい担保で多額の借金をしたことである。そして、この頃から「ゴンビーンマン」、すなわち地元の高利貸しがアイルランドで大きな存在感を持つようになったのである。ある規定については、当時、世界の法律にこれに匹敵するものはなかったと私は信じている。それは、一年単位の小作権を持っている借地人は、小作年期の終了日に、破滅的な費用を支払わない限り立ち退かせられないというものだった。地代の未払い、破産、あるいは特定の小作条件の違反の場合を除いて、地主は借地人に「迷惑(*disturbance)」に対する罰金を支払わずに土地を取り戻す権限はなかった。この罰金は、場合によっては7年分の地代に相当することもあった。この「迷惑」が違法行為ではなかったことは明らかである。これは単に、地主が契約によって確認された明白で争いのない権利の執行に過ぎない。その契約ゆえに地主は自分の土地を明け渡したのである。ロングフィールド判事が指摘したように、この法律によれば、地主は借地人を1年契約の借地人として5年間その土地を貸し、その後、立ち退かせた場合、罰金として7年分の地代を支払わなければならない可能性があった。1 この補償は、恒久的な建物の形状の改善や土地の埋め立てに対して支払われる補償とはまったく異なるものだった。しかし、地主は長期のリースを付与することで、この請求を免れることができた。
1 「土地保有制度(コブデンクラブ)」78頁。
この法律を導入した政治家は、この法律は借地人にその占有地の所有権を与えることを意図したものではないと非常に明確に述べた。しかし迷惑に関する規定に、この効果があったことに疑いはない。この法律とイングランドのコピーホールド(*中世後期から近代の、権利証書の複写を借主に渡す土地保有制度)の保有権との間には、かすかにではあるが、遠隔的な類似点が見出されるだろう。コピーホールドの保有権は、何世代にもわたって妨げられることなく、同じ家族が持っていた(*領主の任意による)任意借地権から生まれたものだった。それは最終的に、借地人とその相続人が荘園の太古の慣習が定めた条件に従って享受する、永久的保有権であることが法的に認められた。しかしながら、アイルランドの法律は最も古い借地権のみならず最も新しい借地権にも適用された。この法律は、アイルランドのほとんどの地域における慣習によって一年契約の借地人は地代を支払っている限り、借地権の継続を妨げられないという保証であること、無益な立ち退きという大きな政治的悪の阻止を意図した措置であること、そして借地人に借地条件を厳守する強力な追加的動機を与えることによって、地主と借地人の両方に利益をもたらす可能性が高いという理由をつけて擁護された。それは、良き地主の借地人がすでに享受している安心を、悪徳地主の借地人に与えるだけであって、小規模農家の場合、借地権の安定性が増すことは、政治的に大きな利点になるのみならず、より良い農業の大きなインセンティブにもなるとされた。地代未払いによる立ち退きでさえ、土地裁判所が地代を法外なものと見なした場合、あるいは滞納金がすべて過去3年間に発生したものではなかった場合は「迷惑」と見なされ、補償請求が成立する可能性があった。迷惑に対する補償を受ける権利は、法律が可決された後に作成されたすべての1年ごとの小作年期、あるいは31年未満のリースに適用された。また、法律が可決された時点で存在していたすべての1年ごとの小作年期、年額100ポンド未満のものにも適用された。
議会は、小規模な借地人は立場が弱すぎて、自ら契約を結べない、という主張には一理あると考えた。地主と借地人との間の、後者が法律で認められたいくらかの特権を放棄するという合意が、多くのケースにおいて無効とされた。成人が自分で契約を結ぶことを禁じるこの条項は、後に数多くの法律を生み出した。この原理は、1880年の狩猟法においてイングランドに持ち込まれ、イングランドの借地人が地主との合意によって、野ウサギを殺す権利を放棄することを不可能にした。そして、できるだけ多くの土地や売買の契約に同じ強制の原理を導入する傾向は、たちまちイングランドの進歩的自由主義の際立った特徴になりつつあるようである。
1870年のアイルランド土地法は、結果として、今世紀の最も重要な法律の一つになったことは間違いない。これは非常に誠実な動機で導入されたように私には思わる。そして、多くの部分で非常に有益なものだった。借地人が行った改良に対する権利を認めたこと、アルスターに存在したような借地権を認めたこと、借地人を任意に選ぶ制度に代えて書面によるリースや契約書を奨励したこと、農民の所有権を創設するために講じられた措置は、すべて非常に賢明なものだった。気まぐれな退去通告、あるいは単に地代の支払いを早める目的で出される退去通告は、印紙税によって抑制された。また荒地の再生のために公金の融資を認める有用な規定があった。しかし、そのような債務が法律で認められていなかった時代に、そのことを充分に知った上で借主が行った改良について地主に支払いをさせる遡及条項が財産権と折り合うとは私は思わない。そして、一年契約の借地人を年度末に退去させた場合には、シンプルな迷惑料として補償金を支払うという条項は、本質的に不誠実なものであって、その後に続いた多くの悪の元凶だったように私には思える。それはアイルランド政治にまったく新しいものを持ち込んだわけではなかった。1866年、コルマン・オログレン卿(*1819―1877、政治家、アイルランド人)は、一年毎の借地と不安定な小作年期を阻止するための法案を提出したが、その中の条項の一つは、地代の未払い以外の理由で退去させられた一年契約の借地人に補償金を支払うというものだった。この法案は、大多数の反対によって否決された。1
1 ウィリアム・グレゴリー卿(*1816―1892、政治家、作家、アイルランド人)の「自伝」243頁を参照。
1870年の法律は、もっと野心的でなく、目指すところが少なかったなら、もっと成功していただろう。しかし、その課題は極めて困難なものであって、その立案にあたった政治家たちについては、大いに斟酌しなければならない。アイルランドの借地人の立場を最も危うくしていた旧アイルランドの土地制度の二つの特徴は、一般的にリース(*借地契約)がなかったことと、ほとんどの改良を地主ではなく借地人が行うという慣習だった。これらの点はいずれも、ほとんどの場合、地主と借地人の間で大きな争いにならなかった。最近の法律の制定以前のアイルランドの土地の状況を最もよく知っている人なら、小規模借地人の大多数が、通常はより厳しい契約条件を伴い、期限が切れるとおそらく再評価されて、地代が値上げされる定期リースよりも、変更が稀な一年毎の小作年期を好んでいたし、地主がイングランド式の改良を施してその費用を地代に上乗せするよりも、自分たちの経済的で、一般的にずさんな方法で改良を施すことを好んでいた、という私の意見に同意してくれるだろう。地代が十分に安く、借地期間が借主の(*改良のための)支出を補うために十分長かったなら、この制度に不公平な点は何もない。また、借主が補償を受けた後、土地が改良された価値に応じて貸し出されることも不公平ではない。しかし、この慣習が、アイルランドの思想に深く根付いていた土地の共同所有という観念をどのように強化したかは容易に理解できる。アイルランドの貧しい地域の多くでは、農民が建てた小屋、石を除去したこと、設置した柵が、農場の価値の大部分を占めていた。こうした不毛の土地の小さな農場は実際、根本的に生活を支えることができなかった。それが小さな借地人に提供したのは住居と生存のためのジャガイモだけだった。地代は年間約4ポンド(#後述の相場からすると約5エーカーの地代)を超えることはなく、非常に不定期しか支払われなかった。それは時には漁業で、より頻繁には移住労働者として、そしてイングランドやスコットランドでの収穫作業で稼がれたものだった。
肥沃な地域では状況は異なっていて、非常に多様だった。おそらく、初期の改良の大部分は、非常に安い地代による非常に長いリースという、古いシステムの下で行われたものだった。多くの場合、特定の建物の建設はリースで明示的に規定されていて、価格を調整する要素の一つだった。政府の融資によって行われた排水のコストの大部分は地主によって支払われた。また多くの場合、彼らは建設のコストの一定の割合を負担した。しかし、一般的に改良は借地人によって行われていた。借地人は十分な期間、十分に安い地代で借地権を享受するため、改良にはそれに見合う価値があると信じていた。しかし、劣悪で無駄の多い農業によるアイルランドの土地の著しい劣化は、こうした改良をかなり相殺していた。
1870年以前のアイルランドの地代は一般的に法外な金額ではなく、むしろ市場価格よりはるかに低かったことは十分に証明されている。1 このことは借地権が認められていた場所ではどこででも、この占有権が高額で売却されていたという事実、また転貸が認められていた場所ではどこででも、借地人がほぼ例外なく借地権の全部、あるいは一部を自分が支払っていた地代よりはるかに高い地代で貸していたという事実によって証明されている。このことはロングフィールド(*マウントフォート、1802―1884)判事やフィッツギボン(*ジェラルド、1793―1882)判事長(*master)といったアイルランドの土地に関して最も権威のある人々の証言や、1881年のベスバラ(*委員長のアイルランド系伯爵の名前)委員会の直接の証言によって証明されている。同委員会は、長く注意深い調査の末、アイルランドでは「イングランドで完全かつ公正な商業的地代と見なされるような金額を徴収するのは稀なことだった」という結論に達したのである。2 このことは、イングランドおよび外国の地代との比較、また、主要農産物の価格や王国の他の地域の地代上昇と比較したアイルランドの地代上昇の緩慢さによって証明されている。アーサー・ヤングは当時(*1780年頃)、アイルランドで土地所有者に支払われる地代は不当に、そしてしばしば不合理なほど安いと考えていた。1870年の土地法案を提出するにあたってグラッドストン氏は「アーサー・ヤングが執筆してから90年が経過し、アイルランドの地代はちょうど2倍になった。しかし、アルスターを除外すれば2倍には程遠い値である。一方イングランドの地代は98年で3倍、スコットランドの地代は99年で6倍になった」と述べた。3 もっと短い期間、そして非常に繁栄した期間を取り上げても、ほぼ同じ結論が得られるだろう。現代最高の農業の権威の一人であるケアード氏は、1869年までの7年間に「地代はイングランドでは7%、スコットランドでは8%上昇したが、アイルランドでは同時期に最安値から5.5パーセント以上上昇していないようだ」と計算している。4 実際、アイルランドは全体として、連合王国の中で19世紀の第3四半期の農産物価格の大幅な上昇の恩恵が労働者と借地人に最も大きく及び、地主には最も僅かしか及ばなかった地域だろう。5
1 アイルランドとブリテンの地代の比較は、農業システムや農地改良に対する支払いが異なるため、非常に不正確なものになりがちである。そこで統計学の現代の最高権威の一人が書いた小冊子から、次の一節を引用しよう。1886年、エドウィン・チャドウィック卿(*1800―1890、社会改革者)は書いている「不況期以前、アイルランドの地代は耕作地で平均1エーカー(*4047㎡)あたり15シリング(*1シリングは1/20ポンド)だったようである(現在は平均10シリング以下とされている)。イングランドでは1エーカーあたり23シリングだった。スコットランドでは、イングランドよりも劣る耕作地で、地代は40シリング以上だった。」(チャドウィック卿著「アイルランドの新たな救済策」19頁)。アイルランドと外国の地代の比較については、ヨーロッパ大陸で最も有能な評者の一人であるモリナーリ氏(*ギュスターヴ・ド、1819―1912、ベルギーの経済学者)の言葉を引用する。「一般的な地代は中程度であって、私が判断できる限りでは、同程度の土地に対してフランドル地方の半額である。」と彼は結論している。(「アイルランド、カナダ、ジャージー」(1881年)、138頁)
2 「1870年の地主借地法の運用に関する調査報告書」3頁、コブデンクラブに掲載された「土地保有制度」に関するロングフィールド判事の論文、およびフィッツギボン著「1868年のアイルランド」268―270頁を参照。ロングフィールド判事は長年、土地財産裁判所の判事を務め、おそらくアイルランドの土地に関しての第一人者だった。フィッツギボン判事の権威もそれに劣らなかった。彼は大法官として長年にわたって452もの土地、18,000人以上の借地人、330,000ポンド以上の賃貸料を管轄していた。
3 1870年の土地法案の導入に関するグラッドストン氏の公開演説、26―27頁を参照。
4 ジェームズ・ケアード(*1816―1892)著「アイルランドの土地問題」(1869年)、15頁。
5 ロバート・ギッフェン卿(*1837―1910、統計学者)は、「アイルランドが生産する牛や乳製品の価格が大幅に上昇したにもかかわらず、アイルランドの地代は長期間にわたって停滞している」と述べ、さらに「農民と労働者は共に、農産物価格の上昇による利益をすべて享受してきた」と付け加えている(「過去半世紀における労働者階級の進歩」)。
アイルランドの地代が一般的に不当に高かったというのは事実に反するが、アイルランドの借地人の大半の立場がまったく不安定なものだったこと、アイルランドの三つの州では、数多くの原因が共に働いて健全な農業国家に不可欠な、地主と借地人の良好な関係を崩壊させていたこと、また少数ではあったが、ひどい抑圧や強要の事例が存在し、それが稀なものではなかったことは事実である。確かに、転貸は大幅に減少し、それとともに法外な地代の主な原因も縮小した。農民階級の人々が紳士階級の人々よりも常にはるかに厳しい主人だったという事実は、アイルランドの農業史のあらゆるページに最も明確に刻まれている。そして最近では、地主にごく普通の地代を払っている借地人が、その土地の一部に対して労働者から極端に高い地代を巻き上げていて、実際に土地裁判所に地代を減額された事例がある。実際、自分の主人に借金を免除された召使いが、仲間の召使いから最後の一銭まで取り立てるという例え話は、地球上のどこよりもアイルランドに当てはまる。
しかし、土地の実際の所有者に支払われる地代のうち、法外に高額なものは二種類あった。商業か農業階級の、あまり裕福でない人々の小さな土地、そして投機家が土地収用法に基づいて、通常は借金で購入した―多くの場合、広大な―土地のものである。購入者が、大規模な整理と大幅に値上げした地代で、支出を回収しようとしたケースもあった。これらの土地の売却では、借地人はリース(*契約)による保護を受けていなかった。土地が売却されたときの法律では、改良に対する権利は認められていなかった。そして価値の大部分を最近の借地人の改良から得た土地では、明らかに詐欺的な方法で地代が値上げされたこともあった。購入者は自分の法的権利のことしか考えていなかった。自分の土地の歴史については何も知らず、気にも留めなかった。1 また、古い土地では、特定の農場の地代が周囲の農場よりも奇妙に高いことが時々ある。その説明は通常、これらの地代が以前は仲介者に支払われており、仲介者がいなくなったときに改定されなかったということである。
1 このテーマについてはウィリアム・グレゴリー卿の「自伝」157―59頁に優れたコメントがある。
1870年の法律には多くの長所があった。しかし、それは危険で不誠実な原理を含んでいたと私は信じている。1881年の法律は、イングランドの全立法史の中で最も疑いの余地のない、そして実に極端な、財産権の侵害の一つであるように私には思われる。その性質を理解するには、グラッドストン氏の立法以前には、アイルランドの土地の所有権は、フランスやアメリカと同様に、家、馬、ヨットの所有権と同じくらい絶対的で争いのないものだったことを思い出すだけで十分である。土地収用法とそれに関連するすべての手続きは、この事実を最も明確に浮き彫りにした。アイルランドの土地所有を最も厳格な商業ベースに置くことは、当時自由党の大きな拍手に支えられたホイッグ政権の政策だった。この法律は1849年に施行されたが、当時アイルランドは大飢饉によって悲惨のどん底に陥っていて、(#1834年の救貧法は費用削減を目指していたが)新たに施行された救貧法は多くの場合、土地の全収入の見積もり額に匹敵し、場合によってはそれを上回る(#救貧税を)要求していた。(#救貧政策に用いられたのは土地保有税だった)そして自由党はそれを極めて厳しく推進し、無数の地主と債権者を破滅させた。
この法律(*土地収用法)によって、アイルランドの地価が通常の何分の一かにまで下落した当時、土地の第一債権者、あるいは土地が自分の希望する価格で売れると信じる他の債権者は、他の債権者や所有者の利益をまったく考慮せずに、略式手続きによって、新設された裁判所で土地を市場で強制的に売却することができた。売却を強制する申立人以外のすべての債権者には入札の自由があり、申立人でさえも、(簡単に取得可能な)裁判所の許可があれば、価値が下がった不動産の購入者になることができた。「この新しい手続きによって」と、非常に有能な法律家は書いている「1849年、1850年、1851年、1852年の間に、何百万もの財産がその価値の半分以下で、また同じ財産の売却が1863年末まで延期されていた場合の半分以下の価格で売却された。国内で最も古く尊敬されている一族のいくつかは、その価値の半分以下の担保ゆえに地所を売却されて困窮した。また何千人もの債権者は、売却が早まっていなければなされたであろう支払いをうけることなく、また貸し付けた時点では十分な担保を持っており、そして、その財産が救貧法によって破滅し、その破滅した状態で、アイルランドの状況を改善するという目的を公言する法律の下で飽和状態の市場で売却されなければ、再び十分な担保を持っていたであろう金銭を失ったのである。普通なら不満と憤慨を引き起こす法執行の遅延は、あの悲惨な時代には有益で正当な効果をもたらしたことだろう。債権者たちが国に降りかかった災難の影響を一切受けないことは正義ではなかった。あらゆる人道的感情と公平の原理は彼らに一時的な寛容を要求した。神意による破壊的な災難を、もし彼らが契約を交わし、担保を取ったときの、そして現在もイングランドで施行されている法律がそのまま残っていたなら、得ることはできなかったであろう彼らの(*土地を強制的に売却して得る)利益に変えることは残酷な不正義だった。」1
1 フィッツギボン著「1868年のアイルランド」208頁。
しかし、この措置は当時ホイッグ党によってアイルランドの病に対する最高の治療として提案されたのである。あらゆる反対を押し切って、そして破産し貧困に陥って、今や急速に闇に沈みつつある地主たちへの多くの侮辱とともに、この措置は押し進められた。いわゆる政治による経済は正当化され、ホイッグ党の指導者たちは、アイルランドの財産がついに真実の基盤に据えられ、すべての封建的迷信が効果的に払拭され、かつての倹約家で冷淡な古来の地主に代わって新しい精力的な地主階級が出現することを自画自賛とともに宣言した。過去25年間、自由党指導部の主な目的は1849年の仕事を覆すことだった。
では、土地収用法について、別の観点から見てみよう。購入者は政府の勧誘によって、政府から土地の完全かつ絶対的な所有権を購入したのである。条件は借地人に貸し出されていた既存の契約を引き継ぐことだけだった。購入者は1エーカーごとの土地、建物の石材のすべてを購入したのである。土地に改良が施されていた場合、これらの改良は土地裁判所が発行した印刷広告に具体的に記載され、政府に任命された裁判官によって、帝国議会に直接の承認を受けて購入者に売却された。不動産が非常に緩い条件で貸し出されていた場合、リースがまもなく終了する場合、地代が大幅に上昇する可能性がある場合、これらの事実は裁判所によって購入者への誘因として常に提示された。そして購入者が提示する価格に大きく影響した。購入者は、スケジュールにある小作年期の終了時に、土地と建物の完全かつ絶対的な所有権、その後の小作年期を決定する完全な法的権利を保証された。この法律の特別な利点の一つは、この法律によって付与される権利には絶対に疑いの余地がないことがはっきりしていることだった。この権利は議会が与えるものであって、イングランド法が与える最高の権利だった。これは国債保有者、あるいは他の政府に対する債権者が融資の利息を保証されるのと同じ種類の、同じ効力を持つ保証である。この保証の下に、1849年から1870年の間に、アイルランドの土地購入に5,200万ポンド以上が投資された。アイルランドの土地の約8分の1がこの議会が保証する権利の下にあるとされている。
ここで、グラッドストン氏の(*1881年の)立法によって確立された現在の地主の立場について少し考えてみよう。まず、土地収用法に基づいて購入された改良は、露骨な没収行為によって、わずかな補償もなしに、購入者から取り上げられ、現在は借地人の財産になっている。国が地主に売却し、保証していたものの大部分は、もはや彼のものではない。そしてそれは正当な購入行為ではなく、単なる権力の行使によって、彼から奪われたのである。次に、小作年期の満了時に土地の占有を再開する明白で議論の余地のない権利が奪われた。土地法が可決されたときに占有していた借地人は、固定的な土地保有権を獲得したのである。地主が土地裁判所の許可を得て、裁判所が定める条件で、新法以前には紛れもなく自分のものだった土地を再び占有する権利を彼から買い取らない限り、借地人は土地裁判所による地代の定期的な改定と、一定の簡単な法定条件に従っておりさえすれば立ち退かされることはない。地主は所有者ではなくなった。単なる地代の請求者になったのである。1870年の討論で、土地保有権の固定性の問題が提起されたとき、自由党の指導者たちは、このような規定は地主から借地人への土地の所有権のシンプルな移転に等しく、このような移転を誠実に実行しようとするなら金銭を支払わなければならない、という非常に明白な真実を何度も指摘した。グラッドストン氏は言った「このような規定によって、地主は年金受給者になり、現在自分の財産になっている土地の地代の請求者になるだろう。立法府は、彼が金銭面で被るいかなる損失に対しても適切な補償を与えた上で、彼の立場をそのように引き下げる完全な権利を持っていることに疑いはない。」「占有者側による土地の永久保有は事実上地主の土地の収用である。また生産物の価格に応じた地代の単なる再調整では、将来的に地主に有利になる可能性のあるすべての偶発事項に対応することは決してできないため、地主が奪われる権利については補償金を支払わなければならないだろう。」1 この提案について語ったとき、ラウンデル・パーマー卿(*1812―1895、自由党、のち自由統一党)は「その件について議論するつもりはない」と述べた。「なぜなら、その点は、彼が政府首脳に土地保有権の固定性について話したときに語り尽くされたからである。それは平たく言えば、ある人物の財産を取り上げ、別の人物に与えることを意味する。私の友人である閣下は、正義の原則によれば、そのように財産を移転する場合は、その代金を支払わなければならないと述べられた。私たちは他人の財産を奪うことができるが、その場合には補償しなければならないことに疑いはない。」2
1 1870年2月15日、アイルランド法案を提案するグラッドストン氏の演説(マレー(*ジョン、ロンドンの出版社))。
2 「ハンサード」119巻1666段。(*1870年3月10日、第二読会)
この原理は完全に真実であって、実際に自明なものと私には思われる。しかし、それは1881年の立法者たちが地主への補償なしに現在の借地人に保有権の固定性を与えることを妨げなかった。その当時からアイルランドの土地に関する議会の多くの論拠の第一原理は、土地は二重所有であって、地主は共同所有のパートナー、あるいは今の流行り言葉で言えば「眠っているパートナー」に過ぎず、あらゆる紛争において、彼の利益は一貫してもう一人のパートナーの利益に従属しなければならないというものである。そしてこの呼び方は、アイルランドにおける議会あるいはその他の権利に基づく土地所有者の現在の立場を非常に正しく表している。
最後に、立法府は、地主から、最も明白かつ分離不可能な所有権―契約を締結し、農場を市場価格で売り、借地人を選択し、土地を貸す期間と条件を決める権利—を剥奪した。借地人が支払う地代を決定する絶対的な権限を持った裁判所が設立され、地主には拒否したり、別の借地人を探したりするという選択肢はなくなった。土地裁判所に強いられた減額は、平均してイングランドで行われた減額よりもいくらか少なく、したがってアイルランドの地主には不満を言う理由がないとよく言われる。しかし、牧草地が主である国と小麦栽培が盛んな国とでは大きな違いがある。借地人が誰も借りようとしないために農場が常に地主の手にある国と、借地権の平均価格が既存の地代の10倍以上する国では大きな違いがある。また、単なる政治権力に強いられた減額と、契約当事者間の自由な交渉の結果としての減額との間には明確な違いがある。
この巨大な権力を新しい裁判所に与えるにあたって、立法府は少なくとも、その行動の原則を厳密に定義し、決定の理由は明確かつ十分に示さなければならないと強調することによって、その不公正さを最小限に抑えるために細心の注意を払うと思われたかも知れない。しかし、グラッドストン氏は非常に巧みに、議会に公正な地代の定義、あるいはそれに近いものさえも与えることを控えさせ、この問題をほとんど完全に裁判所の恣意的で無秩序な決定に委ねることに成功したのである。唯一の例外は、借地人、あるいはその前の借地人によって行われた改良について、地代を取ってはならないという規定だった。物の価値を判断する唯一の本物の試金石は、人々がそれに対してどれだけの支払いをするかである。そしてこの市場という試金石は評価から完全に除外された。もう一つの試金石として考え得るのは、長らく変化していない既存の地代である。1881年の法律の基礎を築いたベスバラ委員会は、「過去20年以内に支払われ、10年以上定期的に支払われ続けた地代」は、借主の不利益になるような条件の変更がない限り、常に公正な地代とみなされるべきであると提案した。もう一つの提案は、地代が過去20年間に引き上げられていない場合は、公正であるとみなされ、裁判所の管轄権から除外されるべきであるというものだった。その期間のアイルランドはほとんど前例のないほど大きく繁栄していたが、この提案は少なくとも470万エーカーのアイルランドの土地に適用できたと思われる。1
1 1881年4月5日の第2読会におけるエドワード・ギブソン(*1837―1913、当時のアイルランド法務長官)閣下の演説を参照。(#「ハンサード」では同日の討論は見つからない。)
しかし、これらの提案は両方とも却下された。30年から40年にわたって不平もなしに支払われてきた数多くの地代が減額された。しかもその期間中にアイルランドの農産物の主な品目が大幅に値上がりし、新たな市場の開拓と交通の改善によって農場の価値が大幅に上昇したという明白な証拠があったにもかかわらずである。1 1870年の法律の下で、過去数年間に、借地人によって従来の地代で農場を占有する権利が高値で購入されたことが明らかになったにもかかわらず、多くの地代が減額された。(*従来の地代でも十分安かったのにさらに減額された)2 決定は事実上、そして主に小委員の手に委ねられていた。彼らの大部分は若い法廷弁護士や郡弁護士であって、その多くは土地や、自ら裁定を下す地方の農業事情についてほとんど予備知識がなかった。彼らは教育されることもなく仕事に送り込まれた―あるいは、彼らの最も有能な一人が表現したように「財産の上に解き放たれた。」3 そして、彼らは通常、理由も述べずに決定を下した。自らの仕事は地代の引き下げであって、調整ではないことを明白に理解していた。彼らの人気や不人気は、引き下げ額に依存していた。そして彼らは過剰な期待が抱かれていることを知っていた。彼らの前で働いた法律家たちの大きな困惑の一つは、彼らの行動の原理や論拠の発見が極めて困難なことだった。しかし、明らかに示された一つの事実は、農民の運動や暴動から生じた土地の人為的な価値の低下が、彼らの評価に大きく影響していたということである。4 こうした運動をこれ以上助長するものは考えられない。つまり政府が無政府状態を抑制し財産を守るという基本的な義務を十分に果たさなかったがゆえに、地主に罰金が科されたのである。農場への慌ただしい訪問があって、現状に応じた地代が決定された。このようにして、農業がすでにひどく遅れていた国において、ずさんで無駄の多い農業が、地代の最大の引き下げという形で特別に奨励されたのである。
1 この問題に関しては「1883年土地法に関する貴族院委員会の第3回報告書」18頁に記載されている顕著な証拠を参照。また101頁も参照。
2 同上、17、43頁。
3 同上、104、132頁。
4 「1883年土地法に関する貴族院委員会の第三報告書」36頁。
こうした決定が道徳的な重みをほとんど持たなかったことは驚くに当たらない。苦情が申し立てられると、閣僚たちは「司法の決定」に疑問を呈することの不道徳さについて長々と語った。あたかも私が述べたような恣意的な手続きに、法廷の判決との間の何らかの真の類似点があるかのようだった。法廷において、裁判官は明確に定められた法律の条項に常に従わなければならず、裁判官の任務は、目の前にある事実との関係を決定、あるいは説明することだけである。また、地代をめぐる競争が法律によって消滅し、地代が大幅に低下した一方で、借地権をめぐる競争は事実上抑制されず、借地権の価格は急速に上昇したことも指摘できる。1 この値下げは、実際の市場価値の低下ではなく、大部分はある階級から別の階級への単なる資産の移動にすぎないことを、これ以上はっきりと証明するものはない。
1 このテーマに関する完全な統計については、1888年2月3日に女王陛下の閣僚たちに宛てた「アイルランド地主会議の声明」23頁、および「1894年の土地法委員会の報告書に対する回答」102―113頁を参照。
私は、土地所有の神聖さについて、極端だったり、誇張したりした見解を述べるつもりはない。私個人の意見は、公共の福祉がそれを必要とする場合、議会は所有者への全額補償を唯一の条件として、そのようなすべての財産を占有し、望む条件で売却、あるいは賃貸する完全な権利を持っているというものである。アイルランドの地主は全額を補償されて、すべてを没収されるべきであるというミルの勧告について私は、政策的には非常に疑っているものの、原理的にはまったく異論がない。ミルが地主寄り過ぎるのではないかと疑われることは決してないだろう。しかし彼の理論は、私の主張と全くではなくとも、ほとんど変わらない。「地主の主張は」と彼は書いている「国家の一般的な政策よりも完全に下位にあるものである。所有権の原理は彼らに土地に対する権利を与えない。それは土地に関する彼らの利益の一部が国家の政策によって剥奪されたとき、補償を受ける権利を与えるだけである。その利益についての彼らの主張は退けられない。地主、そして国家によって所有者と認められたいかなる財産の所有者についても、その財産の完全な金銭的価値、あるいはそこから得た収入と同額の年間収入を与えられることなしに、その財産は没収されるべきではない。…財産が特別な愛着を伴う種類のものである場合、補償は単なる金銭的等価以上のものであるべきである。…立法府は、もし望むなら、地主全員を国債所有者、あるいは年金受給者に変えることもできる。ましてや、アイルランドの地主の平均収入を固定地代に換算し、借地人を所有者に引き上げることもできる。ただし、地主が提案された条件よりそちらの方を望む場合には、常に土地の完全な市場価格を地主に提示することが前提条件である(それがなければ、この行為は強盗にほかならない)。」1
1 「政治的経済」2巻2章六節。
私自身は、地主の主張を少し違った言葉で述べてみよう。この島々の土地の多くは信託財産として保有されているため、政府が公共の政策のために地主から財産の全部、あるいは一部を剥奪する場合には、それが信託基金に投資されていたなら、地主が奪われたものと同額の収入を生み出していたはずの金額を補償するという公平の義務が存在すると思われる。
ブリテン議会がアイルランドの土地に対して取った行動は違っていた。もし「誠実」と「不誠実」という言葉が個人のみならず議会や政府の行為にも当てはまるとすれば、それは明らかにひどく不誠実なものだった。米国憲法の下では、この立法の大部分は直接的な契約違反であり、議会権限を超えるものだっただろう。また、ヨーロッパ主要国の立法にもこれに匹敵するものはないと私は信じている。政府に関する大陸の最も優れた著述家の一人は、これをフランス革命や恐怖政治のいかなる措置よりも過激な、財産の原則に対する攻撃としている。1 これは確かに、通常の立法とはほど遠く、私権剥奪法や没収法の性質を持つ臨時立法に近い。確かに、重要な違いが一つある。私権剥奪法は通常、反逆や反乱の罪を犯した人々の財産を没収する目的で制定される。パーネル委員会(*1880年代後半にアイルランドでイングランドの要人が殺され、アイルランドの国会議員パーネル(*1846―1891)に濡れ衣が着せられた事件の調査委員会)が十分に証明した通り、アイルランドの地主たちの本当の罪は彼らの(*イングランドへの)忠誠心だった。フェニアン党が1881年の立法化につながった農業運動を組織したのは、「イングランドの駐屯地」を破滅させ、この国から追い出すという公言された目的のためだった。
1 「グラッドストン氏がアイルランドのために可決したが、すでに不十分であると認識されている農地法は、財産と自由契約の原則に対するフランス革命やテロよりも過激な攻撃である。…没収を別にすれば、これ以上のものはない。」(ラブレ著「政府と民主主義」31―32頁)レオン・セイ氏は、最近のアイルランドの農業立法を国家社会主義の最も顕著な現代例として挙げている(「国家社会主義」7頁)。また、ストッカート(*エミール、1853―1910)氏の「国際的法律レビュー」27巻145頁のコメントも参照。
何人かの非常に真面目な政治家たちはこの法案を、その必要性を理由に擁護した。アイルランドの農民の大半が加担した大規模な農業の陰謀、イングランドの法律の下でアイルランドに起こった大規模な政治権力の移行、そして凶作とあまりに低い価格によって引き起こされた深刻で長期にわたる農業危機が、アイルランドをそのような何らかの措置が不可避な状態に陥れたと彼らは言った。その性格と効果は大いに誤解されていたことも付け加えなければならない。困難に陥った借地人が借地権を支払い能力のある農民に売却し、すべての負債を支払った後、移住するか、十分な資本を持って事業を始めることを可能にする自由売却条項は、すべての当事者に大きな利益をもたらすと信じられていた。それは、破綻した借地人に新たなスタートを与え、地主の地代を確保し、あらゆる立ち退きの必要性を失くし、同時に精力的で勤勉な農民を引き付けると考えられていた。そして、暴力と脅迫によってどれほど完全に麻痺させられるかは予見されていなかった。
またかなりの数の、少なくとも最も重要な閣僚たちの多くは、裁判所の権限で地代を決定する規定がアイルランドの小作年期の大半に適用される、あるいは新しい地代水準の設定に利用されると予想していなかったことはかなり確かである。彼らはこの規定が、どの郡にも間違いなく存在する例外的で法外な地代を一般的な平均値にまで引き下げるに過ぎないと信じていただけだった。閣僚たちがそのような保証していなければ、この法案が可決されていた可能性は非常に低い。ブライト氏は言った「実際にはアイルランドの地代の大半が、十件中九件が、現在とほとんど同じに設定されるだろう、というのが私の見解である。」1 「政府は、地主が行使するべきではない権限以外、地主に失うものがあると考えていない。」とアイルランド司法長官(*ヒュー・ロウ、1818―1883)は言った。2 「私は、この法案が、あらゆる地主の権利や彼が保有する権益の価値を、いささかなりとも減じることを否定する。」とイングランドの大蔵大臣(*グラッドストン)は言った。3 「私は、この措置の最終的な結果として、数年以内に、アイルランドの小規模地主も大規模地主も、現在よりも裕福になるだろうと思う。」とフォスター氏(*ウィリアム・エドワード、1818―1886、アイルランド担当首席秘書官)は言った。4 地代は頻繁に引き下げられると同様に頻繁に上げられるだろうと考えられており、その結果、適度な地代を支払っている借地人は、裁判所に行くことを控え、この法律は実際には高額過ぎる少数の賃貸借にのみ適用されると思われていた。アイルランド問題全般について特別な権威を持って発言し、この法案を貴族院で可決させるために主導的な役割を果たしたカーリングフォード卿は、非常に明確な見解を示した。「皆さん」と彼は言った「私は、この法案の条項によって地主が金銭的損失を被ることはないと主張します。地主が借地人に過大で不公正で、おそらく支払わせられない地代を課している場合を除いて、地主の収入に損失は生じないと信じています。」5
1 「ハンサード」261巻103段(*1881年5月9日)。
2 同上、261巻1379段(*1881年5月26日)。
3 同上、264巻532段(*1881年8月2日、第二読会)。
4 同上、263巻1685段(*1881年7月22日)。
5 同上、264巻252段(*1881年8月1日、第二読会)。
私には、この立法の主な責任者である政治家の真の目的や意図を推し量るつもりは全くない。迷惑に対する補償という危険な原理を持つ1870年の措置を導入した際に、グラッドストン氏は、土地の所有者と占有者の両方に利益がある、と特に繰り返し主張した。彼はアイルランドの土地の販売価格がブリテンの土地よりもずっと低いことを嘆いた。そして彼の立法の効果によって、アイルランドの地価は「単なる(*その土地の)20年や25年分の地代(#purchase)に値するのみならず、イングランドあるいはスコットランドの土地と同じか、ほぼ同じ額になるだろう」と予測した。1 1881年に彼は同様の言葉を用いた。土地保有権の固定性を確立する措置を導入する際に、彼は、私がすでに引用した、そのような措置の没収的性格について1870年に彼自身が非常に率直に述べた言葉に直面した。しかし、これほどの言い抜けの達人にとって、困難から抜け出すのは難しいことではなかった。彼は、明らかに奪われた財産と法的権利に対する補償の要求に対して、それは地主に損害を与えているのではなく、逆に地主の利益になっているのである、という主張によって巧みに応えた。多くの場合、法案によって起こりうる影響は地代の上昇である、と彼は言った。そして「裁判所が地代を決めるという行為は、全体として、その最初の運用によって地代を上げるのではなく、むしろ下げたとしても」とは言わなかったが、彼がもたらそうとしているより堅固な社会環境から生じる土地の価値の上昇が、すぐに「地主に、この法律に付随する損害を二倍、三倍にして返す」ことを彼は確信していた。2 このような機会にいつもそうしていたように、彼は声を高く上げ、高尚な言葉で、最も崇高な動機に訴えた「正義を、私たちの指針とするべきである。愛は死よりも強いと言われているように、正義は大衆の興奮よりも強く、一時的な情熱よりも強く、過去の恨みや憤り、悲しい伝統よりも強いのである。その光の中を歩むなら、私たちは間違えることがない。その光、つまり神の光に導かれるなら、私たちは安全である(*1881年4月7日、第一読会、ハンサード260巻9巻926段)。」
1 「ハンサード」200巻1263段(*1870年4月4日)。
2 同上、263巻1696―97段(*1881年7月22日)。このテーマについては、アイルランド土地委員会が1882年2月に発行した「土地法の運用」という優れたパンフレットを参照。
おそらく、偉大な演説家が、目を高く上げ、聖人のような表情で、絶妙に調節されたイントネーションで、この格調高い言葉を滔々と語ったとき、ほんの数年のうちに、彼がまさに「公衆による略奪の理論」を説き、「隣人の財産を貪欲の対象にせよと教え込んで国民のモラルを低下させ」、法の権威を「無政府的な抑圧」に置き換えようとし、強奪を第一の目的とし、「強奪によって帝国からの分離へと進軍」しようとし、生活の平和を破壊し、「善人を隷属させ、悪人を処罰せず、支配者とする」ことを狙う者たちに自分を重ね合わせるとは、その場にいた誰も予想しなかっただろう。この高潔な政治家が、まもなくアイルランドの政府をそのような罪を犯した者たちに委ねるために尽力しようとは、彼らの悪行を軽く見せるために比類のない弁証法のあらゆる手段を講じようとは、大部分が自身の法律から複写された刑法の、最も残忍な虐待に対する執行を弾圧的措置と非難しようとは、そして階級間の敵意をあおったり、ほとんど消えかかっていた地方間の敵意の残り火を再び燃え上がらせたりすることに、長く輝かしい公職の晩年を費やそうなどとは、誰も想像できなかっただろう。1870年と1881年の法律が施行されなかったかのように、また気まぐれな立ち退きや法外な地代が不可能にならなかったかのように、アイルランドの地主たちが攻撃され続けたのは、それほど驚くべきことではないのかもしれない。
実際、この法律はアイルランドを宥めるには程遠かった、その制定の後に最悪の土地争奪戦が起こったのは当然のことだった。土地収奪への期待が最高潮に高まり、一方で物価の下落とますます深刻化する農業不振が危機を深刻化させた。1881年の法律によってもたらされたはずの安定は、この法律の大きな利点の一つとされていたが、毎年、法律改正を求める声が新たに勢いを増した。そして1886年の(*自由党の)分裂に続く政治的モラルの完全な低下の後、自由党の本流が(*アイルランド)国民連盟の政策を採用して票を獲得すると、この声は抑えがたいものになった。1881年の法律に同意した人々の中には、今や自分たちの仕事に愕然とする者もいた。「私は、法案が可決されてから5年以内にその起草者に見捨てられ、今や彼らが着手した方針が採用されることを知っていたなら、1881年の法案に賛成して、当時庶民院に与えたような道理と保証を与えるより、むしろ自分の手を切り落としていただろう」とセルボーン卿は語った。1
1 「ハンサード」319巻18段(*1887年8月11日、貴族院)。
しかし、ユニオニスト政権によって成立した1887年の土地法は、合意をひっくり返し、わずか4、5年前に司法によって定められた地代を再び引き下げた。物価がこれほど大幅に下落したときに、地代の統制を引き受けている政府が受け身でいるわけにはいかず、国の政治情勢からして介入は避けられないと言われていた。1881年の法律によって、政府はアイルランドの地主の地代を引き下げる一方で、その引き下げた地代を15年間保証していたことは事実である。1 これは国民の信用と帝国議会の権威に基づく、明確で正式な約束だった。約束は破られたが、これは実際に、1881年に議会や世襲の(*土地所有の)権利がずたずたに引き裂かれたときに行われたのとは、全く違うことなのか否かが問われた。同時に、既存のリース権者も初めて、地代減額条項の対象になった。グラッドストン氏は1881年にこれを拒否していた。しかし、アイルランドの借地人の中核部分だけが、他の借地人が豊かに享受している利益から排除されるのは耐え難いことであって、アイルランドの農民の指導的かつ最も賢明なメンバーが例外的な不利益によって憤慨している状態では、彼らを宥められる見込みはほとんどないと言われていた。
1 「裁判による地代の変更は15年未満の間隔で行われてはならない。」(第8条)
この議論の説得力は疑いようがないが、踏み出された一歩の重大さも疑いようがない。すでに述べたように、1870年の法律の大きな目的の一つは、地主に新しい法律の多くのもつれや罰則条項を免れられるという保証を与えて、地主にリースを認めさせるように仕向けることだった。アイルランドのリース権者が自分で交渉することができない無力な階級であるとか、彼らの立場は明確な書面による契約以外の何物でもないなどとは誰も主張できない。彼らはアイルランドで最もしっかりした、賢い農民だった。彼らの借地年期を規定するリースは完全に認められた法的文書であって、政府の印が押されており、イングランド法が与え得るすべての権威と保護を備えていた。その最初の条項は通常、割り当てられた期間の満了時に借地人は土地を所有者に返還しなければならないというものだった。1881年の法律はすでにこの規定を粉砕していた。同法は、60年未満のすべてのリースの場合、借地人はリースの満了時に自分の農場に居住していれば、契約どおり農場を返還する必要はなく、その地位に付随するすべての永久的占有権を持ったまま「現在の借地人」で居続けられる、と規定していた。次の条項は非常に明確な言葉で、地代を地主が法的権利を行使して農場を貸し出す際の対価と規定していた。これも破られた。借地人は地主を裁判所に訴える権利を持つようになり、地主に常に多額の費用を負担させる訴訟の結果、地代は司法によって正式に減額された。
1 法律が可決される前に行われた誠実な復帰リースの場合には例外があった。たとえば地主が、現在その土地を所有しているA、Bのリース満了時に、C、Dに農場をリースすることをすでに約束していた場合、この約束は有効とされた。キズビー(*ウィリアム・H(#生没年?))著「1881年の土地法案について」64―65頁を参照。
この件において、国は両当事者が自由に新たな取り決めを行えるようにした上で、法的契約を無効化、あるいは解除したのではなかったことは注目に値する。国は、一方の当事者を契約条件に完全に拘束した。そして、もう一方を解放することで満足した。そして言うまでもないが、国は騙されたパートナーにほんの僅かな補償も与えずにこれを行ったのである。私は立ち入る気もしないが、地主に残されたわずかな地代回収権を縮小し、普通の借地人の立場をいくらか改善する、他の規定もあった。この法律を、指導的ユニオニストの政治家は、帝国議会がアイルランドの借地人に与えた「最も気前の良い恩恵」と評した。立法者が、自らは少しの犠牲も払うことなく、ある階級の財産を別の階級に引き渡すことで、その階級を宥めようとするこの「気前良さ」は、イングランド政治においてますます力を持つようになるだろう。
政治に一旦破壊的な原理が取り入れられたなら、それは成長し、強化されて、ついには抵抗できないほどの力を獲得する様子を示す、これほど良い例はほとんどないだろう。1870年の法案に迷惑に対する補償の原理が導入されたときには、それには地主の財産の独占的所有権に対する議論の余地のない権利を少しも無効にする意図はなく、その適用は厳しく制限されることが意図されており、本質的には公共の秩序を維持するための措置であって、その唯一の目的は、すべての良き地主がすでに行っていることを少数の悪徳地主に行わせることであって、それは間違いなく、地主にとっても借地人にとっても等しく有益なものである、と注意深く説明されていた。これが大規模な財産移転の第一歩であること、数年後には、アイルランドには土地の完全な所有権はなく、単なる共同所有権しかないという理論を、閣僚たちがすべての立法の基礎にするのが通例になることを、はっきり予想した人物は、ほとんどいなかっただろう。
予想される通り、アイルランドの地主たちは、明らかに没収された財産、そして公的な政策によって剥奪された既得および復帰権益、明らかに認められていた法的権利についての補償を請求した。彼らは、極めて穏健でしっかりと筋の通った声明によって、文明社会の一般的な慣習に従って、帝国議会が自らいかに一貫して厳格にこの権利を認め、そして自ら強制的に財産や既得権益を奪ったり、それに干渉したりする権限を与えたすべての公的機関、企業、個人には補償の義務を課したてきたかを示した。彼らは特に二つの補償方法を提案した。その一つは、地主が政府に支払う十分の一税の減額だった。彼らは、1872年以前には十分の一税は穀物の価格に応じて7年ごとに改定できたことを閣僚たちに思い出させることで、自分たちの主張を強化した。1872年以前の穀物価格はその頃(#1888年)よりもずっと高かった。1838年以前は、十分の一税は土地の所有者ではなく占有者が支払っていた。その支払い義務、あるいは当時の言葉で言えば徴収義務は、地主が地代によって回収できるという理解の下に、その年に地主に移された。この地代は今や恣意的に減額されていた。そして地主は地代に対するすべての権限を失っていた。
もう一つの提案は、アイルランドの土地が背負った重い借金の支払いのために政府が低利の融資をするというものだった。その支払い義務は、今や消滅した法的権利を信用して負ったものだった。アイルランドではすでに、そのような条件で公共の目的のために多大な金額が低利で貸し付けられていた。そしてこれはごく最近、ロシアでロシアの地主の窮状を緩和するために採用された政策であることが指摘された。アイルランドの通常の金利は低く、せいぜい5%以下だった。そして帝国の信用によって年利3.5%未満の国からの融資を受けられるなら(#元金を返さずに5%の利子だけを払った場合)元金と利子を約65年半で返済できるため、この措置は負担を大幅に軽減し、多くの地主と債権者を破産から救ったことだろう。1
1 1888年2月3日、アイルランド地主会議から女王陛下の閣僚たちに提出された声明。
しかし、そのような提案が受け入れられる見込みは、まったくなかった。国民連盟に依存していた自由党が、その提案に断固反対することは確実であって、それを阻止するだけの力を持っていた。実際、そのような議論には、憂鬱な非現実感があった。二つの集団は、異なるレベルで動いていた。アイルランド地主の代表は、正義の議論、前例、自由党指導者の(*過去の)明らかな声明を主張した。しかし、政治家は皆、それが実際には票と権力の問題であること、政治権力がアイルランドの地主から去ったことを内心では知っていた。
この話をこれ以上続ける必要はないし、政治的圧力によってアイルランドの占有者階級に、名目上の所有者の財産からより大きな分け前を与えようとする試みがほぼ毎年行われていることを説明する必要もない。この法律がいくつかの困難な状況を改善し、多数の借地人に利益をもたらしたことは否定できない。そして、直接的な結果以上のことを考えたり、間接的で遠隔的な結果を正しく評価したりする人物は稀であるため、この事実は多くの人々にそれを正当化するものとして受け入れられている。私個人としては、この政策が生じる弊害はその利益をはるかに凌駕し、直接被害を受けた少数の階級とは別の階級にはるかに大きくのしかかることがいつか明らかになるだろうと信じている。資本の増加、信用の改善、産業の安定が最も必要とされる貧しい国において、この法律は契約の神聖さと義務という考えを根底から揺るがし、アイルランドの土地による多額の借り入れをほとんど不可能にし、イングランドの金の流入を事実上阻止し、ほとんどすべての産業を麻痺させたり阻害したりした。そして、その影響は遠い将来にまで及ぶのである。それは貿易に強力に作用して、アイルランドの町々を貧困に沈める一因になった。また、地主は土地に金銭を費やす動機も義務もなくなったため、アイルランドの借地から(*地主による)土壌の改良というものがなくなった。また、それはホームルール運動と結びついて、国内から多くの資本を駆逐した。おそらく、現在、政府の法律の下で土地の売却によって受領された金銭のうち、アイルランドに投資されたものはほんの僅かだろう。賢明な人々は、自分の貯蓄、そして少なくとも現金化した財産の一部を、支配的な政治的影響力が不正の側にあり、債務の拒否と債権者への威嚇が主な人気の政策になっている国、財産の保護と司法の執行がいつか「地代なし宣言」とそのキャンペーン計画の立案者の手に渡るかもしれない国の外に置く賢明さを学んだのである。
このような状況のせいで、安全で誠実な自治制度を確立することは極めて難しくなっている。もしアイルランドの最も教養ある階級の存在と影響力の地方からの消滅が実際に利益であることが明らかになるなら、もし地域の機関が田舎の紳士から職業政治家の手に移ることでより賢明かつ誠実に運営されるのなら、そして、もし労働者と小規模借地人が、より直接的に農民、ゴンビーンマン、地元の検事の権力の下に置かれた方が有利であることを発見するなら、アイルランドは確かに大きく変わらなければならない。(*裁判所が決めた)フェアな地代と自由な売買は、しばしば指摘されているように、相互に破壊的なものであって、数回の売買の後、金貸しに支払われる利子の負担は、地主が徴収する地代よりもはるかに重くなる。一方、農民と労働者の間の対立は、地主と農民の間の対立をさらに悪化させた形で再生産されることになりそうである。
実際、アイルランドの地代については、三つのことを自信を持って断言できる。第一に、かなり少数の例外を除いて、アイルランドの地主の大半は借地人に完全な競争的地代を要求する習慣はなかった。第二に、アイルランドの借地人は、借地権を互いに売却したり、労働者に土地を転貸したりする際に、常に完全な競争的価格を要求することを習慣としていた。第三に、実質的に法外な地代を一般的なものにするために、最近の土地法制以上に優れた方法は考えられない。もし借地人に市場価格よりかなり低い法定地代で固定的な土地保有権を与え、同時に小作年期を実質的に無制限に、価格制限なしに売却する権利を与えるなら、結果として二つの地代が生じる―一つは地主に支払われ、もう一つは借地権を購入するために借りた金銭の利息として金貸しに支払われるものである。そして、この二つを合わせたときに、土地の極限の価値が表れるのである。
土地法とそれを生み出した騒動がアイルランド国民に与えた道徳的影響は、さらに有害なものだった。政府による国民道徳への主な貢献は何かと問えば、さまざまな答えが返ってくるだろう。自ら真実であると信じる宗教を国教にすること、国民教育に大量の宗教教育を注入すること、私的な悪徳を抑制したり、悪徳を生み出す可能性のある商売、機関、娯楽を規制したりする法律を制定することを最も重要視する人々がいるだろう。これらすべてにおいて、真に国家が立ち入るべき領域については多くの論争があり、それがもたらす利益についてはおそらく多くの誇張があるだろう。少なくとも私には政府が道徳になしうる第一の、そして最大の貢献は、義務の道と利益の道が可能な限り一致する社会、正直、勤勉、思慮深さ、公共精神が自然に報われ、逆に悪徳が罰される社会を維持することであると思われる。国民に暴力、脅迫、陰謀、そして組織的な債務不履行が、政治権力を握って法律上の譲歩を得るための自然な手段であるという教訓ほど悪しきものはない。勤勉よりも政治に繁栄を求めること、そして政治の歯車が回って借金が無効になることを信じて契約を結び、それを背負うことほど、国民に根付く悪い習慣はない。
最近の法律がアイルランドのさまざまな階級に及ぼした影響を辿るのは、実に興味深く憂鬱な研究である。最も被害が少なかったのは、飢饉の後に頻繁すぎるほど行われた大規模な立ち退きや苛酷な強制排除によって財産を(#売却して)簡素化した地主たちだろう。次に被害が少なかったのは、借地人から極端に高い地代を徴収していた地主たちだった。これらの地代は長年受け取られていたもので、最終的には常に低かった地代よりも減額幅は大きかったものの、それでも数え切れないほど多くのケースにおいて、他の地代よりもいくらか高いままだった。土地を単に収入源とみなし、過酷なことや強要的なこと、不当なことは一切せず、土地の管理に関与せず、関心も持たなかった大勢の人々には、被害が非常に少なかった。自分の土地に真の関心を持ち、排水やその他の改良に多額の資金を投じ、借地人に対して常に有益な影響力を及ぼしてきた改良地主こそが、彼を単なる無力な地代請求者に貶め、ほとんどの場合、費やした金額を完全な損失にしてしまう法律に最も苦しめられた。すでに述べたように、不注意でずさんな農民は、良い耕作によって農場の価値を維持してきた農民よりも地代を減額された。地代滞納法が制定され、何年も地代を滞納していた農民に大きな利益がもたらされたが、不作のときにも着実で誠実な勤勉さによって正直に地代を支払ってきた農民には何の恩恵もなかった。最近のアイルランドの土地法の中で抜群の価値があった土地購入法にさえ、同様の傾向があった。借地人はもはや購入代金の一部を前払いするよう求められないため、勤勉さと倹約には何の報酬もない。購入された土地の価値は、扇動や財産への攻撃によって人為的に下落しており、土地裁判所によってすでに収入を二度も減らされている地主は、ほとんどの場合、多額の訴訟費用に加えて、残された年間100ポンドの収入が売却によって(#得られる金銭の利子が)60ポンド、あるいは70ポンドに減少することを知っているため、借地人が正直で支払い能力がある場合には当然、売却したがらない。しかし、借地人が不正直で厄介で支払いが遅い場合は、手頃な条件で売ろうとするかもしれない。
1894年、政府は、裁判所による減額や法律によるあらゆる遅延や猶予にもかかわらず、地代を支払えない、あるいは支払う意思がなく、その結果立ち退きを余儀なくされていた借地人を、アイルランド教会の基金から25万ポンドの公費を投じて復帰させるという法案を提出してこの体系の最後を飾った。この法案は、政府によって指名され、いかなる控訴も受けない3人の人物に、1879年以来何らかの理由で立ち退きを強いられたアイルランド人借地人、あるいはその代理人を復帰させる、恣意的で、ほぼ絶対的な権限を与えることを提案するものだった。唯一の制限は、現在の借地人の同意を得なければならないというものだった。もっとも、アイルランドの大部分では(*現在の)借地人が同意を拒めば差し迫った生命の危険にさらされることになった。(*以前の)借地人は、不正、暴力、犯罪の陰謀、絶望的な長期にわたる破綻状態のために立ち退きを命じられていたのかもしれなかった。彼はアメリカに住んでいるかもしれなかった。土地の所有者は、法律によって彼を立ち退かせる権限が与えられてから何年も経ってから、ようやく土地を取り戻し、既に何年か自分で耕作していたかもしれなかった。彼には同意を拒否する権利はなく、選択肢は、以前の借地人に戻って来させるか、革命的で専制的な裁判所が決定する価格で農場を彼に売却するかの二つしかなかった。
この法案の説明は非常に容易である。それは特に「キャンペーン計画(*Plan of Campaign)」の借地人の利益のために意図されたものだった。彼らは、明らかに債権者(*地主)からの横領を目的として、実際には自分たちの所有物であり、すでに受け取った利益ゆえに地主に支払われるべき金銭を「管財人」の手に委ねていた。(*キャンペーン計画:地代の減額に地主が同意しない場合、借地人は地代を全く払わないという協同行動をとる。「管財人」に預けられた地代はこの行動ゆえに立ち退きを強いられたメンバーの援助に使われる。)この「キャンペーン計画」は、アイルランドの最高裁判所に断固として「明らかに絶対的に違法」なものであると宣言されていた。それはカトリック教会の長によって、明らかに不道徳なものと非難されていた。それは公然たる「政治的な仕掛け」であって、政府を倒し、土地連盟が法律よりも強いことを証明し、その指導者たちがアイルランドの真の支配者であることを農民に知らしめるために、政治陰謀家が考案したものだった。この陰謀の扇動者は今や議会にいた。政府は自らの多数派獲得に際して彼らの投票に頼っており、彼らの条件はキャンペーン計画の陰謀が勝利のうちに正当化されることだった。提出された法案は、自分たちよりもはるかに不誠実な人々に騙された貧しい人々に寛大な処置を与えるという、古い紛争に終止符を打つ単なる恩赦措置ではなかった。それは、債務不履行の借地人に特別かつ例外的な恩恵を与える、勝利の措置だった。支払い能力のある借地人は、地主の同意なしに農場の所有者になることはできなかった。この(*地主の同意なしに農場の所有者になるという)特権は、立ち退きを命じられた借地人のために留保されていた。
この条項とそれが主張された執拗さを思うなら、合理的な人物が、この法案の性格、起源、動機を疑うことはない。政府は、彼らの計画を実行するための法案でアイルランド人の票を買収し、その目的のために多額の公金を投入することを決定したのである。この政治的不品行の恥ずべき事例が貴族院で否決され、翌年の土地法案から強制条項が削除されたことは事実である。しかし、ブリテンの大臣が法案を提出し、党の多数派がそれに賛成投票したという事実が、アイルランドで忘れられることはないだろう。実際に大臣がこれほどまでに明確に、不正を奨励し、十分な投票さえあればそれが成功すると人々を勘違いさせようとする法案を提出したことはなかった。アイルランドのカトリック教徒に対する旧刑法の最も悪かった点は、その条項の一部が法律を直接的に宗教や道徳と対立させたがゆえに、貧困化と同様に引き起こした強力な道徳の低下である、とよく言われてきたことは正しい。現代のアイルランドにおいて、同様の現実的、かつ広範囲に渡る道徳の低下を招く政治システムが生まれていないとは言えない。その影響を調べたなら、これほど多くの誠実さと美徳が未だに残っていることに驚かされるだろう。
シーニア(*ナッソー・ウィリアム、1790―1864、経済学者)は上手く言った「最も不快で、おそらく最も有害な強盗は、政府自身を共犯者とするものである。すなわち、法律の制定によってすべての個人の財産が奪われ、その安全を確保するために作られたまさにその制度ゆえに人々が破滅するケースである。」しかし、おそらくこのアイルランドの法律の最も深刻な側面は、それが作り出した前例であろう。私は、この法案が成立した背景にあった困難を隠さなかった。この困難は、立法者の行為を説明し、酌量するものである。また、経済的な原因でイングランドの地主が被った損失と、法の執行によってアイルランドの地主が被った損失を比較した場合、前者の方がまだマシなのかどうかは非常に疑わしい。しかし、これらすべてのことを言った上で、道理に従うなら、この法律はイングランド世論が何度も激しく憤慨してきた南米の政府の債務不履行に見られるような、国家の信用が毀損され、法律で保証された財産が補償もなしに奪われる明確な事例であることは否定できない。もし議会が、鉄道(*会社の借入金の利子の)の保証、あるいは国債の利息の全部、あるいは一部の支払いを拒否する法律、あるいは強権によって商人の利益を制限する法律、あるいはロンドンの下宿屋にロンドンの労働者を減額された家賃で固定的に住ませることを強いる法律、あるいは鉄道の社債と優先株を普通株と同じ基準で扱わせる法律、あるいは鉄道会社に利益のほとんどすべてを、配当金を増やすのではなく、運賃を下げるために使わせる法律を可決したとしても、これほど明確な財産権の侵害にはならないだろう。
1.「アイルランドに関する日誌、会話、エッセイ」1巻2章
このような先例はアイルランド、アイルランドの土地、アイルランドの地主に限定されると考えるのは根拠のないことである。選挙によって極めて無知で極めて貧しい人々に卓越した権力が与えられ、財産に関するあらゆる種類の略奪的理論が蔓延し、国家の干渉の範囲が絶えず拡大し、憲法が契約に特別な保護を与えないなら、こうした先例は確実に増えるだろう。立法における健全な原則からの逸脱は、まず第一に、それが完全に例外的なものであって、その適用が厳密に制限され、実際的な害を及ぼさないことが確実であって、何らかの実際的な利益の確保を意図しているという理由があれば、ほぼ常に支持される。そして一旦それが認められたなら、それはすぐに出発点あるいは論理的根拠になって、新しい分野や新しい帰結へと押し進められるのである。
アイルランドの先例によって、利口な人物が正当化できないような没収はほとんどない。アイルランドの地主制度は例外的なものではなく、ロンドン、パリ、ニューヨークの貧しい地区では、メイヨーやコネマラ(*ともにアイルランド西部)よりも、過酷な家賃と厳しい立ち退きが頻繁に見られる。有名なアメリカの著述家ジョージ氏は、アイルランドの地主を役立たずで貪欲で破壊的な獣になぞらえている。しかし数頁後で、アイルランドの地主は他国の同じ階級よりも少しも厳しくないこと、地主が借地人に対して、借地人の農民が転貸先の労働者に示すほどの強欲さがないことを認めている。「アイルランドの地主制度はアメリカの地主制度とは違うものである」という主張はまったくの「大嘘」であり、アメリカの借地人の立場は、実際にはアイルランドの借地人の立場よりも良いのではなく、悪いのである。「米国では、地主は自分の所有物をまったく思いのままに扱う無制限の権限を有している。法外な賃料は、米国では一般的で、ほとんど唯一の賃貸形式である。立ち退きを確実にするために長々しい手続きを踏む必要はなく、地区の救済官に通告する必要もない。地主は追い出したい賃借人を、最小限の費用と経費で追い出すことができる。」ジョージ(*ヘンリー、1839―1897、地公主義)氏はニューヨークのよりみすぼらしい地区では、貧しい借家人に対して少なくとも100件の立ち退き令状が発行されない月は稀であるという、あるアメリカの裁判官の発言に同意し、それを引用している。1
1 ジョージ著「社会問題」11章。
実際、数え切れないほど多くの例において、貧しい人々の家賃、貧しい人々の投資の価値、貧しい人々の契約の負担の重さは、彼らが予見することも制御することもできない状況によって影響を受ける。繁栄している産業の近くに貧しい人々のための大きな住宅地が発展し、しかし流行の変化、新しい発明、人口や資本の移動ゆえに、その産業が消え失せるのはいかに頻繁なことだろうか。仕事が減り、物価と賃金が変わり、かつては容易で自然だった契約は圧倒的に抑圧的なものになり、利益は減少、あるいは消失し、事業を継続するために受けた融資の利子が労働者を破滅させる。このような状況下で、国家は契約を破棄し、産業のあり方を新たに調整する一種の神になるべきなのだろうか。そして、国家が補償も与えずに権利を奪う、単なる政治的圧力の下でこれを始めた場合、それはどの地点で止めることができるのだろうか?
現代の政治の動向や、最も大規模な略奪計画が多方面で快く受け入れられ、容認されていることを観察しているすべての思慮深い人物の脳裏には、この種の思いがよぎったことがあるに違いない。本命の一つは土地の私有に対する攻撃であって、この問題に関して最も極端な理論を説くジョージ氏の著作が人気を博していることは、顕著な時代の兆候である。実際、歴史や経済において、排他的な個人的利益による強い刺激だけが土地にそれを十分生産的なものにできる労働力と資本を引き付けられること、そして土壌の生産性がコミュニティ全体の幸福の第一条件の一つであることは最も明らかである。人類が散らばって暮らす遊牧民や狩猟民であった時代に存在した共同所有の土地から、個々の労働によって耕作され、肥沃にされた、分割された土地への移行は、文明の進歩における最初の、そして最も価値のあるステップの一つだった。また、道徳的にも、数え切れない世代にわたって疑問の余地なしに存在し、あらゆる時代と国々で何万人もの人々がその信念に基づいて、あらゆる国の法律の承認と保証のもとに、勤勉と倹約の成果を投資してきた私有財産の補償なしの廃止が、シンプルな、酷い、露骨な、巨大な強盗行為なのは最も明らかなことである。実際、そうでないなら「誠実」と「不誠実」という言葉の意味が無くなってしまう。しかし、そのような提案は熱く歓迎され、そのような措置は、泥棒の共犯者と呼ばれたなら非常に憤慨し、おそらく私人としてはまったく不誠実な行為に耐えられないであろう数多くの人々に熱心に支持されてきた。一方、もしシンプルに国家が誠実に土地を購入して、自ら地主になるならば、取引全体が破滅的な損失に終わることは容易に証明できる。占有借地者の立場は、地代の支払先が個人ではなく国家の代理人になるという点を除けば変わらない。購入資金は莫大な借入金によってのみ調達可能であって、その返済は利子という形で行われなければならない。土地からの収益はあまりにも低いため、剰余金を税金の足しにするどころか、ほとんどの場合、たとえ通常の条件で調達できたとしても、このローンの単利の支払にも足りない。しかし、有能な評者なら誰しも、このようなローンの通常の条件での調達は、まったく不可能であって、おそらく世界が経験したことのないような金融の混乱を引き起こさないはずがないことを知っている。1
1 フォーセット(*ヘンリー、1833―1884、学者、政治家)氏は、問題のこの側面を「国家社会主義と土地の国有化」(1883年)という素晴らしいパンフレットで詳しく取り上げている。
さまざまな形で世論に広まったもう一つの理論は、ミル(*ジョン・スチュアート)の「不労所得」についてのものである。土地の価値は社会の進歩によって、所有者の努力や犠牲なしに自然に増加する傾向があるという信念から出発して、ミルは、この「不労所得」を国家が租税という形で着実に差し押さえ、没収することを提案した。ミルは人々が長きにわたって、他のほとんどの種類の投資よりも収益の少ない土地を、収入が徐々に増加するという信念と、税は他の収入にのみ課されるという暗黙の保証のもとに購入してきたことを認めた。しかし、彼はこの反論に非常に誠実に答えた。所得増加分の没収は今後のみ、適切に周知された上で行われるべきであって、地主にはすべての期待される将来の現在価値を含む、現在の市場価値を国から受け取るという、別の選択肢を与えるべきであると主張したのである。
イングランドやその他多くの国々が経験した長い農業恐慌の期間において「不労所得」の理論は皮肉な様相を呈している。農地の市場価値は長年上昇するどころか、着実に下落しており、長きにわたって数多くの大国で明らかに同じ現象が起きてきたことを歴史は示している。国が例外的な課税によって土地所有者から地価の通常の上昇分を徴収するのなら、例外的な立法による下落分の補填が期待されるのはごく当然のことである。
「不労所得」は土地に特有なものであるということほど、明らかな嘘はない。人口の増加と文明の発展は、鉄道や造船所の株式、労働者の賃金、専門職の報酬、芸術の傑作、無数の商品の価値にまったく同じ影響を与えている。数え切れないほど多くのケースにおいて、自分自身の変化ではなく、自ら何の貢献もしていない完全に外的な環境の変化の結果として、財産が増えたり、勤勉さと能力がより大きな利益を上げたりすることがある。資産家に、自分の犠牲や努力なしに価値が二倍、三倍になった投資は何かと尋ねるなら、ほとんどの場合、土地とは関係がないものであるという答えが帰ってくるだろう。それならば、通常最も収益が少なく、国家にとって極めて有益な義務の遂行に最も大きく関係しているたった一つの財産の形を、例外的かつ懲罰的な課税の対象に選ぶ理由は何だろうか?また、この提案は土地にその所有者が何世代にもわたって多額の金銭をつぎ込み、実際の地代が多くの場合、支出に対する最低の利息でしかない国、個人資産の価値が不動産のそれをはるかに上回っており、さらに過去150年間にはるかに大きな速度で上昇してきた国でなされたものである。ロバート・ギッフェン卿によればイングランドの土地は1690年に国富の約60%、1800年には約40%を占めていた。連合王国では1812年には44%、1865年には30%、1875年には24%を占めていた。1884年にはわずか17%だった。1
1 ギッフェン著「資本の成長」111―112頁。
このような提案は政治的なものである、というのが正しい説明である。それは、政治的な敵意から生じ、イングランドの急進派の大半の特徴になり、深刻な農業恐慌がおそらく我が国の最も深刻な害悪と危険である時代に、土地への増税を最も人気ある急進的要求の一つにしている、土地所有者に対するほとんど狂気じみた憎悪の中に見出せる。
かつて大いに強調されていたが、今ではかなり説得力を失っている議論の一つは、国の土地は国民を支える食糧の源であるがゆえに、それが少数の人々の手に委ねられることは特別の立法によって禁止しなければならない、というものである。すでに述べた通り、それが明らかに公共の福祉に資するならば、所有者に補償することを条件に、政府には土地の全部、あるいは一部を占有する権利があると私は信じている。もしイングランドが真鍮の壁に囲まれていて、国民の暮らしがその壁の内側で栽培される作物に依存しているのなら、間違いなく公園やスポーツを目的とする土地の大部分には厳しい制限が課されるべきである。しかし、国民の食糧の主な供給地がイングランドではなく、アメリカ、植民地、インドになり、この供給が非常に豊富かつ、競争においてイングランドの最良の土地さえも圧倒し、劣った土地は食糧生産に使えなくなるような価格で流入したとき、状況は大きく変わった。
しかし、土地という財産を略奪の対象として他のすべての財産から明確に区別するという思惑の非現実性は、すぐに明らかになった。同じ類の理論家は、類似、あるいは相似の議論が財産の他の分野や、他の不正行為の弁護にも適用できることにすぐに気づいた。ジョージ氏が最初の本で地主から奪うことだけを提案したのに対し、二冊目の本で、公債と土地の私有財産制度は同じ基盤の上にあると確信し、公債保有者からも同様に奪うことを提案したというのは重要な事実である。現在大陸で出されている社会主義的綱領のほとんどすべてに「土地の国有化」が含まれているが、それは常にすべての資本と生産手段の国有化、および国家債務の否認の提案と結びついている。
ジェファーソンは、こうした論者たちの国家債務放棄の主張を既に予想していた。そして、この方針を支持する議論は、土地の略奪を支持する議論と同程度の妥当性しか持たないものであることを認めなければならない。ある世代が別の世代を拘束して、自らの負債の利息を支払わせてはならないと言われている。こうした負債は、今や一種の神聖な権利によって自分たちを国家の支配者であると考えている大衆が、ほとんどまったく代表権をもっていなかった時代に、彼らがまったく承認していない目的のために負ったものであることを、私たちは指摘される。デマゴーグたちは、負債の大部分の原因となっているアメリカ独立戦争とフランス革命戦争は貴族の犯罪であって、人民に対して犯された罪にすぎない、と彼らを容易に説得できる。このように負った債務、そして国家の信用が低かったために、現在100ポンドの価値がある債券に対して60から70ポンド以下の金額しか国庫に入らなかったときに負った債務の重荷を、国民が永久に負わなければならないのか、と問われているのである。
民主主義が進み、略奪の先例が法律化されるにつれて、この種の理論は支持者を増やすだろう。この見通しは、過去数十年間にヨーロッパで起こった国家債務の莫大な増加を特に憂慮すべきものにしている。このことは、非常に極端な手段を使ってでも債務の大部分を返済するというアメリカの政策の賢明さ、および同じ方向でブリテン政府が行った偉大で賞賛に値する努力を正当化する。
鉱山使用料は、私有不動産と同じ立場にある。鉱山使用料は、何世代にもわたって、法律の完全な承認のもとで売買され、抵当に入れられ、遺贈されてきた財産の一種であって、ブリテン諸島では年間800万ポンドという莫大な金額に上ると推定されている。幸いにも大きなものではないが、公然とそのシンプルな没収を主張する党派がいる。例えばグラスゴー労働評議会は「当評議会は鉱山使用料の補償なしの国有財産化に賛成であることを(鉱山使用料)委員会に表明するよう、当会の書記に指示する」という決議を出した。同様の見解は社会主義の著作で頻繁に表明されている。そしてそれは参考人によって労働委員会に提示された。この恥知らずな不誠実の最も主立った支持者は、国会のある急進派議員だった。1
1 スパイヤーズ「労働問題」128―30頁。
多かれ少なかれ巧妙な詭弁の対象になってきた別の種類の財産は、著作権である。著者の自著の利益に対する権利は、財産保有のための最高かつ最もシンプルな権利—創造の権利—に基づいている。それを作り出したのは著者である。彼の自分が書いたものに対する権利は、労働者の自分が稼いだものに対する権利と同様に、シンプルに世襲されるいかなる種類の財産権よりも、高次のものでなかったとしても、ダイレクトなものであることは確かである。しかし、著作権の特殊性は、それが著者にとって大きな価値があり、人類にとって非常に有用である一方で、他のほとんどの種類の財産とは違った方法で、特有の容易さで盗まれる可能性があることである。それは紙幣と同様に、誰もがその複製を許されたなら価値を失うため、著作権法による保護を必要とするとされてきたのである。あらゆる財産の中で、これほど不完全にしか保護されていないものはほとんどない。しかし、著作権の法的保護を一切否定し、完全に廃止しようとする人々もいる。彼らの主張の一つは、著者は単に、周囲の知的空気の中を漂う、すべての人の共有財産であるアイデアや知識に形を与えているだけである、したがって自分が書いたものを独占する権利はないというものである。もしそれが正しいならば―絶対にそんなことはあり得ないが―シンプルな答えは、著者は自分が創り出した作品という形についてのみ、独占権を主張できるということである。彫刻家の彫像に対する財産権は、彫刻刀が触れる前から粘土や大理石が存在していたという事実によって損なわれない。著者は自分のアイデアに対する独占権を主張しない。しかし問題の本質的な主要素は彼がアイデアを形にすることなので、その区別は実際には、取るに足らないものである。グレイ(*トーマス、1716―1771)の詩「エレジー」の中には、何千もの人の心を通り過ぎなかったアイデアはない。グレイだけが、それに不滅の形を与えたのである。
著者は自分の本を独占的に販売する権利を主張するから「独占者」であり、したがってその主張は自由な商業の理論に反する、と言われている。しかし、これはまったく混乱した考え方である。政治経済学において独占者とは、他人が自分とは無関係に、そして自分がいなくても従事していたであろう産業に従事ことを妨害する人物を指す。自分だけが作り上げたもの、そして自分がいなければ存在しなかったものを他人が盗むのを妨げるだけなら、彼は独占者ではない。自分の稼ぎや相続財産の独占権を主張する所有者が独占者でないなら、著者もまた独占者ではない。私が特定の時代の歴史を書く場合、私は他の人が同じ時代について書くことや、私が使用した資料を使用することを禁じる法的権利を主張しない。私が主張するのは、私が自ら書いた特定の作品の独占権だけである。漁師があらゆる他人を海の漁から排除するなら、彼が独占者と呼ばれることは正しい。すべての人に開かれている海で自分が捕えた魚を処分する独占的権利を主張するだけであれば、彼は独占者とは呼ばれない。1
1 ロック(*ジョン、1632―1704)の土地所有権に関する発言は、著作権に非常によく当てはまるように私には思える。「何であれ、自然が与えた、自然の中にあるものを人が取り出すとき、彼はそれに自分の労働を混ぜ合わせ、それに自分のものをつけ加えることによって、それを自分の財産にするのである。それは通常の自然の共有状態から取り出され、この労働によって、他人の共有権を排除する何物かを付与されるのである。なぜなら、この労働は疑いなく労働者の所有物であるため、少なくとも他人に十分かつ同等の共有物が残されている場合、その労働者以外の誰にも、それに結び付けられたものについての権利がないからである。」(ロック「市民政府論」序文)
しかし、著者は、その財産を特別な法律によって保護されているがゆえに、国家に特別な恩義があると言われている。それに対する返答は、本来すべての政府の設立と、すべての税金の支払いの主目的は、生命と財産の保護である、ということである。財産を保護する政府は、シンプルに最も基本的な義務を果たしているだけである。さまざまな種類の財産が侵害される可能性があり、したがってさまざまな方法で保護する必要がある。実際、国による著作の保護のための労力、資金、人気は、キジの保護のそれよりもはるかに小さなものである。
また、交通手段の国有化、言葉を変えれば、鉄道およびその他すべての公衆輸送機関の国家による収用を主張する人々もいる。これが、政府がその支配下にある鉄道を建設するか、公正な価格で購入することを意味するのなら、意義を唱える筋合いはない。国営鉄道システムは多くの国に存在する。それが国全体の利益になるかどうかを判断するには、数多くの相反しながらも、緊密なバランスを保っている利点と欠点を考慮しなければならない。そして各国においてそれが有利かどうかは、その国固有の経済環境が決定することである。また、鉄道会社に大きな特権と力を与えた国が、それに数多くの制限を課すのは完全に正当なことである、というのは常識である。しかし、国がそれを買収せずに、あるいは実際の価値よりも安い価格で手に入れ、リスクとコストを背負ってそれを作り上げた株主の財産を奪うことができるという主張には、それはシンプルな剥き出しの強盗である、という返答をするしかない。そして、すべての大規模な工業を「国有化」し、すべての資本を国に吸収するという他の数多くの野心的計画についても、自信を持って同じことを主張できる。これらの取引が正当な買収によって行われるなら、大きな財政破綻が起こるだけである。買収や補償が拒否されても、破局は回避されない。しかし、そのプロセスは一つの巨大な強盗行為になる。
国家を普遍的な地主、普遍的な製造業者、普遍的な小売店に変え、世の中の産業システム全体をその基礎から再編成し、そこからすべての競争と個人の競争心や野心を排除しようという計画については、決してそれに似たようなものさえも実現できないと私は信じている。しかし、ほとんどすべての国における社会主義的見解の成長を見ている人物なら誰しも、そう遠くない将来、この方向で数多くの措置が講じられることを疑うことはできない。
増大する需要にどの程度、どのような方法で賢明に応じられるかという問題は、極めて重要である。このテーマについては、後の章で詳しく論じる予定である。ここで言えることは二つある。一つは、イングランドのような人口過密国では、その繁栄は豊富な天然資源よりも、不安定で非常に人工的な商業と製造業の優位の継続にかかっているため、資本の移転や信用の破壊につながる革命は通常よりも危険であること、もう一つは、この種の問題は、目立たず、複雑で、間接的で、遠隔的な結果が、長い目で見れば、明白で即時的な結果よりも重要である場合が多いということである。
近年想定されている民主的議会制度は、これらの困難で危険な問題への賢明な対処に十分適したものだろうか。かつてイングランド政治の道筋を作り出し、導いてきた安定した勢力が、いかに急速に着実に影響力を失っているかということを、誰かに観察させるべきである。彼に大規模な国民的選挙を注意深く観察させ、候補者の勝算は、有権者の大部分の直接的かつ即時の利益、あるいは想定される利益に訴える能力、人気取りの言葉や世論を利用する能力、階級間の敵意や反感を煽る能力、そして公約によって数多くの異なる流行に乗る人々の歓心を買う能力に大きく依存していることに気づかせるべきである。次に、議会自体が小グループに分裂しつつあること、かつては政府が無知な世論の変動や一時的な突風から独立した道筋を歩むことを可能にしていた、知性と財産の永続的な力がいかに弱まっているか、議会の終盤に特に行われる立法の大部分が、いかに明らかに単なる選挙活動を目的としているか、党益と選挙の可能性以上のことを考える公人がいかに少ないかを観察させるべきである。もしこのような光景を通じて未来に大いなる確信が持てるなら、彼は楽観的な人物だろう。
もし彼が賢明な人物なら、民主主義においてごく自然な、単なる多数派を、たとえそれが主に副次的な問題や激しい階級的、党派的感情といった間違った影響力に導かれて投票する、最も無知な人々で構成されていたとしても、神聖化し、ほとんど偶像化するという一般的な習慣に心安らぐことはないだろう。多くの政治家にとって、投票で示される「民衆の声」はすべての知恵の総和であって、真か偽かを判断する最高のテストである。あるいは、それ以上のものでさえある。民衆の声には、神学者が洗礼に備わっているとした、霊的な効力に非常によく似たものが備わっている。それはすべての罪を洗い流すとされている。政党や政治家の行為は、いかに無節操で不誠実なものであっても、総選挙で容認あるいは承認されたならば、非難されることなしに正当化できると考えられている。時に熟練した弁護士の支援と経験豊富な裁判官の指示の下、綿密な証拠調査が行われ、賢明で公平な陪審によって、政治家が重大な個人的犯罪で有罪とされることがある。その後、彼は自分を国会議員に選出してくれる選挙区を見つける。そして彼の党の新聞は彼の高潔さが明らかになったと報道する。彼は「国民の大声」によって無罪放免になったのである。実際カーライルが、今日恐れるべき迷信は宗教的というよりは政治的なものであると述べたことは正しい。そして、あらゆる偶像崇拝の中で、単なる数字への盲目的な崇拝ほど不合理で恥ずべきものを私は知らない。
その結果、多くの政治家が、善悪のあらゆる概念を多数派の希望や利益に従属させ、最も過激なイエズス会の詭弁家ほど大胆に、目的は手段を正当化するという格言に基づいて行動するようになった。この新しいイエズス会主義は、確かに、古いイエズス会主義と多くの類似点がある。古いイエズス会主義の根底にある考えは、カトリック教会は霊感を受けた人類の教師であり、地上における神の代理人であって、教会に奉仕し、教会の利益に資する行為は不道徳ではあり得ないという、強い信念だった。新たなイエズス会主義の根底にある考えは、道徳の法には有用性より深い基盤も高度な拘束力もなく、最大多数の最大幸福がその最高の試金石であり理想である、という信念である。このことから、少数派には多数派に対抗する権利がないことは容易に推測できる。いずれのケースでも、権力欲が大いに働いている。昔のイエズス会士は、その理論の中に教会を統治し、世界を動かす強力な梃を見出した。新しいイエズス会士は、すべての政治権力が多数派の投票によって得られる社会において、彼の理論が特に有用であることに気づいた。多くの良きカトリック教徒は、昔のイエズス会士は教会の教えを誤解していたと主張するだろうし、彼らの中には、最も聖なる御名を虚偽、詐欺、不道徳な専制、陰謀と結びつけた団体ほど宗教にとって悪い敵はいないと信じている者もいる。多くの良き功利主義者は、新たなイエズス会士は効用のバランスの計算を間違えており、財産や契約の安全性、および少数派の権利を揺るがすような政策は、遠隔的な結果において多数派の利益になり得ないと言うだろう。しかし、新旧どちらにしても、イエズス会士の結論はもっともらしく、自然なものである。そして、それは確実に導き出されるものである。
読者の中には、道徳哲学の理論が政治的行為に何らかの影響を与えるというのは空想的なことと考える方もおられるだろう。イングランドでは、思索的な見解は実際の政治において通常あまり重視されず、イングランドの政治家はそれを完全に軽視する傾向がある。しかし、歴史の本物の知識を持っている人物なら、ロック、ルソー、モンテスキュー、アダム・スミス、ベンサムの思索が世の中に与えてきた影響を真剣に疑うはずはない。近年、ヨーロッパ中で民族主義の理論が持つようになった力と強烈さは、思索的な著述家が民族の親和性や特質に与えた新たな重みと無関係ではない。また、土地に関する現在の急進派の考え方の一部は間違いなく、社会の初期段階において土地は共同所有、あるいは共同体によって所有されていたという認識が広まったことに起因している。
同様に、多くの政治家の意見は、近年広く普及している道徳哲学の理論に少なからず染まっていると私は信じる。それは善悪、正義と不正義の概念を、単なる一般的な有用性、あるいは利害の計算にまで押し下げるものである。宗教と同様に、哲学には狂信者がいる。そして決して単なる無節操な利己主義者ではない人々の間に時々見られる、少数派の権利を扱う際の完全な無節操さは、この倫理観に大きく起因していると考えられる。何かを所有したり、生産したり、代金を支払ったり、それに伴うリスクを負ったりする少数の人々と、それを享受したいと願う多数の人々との間のあらゆる利害の対立において、この傾向が認められる。多くの政治家には、地主と借地人、著者と読者、鉄道株主と乗客、生産者と消費者の間のあらゆる相違は、単に少数者と多数者の間の対立としか見えていない。そして、それを奪うことによって多数者が直接利益を得る可能性がある場合、少数者の権利は拘束力を失ってしまう。
ハーバート・スペンサー(*1820―1903、社会学者、社会進化論で知られる)の「政治家が何よりも高く掲げなければならない目標は、人格の形成である」という言葉には深い真実と知恵がある。民主政治が特に弱いのがこの側面である。もう一度、代議院について考えてみよう。最も低次元の試験を用いたとしても、その道徳的水準が以前と同じであると自信を持って言えるだろうか。おそらく過去20年から30年の間に議員が起こした数多くの重大な私的スキャンダルは重視され過ぎているのだろう。しかし、この間の庶民院議員の、刑法で裁かれるような金銭的不正、あるいは法廷に持ち込まれるほど重大なその他の不道徳行為で有罪になった事件の数には衝撃を受けざるを得ない。庶民院には670名の議員がいる。1892年頃、その約2倍の会員数を持つロンドンの大きなクラブの委員会は、クラブの規則に奇妙な手落ちがあったことに気づいた。クラブの細かな規則に違反していなくても、紳士社会にふさわしくない重大なスキャンダルを犯した会員を除名する規定がなかったのである。この手落ちが気づかれなかったのは、クラブは1824年から存在していたにもかかわらず、会員がそのような事件を起こしたことがなかったからである。庶民院という、嵐のように激しい論争の中で選出された集団に、アセナウムクラブのような高い道徳規範を期待するのは無理なことである。しかし、軽々しく退けるには、そのコントラストはあまりにも大きく、あまりにも顕著である。そして、調査をイングランドの外にも広げて、現代において大陸、アメリカ、植民地の議会で発見された、しばしば非常に高い役職者の、甚だしい浪費や不正行為の事例を数えるなら、民主的な選挙がいかに誠実さと道徳の高い水準を保証しないかを示す証拠が蓄積されるだろう。
しかし前にも述べたように、庶民院は本質的には受託者の集団であって、そのメンバーは主に公務の実績によって評価されなければならない。この点において著しい衰退があったというのが教養のある人々の大多数の見解である、というのは言い過ぎだろうか。私はこの件に関して誇張を避けたいと切望している。知性と人格において最も優れた人物が公職を回避するということは、アメリカと違って、イングランドではまだ見られないが、近いうちにそうなるかもしれない不吉な兆候がある。議会には今でもそのような人物が大勢いて、公職において人格がいかに重要かを示す顕著な現代の実例がいくつかある。おそらく私の読者の多くは、1886年は現代イングランド政治の最悪の行為(*ホームルールを巡る自由党の分裂)が目撃された年だったという意見をお持ちだろう。しかし少なくとも多数の公人が、その中には最高の政治的名声を持つ人物も何人か含まれていたが、意図的に、そしていかなる利己的な動機もなしに、不名誉な場面に加わるよりも古い絆を断ち切って、政治的野心を犠牲にしたことには、心を慰められた。しかし全体として、変節はより恥知らずになり、階級的買収はより習慣的なものになり、庶民院のトーンは前の世代よりも高いものではなくなり、原則はより軽視され、直接的な党益はより習慣的に追い求められ、大きく広範囲に及ぶ重要性を持つ法案が無謀にも単なる選挙活動のために着手されるようになり、ここだけの話、教育のある人々の百人に一人でさえ本物の誠実さや信念の重さの持ち主と認めないような人物が、イングランドの公職において指導的な役割を果たしていることに疑いの余地はないだろう。私は、前世紀にフォックス(*チャールズ・ジェームス、1749―1806、アメリカ独立派)とノース(*フレデリック、1732―1792、アメリカ独立戦争時の首相)の連立政権が残した深く消えることのない印象について、別のところで詳しく述べたことがある。有能で高潔で、ほとんどの点において愛国心のあるこの二人の政治家は、アメリカ独立戦争の問題で激しく対立していた。そして、フォックスは相手に対して最も強い言葉を使い、相手をブリテンの自由の敵と非難し、断頭台での死に値すると評した。アメリカとの戦争は終結し、戦争が生んだ論争は終結した。そしてそのとき、フォックスは自分たちが嫌悪し、信用しない政治家を政権から遠ざけるためにノースと同盟を結んだ。18世紀のイングランド議会史において、この取引ほど国民の心と良心に衝撃を与えたものはなかった。そして少なくともフォックスは、この同盟によって彼の人格が被った不名誉を回復することはなかった。しかし結局のところ、この二人の政治家は、彼らが統治する偉大な帝国の利益に献身した人物であることに疑いはない。米英戦争の終結後、彼らの間に目下の意見を異にする大きな問題はなかったのである。
この取引を、1886年に自由党の指導者に85票のホームルール票を与え、つい最近帝国への反逆罪と不正と犯罪を意図的に煽動した罪で告発され、投獄された、まさにその人々と緊密に手を結ばせた同盟関係と比較していただきたい。公人をその口先ではなく行為で評価するなら、その道徳性の如何を指摘するのは容易なことである。
1867年の(*選挙)改革法案以前の議会ならこの取引は不可能だった、と言っても異論は出ないだろう。中流階級が優勢だった時代には、すべての政治家は自分の意見と平均的な教育を受けた人々の意見は概ね一致しているべきであると思っていた。特に小自治区では、その意見のほんの少し変化が決定的なものになる場合があった。抜け目なさ、愛国心、そしてその事例の事実に関する何らかの真実の知識によって、迅速に判決を下す最終的な上訴裁判所(*民意)が常にある、と信じられていた。単なるレトリックと戯言、判断力を伴わない華々しい才気、国中が挙って非難した何らかの措置を実行するための、様々な階級に提供された数々の賄賂による同盟、個人の野心や党略のために大きな国益を犠牲にする政策、問題を増殖させたり、回避したり、混乱させたりする技術は、ほとんど一時的な成功さえ収めることができなかった。総じて平均的な教養ある人々の判断力が優位に立っていた。そして、その判断力はそれほど迅速でもなく、先見性もなく、新しい考えを受け入れるものでもなかったが、現実的な問題を正当に評価できないことは稀だった。
しかし、それまでよりもはるかに多くの無知、無関心、あるいは軽信が選挙区に持ち込まれたことは、たちまち政治の状況を変えた。不確実性が大幅に増加した。政治家は国の理性を説得することよりも、異質で独立したグループを統合すること、あるいは広範な階級的利益や偏見の強い琴線に触れることのほうが重要だと考えた。恥の意識は著しく低下した。かつてイングランドの公人にとって、意見の相違があったとしても、生涯を通じて、そして墓に入った後も、同胞の教養ある人々の大多数から尊敬されない、などというのは耐え難いことだっただろう。この感情は大幅に薄れてしまった。人々は今や、私が述べた方法で多数派を勝ち取り、権力と公職を獲得したなら、世間やクラブにどんなあだ名をつけられるかに非常に無関心になっている。党派争いはより激しく、より見境なく行われ、伝統的な感覚や慣習は大幅にその力を失っている。
この傾向は、現代生活の極度の慌ただしさと性急さによってさらに強められている。それは自然と軽薄な性格をつくる。絶え間なく現れる新しい印象やアイデアは、個人のみならず社会からも、何かを深く永続的に感じる力を奪う。不名誉はすぐに忘れられてしまうため、決して消えないものではなくなる。そして帝国の偉大さの基盤になる国民の感情や性質の強く安定した傾向が消失してしまう。政策の継続はより困難になる。そして政治的感覚が鈍って、実験や興奮への欲求がより強くなる。
政治の分野全体において、個人的利益と階級的利益が強くなっているように思われる。そして後者は、しばしばとても大きな階級の利益でさえない。通常の労働組合ストライキの目的は、国の政治と強力に結びつき始めている。造船所の町では長い間、賃金、給与、雇用の問題が他のすべてに優先すると言われてきた。警察、郵便局職員、公務員の政治的な票が、特定の階級的利益のために公然と集められたこともあった。1 州議会やその他の小規模な選挙機関では、これらの動機はアメリカと同様に、イングランドでも容易、かつ効果的に利用される可能性がある。ほぼ拮抗した選挙において、人々の集団の票が公的資金によって買収されるかもしれず、あるいは少なくとも公的資金を用いなければ失われるかもしれないならば、安価で容易で違法ではない賄賂に抵抗するには、現在一般的なものよりも高い水準の公衆道徳が求められる。強力な労働組合は少数の議員団を掌握する可能性がある。そして不安定で分裂した多数派に頼る弱い政府は、あらゆる独立的な議員グループを懐柔したいという強い誘惑に駆られる。
1 この種の圧力が用いられた例の注目すべき記事が1892年10月15日のタイムズ紙に掲載されている。
読者には、この描写が虚偽や誇張ではないのかをご自分で判断していただかなければならない。もしそれを真実と思われるなら、その重大さについて疑問を抱かれることはほとんどないだろう。私が述べた悪は、現代に広く浸透している、政治的悪行の犯罪性に対する非常に不十分な認識ゆえに、さらに甚だしいものになっている。一般に政治的犯罪とされる公然の暴力や反逆の事件は、権力がごく少数の人々の手にあって、信教の自由、個人の自由、表現の自由がまったく存在せず、耐え難い抑圧に抵抗する際に、最も崇高で純粋なヒロイズムが発揮された時代まで大きく遡ることができる。当時の革命家たちが帯びていた詩的な魅力の多くは、ほとんどすべての国で状況が完全に変わったにもかかわらず、今も残っている。現代の民衆の政府の下では、革命はほぼ常に犯罪である。そして通常は第一級の犯罪である。私が他のところで述べたように「反乱の首謀者が自国にもたらした膨大な苦しみを十分に理解している人物なら、この犯罪に対する、あるいは他の人々に彼らの後を追うことを思いとどまらせるであろう刑罰の大切さについて軽々しく語りはしないだろう。…内戦という大抽選会では、その賞金は莫大である。そして、そのような賞金が国家に深刻な損害を与える行動によって得られる可能性がある場合、厳しい刑罰による特別な抑止効果が必要である。現在流行している政治的犯罪とその他の犯罪をはっきり区別することは、圧倒的多数のケースにおいて、有害かつ不実なものである。(*現在の政治的犯罪をその他の犯罪と区別するべきではない)政治ほど、人間の本性の最悪の情熱が容易に、かつ危険に作用する領域はない。権力のために人々の命を賭ける冒険家ほど罪深い人間はいない。国家の秩序の大きな柱の下を掘り崩し、真の進歩の拠り所である生命、財産、法の尊厳を破壊することほど、甚大で永続的な苦しみを生み出す犯罪はない。」
現代の主な革命運動を吟味するなら、その大半が富と権力への欲望、競争相手を打ち負かしたいという願望、過剰な虚栄心、あるいはシンプルに刺激、冒険、名声に突き動かされた野心的な軍人、政治家、あるいは僭称者に率いられていたことを、誰しも即座に確信するだろう。そのような動機ゆえに、多数の命を奪い、国の信用と商業を破滅させ、無政府状態、大惨事、長期にわたる不況の種を広くまき散らし、おそらく国の衰退の始まりになるような革命を起こす人物は、困窮、情欲、あるいは酒に流された通常の殺人犯と同様の、即時の不名誉な死に値する。これらを些細なこととみなす世論は非常に病んだものである。イングランドでは、フェニックスパークでの殺人事件や、公共の娯楽施設で無政府主義者が爆弾で多数の罪のない人々を虐殺した、あるいは虐殺しようとした事件のような犯罪は「政治的」なものではないとされるのが通例である。私利や悪意の動機に基づかず、直接的かつ排他的に政治的目的を意図した行為について、その政治的性格を否定することは合理的ではないと私は考える。しかし、それらが政治的なものであったという事実は、その残虐性を減じるものではなく、犯罪者の刑罰を軽減する理由になってはならない。
内政においては、あらゆる誠実な意見や政策の相違に対して最大限の寛容が与えられるべきである一方で、最も不道徳な行為を伴いながら、同時に法的処罰を伴わず、世論によってのみ抑制され処罰され得る行為もある。もし、ある人物が単に票を獲得する目的で、国を不当な、あるいは不必要な戦争に突入させようとしたり、名誉とともに終結できるはずの戦争を長引かせようとしたり、階級を対立させて分裂と敵意を深めようとしたり、不正直な、あるいは忠誠心のない人々の手に政府の権力を委ね、彼らの計画を実行するのを助けようとしたり、公職、年金、あるいは爵位のために、それと知りながら不当あるいは賢明でない政策を支持したりするならば、彼は間違いなく最も深刻な道徳的な罪を犯しているのである。動機に関する評価は、疑いなく、常に不確かなものである。そして正直な意見の偏心を十分に考慮する必要がある。ほとんどの人にとって非常に不道徳に思える行動は、一部の人にとって明らかに善、あるいは二つの悪のうちのよりましなもの、古い約束の必要な履行、あるいは以前の政策の必然的な結果に見えるかもしれない。それでもなお、世論は、大まかではあるが実質的な公正さで、公人の性格と動機を評価することができる。そして世論が、信念なしに行動していると信じ、党派的あるいは個人的な目的のために、国家の大きな利益をまるでゲームのカードやレースの馬のように弄んでいる人々を真剣に非難しないなら、それは非常に悪い兆候である。
この考察は、政党で活動する人々が、公的な理由から、小さな問題に関してしばしば自分の判断を政党の判断に従わせざるを得ないという事実と完全に一致している。彼らは、悪い政策を支持することは、良い政府を転覆したり、有用な組織を解体したり弱体化させたりすることよりも悪いのではないかという問題にしばしば直面する。そして、まったく別の政策を可決あるいは否決するために、ある政策に賛成あるいは反対の投票をせざるを得ないのもよくあることである。彼らは直接的のみならず間接的にも、自分の行動の全体的な結果に目を向けなければならない。フランスでは今世紀の最も優れた人物の多くが、複数の王朝や共和国を次々に支持してきたが、その行動は間違っていなかった。彼らは(*帝政か共和政かの)どちらか一方の政体を好んでいた。しかし、不安定と革命の弊害は非常に大きいため、もしそれが許容できるものだったなら、既存のものを強化し、他のものの最良の特徴をそこに移植するよう努めることを愛国者の務めと考えていたのである。
政党政治では、はるかに複雑な性格を持つ倫理的問題が絶えず生じる。党の支配的傾向と異なる意見を持ってはいるが、それが長年の約束の絆を正式に断つほどに強くも、まったく異なっているわけではない者もいる。あるいは党が穏健派の要素を失い、極端な人物に完全に掌握されたなら大きな社会的惨事になると考え、党に留まる者もいる。通常、ライバル政党同士の両極端の意見は大きく異なっている一方で、両党派がほぼ混在している境界線が存在する。時にはパーマストン卿の晩年のように党派の境界線があまりにも曖昧なため、極めて当然ながら、新進の政治家が自ら所属するべき党について大いに無頓着になることもある。また別の時には、国家の福祉に重大な影響を与える問題ゆえに両党が深刻に分裂することもある。実際の政治においては、常に多くの妥協と互いの譲歩が必要である。そしてハラム(*ヘンリー、1777―1859、歴史家)がずっと前に言った通り、物事の適切なバランスを保つためには、ライバルの党派的傾向に概ね一致する、遠心力と求心力の両方が必要である。政党制度には大きな利点のみならず大きな弊害もあって、それが通常よりも目につく時期がある。
しかし、これらすべては、国家の重大な問題において、自分の利益だけを考えて行動する政治家の振る舞いとは明らかに異なる。イングランド人の見解において、政治的な浪費の非常に明白な例は、公金管理における不正行為などの私的かつ個人的な不正行為とは大まかに区別される。しかし実際のところ、この区別は非現実的なものであって、長続きしそうにない。爵位や地位の申し出に買収されて、本来なら離党していたであろう政党に留まったり、本来なら反対していたであろう重要な政策に投票したりする人物は、おそらく詐欺やカードゲームでの不正行為はできないだろう。しかし、その行為が実際にそれほど不名誉なものでないわけではない。国民の不実な管財人は、十分な誘惑さえあれば、容易に詐欺的な破産者になり得る。そしてある不正行為に甘く寛容な世論は、すぐに他の不正行為を容認するようになるだろう。悪徳な職業的政治家を生み出すタイプの性格は、あまりにも見慣れた詐欺の首謀者をも生み出す。実例を探すために大西洋を越える必要はない。
実際、政治ほど道徳観念が混乱していて、一貫していない分野はほとんどない。たとえばパーネル委員会の報告書と、その根拠になった宣誓証言を読んで、そこに記録されているすべての暴力、詐欺、脅迫、犯罪を組織し、奨励し、刺激し、利益を得たことが明確に証明された人々が、アイルランドのカトリック司祭の大部分と、イングランドの非国教徒牧師の大部分から支持を受けていたことを思い出してみよう。確かに立派な例外もあった。私たちの時代の(*カトリックを含まない)非国教徒の中で最も影響力があった―スポルジョン、フレイザー、アロン、デールの―名前は、この点において非難の余地がない。しかし、イングランドとウェールズの非国教徒の大多数は別の道を歩んだ。彼らの牧師たちは現在の世代では熱心な政治家であって、演壇で目立つ存在であり、しばしば彼らの政治を説教壇に持ち込んできた。彼らは、自ら支持する人々の犯罪への加担を間違いなく証明した司法調査に、まったく動揺しなかったようである。ボイコット、キャンペーン計画、扇動的な演説、公的略奪の公然たる擁護、アメリカのダイナマイト製造者とのつながり、隠された預金口座、明らかにアイルランド土地連盟に起因する数多くの恐ろしい残虐行為と弱者への抑圧の事例、これらすべてはこの宗教指導者たちをまったく動揺させなかった。これらは単に「政治的」なものと見なされたのである。しかし、ついにアイルランドの運動の主導者(*パーネルは法的に離婚していない同僚の妻と長年暮らしていた)が姦通の罪を犯していたことが明らかになった。それは非常に普通の事件で、特に深刻なものではなく、ほとんどすべての新聞に載っているようなものだった。そのとき初めて、非国教徒の良心が目覚めた。真に宗教的な政党が、そのような行為をした政治家と同盟を結ぶのは耐え難いことだった。非国教徒の間で始まった道徳的憤慨の爆発は、たちまち国中を揺るがし、その衝撃によって首相(*グラッドストン)、アイルランドの司教、そしてアイルランド人メンバーのほとんどが古い絆から切り離された。このグロテスクな光景を目撃した人々は、外国の観察者が頻繁にイングランドの世論をパリサイ主義であり偽善的なものであると非難していることに驚くだろうか。イングランドで「非国教徒の良心」が急速にジョセフ・サーフィス(*18世紀の喜劇「スキャンダルの学校」の登場人物)の「道徳的感情」の隠語になっていることに驚くだろうか?
読者には、私が公人の私的道徳に無関心であると誤解していただきたくない。世間で高い責任ある地位に就いている人々の模範には、並外れた影響力がある。したがって、彼らが汚れのない名誉と非の打ちどころのない生活を送る人々であるのは特に望ましいことである。家庭内での道徳に非常にだらしなかったにも関わらず優れた政治家だった人物や、私人としては模範的だったにも関わらず議会では無節操だったり腐敗していたりした人物の例もある。しかし、それでも私人としての美徳は少なくとも、公務の正しい遂行をある程度保証するものである。一方、大きな道徳的スキャンダルで世間における地位を失った人物が、その地位を取り戻すためにすべての政治的信念と公益を犠牲にしないなら、彼はほとんど人間を超えた存在だろう(*人間業ではない)。しかし、結局のところ、社会にとって最も危険なのは、公人の私的な悪徳ではない。姦通を犯すことと、犯罪や暴行につながる脅迫を煽動し「その結果を知りながら」それを続けることのどちらがより不道徳なのかは決議論においては興味深い問題かもしれない。しかし少なくとも、これら二つの行為のどちらが国家にとってより有害かについて疑いの余地はない。
1 「特別委員会報告書」88、92頁。
政治の分野において善悪の水準を高く維持することは、確かに国家の利益の最優先事項の一つである。しかし、公的な問題を職業政治家の手に委ねる民主主義的傾向ゆえに、それはますます困難になっている。他の人々にとって、庶民院はかつての魅力の多くを失っている。会期の異常な長期化、討論中の単なる妨害の増加、議会において策略が重要になったために絶え間なく出席する必要が増したこと、現在、候補者と議員の両方に求められている膨大な量の街頭演説やその他の退屈な仕事によって、公職の負担は以前よりもはるかに大きくなり、達成するべき強い個人的目標を持たない人々をそこから徐々に遠ざけている。選挙において支配的になり始めた影響力は、最良の人々を引き付けることも、有利にすることもない。こうした人々は、単なる党員集会の代表者や操り人形になることに容易に同意しないだろうし、実現不可能な理論家の集団を漠然とした約束でなだめたり、階級買収に長けていたりはしないだろう。
ほとんどすべての地方行政から治安判事制度や任命制度が消失して、選挙で選ばれる民主的な機関が大いに増加したことも、同じ方向性を示している。公的資金が少数者の利益のために不正に管理された―幸いにも、今世紀のイングランドでは非常にまれな―ケースでは、大きな基盤を持つ選挙制度の導入は有益な是正策になるかもしれない。ただし全体として、(*選挙による)アメリカの地方行政が長い間イングランドで行われてきたものよりも清潔であると主張する人物はいないだろう。しかし、選挙は政治家にとって最高の学校あるいは訓練場の一つになり、長らく公的な問題に非常に無関心だった大衆に知的関心を持たせ、すべての階級の欲求を明らかにし、少なくともそれが議論されることを保証し、地方行政に新しい力とエネルギーを注入するという、選挙制度の支持者たちの主張は公正なものである。
これらはすべて、非常に真実であって、非常に重要なことであると私は信じている。同時に、明白で深刻な欠点もある。その一つは、治安判事制度や任命制度が民主的に選出される機関に置き換えられたとき、ほぼ必ず発生する費用の増加である。もう一つは、敵対と不和の大幅な増加である。多くの静かな田舎の教区では、聖職者と非国教徒、自由主義者と保守主義者が長い間ほぼ完全に友好的に暮らしてきたが、今や社会の亀裂は深まりつつあり、絶えず繰り返される選挙によって絶え間ない論争の熱が維持されている。現在では教育委員会、郡議会、教区議会、会期の大半にわたる絶え間ない党派的会議を意味する国会議員選挙は、さまざまな党派をますます敵対的な委員会と対立的な綱領に分裂させている。そして、どんなに良い結果がもたらされようとも、それは間違いなく多くの悪感情と不快感によって生み出されているのである。すでに述べたように、アメリカの経験によって、非常に頻繁に争われる選挙は政治の道徳的トーンを低下させ、政治をますます職業的政治家の手に委ねる傾向を持っていることは、最もはっきりと証明されている。
新しい状況下で富が消滅したり、政治における富の力が大幅に減弱したりはしない、と私は信じている。しかし、主に国会に参入することになるであろう富裕層は、最も望ましい種類の人々ではない。ますます目立つようになっているのは三つのグループである。貿易、商業、製造業で巨大な財産を築き、何よりも社会的地位を望み、そのためには多額の金銭を支払う用意のある人々がいる。国会の議席がもたらす社会的優位と、自らの党派を着実に支持しているすべての富裕層に開かれている地位の可能性は、彼らを導く動機になって、非常に頻繁に彼らの政治的計算のすべてを作り上げる。また、職業上の目的で国会に参入する裕福な法律家もいる。彼らは、それが職業上の最高の栄誉に直接つながることを知っている。また、公開会社に関係する大勢のビジネスマンは、政治的地位は財務計画に有用であると考えている。国会における(*企業の)役員の増加と、国会議員を役員に迎えたいという企業の要望は、政治の清潔さにとって良くない重要な兆候であると私は思っている。かつて民間に委ねられていた多くのものを含む、国家の職務が増えるに従って、国会議員の地位は、公職任命権、産業、金融の分野でますます価値を持つようになるだろう。こうしたさまざまな階級の人々は、しばしば最も危険なデマゴーグである。彼らは公的な目的より、私的な目的を優先する。目的を達成できるなら、彼らは大きな支出や金銭の犠牲をほとんど気にしない。また彼らの特有の利益が国の永続的な利益と一致することは稀である。
よく主張されている二、三の措置は、職業政治家の権力を確固たるものにするだろう。私はすでに大学代表の廃止について述べた。これは、非常に広範囲な影響を与えるものではないが、少なくとも、国中に拡散した知性と知識を顕著に代表している少数の議員を議会から追放することになる。選出方法によって判断するなら、彼らは政治的に清廉で独立した性格の人物であることはほぼ間違いない。そして、まさにそれゆえに、より無節操なタイプのデマゴーグにとって、彼らは特に不快な存在である。彼らの追放は、国内の一派にとって相当大きな党派的利益になる。従ってそれは着実に進められるだろう。
より重要な措置は、選挙費用の全部、あるいは大部分を税金にすることである。それを擁護する理由は沢山ある。公務を遂行し、国民に奉仕しようとする人物が、多額の費用を負担しなければならないというのは自然ではない。それが地方税から支払われるなら、中程度の財産を持つ人々が庶民院に入ることがずっと容易になるだろう。そして地位や、しばしば支払い済みの費用を回収するためだけに求められる、より不当な利益への欲求を減少させることが期待できる。地位を得るために多額の費用を支払った人々が、その地位から利益を得ること、支出を投資とみなすことは正しいと考えるのは容易なことである。しかし、公的資金からの支払いが、世論調査で少なくない支持を得た候補者に限定されない限り、有害無益な選挙が増え、おそらくその後の彼らへの支払いと同様に、政府の他の費用を大幅に増やすのみならず、職業的扇動者や黒幕の仕事を大いに楽にすることだろう。
私が上に指摘した傾向(*職業的政治家の台頭)は、私にはすでに働いているように思われるものではあるが、完全に起こってしまった事実ではないことを読者にはご理解いただきたい。長い時間と数多くの破滅的な革命なしに、イングランド政界の堅固な構造が壊れることはないだろう。権力が主に最も教育のない、したがって最も聡明ではない階級の手に移り、その結果として卑劣な動機がイングランドの政治においてより大きな存在感を獲得しているにもかかわらず、伝統を尊敬する古来の感覚、財産や階級や共同体といった長く確立されてきた組織、判断の抜け目なさや冷静さ、そして何よりも、長く高貴な歴史がブリテン人のあらゆる階級に植え付けた健全な道徳観は消え失せ得ていない。さらに、権力や人気を得るために自分の人格を犠牲にする用意のある某政治家にさえ、見返りを求めない犠牲を払う心強い兆候があった。捏造され組織化された煽動、異質な要素の独創的な同盟、階級的賄賂を配ったり、階級的、あるいは国民的敵意を煽ったりして票を獲得しようとする巧妙な試みは、必ずしも成功しているわけではない。国民感情を強くかき立てる大きな問題に関して選挙民が慎重に下す判断が間違うことは稀であると私は信じているが、彼らが一時的に欺かれたり、先に述べたような影響力が庶民院で一時的に優位を占めたりする危険は増している。
わが国の(*選挙で選ばれない)常勤公務員に長く存続してきた職業的名誉と能力の高い水準が失われていないことは確かである。議会政治が衰退している今日、国家の福祉にとっての優れた常勤公務員の重要性を過大評価することはできない。議会自体は、数多くの悪い兆候を示しているが、他の立法府に見られるような兆候のいくつかを免れている。庶民院は国王に責任を負う大臣の発議による場合を除いて、補助金の交付を行ってはならない、という議事規則の価値を過大評価することはできないだろう。おそらく、浪費を抑制し、民主主義特有の危険の一つである立法による賄賂を制限するためにこれほど効果のあった規定は他にはない。そして、そのような規則がないことが、フランス財政の腐敗と浪費の大きな原因の一つであると説明されてきたことは正しい。アメリカで既にそうなっているように、イングランドでも議会政治において最も重要なものになりそうな委員会制度も、本質的には健全なものである。庶民院は全体として、細かな事柄の処理に適さなくなってきており、おそらくその職務を委員会に委任することがますます増えるだろう。そして、これらの委員会は、重大な問題を徹底的に検討し、最も有能な実務家と入手可能な最良の情報を集め、党派の力を弱め、少なくとも司法精神のようなものを立法に吹き込むのである。
公務員に適用される競争的な試験制度の政治的価値についてはすでに触れた。この制度には間違いなく多くの重大な欠点がある。そして良識ある評者なら、イングランドでは試験が過剰に行われており、これらの試験において単なる書物の知識が突出し過ぎてきたことをほとんど否定しないだろう。実際、試験の性質とその後のキャリアとの間には、ほとんどグロテスクなほどの相違があった。たとえば、陸軍の試験を受ける候補者の合否を左右したのは、スペンサー(*エドマンド、1552―1599、詩人)の「妖精の女王」、イングランド議会の歴史、あるいは古典文学に関する質問だったと言われている。事務管理や人事管理に最も役立つ資質の多くは、試験によって発揮したり試みたりできるものではない。機転、人に関する知識、健全な判断、危険時の迅速さと決断、そして特に東洋諸国で行政の成功に多大な貢献をするあの態度の魅力は、まったく試験場の中に収まるものではない。世の中には、スポーツや冒険に生来の素質があるが、試験に勝利するような精神や性格がまったくない、野性的で怠惰で元気な少年の方が、試験に強い地道で勤勉な少年よりも成功を獲得しやすい地位がある。競争システムは理論上、非常に民主的なものである。しかし、多くの民主的な手段と同様に、その約束を完全に果たしているわけではない。それは、特定の種類の能力に恵まれた少数の人々に、世界の財産のまったく不相応な分け前を与えるシステムである。それはまた、金銭が大きな役割を果たすシステムでもある。なぜなら、特別で高価な教育という恩恵なしに、少年が最も厳しい競争試験に勝利することはほとんど不可能になっているからである。かつての貴族のパトロン制度の下で、貧しい人物が昇進の梯子において、いかにしばしば現行制度では不可能な地位に到達していたかを見るのは興味深いことである。多くの同僚と同じく、非常に質素な資産しか持たずに、有益で名誉ある人生の終わりに近づいた士官は、旧制度の陸軍では金銭の支払いなしに息子を士官にできた。しかし現在、息子は試験を受けなければならない。そして父親が経験豊富な予備校講師をつけてやらない限り、彼が合格することはほとんどないだろう。
インドでは、競争制度は重大な危険を引き起こすもしれない。かの国では、試験に合格する頭脳と舌の機敏さは、ヨーロッパではまったく類のないほどに、武勇や、大衆の尊敬を勝ち取り、人々を支配する胆力や性格の強さと分離している。最も優れた評者の意見によれば、インド古来の支配的民族と北部の強力で好戦的な住民を退けて、弱くて女々しいベンガル人を取り立てる制度は、確実に大惨事を呼ぶだろう。
しかし、欠点もあるとはいえ、競争制度はイングランドに大きな恩恵を与えたと私は思っている。そして、より知的な種類の試験と、責任ある地位にある人々にいくらかの選択権を与える公職任命権と競争の賢明な組み合わせが、それに伴う不利益を軽減してきた。競争制度は全体として、革命の理想である「才能に開かれたキャリア」を、これまでに考案されたいかなる制度よりも完璧に実現するものである。公職任命権が常に完全な知恵と公共精神をもって運用されるなら、間違いなくより優れた人材を輩出するだろう。しかし、グレート・ブリテンにおいて競争制度が生み出した階級が、その先人たちに全体としてまったく劣っていると信じる真実の理由はない。同時に、公職を腐敗から守る上での、その価値を強調し過ぎることはできない。それは「猟官制度」の完全な支配に対する唯一の真の防御策であって、おそらく永続するであろう防御策である。民主主義の時代には、民主主義的な解決策以外で民主主義の弊害を正すことは非常に困難である。かつては政府や貴族が握っていた任命や指名の権限がすべて民衆の手中に収められ、職業的政治家が奪い合ったり、対立する派閥が賄賂として利用したりするようになったなら、どれほどの腐敗が起こるかを計り知ることはできない。
その公人たちの性格や政治活動によって、国民の一般的な性格が常に公平に評価できるわけではないというのは、十分に認識されていない真実である。真に健全な代議制には、この見解は当てはまらないだろう。良い憲法の最も真実の試金石の一つは、その憲法が日常的な政治活動に国民の最良の性格を反映しているかどうかである。しかし、専制政治と民主主義という両極端では、政治活動は国民の性格を奇妙に欺く指標になることが多い。ときに権力が少数者の手中にあり、また国民の大半が温和で平和的で忠実であるがゆえに容易に従わせられるというだけの理由で、その政府が絶えず攻撃的、軍事的、暴力的な政策を行うことがある。同様に、アメリカが十分に証明したように、民主主義において、政治は国民の最良の側面を映すには必ずしも信用できない鏡かもしれない。一国の政治や公人の品格が堕落したなら、それは国民全体の知性や徳が衰えたからではなく、単に権力がより僅かな知性や良心しか持たない、あるいは騙されやすい階級の手に落ちたからである。
もしイングランドの議会政治が―そう信じるには十分な理由があるように思われるが―衰退期に入ったということが真実ならば、これが国民性全般の衰退を意味するのかどうかを確かめることは最も重要な問題である。私自身はそうは思わない。現在のイングランド人を祖父や曽祖父の世代と比較するなら、イングランド人の品格は全体として向上した、と信じざるを得ないと思っている。この点において,犯罪統計は間違いなく不完全なテストである。なぜなら、犯罪者は常に社会の小さな部分でしかなく、実際の犯罪の増加や減少は、社会の平均的な道徳とほんの少ししか関係のない状況に左右されることが多いからである。しかし、このテストに関する限り、それは非常に満足のいくものである。なぜなら、重大犯罪のほとんどが、現世代で人口に比して大幅に減少したことには疑いの余地がないからである。また、これは驚くべきことではない。なぜなら、今世紀の特色として、更生施設や産業その他の学校、工場法、不衛生な住環境の減少、そして酒類取引のより良い規制によって、現代の慈善事業が国内の犯罪の主な原因を制限あるいは除去することに成功した手腕ほど注目すべきものはないからである。変化の一例として、1834年の議会での公式発表に触れておこう。当時イングランドに駐屯していた軍隊の少なくとも5人に1人は、過去2年以内に一般刑務所に服役していたのである。1 イングランドにおける一般犯罪の大幅な減少は特に注目に値する。なぜなら、フランスでもアメリカでも、現世代において、大幅な、嘆かわしい増加が起こっているからである。
1 「ハンサード」25巻281段(*1834年7月21日)。
貧しい人々の大半のエチケット、文明、人間性、趣味や楽しみの性質、関心の広がり、貯蓄銀行や類似の機関の影響が生んだ倹約精神の改善も、同様に目覚ましいものである。今生きている人々の記憶の中にある、私たちの大都市の熟練職人たちは、イングランドで最も精力的であるのみならず、最も知的で秩序ある要素の一つになった。彼らの政治組織、労働組合、機械工学校、無料図書館と親しく関わった人、あるいは偉大な科学者の講演会場の労働者階級の聴衆を見た人なら、これを誇張とは思わないだろう。苦しませることを避けたり、和らげるべき苦しみを見つけたりする、慈愛の精神は非常に高まった。教会や信条は現れては消えていくだろう。しかし、コミュニティの道徳レベルを最もよく示す指標は、その中で生まれる利他的な行動の量である。苦しみの緩和にこれほど多くの時間、思考、資金、労力が費やされた時代、あるいはあらゆる階級のより多くの男女がこれほど熱心に、そして習慣的に利他的な活動に身を投じた時代はかつて、イングランドにも、他のどの国にもなかったと私は信じている。教会の内外を問わず、社会改革と慈善活動への情熱は、神学的熱意に大幅に取って代わった。しかし同時に、国教会の活動が活発化していることも明らかである。聖職者の職務の水準は明らかに向上した。そしてその任命権は過去よりもはるかに優れた純粋な精神で管理されている。
これらすべては、疑いなく、ある特定の悪徳の増大と一致するものである。それはおそらく、主に政治の偉大さをもたらす、より強く、よりたくましい資質の減少に一致するものだろう。この分野において、イングランドに何らかの衰退があったかどうかを断言することは難しい。圧倒的な不利な状況で、イングランドが生死を賭けた戦いを繰り広げた最後の機会は、インド大反乱だった。そして、その今は遠い危機において、イングランドを現在の姿にした、より強く、より激しく、より粘り強い資質に欠陥がなかったことは認めなければならない。現代において大いに強いられる感傷主義の真ん中にさえ、民族の堅固さが依然として失われていないことを示す兆候がある。古来の男らしいスポーツへの愛着がこれほどふんだんに示されたことはかつてなかった。冒険と発見の偉大な分野、そして人々のエネルギーと資源に最も負担をかける商業と工業において、現代のイングランド人は自らの役割を十分に果たしている。そして遠く離れた未開の地を探検し、征服し、文明化するためにこれほど尽力している人々は他にいない。
彼らの統治能力は衰えたのだろうか?現代のイングランド人は、物よりも言葉を、事実よりももっともらしさを、賢明な判断力と堅実な人物よりも、議会の駆け引きや政治的策略に長けた人物を好むようになったのだろうか?カーライルはそう信じていたし、近年、彼の意見を裏付ける兆候が現れている。しかし私は、それらほとんどすべてには、民主的な議会の影響との密接な関係があると信じている。イングランド人がその干渉や悪影響から脱したとき、古来の高い統治能力が輝きを放たないことは稀である。今日の非常に困難な状況下において、イングランドのエジプト統治(*1882年、エジプトの保護国化)ほど巧妙で、成功した、有益な統治は、まったく成し遂げられていない。ローマ帝国以来の世俗政府の業績の中で、インドにおけるブリテン帝国の規模と壮麗さに匹敵するものはない。その巨大な帝国を築き上げ、何世代にもわたって広大な地域の平和と繁栄と秩序を維持し、多くの残酷な戦争を終わらせ、多くの残酷な慣習を根絶した人々こそ、イングランドが最も誇るべき政治家である。彼らがその抜け目なさを失った兆候はない。そして、もしそのような人々とそのような政治手法が本国で用いられたなら、数多くの古い不正と不満はとっくに消え去っていただろう。
わが民族の才能と気質を示すこの最高の記念碑が長く存続することを、自信を持って予言する人は楽天家だろう。しかし、優れた評者のほとんどは、この記念碑を脅かす大きな危険はカルカッタでもサンクトペテルブルクでもなく、ウェストミンスターに存在することに同意するだろう。それは、脆弱な政府、崩壊した議会、無知な選挙民に統治されている国において特に危険な、狂信と陰謀の結びつきの中に見出される。それは、東洋人にはまったく適さない、近代ヨーロッパの民主主義から借用した統治の方法と格言をインドに導入することの中に見出される。それは、党派的動機と地方の利益の圧力に従って議会が犯した不正行為の中に見出される。ごく最近、この種の恥ずべき事例が二つあった。1893年にインドに派遣されたアヘン取引の調査委員会は全面的に、イングランドの狂信者や扇動者の小集団の、庶民院における行動に起因するものだった。それはインド国内のいかなる声に促されたわけでもなく、経験豊かなインド世論の力に抗して実施されたのである。しかも、当初、その費用の大部分はインドの納税者に負担させることが決まっていた。さらに深刻な影響が予想されたのは、深刻な財政難の時期のインドに、イングランドから輸入される綿花に関税を課し、歳入を上げるという、インド行政官と教育ある世論のほぼ完全に一致した希望を却下した政策だった。インドが代議員を送っていたなら、あるいはインドのイングランド人行政官やインド人行政官の意見が取り入れられていたなら、そのような関税が課されていたことは間違いなかった。しかし、投票で負ける可能性があり、イングランドで扇動が起こる可能性もあった。そこで両党はそのリスクをとることを恐れたのである。
幸いにも、この二つのケースにおいて、誤った措置は取り返しのつかないものにはならなかった。インド担当大臣(ヘンリー・ファウラー卿(*1830―1911))のいかなる危険を冒してでもそのことを改めることを主張した勇気は無限の称賛に価する。そして、彼は庶民院の圧倒的多数の支持を得るために十分な愛国心を、野党の中に見出した。近年、庶民院においてこれほど強力かつ見事に、真の公共精神の和音が打ち鳴らされたのは稀なことだった。しかし、当初の誤りは重大なものであって、民主的な議会政治の弱い行政によって、帝国の大きな利益が晒される危険を物語っている。
その責めは両党が等しく負うべきである。両党においてインド代表大臣は、辞任したケースは別として、最善を尽くしてきたと私は信じている。しかし、少数の投票者が均衡を覆す可能性がある場合、インドの大きな利益はあまりに党利党略の犠牲になり易い。よくインドはイングランドに剣で支配されていると言われる。これは大体において正しいが、完全な真実ではない。もし、大多数のインド国民のイングランドによる統治の本質的な誠実さと恩恵に対する信用が揺るぐならば、私たちの力の主な柱の一つが消滅することになるだろう。
しかし、私たちのインドにおける経験は、少なくとも我が民族が統治能力を失なっていないことを示している。そして我が国の大都市で発展した立派な自治体も同じ真実を教えている。古代ギリシャ、あるいは中世のイタリアやフランドル、バルト海沿岸の大都市において、市町村や地域の愛郷心が、現在のバーミンガム、リバプール、マンチェスターよりも強力に発達していたかどうかは非常に疑わしい。これらの大都市で示される自治能力、公的制度を支える寛大さと愛郷心、そこから発せられる特有の政治傾向の強い潮流は、イングランドにおける最も注目すべき、そして最も心を慰められる事実である。フランスでは、パリの台頭によって地方都市の政界はほぼ衰退し、首都は国家の決定を覆すほどの力強さを繰り返し示してきた。アメリカでは、ほとんどすべての主要都市における市政の腐敗が国家の最悪の側面になっている。イングランドは今のところ、この両方の悪を免れている。そして、地方の主要都市の政治的影響力には疑いの余地がない。前世代におけるマンチェスター学派と現世代におけるバーミンガム学派は、現代政治の最も強い影響力の中の一つだった。
電信は独立的な地方精神の発展を大いに加速した。この偉大な発明の政治的影響力は多様で、変化に富んでいたとはいえ、鉄道の影響力にほとんど劣らない。電信は帝国の遠く離れた保護領を、母国とより緊密に結びつけた。しかし、それが母国の閣僚たちに与えた、行政の細部に絶えず干渉する権限が良いものだったのかどうかは非常に疑わしい。また、国際的な迅速な通信が平和より、むしろ戦争につながるような不和の時期もあった。電信による政治は非常に危険なものであって、トレント事件(*南北戦争中にアメリカ海軍がグレート・ブリテンの郵便船を拿捕した事件)の最初の激動のときに大西洋の電信がイングランドとアメリカを結び、両国の血がまだ熱く煮えたぎっていたときに両国の意見交換が可能だったなら、戦争はほとんど不可避だっただろうとよく言われる。一方で、電信は反乱の鎮圧、財産の保護、犯罪の処罰に際して中央政府を大いに強化した。少なくともダブリンがロンドンと数分以内に連絡を取れるようになったことは、アイルランドの困難を改善した。それは莫大な経済的影響を及ぼし、価格を均等にし、投機を刺激し、多くの競争において大都市の住民が当然のように持っていた時間的優位を大幅に削減した。
しかし、私が今特に述べたいと思うのは、政治の地方分権化における電信の大きな力である。印紙税と紙税の廃止に負うところが大きいことは間違いないが、中年男性の生活における地方新聞の巨大な発展と重みは、主に電信の存在に由来するものである。あらゆる種類の国外および国内のニュース、さらには地域に利害関係がある議会での討論の完全な報告さえもロンドンと同じ早さで、アイルランド、スコットランド、リバプールの新聞に印刷されている。こうして地方紙は、その地域でロンドンの新聞のニュースを先取りすることができ、その結果、かつて大都市の新聞が大きな影響力を持っていた国内の広い地域において、今ではロンドンの新聞を見かけることがほとんどなくなった。重要度と発行部数が増大したため、地方紙は以前よりもはるかに多くの才能を動員できるようになった。そしてそれは、世論を指し示すにも、作り上げるにも最も重要な機関の一つになっている。
鉄道が中央集権化に大きく貢献する一方で、電信がイングランドに強力で独立的な政治思想と教育の中心地を増やし、地方の新聞に首都のそれに匹敵する能力を持たせると同時に、その影響力の圏内でははるかに優位に立たせることによって地方分権に大きく貢献することが、かつてはっきりと予見されていたかどうか、私には分からない。これは現代の大きな政治的事実の一つであって、全体としては有益なものだったと私は思う。ある階級の無知な投票者の大群によって、本物の意見が覆い隠され、押しつぶされるなら、代表機関は代表性を失い、おそらく滅びてしまうだろう。現代において、新聞は庶民院をはるかに超えた、国民の真の世論の代表者になりつつある。
その発展は、国中に充満する強烈で多方面にわたる知的、精神的エネルギーの数多くの兆候の一つに過ぎない。確かに、思想と行動の両面において、現世代の偉人たちがその先人たちに見劣りする分野もある。しかし、私たちの時代をその活力の総計、そのエネルギーと業績の大きな広がりで測るなら、今世紀のイングランドが極めて高位に位置することは間違いない。芸術、科学、文筆、知識の境界の拡大、獲得した知識の普及、発明と発見、そしてほとんど形態の企業活動と慈善活動において、イングランドは確かに多くのことを成し遂げてきた。少なくともニュートン以来、人類の思想に誰よりも大きな革命をもたらしたダーウィンという人物をイングランドは生み出した。そして、その名は人類がこの惑星で活動を続ける限り名誉とともに語り継がれるだろう。一方、それはゴードン(*チャールズ、1833―1885、軍人、スーダンの反乱で戦死)という、シンプルで自己犠牲的で宗教的なタイプのヒロイズムを生み出した。それは騎士道伝説にも匹敵するほど完璧な類のものである。そのような人物や仕事を生み出した国は、その憲法が明らかに擦り切れていて、国内勢力の均衡が崩れていて、深刻な病が政界に急速に蔓延しているにもかかわらず、全体的に衰退しているようには見えない。イングランド国民のエネルギーが十分に喚起されてこれらの悪を阻止できるかどうか、そしてそれが大きな破滅につながる前に阻止できるかどうかは、未来だけが知っている。
第3章
私たちの世代が民主主義に向かう動きの力と普遍性を真剣に考える人物なら誰しも、この統治概念が、少なくとも相当の期間、すべての文明国で必然的に支配的なものになることを疑わないだろう。政治家にとっての本当の問題は、それがどのような形をとる可能性があるか、そしてその特徴的な弊害を最も効果的に緩和できる手段は何かということである。私たちが十分に見てきたように、民主主義への傾向は議会政治への傾向、あるいはより大きな自由への傾向を意味するものではない。それどころか、歴史と物事の本質の両面から、民主主義はしばしば自由とは正反対なものであることを示す強力な議論が提起されるだろう。古代ローマでは、古来の貴族制の共和国が徐々に民主主義に変わり、その後急速に帝国の専制政治に移行した。フランスでは、これに一致する変化が何度も起こった。住民投票に基づく専制政治は、共和国の自然な民主主義の形である。そして最も強力な民主主義的傾向のいくつかは、明らかに自由に反するものである。平等は民主主義の偶像である。しかし、人間の能力とエネルギーには無限の多様性があるため、その自然な発達を絶えず組織的に厳しく抑制することによってのみ、平等は達成できるのである。自然の力が制限なしに作用するときには常に、必ず不平等が生じる。民主主義は、憲法上の自由の主な根拠になっている意見、利益、および階級のバランスを破壊し、これまで政治的自由をもたらす主要な機関とされてきた議会の効率と権威を損なう傾向がある。中世において、最も民主的な二つの機関は教会とギルドだった。前者は人類の本質的な精神的平等を説き、奴隷階級から引き抜いた人々を、王や貴族が頭を垂れざるを得ない台座の上に置いた。しかしそれは同時に、世界にかつて存在しなかった精神的専制の最も恐るべき手段を作り出した。後者は産業を自治と代表制に基づいて組織したが、同時に、最も厳格な専制主義で産業を細部にわたって制限し、統制していた。
現代において、その権威的統制ゆえに民主主義が愛されていることほど議論の余地がなく、明白な事実はない。中世の人々がその時代に最も信用していなかった二つのことは、おそらく自由契約と自由貿易だろう。(*中世にも教会とギルドによる権威的統制は愛されていた)世界の民主主義国の大多数は今や率直に言って保護主義的であって、自由貿易国においてさえ、産業のあらゆる部門を統制、制限、干渉する法律が増加していることは、現代の最も顕著な特徴の一つである。また、こうした統制の理由は、衛生上あるいは人道上のものだけではない。統制を支持する大勢の人々には、別の動機があることがはっきりと見て取れる。人気のある労働者階級の指導者たちの中には、優れた技能や勤勉さ、あるいは天賦の才が並外れた報酬をもたらすことをもはや望まない一派が出てきている。彼らの理想は、最も強力な労働組合の統制によって労働量と労働生産量を制限し、あらゆる産業部門に法的強制の原理を導入し、労働組合にその組合員に対する絶対的な強制力を与え、高い平均値に到達すること、しかし優越を許さないことである。彼らが目指す産業組織は、ジェファーソンやコブデン(*リチャード、1804―1865、自由貿易主義者)の理想よりも、中世やテューダー朝の組織にはるかに近い。私はここでこの傾向が良いか悪いかを論じるつもりはない。少なくとも、それが自由の方向に向けられているとは誰も考えない。権力が主に、自分たちの領域において自由にほとんど価値を認めない人々に握られている場合、他の形の自由が本当に安全なのかを疑うのは許されることだろう。
他の分野、特に社会の統制における国家の権威の拡大と機能の増大は、等しく明らかな、近代民主主義に付随する現象である。国家権力の増大は、人間の行動のさまざまな形に課せられる制約の増大を意味する。それは官僚機構の増大、言い換えれば、国家公務員の数と権力の増大を意味する。それはまた、絶え間ない増税を意味し、それは実際には絶え間ない自由の制限である。自由の最初の形の一つは、すべての人が自分の財産と所得を思いのままに処分する権利である。そして、すべての税金は、法の力と権威によって、彼から徴収されたこの金銭の一部である。これらの税金の多くは、間違いなく、彼が最も関心を持っている目的のために課せられる。それらは、生命、財産、および産業に必要な安全を彼に与え、数え切れないほど多くの方法で彼が享受するものを増やす。しかし、彼が関心を持たず、共感もしていない数多くの目的のために税金が増やされるなら、それに比例して彼の自由は制限されることになる。彼の金銭は、彼が承認しない目的のために、ますます強制的に奪われる。課税は最高度に自由の問題である。そして、特に民主主義の下での課税は自由に敵対しがちである。私はすでに、同意を得ることなしに誰にも課税してはならないというイングランド古来の自由の基本原則が徐々に放棄されつつあること、そして、ある階級が税金を課し、別の階級が税金を主に支払うことを強いられる状態へと着実に進んでいることを指摘した。税がますます社会全体の共通の利益ではない目的のために利用されるようになっていること、税を特定の階級の権力、影響力、富を破壊し、新しいタイプの社会をつくり、階級買収の資力を獲得するための没収の手段と見る傾向が強まっていることは明らかである。民主主義が自由とうまく調和しない原因は他にもある。最も無知な階級に最高権力を与えることは、政治的自由を最も気にかけず、絶対的な忠誠心で強い指導者に従いがちな人々に権力を与えることである。国民感情はあらゆる階級に深く浸透しているが、どの国や時代でも、憲法上の自由を重視してきたのは主に上流階級と中流階級である。そしてこれらの階級の地位を奪うのが民主主義の仕事である。同時に、民主主義はこれらの階級の自由への愛着を弱めることにも大きく貢献している。民主政治の不安定さと不安、不正直で略奪的な冒険家が普通選挙によって国家の大きな権力を握る光景、財産への攻撃が失うものを持つ人々に必ず引き起こす不安は、他の状況下では自由をしっかりと支持していたであろう大きな階級を脅かし、容易に独裁政治の側に追いやってしまうだろう。秩序、財産、産業を確保し、宗教と私生活の自由を損なわず、穏やかで勤勉な人々が何の悩みもなく邪魔されることなく人生を送れるような独裁政治は、常に脅迫、妨害、略奪する民主共和国よりも、多くの人にとってずっと好ましいものになるだろう。1852年以降のフランス独裁帝国が銃剣だけに頼っていたと考えるのは大きな間違いだろう。それは部分的には、物質的繁栄を大いに気にかけ、憲法上の自由をほとんど気にかけない大きな農民階級の真の同意、部分的には1848年の社会主義の宣伝によって中産階級に生じたパニックに頼っていたのである。
民主主義から生じる危険は、突然の跳躍によって変革がもたらされる場合、非常に大きなものになる。習慣の継続性が保たれ、変化がゆっくりと、徐々に、ほとんど目に見えないほどのステップで行われたなら、政府や社会は、大きな混乱や大惨事を経験せずに、根本的に変化するかもしれない。すでに述べたように、現在の政党制度の弊害の一つは、この経過を大幅に加速させることである。憲法改正が、真に自発的で、強いられない発展の結果であるケースはごくわずかである。それらは主に、あるいは少なくとも大部分は、互いに人気を競い合うライバル指導者たち、声を上げるために党派的な目的を必要とする扇動者、既存の支持層から非難されたときに新しい支持層を開拓して権力を取り戻そうとする敗北した政治家によるものである。今日の最も広範囲にわたるいくつかの変化の本当の原因はおそらく、シンプルに選挙に勝つためにカードをシャッフルしたり、投票者を連合させたりしたいという願望にすぎない。強力な上院と、選挙区の強力な有産階級組織があれば、保守的影響力は急速過ぎる変化を防ぐには十分である。しかし、これらの抑制が弱まり破壊されて、憲法にそれに代わる規定がないなら、変化の方向に働く影響力が大幅に増大し、プロセスの危険性は計り知れないほどに増大する。そして新しいワインが古いボトルを破裂させる可能性は非常に高い。
民主主義の圧力によって現在の議会政治システムが崩壊した場合、社会がどのような政府を作り上げるかを、確信を持って正確に予測することは不可能である。おそらく、多くの異なる国々が採用した方法、特にアメリカが民主主義の危険に対処した方法の研究によって、最も良い光を当てることができるだろう。しかし、ブリテン憲法の枠組みの中で、既存の弊害に対するいくつかの解決策、あるいは緩和策が提案されている。それらは容易に、あるいは少なくとも克服不可能な困難なしに導入できる可能性がある。
第一の、そして最も明白なものは、アイルランド代表の変化である。帝国の普遍的な利益を完全に離れて、帝国のあらゆる問題を自らの特別な政策に従属させようとする集団が庶民院に存在することは、常に何らかの危険をもたらす。そして、代表制におけるそのような要素の異常、かつ完全に過剰なシェアを許すことほど大きな愚行は他にほとんどない。現代において、アイルランドの選挙資格の引き下げほど、愚か、あるいは邪悪な行為はほとんどない。この大きな悪と危険は、代表権の削減、議席の再配分、少数派の代表権の確保といった、その悪を緩和するための措置がまったく講じられることなく、意図的に現在のような規模にまで増大したのである。党利党略という説明がなかったなら、そのような政策が単なる狂気にしか見ないことは確かである。人口だけで計算したとき、アイルランド代表は適正な数より約23議席多いことが知られている。(*アイルランド代表が100議席以上持つことは合同法によって定められた)人口と税収を組み合わせた、はるかに合理的な計算を行えば、過剰さはさらに甚だしいものになる。また、その過剰さは主にアイルランドの一部―最も無知で、最も不誠実で、悪意ある勢力に最も従順な階級―に集中している。この党派の行動は一貫して、議会政治を崩壊させ、堕落させること、無政府状態や略奪に向かうあらゆる措置を支持することだった。しかし、イングランド政府が数年にわたってその存続をアイルランド人の投票のみならず、その投票の不当な強さに依存していたことはよく知られている。過去数年間のより革命的で危険な法案を調べてみれば、すべての段階をイングランド人の多数派によって通されたものはごくわずかであり、ブリテン(*イングランドとスコットランド)人の多数派によって通されたものもそれほど多くないことがわかる。一方、最悪の法案のいくつかは、アイルランドの代表が不釣り合いに多くなかったなら、全王国の投票を決して通過しなかっただろう。そして、政府を権力の座に留め、その政策に大きく影響を及ぼしてきたのは、帝国の繁栄に公然と、そして誇らしげに無関心を表明してきた人々であって、ブリテンや帝国の利益に重大な影響を与える問題に対する彼らの投票は、これらの利益とは無関係な動機に左右されることで有名である。議会にそのような人々が多すぎるため、イングランドの幸福の大部分がほぼ千年にわたって依存してきた社会組織を崩壊させかねない課税制度が庶民院で可決されてしまった。バランスを覆した過剰なアイルランド票は、その結果に何の興味も持っていなかった、というのが衆目の一致するところである。
これ以上危険で、馬鹿げていて、屈辱的な状況を想像するのは難しいだろう。立憲政治に関するあらゆる合理的な概念によれば、立法者の目的は、代表制における知性、忠誠心、財産の影響力を強め、あらゆる変更において議会の性格を改善し、あるいは傷つけないようにすることである。しかし、そのような考え方が旧式で時代遅れとして捨てられ、単なる数の崇拝が蔓延して、国家の現実の利益がすべて完全に無視されることになったとしても、現在のアイルランド代表にはやはり、完全に弁解の余地がない。連合法で規定された100議席による主張は、ここ数年の立法によって粉砕された。アイルランド議会が「連合の不可欠かつ基本的な部分」としたアイルランド国教会を非国教化(*1869年)し、スコットランドとアイルランドの連合の両方で同等の厳粛さによって保証されたスコットランド国教会を非国教化すると脅す党派(*自由党)でさえ、そのような主張に乗ずることはできない。そして、アイルランドの最も進歩的で忠実な部分を代表する主要工業州の代表者が過剰なのではなく、不足していること、そして現在の制度の結果として、三つの州で財産、忠誠心、および知性が実質的に代表権を剥奪されていることを思うなら、その不合理はさらに明白なものになる。
アイルランド代表の削減と再整理が、政党の構造を大きく改善すること、アイルランドにとって大きな恩恵になることは疑いようがない。この削減が実施されるなら、アイルランドから奪われた議席がグレート・ブリテンに追加されることはなく、この機会を利用して、政治家たちが庶民院の議員数を少しでも減らすことを期待したい。
議会において社会のさまざまな階級や利益の代表を確保するために試みられた手段は、ほとんどすべて、民主主義の影響の下に消え去ったように思われる。不平等な選挙区、選挙権の制限、財産資格、財産の特別な代表権はすべて、時代精神に反するとして非難されている。また、議会政治の歴史の中で大きな役割を果たしてきた、直接的階級代表制は着実に衰退しているが、現代にも優れた擁護者がいる。1 しかしそれでも、世界史の未来において、それが大幅に復活する可能性は全くない、と私は考えている。明確に分離された階級間の政治権力の分配は、確かに政治哲学における最も古く、最も実りあるアイデアの一つである。それはアテネではソロン(*BC639―559)の時代以前から存在しており、ソロンはアテネ憲法の改訂において、市民をその財産の量に応じて四つの階級に分け、各階級に特定の税率を課し、各階級に国家における特定かつ固有の特権を与えた。2 共和政ローマでは、市民は財産の量に応じて六つの階級に分けられ、最下層は最も貧しい市民から成っていた。各階級は、国家における重要性に応じていくつかの「百人組(*century)」に細分化されていた。そして、各百人組は法律を制定し、行政官を選出する際の一票を持っていた。キケロは、この制度はあらゆる階級に一定の発言権を与えたが、国家の繁栄に最も関心を持つ人々の発言力が圧倒的に優勢だったと主張している。3 同様のアイデアから、貴族、聖職者、庶民の三つの身分の特別代表制度が生まれた。この制度は中世に発達しイングランド、フランス、スペインの初期の憲法史に大きな役割を果たした。スウェーデンでは、貴族、聖職者、市民、農民の四つの階級が1866年まで別々に代表者を出していた。同じ制度はフィンランド憲法にも今も残っている。1850年のプロイセン憲法では、「第一身分(*the first degree)」の選挙民を直接税の支払額に応じて三つの異なる階級に分け、各階級に個別かつ平等な選挙権を与える(*税収を三等分し、納税額の順に最初の三分の一を支払った納税者を第一階級、その次を第二、その次を第三とし、それぞれの階級が三分の一の議員を選出する。すなわち高額納税者ほど大きな選挙権を持つ。)ことで、階級間のバランスを保つ試みがなされている。さらに最近のオーストリア憲法では、選挙民は―大領地所有者、都市、商業団体、地方都市という―四つの大きな階級に分けられ、各階級が下院に議員を送り込んでいる。しかし、現在の政治的傾向の潮流がこの方向に流れていないことは明らかである。そしてドイツ帝国憲法を起草した立法者がプロイセンの例に倣わず、直接普通選挙に基づいて下院を設定したことは注目に値する。現在、階級の代表者は主に上院に見られる。
1 例えば、アドルフ・プリンス氏の注目すべき著書「自由の組織」(ブリュッセル、1895年)を参照。プリンス氏は次のように述べている。「幹部も組織も集団も持たない普通選挙が人為的な制度であることには異論の余地がない。それは政界の暗部でしかない。それは、私たちが視野に入れるべき唯一の真の政治的目標を達成するものではない。それは、すべての人に投票させることではなく、最大多数の利益を最大限に代表することである。…私たちは、代表者ではなくても投票する権利を持つことができる。これは、数的多数の体制下にある、すべての選挙の少数派の事実である。…現代の普通選挙は、何よりも情熱、無思慮な潮流、極端な政党の選挙である。それは穏健派の考えが入り込む余地を与えず、穏健派を潰してしまう。勝利は高貴な者のものである。利益の代表者が、アイデアによって情熱を抑制し、社会的因子の働きによって党派的熱意を和らげるなら、社会にさらなるバランスをもたらすことができるのである。」(186、187、201頁)
2 グロート(*ジョージ、1794―1871)著「歴史」3巻118―21頁を参照。
3 「このように、誰も投票権を拒否されることはなかった。彼らはこの時代のほとんどの期間を通じて投票することができた。彼らのほとんどは自国を諸国の中で最良の国にすることに関心があった。」(キケロ「共和国について」2巻22頁)この憲法はセルウィウス・トゥッリウス(*王政ローマ第6代の王、在位BC578―535)のものとされるが、その最も特徴的な性格を示すようになったのはおそらくずっと後になってからだろう。百人組の多数派を占め、最初に投票した(*最も豊かな)第一階級によって、それはしばらくの間、ひどく濫用された。
しかし、比例代表制、すなわち少数派の代表の問題は、階級の代表とは別の基盤を持っている。単なる多数派の代表を全国民の代表とすることは民主主義の原則に反する、という主張は到底不可能である。現行の制度下では、多数の有権者は、彼らが居住する選挙区において永遠に少数派であるため、事実上永遠に選挙権を剥奪され、代表されていないことは明らかである。多数派は単に優位性を持っているのみならず、独占権も持っているのである。そして、5分の3が一方に投票し、5分の2が他方に投票する選挙区では、代表権の全ては多数派の手に握られている。選挙区の規模に非常にばらつきがある場合、少数派の有権者が代表者の過半数を選出することは十分にあり得る。これは大規模な選挙区に住む少数派が、しばしば小規模な選挙区に住む多数派を上回ることがあるからである。(#例えば30人、30人、10人、10人、10人、10人の選挙区から10人の議員を選ぶ場合、48人の少数派が各選挙区で24票、24票、0票、0票、0票を投じれば、2つの大選挙区で6人を当選させて、多数派の議席を獲得できる)選挙区が均等になり、選挙権が大きく拡大されたなら、別の、しかし深刻なものでなくはない弊害が蔓延するだろう。単一の階級―つまり最も数が多いが、最も無知な階級―が、一般に他のすべての階級を凌駕し、他の階級の多くの選挙民はまったく代表されなくなる。このような状況において、少数派に何らかの代表権を与えることの重要性は極めて大きい。そして代表における党派の割合が有権者の割合と非常に大きく相違することは絶えず起こる。明らかに公正なのは、選挙民の3分の2が一つの党派に投票し、3分の1が他の党派に投票する場合、代表の3分の2を多数派が、3分の1を少数派が持つことである。
この問題の重要性は、ここ数年、多くの国で広く認識されてきた。特にミルがこの問題を力強く論じて以来、その重要性は高まっている。彼は書いた「本当に平等な民主主義では、あらゆる、すなわちいかなる階層も、非比例的ではなく、比例的に代表される。選挙民の多数派は常に代表者の多数派を占める。しかし選挙民の少数派は代表者の少数派を占める。一人一人を比較するなら、彼らは多数派と同じ程度に十分に代表されている。そうでなければ、それは平等な政府ではなく、不平等と特権の政府になる。…平等こそがその根本と基礎そのものである、と公言する民主主義の原則に反して。」1
1 ミル「議会政治について」133頁。
少数派の代表を多少なりとも完全に実現する方法はいくつかある。最も完全なのは、1859年にヘア(*トーマス、1806―1891)氏が最初に提案した方法である。ヘア氏やその弟子たちの手によって、いくつかのわずかな修正が加えられたが、ここでは最も単純な形でその原理を述べれば十分だろう。立法者はまず、議席を得るために必要な票数を確定しなければならない。これは、王国の、あるいは王国の一部の有権者数を議席数で割るという簡単な方法で行われる。自分の選挙区からであれ他の選挙区からであれ、この票数を獲得した候補者は、すべて当選する。各選挙人は1票を持ち、自分が当選させたい候補者を用紙の最初に、続けて優先する順に他の候補者の名前を書くことが提案されている。投票用紙が引かれた時点で、名簿の先頭の候補者がすでに必要票数を獲得していた場合、それはまだ票が足りていない後続の候補者の中の最初の候補者に渡される。どの候補者も、当選に必要な票数より多くの票を獲得することはなく、その余剰票は、このように別の候補者に移され、その候補者の定数を補う。そして、この移転は、彼らが立候補する地域にまったく無関係に行われる。
この手続きに非常に不思議な、あるいは困惑するような点があるとは、私は思わない。ただし、選挙人がそれに慣れるまでには、おそらく少し時間がかかるだろうし、それを実行する役人には、細かな点の困難や、かなり複雑な計算が強いられるだろう。票が向かう方向は、部分的に用紙が引かれる順序に左右されるため、偶然の要素は常に残るだろう。また、補欠選挙が現在のように続くなら、それをこの制度に適応させることは、おそらく不可能だろう。必要な数の票を獲得した候補者ですべての議席が埋められなかった場合、その数に最も近い候補者が空席を埋めるために選ばれるかもしれない。この計画は、まったく完璧なものとして提案されたわけではないが、現在の制度よりも、すべての総選挙で有権者の希望をはるかに正確に反映し、現在失われたり、無駄になったりしている大量の票を活用できると主張されている。それは選挙区で現在絶望的な少数派になっている大勢の人々の政治生命を再び活性化するだろう。選挙民のわずかな変化にしばしば伴う、完全に不均衡な権力交代を防ぐことによって、政治の動揺を減らすだろう。また、党幹部が著名な候補者を選ぶことに関心を持つようになり、そのような候補者にはるかに大きな成功のチャンスが与えられることによって、庶民院の知的レベルが大幅に向上するだろう。それによって地方の代表者が失われるだろうと言われてきた。しかし、通常は地方の強力な候補者が必要な票数を獲得する見込みが最も高いだろう、そして主に自分の選挙区で少数派であって、現在は事実上選挙権を奪われている有権者からの票が移動してくるだろうと反論されている。大多数の投票用紙では、地方の候補者がほぼ確実にリストのトップに立つだろう。この制度は、絶対的平等という民主主義の原則を他のどの制度よりも完璧に実現し、同時にすべての重要な少数派の代表者を確保すると主張されている。他のいかなる制度も、国民のさまざまな階級、利益、意見を適切な人数比によって、これほど真実に代表議会に反映させることはないだろう。
すでに述べたように、この制度にはいくつかの小さな修正が加えられてきた―しかし、大抵は改善ではなかったと私は思う。ジラルダン(*エミール・ド、1802―1881)氏は、すべての地方選挙区を廃止し、国全体を一つの大きな選挙区として扱うべきであると主張した。別の提案は、各候補者が、自分の選挙に必要な票数を超えた票を、あらかじめ指名した他の候補者に移す権利を持つべきだというものである。ヘア氏の制度を採用したとしても、運用に大きな困難はないだろうし、政体を大幅に改善するだろうと私は思う。しかし、民主主義の時代に、世論が少数派の代表を十分な粘り強さで要求するかどうか、あるいはブリテン国民を伝統的な形式や習慣からこれほど大きく逸脱した制度を採用するよう説得できるかどうかは、非常に疑わしい。しかし、ヘア氏のものに非常によく似たシステムが、ヘア氏の知らないうちに、1855年という早い時期にデンマークで小規模に採用されていたことは注目に値する。これは著名な政治家であり、また著名な数学者でもあったアンドレ(*カール・クリストファー・ゲオルク、1812―1893))のおかげであって、いくつかの修正と制限はあるものの、現在も継続している。1
1 比例代表制学会(パリ、1888年)発行の「比例代表制」338―66頁を参照。
少数派に代表権を与えるために、ヘア氏の案ほど完璧ではないものの、代表権に関する現在の概念からそれほど逸脱しない二つの方法が提案された。一つは三角選挙区制度である―3人の議員を選出する選挙区で各選挙人には2票しか与えられず、その結果、3分の1を超える少数派は1人の代表者を確保できる。この制度は、1854年にジョン・ラッセル卿によって提案されたが、好意的に受け入れられなかった。1867年に貴族院はケアンズ(*ヒュー・マッカルモント、1819―1885)卿の動議に基づいて、これを改革法案に導入し、法律化したが、議席の大幅な再配分は行われなかった。三角選挙区制度が一般化されていたなら、おそらくすぐに受け入れられ、すぐに当然のことと見なされただろう。しかし、適用されたのが13選挙区だけだったので、例外的なものであって、人気がなかった。バーミンガムと他の一、二の大きな町は、3人目の議員が加わることに憤慨した。(*議会において)党派的な分裂があった場合、その議員の票が、すでに擁する2人の代表のうちの1人の票に対抗し、その結果、町の政治力が強まるどころか、むしろ弱まる可能性があるからである。多数派が3分の2に等しいか、わずかに上回る場合、票数通りの権利を持つ3議席を保持するには、非常に困難で費用のかかる組織化が必要だった。バーミンガムの議員だったブライトは、この制度に執拗に反対した。急進派も概してこの制度に敵対的だった。この制度は1885年の改革法案で廃止され、選挙区の大部分が小さな1人区に分割された。このような細分化によって少数派のチャンスが大きくなると主張されたが、アイルランドの例を見れば、この保証がほとんど当てにならないことがわかる。1 このような議席の採用は、少数派を代表するいかなる一般的な制度の確立をも大いに困難にした。
1 この問題に関しては、オーブリー・デ・ヴェア氏(*1814―1902、詩人、批評家)による素晴らしいパンフレット「アイルランドと比例代表制」(1885年)を参照。
このエピソードについて、ヘア氏は「代表機関を包括的で排他的ではないものにするための取り組みを逆行させる試みはすべて、自由党員が始めたものであるというのは最も注目すべきことである」と書いている。「自由党は、人や場所による不平等をなくし、政治的自由の平等を主張していると理解されている。制限投票の廃止(*選挙権の拡大)は、投票権の擁護を装って提案されたが、全てのコミュニティの選挙の力を多数派に委ねることによって、実質的に選挙人の3分の1、あるいはそれ以上の投票権を剥奪することになるだろう。(#ヘア氏は優先順位をつけた複数投票を提唱している)」1
1 ヘア著「代議員選挙について」第4版、14頁。
もう一つの制度は累積投票である。この制度では、3人以上の議員を選出する選挙区で、各選挙人は議員と同じ数の投票権を持ち、それを配分することも、あるいは望むなら1人の候補者に集中させることもできる。この方法は制限を課すのではなく、特権を与えることになるため、限定投票よりも人気が出る可能性が高い。そして、かなりの少数派が議員を選出できるようにするには間違いなく効果的だろう。この制度は 1867年にロー氏によって強く提唱されたが失敗に終わり、1870年に教育委員会選挙に導入された。その運用にはさまざまな不平等や異常が指摘されてきた。しかし全体として、少数派に真の代表権を与えるには間違いなく効果的である。しかし、この制度が実際に役立つのは、2人区以上のみであることは明らかである。
こうしたさまざまな方法は、全体として、かつての代表制度の下で、大まかではあるが体系的ではない方法で達成されていた目標を達成しようとする試みである。他のさまざまな工夫も提案されてきたが、目下採用される見込みはない。おそらく唯一の例外は、選挙人が少なくとも読み書きができることを必要とする、低い教育資格である。このような資格はミルによって強く推奨され、いくつかの民主的憲法に取り入れられている。これは1795年のフランス革命憲法に初めて導入されたが、その後のフランス憲法には再現されなかった。しかし、ポルトガル、イタリア、ルーマニア、および南アメリカのいくつかの共和国には存在している。1 複数投票制を採用した最も間近、かつ最も広範な例は、ベルギーの新憲法である。選挙人は3つのクラスに分けられる。1年間一つの選挙区に居住した25歳以上の男性全員に1票が与えられる。35歳以上の既婚男性および未亡人で、家族を持ち、居住する建物に対して5フランの個人税を国に納めている者、および一定量以上の財産を所有している者には、さらに1票が与えられる。一方、高等教育を受けた者、公職に就いた者、あるいは学識のある職業に就いている者で構成される、より小規模な第3の階級には、3票が与えられる。この非常に民主的な憲法では、他の現代の憲法には存在しないであろう強制事項がある。裁判官によってそれを特別に免除されていないすべての有権者は、投票を強制され、棄権した場合は罰金が科せられるのである。
極めて民主的な憲法に組み込まれたベルギーの複数投票制度の価値や永続性について、決定的な意見を述べるのは時期尚早である。それは、ミルのお気に入りのアイデアの一つをある程度実行しようとする試みとして、イングランドの観察者にとって特に興味深い。
1 「国際的法律レビュー」24巻97頁
税金について投票する権利と、その支払い義務を切り離すことの危険と不正義、そして無制限の普通選挙は明らかに、急速にこうした形の強奪を招くという事実に、ミルは無関心ではなかった。彼は普通選挙を教育制度として最高度に評価しており、教育という目的のためには、社会の最も無能な階級に帝国の重要な利益を決定し、産業を規制し、隣人の財産を処分する巨大な権力を与えることに全く抵抗がなかった。彼は、二つの方法で危険を軽減あるいは回避できると考えていた。一つは、直接税を最下層階級にまで拡大し、社会の成人全員に人頭税という形で少額の年間税を課すことである。この直接税を国の総支出に応じて増減させることができれば、すべての選挙民が賢明で経済的な行政に直接の関心を持つようになると彼は信じていた。貧困者や破産者、税金を払っていない者は、選挙権から除外することになっていた。普通選挙制度のもとで不確実な選挙に勝ちたいと願う急進派の大蔵大臣の最初の法案はこの人頭税の廃止になるだろう、と言うのは気の早いことだろうか。
もう一つの方法は、複数投票を大幅に拡大することだった。ミルによれば、すべての男性とすべての女性は投票権を持っているべきだが、階級立法の大きな危険性と政治的知性の低すぎる水準を是正するために、大勢の人々を複数投票で強化するべきである。労働者の雇用主、職長、より熟練した職業の労働者、銀行家、商人、製造業者にはすべて、2票以上を与えて良いだろう。自由業の従事者、大学の卒業生、別種の公開試験に合格した人々には同様、あるいはそれ以上の優遇措置を与えて良いだろう。異なる選挙区に財産を所有する人々がそれぞれにおいて投票権を持つという古い制度は、不完全なものではあるが、大幅に拡大し、維持するべきである。「選挙権の金銭的条件を大幅に引き下げる将来の改革法案では、大学卒業生全員、高等学校の優秀な卒業生全員、自由業の従事者全員、そしておそらくその他の何らかの人々を、こうした人物として具体的に登録し、彼らが自ら登録を選択した選挙区での投票と、居住地の一般市民としての投票を認める規定を設けるのは賢明なことだろう。」1
1 ミル「議会政治について」165―71頁。
これらの見解が、一人一票というスローガンを掲げ、帝国の財産と自由を最も貧しく無知な人々の完全な支配下に置こうとする努力に着実に成功しつつある、現代のイングランド急進主義の支配的傾向と全く相容れないことは明らかである。1867年の改革法案を最初に提出した時、ディズレーリはミルが提唱した精神に非常に近いいくつかの資格を導入しようとした。財産の所有や保有に関連する選挙権を大幅に拡大および緩和する一方で、彼は別種の投票権を与えることを提案した。それは大学の卒業生全員、連合王国の大学のシニア中等教育試験に合格した男性全員、国教会の司祭と執事全員、他の宗派の聖職者全員、法廷弁護士、弁護人、法定代理人、医師、あるいは免状を持つ男性教員全員といった、教育ゆえの選挙権である。また過去2年間に貯蓄銀行、イングランド銀行、あるいは議会の金銭的利益登録簿に五十ポンド以上の残高があるか、財産税あるいは所得税として二十シリングを支払ったすべての男性に与えられる金銭ゆえの選挙権である。また、自治区内の有権者が二つの異なる資格で登録し、その結果二重投票が可能になる条項もあった。
これらの選挙権制度は、有権者の知性、教育、財産、倹約志向を強化することで、単なる数の優位を修正することを意図していた。しかし、そのような試みはすべてグラッドストン氏とその支持者によって反対された。そしてその立案者は新しい選挙権制度を簡単に放棄してしまった。それらは通常、「空想的選挙権」として非難され、嘲笑された―これはイングランド政治において、あまり機知に富んでおらず、あまり説明にもならないニックネームが真剣な議論に取って代わる奇妙な例である。
選挙母体の改善に向けられたこうした努力は、現在では敬意とともに耳を傾けられる可能性すら低い。しかし、それが永遠に消え去ったかどうかは別の問題である。私たちの議会制度を蝕んでいる現在の弊害がさらに深刻化し、民主的議会がますます小グループに分裂し、ますます派閥や利害関係者の動機に支配され、国の仕事を名誉と効率と安全とともに遂行する能力が失われたことが明らかになったとき、権力と財産を切り離し、少数者の財産を課税によって無制限に没収する権利を多数者に与えるのは、国家の繁栄と個人の幸福にとって大きな危険であることを世論がより完全に理解したとき、政府の大幅な再構築が求められることは間違いない。五十年後、あるいは二十五年後のイングランドの政治世論は、現代の政治的傾向が私たちの父世代のものと違っているのと同じくらい、現代のものとは違っているかもしれない。今では軽蔑されて退けられている便法や議論が復活して、将来の政治に少なからぬ役割を果たすかもしれない。
イングランド世論にとってまったく新しい、ある大きな憲法改正の可能性が、ここ数年で驚くほど急速に注目を集めている。そして、おそらく今後大きな影響力を持つことになるだろう。スイスの住民投票のことである。ルソーは「社会契約論」の中で、すべての法律は男子普通選挙の投票にかけられるべきであって、その直接の承認のない法律は拘束力を持たないと主張した。彼の政治哲学の他の部分と同様に、この点でも彼はスイスでの経験に大きく影響を受けた可能性がある。というのも、彼の時代には、スイスの市町村と州の両方において、ランツゲマインデとして知られる古い政府の形が広く存在していたからである。ランツゲマインデでは、成人男性全員が年に二回集まって、普通選挙によって法律に投票し、役人を選出する。これは人類の初期の歴史において大きな役割を果たしてきた政府の形であるが、広大な地域や大規模な人口には明らかに不向きである。今世紀にはツークとシュヴィーツでは廃止されたが、ウーリ、ウンターヴァルデン、アッペンツェル、グラールスにはまだ残っている。1793年のフランス国民公会は、選挙民の一定割合が望む場合にはすべての法律について一般投票を行うという条項を憲法に導入することで、ルソーの理論を実践しようとした。この憲法は結局施行されなかったが、すでに述べた通り、同じ理論は、いくつかの政権交代を直接承認する国民投票という形である程度実行された。
スイスでは、ランツゲマインデから発展したと思われる、住民投票が行われている。1830年のフランス革命後、それはスイス政府における定期的かつ恒久的な要素になって、近年では大幅に拡大されている。住民投票は、議会政治に代わるものではなく、立法府ですでに可決された法案について、直接投票によって有権者に拒否権あるいは批准権を与える最終的な上訴裁判を意図したものである。それは長年、個々の州に限定されたものであって、さまざまな形をとってきた。時には、新しい税や州憲法の改正に限定されていた。いくつかの州では、それは主に任意のものであって、一定数の有権者が要求した場合にのみ行われる。他の州では、強制的なものであって、代表機関で可決されたすべての法律は有効性を得るために直接の一般投票に付さなければならないことが憲法に規定されている。現在、すべての州で、州憲法を改正するあらゆる提案について住民投票が義務付けられている。多くの州では、その範囲と人口に応じて異なる一定の額を超える公金の支出について住民投票が義務付けられている。現在、それを憲法改正時に限定している唯一の州は、カトリックのフリブール州である。
1848年の憲法によって、連邦制度に住民投票が導入されたが、それは憲法改正にのみ適用されるものだった。連邦議会による憲法のあらゆる変更には、直接一般投票による承認が必要とされた。しかし、1874年の憲法は住民投票の権限を大幅に拡大した。緊急性のないすべての連邦公告および一般的な連邦法は、三万人の有権者あるいは八つの州の要求に基づいて住民投票に付されるものと規定されたのである。この憲法には、憲法改正の問題に関して国民に発議権と承認権を与えるという注目すべき規定も盛り込まれた。十万人の有権者が要求した場合、憲法を改正すべきかどうかについて国民投票を行わなければならない。そして、改正が賛成を受けた場合には、その作業のために二つの連邦参事会が再編成される。1891年に実施された憲法改正は、さらに進んだものだった。この法律は五万人の有権者にヘルヴェティア憲法への新しい条項の導入、あるいはその古い条項の廃止や修正を直接決定できる一般投票権を与えた。1 これらすべての方法を通じて、国民は自らの法律の規定あるいは作成に直接介入する。そして代表機関の権限はそれだけ縮小される。一般投票に立法のイニシアチブを与えるという同様の傾向は、いくつかの州で個別に現れている。
1 ダレステ「現代の憲法」2巻658頁。
ラブレは、この権力の使用法の興味深い事例を集めている。1 全体として、連邦全体に及ぶ一般投票の場合には、提出された法案は承認されるより、却下されることが多い。それが最も強く示す傾向は、多額の支出への嫌悪、中央集権への嫌悪、乱暴な革新への嫌悪である。住民投票は、連邦法よりも州法について、より頻繁に行われている。1874年の憲法制定から1891年7月までの間に、連邦議会を通過した法律は約130件だった。これらの法律のうち、憲法の修正を除けば、一般投票にかけられたのはわずか16件であって、そのうち11件が却下された。一般投票が受けた主な非難は、それが公務員に十分な給与を支払わないこと、特に農民には容易に理解できない利益のための公共事業への支出を非常に惜しむことだった。全体として、この法律は明らかに保守的なものだったが、いくつかの例外もあった。この法律は、スイスのいくつかの州で実施されている厳格な累進課税を承認した。しかし、ヌーシャテルでは州議会で承認された累進課税制度が住民投票で否決された。さらに最近ではベルン州でも同じことが起きている。2 1879年に行われた注目すべき投票では、1874年の憲法が各州から剥奪した、死刑制度を刑法に導入する権限が復活した。最近のやや奇妙な投票は、ユダヤ人に律法に定められた方法で牛を殺すことを禁じた。これはおそらく、反ユダヤ感情と動物に対する慈悲のような感情が、非常に不均等な割合ではあるが、混ざり合ったものだろう。
1 ラブレ「民主主義における政府」2巻146―70頁。また、オーバーホルツァー(*エリス・パクストン、1868―1936、歴史作家)著「アメリカにおける国民投票」10―14頁のスイス国民投票に関する章も参照。
2 1892年に外務省に提出されたスイスの累進課税に関する報告書、15頁を参照。この報告書の著者であるブキャナン氏は、この州で「前回の州議会で急進派が可決した最も重要な法案が否決されたのと同じ日に、圧倒的得票で彼らは政権に復帰した。」という注目すべき事実に言及している。これは、住民投票がいかにはっきりと党派的問題から距離を保つことができるかを示している。
スイスにおける住民投票の人気は、その対象範囲が急速に拡大されたことからも明らかである。アメリカにも同様の非常に注目すべき動きがある。州の政治において、代表機関による立法を、住民による直接立法に置き換える傾向が強くなっている。州政府のあらゆる変更は、現在、その明確な目的のために招集された会議によって行われる。そして、この会議で決定された改正は、直接一般投票によって承認されなければならない。したがって、この点において米国の州憲法は、スイスの州政府とまったく同じ基盤を持っている。そして、同じシステムがさまざまな形の市町村や郡の自治体に広く拡大されている。多くの州憲法では、州都の変更は一般投票によってのみ可能であると規定されており、一、二の憲法では、同じ制限が大きな地方機関の移転に適用されている。多くの場合、私がすでに指摘したような州議会の極度の腐敗ゆえに、人々は州憲法に、議会の課税や負債の権限を厳しく制限し、定められた限度を超えるすべての支出を直接一般投票に委ねることを義務付ける条項を導入するに至った。
しかし、これは現在、直接住民投票によって行われる立法のほんの一部に過ぎない。州憲法の改正を目的として召集された会議は、その権限を最大限に解釈してきた。会議は憲法の根本的な改正のみならず、立法のあらゆる重要なテーマに関する規則を定め、それらのテーマを州議会の権限から全面的、部分的に除外したのである。そして、この会議が作ったすべての法律が有効になるためには、直接一般投票による承認が必要である。
この運動はイングランドではほとんど知られていない。私はすでに別のところでこの運動に触れたが、重要なのでもう一度触れる価値がある。イングランドでは現在、多くの政治家が、小規模な民主的地方議会を増やすことが民主主義の真の開花であって完成であると説いている。アメリカでは、このような議会はほぼ例外なく党員集会、黒幕、職業政治家の手に落ち、不正と腐敗の中心になる、というのが最も明確に証明された事実である。近年、最良のアメリカの政治家の主な仕事の一つは、立法の大部分を彼らの影響力から徐々に引き離し、特定の目的のために特別に選出され、特定の法律を可決する権限を与えられた議員団に委ね、一般投票で直接の批准を受けるようにすることである。ここで私ができるのは、最近この問題を最も十分な知識とともに詳細に扱ったアメリカの論者の言葉を長々と引用することくらいである。オーバーホルツァー氏は書いている「近年、会議に憲法草案を提出する際に、国民が別途検討(#して一般投票)するための特別条項あるいは部分条項を提出することが非常に一般的になった。これらは国民の感情を大いに高ぶらせる可能性のあるテーマに関係している。…奴隷制度、女性参政権、酒類取引の禁止、州都の所在地といったテーマがそのように扱われた。…近年、州憲法に関する私たちの考え方、およびそれにどのような事項を含めるのが適切かということについての私たちの概念に急激な変化があった。当初、その概念は、憲法がそうであるべきであるように、政府の原理を述べたものだった。…しかし、現在では、非常に異なる憲法の基準が導入されている。そして国内のあらゆる州に同じ傾向が見られる。今日、私たちの州憲法は、一般市民のほぼすべての関心事について、議会と他の政府機関に指示を与える法令集にほかならない。また地方の問題について実際に立法化しないまでも、立法化に用いる方法をしばしば告げるようになって来ている。…憲法は、以前は議会が制定していた法律の多くの保管場所になった。」1
1 オーバーホルツァー「アメリカにおける国民投票」38―44頁(フィラデルフィア、1893年)。
次にこの論者は、州憲法が会議によって改正されて、現在では50から75頁のパンフレットになっていることを示している。それには教育、課税、支出、地方行政に関するほぼすべての事項、鉄道、民兵、酒類販売、刑務所および矯正施設の組織と規則、宝くじ、賞金付きボクシング、決闘の禁止、法定労働時間の確立、さらには夫婦関係、債務者と債権者の関係の定義までが含まれている。
これらの問題はすべて州議会の管轄外となり、国民の直接投票で批准される会議で扱われる。筆者は続ける「実際、新しい憲法の概念によれば、会議で扱えない立法の対象はほとんどない。この新しい概念の性質を考慮して初めて、アメリカを例として取り上げた国民投票は、今日スイスに存在する制度に最も近いものであることが分かる。」
「憲法を法典化し、州議会の権限をさまざまな方法で制限するこの運動と並行して、これらの機関のほぼ完全な廃止に直接つながる運動が成長してきた。過去数年間の発展により、ほとんどすべての州で、議会は毎年の立法会議を二年に一回に減らした。これらの現在半分の頻度でしか開催されていない会議は、一定の日数を超えて延長することはできないというさらなる制限を受けている。…毎年の会議を続けている州―たとえばニューヨーク州やニュージャージー州―では、常に不満の原因が見つかっている。そして、これらの機関に対する不信感は年々人々の心に深く刻まれている。実際に、議会の権限をさらに制限すべきであるという確信がほぼ至るところで生まれている。そして元の原則に戻る意向を示しているのは一州―ジョージア―だけである。」
「憲法の性格の変化に伴って、必然的に憲法改正の性格も変化した。近年、制定法はますますこうした改正に偽装して、国民投票にかけられるようになった。このことの最もよい証拠は、酒類の製造と取引を禁止する改正の頻繁さである。これは憲法で取り扱うのが適切なものについての当初の考え方からはかけ離れた問題である。こうした投票は1880年11月2日のカンザス州で始まって、1889年10月7日のコネチカット州で終わるまで、9年間に19回行われた。」1
1 オーバーホルツァー著「アメリカにおける国民投票」45―46頁。また、ブライス氏の「アメリカ連邦」67―82頁の「人民による直接立法」の章も参照。
こうした文章はイングランドではまだほとんど知られていない。しかし将来、おそらく政府の形成に大きく貢献することになるであろう民主主義の特定の傾向を示している点において、私はそれらを非常に重要なものと考えている。私はアメリカ合衆国のさまざまな州で、課税や公債に関する州法、州の境界や、管轄権、あるいは地方自治体の配置の変更、あるいは選挙権、代表制度、あるいは酒類法が、スイスの国民投票と同じ性格の直接国民投票によって決定された多くの事例の詳細な証拠として、私が引用した興味深い著作を読者に紹介しなければならない。この制度はアメリカでは完全に1850年以降に発生したようである。1 そして急速に国民の支持を集めてきた。それは法廷において、多くの、時には矛盾する判決の対象になってきた。しかし大多数の州では、確固とした法的根拠を獲得し、州政府の性格全体を変革しつつある。
1 オーバーホルツァー、105頁。
国民投票が、今や、目下の政争や当面の党派的利益を超えて物事を見ることのできる政治思想家たちの真剣な関心を集め始めていることは、驚くには当たらない。ラブレは国民投票に多大な注意を払っており、1 ベルギーでは最近の憲法の民主的改正の際に大いに議論された。この大きな突然の変化から生じるかもしれない危険の予防策として、国王は議会を通過した法案を、国民投票という形で直接一般投票にかける権限を持つべきである、という提案があった。この提案は(残念ながら)否決されたが、国民投票の人気が高まっていることを示す小さな兆候がいくつかあった。ベルギーでは、地方自治体の問題で住民投票が何度も実施されている。イングランドで税金で賄われる無料図書館をあらゆる自治区に設置するために必要な投票や、多くの禁酒改革者によって熱心に提唱され、成長中の政党がさまざまな職業の労働時間に適用したいと望んでいる地方選択権は、このカテゴリーに属する。国民投票は現在、オーストラリアの労働党、およびヨーロッパのほとんどの社会主義者の綱領において重要な位置を占めている。しかし国の憲法への国民投票の組み込みについては近年、数人の非常に異なる意見の唱道者が出現し、ダイシー(*アルバート、ヴェン、1835―1922、憲法学者)教授の優れた筆と偉大な権威によって支持されてきた。2
1 ラブレ「民主主義における政府」2巻169―70頁。
2 このテーマについては、1890年4月の「コンテンポラリー・レビュー」に掲載されたダイシー教授の素晴らしい記事を参照。このテーマは1894年2月、3月、4月の「ナショナル・レビュー」でも巧みに論じられている。
これは確かに真剣に検討する価値のある問題である。もしそのようなシステムが機能することができるなら、帝国に重大な災難をもたらす恐れのある民主主義の弊害を、極めて民主的な方法で正すために役立つことはほぼ確実だろう。それはアメリカやほぼすべての大陸諸国に存在するのみならず、最も厳格な規定によって維持され強化されている憲法的問題と通常の立法との区別をイングランドにもたらすことを可能にするだろう。憲法のさまざまな要素の力のバランスがまだ損なわれていなかった時代、階級と財産の強力に組織された保守的な影響力が、革命的な変化に対して克服できない壁として立ちはだかっていた時代には、そのような区別を省略しても危険はなかったかもしれない。物事を真剣に考える人物なら誰しも、今日の情勢において、憲法の重要な要素を単一の議会のシンプルな多数派に委ねることの大きな危険性に気づかないはずはない。その多数派は、おそらく党派的な目的のために集まった異質で不調和な派閥の連合体であって、ミュージックホールを規制したり海鳥の卵を保護したりする法案を可決するのに必要な多数派よりも大きいものではないだろう。
国民投票は、その第一の、そして最も普遍的な適用において、国民の直接かつ慎重な同意のない憲法改正を不可能にすることによって、この弊害を防ぐことを目的としている。また国民投票には、一つの大きな問題を、それに混在している可能性のある数多くの小さな問題から切り離して、解きほぐすという大きな利点もある。混乱した問題や入り混じった問題は、現代の最も重大な政治的危険の一つである。革命的かつ略奪的な措置は、その提案者がそれを有権者のさまざまな層に訴える他の数多くの法案と組み合わせて多数派を獲得することで施行される可能性の方が、それ自体の利点ゆえに施行される可能性よりもはるかに高いのである。グループの増加に伴って、この弊害は常に増大しており、多くの危険な政治家たちは主にこの方向に向かって働いているのである。庶民院では、議員がその利点について自らの確信に基づいて投票できた場合、紙で(*秘密)投票できた場合、もし彼らが内閣を倒したり、内閣の綱領の下位にあるまったく別の法案を危険にさらしたりすることなく、自分たちが最善だと思うように投票できたなら、決して通過する可能性がなかっただろう法案が、しばしば通過することがある。同じ種類の、一つの大きな法案に賛成か反対かということとはまったく別の動機が、有権者の投票を左右し、政党や立法の行方を大きく左右してしまう。重大な問題が有権者自身の価値に基づいて、直接的でシンプルな問題として決定できるようになれば、イングランドの政治にとって大きな利益になるだろう。国が革命に向かっているのなら、国は少なくとも目を見開いて、明確で思慮深い意図を持ってそのようにするべきである。
おそらく、そのような投票は、暴力的で不正な変更に対する最も強力な防壁になるだろう。それは、社会の大きな沈黙した階級の意見を行動に移し、政党の連合や騒々しい扇動によって完全に人工的な重みを与えられた数多くの運動を、本来の規模にまで縮小するだろう。それは、今ではほとんど消滅しかけている古来のバランスのとれた憲法を別の形でいくらか復活させるかもしれない。庶民院の専制を抑制し、大きな変更を人々の裁定に委ねるという貴族院の極めて重要な機能は、現在では滅多に行使されず、激しく攻撃されている。国家にとって重大な問題で庶民院と意見が異なる場合、もし貴族院がその問題を有権者の直接投票に付託する権限を持っていたなら、あるいは持っていて行使するなら、どんなに巧みなデマゴーグでも、貴族院が人々の権利を踏みにじっていると人々を説得するのは困難だろう。もしスイスのように、国民投票を主張する権限が多数の有権者の手に委ねられたとしても、それは依然として最も重要な均衡と抑制力を作り出すだろう。
これによって、一つの重要な法案が、それと関連している多数の小さな法案から解放されるのみならず、政党の支配から解放され、有権者の真の願いを代表する可能性が大幅に高まると主張されている。これにより、国民は、支持する内閣を崩壊させることなく、気に入らない法案を却下することができる。投票は政府の一般的政策について行われるのではなく、一つの法案の利点についてのみ行われるのであって、庶民院における内閣の多数派は変わらない。このようにして有権者の前に持ち込まれた法案は、他の多数の法案と混ざり合って党派的問題と不可分に結びついた状態で有権者の前に持ち出された場合よりも、はるかに十分な考慮と、はるかに真剣な責任感とともに投票されることを誰も疑わないだろう。総選挙では、大多数の票が政党、あるいは政治家に投じられる。そして真の問題は、どちら側が国を統治すべきかということである。国民投票の場合には、有権者は人に対してではなく、法案に対して熟慮の上の意見を表明することができる。そして、政権交代なしに、法案を拒否することができるのである。
よく言われるように、そのような大衆の意見にほとんど価値がない問題は多い。私はこれに同意することに何の抵抗もない。17世紀の寛容法、18世紀の魔女の死刑廃止、19世紀のカトリック解放、あるいはその他の列挙される措置の大群がもし一般投票にかけられていたなら、本当に承認されていたかどうかは非常に疑わしい。しかし、今となっては、そのような議論は遅すぎる。民主主義は戴冠されて王になった。大衆の声は最終的な上訴裁判所である。かつて国会議員について主張されていた独立的な判断の権利は、今やほぼ完全に放棄されている。有権者が政策を判断する場合、はっきりした明瞭な問題について判断するなら、間違いを犯す可能性は確実に低くなる。そのような場合、有権者は党派の黒幕の指図ではなく、独立的に行動する可能性が最も高い。また、国民投票は議会政治の代替を意図したものではないことも忘れてはならない。議会討論の利点はすべてそのまま残る。政策は雑で未消化な未熟な状態で有権者の前に投げ出されることはない。すべての法案は依然として議会を通過し、大多数は最終的に議会で決定される。法案があらゆる方面から徹底的に議論され、両院が判断を下した後で国民が裁定を下すのは、ごく少数のケースに過ぎない。国民投票は、おそらく意見の合わないグループの集まりである議会の多数派による、国民の真の意見への訴えになる。それは徹底的に検討されて、国民が既に結論に達している問題についての訴えになる。それは、立法府において両院の意見が相反する問題に、明確で決定的な判決を下すのである。
国民投票に反対する論者は、両院の相違の多くは原理の違いではなく、細部の違いであると主張している。議案は両党両院が合意している一般的な政策に基づいて議会に提出されるが、副次的な部分の一つの条項、あるいは修正によって、和解できない相違点が生じるのである。一般投票は、議案の保持すべき部分と拒否すべき部分の区別にはまったく適さない手段であると言われてきた。しかし、私はこの議論にあまり重みがあると思わない。細部に関するすべての議論がなされた後、議案が法律になるには、第三読会を通過し、一回の投票で全体として承認あるいは否認されなければならない。国民投票制度が提案しているのは、法律として制定される前にもう一つのステップを必要とすることだけである。貴族院が、庶民院が一度以上採択した議案にどうしても反対したい場合でも、議案は直接の一般投票で批准されるまでは法律にならないという条項が追加されていれば、それを通過させられるかもしれない。両院が議案の一般的な利点については同意しているものの、ある条項について和解できないほど意見が分かれている場合、両院は議案を完全に否決するのではなく、類似した条項を追加することによって、どちらか一方の形でその通過に合意できるだろう。このシンプルな方法で国民投票を実施できるのではないだろうか。そして、既存の有権者への訴えとして、克服できないような機械的困難は生じないだろう。
もう一つの反対意見は、国民投票には、現在事実上帝国の最高立法機関である庶民院の権威を低下させる効果があるというものである。これは疑いなく真実であって、それが国民投票の大きな利点の一つになるというのが私自身の考えである。バーリー(*ウィリアム・セシル、1520―1598)の古い格言、「イングランドを破滅させられるのは議会だけである」が、現在ほど真実であったことはない。そして、我が国のもののような単一の代表機関の、統制されていない、バランスを欠いた権力は、帝国にとって最も重大な危険の一つであるように私には思える。私たちの時代には、私たちは主に民主主義に解決策を求めなければならない。現在有力な理論によれば、庶民院は選挙民に対して全く権利を持っておらず、国民投票は、現在よりもはるかに効率的な方法で、立法における最高権威を選挙民に移譲することになる。もし庶民院が、これまでの四半世紀と同じように、今後四半世紀の間に急速に信用失墜の道を歩むとしたら、この意見に同調する声は多くは聞かれないだろう。
前述の議論は、少なくとも国民投票が軽々しく却下できる問題ではないことを示しているように私には思える。国民投票は、取り除くのが非常に難しい、大きく増大する悪に対する治療法を提供する可能性があり、その時代の民主主義精神に完全に合致した方法でそれを提供するだろう。これ以上は、敢えて述べない。イングランドの古来の考え方から大きく逸脱した計画をうまく実行し、それに伴うかもしれない弊害を予見し、それを防ぐには、多くの人々の経験と議論が必要になるだろう。明らかに、そのようなシステムは我が国のような人口密集国に適用するより、スイスのような小さくまばらな人口に適用する方がはるかに容易である。また、イングランドでは政党による支配が長らく優勢だったため、国民投票によって帝国から問題が完全に取り除かれる可能性は低い。投票は、しばしば偉大な名前の魅惑の下で行われることがある。その結果は政党の勝利とみなされ、きわめて重要な法案を否決された内閣が政権を維持することがある、とブリテン国民を説得するのは当分の間、容易ではないだろう。しかし、スイスとアメリカの経験は、国民投票が国に定着すれば、政治的な問題が計り知れないほどに黒幕の手から離れ、政権交代や党勢の変化なしに、おそらく完全にではないにせよ、主にその価値に基づいて決定できることを示している。
両院から生じる困難に直面することは間違いないだろう。庶民院は当然、その権力のいかなる部分も、その主人(*である大衆)にさえも、譲り渡すことを嫌うだろう。現在のような構成の貴族院は多くの階層から非常に疑念を持たれている。そして、彼らは貴族院の権力の増大につながる可能性のある法案には反対するだろう。たとえその増大が完全に最も極端な形の民主主義との結びつきから生じたものだったとしてもである。貴族院の改革という重大かつ差し迫った問題は、おそらく国民投票の採用より先に解決されなければならないだろう。
イングランドのような国では、国民投票が立法の常套手段には決してならないというのも、私には明らかなことのように思われる。国民投票が恒常的に行われるのは耐え難い迷惑である。国民投票は対外政治にはまったく不適当であって、国内政治では稀で重大な場合にのみ行われるべきである。国民投票は、国家の権力の配置を変える憲法上の問題に限定されるべきであり、おそらく、両院が一会期以上意見を異にした重要な問題も追加されるべきだろう。
こうした制限を設けるなら、それは私には非常に有望に思えるし、政治思想家たちがこの問題について心を広く保ってくれることを期待する。今後かなりの期間、すべての問題は最大数の人々の判断に委ねられることになりそうである。政治家たちはその事実を受け入れ、危険をできるだけ小さくするよう努めなければならない。当代の最も有能で成功した政治家の中には、選挙資格を非常に低くすることによって、奇抜な考えや実験、粗野なユートピアや習慣的な不穏が蔓延している領域を突き抜け、その下の、国民の強く定着した習慣、永続的な傾向、深い保守的本能に到達できるだろうという意見を持つ人がいた。ルイ・ナポレオンとビーコンズフィールド卿(*ディズレーリ)の両者にそのような考えがあったことは明らかである。それはおそらく普通選挙を基本とするドイツ憲法を制定した偉大な政治家(*オットー・フォン・ビスマルク、1815―1898、ドイツ帝国初代首相)に大きな影響を与えたのだろう。それがどの程度真実であるかについてはここでは議論しない。おそらく、近年のイングランド政治の転換によって、それを信じる人々の数はかなり増えたと思われる。少なくとも私には、人々の意見は扇動者や職業的政治家の影響を受けない、直接的な問題に関する素朴な意見であれば、最も危険が少ないであろうことは確かと思える。その傾向が極端な保守主義に向かう可能性は大いにある。しかし、振り子は非常に長い間、反対方向に激しく振れてきたため、一時停止の期間は、あるいは反動的な期間でさえも、悪いものではないかもしれない。
こうした考察を読者がどの程度歓迎されるかは、憲法の現状に対する見方に大きく左右されるだろう。現在の議会政治がしっかりと確立され、うまく機能し、今後も存続するだろうとお考えなら、権力の中心を根本的に変えるようないかなる変化にも当然反対されるだろう。ブリテン憲法の最も重要な要素のいくつかが致命的に弱体化し、我が国の政治システムが崩壊、変容、劣化の危険な過程にあるとお考えなら、それが国民の習慣や伝統からかけ離れていたとしても、可能な解決策にもっと好意的に目を向けられることだろう。
衰退しつつある議会制度の弊害をある程度緩和できるもう一つの方法は、委員会の権限を拡大することである。大規模な集会で多くの業務を直接かつ効率的に遂行できる唯一の方法は、政党の厳格な組織化である。これによって、すべての着手と指揮が少数の有能な手に委ねられる。しかし、最良の組織化の下でも、大規模な集会は細部の調査には適さず、議会と政党の規律が崩れると、その無能さが非常に明白になる。米国では、よく知られている通り、議会における立法はほぼ完全に委員会の手に委ねられている。下院の50から60の委員会と、上院のやや少数の委員会が、各議会の初めに任命される。各委員会は通常、約11人の委員で構成される。任期は2年間で、提出された法案を縮小、変更、あるいは延長する無制限の権限が委ねられている。委員会は議場での議論を経た法案を受け取るわけではない。第一読会と第二読会は当然のこととして通過する。そして法案を十分に検討し、明確な形を与えるのは委員会である。そこでの審議は通常秘密で、大抵は報告されない。法案の大部分は、長期間の後回しや好意的でない報告によって委員会で阻止される。好意的な報告を受けた法案は議会の承認を得る必要があるが、通常、最も短く、最も大雑把にしか議論されない。ほとんどの場合、法案の作成は実際には議場でなく、これらの小さな委任機関で行われているのである。ブライス氏はそのプロセスを詳細に説明し、「下院は立法議会というより、委員会が選出される巨大なパネルになっている」と述べている。1
1 ブライス氏の著書が出版されて以来、アメリカにおける弁論術の衰退について論じるアメリカの政治家は次のように述べている。「立法機関において一般的なものになった、業務遂行方法の変化も考慮に入れなければならない。立法は議会全体ではなく委員会で行われるのが今日の主流である。現在、立法機関に持ち込まれる最も重要な法案のほとんどすべては、採決に付される前に委員会室で検討、策定されている。法案が委員会室を出た後には、その承認以外に、やるべきことは何も残っていない。例外はあるが、これが原則である。」その結果、討論の機会は大幅に制限され、長い演説の機会はほぼ完全に失われる。…この現代的な方法に加えて近年、別の発明があった。委員会室で準備された法案を別の3人の委員会に付託して、それを通過させる機関がいつ審議するか、どのくらいの期間、どのような形で、そして両陣営がリング上で戦う報酬つき討論者として何人の支持者と反対者を選ぶか、そしてその審議を打ち切る時間をあらかじめ決めさせておくという方法である―このような論戦の結果、弁論術や雄弁と呼ぶに値するものが生まれるかもしれないなどと誰が思うだろうか?」(ヘンリー・ドーズ閣下「フォーラム」より、1894年10月、153頁)。
この制度は我が国の制度とは全く異なっている。(*アメリカでは)閣僚たちは議会に出席しないので、議会を指導することはできない。また、閣僚の任期は議会の承認に依存しない。英国において絶対的な公平性の象徴である議長は、米国では最も強力な政党の指導者である。なぜなら、彼は委員会のメンバーを指名し、事実上、立法は委員会によって行われるからである。ブライス氏が指摘しているように、議会は結束を失い、その重要性の多くを失い、議会演説は重要性を失う。立法の実務が小さな秘密組織で行われることを知っている国民は、議会と議事進行に非常に無関心になる。主にいくつかの小さな独立組織の産物である法律は、まとまりと調和に大きく欠けている。
これらだけがその結果ならば、受け入れることは容易かもしれない。実際、それらのいくつかは私たちの大勢にとって、肯定するべき利点のように思えるだろう。残念ながら、アメリカの政治に深く根付いた腐敗、丸太転がし、陰謀は、委員会の活動の中にもふんだんに見られるようである。1
1 ブライス著「アメリカの共同財産」1巻204―18頁。
しかし、この制度は議会政治とは本質的に異なるものである。法律を制定する仕事は、世間の注目に妨げられずに働く、抜け目ない実務家の小集団の手に委ねられる。そして、議会の無秩序と衰退が公的事業に及ぼす有害な影響は、完全には消滅しないまでも、軽減される。フランスでは異なる制度が普及している。しかし立法のほとんどは、実際には特定の問題を審議するために任命された「ビューロー(*局)」すなわち議会の下部組織で行われている。イングラドでは、議会全体の活動ははるかに大きい。しかし委員会制度は現在の議会制度の中で最も健全な部分であるように思われる。そして1883年に庶民院で、1891年に貴族院で常任委員会が採用されたことによってそれは大幅に拡張された。1 委員会にはいくつかの種類がある。複雑な問題を調査するために両院によって任命され、証人を召喚する権限を持つ特別委員会がある。新しくできた法務・貿易常任委員会は、一般に大委員会と呼ばれ、議会のさまざまなセクションを代表する60から80名のメンバーで構成され、通常は閣僚も含まれている。さまざまな法案が委譲プロセスによって委員会ステージから彼らに付託され、論点に関する委員会の意見は適切に記録される。これらの委員会のほかに、会計委員会があり、各省庁の職員の支援を受けて、財政の詳細について綿密かつ有益な監督を行っている。2
1 メイ著「議会の実務」(パルグレイブ版)。
2 これらの委員会の活動については、リチャード・テンプル(*1826―1902、インドの植民地行政官、国会議員)卿の「議会生活」に優れた記述がある。
委員会の権限は増大するだろう。そしておそらく数も増えるだろう。また、これによって庶民院の著しく損なわれた業務遂行能力がかなり強化されるだろう。権限委譲のプロセスは、何らかの方法で、また何らかの条件と制限の下で、議会の特別委員会によって、あるいはその他の方法で、帝国のさまざまな地域の代表機関にまで拡大される可能性がある。国内で効率的かつはるかに安価に解決できる大量の非政治的な私的業務をロンドンに持ち込む費用は、現実的で深刻な不満である。そして、帝国の最高議会に決して持ち込まれるべきではない数多くの問題が議会業務を妨げていることは、今や痛切に感じられる。遅かれ早かれ、この制度には何らかの変更が加えられなければならず、現在よりもずっと多くの割合のアイルランドおよびスコットランドの業務が、これらの国を特別に代表する機関に委託されることになるだろう。私はこの問題について詳細に論じるつもりはない。守るべき二つの制限は、十分に明白だと思う。一つは、危機の際に帝国の弱体化や分裂の原因になる可能性のある機関は設立してはならないということである。もう一つは、議会が、あらゆる階層の人々に正義をもたらすという最高の義務を放棄して、いずれかの階級を抑圧したり略奪したりする可能性のある機関を設立してはならないということである。この二つの条件が完全かつ効率的に確保されるなら、地方自治は賢明かつ大幅に拡張されるだろう。しかし、政治において、それが誰の手に渡るか、あるいはそれがどのような精神で運営されるかを考慮しないで政治的機関を設立することほど愚かなことはない。
独立した議会グループの増加によって必ず生じる不安定性と陰謀を正すという目的で、議会の内部規則の一部の変更が強く求められてきた。それは、政府は、おそらくはたまたま、あるいは和解しがたい少数派の党派的連合のために採決に敗北したからといって辞任、あるいは解散しなければならない考えるべきではなく、正式な不信任投票によって庶民院の意思が明らかになるまでは政権を維持するべきであるというものである。しかし、この変更は全体として改善にはならないと私には思われる。議会のグループ体制から生じる政府の不安定性の弊害が極限に達しているフランスでこの変更が行われたことがないという事実は、この変更を議会制度に根付かせることがいかに難しいかを示している。貴族院での敗北によって内閣は倒れない。特定の問題についての庶民院での敗北は、庶民院が望むなら、信任投票でいつでも解決できる(*政権与党は多数派を握っているので信任投票で負けることはない)。もし私たちが検討している改革が議会の崩壊という悪を和らげるならば、それは私の見るところ、政党幹部会の専制という、それと同じくらい深刻な弊害を悪化させるだろう。議会の本来の任期が終了するずっと前に政府が庶民院と国民の信任を失うことは頻繁に起こっている。そしてこのような状況下で政府が政権を継続することは非常に望ましくない。しかし、正式な不信任投票によってその過半数が消滅することは稀である。(*秘密投票ではないため)自由党員は保守党員のように、あるいは保守党員が自由党員のように投票することを躊躇するだろうし、政党組織の圧力が真の意見を無視するだろう。副次的な問題や付随的な問題においてこそ、最も議会の真の意思が示され、悪しき内閣が敗北しやすいものである。
可能な限りの解決策をすべて十分に検討した上で、男子参政権、あるいはそれに近いものを基盤とする議会制度が永続する可能性は極めて低いと私は思っている。トクヴィルが明らかに強く信じていた見解は、民主主義の自然な結果は、高度に集中した、無気力な、しかし穏やかな専制政治である、というものだった。1 これはフランスとドイツの多くの最も著名な同時代の知識人たちの見解であって、イングランドでも着実に広まっていると私は思う。これは議会がなくなる、あるいは幅広い参政権が廃止されることを意味するのではない。もしこのように構築されたなら、議会は世界の国々の中で最高の権力を長く維持できないことを意味する。遅かれ早かれ、議会は自らの悪徳と非効率性によって、より低いレベルに沈むだろう。彼らは内閣を組織、解散する権限を失い、その変動に無関係な、強力な行政機関を設立することが絶対的に必要になるだろう。この行政機関は、アメリカや帝国時代のフランスのように、(*大統領や皇帝のような)独立した選挙という広い基盤の上に設立される可能性が高い。おそらく、何らかの賢明な計画に基づいて設立された上院が、再び世界の政治の中で大きな抑制と指導の役割を果たすだろう。過去数年間に我が国の庶民院で起こった変化を見た上で、五十年後(*1946年)に庶民院が現在のような権力を行使できると信じたり、望んだりする人はほとんどいないだろう。何らかの大災害や大戦争の圧力がこの変化を加速させる可能性はあまりにも高い。
1 「アメリカの民主主義」4巻、党派
私は、近年の郡(*country/住民が少ない)や町(*town/住民が多い)における自治体の拡大が民主的な議会の権威を弱めるとは言わない。こうした拡大はそれ自体が民主主義の偉大な勝利であって、国王に指名された人物、あるいは高い財産資格、特に土地の所有によって選出された人物の手中にあった権力を、非常に低い選挙権に基づく機関に移譲したのである。ここまでのページで、この分野における野放しの民主主義の危険性は十分に見てきた。イングランドには、この種の政府の教育的価値についての大きな信念がある。正直で善意の地方自治体は、最初は多くの間違いを犯すかもしれないが、すぐに良い政治習慣を身につけることは事実である。一方、地方自治体が腐敗した、利己的で、不誠実な人々の手に渡ったなら、まったく別の習慣が促進され、改善傾向が見られることはほとんどないだろう。長期にわたる取次業務の継続は、優れた政治家を育てる教育ではないはずである。そして市政や「マシン」の管理の下で蔓延している慣行ほど、アメリカ政界のモラルを低下させてきたものは稀である。
全体として、行政の大きな複雑さと矛盾、そして数多くの奇妙な例外にもかかわらず、イングランドの地方自治体は長年、非常に満足のいくものだったことには、ほとんど疑問の余地がない。イングランドの郡政府を主に管理していた田舎の紳士たちは、少なくとも非常に誠実に、そして彼らが統治する地域について非常に広範かつ細心の知識をもって任務を遂行してきた。彼らには欠点もあったが、それらは積極的なものよりも消極的なもののほうがはるかに多かった。彼らはするべきでないことをほとんどしなかったが、するべきことの多くを怠った。一般的に腐敗はなく、ひどい濫用は非常にまれで、公金は全体として賢明かつ経済的に支出された。しかし、改善できたかもしれない悪はしばしば手つかずのまま残され、郡行政にはより積極的な改革精神が大いに必要だった。
わが国の市町村(*town)政府もまた、1835年の偉大な市町村法以来、全体として非常に成功している。それはアメリカの大多数の市町村政府のように腐敗した政治家の手に落ちてはいない。最初の改革法案の時代の政治家は課税権と、固定資産税その他の税金の支払い義務との緊密な関係を常に維持していた。そして、市町村政府および救貧法の施行において財産所有者に強い制御力を与えることによって、公金の誠実な支出を確保していた。すべての良い政府の第一かつ最も重要なルールは、課税について投票する者は、相当程度まで税金の支払いに貢献するべきであること、悪しき行政に苦しむべきなのはその管理に責任を持つ者自身であることである。この基本ルールは、可能であれば、帝国政府よりも地方政府においてより適切なものである。帝国政府は、幅広い政治問題に大きく関わるものである。地方政府は、特に、そして何よりも、資金を集めて使用するための機関である。健全な会社であれば、取締役は大株主であることがその地位にふさわしい資格であって、最大の利害関係を持つ株主は最多の投票権を持っている。これは、誠実で倹約的な資金管理を実現するための第一の、かつ最も明白なルールである。そしてイングランドの地方自治の成功と純粋さは、1832年の改革法案に従った偉大な政治家たちの忠実さによるところが大きい。
現世代の政治家たちは、それを破壊することに彼らの全力を尽くしてきた。固定資産税に関する投票や財務管理を行う者に固定資産税や財産の資格を課すのは誤りである、ということがリベラルの原則とみなされるようになった。そこで1894年の法律によって、教区委員および救貧法の後見人になるための財産資格はすべて廃止された。投票において固定資産税の資格はもはや必要ない。職務としての後見人、および指名による後見人は、常に豊富な経験と疑いの余地のない人格を備えた人々だったが、一掃された。固定資産税納付者はその額に応じて後見人に投票する権利を持つという明らかに公平な規則は、1人の有権者に1票という規則に置き換えられた。地域教育委員会の選挙人の古来の財産資格は廃止された。同時に、これらの委員会は別類の財産に対する追加の権限を獲得した。多くの政治家にとって、市政の明らかな理想は、必然的に地方税の最大の割合を支払い、その利益が市の繁栄に最も密接に結びついており、その目につく地位ゆえに特に略奪の標的になりやすい町の財産の大所有者に、地方税の課税、調節、分配、適用に関して、その土地の最も控えめな借地人と同等の発言権しか与えてはならない、というものである。
これほど腐敗と不正につながることが確実な制度を想像するのは難しいだろう。また、他の状況も危険を増大させている。課税額が過去の世代と同程度に留まっており、公的支出が少数の対象に限定されていたなら、その負担がどのように分配されたかは比較的大きな意味を持たない。しかし、現代の最も顕著な傾向の一つは、国家の職務の範囲と国家の支出の拡大である。(#以下とのつながりが疑問)長い間、イングランドの最も真面目な政治家を警戒させてきた地方税、そして特に地方債の大幅な増加は、わずか数年のうちに起こった。地方税は非常に複雑なため、この問題について完全に正確に書くことはおそらく不可能である。しかし、この動きが驚くほど急速に進んだことに疑問の余地はない。1882年にコブデンクラブの後援で出版された非常に有用な論文では、イングランドとウェールズの地方債務が1872年から1880年の間に80,000,000ポンドから137,096,607ポンドに増加したと計算されている。1 1891年、庶民院では195,400,000ポンドと発表された。翌年には、過去15年間で国の負債は768,945,757ポンドから689,944,026ポンドに減少したが、同じ期間に地方自治体の負債は 92,820,100ポンドから198,671,312ポンドに増加したと発表された。2 この傾向が勢いを失っている兆候はないようで、地方自治体の支出を大幅に増やす計画が明らかに進行中である。税金の支払いと投票を分離する政策が最も広く採用されるのはこういう時である。不幸なことに、この政策を非常に危険なものにしている傾向そのものが、その人気を高めているのである。そして票を獲得して選挙を乗り切ることを最大の目的とする政治家にとっての、この政策の魅力を高めている。
1 「連合王国の地方自治と課税」(コブデンクラブ)、480頁。
2 ウィームズ卿(*フランシス、1818―1914)が「近代地方自治体主義に関する演説」(1893年)11頁に収集したいくつかの事実を参照。
過去45年間にほぼすべての文明国で発生した国税の大幅な増加は、確かに現代の最も不安な特徴の一つである。これにはいくつかの異なる原因がある。最悪なのは、1848年の革命以来ヨーロッパで発生した国債と軍事費の膨大な増加である。長期にわたるヨーロッパの戦争の結果である国家債務は、多くの国で破産がほぼ不可避なほどのものになっている。また、国債保有者への支払いのためにすべての国民から徴収される非生産的な支出の膨大な負担は、革命の言説にかなりの説得力を与え、国民による裏切りの最も強い誘因の一つになっている。国債の大部分は外国人に保有されており、債務不履行国に履行を強制、あるいは処罰するための破産裁判所に相当する国際機関がないため、(*革命で政府を転覆すれば対外債務が帳消しになるので)その誘因はますます強くなっている。ここでは、この軍事的支出は決して徴収された直接税だけで測れるものではないと言うだけで十分だろう。そして(*戦争によって)生産的な雇用から膨大な人的労力が引き抜かれ、ヨーロッパの人口の膨大な部分が人生の大半を奴隷状態に置かれたことこそが、おそらく他の何よりも、現代の革命的傾向に寄与してきたのである。
イングランドは、これらの点について、あまり自らを責める必要はないと私は思う。イングランドは、フランスとの戦争以来、負債を減らすためにできることをすべて行わなかったとしても、少なくとも非常に多くのことを行ってきたし、ヨーロッパのどの国よりもはるかに多くのことを行ってきた。一方、イングランドの軍事費と海軍費は、絶対的な安全保障に必要な額を上回るどころか、下回ることが多い。しかし、この支出の伸びは非常に大きい。それは1835年から1888年の間に173%も増加したと言われている。1 しかし、これは主に、大陸の巨大な軍備と、費用の莫大な増加、そして船と砲の種類の絶え間ない変化によるものである。その負担は恐るべきものだが、事実を直視する人物なら誰しも、圧倒的な力を持つイングランド艦隊が常に存在することこそ、国家の安全保障の第一の、かつ最も重要な条件であることを認識するはずである。国民の食糧を自給できず、その存在自体が巨大な商業に依存しており、その領土と権益の広大さゆえに、常に他国との紛争に巻き込まれる危険があり、侵略者にとって特別な誘惑である島国の政権は、他のいかなる条件下でも独立を守ることはできない。そしてイングランド世論がこの事実の並外れた重要性を認識し、それを怠っていた政治家に何度もそれを強制してきたことは健全な兆候である。
1 ルロワ・ボーリュー著「財政的合意」2巻168頁。
この増大する支出の最終結果がどうなるかは誰にも分からない。大砲や魚雷が威力を増大して、大型船が戦争で役に立たなくなり、再び(*技術)革命が起こって、おそらく海戦を大幅に安上がりにする可能性はあるし、決してあり得ないことではない。防御手段が攻撃手段に対して圧倒的優位に立つ可能性もあるし、おそらくあり得ることである。かつて海軍の歴史の中で名誉ある役割を担ってきた小国や貧しい国は、現在の費用のかかる海軍で真剣に競争するのは不可能なことに気づくだろう。また、最も裕福な国でさえ、一流の陸軍と一流の海軍を同時に維持しようとすれば破産が不可避であることに、遅かれ早かれ気づくだろう。何らかの大きな世論の革命か、何らかの大きな内部転換が過去半世紀の傾向を阻止あるいは逆転させ、軍縮の大運動を引き起こす時が来るかもしれない。その時が来るまで、国家支出のこの大きな部門を大幅に削減できる見込みはほとんどない。
この点におけるヨーロッパの現状と、マンチェスター学派や、多くの人々の記憶にある限りの、先進的な思想の最も忠実な代表者とみなされている論者たちの予測との比較ほど、憂鬱で教訓的なものはほとんどないだろう。読者の中には、1857年にバックル(*ヘンリー、1821―1862、「イングランドの文明化の歴史」)の偉大な歴史書の1巻が熱狂と賞賛をもって迎えられたことを覚えている方もおられるだろう。粗雑さ、多くの欠点、そして大きな独断にもかかわらず、この本はそのテーマによって新時代を築くにふさわしい本だった。この本が切り開いた広大な地平、一般化の幅広さと大胆さ、その見事な筆力、そしてこの本を動かしている知識、進歩、自由に対する気高い熱意は、一世代の若者を魅了し、深く影響を与えた。バックルの最も確信に満ちた予測の一つは、軍事的精神は時代遅れになったというものだった。今では「常に平和的なもの」である「商業的精神」が、それを急速に無意味なものにしてしまうだろう。ロシアやトルコのようなヨーロッパの最も後進的で半ば野蛮な国々には、しばらくは残るかもしれないが、文明世界のあらゆる優れた才能、あらゆる強い野心、あらゆる世論の力は、着実にそれに反対するだろう。
アメリカの南北戦争、フランスとイタリアの対オーストリア戦争、プロイセンとオーストリアの対デンマーク戦争、プロイセンとイタリアの対オーストリア戦争、1870年の大独仏戦争が続けさまに起こって、平時のヨーロッパは巨大な兵舎になり、その規模と完成度において世界史上類を見ない軍隊を擁するようになった。1888年の推定によると、ドイツ、オーストリア、フランス、イタリア、ロシアは戦時に合計1600万人以上の兵士を送り出すことができ、平時の戦力は合計231万5000人以上に上る可能性がある。1
1 「国際的法律レビュー」11巻99頁。
この軍事的発展に関連する二つの事実は特に重要である。一つは、貿易と商業の精神が領土拡大の主な動機の一つになっていることである。「貿易は国旗につき従う」と言われていることは正しい。現在の巨大な工業生産システムと厳格な保護障壁の下では、大製造国にとって新しい領土の自国編入による十分な市場の確保は絶対的な必要事になった。イングランドの歴史上、過去半世紀ほど多くの領土を併合した時期はない。これらの併合の多くは、文明国が単なる警察と自衛の手段として、未開の地にフロンティアを拡張する必要によるものである。しかし、多くは商業活動ゆえのものである、とも言わなければならない。
それはイングランドに限ったことではない。ヨーロッパの主要文明国による、正義の幻影も口実もない、アフリカ大陸の分割よりも奇妙な光景は今世紀には見られなかった。これらの曖昧で不明確な境界線が、いかに簡単にヨーロッパの新たな争いの原因になり得るか、そして、アフリカ奥地のジャングルや森林で、ヨーロッパの銃で武装した黒人が、いかに頻繁にヨーロッパの兵士を打ち負かし、そしてそれが費用のかさむ困難な戦争の原因になるかは、経験がすでに示している。
もう一つの非常に注目すべき事実は、ヨーロッパの最も文明化された地域で国民皆兵制を支持する感情が高まっていることである。ほんの数年前までは、純粋に軍事的な集団以外では、おそらくカーライルを除いて、目立った擁護者はほとんどいなかっただろう。しかし有能な評者なら、近年起こった変化に気づかないはずはない。この制度は今や大陸の生活習慣に深く根付いていて、小さくない有能な一派の目には、必要悪というより、むしろ積極的な善と映っている。
その擁護者たちは第一に、これらの巨大な軍隊は戦争よりもむしろ平和をもたらすと主張する。武器の途方もない威力、それを扱うことの極度の困難、戦争の結末にこれまで以上にのしかかる不確実性、今や大戦争時に必発のすべての産業界の完全な麻痺、そして敗北の後に起こりうる完全な破滅は、最も野心的な政治家と最も興奮した国民に厳しい自制を課すだろう。一方、家庭と平和的な産業から戦場へと引きずり出される巨大な市民の軍隊には、純粋に職業的な兵士を駆り立てる戦争への欲求は決して浸透しないだろう。実際、ヨーロッパの政治と軍事に関する最も有能な評者の一人が、ヨーロッパの平和にとって最も危険なのは、敵対する大国の軍隊がそれぞれ適度の扱いやすい規模に縮小された軍縮期だろうと予測するのを聞いたことがある。
また、こうした考察に加えて、軍隊の規律の道徳的、教育的価値に対する強い確信が育まれてきた。国民の絆を弱め、多くの階級に怠惰で快楽主義的で半ば孤立したコスモポリタニズムを生み出す要因が数多くある時代に、国民皆兵は国家を強く結びつけ、愛国心を強め、高水準の市民的義務と自己犠牲的な勇気を生み出し、国民の偉大さに最も資する性質と強さの熱意で大衆を鼓舞する傾向がある、と主張されている。それは、それがなければ日常の欲求や村の利益という狭い範囲を超えることは決してなかったであろう大勢の人々に、国民という観念と感情を伝える。イタリアににおいて、国民皆兵の効果は半ば野蛮な人々を文明化し、古来の地域的警戒心と偏見を共通の国民感情に置き換えることによって十分に発揮されてきた。今やいくつかのケースでは通常の教育が兵役と結びついている。そして規律そのものが作り出す特別な学びが現代には特に必要である、と主張されている。「真の知恵の始まりは規律(*discipline)を求めることである」と、古のヘブライの賢者は言った。1 そしておそらく、現代の教育に最も欠けているのは、この側面である。兵役は少なくとも秩序、清潔、時間厳守、服従、権威への敬意といった習慣を育み、ほとんどの一般教育とは違って、性格と意志に強力に作用する。この学校で兵舎の仲間たちと過ごした数年間は、人を聖人にはしないが、性格を強化し、訓練して、彼らが市民生活で有用で名誉ある役割を果たすために大いに役立つだろう。少なくとも、文明人の趣味と習慣を身につけさせ、多くの無分別な偏見を矯正し、勇敢で、堅実で、精力的で、愛国的な市民を育成するだろう。それは失業者や貧困の問題を軽減し、社会で最も怠惰で無秩序な要素を改善するだろう。そうした人々は、教会や学校の教えよりも、軍隊の規律の強力で不断の圧力によって矯正される可能性の方がはるかに高い。
1 知恵の書(*ソロモンの知恵)、6章17節。
平和が長く続き、富と繁栄が著しく増大すれば、どんな国にでも、国民の力を蝕む陰険な悪徳が蔓延る、と言われていることは正しい。緩い節操、低い理想、贅沢で自己満足的で女々しい思考と生活習慣が蔓延し、より強健な資質は衰え、自己犠牲の力は弱まり、生活全般が軽薄になる。自然はしばしばこれらの悪を、大戦争という惨事によって厳しく矯正する。しかし賢明な政治家は皆、より穏健でより危険のない治療法を模索する。中でも、例外を認めない軍隊での数年間の訓練は最も強力なものの一つである。それは弱体化したシステムにとって最良の強壮剤である。
信奉者の中には、さらに先を行く人々もいる。思うに、ドイツで生まれたが、イングランドでも支持者を見つけた理論がある。それは、大陸の巨大な軍隊は実際には何の費用もかかっていない、なぜなら数年の軍事訓練で人々の生産力が大幅に向上するため、社会は犠牲を十分に補償される、人生の中の二、三年が生産的な仕事から奪われ、国費で養われるが、残りの年月ははるかに生産的なものになる、というものである。
私は、国民皆兵の支持者の主張を最も強力な形で述べようと努めた。それがある程度の真実を含んでいることに疑問の余地はないと思う。しかし、多くの真実が長い間無視されてきたことに似て、それは誇張され、誤解を生むような名声の中へと押し出されてきた。これは英語圏の人々にとって極めて重要な問題である。なぜなら国民皆兵の教育が、それに帰せられるすべてのことを行うなら、それをあまねく採用してきた大陸諸国は必然的に、大西洋の両側でそれを一貫して拒否してきたイングランド民族よりも、長期的に、より高い水準に達することになるからである。少なくとも私には、明らかに軍事制度に起因する、圧倒的でどんどん増え続ける負債と課税を前にしたとき、大陸の軍事制度が安価であるという理論は完全に矛盾しているように思われる。それは、ヨーロッパの産業を圧倒し、麻痺させ、大国を急速な破産の危機に陥れている。確かに、軍事的規律はしばしば貴重な産業的資質を作り上げることは事実である。しかし徴兵が、産業的習慣が作り上げられるべき最も重要な年齢においてその習慣を破壊すること、軍隊生活の興奮や交際が、おそらくどこかの辺鄙な村での、極貧の中の単調で地味な労働にまったく不向きな人々(#犯罪者予備軍?)を無数に生み出してしまうことも事実である。
現在の巨大な軍隊によって、戦争の頻度は間違いなく減ったが、それは昔とは比較にならないほど恐ろしいものになった。実際、ここ数年の抑制のない無謀な軍事競争がヨーロッパに本当の安全をもたらした、あるいはヨーロッパを脅かす敵意や野望を減少させた、と誰が真剣に主張できるだろうか。ヨーロッパの政治家たちは、いつでも野心的な君主、好機、あるいは同盟や軍事力のバランスを大きく変える発明、あるいは不適切に扱われた国民的激高の瞬間的な爆発がヨーロッパを再び激しい炎の中に放り込むことはないと確信しているだろうか。四方八方に火薬を撒くことは、間違いなく警戒心を生むかもしれない。しかしそれは爆発を防ぐ最善の方法ではない。人類の歴史上、これほど強力な爆発物がヨーロッパに蓄積されたことはかつてなく、私たちが民主主義を誇る一方で、平和か戦争かという問題が三、四人の人物の手に委ねられていたことは稀だった。現在の世界情勢では、一人の支配者の愚行がヨーロッパに災難をもたらし、文明の主権が大西洋の向こう側に移ってしまう可能性も十分にある。
大きな軍隊がもたらす国内平和の保証、そして無政府主義や革命的傾向と敵対する生活習慣や思考を作り上げる上での軍隊の規律の力については、これまで何度も論じられてきた。しかし、軍の制度が危険な階級を雇用し、矯正するために大いに役立ち、忠誠心や服従や尊敬を教えたとしても、その負担はまた、着実に不満を煽ることになる。世界の大軍事国家において、無政府主義、社会主義、ニヒリズムが最も蔓延していることは確かである。近代国家が国民に強いる負担の中で、他と比較にならないほど重いのは、国民全員の兵役義務である。そして、その負担を最も苛立たしく、最も圧倒的な隷属ととらえる少数者の数は少なくはない。また、この制度が政府に強力な抑圧の手段を与えたとしても、それはまた、あらゆる革命運動が軍隊生活の知識と経験を持つ人々によって行われる時代を準備していることも忘れてはならない。混乱を鎮めるために軍隊を絶えず増強している巨大な軍事力は、スペインの闘牛で、熟練した手によってバンデリジャ(*飾りのついた矢)を突き刺され、激怒した牛が肉を切り裂く棘を振り落とそうとして跳びはねるたびごとに、傷をさらに深め、悪化させる光景によく似ている。
道理をわきまえた人物なら、しっかりした規律のある生活が、多くの人にとって非常に価値のある教育であること―つまり他の方法では同じような結果を得られない教育であることを否定しないだろう。それは文明の低い段階にある、未だ秩序と権威に敬意を払う習慣がないコミュニティや、地域的な反感によって深く分裂しているコミュニティでは特に有益である。現代の軍隊に改良が施され、その道徳的雰囲気が大幅に高まったことも、同様に真実であると私は思う。しかし、これらすべてのことを認めたとしても、いまだ状況には非常に暗い影が差している。婚期の遅延、家庭の絆の緩み、流血と暴力が大きな役割を果たす理想の台頭、戦争に対する恐怖の減少、新しくより致命的な破壊手段を考案するための人間の最高の創意工夫の絶え間ない駆使―巨大な軍事力の後には、これらすべてが続くのである。軍事的な時代の理想と基準をある程度復活させることなく、ヨーロッパを兵舎に変えることは不可能である。
規律は多くのことを教えるが、多くのことを抑圧する。軍隊制度の厳格で受動的な服従は、独立した思考と個人のエネルギーを育む最良の方法ではない。規律は、人類文化のより精細でデリケートな花々にとって、特に不利である。際立った個性、張りつめた敏感な神経組織は、私たちの文明の最も美しいものの多くが芽生えた土壌である。他のすべてのこと以上に、強いられた兵役はそれらを不毛にする傾向がある。そのような人々の優れた才能の浪費と破滅、あるいはそれがもたらす深刻で無益な苦しみの量を過大評価することは難しい。民主主義にとって、これらのことは大して重要ではなく、軍隊生活の光輝と壮観の中に埋もれているように見える。しかし、大陸のいくつかの主要な軍隊では自殺者の割合が極めて多いことを示す統計が時折発表されて、その下に苦しみがくすぶっていることを明らかにしている。
テーヌ(*イポリット、1828―1893、哲学者)は、軍隊制度の発展について、賞賛に値する力と真実の数ページを費やした。そして彼が徴兵制度は―しばらくの間、世界を支配する運命にあると思われる偉大な民主主義の二つの力のうちの一つである―普通選挙の自然な仲間、あるいは兄弟であると述べたことは正しい。1 徴兵制度によって生み出される階級の平等化と混合は、徴兵制度を民主主義の時代にふさわしいものとし、金銭による代用や免除といった古来の制度は、概ね廃止されている。ほとんどの場合、免除を望んだのは軍事的素質のない人々だったため、軍隊は金銭による代替によって利益を得ていたと思われる。古来の制度は自由契約であって、貧者は富者が支払ったものを受け取り、双方が利益を得ていた。しかし、それは富に特権を与えることである。そして自由よりも平等を優先するという真の本能に忠実な民主主義は、それをきっぱりと非難したのである。
1 「現代フランスの起源:近代体制」1章284―96頁。
しかし、この問題には、大陸の真剣な観察者にとって印象深い別の側面がある。前述したような親和性にもかかわらず、ヨーロッパの大部分で同時に繁栄している、高度に民主的な議会政治と国民皆兵制の中の、いくつかの重要な点における、精神と傾向のコントラストよりも大きなものを想像することはほとんど不可能だろう。一方は、権威と服従の観念がすべて放棄され、自然に巧みな弁舌家やデマゴーグに支配され、すべての問題が多数決で決定され、自由が常に放縦との境界にまで押し拡げられているシステムである。他方は、最も厳格な専制と服従のシステム、議論や抗議のない受動的で従順なシステムであり、理想、習慣、判断基準が一般の政治とはまったく異なるシステムであって全ての成人男性を急速に包み込み、型に押し込み、代表するシステムである。そして、議会政治が至る所で非効率と不信の増大の兆候を示している一方で、ヨーロッパの軍隊は着実に強化され、キリスト教世界の力と精力をますます吸収している。一部の観察者は、これら二つのものが今後もずっと共存し、現在の関係をずっと維持する可能性があるのか、つまり、鷲はずっとオウムに支配され続けるのだろうか、と自問し始めている。
19世紀後半の軍国主義の急激な発展は、間接的ではあるものの、政府の権力を強め、強力な強制組織によって社会を改革しようという、当時の一般的傾向に大きく貢献したと私は考えている。それはまた、民主的変革期の危険を深刻に増大させた莫大な増税の主因でもある。実際には、軍国主義は決して唯一の原因ではない。そのいくらかは、あらゆる階級の役人や労働者の賃金が上昇し、給与が上がったためであって、それゆえに生活水準と快適さは向上したのである。この有益な動きは、非常に繁栄した時代に顕著になった。そして経済状況が大きく変化したにもかかわらず、ほとんど衰えることなく続いている。
しかし、国家支出の増加のもっと重大な原因は、国家に課せられた多くの新たな義務にある。その中で最も重要なものは、国民教育である。現世代において、貧困層の教育を政府の主要な職務の一つにした変化ほど顕著なものはほとんどない。1833年、イングランドでは初めて、一般教育に携わる二つの団体を支援するために、議会から2万ポンドの補助金が支給された。1838年には、議会の補助金は年間3万ポンドに引き上げられた。それはすぐにこの制限を超えた。しかし、教育に対する国家支出が急増したのは、より最近のことである。1870年の法律以前には、国は初等教育を奨励するための補助金を、地方のボランティア団体の支援に限定していた。国は学校を建設せず、その機関が不足している地域には教育を提供しなかった。教育の提供が不足しているすべての地区に学校を設立することを規定した1870年の法律、子供の教育を怠った親を罰する1876年の法律、および無償教育を認めた1891年の法律は、この部門の支出の急激な増加の主因だった。1892年、イングランドとウェールズの教育委員会の総支出は7,134,386ポンドという莫大な額に達した。無償の生徒の数はおよそ3,800,000人、授業料を全部、あるいは一部支払っている子供の数はおよそ1,020,000人だった。1
1 「ウィテカー年鑑」1894年601、605頁の統計を参照。
この点において、イングランドは他の文明国と同じ方針で行動したにすぎない。イングランドは、産業的、あるいは政治的な国家間の競争において、教養のない国民は持ちこたえられない、民主的政府は教育のある国民の幅広い基盤を持つ場合にのみ耐え得るものになる、という仮説に基づいて行動したのである。教育の万能性に対する古来の信念の一部が消え去って、いくつかの修正的な考察が出現したとはいえ、おそらく今ではこの仮説の正しさを疑う人はほとんどいないだろう。国民教育は容易に、人口の大多数を一生の肉体労働には不向きにしてしまうだろう、という古来のトーリー党の理論には、確かに根拠がなくはなかった。かつて、最も優秀な労働者は、自分の階級に留まり、その階級で子供を育てることに満足するのが普通だった。彼は自分の仕事に誇りを持ち、そうすることでその水準と性格を大きく高めたのである。今では、彼の第一の望みは、その階級からの離脱、あるいは少なくとも、子供に自分より少し上と考える階級の嗜好や習慣の中で教育を受けさせることになっている。社会のより低い階層に生まれたが、世の中で大きな役割を果たす力を持っている人物が、それを手助けされるのは非常に望ましいことである。しかし、労働者階級の花たちやその子供たちが、ごく平凡な医者、弁護士、事務員、新聞記者になるために、肉体労働や、両親のシンプルで安価な習慣を軽蔑するようになるのは、決して望ましいことではない。これは絶えず起こっていることであって、労働者階級から最良の成分を奪う一方で、現在、低いレベルの知的職業に圧倒的な重圧をかけている過当競争の大きな原因の一つになっている。
教育は、たとえごくわずかであっても、興味を広げ、生活を明るくするために大いに役立つ。しかし悲しい代償として、教育は退屈、単調さ、そして人生の矛盾を、人々にとってはるかに耐え難いものにする。教育は、必ずしも満たすことができない欲求を生み出し、階級の気質や相互関係に非常に大きな影響を与える。一般的な結果の一つは、田舎よりも都会での生活を強く好むようになることである。イングランドの現在の時代の顕著で不幸な特徴は、昔ながらの健康な人々の多くが、体を弱らせ、しばしば心を堕落させる大都市の空気の中に移住することで、田舎の人口が絶えず減少していることである。この変化の主な原因は、間違いなく経済的なものである。農業が極度に不振になっているため、すべての農業経営者は、賃金総額を最低水準に抑え、そのためにできるだけ少数の労働者を雇用することが絶対に必要であると考えている。機械が手作業に取って代わっている。多くの労働者を養う耕作地は、少数を養う牧草地になる。しかし、田舎暮らしを実際によく知っている人なら誰しも、大衆教育が農業労働者に広めた、さらなる刺激と娯楽への欲求の高まりが、この動きを大いに強化したことに同意するだろう。あまりにも頻繁に酷く裏切られる希望と野心が、大勢の人々を大都市に引き寄せるのである。
この不穏や不満は、相当の政治的影響力を生み出す。教育は、ほとんど常に、コミュニティの平和的な嗜好や秩序ある習慣を促進する。しかし他の点において、その政治的価値はしばしば過大評価されている。より危険な敵意や不和は通常、教育の影響によって減少するが、刺激されることも多い。読み書きを学んだ人々の大多数は、政党の新聞―間違いなく、彼らを煽動したり、誤導したりすることを意図した特別な新聞―以外は読んだことがない。そして、半端な教育しか受けていない人々の心は特に、政治的ユートピアや狂信に向けて開かれている。そのような人々はほとんど、遠隔的な結果を理解できず、あるいは遠隔的ではあっても、主要でも、直接的でもない結果しか理解できない。政治的論争において、農業の軽視や不振が農業労働者の移住を招いて町の賃金を押し下げること、あるいは、製造業の不況期に労働者が大規模なストライキが行なうなら、通常、彼らがそこから糧を得ている産業が、少なくとも部分的に、国外に追い出されること、あるいは最初は少数者の犠牲で多額の収入をもたらす高度な累進課税が、やがて多数者の生計に不可欠な資本の移転につながるということを理解している町の住民がどれほど少ないことだろう。平時において、帝国の存在そのものが依存している陸軍と海軍の重要性、国家の信用に関わる問題、あるいは商業によって本国の産業を支えている帝国の遠隔地の問題を国民に喚起することがいかに難しいかは、政治家なら誰でも知っている。人気ある減税や、票を集めた人気ある補助金が社会の一部に相応の負担を強いること、あるいは公務員の給与を下げ過ぎる経済政策は、ほとんど常に浪費、非効率、腐敗につながることを、はっきりと理解している人はほとんどいない。人々が、自分の個人的な問題に取り組むのと同じ真剣さを公の問題に取り組むことは稀である。そして将来を見通すことも稀である。国家の利益よりも、常に政党や階級の利益が優先される。ある階級の最終的な利益でさえ、その階級の一部の当面の利益に従属させられる。近い目標が遠い結果を覆い隠し、情熱と自尊心によって闘争本能が呼び起こされたなら、近い利益さえ、しばしば忘れ去られてしまう。産業界の競争と闘争ほど致命的な誤算(#労使紛争?)があった分野はほとんどない。そして、その主な原因はここにある。
こうした誤りは、どの階級にも起こり得るが、古い習慣や制約の支配から抜け出した、中途半端な教育を受けた人々に特に多い。こうした人々は、人を誤らせる影響力に特に支配されやすい。彼らは通常、社会組織の極度の複雑さや、その多くの部分の密接な相互依存関係、そして、しばしば不明瞭で遠隔的な、さまざまな経路を通じて拡散する影響の並外れた重要性を意識することがない。人がまったく読み書きができないことは、間違いなく、その人に政治権力を与えることに反対する強い理由になる。しかし、ただ読み書きができるだけでは、その人が賢明に権力を行使することを真に保証することはできないし、推測することさえできない。この知恵を得るには、他の方法―つまり財産の広い範囲への拡散、さまざまな利害関係やタイプに発言権を与える代表制度―に目を向けなければならない。そのための最良の手段は、おそらく課税と投票の関係を周到に維持することである。
こうした考察によって私が示そうとしているのは、教育は良くないものであるということではなく、教育の政治的利点は、これまで考えられていたほど純粋で大きなものではないことである。私たちが生きているこの時代において、完全な文盲から生じる無能力と無力はいくら強調しても強調し過ぎることはない。そして、すべての政府は全国民に少なくとも基礎的な知識を身につけさせることを自らの義務にすべきである、と私は思う。また、本当に能力のある貧しい人々がより高い社会的地位に上るための梯子を持っていることも、社会にとって非常に重要である。この目的のためには民間の寄付が大いに、かつ賢明に提供されてきた。政府の行為の増加によって民間の慈善活動の流れが妨げられない限り、この目的のための寄付は確実に増加するだろう。しかし、初等教育というよりも中等教育の性格を持つ無償の国民教育のために、多額の税金が強制的に集められる場合には、別種の考察が働く。子供のいない人々は子供の教育のために税金を課せられ、(*子供に初等教育しか受けさせない)多くの親たちは決して利用しない学校の維持費として税金を課せられる。親の責任と権利は等しく縮小される。そして、彼らがほとんど、あるいは全く共感しない目的のために、社会で最も苦労している一部の階層に重税がのしかかるのである。
こうした課税が今後増加することはほぼ間違いない。多くの政党は、国家の費用で、無償の教育のみならず、教科書、運動場、そして少なくとも授業時間中の一度の食事も無償で提供することを望んでいる。宗派間の警戒心や敵意は、多くの国で、不必要な学校の増加、あるいは公立学校と任意の寄付や宗派の支援で設立された学校との破滅的な競争を引き起こし、教育費を大幅に増加させている。同時に、一般的な無償教育、つまり国費による教育の水準は着実に上昇しているように思われる。初等教育の限界をはるかに超える多数の科目が、無償あるいは原価以下ですでに教えられている。ほとんどの国でにおいて、あらゆる段階の教育がますます国家の職務になり、ますます国家の刻印を帯び、ますます公的資金の支援を受けているようである。
これは、政府が国民から徴収する税金が増加した主な原因の一つである。他にも、私たちがもっとためらうことなく承認できるものがあると思う。偉大な衛生改革の仕事は、おそらく現代の立法の最も見事な成果である。そして、それが軽減した苦しみで測るなら、それはおそらく内閣の興亡を左右する数多くの問題よりも、人類の真の幸福のために、はるかに多くのことを成し遂げてきたのだろう。それは今世紀、1848年の公衆衛生法によって初めて大きな推進力を得た。そして、私たちの世代で大幅に、そしてさまざまな形で拡張された。可能な限り、貧しい人々にも富裕層と同程度の生活と健康を確保するよう努めることほど、政治家が追い求めるべき高貴で賢明な目的はないだろう。即位50周年記念に女王陛下に贈られた数多くの演説の中で、女王陛下の治世の最初の50年間にイングランドで行われたことの衛生検査官たちによる要約ほど、私にとって重要と思われたものはなかった。彼らは、女王陛下の臣民の一般的な健康状態はヨーロッパやアメリカのどの大国よりもずっと向上しており、女王陛下の全臣民の平均寿命は3年半延び、昨年のイングランドとウェールズの人口は治世の初めの平均死亡数や疾病数に比べて、死亡が84,000例、疾病が1,700,000例以上減少しており、国内軍の死亡率は半分以上、インド軍の死亡率は5分の4以上減少したと述べたのである。
これらすべては、政府の絶え間ない介入なしには実現できない。衛生改革に関しては、極端な個人主義者の主張は常に敗れ去るだろう。なぜなら、病気はほとんどの場合、伝染性で流行病的な性質を持ち、病気が発生する状況は、全体的で組織化された強制的な手段でしか対処できないからである。不本意な対象者に強制的に予防接種をする法律の真の正当性は、それが彼の命を救うからではなく、彼が隣人たちへの感染の中心になることを防ぐからである。排水、河川の汚染、不衛生な住居、感染の予防、および健康的な労働環境の確立についてのすべての立法に対して、法的裏付けのない散発的で個人的な努力は常に不十分であることが明らかになるだろう。人口が増加し、大都市にますます集中するにつれて、限られた地域の中での労働者の住居をめぐる競争が激しくなるにつれて、産業が多数の男女の労働者を同じ屋根の下に集めるようになるにつれて、学校の増加によって子供の伝染病の危険が増すにつれて、衛生的規制の強制的手段の必要性はますます大きなものになる。
国民の健康水準を向上させることは政府が持ちうる最も崇高な目標であるが、そのためにはさまざまな方法がある。政府はあらゆる研究の中で最も実り豊かで有益な研究―すなわち疾病の原因と治療の研究―を大いに奨励できるだろう。政府は、粗野な社会では富裕層に独占されるであろう医療知識と医療機器を最貧困層にも手が届くものにできるだろう。政府は、高度な技術的知識を活用して思いのままに医療行為の資格を確立し、職業的金貸しが無知な人々の不用意と世間知らずに付け込むように、その恐怖と弱みに付け込むインチキ医者を抑制できるだろう。政府はまた、不衛生な生活環境、有害な混ぜ物、伝染病の蔓延を防ぐ措置によって、地域社会の健康を大幅に向上させられるだろう。
他の分野と同様に、間違いなく、この分野にも制限を設けて、危険や誇張を避ける必要がある。社会の別の段階では幼少期に死んでいたであろう病弱や虚弱のコミュニティのメンバーが成長して親になり、弱い体質や遺伝病を伝えるのなら、衛生改革は完全に良いこととは言えない。衛生科学がもたらす死亡率の減少は主に乳児死亡率である。そして乳児死亡率が成人死亡率よりもずっと高いということはなくなった。そして、少なからぬケースにおいてそれは偽りの幸運である。また、他の分野と同様、この分野において賢明な世論に支持されない単なる立法は、失敗に終わることも事実である。当代で最も賢明な政治家の一人が言ったことは真実である「衛生教育は衛生立法よりもさらに重要である。なぜなら、これらの問題について国民が自ら何を望んでいるかを知っているなら、法は遅かれ早かれそれに従うからである。(*衛生教育がなければ国民は自ら何を望むべきなのかが分からない)この国の現状では最高の法律も、それが評価されず理解されない場合には、紙くずになってしまう。」1
1 「ダービー卿の演説と講演」1巻176頁。
職業上の伝統や作法に固執し、同時に科学的確実性からかけ離れたテーマを扱う専門職(#宗教家?)の命令に従って行動する政府は、人類にとって大きな利益になる可能性のある新しい治療法や救済策の妨げになる可能性がある。また、政府が規制システムを強化することもあり得るし、実際、それは起こるだろう。工場法の一部はこういう批判にさらされている。ただし、こういうケースには通常、この法律に衛生上の考慮以外の要素が入り込んでいることが判明するだろう。しかし、規制のシステムが始まったなら、それは拡大する傾向があり、衛生改革を任された人々が大きな専門職になったなら、当然その権力を拡大し、その重要性を強調し、時におせっかいで詮索好きになるというのは普遍的な法則である。レオン・セイ氏は最近、この科学的保護主義の危険性を指摘した。この保護主義は衛生学者に私たちの生活を細部に至るまで監視させている。また別の著名なフランスの権威は、私たちが飲食の自由を取り戻し、私たちの私生活への衛生学者の絶え間ない干渉を制限するために、衛生の専横に対抗する新しい89年法が必要である、と率直に宣言した。1 立法者は、有害ではあるがそれを行う人々にのみ有害である行為と、社会に危険、あるいは害をもたらすことが明らかな行為との間の大きな違いを常に見落としている。後者については、常に政府の介入が必要である。前者については、成人の場合、少なくとも強い反対意見がある。一般的なルールとして、成人男性は自分の生活を規制するべきであって、例外的な見返りを期待して例外的なリスクを冒すかどうかは自ら決定するべきである。
1 マッケイ(*トーマス、1849―1912、ワイン商)著「自由の嘆願」217頁に収録されているラファロヴィッチ(*マルク・アンドレ、1864―1934、同性愛に関する多数の著作を残した)氏のエッセイを参照。
しかし、これらすべてを認めたうえで、政府が人々の苦しみを軽減、あるいは防止するためにこれほど多くのことを行える、あるいは行ってきた分野は他にほとんどない。政府もその顧問も絶対確実ではない。しかし、この場合、政府は医学が与え得る最善の見解に基づいて行動し、ほとんどの場合、完全な誠意を持って、党利党略の可能性なしに行動する。人間の寿命は延びる。病気や苦しみの軽減、あるいは緩和はそれ以上である。衛生改革は多額の支出なくして効果的に実行できない。これは税金という形で社会が負担する。しかし、この支出を単なる経済的な観点から見た場合、政府に可能な支出の中でこれほど見返りの大きいものはない。ジェームズ・パジェット卿は(*1814―1899、外科医、病理学者)過剰な、予防可能な病気による賃金労働者階級の労働の損失を年間2千万週と推定している。エドウィン・チャドウィック卿(*1800―1890)は次のように書いている「1842年、首都では予防可能な原因による労働力の喪失、死亡者の過剰、葬儀の過剰による損失が年間200万ポンドと大幅に過小評価されていた。イングランドとウェールズでは現在、労働力の喪失と疾病の過剰による喪失は、年間2,800万ポンド以上と推定されている。」1
1 チャドウィック「団結」63頁。
非常によく似た論理で、イングランドや他のほとんどの国々における刑務所や矯正施設への大幅な国家支出の増加を正当化できる。今世紀に刑務所制度に行われた莫大な改善は、国家支出を大幅に増加させた。しかしそれは、過大評価することが難しいほどに、不必要な苦しみ、意気消沈、そして人格や能力の荒廃を終わらせた。グラッタン(*ヘンリー、1746―1820)がかつて言ったように「最良の畜産は、人間という動物の畜産である。」顕著な犯罪的性向から生じる犯罪と、単に不都合な状況、一時的な情熱、あるいは意志の弱さに起因する犯罪を区別すること、真の犯罪的性向を、まだ初期段階にあって治癒可能なものと、慢性の病的な力を持つものとに区別することは、あらゆる健全な犯罪対策改革の基礎である。これは非常に慎重な分類と、数多くの個別の処理なしには実行できない。少年犯罪者を更生させ雇用する機関、酩酊状態の者を別扱いにすること、初犯者と常習犯をはっきりと区別すること、悪徳の伝染を防ぐための刑務所の規定など、これらはすべて犯罪件数を減らすために有効だった。これらのほとんどは費用がかかるが、すぐに十分な見返りが得られる。犯罪件数を減らし、人格の水準を高めることほど、金銭を有効に、すなわち経済的に使う方法はほとんどない。この場合、衛生改革の場合と同様に、立法者は最善の助言のもと、目的のために完全に誠心誠意で行動していると言って過言ではない。こうした問題によって得票数が増減することは稀である。
政府の職務のすべての拡張について同じことが言えるわけではない。かつて民間の主導や協定に任されていた無数の産業を法律で規制し組織化する傾向、かつて独立団体や民間の慈善活動、協力によって遂行されていた無数の職務に国家の機構を適用する傾向ほど、現代民主主義の典型的な特徴はない。さまざまな支出とさまざまな役人の大幅な増加は必然的な結果であって、納税者に多大な追加負担を強いることになる。支出の分野における新しい試みは、通常、他の多くの変化の前例や口実になる。私はハーバート・スペンサー氏や彼の一派の論者(*社会進化論者)ほど、これを完全な悪と非難することはできない。しかし、危険な誇張や傾向は主にこちら側に存在することについては彼らに同意する。政府のこの増大した精緻化の多くは不可避なもののように私には思われる。文明がより高度に組織化され複雑化するにつれ、組織が増加し、人口と産業が集中するにつれ、新たな欲求、利害、危険が生じ、必然的に規制の強化が必要になる。大都市や、巨大な変動する工業人口を、田舎の村や牧畜民と同じような少ない規制の下に置くことは不可能である。馬車や荷馬車の古い移動システムと現在の鉄道システム、古い家内産業と現在の巨大な工場、店舗、株式会社、古いシンプルな孤立した汚水槽システムと、大都市の安全を担う非常に複雑な排水システムを比較するなら、どれほどの新たな制限と法規制が必要かは明らかだろう。慈善活動の拡大と、マスコミが国民生活のあらゆる側面に当てる光が増えたことによって、世論は、これまで知らなかった、あるいは気にも留めなかった数多くの予防可能な悲惨さを痛感するようになった。そして、科学は私たちの祖先が夢にも思わなかったような危険、悪、そして解決の可能性を明らかにするようになった。
これらすべてが、さらなる規制の必要性と、さらなる規制を求める世論の強い圧力を生み出している。民間企業と違って、政府にはいくらかの欠点があるにしても、重要な利点もある。政府は膨大な専門的技能を駆使できる。政府は民間組織が真似できない同時性、権限、規模で行動できる。そして少なくともイングランドでは、現在の試験と継続的な管理制度が古来の公職任命制度に取って代わって以来、国家は通常、大量の純粋で無私の行政官の供給を期待できるようになった。いくつかの問題では、政府は民間企業よりも、腐敗した、すなわち邪悪な動機に惑わされる可能性がはるかに低い。そしてイングランド政府は世界最高の信用力という大きな強みを持っていて、それは多くの企業に比類のない安定性と安全性を与えることを可能にし、彼らを並外れた効率で指導することを可能にする。貧困者のための計画や、大きな社会問題の解決のためのイングランドの信用力の活用は、近年大幅に拡大したし、今後も着実に進展するものと思われる。また、あらゆる階級の最高の才能を包含し、活用し、指揮する議会政治の行動と、少数の人々の手中にあって、ほとんど抑制や統制を受けず、国民から乖離した一種の神意のように働く専制的、あるいは高度に貴族的な政府の行動にも、いくらかの違いがある。
多くの部門において、国家が事業を行うことは大変好都合である。たとえば、誰も郵便局を政府の手から奪おうとはしない。民間企業は主要な人口の中心地では、同等の効率でその職務を果たすかもしれない。しかし利益の出る地域でも出ない地域でも、すべての土地で、その事業を均一かつ着実に遂行できるのは政府だけである。イングランドで崇拝される取引の自由に対する、当局のタクシー運賃の規制よりも甚だしい侵害を思い浮かべることは困難だろう。しかし、この制度の利便性は非常に大きいため、誰もそれを廃止しようとはしない。民間人の利益のための銀行業務は、確かに政府の本来の業務ではない。しかし、政府の組織と政府の信用は貯蓄銀行と郵便銀行の制度を築き上げた。そして、それらは貧しい人々の大きな恵みになって、彼らに顕著に貯蓄と倹約を奨励し、同時に帝国の安定と財産の安全を彼らの直接の関心事にしている。排水工事のために地主に貸し付けられた多額の融資ほど、農業に大きな恩恵をもたらしたものはなかった。その利率は、国家が損失を被らないために十分なものでありながら、民間よりも低かった。アイルランドの状況を改善するために立案されたすべての計画の中で最も有望なのは、国が、そして国だけが命じられる利率で融資を行ない、定められた年数で分割払いするという方法で農民土地所有者を創設するというものである。これは将来、広範囲かつさまざまな形で用いられることがほぼ確実なタイプの法律である。
こうした政府の本来の影響力の範囲からの逸脱は、注意深く、用心深く監視されなければならない。しかし、忘れてはならない区別がいくつかある。利益の出る公共事業は、税金、言い換えれば、ほとんどの場合、主にその恩恵をほとんど受けない人々から強制的に奪われる資金によって恒久的に補助されなければならない事業とは別の基盤の上にある。もし、ある大きな事業が国によって効率的に管理され、同時にその費用を賄うことができることが示されたなら、また国の優れた信用によって、国の融資、あるいは国の保証が、国やその信用に損失を与えることなく、何らかの有益な変化や、何らかの有用な事業を生み出せることが示されるなら、この介入に対する反対意見の大部分は消え去るだろう。また、提案されている政府の介入が政治的なものではないかどうか、あるいはそれが腐敗の源泉、あるいは原動力にならないかどうかの検討も非常に重要である。それは、行政官の手に多数の公職任命権を渡すことによって、そうなるかもしれない。そして投票したり、投票を要請したりするための新しい不正な理由を作り出すことによって、さらに危険にそうなるかもしれない。たとえば、地方の主要産業を市町村に委ねるという社会主義政策が実行されたなら、社会全体を犠牲にして、これらの産業に関係する労働者の利益だけを目的とする多数の組織的投票が行われることを疑う人はいないだろう。
考慮すべきもう一つの要素は、国の支援を求めているものが、国の支援なしで繁栄できる種類のものかどうかである。科学、文筆、研究には、決して報酬が得られない、あるいは少なくとも、それに伴う労力や必要とされる能力に見合った報酬が得られないものがある。これらのものを生み出さず、気にかけない国は、劣った不完全な文明しか持つことができない。現代の予算案の欄の中ではほとんど微々たるものでしかない政府補助金は、それらを支援し奨励するために大いに役立つ。芸術作品や芸術学校、公共の建物、絵画館、博物館への支出は、国家の栄光と尊厳、そして国民の教育に大きく貢献する。それは、すべての階級に等しく属する共有財産を継続的に増加させている。そしてそれは真に民主的なことである。なぜなら、国家の介入がなければ決して見ることができなかったであろう、そして全てが裕福で教養のある少数の人々の手に渡っていたであろう芸術作品を、貧しい人々が知り、鑑賞することを可能にするからである。イングランドの芸術の開花が非常に遅れた大きな原因の一つは、イングランド政府が長い間芸術の発展に全く無関心だったことである。
ヨーロッパの多くの国では、オペラや古典演劇への補助金によって演劇が支えられている。こうした補助金は、私が今述べた補助金とは立場が異なる。なぜなら、補助金は金持ちの楽しみに直接奉仕するからである。しかし、輝かしい劇場は、大都市に多くの外国人を引き寄せ、最終的には貧しい人々に利益をもたらすだろう。イングランドの民主的な意見がこの種の支出を容認するとは考えにくい。また、ほとんどの大陸諸国では政府と娯楽の関係はイングランドよりもずっと密接なものであることが観察できる。こうした国では、貧困者や困窮者を救うための資金の大部分は、公共の娯楽から徴収された税金なのである。1
1 クロス・メイレヴィエル(*1810―1876)著「ヨーロッパの娯楽における貧困者の権利」(1889年)を参照。
国による規制と補助金の大幅な拡大に対する反対意見は非常に多い。まず第一に、ハーバート・スペンサーが極めて巧みに力強く展開した、勢い(*momentum)の議論とでも呼ぶべきものがある。1 このシステムが広く採用されたなら、それが採用者が意図した範囲内にとどまらないことは間違いない。このシステムは加速度的に前進し、あらゆる譲歩が次の一歩の前例あるいは根拠になり、あらゆる機会に国の援助、あるいは制限を求める習慣が完全に出来上がって、この運動の最初の提唱者なら恐怖に身をすくめたであろう税金と負債の重荷を蓄積する。そこにあるのは、民間企業と慈善事業の弱体化、個人の責任感の減退、自由への愛の減弱、生活のあらゆる部門を管理するために増殖する大量の官僚の創設、膨大な数の人々が国家の恩恵に頼って生活する社会の形成である。こうしたことはすべて、自立、独立、決断の源泉を損なうことなく、判断力と人格の両方を徐々に弱体化することなしには、起こり得ない。また世界の過去の経験が十分に示しているように、それは容易に国家の破滅を意味する水準の重税を生み出すこともある。個人資産の不当な割合が国家によって強制的に取り上げられる。その多くは最も勤勉で倹約的な人々から、怠惰、あるいは無計画な人々の利益のために取り上げられるのである。資本と産業は、税金が重すぎて利益が出なくなった国から去る。そして税が重すぎるために、自国での耕作さえも行なわれなくなることがしばしばあった。
1 「人間対国家」
地方税が絶えず増加する傾向は、帝国議会が地方自治体の増税や地方債の発行の権限を、さまざまな方法で制限する法律によってある程度抑制されている。良識ある評者なら、この制限が不当に緩いことを疑ったりはしないだろう。しかし、民主主義の影響下にある地方自治体は、自らの権限を拡大するために絶え間ない努力をしている。議会自身は制限を受けない。そして財政問題において、議会とはシンプルに庶民院を意味する。唯一の歯止めは選挙民であるが、国家の支出の大部分は選挙民への賄賂という明らかな目的を持っている。ジョセフ・ヒューム(*1777―1855、国会議員)の時代に現れた民主主義は、とりわけ倹約的で、公的支出のあらゆる項目を疑い深く精査し、貴族政府の浪費を耐え難いスキャンダルとして非難し、国家の権限のあらゆる拡大に極度の嫌悪感を抱いていた。今では、ほぼすべての国において、政府は浪費し、急速に負債を増やし、国家の行動を絶えず拡大し続けている。
文明が複雑化するにつれて政府の機能は必然的に増大する、というのは全くの真実であると私は信じている。しかし、過去数年間の政府の巨大かつ不吉なほどの急速な拡大を評価する際に、常に問われるべき重大な問いが一つある。その拡大は熟慮の上での、政府がその立法によってさまざまな階級を直接的に、賢明に利することができるという確信によるものだろうか。それとも全く別の理由—さまざまな階級に有利な立法を約束することで、それらの階級の票を最も容易に獲得できるという確信—によるものだろうか。
増加支出の大部分は、補助金によるものではなく、継続的な検査とほぼ普遍的な規制のシステムに必要な行政機構の精緻化によるものである。あらゆる問題に対する政府の強制的な介入を容認し、歓迎し、要求する素早さほど、新しい民主主義に顕著な特徴はない。ゴッシェン氏(*ジョージ、1831―1907、政治家)の言葉を借りるなら「電信、保険、年金、郵便為替、小包郵便などの新しく広大な事業への国家活動の拡大は、最も著しい特徴ではない。より深刻なのは、階級間の関係への干渉がますます強まり、個人間の取引の広範なカテゴリーに対する支配が強まっていることである…親は子供の扱いについて、雇用主は労働者の扱いについて、造船所は船の建造について、船主は船員の処遇について、家主は家財の管理について、地主は借家人との契約について、自由放任が肯定される時代が過ぎ去ったことを世論や実際の法律に教えられている。国は何が正しくて何が間違っているか、何が適切で何が不適切かを決定した。そして、その結論を強制する代理人を任命したのである。人類の最も高貴な義務のいくつか、日常生活の最も小さな取引のいくつか、私たちの製造業および農業組織の最も複雑な取引のいくつかは、国家に管理されるようになった。個人の責任は軽減され、国家の責任は増大したのである。」1
1 ジョージ・ゴッシェン閣下著「Laussez faire(*Let it be)、すなわち政府の干渉」1883年エディンバラでの演説、4頁。
この点における傾向の変化を、単なる実際の立法によって測ることはできない。あらゆる方面で増えつつある、立法による制限を求める無数の要求、まだ法律にはなっていないが議会で多大な支持を集めた法案、労働組合会議、州議会、慈善団体の会議や協会が出した決議、選挙のたびに尋ねられる質問や要求される公約、全国に流通している大量の社会主義的、あるいは半社会主義的な印刷物に、その変化がさらにはっきりと見て取れる。まもなく立法による強制への強い傾斜が「進歩的自由主義者」の顕著な特徴の一つになって、「これに反するいかなる契約があろうとも」が民主的立法で好まれる文言になると聞くことほど、かつてのマンチェスター学派の急進主義者を驚かせるものはないだろう。
この動きに伴って、そして権力の性質の大きな変化から自然に生じたのが、累進課税によって社会の特定の階級に課税を集中させる顕著な傾向である。これは一定の形と程度で、イングランドに常に存在していたものである。フランス革命前夜まで、ほとんどすべての大陸諸国で貴族と聖職者の両方が享受していた恥ずべき課税免除はイングランドには存在せず、富裕層の贅沢品にかけられる特別税は常にイングランドの慣習だった。トクヴィルは、しばしば引用される注目すべき一節を書いている「何世紀にもわたってイングランドにおける不平等な課税は、貧困層に有利になるように次々に導入されたものだけだった。…18世紀にイングランドでは貧者が税を免除されていたが、フランスでは富者が免除されていた。前者では貴族は統治権を得るために、最も重い公課を自ら負担した。後者では、政権を失ったことの気休めに、最後まで課税免除を維持した。」1 アーサー・ヤングは、革命の初めにフランスの聴衆に向けて行った短い演説で、この点で両国に存在する違いを鮮明に描写した。「イングランドには、フランスにはまったく存在しないような税金がたくさんある」と彼は言った。「しかし、第三階級―貧しい人々―はそれを支払わない。税は金持ちに課せられる。家の窓はすべて課税されるが、窓が六つ以下であれば課税されない。広大な土地を持つ領主は、ヴィンティエーム(*二十分の一税)とタイユ(*農民の直接税)を支払うが、小さな庭園の所有者は何も支払わない。金持ちは馬、馬車、召使、さらには自らヤマウズラを撃つ権利に対しても支払う。しかし貧しい農民はこれを一切支払わない。さらに、イングランドでは貧しい人々の救済のために金持ちが支払う税金がある。」2
1 「アンシャン・レジーム」146―47頁。
2 ピンカートン著「航海記」4巻200頁。
18世紀の窓税と家屋税はどちらも累進税であって、住宅の価値に応じて増加した。ピットは馬車、趣味の馬、男性使用人に対して同様の累進課税を導入し、これらに対する税金は各家庭内のその数に応じて急速に増加した。
税収は主に贅沢品や余剰品から得るべきであるという理論は、イングランドの税制において広く認められており、ロバート・ピール卿が実施した大規模な財政改革以来、ほぼ完全に実行されてきた。禁酒主義者で喫煙もしない労働者は、紅茶とコーヒーに課される非常に低い関税を除いて、現在ではほぼ完全に無税になっている。多くの優れた評者の意見によれば、課税におけるこの傾向は本質的には有益なものであるが、イングランドでは行き過ぎている。彼らによれば、いかなる階級も帝国の負担をすべて免除されるのは正しいことではない。特にその階級が政治権力を委ねられており、課税と国の支出の調整に大きな発言力を持っている場合はなおさらである。普遍的な消費財への課税は、はるかに生産的である。それは常に低く抑えられるべきである。なぜなら、税が重すぎると困窮を招くのみならず、不公平も生じるからである。なぜなら貧しい人々が国の歳入の過大な割合を負担することになるからである。しかし一方で、税の完全な廃止は、非常に疑問符のつく方便である。
しかしイングランドでは、貧しい人々が必要とする主な消費への課税を完全に廃止するという政策が、両党によって着実に実行されてきた。トーリー党政権は1825年に塩税を廃止し、砂糖税を(何度も削減した後)1874年に廃止した。一方、自由党政権は1831年に石炭税とろうそく税を廃止し、1869年には穀物税を最後の痕跡まで、1853年に石鹸税、1870年に石鹸製造免許税を廃止した。両党はまた、ウール、キャラコ、皮革に対する関税を撤廃することによって、労働者の衣服のほぼすべての品目を無関税化することにも同意した。1 この政策が現在のように極端に推し進められたのは、立法者がそれを賢明なことと信じたからなのか、それとも有権者に支持されると信じたからなのかは疑問である。このような法案は、まさに演壇で最も役立つ種類の話題を提供するものである。
1 ダウェル(*スティーブン、1833―1898、歴史家、法律家)著「課税の歴史」
ベンサムとミルが提唱し、彼らの前の時代にはモンテスキューが提唱していた別の課税原理がある。それは中程度の規模の労働者家族が、贅沢品ではなく、最低限の生活必需品を賄うのに十分なだけの最低所得は、すべての課税を免除されるべきであるというものである。厳密に言えば、この原理は間違いなく、最も必要とされる物品への課税とは相容れない。しかし、それはイングランドで最貧困層の世帯の課税免除、および少額所得者の所得税の一部、あるいは全額免除によって広く採用されてきた。議会の一連の法律によって年間100ポンド、150ポンド、160ポンド未満の所得者は課税を完全に免除され、年間200ポンド、400ポンド、そして最終的に500ポンド未満の所得者について減税が認められてきた。庶民院議員を選出する選挙人の大多数は現在、所得税を一切支払っていない。
こうした措置によって、累進課税制度は着実に成長してきた。1885年にダービー卿が行った演説の数行は、当時の状況を明瞭に示している。「所得税を見てみましょう。私たちは、ある一定の水準までの所得については全額免除し、より高い水準のものについては部分的に免除しています。住宅税を見てみましょう。どうしてこうなったのでしょうか。労働者が通常住むような住宅はすべて全額免除されています。相続税を見てみましょう。一定額以下の資産については絶対的に免除されます。馬車税を見てみましょう。貧困者が利用する、あるいは娯楽以外の目的で利用される乗り物は、特別に無税になっています。鉄道旅客税を見てみましょう。これは一等と二等乗客に課せられ、三等乗客には課せられません。…300年の歴史を持つ救貧法は、原理において大陸の政府が検討したことさえないほどの社会主義的制度を採用しています。」1
1 タイムズ紙、1885年11月2日。
多くの場合、金持ちだけが使う贅沢や見栄のための物品には特別税がかかる。たとえば紋章、高級ワイン、男性召使、スポーツ(*としての狩猟)に課される税である。この種の税はいくつかのケースでは、徴収費用や、高級品と低級品を区別する費用のせいで、ほぼ完全に非生産的なので廃止された。しかし全体として、現在の制度が貧しい人々に有利に傾いていることに疑問の余地はない。税金の徴収源のみならず、その用途を考えるなら、それはさらに明らかになる。生命、産業、さらには財産の保護は、貧者にとっても富者にとっても等しく重要である。そして近年政府が担ってきた最も費用のかさむ職務は、主に貧者の利益のためのものである。初等教育、労働者の住居の改善、工場査察、貯蓄銀行、その他の倹約を奨励する手段は、本質的に貧しい人々のためのものである。
アダム・スミスは、有名な4一節の中で、厳密に公平な課税の原則を定めている「各国民は可能な限り、それぞれの能力に比例して、つまり国の保護下でそれぞれが得ている収入に比例して、政府の維持に貢献すべきである。大きな国の個人にとっての政府への出費は、大きな地所の共同借地人にとっての管理費に似ている。そして共同借地人には皆、その地所におけるそれぞれの利益に比例した貢献の義務がある。」1
1 「国富論」5巻2章。
この原理によれば、年間1,000ポンドの収入がある人は、年間100ポンドの収入がある人の10倍の税金を払うべきであり、年間10,000ポンドの収入がある人は、年間1,000ポンドの収入がある人の10倍の税金を払うべきである。ティエールの言葉を借りれば「すべての収入は、例外なく、国の入用に貢献すべきである。なぜなら、すべての国民は国家の存在に依存しているからである。税の免除は不当である。…1789年に(*フランス革命で)確立された真の原則は、すべての人は例外なく、獲得、あるいは所有するものに応じた貢献をするべきである、というものである。財産を搾取するために労働を免除(#軍務?)したり、財産に法外な課税をしたりするのは、単に1789年に廃止されたものと同じぐらい大きな不正を新たに繰り返すことである。… 社会は相互保険会社であって、各人は保険されている財産の量に応じて保険料を支払う必要がある。10万フランの価値のある家に保険をかけた場合、(保険料を1%とすれば)会社に1,000フラン支払わなければならない。100万フランの価値がある家なら、1万フラン支払わなければならないことになる。…社会は各人が多かれ少なかれ株式を持っている会社のようなものである。それが10株でも、100株でも、1,000株でも、それぞれがその数に応じた配当を受けるのが公平なことである。ただし、全ての配当率は常に同じでなければならない。すべてが従うべきルールは一つであって、多くても少なくてもいけない。これを放棄することは、商人が顧客に『あなたは隣の方よりもお金持ちなので、同じ商品でもお代を沢山お支払いただかなければなりません。』と言うのと同じである。それは終わりのない混乱につながり、際限のない恣意的な課税の可能性を開くだけである。」1
1 「財産」4巻2、3章。
真面目な経済学者の大多数は、厳密な正義として、この理論が真実であることを認めてきたと私は信じている。しかし、アダム・スミスは、人間社会は経済学の厳密な線引きでは統治できない、あるいは統治されないであろうことをはっきりと理解していた。そして、富裕層の税率を貧困層よりも高くするような調整が得策かもしれないことを十分に認識していた。イングランドでは、私が述べた累進課税制度は国民の習慣に完全に浸透し、すべての政党に受け入れられている。必需品から分別された贅沢品への課税は、多大な利益を生み出しており、他の形の累進課税よりも濫用の可能性がはるかに低い。少額所得者のすべての直接税の免除には、間違いなく重大な危険が伴う。特にそれを免除された人々が有権者の大半を占め、それゆえ明白な犠牲を払うことなく、(*高額所得者に対して)この税を無限に増やせる場合にはなおさらである。同時に、これらの免除が合理的な範囲内にとどまり、救済のみを意図しており、浪費につながらない限り、これに反対する人はほとんどいないだろう。ある階級が有権者の少数派であるからといって、必ずしも不当な税金の重大な危険にさらされているわけではない。選挙で均衡を覆すのに十分な割合を占めている限り、彼らには権利を主張する手段がある。税を適度な額とし、また国にとって必要、あるいは非常に有用な機能を果たすという真の目的のために徴収するのは政府の義務である。しかし、近年急速に広まっている別の課税の概念がある。それは社会主義的な武器、没収の手段、巨額の財産を解体し、富を再分配し、新しいタイプの社会を創造するための平等化の力と見なされるようになったのである。
小額所得者の直接税の免除と、高額所得者への中等度所得者とは別の税率という二つの形の累進課税の人気が高まっていることは非常に明らかである。そして資本や相続財産における累進課税の傾向も同様に強くなっている。先例は間違いなくある。累進所得税は古代アテネに存在し、モンテスキューによって熱烈に賞賛された。14、15、16世紀のフィレンツェには非常に厳しく、非常に巧妙に練られた累進課税制度が敷かれていた。しかし累進課税の問題が前面に押し出されてきたのは、主に近年、民主主義の影響力が優勢になってからである。プロイセンとドイツのほとんどの州には、ごくわずかではあるが累進課税が存在する。そして、1883年のプロイセン法は免税対象を大幅に拡大した。1 スイスの多くの州、特にヴォー州、チューリッヒ州、ジュネーヴ州、ウーリ州、グラウビュンデン州では、形式は若干異なるものの累進課税が行なわれている。ヴォー州では不動産は三つのクラス、すなわちその価値が1,000ポンドを超えないのもの、1,000ポンドから4,000ポンドの間のもの、4,000ポンドを超えるのものに分けられる。第1のクラスは1ポンド、第2のクラスは1ポンド10シリング、第3のクラスは1,000ポンドあたり2ポンド課税される。動産は7つのクラスに分けられ、それぞれに別の税率が適用される。その価値が32,000ポンドを超える資産、および1,600ポンドを超える所得には、最高税率が適用される。チューリッヒでは、異なるシステムが採用されている。資本と所得の両方に累進課税が課される。その税率は誰に対しても同じであるが、課税対象になる金額は、資産、あるいは所得に比例して大きくなる。例えば資産の最初の800ポンドでは10分の5に、次の1,200ポンドでは10分の6に、次の2,000ポンドでは10分の7に、次の4,000ポンドでは10分の8に、そしてそれ以上では10分の10に対して課税される。2
1 ルロワ・ボーリュー「財政的合意」1巻139―74頁、セイ(*レオン、1826―1896、政治家)「課税問題に対する民主的な解決策」2巻184―224頁。
2 スイスの累進課税に関する外務省報告書(1892年)を参照。
オランダでは、最近の法律によって、すべての財産の資産価値を毎年申告しなければならない。そして、その価値に応じた累進課税が行なわれる。1万フローリンまでは非課税で、それを超えると資産に対する税金は1,000分の1から2まで段階的に上がる。収入に対する累進課税もあるが、資産が二重課税されるのを防ぐための控除がある。ニュージーランドとオーストラリアの植民地には累進課税が多く、それは主に大規模な土地所有の増加を防ぐためのものである。ニュージーランドでは、通常の土地税が課されるのは土地所有者90,000人中の12,000人である。地質改良の価値を差し引いた後の資産価値が5,000ポンド以上の土地には、追加の累進土地税が課される。1ポンド当たり1/8ペンス(*0.052%)だったものが2ペンス(*0.83%)になるのである。また不在地主に対する特別累進税もある。所得税は、課税対象になる最初の1,000ポンドについては1ポンドあたり6ペンス(*2.5%)、それ以上では1ポンドあたり1シリング(*5%)である。1 ビクトリア州には累進相続税があり、税率は1%から10%である。2 フランスでは漸進的とも呼ばれる累進課税が最近盛んに議論されているが、累進住宅税3 を除いて、この方面の試みはごく最近まで失敗に終わって来た。米国では、前の章で述べたように、累進課税の提案に1894年の最高裁判所の判決(*所得税の禁止)が重大な歯止めをかけた。すなわち直接連邦税を課す際に、議会が考慮するのは州の区分と市民の数のみでなければならないと規定されたのである。しかし南北戦争中には、短期間ではあるが、累進所得税が存在していた。1861年に制定された最初の戦争所得税では、800ドルを超えるすべての所得に同じ税率が適用された。しかし、1862年7月に制定された第二次所得税は累進課税だった。もっとも、これは1865年にほぼ廃止された。1894年のイングランドの予算は、所得税に認められた追加的な免税と、新しい累進制度によって、累進課税の方向に大きく舵を切った。
1 「ニュージーランド公式年鑑」1894年245―47頁。
2 ディルケ(*チャールズ、1843―1911、急進派の政治家)の「グレーター・ブリテンの問題」2巻277頁。
3 同上、278―79頁。
最近の議論によって累進課税に反対する経済学者の主張は、非常によく知られるようになった。累進課税は貯蓄と勤勉に直接課される罰であり、怠惰と浪費に直接提供される報酬であることは明らかである。累進課税は国にとって最も利益になる習慣や資質を阻害する。そして、富がより高い税率に近づいたとき、それは確実に強制的に作用する。そのとき、それは働いたり、貯蓄したりするのをやめる強い動機になる。同時に、累進課税は完全に恣意的なものである。すべての富に同じ税率を適用するという原則が放棄されたなら、明確な規則や原則は残らない。税率をどこで上げるか、あるいはどれくらい上げるかは、政府の政策と政党のバランスに完全に依存することになる。税率の上昇は、最初は非常に緩やかなものかもしれない。しかし新たな課税が必要になったときにはいつでも没収の水準か、その近くまで厳しくできる。累進課税の固定的な線引きや等級の数は、原則によって、あるいは決定的なものとして維持することはできない。すべての問題は選挙民の利益と願望、世論を物色して非常に貧しく無知な人々の票を奪い合う政党政治家にかかっている。このような制度の下では、すべての大規模な資産は容易に危険にさらされ、すべての大規模な金融機関にとって致命的な不安が生じる可能性がある。同時に、議会の浪費に対する最も厳しい抑制が取り払われるだろう。そして、多数派は最も容易で最も強力な圧政の手段を与えられるだろう。高度に累進的な課税は、民主主義の最大の危険を最も完全に実現し、ある階級が他の階級に自ら共有しない負担を押し付ける状況を作り出す。そして全ての費用は他者に負担させられるという信念によって、国家を莫大な浪費計画に駆り立てるのである。
この信念は、疑いなく、非常に誤っているが、非常に自然なものであって、不誠実な政治家の人気取りに最もよく使われる。そのような人々は容易に、金持ちの贅沢と貧乏人の必需品との間の印象的なコントラストを描き出し、それでもまだ彼らより計り知れないほど裕福な少数の人々に例外的に大きな税金を負担させることは害にはならない、と無知な人々を説得するだろう。しかし、産業と雇用を枯渇させる資本への重税は、貧困者に最も厳しく堪えるというのは、政治経済学の何より確かな真実である。累進課税は、それが過剰であったり頻繁に引き上げられたりするとき、必然的に大部分が資本から徴収される。それは資本の蓄積を妨げ、資本の安定性にとって致命的な危険を生み出し、資本の大部分を外国に追いやってしまうことは確実である。
この種の課税から得られる金額もかなり誇張されている。数人の億万長者の富は世間では大きく見られているが、実際に中程度の富と小額の貯蓄の総計に比べるなら、非常に些細なものにすぎない。スイスのように累進課税をまったく中程度の資産にまで拡大しない限り、それはほとんど何も生み出さないだろう。そしてその場合でも、それに伴う免税がバランスをとるだろう。また、この制度は大幅に回避されるであろうことも確かである。この点で、不動産と動産に大きな違いがあることは事実である。土地は税負担を逃れられない性質のものであるが、動産にはそれを逃れる方法がたくさんある。家族や事業のパートナーとの秘密協定、国外の銀行への海外投資、終身年金につぎ込まれる富の増加、ブリテンの課税対象外の会社による保険、追跡不可能な無記名有価証券などはすべて増加し、所得税申告書で非常に問題になっている不正も確実に増加するだろう。財務官が犯し得る最も重大な過ちは、人々があらゆる知恵を絞って逃れようとするほど負担が大きく不公平な制度を制定することである。現在開かれている国際投資の広大で多様な分野において、彼らは数え切れないほどの成功を収めることが確実であって、いかなる宣言、宣誓、罰則もそれを効果的に防ぐことはできない。税とは、究極的には国民が国家から得る安全、その他の利益の対価である。ある階級への課税と、彼らが享受する保護のコストの釣り合いが取れていない場合、つまりその階級の人々が、それを公平な支払いではなく、政治的に弱いために権力の行為によって課せられた例外的で没収的な負担であると確信した場合、彼らの多くは、追い剥ぎや強盗を騙すのと同様、政府を騙すことに何の躊躇もないだろう。
累進課税が常に、そして必然的に悪であるという主張は、この議論を先に進めすぎだろう。ほとんどの政治問題と同様に、ここでも多くは状況と程度に左右される。しかし、この分野に取り組む財務官が、重大かつ多彩な危険に満ちた道を歩んでいることは十分に明らかである。累進課税が伝染することは確実である。そして、それが発案者が望んだ範囲内にとどまることはないだろう。多くの国々に見られる時代の兆候をはっきりと読み取れる人物なら、この課税制度が拡大することを疑わないだろう。政治権力が主に労働者階級の手中にあるとき、膨大な土地所有が少数の人々に集中しているとき、職業政治家が税率の変更を選挙公約の主要部分に絶えず取り入れているとき、ほぼ毎年、国家の職務、したがって支出が拡大しているとき、ほとんどすべての人々にとってユートピアが社会主義的なものであって、課税による境遇の平等化を主張しているとき、それがそうならないことはまずあり得ない。そのような状況において、この道に踏み込む誘惑はほとんど抑え難いものになる。
それがいかなる結果をもたらすかを考えるのは、非常に重要なことである。なんらかの課税制度が、真の富の平等をもたらしたり、巨大な富の蓄積を防いだりできると考えるのは、私にはまったく空想的なことと思える。しかし、こうした目的に向かって突き進む立法者が、国家の信用を損ない、商業の急速な衰退をもたらすというのは大いにありうることである。しかし高度に累進的な課税は、富の性質を変えることによって大きな政治的、社会的影響を与える可能性がある。それはおそらく土地所有に特別な影響を及ぼし、イングランドの非常に独特の特徴である広大な地所を分割、あるいは大幅に縮小するだろう。この方向に向けて作用している傾向は非常に強力なものである。現在大地主が保有している土地は、通常、最も利益の上がらない財産の中の一つである。土地に付随する政治的影響力は大幅に減少している。かつて郡内で大地主にほぼ圧倒的な影響力を与えていた治安判事その他の行政職は着実に奪われつつあり、郡の政治はあらゆる形で他者の手に渡りつつある。政治が事実上財産から切り離され、財産の平等化を目的とした累進課税制度が普及したなら、大きな不動産は最も望ましからざる財産の形の一つになるに違いない。これほど貪欲を刺激し、これほど略奪的な法律の猛威にさらされるものはない。こうした状況下では、大地主の間で土地についての利害関係を徐々に減らしたいという欲求が高まって、何世代にもわたって支配的だった集積の傾向が逆転することが予想される。
この変化は完全に悪いものではない、というのが私の意見である。一人の人物が田舎の四つ五つの地所を所有したり、郡全体が一つの巨大な地所に含まれたり、何平方マイルもの土地が一つの大庭園にされたりするのは自然なことではない。イングランドの田舎暮らしの贅沢と支出の規模は大きすぎる。その生活の仕組みは煩わしすぎる。その快楽は、それらがもたらす楽しみに対して不釣り合いに高価である。その一方で、固定費や必要経費が大きすぎて農業恐慌やその他の逆境が訪れるたびに手に負えなくなるような大きな土地をまとめて保有し、娘たちや幼い子供たちが、自ら育った贅沢な環境からすればより深刻な貧困に陥るのは望ましいことではない。累進課税の結果、もし家族のメンバー間でより平等な財産分割が行われても、もし金持ちが息子たちに小遣いを与える代わりに財産を現金化して直ちに渡すことによって相続税を回避しようとしても、もし狩猟動物の保護がそれほど贅沢な規模ではなくなっても、もし土地がもっと小さくなって、負担も少なくなり、大きな田舎の家の習慣が今よりもいくらか贅沢ではなくなっても、国に損害を与えることはないだろう。
しかし、それよりもはるかに望ましくない別の結果が、必ず生じる。それは富者よりも貧者に重くのしかかるものである。大地主の支出のうち、実際に彼自身の楽しみに貢献していると言えるものはほんの一部に過ぎない。大きな土地を維持するための莫大な費用と、社会の慣習が強要する豪華なホスピタリティの規模には大きな意味がある。多額の費用をかけて維持され、いつも一般の人々に開放されている公園、設立され、寄付されている村の学校、教会、研究所、大いに援助されているすべての地元の慈善団体、すべての郡の事業、貧しい地主が負担できないような費用のかかる土地改良、貧しい人々に安定した雇用を確保するという明確な目的のために行われた多くの仕事―多くの大地主の予算の最大の項目はこういったものである。また、貧民が支払えない不作時の地代の減免や、長期にわたって繁栄が拡大している中で据え置かれていた非常に安い地代についても言及しておかなければならない。
あらゆる大きな階級には善人も悪人も、寛大な人も貪欲な人もいるだろう。しかし公平な人物なら、イングランドの広大な土地が全体として極めて寛大な精神で管理されてきたことを否定しないだろう。その解体によって最終的にどのような利益が得られるにせよ、その最初の影響が、慈善と文明の大きな中心を消滅させ、雇用を減らし、契約の厳しさを増し、その他多くの方法で、援助が必要な貧困者の楽しみを削減し、苦難を増大させることは確かである。裕福なアメリカ人は建国者の家族のような野心を持っていないため、裕福なイングランド人よりも公共のために多くを寄付するとよく言われる。しかし、イングラドの大規模地主が土地に関する物に費やす利他的な支出を調べるなら、この点において彼らは大西洋の向こうの例にほとんど劣らないことが判明するだろうと私は信じている。おそらく、年数千ポンドの収入がある人々が、無思慮、あるいは贅沢な習慣や嗜好ゆえではなく、単に収入が彼らの高い地位に必要な経費を負担するために不十分であるというだけの理由で、生涯にわたって金銭問題に悩まされるという奇妙な光景が頻繁に見られるのはイングランドだけだろう。
こうした影響で、良かれ悪しかれ、大きな変化が起こる可能性は高いと思われる。土地は、おそらく将来、過去よりも分割され、より頻繁に所有者が変わり、より純粋な商業的精神で扱われるだろう。周囲の財産や地主の義務と関係のない、単なる娯楽のための田舎の土地の取得がより頻繁になるだろう。農民にとって、農場を購入するよりも賃借する方が経済的に有利である限り、自営農民が増える可能性は低いだろう。しかし土地は投機目的で、適度な量で、より頻繁に売買され、その価値を最大限まで高められるだろう。そして、いまだ土地に結びついているすべての封建的な観念は取り除かれるだろう。古い歴史的な建物は間違いなく残るが、ロワール川沿いのフランスの城のように、過ぎ去った社会の記憶として残るだろう。その多くは裕福な商人や醸造業者、そしておそらくアメリカの大富豪の手に渡るだろう。節約のために、それらはしばしば長期間閉鎖されるだろう。それらはもはや大きな地所の中心ではなく、郡の大きな影響力や一連の有益な義務を代表するものでもない。庭園は分割され、画廊は解体される。多くの高貴な芸術作品が大西洋を渡って国外に出る。古いタイプのイングランドの田舎暮らしは変わり、その古来の美の多くは消え去るだろう。
その可能性が最も高いが、恐らくこうした変化が徐々に、そして激しい変動もなく、もたらされたとしても、それは決して現在の大地主たちの貧困化を意味しない。現在、この階級の人々がより少ない土地とより多くの金銭を持ち、資力に応じて支出を調整できるような財産を持つことの恵みを疑う人はいない。彼らは厳しい移行期を経なければならないだろうが、人生の戦いにおいて一部の大陸貴族を無能にする偏見や偏狭な慣習から驚くほど自由であるため、おそらくすぐに新しい状況に適応するだろう。並みの幸運、巧みな経営、いつでも自由にできる富裕な結婚、いつでも受けられる優れた法的助言があれば、彼らはおそらく多くの場合、莫大な財産を維持することに成功するだろう。そして、歴史ある名前を持つ真に有能な人物が、自分のキャリアの中でその名前を助けにしない日が来るのはずっと先のことだろう。しかし、この階級はその地域における影響力を失うだろう。アメリカ型の職業政治家に支配される、あるいは少なくとも大きく影響される公職は、彼らにとってますます不快なものになるだろう。彼らは地主や郡の義務をほとんど負わなくなり、必要な接待もずっと少なくなる。そして恐らく、より小さな田舎の邸宅に満足して、海の向こうのより輝かしい土地でずっと多くの時間を過ごすようになるだろう。
個人資産に対する高度に累進的な課税の影響も相当なものになるだろうが、おそらく不動産ほどには大きくはならないだろう。均質で大きな不動産は特に不安定になるため、富裕層は投資をできるだけ分散する傾向が強まるだろう。この点において、労働争議や労働組合がすでに生み出している、イングランドの商業的優位にとって非常に危険な動きが強まるだろう。最も優れた観察者たちは、ここ数年の商業不況に大きく影響しているのは、労働争議が深刻で、脅迫的で、立法に影響を及ぼす可能性が高い時期に、富裕層が大規模な事業に着手するのを躊躇することであると結論している。先の読める人物なら、人気のある法律が財産に強い偏見を持っていること、現代の政治家の相当数に最も不誠実なグループと同盟を結び、最も破壊的な理論を容認することによって庶民院の多数派を獲得する用意があることを知れば、ゆっくりとしか成熟しない事業に参入することを躊躇する。産業界のあらゆる部門において、リスクを増大させ利益を減少させるあらゆる影響力は、必然的に資本を逃避させる。そして、現代の頻繁なストライキや強力な労働組合がその他のどのような結果を生じようとも、これら二つの結果を招くことは否定できない。これらに加えて、政府が人気を得るために富裕層だけに課される例外的な税金でますます国家支出を賄おうとするなら、大規模な製造業や商業が手控えられる傾向は著しく強まるだろう。そのような事業はなくなりはしないが、数を減らすだろう。多くの製造業者は、すでにその一部が示した例に倣って、外国に支社を設立するだろう。数千ポンドを手元に持っている製造業者は、以前なら事業拡大に使っていたその資金を、遠隔的な投資に分散させるようになるだろう。人口が国土の天然資源で養える大きさをはるかに超え、資本の膨大な蓄積と集中によってのみ生み出される、巨大で衰え知らずの、絶えず拡大する製造業と商業に主に依存している国にとって、これらすべてがいかに危険なことなのかは今さら指摘する必要もないだろう。
おそらく十分に考慮されていないもう一つの結果は、大きな財産に大きな一定の義務が伴わなくなる傾向である。現在では徐々に消滅しつつあるように思われるイングランドの土地所有制度は、非常に顕著に、大きな財産と高い社会的地位を、多くの郡の行政や地主の義務に費やされる活動的な生活に結び付けていた。それは、おそらく社会制度が準備できる範囲で、自らの模範によって他者に最も強い影響を与える人々が全体として、有用で活動的、そして愛国的な生活を牽引する準備をしたのである。大規模な製造業者や大きな商業の経営者はなおさら、その富が絶え間ない有用で勤勉な生活と切っても切れない関係にある人物である。
しかし、富はこれら以外にもさまざまな形をとる。私が間違っていないならば、今世紀の顕著な特徴は、怠惰な資産家が急速に増えたことである。現代においては、まったく労働を必要とせず、不可欠、あるいは明白な義務を伴わない形で巨額の財産を持つことは十分に可能である。最良の有価証券の低い利率に満足している人物なら、収入源について考える必要はほとんどない。おそらく、財産の全部、あるいは一部がより投機的な証券に投資されている場合、ある程度の時間と思考力が必要になるが、必ずしも同胞に対する義務を伴うわけではない。この種の資産家が、実際には大規模な労働者の雇用主であることは事実である。彼は株主として鉄道、蒸気船、造船所、鉱山、その他の数多くの大きく異なる、おそらく広い範囲に分散した企業や組織の共同所有者である。しかし、彼はこれらの事業の経営に関して実質的な発言力を持っていない。彼は、多くの国や地域で彼の利益のために働いている無数の労働者の状況について何も知らない。彼は投資を単に収入源としか考えていない。それらに関する彼の情報は、おそらく配当、交通、債務、貿易予測に関するいくつかの統計に限られている。
私たちは皆、多少なりともこのような財産を持っている裕福な人々を大勢知っている。私が述べた影響の下で、そのような財産は増えていく可能性が高いと思われる。ほとんどの主要産業には、明らかに、多数の株主を持つ巨大な株式会社に向かう傾向がある。通信手段の改良により、多くの国の証券や事業は簡単に共通の市場に投入され、最も容易で最も重要な投資の一つである国債や地方債は急速に増加している。野蛮な国家が西洋文明の習慣を取り入れていることを示す最初の兆候の一つは、通常、国債の創設である。そして民主主義国家は国債や地方債を蓄積する速さにおいて、最も浪費的な君主制国家にまったく劣っていないことを示している。また、頻繁な革命や激しい社会的、産業的混乱が常に財産の処分に及ぼす影響も忘れてはならない。これらのことが信用を低下させ、負債を増やし、産業を破壊し、国民を貧困化しないことは稀である。しかし、それらはまた有能だったり、幸運だったり、悪徳だったりする人物に、急速に上り詰めて容易に富を得る、数多くの機会を与える。これらを、大きな資産を土地所有や行政から切り離し、広範な産業のリスクを増大させる、多方面にわたる影響力と併せて考えるなら、将来の資産は過去のそれよりも、日常の義務との関係が少なくなると思われる。
見通しは明るいものではない。非常に優れた能力を持つ人物は、常に自分の仕事を見つけるだろうし、そのような人物にとって(*相続)財産は計り知れないほどの恵みとなるだろう。それは、何年もの苦役と不安から彼を救い、キャリアの初めに独立という計り知れない利点を与えてくれるだろう。高い道徳的資質を持つ人物にとっては、少なくとも害にはならないだろう。そのような人は、富が持つ譲渡できない責任を強く感じ、社会活動や慈善活動の分野に十分な努力の余地を見出すだろう。また、顕著な精神的あるいは道徳的力を持たない大勢の人々も、芸術、文筆、田舎での活動、科学、研究に対する強い嗜好を持っていて、それは彼らに有益で名誉ある生活を保証するだろう。しかし、これらの人々でさえ常に例外であることは疑いようがない。大多数の人々は、それが環境によって顕著に目の前にもたらされるか、不可避の強い圧力によって押し付けられない限り、自分の仕事を見つけることができない。いかなる束縛も伴わず、何の努力もせずに獲得し享受する富は、ほとんどの人にとって誘惑であり罠である。ヨーロッパやアメリカのより浪費的な首都や温泉地は、このような立場の人々の実例に満ちている。彼らはまったく軽薄な生活を送り、すべての真剣な関心から切り離され、常に新しい快楽を熱狂的に求め、贅沢と虚飾の水準を高め、そしてしばしば、さらに深刻な形で、彼らが住む社会の道徳的トーンを低下させている。
こうした種類の考察を、おそらく急進派の批判者たちは非常に軽蔑するだろう。言及されている階層は人口のごく一部にすぎない、と言う彼らの言い分は正しい。そして、国家は甘やかされて育った富裕層の子供に仕事を与え、彼らを軽薄さや悪徳から救うための制度を作らなければならないのか、と問うだろう。おそらく誰も、そうすべきであるとは主張しないだろう。しかし、さまざまな制度の利点と欠点を評価する際には、どちらの秤にもそれだけではバランスを覆すには十分ではない、数多くの錘が載せられるものである。ただし、私が述べた悪が、直接それに関係する階級に限定されるものと考えるのは重大な誤りである。国の上流階級が腐敗したり、軽薄になったり、男らしさを失ったりすれば、それが社会全体に広く深い影響を与えないことはあり得ない。人間の性質として、豊かな人々は常に社会のトーンを決定し、他の階級の趣味、習慣、理想、願望の形成に大きく貢献するものである。他の多くの点と同様に、この点において上流階級の多くの公的義務からの緩やかな離脱は社会に危険をもたらす可能性が高い。
これは民主主義が台頭するところなら、どこにでも現れる弊害である。しかし、その進展には国によって大きな違いがある。イングランドの強固な伝統、しっかりと結びついた社会組織は、これまでどのような国よりも効果的に民主主義に抵抗してきた。イングランドの上流階級は既に政治を放棄した、などとは誰も言うことができない。この変化を恐れる人々は、現代の最も急進的だった内閣のどれほど大きな部分が貴族や貴族の親族で構成されていたか、その閣僚の平均個人収入が何千ポンドにも上ると推定されるかを観察するなら、いくらか慰められるかもしれない。また大西洋のどちら側でも、イングランドの民主主義はスパルタ、ストア派、清教徒の単純さを特別に好んでいるとも言えない。セシル・ローズ氏はかつて、ある著名な政治家(*初代トーントン男爵ヘンリー・ラブーシェア、1798―1869)を「扇動者を演じる冷笑的な遊蕩者」と評した。そして非常に厳格な民主主義を標榜する人々がしばしば、富、快楽、さらには爵位への強い欲求と結びついていることは認めざるを得ない。
しかしながら、私が追跡しようと努めてきた政治的、経済的影響が他の地域と同様、イングランドでいまだ勝利を収めていないからといって、その勝利がそれほど現実的ではないわけではない。アメリカの政界および市町村の経験は、私たちが歩む道筋に多くの光を投げかけている。庶民院の変化は誰の目にも明らかになっている。そして将来に向けた最も重要な問題の一つは、貴族院が憲法の中で恒久的かつ強力な要素として在り続けられるかどうかである。
続く